新生児微笑の謎

 

辻 和人

 
 

口がニッ微かに開いてる
頬がホッ微かに膨らんでる
目がヘッ微かにたわんでる
午後4時のミルク終わった直後
コミヤミヤがそんな表情を見せたんだ
かわいい、写真撮ろう、スマホスマホ
お尻のポケットに手伸ばしたけど時既に遅し
ニッ、ホッ、ヘッ
午後の穏やかな空気に溶け込んで跡形もなし

これって新生児微笑って奴だよね?
筋肉反射で口角が引き上げられる生理現象
笑っているように見えるだけ
この間読んだ育児書には
楽しいとか愉快とかいう感情とは無関係って書いてあった
感情と結びついた社会的微笑は生後2、3カ月から
うん、多分そうなんだろう
けどさ

病院でも見たことがある
お昼寝から目覚めたばかりのこかずとんが微笑んでた
一番ベテランのスタッフさんに聞いてみたんだ
「さっき長男が笑うような表情をしたんですけど
これって反射的なもので大人の笑いとは全然違うものなんですよね?」
するとスタッフさん
片手を顎にやってちょっと考え込む目つきで
「私、そうとは言い切れないと思ってます。
そりゃ確かに一般には感情とは無関係って言われてますよ。
でも少なくとも泣いてはいないでしょ?
赤ちゃんが不快を感じてる時にこれ見たことありません。
お風呂に入った後とかミルク飲み終わった後とか
リラックスしてる時によく見かけるんですよ。
もちろん楽しいというはっきりした感情ではないでしょう。
でも安心が幸せの原点だとすると
無関係とは言い切れない、と私は信じています」

関係ないと言われるけれど
無関係とは言い切れない
新生児微笑
ぼくたちの笑いの
裏手の裏手のまた裏手くらいで
ニッ、ホッ、ヘッ
かぁるく飛び跳ねて
溶けちゃう
裏手の方が表通りより先にあるんだね
裏手の方が表通りより広いかもよ?
安心しきって
すーはぁすーはぁ寝息を立てるコミヤミヤ
眺めているぼくの頬に
思わず零れた笑みと
無関係じゃないかもよ?

 

 

 

斜に構えるという態度
川上亜紀詩集『あなたとわたしと無数の人々』(七月堂)

 

辻 和人

 
 

『あなたとわたしと無数の人々』は川上亜紀さんの既刊詩集4冊を集成した彼女の全詩集である。私と川上さんは知り合いで、詩の合評会や同人誌でご一緒させていただいたことがあった。物静かで柔らかな物腰、知的で笑顔を忘れないお人柄の方だった。しかし、1968年生まれの川上さんは2018年に癌により早すぎる死を迎えることになってしまった。残念でならない。私は、川上さんは本当は小説家として成功したかったのではないかと思う。彼女は詩と並行して小説も書いており、2009年に刊行された小説集『グリーン・カルテ』の表題作は『群像』新人賞最終候補になった。没後となった2019年には『チャイナ・カシミア』も出版されている。川上さんは学生時代に難病に罹患し、病と闘い続けながら詩や小説を書き続けた。川上さんの小説は一部で高い評価を受けたものの、高度にして先鋭的な手法で書かれており、残念ながら大手出版社からは商業出版には向かないと判断されてしまったようだ。小説は詩(例外はあるが)と違い、一般読者向けの市場が開かれている。詩が高名な詩人でも自費出版中心であるのに対し、小説は額はともかくお金が入ってくるということがある。ここは大事なところで、「職業」としての認知はお金が得られるかどうかで決まってくるところがある。川上さんは健康上のハンディのため、バリバリ働いて経済的な自立を果たすことが難しかった。それだけで生活できなくとも、「注文を受けて小説を書き対価を得る」ことができれば、社会人としての自信をつけることができただろう。私たちの生きている資本主義の社会は、「働かざるもの食うべからず」を軸とし、競争原理によって人を生産性の面からランクづけする傾向がある。優秀な頭脳を持ち一流大学を卒業した川上さんは、健康という、努力ではどうにもならないことで引け目を感じなければならないことに怒りや悲しみを覚えたことだろうと思うし、文学の才能が思うように認められないことに苛立ってもいたと思う。
しかし、プライドの問題がどうであれ、命ある限り生きていかなければならない。そのことを端的に問題にしたのは、川上さんにとって小説より詩だった。理不尽を受け入れながら生きていくことの複雑な心境が、川上亜紀のどの詩のどの言葉にも溢れているように思う。

「夏に博物館に行く」は第一詩集『生姜を刻む』(1997年)に収められた詩。さしたる興味もないまま何となく博物館を訪れた話者は、裏口のドアから中に入ってしまう。

 
 階段は全部で17段あって徐々に左へ捩じれている
 だから壁に沿った右側を歩くと上り下りに時間がかかる
 人々はゆっくりした動作で階段を上ったり下りたりする
 人々は左の手摺側を好んで上っていき、下る時は壁際を下りてくる
 人々は果てしなくそれを繰り返している
 階段に敷きつめられた桃色の絨毯は長い間にすり減って
 人々の足をめり込ませたりしない
 私はこの階段の13段目で立ち止まるのが好きだ

 
こんな調子で情景が細部まで精密に描かれる。これらの情景描写は物理的な描写に終始し、何ら美的な感覚を喚起するものではないが、情景を無為に見つめる話者の孤独な心を浮かび上がらせる。話者はやることがなくて、暇つぶしのためにさして関心もない博物館に来ているのだ。だから展示物よりも博物館内の物理的環境が気になるのである。「立ち止まるのが好きだ」ということは、話者はここに何度も無為な時間を過ごしに来ているのだ。詩は次のような4行で締められる。

 
 裏口の石段の上に若い男の人が寝そべっていて
 暑いですねって声かけてみようと思ったんだけど
 あの人昨日もいたのよ
 と赤いスカートの娘が大きな声で笑った

 
話者と似たような人が他にもいたということだ。しかし、話者なその若い男に話しかけたりはしない。積極的に人間関係を作る心の余裕がない同士だから、ここに来ては閉館まで過ごし、帰るのである。そんな自分の姿を、話者は透徹した視線で冷ややかに眺めている。

笑い話のような詩もある。同じく『生姜を刻む』に収録された「卵」は、卵料理が大好きな話者が卵をだめにしてしまったエピソードを語る詩である。長いこと留守にしてもうこの卵は食べられないと判断した話者は卵の処理について「ヒトリ暮らしなんでも相談」に電話する。すると、男が来て卵の殻を割り中身だけトイレに流すという方法を教えてくれる。

 
私はそれを聞いたとき、新鮮な思いつきだ、と思った。私は今まで割ってみたら黄身が崩れているような信用できない卵を流しの隅の三角コーナーに捨てて、卵の白身がとろとろと流しに垂れてくるのを横目で見ていたのだった。もうそんな愚かな真似はしなくていいのだ。

 
まるで実用エッセイのような、さらさらと綴られる文体だ。そして話者は実際に該当の卵を割って便器の中に流してみる。ところが、卵に痛んだところはない。「色は、あまり濃くはない黄色で/形は、盛り上がりには欠けるが、/とくべつに変色したり崩れたりしているわけではないらしい」。詩は次のようなあっさりした調子で終わる。

つまりそれほど長いあいだ、留守をしていたのではなかったかもしれない、と言って男のヒトに割れた卵の殻を渡したら、男のヒトは流しの隅の三角コーナーにそれを捨てた。

 
どうだろう。相談コーナーの係員が家まで来る、というところは作り話っぽい感じがするが、奇談という程でもなく超現実的な要素もない。散文的な書き方で特に比喩や修辞に凝っているわけでもない。しかし、全体として途轍もなく妙なものを読んだ、という印象が残るだろう。この詩は、些細なことに対する話者の異様な拘りの形を抽象的に言語化したものだ。こんなことに拘って時間を使うこと自体が異常なのだ、ということを示している。そこに話者の孤独が色濃く影を落としている。「流しの隅の三角コーナー」を二度も登場させている。エピソード自体の中で特別重要な役を果たすわけではないが、言葉の上では重みを持たせている。どうでも良いと思える些細な事への異常な拘り。語りは事務的と言っていい程淡々とした調子に徹しているが、このさりげなさは緻密に仕組まれたものである。さりげなく、されど執念深く細部に拘る、その言葉の仕草の集積が詩全体に不条理性を帯びさせている。

時事的な問題を扱った詩も、他とはひと味違う独自のアプローチで意表を突く。「リモコンソング」(詩集『酸素スル、春』2005年所収)は、2001年のアメリカ同時多発テロ事件及び直後に起きた炭疽菌事件(メディアや政治家に炭疽菌が入った封筒が送り付けられた事件)に端を発して展開される詩。

 
 アメリカの郵便局は白い粉末で大騒動
 でも「炭疽菌」には泡! 一時間に千人を洗浄できる
 「環境には問題ありません」泡
 「製造法は企業秘密です」泡
 USAのゲームソフトなら核だって水洗いできるんだ
 エアクリーナーなんてもういらない
 海水が画面を洗浄すると ほらもとどおり
 核戦争後の地球上にも人類はまた誕生いたします
 CM「私の祖父は痔持ちでした、痔は軍隊の鬼門でした、
    したがって祖父は戦争に行きませんでした」

 
戦争と事件から現実の意味を取り除き、現実をナンセンスな言葉遊びに置き換えてしまう。悲惨な出来事もエンターティメントとして消費してしまうテレビ番組への皮肉であろう。「CM」が効いている。視聴率は広告料に反映されるのである。

 
 ところでテレビがにがてなことは意外にも広さと速さだって
 ニュースステーションの久米さんが言ってた
 (球場って広いんです でもこっちが投手が投げてるときは球場全体を映せな
  いんです とつぜんむこうで誰かが走り出したらあわててそっちを追いかけ
  ます でもカメラがその人をいくら追いかけても速度を伝えることはできな
  いんです だからテレビは「盗塁」がにがてなんですね)
 盗塁王は走る走る 走って滑って滑ってすべって
 ベースに触れたその瞬間
 CM「私の祖母は巨人ファンでした」

 
脱線に次ぐ脱線の末に語られる、これは見事なテレビ論だ。現実の野球の複雑なゲームの進行を捉えられないテレビは、現実の戦争の複雑な様相を捉えることもまたできない。我々がテレビで見ているものはテレビが作った虚構であると言える。「CM」は直前の行で展開された内容を、野球に絡めただけで全然違う話題に転換し、流し去ってしまう。テレビの第一の役割は時間を埋めること、視聴者の注意を繋ぎ止めることであり、必ずしも現実を正確に伝えることではない。そのことを情報の消費者の立場から皮肉を込めて語っているのである。

詩集の表題作でもある「酸素スル、春」は、父親の病気について書いた詩。

 
 ハイサンソ3Cという機械が家にきた
 部屋の空気を使って酸素を作るらしい
 家の中心に四角い箱が据えつけられて
 箱からチューブが長く伸びている
 起きてきた父が食卓に移動すると
 濃い緑色のやわらかいチューブが床の上を揺れ動く
 猫は器用によけて通るがひとは時々踏みつける

 
父親は肺をやられてかなり深刻な状態になっている。話者はその様子をアサガオの観察日記でもつけるかのように、細かく丁寧に、感情過多になることなく記していく。そしてちょっとした事件が起きる。

 
 空になった朝食の皿から目を上げると
 テーブルの向こう側でブラブラと揺れている
 輪っかになったチューブの先端が椅子の背から垂れ下がって
 オトーサン、酸素スルの忘れてる
 私は食後の錠剤とカプセルをコップの水で呑んだ
 母は新聞を読んでいた

 
恐らく病気が深刻化した時は、本人も家族も大騒ぎしたことだろう。しかし、大騒ぎの時期が過ぎれば、どんな出来事でも日常として受け止めざるを得ない。私たちは自ら死を選ぶ場合を除き生きていかなければならないし、生きていくことは「日常生活」を営むことであるからである。慣れてくれば、命綱である酸素チューブを本人でさえ忘れてしまう。ああ、人生ってこういうことだよね、と感じさせてくれる。

 
 酸素スル家族、
 一粒の苺を残して
 窓を開けて
 舞い上がるテーブルクロスのように
 空へと向かう

 
家族というものはどんな仲良し家族でもいつかはバラバラになる。誰かが家を出ていくという時もあれば、命が尽きる時もある。それも日常の一コマなのである。緊張しきっていては日常生活を営めないから日常はどこかのんびりした顔をしている。話者は死の匂いを含んだそんなほんわかした空気を、冷静に見つめ、距離を取りながら記録しているのである。

第3詩集となる2012年刊行の『三月兎の耳をつけてほんとの詩を書くわたし』(思潮社)辺りから、川上さんの詩はそれまでのクールさを薄れさせていき、本音をぽつりぽつり漏らす温かさが滲み出るようになる。短編小説の登場人物のように、突き放した態度で描いていた話者を、現実の自分に近づけるようにしているのだ。と言ってもべったりした抒情は注意深く避けており、話はしばしば喜劇的な語りで進められる。詩集の表題作『三月兎の耳をつけてほんとの詩を書くわたし*』の書き出しはこうだ。

 
 ちょっと待って
 地震が来る前にほんとのことばかり書かなきゃいけない
 ほんとのことばかり言っても誰も聞きたがらないんだ

 
口で言っても聞いてくれないが、書いたら読んでくれる人がいるかもしれない。個人の内心の深い部分にある問題は、親しい人でもなかなか理解してもらえない。深刻さを受け止められない時もあるし、過剰に反応される時もある。またこちらからわざわざ話題に出すのが恥ずかしかったり気が引ける時もある。詩は、話しづらいそうした微妙な話題を語るための便利なツールである。作品は複数の私的な出来事を扱っている。父親が肺癌になった話を中心に、避妊手術を施した猫を引き取ったこと、話者の片想いに近い「あなた」との交際、などについてである。それらについて、具体的な事実を交えつつ、話者はやはり核心をはぐらかすような書き方で綴る。

 
 朝めがさめると、あなたのことを考え、
 考え、るので、頭のなかのツル草がどんどん伸びてしまった
 (ツル草を刈るための道具がいる)
 きのう、わたしの母親だというひとを殴って
 椅子を床に叩きつけて、いくつか傷をつけてしまった
 (茶色のクレヨンを探して床に塗る)
 そのうえ、カーテンにぶら下がって怒鳴ったので、
 窓の上の壁のカケラが、ぽろんと絨毯に落っこちてきた
 (壁を拾ってとりあえず物置のなかへ)

 
交際中の人との関係にむしゃくしゃして母親と喧嘩してしまった、と取れる部分だが、話者が伝えたい「ほんとのこと」とは、「あらいざらい喋ってせいせいした」と言えるようなまとまった意見ではなくて、整理しきらない、すっきりしない心持ちそのものなのだということがわかってくる。

 
 ほんとの話をいくつかしたつもりになると
 またそこからほんとの話が枝分かれしていって伸び放題のツル草になる
 でもぜんぶほんとの話だ、これからはもうほんとのことばかり書くんだ

 
「枝分かれ」した「伸び放題のツル草」というすっきりしない状態こそが、「核心」であり伝えたいことなのである。川上さんは今後書いていく詩の方向を「ツル草」に定めた。それまでの川上さんの詩は小説仕立ての虚構の詩だったが、これを境に「ほんとのこと」を書く作風に転換していくのである。

その傑作の一つが「スノードロップ」である。スノードロップの鉢植えを買って窓辺に置く。そして歯医者に行って、BGMの男性歌手が歌う「アヴェマリア」を聞きながら歯の治療をしてもらう。更に「昨日の夕飯、ふきのとうのてんぷら」と誰かが言ったのを聞く。これらの互いに関連のない材料を総合し、自由奔放な夢としての「ほんとうのこと」をうたいあげていく。

 
 (このまま天国にのぼっていってふきのとうのてんぷらを食べたい)
 わたしはとうとうそう思ってしまった
 たちまちしゅるしゅるっと天国行きの縄梯子が降りてきた
 すぐに片足を縄梯子にかける
 (ふきのとうのてんぷら)
 もう片方の足をひきよせる
 (でも来週の金曜は歯医者の予約だ)
 一瞬迷うが金曜には戻ってくればいいのだからともう一段のぼる
 (ふきのとうのてんぷら)(ふきのとうのてんぷら)……
 (ふ)(き)(の)(と)(う)(の)(て)(ん)(ぷ)(ら)
 というぐあいにのぼっていくと縄梯子はぜんぶでちょうど十段だった
 最後の「ら」の段に片足をのせたとき私は窓辺の白い花のことを思い出した

 
何とも壮大な光景だ。話者はこのまま天国に行ってスノードロップのために王子様をひとり連れて帰ろうとまで考えるが、縄梯子を踏みはずして現実に帰ることになる。話者は、この馬鹿馬鹿しいと言っていい壮大なナンセンスの中を素直に生きている。話者は虚構のお話の主人公として突き放されるのでなく、作者に背中を押されて作者と一緒に虚構を生きる存在となる。虚構は生きられることによって現実となる。傍観者としての話者から行為者としての話者へ。

最後の詩集となった2018年発行の『あなたとわたしと無数の人々』(七月堂)では、作者と話者の距離が更に近くなる。この詩集については論じたことがあり([本]のメルマガ vol.692  http://back.honmaga.net/?eid=979323)、ここでは以前は取り上げなかった詩について言及することにする。
「噛む夜」は、料理し、食事する日常の光景を描いているが、その実、自意識の在処を探ることがテーマとなっている。

 
 たぶんわたしはしんけんな顔をしているだろう
 これからヒトとして有機物を摂取するのだから
 生きていくための左手は握ったり持ち上げたり忙しく動き回り
 時々思い出して文字を書く右手は水栓を開けたり閉めたりする

 
話者のアイデンティティは作家であるというところにある。しかし、作家だって人間という生き物だから食べるということをしなければならない。話者は一人で料理し食事するという局面において、その、作家であるという意識を持つ自分に微かな違和感を覚える。

 
 箸を使い 咀嚼する
 豆と米 肉と葱 味噌と茄子 胡瓜
 先月、右の奥歯の詰め物がとれてしまったので穴があいていて
 その穴に噛んだものがはさまってしまうので困っている
 こんどの氷河期のおわりにわたしが発見されたときには
 右の奥歯の穴に豆が見つかったりはしないかと気になってしまう
 歯と顎の形状から何を噛んでいたかわかってしまうだろうか

 
自分からアイデンティティを外し、一個の物体のように眺めてみる。人類が滅亡し、次世代の人類に発見された時、作家だなどという意識が問題になるはずはない。単なるサンプルとして物理的に把握されるだけだ。その様子を想像し、おかしく感じるのだ。

「写真」は、大学教員だった母親の勤務先を訪ね、研究室で待っていたことを思い出すという詩。話者が若かった頃の話だ。机の引き出しを開けたら、モノクロの女子学生の証明写真が出てきた。

 
 わたしはその見知らぬ人の写真をなにか恐ろしい気持ちで眺めた
 コンナ写真ヲ撮ラレルナンテ
 コノヒトハ捕マッテ刑務所ニイルノカモシレナイ
 アルイハ死ンデシマッタノカモシレナイ

 
ここでは、当時の、というより現在の話者の心境が語られているのではないだろうか。証明写真は生活の場から切り離された、文字通り身元を証明するための写真なので無機的に感じられるものだ。その人の人となりが抜き取られ、物体として置かれているからだろう。現在の話者は時間がたってそのことを思い出し、より強烈な印象を作り上げていく。

 
 無表情にまっすぐ前をみている知らない人の写真を
 見なかったことにしたいと思うのだが
 キットコノヒトハシンデシマッタノダ
 という考えが頭から離れなくなる

そして詩は次のように締められる。

 
 季節は秋だった
 窓の外の青空は急な貧血のように薄く白くなり
 椅子も机も本棚もすべてがモノクロに変わって
 宛先のない封筒のようにコトンと奥深いところへ落ちていく

 
この時期、川上さんの病状は進んでいたはずだ。死が遠くないものとして予感されていたかもしれない。若い頃の回想にしては切迫感がありすぎる。話者は当時の自分に憑依してなり変わっている。机の引き出しを開け、無表情な女子学生の写真に衝撃を覚えているのは、「現在のわたし」なのだ。これは思い出話ではなく、現在進行中の死への恐怖を語っているもののように思える。自分を直接晒すことで生じる生々しさを避けるため、過去の自分を呼び出し、間接的に現在の心境を語ろうとしたのではないだろうか。

 
川上さんの詩を読む人は人生の理不尽をうたう切実さに心を打たれることと思うが、その心情がストレートな筆致で語られることはない。ユーモアに包まれ、笑いとともに綴られることもしばしばある。川上亜紀の詩の魅力の核心はここにある。心情をオープンな形で曝け出すことを拒否するのが川上さんのやり方だ。はぐらかし、肩透かしを食わせ、時にはからかうような口調で表現していく。素直でないのだ。川上さんは人生の理不尽に対し、斜に構えた態度を取っていると言える。文学の才能に恵まれながら運と健康に恵まれなかった川上さんは、プライドとコンプレックスの両方を抱え持つことになる。プライドがコンプレックスを呼び起こし、コンプレックスがプライドを刺激する。理性と教養があり、理解ある両親にも恵まれた川上さんは、やけくそになったりひねくれたりすることができない。そこで川上さんは詩の言葉でもって、斜に構える、という態度を取る作戦に出るのである。気取っていたり、拗ねたりしているのではない。そうしないと自分を保つことができないからそうしているのである。川上さんはそれを独自の語りの形式に落とし込み、読者と想いを共有することができた。想いは内に秘められることなく、明確な言葉の形を取って公開され、普遍化を達成したのである。そこに川上さんが詩を書く喜びがあった。そのことを私も心から喜びたいと思う。

 

 

 

バンザイ

 

辻 和人

 
 

バンザイ、バンザイ
昨晩ギャン泣きの洗礼を受けた
ミヤミヤとかずとん
目しょぼしょぼさせながらトースト齧り
朝食会兼作戦会議
「抱っこする時背中ぽんぽんするといいかも」
「激しく泣く時はウンチしてることがあるからオムツ見ないと」
その横でコミヤミヤとこかずとん
バンサイ、バンザイ
両手挙げたカッコで眠ってる
おんなじカッコで眠ってる
すやすや涼しく眠ってる
昨夜コミヤミヤは口を歪めた般若の顔で
ウァーン、ウァーン
呪いをかけるように腕をぐるぐる振り回した
こかずとんは目を腫らした土偶の顔で
エァオーッオエッ、エァオーッオエッ
弓のようにぴーんと反り返って暴れた
哺乳瓶がぷるぷる震えた
恐れ慄いたミヤミヤとかずとん
おろおろ抱っこ、また抱っこ
ひたすらお怒りが鎮まるのを待った
それがどうだ
今、朝の光にふうわり浮かぶ
コミヤミヤの菩薩様のような顔
こかずとんのおむすび様のような顔
バンザイ、バンザイ
夜の顔も朝の顔も
どちらもコミヤミヤでどちらもこかずとんだ
君たちがこれからどんな変化を遂げようとも
君たちが君たちであることに違いはないよ
バンザイ、バンザイ

 

 

 

キャンプの夜

 

辻 和人

 
 

嵐が収まった
午前1時
これが噂のギャン泣きか
ギャンギャン泣きまくった後
やっと眠ってくれたコミヤミヤとこかずとん
「昼間は割と穏やかですが夜は迫力ありますよ」
先生から聞かされていた通りだ
今日退院して育児タクシーで家に連れてきた
病院の前で一家初の集合写真
撮影は運転も赤ちゃん言葉も巧みな初老のドライバーさん
ただいまぁと入ったお家の配置は
ミヤミヤの熟考を反映してる
水場が使える1階に備品を集約
中央にベビー用マットレスを敷き
隣に見守り用の大人のベッド
東に紙オムツやベビー服が整理された箱が3つ
西にハイローチェアと空気清浄機
キッチンには哺乳瓶とミルク缶のストック
棚の上にはミルクの時間と量を記したホワイトボード
そしてミヤミヤ新米ママとかずとん新米パパ
「すごかったね、ミヤミヤ。
 2人とも声の限りを尽くして絶叫してたよね。
 この嵐みたいのが毎晩続くと思うと緊張するけど
 ウチの子がウチの子らしくしてるわけだから全然ヤじゃないね」
「大変だけどかわいいから全然許せちゃうね。
 逆にキャンプみたいで楽しくない?」
そう言やそうだ
1つの部屋に家族4人
テント張って水汲み行って火起こして
オムツ替えしてミルク飲ませて抱っこして
深夜だから灯りは鳥さんの形のランプ型照明のみ
キャンプファイヤーの残り火の
ぼんやりした明るさが
流れ星見ぃつけた
てな気分にさせてくれちゃって
嵐の後の静けさを
交互に小さく乱す
2つの寝息が
渓流から吹く風に撫でられた
てな気分にさせてくれちゃって

 

 

 

ぷすり、ぷすり

 

辻 和人

 
 

赤ちゃん言葉が飛び交ってる
「起きまちたかぁ? ねむいねむいでちゅかぁ」
「採血頑張りまちたぁ、えらいでちゅねぇ」
病院だから声抑えてるけど
スタッフさんたちみんな赤ちゃんに話しかけてる
ここに足を運ぶのも今日が最後
コミヤミヤもこかずとんも体力ついてきた
「明日はいよいよ退院ですね。
1号ちゃんも2号ちゃんも元気にしてますよ」
小児科の先生が笑顔で近づいてくる
両手バンザイ姿で眠っているコミヤミヤに
「パパ来まちたよぉ、後で抱っこちてもらおうねぇ」
目ぱちくり足もぞもぞさせてるこかずとんに
「体重増えてキックも強くなりまちたぁ」
先生、この世界の権威なんだけどな
赤ちゃんにはいつも赤ちゃん言葉だ
「ち」と「ちゅ」を使えばあら不思議
赤ちゃん言葉のできあがり
でもさあ
ここにいるのは新生児ばかりでしょ?
いくら赤ちゃん言葉でも
先生やスタッフの言うことを理解できるはずがない
「それじゃお風呂入ってきれいきれいちまちゅか」
たった今こんな声が飛び込んできたけど
意地悪な見方すれば
赤ちゃんを「擬人化」して
自分の気分を盛り上げるために言ってるんだよなあ
いずれにせよ
コミヤミヤの耳にもこかずとんの耳にも
言葉はどんどん入っていく
耳を伝って脳髄に届いていく
赤ちゃんとお話ししたい
赤ちゃんと気持ちを通わせたい
そんな先生とスタッフさんの念のこもった言葉が
針になって
ふわふわの脳髄に
ぷすり、ぷすり刺さっていく
「ちまちたぁ」でぷすり
「でちゅねぇ」でぷすり
両手バンザイのコミヤミヤに
足もぞもぞのこかずとんに
念のこもった針
ぷすり、ぷすり
2人ともいつか言葉の国に住むことになって
出られなくなっちゃうんだな
怖い気もするけど
えーい
ぼくも、ぷすり、しよう
「明日はオウチだうれちいねぇ。
 ミヤミヤママ、かずとんパパといつも一緒。
 うれちいうれちい、うれちいねぇ」

 

 

 

マイナスのミルク

 

辻 和人

 
 

小さなお尻を膝に乗せる
首と肩を押さえて縦抱きにする
50ccのミルク一気に飲みきったコミヤミヤ
やったね
微かに肩で息しながら満足げな表情だ
低体重で生まれたけれどだんだん力がついてきた
さて、これからやることは
「お父さん、ミルクあげたら必ずげっぷさせて下さいね。
 赤ちゃんはミルク飲んだら空気も一緒に飲み込んじゃいますから」
薄い背中を軽く
トントントン
すると小さな口から
けふっ
目閉じてちょっと苦しそう
頑張るんだぞ
ミルクも空気もコミヤミヤにとって大事なもの
だけど一緒に飲み込んだらお腹が膨れちゃう
胃袋の容量をけふっと増やせば
またミルクをごくごく飲める
つまりげっぷってのはマイナスのミルクなんだな
プラスのミルクをごくごくするために
マイナスのミルクをけふっけふっ
その調子、そうやって体重増やしていこう
それっ
トントントン
けふっ

 

 

 

出てる、出たぞ

 

辻 和人

 
 

出てる
出たぞ
この病院では育児の実践をいろいろやらせてくれるけど
オムツ交換はそのハイライト
今まで4回やらせてもらってみんなおしっこだけだった
今度はどうかな
うぎゃーうぎゃー
こかずとんの暴れる腰持ち上げて
新しいオムツを履いてるオムツの下に敷いてっと
うん、青い線が出てるからおしっこはしてる
オムツのテープ剥がすと
出てる
出たぞ
ぷちっ
黄色い
ウンチだ
これがウンチか
お尻の下、スプーン一杯分くらい
ぷちっと黄色く存在を主張
ちょっと甘い匂い
ミルク味のお菓子みたい
やったね、こかずとん!
「あ、ウンチしてますね。いい色です。
 お尻拭いて古いオムツはこのビニールに捨てて
 新しいオムツ履かせて下さい。
 ギャザーはしっかり立てて下さいね」
スタッフさんがにっこにっこしながら言う
空中蹴る足躱しながらお尻きれいきれい
新しいオムツでお股をしっかり包んで
ギャザギャザギャザっと
はい、おしまい
うぎゃーうぎゃー
沸き立っていた声がだんだん沈んで
ベッドではうっすら目に涙を浮かべたこかずとんが再び眠りに落ちるところだった

ウンチっていうのは嫌われもんになりがちだけど
ここではさ
すっごく価値あるものとして扱われるんだ
「さっきいっぱいウンチ出ましたよ」
「いい色のウンチでしたよ」
「柔らかすぎず固すぎずの立派なウンチでしたよ」
明るい声が
ウンチの上で飛び交ってる
若いスタッフさんもベテランのスタッフさんも
みんなウンチが大好き
存在を全肯定して張りのある声で抱き締める
食べ物から栄養を吸収して要らないものを出す
腸がきゅっきゅ動いてる証拠だ
命がきゅっきゅ動いてる証拠だ
出てる
出たぞ
期待に応えたなあ
いいウンチしたこかずとん
新しいオムツの舟に乗って
すーやすや
次の交換の岸辺に流れ着くまで

 

 

 

そよぐ

 

辻 和人

 
 

ふぉわふぉわ
白いおくるみに包まれたコミヤミヤ
ゆっくり柔らかく
首を動かし手足を動かす
保育器からコットと呼ばれる保育ベッドに移った
まだ要注意だけど体温調節も自分でできるし栄養も完全に口から摂れる
「お父さん、それではお風呂に入れてみましょう」
そーっとそーっと乳児用お風呂の台に運び
おくるみ剥がし肌着脱がす
真っ赤な体ぶぉわぶぉわひねって泣き出した
ひるまない、ひるまない
ボディシャンプーの泡で頭を洗い体を洗いお股を洗い
はい、バスタブへ
沐浴布お腹にかけたコミヤミヤ
急に静か
細っこい手足ふぉわふぉわお湯に浮かせて
そよいでるよ
口元ゆるーく結んで
頭からざっぷりかけ湯に
首の皺から股の皺までそよいでるよ
ふぉわふぉわ
「お父さん、赤ちゃんはだいたいお風呂好きです。胎内に似た感じだからでしょうかね」
それじゃ今
コミヤミヤは過去にいるってこと?
一度生まれてしまったら
赤ちゃんにだって過去ができる
わぁ懐かしい胎内だ
懐かしい、懐かしい
温かい液体にたぷたぷ体を包まれて
思わず細っこい手足そよがせちゃう
こりゃ首と肩しっかり押さえとかなきゃ
すっと過去にタイムスリップしちゃうぞ
戻れないところに戻って
コミヤミヤ、そよぐ
目をつむってもっとそよぐ
ふぉわふぉわ
ふぉわふぉわ

 

 

 

追いかける

 

辻 和人

 
 

口に近づける
まだ閉じてる
ちょんっちょんっ、開いたぞ
「お父さん、ではミルクをあげてもらいます。
 首をしっかり支えておいて下さいね」
哺乳瓶の先は微かに震えながら開いた口の中へ
目閉じたままの小さな小さなこかずとんの小さな口
瓶の先舌の上に乗せてっと
奥へ奥へ含ませてっと
ぎゅきゅゅっ!
突然手応えあり
ぎゅきゅゅっ、ぎゅきゅゅっ
小さな頬が膨らんだつぼんだ膨らんだつぼんだ
白い命の素を
その小さな口が吸い込んでいく吸い込んでいく
目は閉じたまま、だけど真剣な面持ちで
哺乳瓶と口と胴体が
ぎゅきゅゅっと一つになった
真剣
すっごい真剣な顔だ
吸いながら「えうっえうっ」と自分を励ますように声をあげる
ひと休みする時は「ぁはぁぁはぁ」と肩で息する
栄養を摂れ、という使命を全力で果たそうとしてるんだ

とは言えこかずとんまだ生後3日
最後の5分の1くらいで飲み疲れて
うとうと、そして熟睡してしまう
哺乳瓶の先で唇を突いてもピクリともしない
どうしたらいいですかね?
「お父さん、ちょっと私に代わってもらっていいですか?
 今の時期、この分量は飲んでおいた方がいいので」
目がクリクリッとした若いスタッフさん
ぱかっと足を開いて踏ん張り
こかずとんを膝の上に乗せて哺乳瓶の突起を口に含ませた
くいっと奥に入れたかと思うと
くっと引く
ぴくっと頬が動いたかと思うと
吸い込んでいく吸い込んでいく
ぎゅきゅゅっ、ぎゅきゅゅっ
リズムが戻って完食だ
お見事!
「哺乳瓶を遠ざける動作をすると
 逃げられたら困るという意識が働くのか、また飲み始めることがあるんですよ」
そおかあ
逃げていくから追いかける
追いかけるという本能
こかずとん、まだこんなに小さいのにちゃんと持ってた
追いかければ追いかける程
逃げていくものは輝きを増す
飲み終わって「ぁはぁぁはぁ」息するこかずとん
こんなに小さいのに
ちゃんと知ってた

 

 

 

頑張ってる音

 

辻 和人

 
 

すぅーっふぅーっずこんっこん
透明プラスチック越し
頑張ってる音、聞こえそう
ちょっと低体重で生まれたコミヤミヤ
保育器のお世話になってる
口には管、胸にも手にも足にもセンサーが貼られて
横のモニターには刻々変化する数字が映し出されてる
「お父さん、娘さん順調ですよ。
ぐったりしてるみたいに見えますけど違うんです。
保育器の中でいろんなことを勉強してるんですよ。
呼吸の仕方とか
体温の調節の仕方とか
栄養の摂り方とか
一生懸命覚えてるんです。
すごく活動してるんですよ。
応援してあげて下さいね」
ぼくの横にそっと並んだ先生が言う
確かにコミヤミヤ、動いてる
今、それっ
口をちょぼっとさせた
手の先をぴくっとさせた
お腹をひゅういっとしならせた
緩慢に見えるけど
緩慢どころじゃない
呼吸も体温も栄養も
力いっぱい勉強して
その結果がモニターの数字を
刻々突き動かしている
すごいね、コミヤミヤ
すぅーっふぅーっずこんっこん
頑張ってる
頑張ってる音、聞こえそう