また旅だより 47

 

尾仲浩二

 
 

昨日、苫小牧に着いて、まだ北海道らしい物を食べていないかった。
午前中よく歩いて、腹が空いていたのでラーメンを食べようと思った。
でも日曜の午後3時では開いている店はほとんない。
飲み屋街の中、古いいい感じの中華屋を見つけた。他に客はいない。
席に着いてメニューを見てその価格に驚いた。
が、仕方ない。一番上にあった味噌ラーメン960円を注文。
ひと口食べてまた驚いた。なんだこの味のしなさは。
とにかく具と麺を食べて店を出た。

夜は昭和のままの洋食屋に入ってみた。
つまみの皿をいくつか頼み白ワインを飲んだ。
ワインをおかわりするときに、大盛りにしてくれと言ってみた。
するとグラスには並々と注がれ、さらにボトルに残ったワインも注いでくれた。
この街は一勝一敗のドローだ。

2022年6月26日 北海道千歳にて

 

 

 

 

また旅だより 46

 

尾仲浩二

 
 

25年ほど前に撮影してすっかり忘れていたスライドフィルムがでてきた
コダックのエクタクロームというフィルム
当時コダクロームという色褪せないフィルムは高かった
なので僕のエクタクロームはすでに褪色してしまっていた
それをデジタルカメラで複写してパソコンで色を調整してみたら
なかなかいい感じの色合いになった
本来の色よりずっと好き

2022年6月15日 東京中野にて

写真展『My Ektachrome 僕のエクタクローム』
東京中野 ギャラリー街道にて6月18日、19日開催
同名の写真集も発売中

 

 

 

 

また旅だより 45

 

尾仲浩二

 
 

20年ぶりに鹿児島へ行ってきた。
用事はなにもないので、ぶらぶら歩き回って温泉に入ったり焼酎を飲んだり。
市内の老舗デパート山形屋(やまかたや)の食堂では、みんながカタ焼きそばを食べていた。
名物だそうで、とてもボリュームがあって安くうまい。
指宿では東京で高値の玉ねぎが安かったが、さすがにこれを持って歩きたくはなかった。

2022年4月22日 鹿児島にて

 

 

 

 

詩について 03

 

塔島ひろみ

 
 

詩の旅

 

離婚して、生まれ育った町に戻ってきた。
私はこの町が嫌いで、子ども時代、とにかくもう嫌でたまらず、早くここから出ていきたかった。
そこへ、不本意にも舞い戻って、もう9年目にもなるけれど、いまだ、かつての友だちの誰ひとりとも出会っていない。見かけもしない。
彼らはどこへ消えてしまったのか?
それとも老けこんで、会っても気づかないだけなのか?

「友だち」と言っても、私はこの嫌いな町の中学を卒業すると同時に誰とも親交がなくなったので、単に「学校が一緒だった知ってる人」という意味で、該当者は多い。少なくとも100人以上はいると思う。
その人たちが一掃され、私だけが今、この町にいる。
つまり人が入れ替わった、あのときと違う、町にいる。
そしたら今、私はこの町が好きだろうか?

中学の卒業アルバムの後ろについていた「生徒住所録」を見て、幾人かの「友だち」の住所を訪ねてみる。
するとそこには、もうまったく別の人が住んでいたり、空家になり、放置されていたりした。
なんとも言えない。
そこには、なんとも言えない、いろんなものがごちゃごちゃになって、漂っていた。
学校時代の彼らの、その行動の、表情の、感情の、背景とか。
その後の彼らの、私が知らない、今ここに住んでいる人も知らないだろう歴史とか。
私と友だちが何十年も昔に交わした会話とか。
木とか。雨とか。においとか。
町を流れる2本の川。
その川の影とか。

当時中学校は荒れていた。その中でも一番スケバンだった彼女の所番地に、先月行った。
その番地は、大きなマンションに吸収されてあとかたもなかった。
マンションのまわりには古い町工場が並び、ガチャガチャと機械の音が聞こえてき、作業服の人がマンホールに片手を肩まで突っ込んでいた。
すぐ先は川で、川沿いの敷地にNTTの鉄塔が立ち、その隣りの囲われたスペースに、タンクローリーや大きなトラックが次々入っていく。中には土砂の山がいくつもあり、大小のブロック塀が積まれ、ショベルカーが並んでいる。「○○建材」とあった。
その先の角地に、「水神社」があった。

小さな祠。その横に「水神社」とだけ書かれた石柱がある。
境内には、狛犬もなく、供え物もなく、さい銭箱もなく、神社の説明書きもなく、あまり関係なさそうな「○○橋之記」と、すぐそこにかかる橋の歴史が刻まれた碑があるきりだった。
「夫れ祖国再建の基は産業復興に在り産業の進展は交通機関の完備に俟つ」
歴代村長の執念が架橋とその戦後の再建を果たしたことが述べられていた。

『葛飾区神社調査報告』(東京都葛飾区教育委員会)には、この町の水神社についての記述がある。
祭神は水波能売神(みずはのめのかみ)。
1729年、幕府の勘定吟味役の井沢某が人柱伝説により河川開削のときに祀ったこと。
その後の大正期に、川の改修工事の際100メートル下流の現在地にうつったこと。
それはしかし、彼女んちのそばに私が見つけた水神社ではなく、上流にあるもう少し大きな、別の水神社についての記述なのだ。
「本区は水稲栽培が一般農民の基本になっていたので、稲作に不可欠の灌漑用水の守護神として水神を祭ることが多い。しかし現在は多く鎮守社の摂社になって・・・」。(『葛飾区神社調査報告』)
私が見た水神社は、この地区の鎮守社に吸収された、鎮守社の一部に過ぎないものだった。

鎮守社に行くと、「御祭神 日本武尊、相殿(熊野様)イザナギノミコト イザナミノミコト スサノオノミコト」と書かれていた。
水神についての記述はないが、年間行事のなかに「7月18日 水神祭」が入っていた。

調べると、水波能売神は、イザナミノミコトの尿から生まれた、女神だった。

病いの苦しみのなかで、イザナミのたぐり(54)から成り出た神の名は、カナヤマビコ、つぎにカナヤマビメ。つぎに、糞から成り出た神の名は、ハニヤスビコ、つぎにハニヤスビメ。つぎに、ゆまり(55)から成り出た神の名は、ミツハノメ。

 

           (54)たぐり 嘔吐した、その吐瀉物。
           (55)ゆまり オシッコのこと。

             (『口語訳 古事記(完全版)』三浦佑之、文藝春秋)

 

それで、水の女、という詩を書いた。

 
 

詩「水の女」
https://beachwind-lib.net/?p=33599

 

 

 

夢素描 23

 

西島一洋

 
 

嘘つき

 

小学校三年か四年の頃だと思う。10歳、1962年頃か。

家業はうどん屋だったので、うどん粉と小麦粉とメリケン粉は同じものだということは、当然のごとく知っていた。ある時、通学団で学校へ行く時か、家へ帰る時か忘れてしまったが、僕が皆に「うどん粉と小麦粉とメリケン粉は一緒だよ。」と言うと、こぞって「嘘つき。」と皆が言う。

皆は、うどん粉と小麦粉とメリケン粉は違うものだと思っていたのだ。僕が、何度も、強く主張すればするほど、「嘘つき。」の連呼は激しくなる。泣いた記憶はない。とてつもない理不尽さに怒りを感じて憤怒の極みになったが、暴れたり大声を出したりはしなかった。ただただ、歯を喰いしばって、耐えていた。

僕はどちらかと言うと、おどけ者で、皆を、驚かせたり、楽しませたり、よくしていた。突飛なことを言ったり、やったりしていた。イソップの狼少年のように普段から人が困るような嘘をついて、自分自身が喜んでいたわけではではなく、まあ、他の人のためにおどけていた。嘘のようなことを言ったりやったりして、でもそれは他愛のないことばかりで、皆もそれを分かっていて喜んでいた。と思う。多分。おそらく。

この時は、おどけたり、喜びそうなことを言ったりしたわけではない。ただ、当たり前のことを、さらっと言っただけだ。

これとは別の話だが、意図的に嘘をついたことはある。その時は、嘘をついたという感覚がなかった。小学校一年の時だから、7歳、1960年か、う?計算違うか?、まあ良い。

小学校一年だったことは、間違いない。というのは、伊勢湾台風のあった年だからだ。なぜ、はっきり覚えているかというと、名古屋の南の方で、水害で家を流されたりした人達が、僕の通っている小学校に避難してしばらく暮らしていたが、その避難所になった場所が、僕の学校の一年生の校舎だったからだ。一年生の校舎だけ、平屋で別棟だったから、使い勝手が良かったのだろう。

伊勢湾台風の直後、一年生の国語の作文の授業で、課題が「伊勢湾台風の思い出」というのがあった。思い出となるほどには、時間は経っておらず、まあ、今から考えると、ドギュメンタリーを書け、ということだったのだろう。小学校一年生という年齢にとっては、かなりきつい作業を要求されたとも思う。

あの時、つまり、伊勢湾台風の渦中、(僕の家は鶏小屋を解体して出てきた古材で作ったボロ屋だったが)瓦一枚も飛ばされず、ガラス一枚も割れなかった。たまたま、風上に大きな家があって、その建物の陰で助かったからだろう。名古屋市千種区と昭和区の境目のところだったが、僕の家以外の周辺は、かなりの被害状況で、屋根が丸ごと飛ばされた家もあった。全く被害のない家は皆無だったと思う。電信棒も倒れていたし、根こそぎ倒れている木もあった。

僕は、全く被害のない自分の家のことを、良かったと当然思うには思ったが、一方、変な心情が生じていて、悔しくもあった。台風一過の翌日、学校へ行くと、みんなが、瓦が飛んだ、ガラスが割れた、などなどと、自慢(?)し合っている。何の被害もなかったことが悔しかったのだ。おそらく、僕は、黙っていた。おどけ者で、しゃべり好きの少年が、無言でいるのは皆にとっても異様だっただろう。もしかしたら、よっぽどの被害があって、悲しみに打ちひしがれていると誤解されていたのかもしれない。この辺の心情は、変ではあるが、今でも理解できる。

作文で、僕は、嘘をついた。いや、正確には、作文というのは嘘を書いても良いと思っていたのだろう。小説という概念は、小学校一年生の僕には持ち合わせていなかったが、虚構を書いても良いと、勝手に思っていた。

内容で、はっきりと覚えているのは、自分の家の被害状況を克明に筆記したことだ。もちろん、被害は受けてないので、全て捏造であるが、捏造という概念すらも無い。

当時、台風が来るとなると、近所全員、全家屋が、戸板を材木で、窓や扉に、釘で打ちつけ、建物を防御した。あたりは、まるで学生運動で校舎に砦を作ったバリケードが連鎖するような風景である。あの、釘を打ち付ける響く音の記憶も濃厚だ。

僕の家も、南側の、扉や窓は、そのようにガンガンと材木を釘で打ちつけたが、何故か西側の一間ほどの引き戸だけは無防備だった。その引き戸の透明ガラス越しに、外の台風の様子が見れた。看板とか、瓦とかが、飛んでいるのも見える。雨もたたきつけていた。ずーっと、ずーっと、見ていた。

作文では、『その扉の透明ガラス越しに、外の様子を見ていると、飛んできた看板が、ガラスを割って家の中に飛び込んできた、僕達は咄嗟に逃げたので、怪我は無かったが、家の中はみずびたしになった、しかし、隣の家の陰になっていたからか、瓦一枚も飛ばなかったというのは、不幸中の幸いだった。』というようなことを書いた。そのように書けば、先生も含めて、みんなが感心すると思って書いたのだ。

案の定、その作文は、とても優れているということで、先生に褒められて、皆の前で自分で朗読させられた。とっても、自慢だったし、嘘をついている感覚は皆無だった。

蛇足かなあ。
もうひとつ、下駄箱のザラ板の話を思い出した。

小学校二年生。1961年。(ま、どうでもいいけど、僕の記憶の中では、そうなっている。1961が、反対から読んでも、1961、それに気が付いたのが小学校二年生の時、感動してみんなに言ったが、みんなは無関心だった記憶がある。)

で、小学校二年生の時、僕は、特に、美意識や道徳意識も無く、毎日、下駄箱あたりの掃除をしていた。掃除当番でも無い。そのような役割があったわけでも無い。ただ、なんとなく、毎日、掃除していた。

ホームルームか、なんか他の授業だったかは忘れた。先生が、「毎日、下駄箱の掃除をしている子がいます。素晴らしいですね。とっても良い行いです。皆もこういうこと見習って下さい。」と言った後、「やってる子は、手を挙げてください。」というので、僕は、勢いよく手を挙げた。僕は、褒められることを目的にやっていたことではないけれど、若干恥ずかしかったが、胸を張って「はい」と言って立ち上がった。

なんと、先生は、「こういう事は、黙ってやるから素晴らしいのです。人前で言うことではありません。正直に人前で言ってしまっては、駄目です。」と、言う。

僕は、手を挙げて、と言うから、素直に手を挙げたまでだった。その時、子供の時、すぐ反論はできなかったが、今から考えても、理不尽だ。

端的に言うと、僕は嘘つきは嫌いだし、嘘をつくのも嫌いだ。

 

 

 

また旅だより 44

 

尾仲浩二

 
 

桜を追って妻と北へ行った。
昨年の四月に泊まった温泉宿の桜が見事だったので早くから予約をしていたのだ。
ところが開花予報はいつまでも蕾のままで半分諦めていた。
それが月曜からの異常な気温で蕾は一気に開き、夜でも半袖で桜を楽しむことができた。
翌日、妻は留守番させた猫をすこし心配しながら東京へ戻った。
そして今日は気候が一転、ひとり凍えながら今年最後の桜を見て歩いた。

2022年4月14日 山形市内にて

 

 

 

 

また旅だより 43

 

尾仲浩二

 
 

町の中華屋でレバニラとビール。
他に客もなくNHKではロシアの侵攻のニュース。
88歳の主人が、この戦争はどうなるんだろうと言う。
どうなるのでしょうねと僕。
ほんとうにどうなるのだろう。

2022年3月6日 東京、中野にて

 

 

 

 

夢素描 22

 

西島一洋

 
 

林裕己が19歳の時に、僕は彼と出会った。

 


真ん中のが、林裕己。左が関智生。一番右が西島一洋。1988年。おそらく、ED LABOへ乗り込む直前だと思う。

 

80年代半ば、だと思う。

林裕己は、茂登山清文と共に、師勝の僕の自宅にやって来た。

僕は絵描きなので、小さなぼろい家だったが、一応12畳の仕事場、つまり、アトリエがあった。ただ、アトリエとは名ばかりで、ゴミだめのようになって、そのゴミを踏みしだき二人を招き入れた。

林裕己、19歳。今でも、時折会ったりしてはいるが、不思議と、僕の中では、彼は19歳のままだ。初対面のイメージが強すぎて、未だに、19歳。

林裕己は、当時、名古屋芸術大学の学生だった。茂登山清文は僕と同い年で、美術雑誌「裸眼」を共同編集発行するメンバーの一人だった、そして、林裕己が通っている大学の教員でもあった。茂登山清文は、林裕己を僕に引き合わせたかったのだろう。ただし、その当時、茂登山清文はデザイン科に新設の造形実験コースの教員、一方、林裕己は洋画科の学生、つまり茂登山清文の直接の教え子ではない。林裕己が、学科を超えて、突出する存在だったのだろう。僕に林裕己を引き合わせたかった理由は、なんとなく分かった。茂登山清文は、林裕己を、優れた天才のアーティストと見抜いていた。

林裕己は、汚なかった。最近のホームレスは、結構身綺麗な人が多いが、いわゆる昔の乞食のようだった。ズボンは破れ、汗と油でゴテゴテになり、布では無いような準個体となって身体に纏わりついている。眼鏡の片方のレンズが複雑に割れて、それをセロハンテープで繋いである。臭かったかもしれないが、臭かったという記憶は一切ない。おそらく、見かけによらず清潔にしていたのだろう。

初対面。何を話したか忘れてしまったが、とにかく凄いやつだと思った。

数日して、夜中に、玄関の扉をどんど叩くやつがいる。インターホーンがあるのに。まあ、しょうがない、扉を開けると、おどおどとした林裕己が居た。何かあったんだろうと思って、まずは、僕の仕事場に招き入れた。

彼は、訥々と話した。

「怖いんです。下宿に帰るのが怖いんです。きっと、何か居る。怖くて帰れないから、来ました。」と、彼は言った。

本当に、幻覚や幻聴があるのだろうと察した。僕は、この時、何を彼に言ったか覚えていないが、後日というか、随分経ってから、それこそ何十年も経ってから、その時の事を、彼から聞いた記憶がある。

「今が、一番素晴らしい。」と、僕が言ったらしい。

この彼の今の心の状態、つまり幻影も見るほどに落ち込んだ精神の状態の美しさを、僕が愛でたようだ。なんとなく、そういう記憶はある。だいたい、おそらく、ぼんやりとした記憶では、僕は、村山槐多に心酔していた時期があり、デカダンスとか、そんな気風を彼から感じ取っていたのは間違いない。

その後、林裕己は、僕のところによく来るようになった。ような気がする…、というのは、記憶が途切れ途切れで、連続的な記憶として、物語のように書き起こすことができないからだ。したがって、断片的な記憶を、時系列を無視して、書こうと思う。

林裕己のところにも行った。

岩倉の石仏にある元繊維工場の女工達が暮らした木造の極めて古い寮である。この辺り、戦前から戦後にかけて、一宮を中心として、ノコギリ屋根の工場が林立し、日本の毛織物業界の中心地でもあった。戦後に化繊が勃興してからは、毛織物は衰退の一途だった。今もノコギリ屋根の工場跡は、まだ意外とたくさん残っている。女工達の寮も、探せば、まだ残っているかもしれない。

この辺りは、女工哀史の現場でもあったろう、たくさんの女工が全国から集まり、寮生活で過酷な労働を強いられていたのだろう。その女工達が住んでいた寮である。近所の子供達からはお化け屋敷と言われているとのことだった。何部屋もあり、彼以外にも寄宿しているのが数人いたと思う。

なるほど、そこはお化け屋敷といった風貌の建物と佇まいであった。彼は、草の生えた前庭のある四畳半くらいの部屋に住んでいた。前庭に面して古びた彼の自作の木の看板があったように思う。なんとか古道具屋と書いてあったかなあ。でも、人通りがあるわけではない。実際に、古びた木の車輪とか、なんか他にもこちゃこちゃ置いてあったような気がする。何せ、地元の子ども達から、お化け屋敷と言われているくらいの、ほぼ廃屋に近いという建物の風貌である。古道具屋は、ぴったり、といえば、ぴったり。

彼は、つげ義春を愛していた。正確にはつげ義春の作品の情景を愛していたのだろう。僕は今でもつげ義春の作品は好きだ。(つげ義春は、生活苦からだろうが、最近芸術院会員になって年金250万円をもらうようになった。芸術院会員を彼が受諾したことは、若干ガッカリしたが、しょうがない。病身の息子さんの介護もやっているようだ。)

電気は通っていた。彼の小さな部屋には、小さな冷蔵庫があって、そこから人参が芽を出し、ニョキニョキと育って、扉の淵から、茎や葉っぱが飛び出ていた。

風呂は無かったのだろう。名古屋芸大の近くに、西春高校というのがある。深夜、彼は、この高校のプールに、柵を乗り越えて、ここで体を洗っていた。まあ、不法侵入で、犯罪でもある。

彼の制作場は、共同部屋の、12畳か、もっとそれより大きいか、まあ、おそらく女工の寮の時代には、食堂として使っていたのかなあ、暗かった、広いのに40Wの裸電球ひとつという感じだった。共同部屋なのだが、彼がひとり独占していた。

巨大なレリーフがあった、というか、制作中であった。バルサをカッターで1センチ✖️5センチくらいに細かく切り、テーパーを作り、六角形の小さな筒を、たくさんたくさん、作っていく。漆での塗装を施したあと、組んでいく、巨大な蜂の巣作りだ。コツコツとした手作業の集積である。まさしく、自閉的行為。彼はどちらかというと、手先が不器用なのか、カッターで傷だらけになっての作業であった。この作品は、発表されたかどうか記憶にない。でも、凄いよ。本当に鬼気迫るというか凄いの一言に尽きる。

行為と痕跡、そしてその集積だ。

ただ、この巨大な蜂の巣のレリーフは、彼が、この下宿から引っ越す時に、全て、粗大ゴミで捨てたとのこと、これも凄い。命懸けで作り続けた作品を、捨てる。これは、凄いが、僕にはできない。

彼はいつも突然来る。実は当時の僕の家は名古屋芸大から近いのだ。近くにフジパンの工場もある。彼は、フジパンの工場で働いていて、白衣のまま、僕のところに来た。しかも、白衣が真っ黒け。あまりにも汚いので洗濯してあげると言って、洗濯機に放り込んだ。その頃、生まれたばかりの子供の大量のおしめの乾燥をする必要があったので、僕も貧乏だが、乾燥機があって、乾燥機にも放り込んだ。

乾くまでの間、と言いながら朝まで話したっけ、で、何を話したか、良く覚えていないが、彼の昔の作品というか、行為というか、いろいろ聞くことになった。

さて、ようやく、これからが本題かなあ。

というのは、林裕己から、今回彼と彼の家族が共同で発行しているフリーペーパーへの原稿依頼のテーマは、「80年代、90年代のパフォーマンス」ということなのだが、記憶が曖昧で、時系列で書くには難しく、林裕己について書けば、色々、記憶が蘇ってくるのではないかと思って、書き始めた次第。

林裕己は、僕のところに来る前にも色々やっていた。学生らしく、作品ファイルもあって、見せてもらった。これも内容が濃い。門のやつなんか、三丁目伸也とかぶるが、というより混同?…、まあよい、重厚で迫力ある作品の記録だった。

後天性美術結社というのがあった。林君と出会う前だ。

後天性美術結社というのは、中島智、落合竜家、原充諭。名古屋芸大の三人だ。林君とはひとつ違いの上だ。彼らの活動は、ぼんやりとは聞いていた。というのは、中島智が、「シニア研」という読書会に参加しており、僕も一緒だったから、中島智から、いろいろ聞いていた。

後天性美術結社は、名古屋の街頭や地下街などで、一年ほどで約80回の、路上行為を行なった。僕の中で記憶が混同しているかもしれないが、一度だけ見たような気がする。というのは、彼等3人はいたような気がするが、何かやっていたという記憶がない。場所はASGがらんやに続く道で、10数人が移動している。ときおり、止まり、というか止まるほどゆっくりになって、彼等3人以外で、黒い背広を着て裸足の男一人が、緩慢な動きをしながら移動して行く。その男が浜島嘉幸であった。僕の記憶ではおそらく、後天性美術結社が彼を担ぎ出したと思っている。

あと先になると思うが、名古屋芸大美術学部には、ややこしいが美術部というのがあって、部室もある、部費も出る、その当時彼等3人が、この美術クラブの中心メンバーで、その部費を使って、名古屋市博物館を借り、「場の造形」という展覧会を企画して開いていた。出品者は学生だけではなかった。堀尾貞治も参加したりしていた。後天性美術結社は、その狭間で発生したのだと思う。

後天性美術結社は、展覧会も開いている。展覧会名は忘れたが、時計仕掛けのオレンジとかガラスの動物園、という感じの語呂のタイトルだったような気がする。ふと、漬け物という言葉も去来したが、違うか。まあいい、忘れたが、結構印象に残っている。行ってはいない。だから、何も書けない。場所は三重県立美術館だった。大きなポスターも作っていたように思う。

中島智は、当時、国島征二主宰のギャラリーUで個展をした。座布団を十数枚重ね、石膏漬けにし、宙空に、吊り下げられている。白い厚手の綿布でテント小屋のようになってもいた。当時も残る家制度に対する闘いのような強烈な作品であった。美術手帖にも写真入りで取り上げられた。

中島智は、その後、アフリカと沖縄に長い間、滞在して、地元の祭りというか、その精神のありかの研究に入り、帰ってきて、東京で、確か現在、武蔵美と慶應で教鞭をとっている。分厚い本も出版している。

落合竜家は、名古屋芸大の美術学部の教員の鈴木Qと共同でアトリエを借り、制作三昧。原充諭は、今は、エビスアートギャラリーを主宰。

で、何が言いたいかというと、この後天性美術結社を勝手に一人で受け継いだのが林裕己なのだ。例の、場の造形展も引き継いでやっていたようだ。僕が林裕己と出会う前のことである。

林裕己が中心となってやった「場の造形」展の記録ファイルには、彼自身の巨大な絵画の前で裸でモヒカンガリの彼が鎮座していた。彼の話では、この時、博物館の周りに縄を張り巡らしと言うか、縄でぐるっと建物を縛り、それを引っ張る、ということや、エレベーターの中にござとちゃぶ台を持ち込み、そこでお茶を飲むとか、極めつきは、下ネタになってしまうが、会場の中心で、空き缶にウンコをする、という行為、また当時、同時並行して、友人のオートバイの後部座席に乗って、粉洗剤を、町中にばら撒く行為、公衆トイレででの大量な落書き行為、まあ、違法行為でもあるが、ということの話の中に彼がギリギリに追い詰められている精神状態を察した。

関智生。彼は、林裕己の親友である。そして、僕と同じく、林裕己の天才力を認めていた。関智生は、失恋してから抜群に良い作品を描くようになった。そして今も、優れた作品を描き続けている。イギリスの芸大に県費で留学して、三年か四年か滞在、その芸大のスリーA、つまり、最高得点で卒業。このあと書こうと思うが、彼は、体現集団Φアエッタの初期メンバーである。というか、林裕己、関智生、西島一洋の3人で体現集団Φアエッタは誕生した。

僕は、絵は仕事だと思っていたが、行為、というのか、よくゴソゴソしていたが、名称不能行為という感じで、70年代からやってきたが、あまり、仕事という意識は無かった。でも、なんとなく、次の個展のイメージがあって、案というのか、それが、蓑虫割皮、であった。

その当時、紡錘形というイメージがあって、まあ今でもあるんだけど、その紡錘形を内側から切り裂くというのをやろうと思っていた。で、具体的に個展のイメージはあった。「行為と痕跡の連続とその集積」という長ったらしいタイトルで、具体的に何をやるかというと、大量の古新聞が積んであって、まず人が包めるくらいまでの大きさまで糊でくっつける、人を包むのであるから一枚では破れてしまうので、何枚も重ね糊で貼って結構丈夫なものにする、乾燥するのに時間がかかるので、もう一つ、もう一つ、と順番に30ほど作る、で、今度は乾燥したゴテゴテして古新聞で作った物の上に、全裸で寝っ転がり、体をそれで包んで接着する、ここに紡錘形が誕生する、息穴だけは確保する、小刀を一本持ったまま包まれている、そうして、小刀で内側から切り裂いて出てくる、脱ぎ捨てた皮は、床に置く、そうして、それを30回ほど繰り返して、つまり、途中で眠くなったら、殻の中で寝る、トイレと食事のことまでは、あまり考えていなかったが、おそらく行為が何日間にも及び、おそらく一週間、連続した時間の行為になるので、その辺のところも大事だが、なんとかなるだろうとは思っていた、まあ後で考えるとして、というう若干詰めの甘いところもあったが、まあともかく、結果、30ほどの抜け殻が生ずる、それを床に、整然と並べる。まあ、ただ、それだけのアイデアだ。

いつものように、林裕己は突然来た。
そうして、「何か一緒にやりませんか」と言う。
文頭の茂登山清文が、西春にある元銀行の古い木造家屋で、ED LABOというのを立ち上げることになった。

 

ようやく、体現集団ΦAETTAの始まりの前あたりまでに辿り着いた。
連休を待って集中的に執筆しようと思ったが、集中力が続かない。
遅筆になってしまった。
若い頃は、内容はともかく、いくらでも書き進めれたが、今は、途中で止まってしまう、書き上げてからの推敲ではなく、途中に前のところを何度も読み返し訂正するという作業がやけに多いのだ。

とっくに原稿締め切りを過ぎているから、言い訳はやめよう。

今日からは、一行でも、1時間ずつでもよいから、書いて、少しでも早く、入稿できるように、頑張ります。

で、とりあえず、途中までの原稿送ります。

前に、というか、ついこの間、二ヶ月ほど前かな、浜風文庫に結構長文の原稿を書いて送ろうとしたら、コピーと間違えて、全文削除してしまった。慌てなければ復活の方法もあったのだろうが、あたふたして、何か試しているうちに、完璧に消えてしまった。がっくり。

という経験があるので、それに、いつ死ぬかもしれないし、未完成というより、書きかけの原稿だが、コピペして送ります。

2022年3月6日

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以下メモ1

林裕己の言葉。
「古い事ばかり持ち出すけど大そうじ、大目に見てね。ぼくは西島さんと出会い感激し、関智生君も加わり、体現集団アエッタが始まった。西春に茂頭山氏と教え子達(椿原章代/古橋栄二/福原隆三他)がオープンしたギャラリーにゲリラで乗り込む。アクシデントで自分の足を自分で小刀で切り七針を縫う出血、炭まみれの裸身でホワイトキューブに体当たりを繰り返した。行為中、音や時間が通常の知覚を越えた不思議な感覚の中にいた。少しだけその日のTVニュースにも映ってた。」

以下メモ2

自分のメモ。

アエッタは組織でもなく集団でもない。

◆アエッタの現場の生成に遭遇した人たち◆ 
(作成中/1988年~2009年現在) 
アエッタは行為者とその行為の現場に遭遇した人との区別をしない。場の生成が重要であって、行為者とそれを見ている人たちは同じ地平であると考えている。また遭遇した人たちというのは、自ら意志的に訪れた人もいれば、文字通りたまたま通りかかっただけの人もいるが、同じく同じ地平であると考えている。したがって、名前を把握できない人たちも、つまり通行人や素通りの人たちも、多数いるが、当然のことながらそれは省略する。 

林裕己、関智生、草壁史郎、岡本真紀、三浦幸夫、森淳、辻元彦、徳田幹也、 瀬口正樹、近藤はつえ、落合竜家、室田火とし、安井比奈子、原充諭、野中悦子、土井美奈子、竹田英昭、米谷久美子、高木康宏、関原夕子、森有礼、小川由紀子、伊藤光二、黄色原人、松澤宥、水谷勇夫、岩田正人、三頭谷鷹史、鈴木敏春、山田武司、加藤好弘、岩田信市、海上宏美、浜島嘉幸、古橋栄二、水上旬、岡崎豊廣、西島一洋、…さらに続く。

上記の遭遇人たち、これは書き出しのほんの一部で、現在記憶をたよりに可能な限り少しずつ追加作業中である。
また、上記の人たちもどこでいつアエッタに遭遇したか覚えていない人たちもいるかもしれないが、少なくとも僕(西島一洋)は覚えている。
ある行為をする人、そこに訪れた人、そこにたまたま居合わせた人、遠く離れていても交信する人、それらすべての総体によって生成される場の様態のことである。
集団のあとに空集合φを置いているのは、そういう意味である。
共同幻想としての集団の概念は否定しないが、集団であることには一切こだわっていない。
したがって、たった一人の行為の場も成立するし、行為者のいない場も成立する。
ほぼ、日常の生活と言っても過言でない。

φAETTA記録目次へ≫

【体現集団φAETTA(1988-∞)】について

1988年 西島一洋、林裕己、関智生の3名よって創始

アエッタの現場は規定を持たない。 
日常そのものが現場にもなりうる。 
したがって、記録は作成しているがおのずから十全ではない。 

集団の後ろに空集合を置く。 
したがって、上記の3名以外のアエッタも当然生成される。 
記録には100名を超えるアエッタの生成があるが、組織でもなく集団でもない。 
完璧なアナーキーな活動様態である。 

「体現」は開かれた表現の領域としてのパフォーマンスアートとは一線を画しており、 
むしろ表現という幻想の抑圧から逃れる旅を続けているといった方が適切かもしれない。

 

 

 

 

あきれて物も言えない 31

 

ピコ・大東洋ミランドラ

 
 


作画 ピコ・大東洋ミランドラ画伯

 

 

花粉がきた

 

朝、起きてみたら、
来ていた。

泉のように水が流れでて止まらない。

くしゃみが、
立て続けにでた。

 

この2年は、
来なかった。

コロナ禍で家の外ではマスクをしていたからなのだろう。

ティッシュを、
箱ごと抱きしめて鼻のまわりを赤くするあの日々がはじまったのか?

昼前に近所の病院に行ってみた。
受け付けは昼で終了です午後3時に来てくださいと女の事務員は言った。

それで、近くの農家の無人販売所で蜜柑とデカポンを買ってそれからホームセンターに寄り小鳥の餌の剝き実を買った。

本の部屋の窓辺に蜜柑と剥き実を置き小鳥が来るのを待った。

雀が、
来た。

つがいで来た。

いつもこのつがいが来る。

元気な方が餌を啄ばみおとなしい方がおずおずと真似る。

今度はヒヨドリのつがいが来た。
ヒヨドリは雀を追い払い餌を食べ尽くすのだ。

そんな景色を見ていると時間になっていた。

病院に向かう。
病院の受付では風邪気味なのかコロナなのか花粉なのか、問われた。

コロナの可能性がある場合は外のプレハブの診察室で診察するようだ。
花粉か風邪かコロナかわからないから来てみたのだが患者がコロナかどうか問われる。可笑しい。

熱もないし、たぶん、花粉だと思います。

受け付けの女性は安心したのか一般の診察用待合室に通してくれた。

そこには老人たちがいた。
車椅子に乗せられて俯いている老人もいる。
歳を取ると自然とみんな持病を持っているのだ。
持病を持っているから年寄りはコロナで死んで行くのだ。

診察室に呼ばれた。
男性の医師だった。
マスクを外すように言われた。
鼻の奥と喉をペンライトを点けて覗かれた。
鼻の奥の粘膜が腫れているそうだ。

花粉だろうという。
わたしも同意する。

やっと来てくれた。
コロナやデルタやオミクロンを通さないようにしてきたマスクのはずだ。
そのマスクを通して、
花粉はわたしのところにやって来てくれた。

懐かしいバッドボーイにあったように思えた。

やっと来たのか、きみは。
すこしながい2年間だったよ。

鼻水がだらだらと流れ眼玉しょぼしょぼとしてクシャミ連発のあの憂鬱な花粉がこれほどに懐かしいと感じられるのは、
コロナ様のお陰なのだ。

コロナでこの日本では416万1,730人の人が感染し2万989人の人たちが亡くなったのだ。 *
世界では4億1,550万8,449人の人たちが感染し583万8,049人もの人たちが亡くなったのだ。 *

 

自宅に帰って駐車場で空を見上げた。
西の山のこちら側に雲が盛り上がっていた。

夏の入道雲のような大きさだが雲は灰色に盛り上がり冬の雲だった。
この巨大な雲は冷たい雪の結晶で出来ているのだろう。
灰色の雲の縁から太陽の光が斜めに射して来ていた。

その光の中にわたしたちがいる。
老人たちがいる。
車椅子に乗せられて無言で俯いている者たちがいる。
雀のつがいがいる。
ヒヨドリのつがいがいる。

それはこのひろい宇宙のなかのひとつのいのちということなのだろう。
いのちのひとつひとつが個々に光を灯しているのだろう。

 

この世界には呆れてものも言えないことがあることをわたしたちは知ってる。
呆れてものも言えないですが胸のなかに沈んでいる思いもあり言わないわけにはいかないことも確かにあるのだと思えてきました。

 

作画解説 さとう三千魚

 

* 朝日新聞 2022年2月18日 一面 新型コロナ感染者数詳細 記事より引用

 

 

 

また旅だより 42

 

尾仲浩二

 
 

どこにも行けず、ずっと家にいる。
しかも六十肩でラジオ体操もまともにできない。
その肩のことで医者に行ったら、どうやら血圧も高目だった。
近頃、知り合いや好きな作家が亡くなったりが続いていて、なんだかなぁと思っていた。
今日は、コロナを知らずにあっちに行ってしまった友人を偲ぶ会があったので、会場のライブハウスのある駅のひと駅前から歩く事にした。
血圧には歩く事がいちばんいいそうだ。

2022年2月5日 立川から日野