尾仲浩二
桜を追って妻と北へ行った。
昨年の四月に泊まった温泉宿の桜が見事だったので早くから予約をしていたのだ。
ところが開花予報はいつまでも蕾のままで半分諦めていた。
それが月曜からの異常な気温で蕾は一気に開き、夜でも半袖で桜を楽しむことができた。
翌日、妻は留守番させた猫をすこし心配しながら東京へ戻った。
そして今日は気候が一転、ひとり凍えながら今年最後の桜を見て歩いた。
2022年4月14日 山形市内にて

真ん中のが、林裕己。左が関智生。一番右が西島一洋。1988年。おそらく、ED LABOへ乗り込む直前だと思う。
80年代半ば、だと思う。
林裕己は、茂登山清文と共に、師勝の僕の自宅にやって来た。
僕は絵描きなので、小さなぼろい家だったが、一応12畳の仕事場、つまり、アトリエがあった。ただ、アトリエとは名ばかりで、ゴミだめのようになって、そのゴミを踏みしだき二人を招き入れた。
林裕己、19歳。今でも、時折会ったりしてはいるが、不思議と、僕の中では、彼は19歳のままだ。初対面のイメージが強すぎて、未だに、19歳。
林裕己は、当時、名古屋芸術大学の学生だった。茂登山清文は僕と同い年で、美術雑誌「裸眼」を共同編集発行するメンバーの一人だった、そして、林裕己が通っている大学の教員でもあった。茂登山清文は、林裕己を僕に引き合わせたかったのだろう。ただし、その当時、茂登山清文はデザイン科に新設の造形実験コースの教員、一方、林裕己は洋画科の学生、つまり茂登山清文の直接の教え子ではない。林裕己が、学科を超えて、突出する存在だったのだろう。僕に林裕己を引き合わせたかった理由は、なんとなく分かった。茂登山清文は、林裕己を、優れた天才のアーティストと見抜いていた。
林裕己は、汚なかった。最近のホームレスは、結構身綺麗な人が多いが、いわゆる昔の乞食のようだった。ズボンは破れ、汗と油でゴテゴテになり、布では無いような準個体となって身体に纏わりついている。眼鏡の片方のレンズが複雑に割れて、それをセロハンテープで繋いである。臭かったかもしれないが、臭かったという記憶は一切ない。おそらく、見かけによらず清潔にしていたのだろう。
初対面。何を話したか忘れてしまったが、とにかく凄いやつだと思った。
数日して、夜中に、玄関の扉をどんど叩くやつがいる。インターホーンがあるのに。まあ、しょうがない、扉を開けると、おどおどとした林裕己が居た。何かあったんだろうと思って、まずは、僕の仕事場に招き入れた。
彼は、訥々と話した。
「怖いんです。下宿に帰るのが怖いんです。きっと、何か居る。怖くて帰れないから、来ました。」と、彼は言った。
本当に、幻覚や幻聴があるのだろうと察した。僕は、この時、何を彼に言ったか覚えていないが、後日というか、随分経ってから、それこそ何十年も経ってから、その時の事を、彼から聞いた記憶がある。
「今が、一番素晴らしい。」と、僕が言ったらしい。
この彼の今の心の状態、つまり幻影も見るほどに落ち込んだ精神の状態の美しさを、僕が愛でたようだ。なんとなく、そういう記憶はある。だいたい、おそらく、ぼんやりとした記憶では、僕は、村山槐多に心酔していた時期があり、デカダンスとか、そんな気風を彼から感じ取っていたのは間違いない。
その後、林裕己は、僕のところによく来るようになった。ような気がする…、というのは、記憶が途切れ途切れで、連続的な記憶として、物語のように書き起こすことができないからだ。したがって、断片的な記憶を、時系列を無視して、書こうと思う。
林裕己のところにも行った。
岩倉の石仏にある元繊維工場の女工達が暮らした木造の極めて古い寮である。この辺り、戦前から戦後にかけて、一宮を中心として、ノコギリ屋根の工場が林立し、日本の毛織物業界の中心地でもあった。戦後に化繊が勃興してからは、毛織物は衰退の一途だった。今もノコギリ屋根の工場跡は、まだ意外とたくさん残っている。女工達の寮も、探せば、まだ残っているかもしれない。
この辺りは、女工哀史の現場でもあったろう、たくさんの女工が全国から集まり、寮生活で過酷な労働を強いられていたのだろう。その女工達が住んでいた寮である。近所の子供達からはお化け屋敷と言われているとのことだった。何部屋もあり、彼以外にも寄宿しているのが数人いたと思う。
なるほど、そこはお化け屋敷といった風貌の建物と佇まいであった。彼は、草の生えた前庭のある四畳半くらいの部屋に住んでいた。前庭に面して古びた彼の自作の木の看板があったように思う。なんとか古道具屋と書いてあったかなあ。でも、人通りがあるわけではない。実際に、古びた木の車輪とか、なんか他にもこちゃこちゃ置いてあったような気がする。何せ、地元の子ども達から、お化け屋敷と言われているくらいの、ほぼ廃屋に近いという建物の風貌である。古道具屋は、ぴったり、といえば、ぴったり。
彼は、つげ義春を愛していた。正確にはつげ義春の作品の情景を愛していたのだろう。僕は今でもつげ義春の作品は好きだ。(つげ義春は、生活苦からだろうが、最近芸術院会員になって年金250万円をもらうようになった。芸術院会員を彼が受諾したことは、若干ガッカリしたが、しょうがない。病身の息子さんの介護もやっているようだ。)
電気は通っていた。彼の小さな部屋には、小さな冷蔵庫があって、そこから人参が芽を出し、ニョキニョキと育って、扉の淵から、茎や葉っぱが飛び出ていた。
風呂は無かったのだろう。名古屋芸大の近くに、西春高校というのがある。深夜、彼は、この高校のプールに、柵を乗り越えて、ここで体を洗っていた。まあ、不法侵入で、犯罪でもある。
彼の制作場は、共同部屋の、12畳か、もっとそれより大きいか、まあ、おそらく女工の寮の時代には、食堂として使っていたのかなあ、暗かった、広いのに40Wの裸電球ひとつという感じだった。共同部屋なのだが、彼がひとり独占していた。
巨大なレリーフがあった、というか、制作中であった。バルサをカッターで1センチ✖️5センチくらいに細かく切り、テーパーを作り、六角形の小さな筒を、たくさんたくさん、作っていく。漆での塗装を施したあと、組んでいく、巨大な蜂の巣作りだ。コツコツとした手作業の集積である。まさしく、自閉的行為。彼はどちらかというと、手先が不器用なのか、カッターで傷だらけになっての作業であった。この作品は、発表されたかどうか記憶にない。でも、凄いよ。本当に鬼気迫るというか凄いの一言に尽きる。
行為と痕跡、そしてその集積だ。
ただ、この巨大な蜂の巣のレリーフは、彼が、この下宿から引っ越す時に、全て、粗大ゴミで捨てたとのこと、これも凄い。命懸けで作り続けた作品を、捨てる。これは、凄いが、僕にはできない。
彼はいつも突然来る。実は当時の僕の家は名古屋芸大から近いのだ。近くにフジパンの工場もある。彼は、フジパンの工場で働いていて、白衣のまま、僕のところに来た。しかも、白衣が真っ黒け。あまりにも汚いので洗濯してあげると言って、洗濯機に放り込んだ。その頃、生まれたばかりの子供の大量のおしめの乾燥をする必要があったので、僕も貧乏だが、乾燥機があって、乾燥機にも放り込んだ。
乾くまでの間、と言いながら朝まで話したっけ、で、何を話したか、良く覚えていないが、彼の昔の作品というか、行為というか、いろいろ聞くことになった。
さて、ようやく、これからが本題かなあ。
というのは、林裕己から、今回彼と彼の家族が共同で発行しているフリーペーパーへの原稿依頼のテーマは、「80年代、90年代のパフォーマンス」ということなのだが、記憶が曖昧で、時系列で書くには難しく、林裕己について書けば、色々、記憶が蘇ってくるのではないかと思って、書き始めた次第。
林裕己は、僕のところに来る前にも色々やっていた。学生らしく、作品ファイルもあって、見せてもらった。これも内容が濃い。門のやつなんか、三丁目伸也とかぶるが、というより混同?…、まあよい、重厚で迫力ある作品の記録だった。
後天性美術結社というのがあった。林君と出会う前だ。
後天性美術結社というのは、中島智、落合竜家、原充諭。名古屋芸大の三人だ。林君とはひとつ違いの上だ。彼らの活動は、ぼんやりとは聞いていた。というのは、中島智が、「シニア研」という読書会に参加しており、僕も一緒だったから、中島智から、いろいろ聞いていた。
後天性美術結社は、名古屋の街頭や地下街などで、一年ほどで約80回の、路上行為を行なった。僕の中で記憶が混同しているかもしれないが、一度だけ見たような気がする。というのは、彼等3人はいたような気がするが、何かやっていたという記憶がない。場所はASGがらんやに続く道で、10数人が移動している。ときおり、止まり、というか止まるほどゆっくりになって、彼等3人以外で、黒い背広を着て裸足の男一人が、緩慢な動きをしながら移動して行く。その男が浜島嘉幸であった。僕の記憶ではおそらく、後天性美術結社が彼を担ぎ出したと思っている。
あと先になると思うが、名古屋芸大美術学部には、ややこしいが美術部というのがあって、部室もある、部費も出る、その当時彼等3人が、この美術クラブの中心メンバーで、その部費を使って、名古屋市博物館を借り、「場の造形」という展覧会を企画して開いていた。出品者は学生だけではなかった。堀尾貞治も参加したりしていた。後天性美術結社は、その狭間で発生したのだと思う。
後天性美術結社は、展覧会も開いている。展覧会名は忘れたが、時計仕掛けのオレンジとかガラスの動物園、という感じの語呂のタイトルだったような気がする。ふと、漬け物という言葉も去来したが、違うか。まあいい、忘れたが、結構印象に残っている。行ってはいない。だから、何も書けない。場所は三重県立美術館だった。大きなポスターも作っていたように思う。
中島智は、当時、国島征二主宰のギャラリーUで個展をした。座布団を十数枚重ね、石膏漬けにし、宙空に、吊り下げられている。白い厚手の綿布でテント小屋のようになってもいた。当時も残る家制度に対する闘いのような強烈な作品であった。美術手帖にも写真入りで取り上げられた。
中島智は、その後、アフリカと沖縄に長い間、滞在して、地元の祭りというか、その精神のありかの研究に入り、帰ってきて、東京で、確か現在、武蔵美と慶應で教鞭をとっている。分厚い本も出版している。
落合竜家は、名古屋芸大の美術学部の教員の鈴木Qと共同でアトリエを借り、制作三昧。原充諭は、今は、エビスアートギャラリーを主宰。
で、何が言いたいかというと、この後天性美術結社を勝手に一人で受け継いだのが林裕己なのだ。例の、場の造形展も引き継いでやっていたようだ。僕が林裕己と出会う前のことである。
林裕己が中心となってやった「場の造形」展の記録ファイルには、彼自身の巨大な絵画の前で裸でモヒカンガリの彼が鎮座していた。彼の話では、この時、博物館の周りに縄を張り巡らしと言うか、縄でぐるっと建物を縛り、それを引っ張る、ということや、エレベーターの中にござとちゃぶ台を持ち込み、そこでお茶を飲むとか、極めつきは、下ネタになってしまうが、会場の中心で、空き缶にウンコをする、という行為、また当時、同時並行して、友人のオートバイの後部座席に乗って、粉洗剤を、町中にばら撒く行為、公衆トイレででの大量な落書き行為、まあ、違法行為でもあるが、ということの話の中に彼がギリギリに追い詰められている精神状態を察した。
関智生。彼は、林裕己の親友である。そして、僕と同じく、林裕己の天才力を認めていた。関智生は、失恋してから抜群に良い作品を描くようになった。そして今も、優れた作品を描き続けている。イギリスの芸大に県費で留学して、三年か四年か滞在、その芸大のスリーA、つまり、最高得点で卒業。このあと書こうと思うが、彼は、体現集団Φアエッタの初期メンバーである。というか、林裕己、関智生、西島一洋の3人で体現集団Φアエッタは誕生した。
僕は、絵は仕事だと思っていたが、行為、というのか、よくゴソゴソしていたが、名称不能行為という感じで、70年代からやってきたが、あまり、仕事という意識は無かった。でも、なんとなく、次の個展のイメージがあって、案というのか、それが、蓑虫割皮、であった。
その当時、紡錘形というイメージがあって、まあ今でもあるんだけど、その紡錘形を内側から切り裂くというのをやろうと思っていた。で、具体的に個展のイメージはあった。「行為と痕跡の連続とその集積」という長ったらしいタイトルで、具体的に何をやるかというと、大量の古新聞が積んであって、まず人が包めるくらいまでの大きさまで糊でくっつける、人を包むのであるから一枚では破れてしまうので、何枚も重ね糊で貼って結構丈夫なものにする、乾燥するのに時間がかかるので、もう一つ、もう一つ、と順番に30ほど作る、で、今度は乾燥したゴテゴテして古新聞で作った物の上に、全裸で寝っ転がり、体をそれで包んで接着する、ここに紡錘形が誕生する、息穴だけは確保する、小刀を一本持ったまま包まれている、そうして、小刀で内側から切り裂いて出てくる、脱ぎ捨てた皮は、床に置く、そうして、それを30回ほど繰り返して、つまり、途中で眠くなったら、殻の中で寝る、トイレと食事のことまでは、あまり考えていなかったが、おそらく行為が何日間にも及び、おそらく一週間、連続した時間の行為になるので、その辺のところも大事だが、なんとかなるだろうとは思っていた、まあ後で考えるとして、というう若干詰めの甘いところもあったが、まあともかく、結果、30ほどの抜け殻が生ずる、それを床に、整然と並べる。まあ、ただ、それだけのアイデアだ。
いつものように、林裕己は突然来た。
そうして、「何か一緒にやりませんか」と言う。
文頭の茂登山清文が、西春にある元銀行の古い木造家屋で、ED LABOというのを立ち上げることになった。
ようやく、体現集団ΦAETTAの始まりの前あたりまでに辿り着いた。
連休を待って集中的に執筆しようと思ったが、集中力が続かない。
遅筆になってしまった。
若い頃は、内容はともかく、いくらでも書き進めれたが、今は、途中で止まってしまう、書き上げてからの推敲ではなく、途中に前のところを何度も読み返し訂正するという作業がやけに多いのだ。
とっくに原稿締め切りを過ぎているから、言い訳はやめよう。
今日からは、一行でも、1時間ずつでもよいから、書いて、少しでも早く、入稿できるように、頑張ります。
で、とりあえず、途中までの原稿送ります。
前に、というか、ついこの間、二ヶ月ほど前かな、浜風文庫に結構長文の原稿を書いて送ろうとしたら、コピーと間違えて、全文削除してしまった。慌てなければ復活の方法もあったのだろうが、あたふたして、何か試しているうちに、完璧に消えてしまった。がっくり。
という経験があるので、それに、いつ死ぬかもしれないし、未完成というより、書きかけの原稿だが、コピペして送ります。
2022年3月6日
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以下メモ1
林裕己の言葉。
「古い事ばかり持ち出すけど大そうじ、大目に見てね。ぼくは西島さんと出会い感激し、関智生君も加わり、体現集団アエッタが始まった。西春に茂頭山氏と教え子達(椿原章代/古橋栄二/福原隆三他)がオープンしたギャラリーにゲリラで乗り込む。アクシデントで自分の足を自分で小刀で切り七針を縫う出血、炭まみれの裸身でホワイトキューブに体当たりを繰り返した。行為中、音や時間が通常の知覚を越えた不思議な感覚の中にいた。少しだけその日のTVニュースにも映ってた。」
以下メモ2
自分のメモ。
アエッタは組織でもなく集団でもない。
◆アエッタの現場の生成に遭遇した人たち◆
(作成中/1988年~2009年現在)
アエッタは行為者とその行為の現場に遭遇した人との区別をしない。場の生成が重要であって、行為者とそれを見ている人たちは同じ地平であると考えている。また遭遇した人たちというのは、自ら意志的に訪れた人もいれば、文字通りたまたま通りかかっただけの人もいるが、同じく同じ地平であると考えている。したがって、名前を把握できない人たちも、つまり通行人や素通りの人たちも、多数いるが、当然のことながらそれは省略する。
林裕己、関智生、草壁史郎、岡本真紀、三浦幸夫、森淳、辻元彦、徳田幹也、 瀬口正樹、近藤はつえ、落合竜家、室田火とし、安井比奈子、原充諭、野中悦子、土井美奈子、竹田英昭、米谷久美子、高木康宏、関原夕子、森有礼、小川由紀子、伊藤光二、黄色原人、松澤宥、水谷勇夫、岩田正人、三頭谷鷹史、鈴木敏春、山田武司、加藤好弘、岩田信市、海上宏美、浜島嘉幸、古橋栄二、水上旬、岡崎豊廣、西島一洋、…さらに続く。
上記の遭遇人たち、これは書き出しのほんの一部で、現在記憶をたよりに可能な限り少しずつ追加作業中である。
また、上記の人たちもどこでいつアエッタに遭遇したか覚えていない人たちもいるかもしれないが、少なくとも僕(西島一洋)は覚えている。
ある行為をする人、そこに訪れた人、そこにたまたま居合わせた人、遠く離れていても交信する人、それらすべての総体によって生成される場の様態のことである。
集団のあとに空集合φを置いているのは、そういう意味である。
共同幻想としての集団の概念は否定しないが、集団であることには一切こだわっていない。
したがって、たった一人の行為の場も成立するし、行為者のいない場も成立する。
ほぼ、日常の生活と言っても過言でない。
φAETTA記録目次へ≫
【体現集団φAETTA(1988-∞)】について 1988年 西島一洋、林裕己、関智生の3名よって創始 アエッタの現場は規定を持たない。 日常そのものが現場にもなりうる。 したがって、記録は作成しているがおのずから十全ではない。 集団の後ろに空集合を置く。 したがって、上記の3名以外のアエッタも当然生成される。 記録には100名を超えるアエッタの生成があるが、組織でもなく集団でもない。 完璧なアナーキーな活動様態である。 「体現」は開かれた表現の領域としてのパフォーマンスアートとは一線を画しており、 むしろ表現という幻想の抑圧から逃れる旅を続けているといった方が適切かもしれない。
朝、起きてみたら、
来ていた。
泉のように水が流れでて止まらない。
くしゃみが、
立て続けにでた。
この2年は、
来なかった。
コロナ禍で家の外ではマスクをしていたからなのだろう。
ティッシュを、
箱ごと抱きしめて鼻のまわりを赤くするあの日々がはじまったのか?
昼前に近所の病院に行ってみた。
受け付けは昼で終了です午後3時に来てくださいと女の事務員は言った。
それで、近くの農家の無人販売所で蜜柑とデカポンを買ってそれからホームセンターに寄り小鳥の餌の剝き実を買った。
本の部屋の窓辺に蜜柑と剥き実を置き小鳥が来るのを待った。
雀が、
来た。
つがいで来た。
いつもこのつがいが来る。
元気な方が餌を啄ばみおとなしい方がおずおずと真似る。
今度はヒヨドリのつがいが来た。
ヒヨドリは雀を追い払い餌を食べ尽くすのだ。
そんな景色を見ていると時間になっていた。
病院に向かう。
病院の受付では風邪気味なのかコロナなのか花粉なのか、問われた。
コロナの可能性がある場合は外のプレハブの診察室で診察するようだ。
花粉か風邪かコロナかわからないから来てみたのだが患者がコロナかどうか問われる。可笑しい。
熱もないし、たぶん、花粉だと思います。
受け付けの女性は安心したのか一般の診察用待合室に通してくれた。
そこには老人たちがいた。
車椅子に乗せられて俯いている老人もいる。
歳を取ると自然とみんな持病を持っているのだ。
持病を持っているから年寄りはコロナで死んで行くのだ。
診察室に呼ばれた。
男性の医師だった。
マスクを外すように言われた。
鼻の奥と喉をペンライトを点けて覗かれた。
鼻の奥の粘膜が腫れているそうだ。
花粉だろうという。
わたしも同意する。
やっと来てくれた。
コロナやデルタやオミクロンを通さないようにしてきたマスクのはずだ。
そのマスクを通して、
花粉はわたしのところにやって来てくれた。
懐かしいバッドボーイにあったように思えた。
やっと来たのか、きみは。
すこしながい2年間だったよ。
鼻水がだらだらと流れ眼玉しょぼしょぼとしてクシャミ連発のあの憂鬱な花粉がこれほどに懐かしいと感じられるのは、
コロナ様のお陰なのだ。
コロナでこの日本では416万1,730人の人が感染し2万989人の人たちが亡くなったのだ。 *
世界では4億1,550万8,449人の人たちが感染し583万8,049人もの人たちが亡くなったのだ。 *
自宅に帰って駐車場で空を見上げた。
西の山のこちら側に雲が盛り上がっていた。
夏の入道雲のような大きさだが雲は灰色に盛り上がり冬の雲だった。
この巨大な雲は冷たい雪の結晶で出来ているのだろう。
灰色の雲の縁から太陽の光が斜めに射して来ていた。
その光の中にわたしたちがいる。
老人たちがいる。
車椅子に乗せられて無言で俯いている者たちがいる。
雀のつがいがいる。
ヒヨドリのつがいがいる。
それはこのひろい宇宙のなかのひとつのいのちということなのだろう。
いのちのひとつひとつが個々に光を灯しているのだろう。
この世界には呆れてものも言えないことがあることをわたしたちは知ってる。
呆れてものも言えないですが胸のなかに沈んでいる思いもあり言わないわけにはいかないことも確かにあるのだと思えてきました。
作画解説 さとう三千魚
* 朝日新聞 2022年2月18日 一面 新型コロナ感染者数詳細 記事より引用
昨年10月に「浜風文庫」に発表された今井義行さんのエッセイ「私的な詩論を試みる」は、私にとってすこぶる刺激的な読み物だった。
→リンク先はこちら
https://beachwind-lib.net/?p=31458
これは今井さんが詩についての考えをまとめた初めての文章だという。私は今井さんと、1980年代の後半に鈴木志郎康さんが講師をつとめる詩の市民講座で知り合った。今井さんの方が私より入るのが少し早かった。そこには川口晴美さんや北爪満喜さんといった、現在でも活躍中の詩人も受講していて、ハイレベルな講義が繰り広げられていた。但し、レベルに合わせて丁寧な指導がなされ、初心者だから居づらいということは一切なかったし、どんな作品も受け止めてもらえた。私は安心して八方破れな作品を好き放題に書いて提出することができたのである。今井さんは、最初はポップソングの歌詞のようなリリカルな調子の詩を書いていた。表面は甘かったが、その底には重い自我が存在しているのが感じられ、「この人はいつか化けるぞ」と思っていた。予想通り、今井さんはある時から斬新なアイディアを詰め込んだ完成度の高い詩を次々と発表するようになり、注目を集めるようになっていった。私は今井さんと「卵座」や「Syllable」といった同人誌で一緒に活動するようになり、現在でも親交を保っている。さとう三千魚さんの「浜風文庫」に、ともにこうして詩や文章を掲載させてもらってもいる。私は詩歴を同じくする今井義行という詩人に対し、強い共感を持っている。また私と今井さんは、互いの詩を読み合って意見の交換をするだけでなく、食事をしたりSNSや電話で雑談し合ったりする、友人同士でもある。
近い関係にある今井義行さんだが、詩に関する考えの全体像を披露してもらったことはなかった。この「私的な詩論を試みる」を読み、「ああ、今井さんという人は詩人としてこういう人だったんだ」と初めて理解したのだった。詩の言葉は人の生き方と密接に関わっている。その結びつきが細かく詳しく書かれている。自身の身に即して率直に綴っているが故に、詩の普遍的な問題に食い込んでいると感じられたのだった。
それでは、今井さんの論考について私が思ったことを、章ごとに綴っていくことにしよう。
「1 始まり」では、本格的に詩に取り組む以前のことが書かれている。今井さんはたまたま買った本で現代詩の言葉のかっこ良さを知ったものの、難しさに参ってしまって、その後積極的に読むということはしなかったようだ。「言葉のかっこ良さ」が胸に刻まれたことは重要なところだ。今井さんは『罪と罰』などの名作小説には興味を持たなかった。ストーリーを読み解くより言葉自体を感覚的に味わう方が好きで、それが詩を書くことにつながっていったのかなと思う。私自身は、現代詩は中学の終わり頃から少しずつ読み始めて、高校の時にはかなりの数の作品を読んでいた。現代音楽も結構聴いていたし、まあ現代アートのオタクだったと言える。私は自分が好きなものには敏感で、同年代の連中がロックや漫画に熱中しているのと同じような感じで現代詩を読んでいた。周囲の中で自分だけが知っているということに軽薄な優越感を抱いていたこともある。今井さんは私のようなオタク気質ではなかったようだ。大学の法学部に入ったが法律は好きでなく、児童文学サークルに入ったが子供が好きでなかったという。今井さんが入った大学は日本有数の難関校である。少年時代の今井さんは頭が良く優秀だったが、趣味よりも一般的な勉強を優先したのだろう。進みたい道の自己決定をすることを避けていた今井さんは、現在、お世話になっている福祉の世界の重要性を知り、若い頃に福祉の勉強をしたら良かったと書いている。私はこうした気づきがあること自体、とてもすばらしいことだと思っている。
「2 『詩作』への入り口」では、詩を書き始めるに至る経緯が書かれている。就職したがそこでも「自分だけのもの」を見出せず、前述の詩の市民講座のパンフレットをたまたま手に取って即受講を決めたそうだ。さて、世の中には「自分だけのもの」をさして重視しない人がいる。ある程度のお金と健康と社交性があれば、世間のシステムに乗っかってそれなりに楽しく過ごすことができる。しかし、自意識が発達した人なら、システムの枠を超えて自分だけの領域を作りたいという欲求をごく自然に抱く。その際、山登りやボランティア活動ではなく、詩作という芸術表現に向かったということは、今井さんが自身の心と対話したい気持ちがあったということだ。詩作というものは、真剣であれば、どんな初心者であっても趣味では終わらない。詩を一編書いたら、詩はその人にとって絶対的な価値を持つものとなる。今井さんにはその覚悟があったのだろう。
「3 現代詩人『鈴木志郎康』氏と創作仲間との出会い」では詩作を始めた頃のことが書かれている。この講座では、まず受講生による合評、次に講師である志郎康さんの講評、が行われる。今井さんは初めての詩作を行った感想を「ビリビリと、わたしの頭の先から足の先まで、電流のようなものが、激しく突き抜けたのである」と述べている。ここで今井さんは生まれて初めて「自分だけのもの」に出会ったのだろう。そして、「毎週『現代詩講座』が終了した後も、みんなで、喫茶店に移動して、その日提出された詩作品について、長い時間、感想を述べ合って、その時間も、とても熱気が籠もっていた」とも書いている。「自分だけのもの」は、合評や講評を通じて、「自分だけのものが他人に伝わる」喜ぶをももたらした。それは更に、喫茶店での二次会を通じて、人と交流する喜びをもたらした。代替の利かない唯一無二の「自分」が、言葉の上で、その読解の上で、人との語らいの上で、躍動することの喜びだ。この喜びは私も味わった。仲間がいるということはすばらしい。「自分だけのもの」は、自分の中で終わらず、豊穣なコミュニケーションを促すということだ。
「4 『詩壇』というものについて」は、今井さんが関わってきた詩の業界について書かれている。今井さんは、商業詩誌を中心として、詩人たちが会社の組織の中でのように、年功序列で位置しているように感じる、と書いている。詩集を作ったが、詩の出版社の大手である思潮社が発行する雑誌『現代詩手帖』での評価が気になったということだ。今井さんはその思潮社から第3詩集を出し、大きな賞の候補になったが受賞を逃した。今井さんは、選考委員長が壇上から受賞詩人に目配せしたのを見て、受賞するためには有名詩人と何らかのコネがなくてはならない、と感じたそうだ。この部分に関し、今井さんは誤解をしていると思う。まずそもそも賞というものは、詩以外のどんな賞でも、賞を受ける側の都合でなく、賞を与える側の都合で存在するものだ。これは全く当たり前のことで、良い悪いの問題ではない。業界を盛り上げたり地域の振興を図ったり自社ブランドを認知させたいといった、主催者側の都合があるのだ。そのためには選出にそれなりの根拠が示せなければならない。コネのようなものが透けて見えるようでは賞の権威は失墜してしまう。
私は、選考委員をつとめた詩人は一生懸命に審査を行っていると思う。その結果、自分と作風が近い人を選んでしまうことがあるのだ。実作者が選考委員になればそういうことは避けられない。私が選考委員をつとめたとして、自分の好みを大きく外れたものを選ぶのは難しい。公正に徹した挙句、自分に近い知り合いの詩人の作品を選ぶことはあるだろうし、その場合、壇上からその人に会釈くらいはするだろう。
ここで詩の業界の作り方を考えてみると、まず現代詩を日々の娯楽として読む人は多くない。従って、詩の出版社が顧客と考えるのは、詩を読む一般の人よりも詩人として認められたい人たちだろう。自社で自費出版をしてくれれば経営は安定する。経営判断として全く健全なことであり、私が経営者だとしてもそうする。誰にでも承認欲求というものはあり、それは詩人でも同じである。詩人として認知されたいという気持ちを満たしてあげるために、誌面を使って詩集の書評や広告を手配したり、雑誌の企画のアンケートの回答者に指名したりする。それが創作の励みになれば良いのである。書いた詩を仲間と読み合った後、より広い範囲で認められたいと願うのは、まあ自然なことだからだ。一般読者は余り詩を読まないから、詩の業界は読者ベースでなく書き手ベースで動いていく。大衆的な人気を得ることでなく、詩を書く人間のコミュニティの中での位置が問題になる。コミュニティが商業詩誌を中心に作られると、そこで評価を得た詩人が権威を持つことになり、賞の選考委員に選ばれることになる。結果として彼らの好みが受賞作の傾向に反映されることになるわけだ。
今井さんは、受賞する詩が「言葉による『オブジェ』」のようだと書いているが、それならそれでいいではないか。受賞は「ある人たちがある判断を下した」結果以外ではないし、それはそれで尊重すべきなのだ。受賞すれば素直に喜べば良いし、落ちたところで他人が下した評価に過ぎないと思えばどうってことはない。詩で最も大切なのは「自分だけのもの」のはずである。本末転倒になるのは馬鹿馬鹿しいことだ。
「5 現代詩講座での『鈴木志郎康』氏による詩の書き方についての指導の行われ方とその後のわたしの現代詩に関わる足跡」では、現代詩講座における鈴木志郎康さんの指導とその後の今井さんの詩の活動について書かれている。
今井さんは志郎康さんの指導をシンプルに「一体、どういう事を言いたがっているのか」と「どのような工夫が必要なのか」の2点にまとめている。まさにその通りだった。「一体、どういう事を言いたがっているのか」は、「自分だけのものを書き手としてどのように自覚しているのか」に、「どのような工夫が必要なのか」は「自分だけのものを他人と共有するにはどうすれば良いか」に、それぞれ言い換えることができるのではないか。今井さんと一緒に受講した私は、志郎康さんの指導の基本は、その人が詩を書くことによってどれだけ「自分だけのもの」を大切にできるか、ということだと理解している。志郎康さんは、詩に製品のような収まりの良さを決して求めなかった。その人が、まさに生きているという感覚を言葉に投入して自己実現を図れるか、を常に問題にした。しばしば見受けられたのは、志郎康さんとの対話によって、八方破れな提出作品がヤスリをかけられて洗練されていくのではなく、それなりに完成度の高かった作品のギザギザが強調されて、八方破れで野趣溢れるものに変貌していくことだった。作品のギザギザの部分、即ち「変わったところ」「おかしなところ」は、その人がその人である所以の部分である。それを自覚させて、とことん先鋭化させようと指導していくのだ。「泣き出してしまう受講者もいた」程の志郎康さんの厳しさは、その人の「自分だけのもの」に対し志郎康さんが当人以上に敏感だったことによる。「自分だけのもの」を追求していると、私たちの言葉の常識から外れることになり、つまり「非常識」を目指すことになり、怖くなってしまう。ここで並々ならぬ精神力が必要なのだ。私がなされた指導で印象に残っていることは、「間接的に書け」ということだった。言いたいことを詩の外にいる作者として書くのでなく、詩の中にいる発話者の口を通して表現せよということ。作者の言いたいことを作者の日常を引きずった意識のまま書くのでなく、作品内の登場人物になりきって書けということだ。日常のしがらみを断ち切ったところに「自分だけのもの」がある。その「自分だけのもの」である世界で見たことを、自分以外の人にも伝わるように、なるべく落とさないように書けとも言われた。その提言は今でも詩を書く度に思い出す。
「6 『現代詩』が盛んに読まれていた時代があったと言う」では、60年代頃の、現代詩が今より読まれていたとされる時代について書かれている。今井さんはそのことを知り合いの元コピーライターの方に言われたという。60年代-70年代前半辺りは、前衛的な芸術、現代詩やアングラ演劇、暗黒舞踏やフリージャズ等が、大衆にそれなりの認知をされていたということは私も聞いたことがある。その頃政治闘争が盛んであり、反体制という姿勢がそれなりの支持をされていて、既存の制度に反抗しようという気運が高まっており、文化面にも反映されたと考えて良いだろうか。この既存の制度に反抗するというスタイル自体が制度化されることにより、反抗というコンセプトが意味を失ってしまい、前衛芸術は衰退していったと言えるだろう。そして今井さんが言うように「現代詩を読む人たちよりも、現代詩を書く人たちの方が多い」状況になっていった。私はこのことはある意味当たり前であって、既存の制度に共同で反抗するという気運が失われたことで、詩本来の「自分だけのものを追求する」という面がぐっと前に出てくるようになり、忙しく毎日を過ごさなくてはならない大衆は他人の内面に本来さほど関心がないことから、詩への興味も薄れてしまったのだと思う。逆に詩人たちはオタク化して興味が専門化され、ますます大衆の理解から遠ざかるようになっていった。前衛芸術が盛り下がっていた80年代に詩を書きたいと思った今井さんが「1個人の、何らかの生活上の出来事から発生する気持ち=素朴な表現意欲を出発点」としたことは、ごく当然のことだと考える。
「7 『詩人』を名乗る事と現代詩の『賞』について」は、4章に引き続き、詩の制度的な問題について書かれている。今井さんは、詩集の出版や詩壇での評価と関係なく、詩を書いていれば詩人と名乗れる、と書いている。至極もっともな意見だ。芸術表現は、生きる権利や生きる自由とともにあり、故に万人のものであって、評価とか業績とかいったこととは無縁のはずである。吉岡実は「詩は万人のものという考えかたがありますが」という問いに対し、「反対です。詩は特定の人のものだ」と答えたが、これは誤った考えだと思う。今井さんは「詩を書く才能」は「詩をどうしても書いてみたい、という動機」に繋がっていくとし、「持って生まれた資質」より上位に置いている。スポーツ選手であれば生来の資質はかなりモノを言うだろう。だが、詩は特殊技能ではない。動機があれば誰でも書くことができ、詩人になれる。繰り返すが、詩は生きる権利とともにあるからだ。言葉の世界で強く生きたいと願って詩を書けば、言葉の運びは拙くても何かしらは伝わるだろう。
こうした個人の詩への欲望に、「『詩の賞』を受賞して、詩人として『それなりの、自分のポジション』を獲得していきたい」というステイタスへの野心が対比される。今井さんは詩の賞の選考委員が「中堅詩人」と「ベテラン詩人」によって占められ、詩の真価とは離れたところで賞が決定されていると感じているようだが、私は前述のように、中には政治的に動いている人もいるかもしれないが、大概の選考委員は公正を心がけて選考していると思う。但し、選考委員の顔ぶれが一定で、毎年同じような傾向の作品が受賞するということはあるかもしれない。実は私も、詩集『ガバッと起きた』を出版した時、幾つかの賞に応募してみるということをしてみた。今までやったことのなかったことだが、このマンガのようなテイストの詩集がどの程度受け入れられるのか試してみたかったのだが、受賞はおろか、候補にもならなかった。私はこの結果に満足した。委員の方々には読んでくれてありがとう、の一言しかない。そして私としては今まで同様「自分だけのもの」を追求していくだけである。「上昇志向=有名詩人になる、という考えを持つ事は、別に非難されるような事ではなく、そのような志向に向かって努力をしている詩人たちを非難するわけではない」と今井さんは書いているが、試験に対する傾向と対策のような意識が生まれ、「自分だけのもの」の追求が疎かになることはあるかもしれないなあとは思う。上昇するなら、自分の内的衝動をずうずうしく押し出すやり方で頑張って欲しい。
「8 わたしから見た現代詩に見られる書法の特徴についてと詩が発表される『媒体』について」は商業詩誌に掲載される詩の傾向と、詩が発表される場について書かれている。
今井さんは現代詩を、書いた人の姿の反映のされ方という視点で5つのタイプに分けて分析する。この分け方はとても独創的で、今井さんの詩に対する見方がよく出ている。「1 作者と詩の中の話者が一致しているか、限りなく距離が近い詩」「2 主に『直喩』から造形化されていて、その中に『人の姿』が見える詩」「3 主に『暗喩』から造形化されているが、その中に『人の姿』が見える詩」「4 主に『暗喩』から造形化されているが、その中に『人の姿』があまり見えない詩」「5 作者と作品中の話者が分離していて、詩の中の話者が作者の想像力によって、自在に動き回れる詩」の5つである。今井さんは書いた人の姿が言葉の中に見えるかどうかを重視している。その人がどういう固有の現実に触れたのか、言葉の中からその痕跡が窺われる詩を良いとしている。ナマの現実が言葉の中の現実にどう飛躍を遂げるのか、飛躍の仕方はいろいろあるにしても、基となるナマの現実が文字通り生々しく他人に伝えられる、そこに表現の本質を見出している。今井さんは「4」が商業詩誌によく見られる詩であるとした上で、「形式を重んじて、作者の意識を投影しようとする意識はあるのかもしれないが、それが、充分にあるいは殆ど投影されずに、詩が形骸化されてしまう危うさを持っている」とやや批判的である。私は、表現が他者に対して開かれたものであるという意識が薄いために、こういうことが起こるのかなと思う。紙媒体の世界では詩壇を軸とする中央集権的な意識が生まれやすい。喩の使い方や意味の飛躍の作り方に一定のモードが生まれ、そのスタイルを使いこなすことが現代詩人として認められる暗黙の条件となる。その枠の中で斬新と呼ばれていても、今を生きている人々にメッセージを伝えていくという点が弱いと、詩人の独白で終わってしまいがちになる。この章では私がツイッターで呟いた「(求められるのは)『現代詩』ではなく『現代の詩』ではないか」という言葉が引用されているが、これは、単なる独白では同時代を生きる人間にインパクトを与えることができないのではないかとの危惧からきたものだ。
今井さんは紙媒体でなくインターネットでの発表の方に希望を持っている。インターネットはボーダーレスであり、未知の読者にランダムに働きかける力を持っている。詩誌や賞における「選ぶ/選ばれる」関係の外にいるので、特定の人間に評価を独占されることがない。
行数の制限がないので長い詩も書ける。お金もかからない。SNSに投稿すれば、シェアしてもらえたり、コメント欄で感想をもらえたりする。もちろんいいことづくめではない。いいね!の数を気にして神経質になったり、誹謗中傷のコメントがきて落ち込んだりすることはあるだろう。それでもコミュニケーションの幅の広さは紙媒体とは比較にならない。今井さんは「作者の手を離れた詩について、参加者、読者同士の間で、その詩について語り合える喜びが次々に生まれていくようになっていくのではないか」とその可能性について肯定的に語っている。インターネットの普及によって、詩もコミュニケーションの一形態なのだという単純な事実が明確に浮かび上がったきたことは特筆すべきことではないかと思う。今井さんは、紙媒体の詩誌とネット詩誌が交流をしてより広い詩人たちの交流ができあがると良いと書いている。これには私も全面的に同意する。紙媒体の詩誌にはしっかりした編集がある。ここはネット詩誌が比較的弱い部分である。紙媒体の詩誌が行う様々な企画は詩に様々な角度から光を当ててその魅力を引き出していく。詩を読み書きしたい人にとって有益な情報や論考の宝庫である。その価値を認めないわけにはいかないだろう。また商業詩誌は様々な評価を行って業界を盛り上げようとする。これは当たり前の話であり、そこから学ぶべきことも多い。それを絶対視するのは良くないが、無視するのもつまらないものだ。テレビ番組でもtwitterやyoutubeの情報に触れることが多くなってきた。紙とネットが交流して互いを補え合えれば、面白い文化が生まれるだろうと思う。
さて、今井さんのエッセイで私なりに気になった点について書いてみたが、今井さんの考えの基本は「自分だけのものを大切にする」ということに尽きる。どの話題に触れていても必ずここに戻ってくる。次に「自分だけのものを他人と共有する」が来る。表現というものは、「表」に「現」していくもの、人に伝えていくものであり、決して独り言ではない。芸術は爆発であって誰にもわからなくていい、みたいな考えは根本のところで間違っているのである。人間は共生する動物であり、伝えたいものがあるから爆発するのである。その爆発の仕方によっては、人にうまく伝わらないことがある。伝え方が悪いか、その人に受け止める準備ができていないか、ということだが、双方に伝えたい意志・受け止めたい意志があれば、何かしら残るものはあるだろう。今井さんの詩に対する考えの基本は共感できることが多い。今井さんとはこれからも詩人として、友人として、つきあっていきたいと改めて思ったのだった。
地下道だ。古いコンクリート壁の割れ目から地下水が滲み出て、ポタリポタリと落ちている。
ポタリポタリというのは、本当の音ではない。犬がワンワン、猫がニャアニャア、蛙がケロケロなど、という常套擬音というわけでもないのだが、ポタリポタリではないことだけは確かだ。音を描写するのは難しい。
ここにしよう。近くの廃屋に寝泊まりし、ここに、七日間、日の出から日没まで、鎮座し、この水の音を筆記しよう。
地下道は、約50mが二本、十文字に交差している。その交差している少し横に、この水の滴りがある。落ちる音は、微かなのだが、わずかに地下道の洞に響いているようにも聞こえる。
水が落ちる落差は、10cmほどだから、ポチャンというより、ポタリという感じだ。音採集行為でもあるのだが、この音を正確に文字で描写することは、難しい。
ただ、僕は、ここにいて、七日間筆記行為を続ける。描写もするが、音を聞きながらの自動筆記である。文字だけでなく、記号や楽譜のようなものや絵のようなものにも変異していく。それは、意図するものでなく、落ち葉が風に吹かれて、落ち葉の溜まりを生じ、風の痕跡というか落ち葉の集積というか、そんな感じである。
地下道の壁からポタリポタリと落ちる水の音。壁に向かって、小さな黒いちゃぶ台を置く。ちゃぶ台の前に一畳ほどのござを敷く。ござの上には直径60cmの鉄球と、七日間座り続ける古い煎餅座布団。
ちゃぶ台の上には、筆記するための巻き紙。障子紙だ、幅35cm長さ20m。今は一本五百円以上もするが、当時は三百円ぐらいだった。和紙なので丈夫い。濡れても破れない。七日間の間に巻き紙何本書いたか記憶にない。おそらく、数本だと思う。
筆記具は、ペンテルの筆ペン、一応顔料インクとしたが、途中でインクが無くなってしまって、水で薄めて使った記憶がある。文房具屋に顔料インクのスペアを買いに行った記憶もある。ここの場所ではないが、雨の日は筆ペンは無理なので、油性ボールペンで筆記した時もある。ここは、地下道だから雨が降っても大丈夫。
1日目。
日の出より、水がポタリポタリと落ちている地下道の壁に向かって鎮座する。
上記の通り、鉄球とござとちゃぶ台と筆記具。これらは、ここから徒歩30分くらい離れた寝泊まりしている廃屋から、キャリーで毎日引っ張って運んでくる。そして、この地下道の、この水の落ちる場所に設置する。行為は日没まで続け、これらの道具類は、その日の行為後、片付けて、またねぐらまで持ち帰る。
そして、水の落ちる音を聞き、連綿と、巻き紙に書き続ける。草野心平の蛙の声の筆記とはちょっと違うが、まあ似たようなもんだ。違うところは、この水の音、音ばかり記述するにはあまりにも単調で、情景描写も筆記することになる。
日の出頃、つまり、この日の行為の始める頃、この地下道にお爺さんがやってきた。このお爺さんと最初何を会話したかは忘れた。このお爺さんは、毎日、早朝家を出て、この辺あたりを掃除しているとのこと。奉仕活動というか、ボランティアというか、まあ、お爺さんが勝手に毎日、毎朝掃除しているのだ。
彼が箒とちりとりは持っていた記憶はあるが、ゴミ袋の記憶はない。なんでだろう。
まあ、ともかく、このお爺さんと、毎朝、七日間、会うことになった。僕は、壁に向かって鎮座しているだけなので、しかも横に鉄球が置いてあるし、変人だろうと思われたかもしれないが、お爺さんは、気さくに僕に声をかけてくれてた。
「何やってるんですか?」とお爺さんは僕に問いかけた。僕は、ことの仔細を丁寧に答えた。お爺さんは、不思議とすぐに理解してくれて、「頑張ってください。」というエールまで貰った。
朝夕の通勤通学時間になると、普段ひとけのない地下道がこの時だけはわずかに賑やかだ。僕の後ろを、何人もの人が通り過ぎて行く。子供達は、屈託ないので、寄ってくる。「トトロを描いて」というので、分からんけどこんなもんだろうとさっさっさと描いた。鉄人28号は子供の頃から描き慣れているので、これもついでに描いた。
2日目。
お爺さんは今日も来た。みかんを三個ほどくれた。嬉しかった。
3日目。
お爺さんは、自分を描いて欲しい、と言うので、描いてあげた。巻き紙のその部分を破ってあげた。この日も、何か忘れたけどお爺さんからの差し入れがあった。
4日目。
お爺さんが、お爺さんの奥さんに、僕が描いたお爺さんの絵を見せたら、奥さんが「これをタダで貰ってきてはいけないよ。」ということで、今日、お爺さんは僕に三千円渡そうとする。僕は、「そういうつもりで描いたのではないので、受け取れない。」というと、がっくりとした顔をしていた。帰ったら、奥さんに叱られるのかもしれない、受け取っておいた方が良かったかなあと、あとで少し後悔する。
5日目。
お爺さんは、今日も一緒だった。お金は受け取れないという僕のことを気遣って、飴玉を一袋持って来た。しょうがない、ありがたく頂いた。
6日目。
お爺さんは、今日も、何かを持って来た。バナナだったかなあ。記憶は曖昧だが、とにかく、毎日の差し入れ。
7日目。
この場では、最後の日、お爺さんは、やっぱり何か持って来た。
僕は、お爺さんが帰ったあと、お爺さんのことを思って、裸になり、ふんどしを締め、鉄球を地下道の中、サラシで引っ張ってゴロゴロ転がした。その反響音は、地下道にこだました。
水は静かに、ポタリポタリと落ちていた。
わたしの本のある部屋の窓の外には手摺りがあり、
そこに板を渡して固定してその上にチーズケーキの入っていた白い陶器の入れ物を置き、粟(あわ)、稗(ひえ)、黍(きび)などの剥き実を入れてあげて障子を閉めると雀がやってくる。
雀はいつも二羽で、
兄妹なのか恋人なのか夫婦か、わからない。
窓の内側には障子があるから、
二羽は、障子に影絵としてあらわれる。
まだ警戒している影絵は餌のそばにきてしばらくは動かないでじっとしている。
それから、怖がりでない方から餌に近づいて陶器からこぼれた餌を啄ばみそれから陶器の中に首を突っ込んで餌を頬張っている。
音を立てると逃げてしまうから、
わたしは障子のすぐこちらでじっと影絵のふたりの様子を見ている。
そこには、
ほんわりとした陽だまりがありふたりの生きるよろこびがあるように思われて、うれしくなる。
今日は午後から「ユアンドアイの会」の詩人たちとzoomで詩の合評会をしていた。
その間もふたりは窓辺でちょこちょこと動きまわっていた。
わたしは「犬儒派の牧歌」という浜風文庫に公開している詩で皆さんの講評をいただいた。
辻 和人さんが「さとうさんの詩は、ミニマルアートみたいに抒情をブツ切りにする詩ですね。」と言ってくれた。
うれしくなってしまった。
そうか、
わたしの詩は「抒情をブツ切りにする」のか。
「抒情をブツ切りにする」と残るのは骨片のようなものだろう。
骨片を拾う。
桑原正彦が4月に亡くなった。
そのことをギャラリストの小山登美夫さんから教えていただいた。
わたしはそれから身動きができなくなってしまった。
なにも、手がつかなかった。
わたしの詩集に桑原正彦の絵を掲載させてもらっている。
詩集には桑原の絵をずっと使わせてもらおうと思っていたから桑原正彦がこの世にいなくなってしまったということは受け入れられなかった。
桑原正彦が、
わたしの母のために絵を描いてくれたことがあった。
わたしの母はALSという筋肉が動かなくなる病気でわたしの姉の家で闘病していたのだった。
その母のために桑原はわたしが渡した母の写真を見て絵を描いてくれた。
わたしの神田の事務所に桑原正彦が絵を持ってきてくれた。
桑原はアトリエからほとんど外に出ないし誰にも会わないと知っていた。
その桑原がわたしの神田の事務所の応接間にきてくれた。
いまはもういない母の部屋の漆喰の壁にその絵はいまも掛かっていてわたしの姉の宝物となっている。
ここのところわたしはわたしを支えてくれた人たちを失っている。
中村さん、渡辺さん、父、母、義兄、兄、桑原正彦を失ってしまった。
最近では、家人や、犬のモコや、浜辺や、磯ヒヨドリ、西の山、羽黒蜻蛉や金木犀、姫林檎の木、雀のふたり、それと荒井くんや市原さんなどがわたしの友だちとなってくれている。
「浜風文庫」に寄稿してくれる作家たちと「ユアンドアイ」の詩人たちもわたしには大切だ。
詩や写真や絵や音楽を大切なものとして生の根底で共有できる人たちだ。
経済的なメリットからほど遠いが互いの生を理解して尊重できる人たちだからだ。
ここのところ新聞の一面には「国交省、自ら統計書き換え」* 、「赤木さん自死 国が賠償認める」* 、「森友改ざん 遺族側、幕引き批判」* 、「三菱電機製 重大な不具合 非常用発電機 1200台改修へ」* 、「アベノマスク年度内廃棄」* 、「日立系、車部品検査で不正 架空記載や書き換え」* などなど、この国の官民が不正を行っていることが露見しているようだ。
新聞記事に現れるのはごく一部なのだろう。
コストや人を極限まで削り下落させ成り上がる。
世界の経済は自己利益を優先することで回っているのだ。
格差が金を生む。
日本だけでなく世界の人々を自己利益の渦に巻き込みながらこれからも進んで行くだろう。
近代以降の資本主義の終着駅を過ぎ去るのだ。
窓辺には、二羽の雀がくる。
そこには、
ほんわりとした陽だまりがあり影絵のふたりの生きるよろこびがあるように思われて、わたしはふふんとうれしくなる。
この世界には呆れてものも言えないことがあることをわたしたちは知ってる。
呆れてものも言えないのですが胸のなかに沈んでいる思いもあり言わないわけにはいかないことも確かにあるのだとわたしには思えてきました。
良い年を迎えましょう。
作画解説 さとう三千魚
* 朝日新聞、2021年12月16日、21日、22日、23日、一面見出しより引用しました。