また旅だより 42

 

尾仲浩二

 
 

どこにも行けず、ずっと家にいる。
しかも六十肩でラジオ体操もまともにできない。
その肩のことで医者に行ったら、どうやら血圧も高目だった。
近頃、知り合いや好きな作家が亡くなったりが続いていて、なんだかなぁと思っていた。
今日は、コロナを知らずにあっちに行ってしまった友人を偲ぶ会があったので、会場のライブハウスのある駅のひと駅前から歩く事にした。
血圧には歩く事がいちばんいいそうだ。

2022年2月5日 立川から日野

 

 

 

 

「自分だけのもの」を大切にする

今井義行エッセイ「私的な詩論を試みる」を読む

 

辻 和人

 
 

昨年10月に「浜風文庫」に発表された今井義行さんのエッセイ「私的な詩論を試みる」は、私にとってすこぶる刺激的な読み物だった。

→リンク先はこちら
https://beachwind-lib.net/?p=31458

これは今井さんが詩についての考えをまとめた初めての文章だという。私は今井さんと、1980年代の後半に鈴木志郎康さんが講師をつとめる詩の市民講座で知り合った。今井さんの方が私より入るのが少し早かった。そこには川口晴美さんや北爪満喜さんといった、現在でも活躍中の詩人も受講していて、ハイレベルな講義が繰り広げられていた。但し、レベルに合わせて丁寧な指導がなされ、初心者だから居づらいということは一切なかったし、どんな作品も受け止めてもらえた。私は安心して八方破れな作品を好き放題に書いて提出することができたのである。今井さんは、最初はポップソングの歌詞のようなリリカルな調子の詩を書いていた。表面は甘かったが、その底には重い自我が存在しているのが感じられ、「この人はいつか化けるぞ」と思っていた。予想通り、今井さんはある時から斬新なアイディアを詰め込んだ完成度の高い詩を次々と発表するようになり、注目を集めるようになっていった。私は今井さんと「卵座」や「Syllable」といった同人誌で一緒に活動するようになり、現在でも親交を保っている。さとう三千魚さんの「浜風文庫」に、ともにこうして詩や文章を掲載させてもらってもいる。私は詩歴を同じくする今井義行という詩人に対し、強い共感を持っている。また私と今井さんは、互いの詩を読み合って意見の交換をするだけでなく、食事をしたりSNSや電話で雑談し合ったりする、友人同士でもある。
近い関係にある今井義行さんだが、詩に関する考えの全体像を披露してもらったことはなかった。この「私的な詩論を試みる」を読み、「ああ、今井さんという人は詩人としてこういう人だったんだ」と初めて理解したのだった。詩の言葉は人の生き方と密接に関わっている。その結びつきが細かく詳しく書かれている。自身の身に即して率直に綴っているが故に、詩の普遍的な問題に食い込んでいると感じられたのだった。

それでは、今井さんの論考について私が思ったことを、章ごとに綴っていくことにしよう。

「1 始まり」では、本格的に詩に取り組む以前のことが書かれている。今井さんはたまたま買った本で現代詩の言葉のかっこ良さを知ったものの、難しさに参ってしまって、その後積極的に読むということはしなかったようだ。「言葉のかっこ良さ」が胸に刻まれたことは重要なところだ。今井さんは『罪と罰』などの名作小説には興味を持たなかった。ストーリーを読み解くより言葉自体を感覚的に味わう方が好きで、それが詩を書くことにつながっていったのかなと思う。私自身は、現代詩は中学の終わり頃から少しずつ読み始めて、高校の時にはかなりの数の作品を読んでいた。現代音楽も結構聴いていたし、まあ現代アートのオタクだったと言える。私は自分が好きなものには敏感で、同年代の連中がロックや漫画に熱中しているのと同じような感じで現代詩を読んでいた。周囲の中で自分だけが知っているということに軽薄な優越感を抱いていたこともある。今井さんは私のようなオタク気質ではなかったようだ。大学の法学部に入ったが法律は好きでなく、児童文学サークルに入ったが子供が好きでなかったという。今井さんが入った大学は日本有数の難関校である。少年時代の今井さんは頭が良く優秀だったが、趣味よりも一般的な勉強を優先したのだろう。進みたい道の自己決定をすることを避けていた今井さんは、現在、お世話になっている福祉の世界の重要性を知り、若い頃に福祉の勉強をしたら良かったと書いている。私はこうした気づきがあること自体、とてもすばらしいことだと思っている。

「2 『詩作』への入り口」では、詩を書き始めるに至る経緯が書かれている。就職したがそこでも「自分だけのもの」を見出せず、前述の詩の市民講座のパンフレットをたまたま手に取って即受講を決めたそうだ。さて、世の中には「自分だけのもの」をさして重視しない人がいる。ある程度のお金と健康と社交性があれば、世間のシステムに乗っかってそれなりに楽しく過ごすことができる。しかし、自意識が発達した人なら、システムの枠を超えて自分だけの領域を作りたいという欲求をごく自然に抱く。その際、山登りやボランティア活動ではなく、詩作という芸術表現に向かったということは、今井さんが自身の心と対話したい気持ちがあったということだ。詩作というものは、真剣であれば、どんな初心者であっても趣味では終わらない。詩を一編書いたら、詩はその人にとって絶対的な価値を持つものとなる。今井さんにはその覚悟があったのだろう。

「3 現代詩人『鈴木志郎康』氏と創作仲間との出会い」では詩作を始めた頃のことが書かれている。この講座では、まず受講生による合評、次に講師である志郎康さんの講評、が行われる。今井さんは初めての詩作を行った感想を「ビリビリと、わたしの頭の先から足の先まで、電流のようなものが、激しく突き抜けたのである」と述べている。ここで今井さんは生まれて初めて「自分だけのもの」に出会ったのだろう。そして、「毎週『現代詩講座』が終了した後も、みんなで、喫茶店に移動して、その日提出された詩作品について、長い時間、感想を述べ合って、その時間も、とても熱気が籠もっていた」とも書いている。「自分だけのもの」は、合評や講評を通じて、「自分だけのものが他人に伝わる」喜ぶをももたらした。それは更に、喫茶店での二次会を通じて、人と交流する喜びをもたらした。代替の利かない唯一無二の「自分」が、言葉の上で、その読解の上で、人との語らいの上で、躍動することの喜びだ。この喜びは私も味わった。仲間がいるということはすばらしい。「自分だけのもの」は、自分の中で終わらず、豊穣なコミュニケーションを促すということだ。

「4 『詩壇』というものについて」は、今井さんが関わってきた詩の業界について書かれている。今井さんは、商業詩誌を中心として、詩人たちが会社の組織の中でのように、年功序列で位置しているように感じる、と書いている。詩集を作ったが、詩の出版社の大手である思潮社が発行する雑誌『現代詩手帖』での評価が気になったということだ。今井さんはその思潮社から第3詩集を出し、大きな賞の候補になったが受賞を逃した。今井さんは、選考委員長が壇上から受賞詩人に目配せしたのを見て、受賞するためには有名詩人と何らかのコネがなくてはならない、と感じたそうだ。この部分に関し、今井さんは誤解をしていると思う。まずそもそも賞というものは、詩以外のどんな賞でも、賞を受ける側の都合でなく、賞を与える側の都合で存在するものだ。これは全く当たり前のことで、良い悪いの問題ではない。業界を盛り上げたり地域の振興を図ったり自社ブランドを認知させたいといった、主催者側の都合があるのだ。そのためには選出にそれなりの根拠が示せなければならない。コネのようなものが透けて見えるようでは賞の権威は失墜してしまう。
私は、選考委員をつとめた詩人は一生懸命に審査を行っていると思う。その結果、自分と作風が近い人を選んでしまうことがあるのだ。実作者が選考委員になればそういうことは避けられない。私が選考委員をつとめたとして、自分の好みを大きく外れたものを選ぶのは難しい。公正に徹した挙句、自分に近い知り合いの詩人の作品を選ぶことはあるだろうし、その場合、壇上からその人に会釈くらいはするだろう。
ここで詩の業界の作り方を考えてみると、まず現代詩を日々の娯楽として読む人は多くない。従って、詩の出版社が顧客と考えるのは、詩を読む一般の人よりも詩人として認められたい人たちだろう。自社で自費出版をしてくれれば経営は安定する。経営判断として全く健全なことであり、私が経営者だとしてもそうする。誰にでも承認欲求というものはあり、それは詩人でも同じである。詩人として認知されたいという気持ちを満たしてあげるために、誌面を使って詩集の書評や広告を手配したり、雑誌の企画のアンケートの回答者に指名したりする。それが創作の励みになれば良いのである。書いた詩を仲間と読み合った後、より広い範囲で認められたいと願うのは、まあ自然なことだからだ。一般読者は余り詩を読まないから、詩の業界は読者ベースでなく書き手ベースで動いていく。大衆的な人気を得ることでなく、詩を書く人間のコミュニティの中での位置が問題になる。コミュニティが商業詩誌を中心に作られると、そこで評価を得た詩人が権威を持つことになり、賞の選考委員に選ばれることになる。結果として彼らの好みが受賞作の傾向に反映されることになるわけだ。
今井さんは、受賞する詩が「言葉による『オブジェ』」のようだと書いているが、それならそれでいいではないか。受賞は「ある人たちがある判断を下した」結果以外ではないし、それはそれで尊重すべきなのだ。受賞すれば素直に喜べば良いし、落ちたところで他人が下した評価に過ぎないと思えばどうってことはない。詩で最も大切なのは「自分だけのもの」のはずである。本末転倒になるのは馬鹿馬鹿しいことだ。

「5 現代詩講座での『鈴木志郎康』氏による詩の書き方についての指導の行われ方とその後のわたしの現代詩に関わる足跡」では、現代詩講座における鈴木志郎康さんの指導とその後の今井さんの詩の活動について書かれている。
今井さんは志郎康さんの指導をシンプルに「一体、どういう事を言いたがっているのか」と「どのような工夫が必要なのか」の2点にまとめている。まさにその通りだった。「一体、どういう事を言いたがっているのか」は、「自分だけのものを書き手としてどのように自覚しているのか」に、「どのような工夫が必要なのか」は「自分だけのものを他人と共有するにはどうすれば良いか」に、それぞれ言い換えることができるのではないか。今井さんと一緒に受講した私は、志郎康さんの指導の基本は、その人が詩を書くことによってどれだけ「自分だけのもの」を大切にできるか、ということだと理解している。志郎康さんは、詩に製品のような収まりの良さを決して求めなかった。その人が、まさに生きているという感覚を言葉に投入して自己実現を図れるか、を常に問題にした。しばしば見受けられたのは、志郎康さんとの対話によって、八方破れな提出作品がヤスリをかけられて洗練されていくのではなく、それなりに完成度の高かった作品のギザギザが強調されて、八方破れで野趣溢れるものに変貌していくことだった。作品のギザギザの部分、即ち「変わったところ」「おかしなところ」は、その人がその人である所以の部分である。それを自覚させて、とことん先鋭化させようと指導していくのだ。「泣き出してしまう受講者もいた」程の志郎康さんの厳しさは、その人の「自分だけのもの」に対し志郎康さんが当人以上に敏感だったことによる。「自分だけのもの」を追求していると、私たちの言葉の常識から外れることになり、つまり「非常識」を目指すことになり、怖くなってしまう。ここで並々ならぬ精神力が必要なのだ。私がなされた指導で印象に残っていることは、「間接的に書け」ということだった。言いたいことを詩の外にいる作者として書くのでなく、詩の中にいる発話者の口を通して表現せよということ。作者の言いたいことを作者の日常を引きずった意識のまま書くのでなく、作品内の登場人物になりきって書けということだ。日常のしがらみを断ち切ったところに「自分だけのもの」がある。その「自分だけのもの」である世界で見たことを、自分以外の人にも伝わるように、なるべく落とさないように書けとも言われた。その提言は今でも詩を書く度に思い出す。

「6 『現代詩』が盛んに読まれていた時代があったと言う」では、60年代頃の、現代詩が今より読まれていたとされる時代について書かれている。今井さんはそのことを知り合いの元コピーライターの方に言われたという。60年代-70年代前半辺りは、前衛的な芸術、現代詩やアングラ演劇、暗黒舞踏やフリージャズ等が、大衆にそれなりの認知をされていたということは私も聞いたことがある。その頃政治闘争が盛んであり、反体制という姿勢がそれなりの支持をされていて、既存の制度に反抗しようという気運が高まっており、文化面にも反映されたと考えて良いだろうか。この既存の制度に反抗するというスタイル自体が制度化されることにより、反抗というコンセプトが意味を失ってしまい、前衛芸術は衰退していったと言えるだろう。そして今井さんが言うように「現代詩を読む人たちよりも、現代詩を書く人たちの方が多い」状況になっていった。私はこのことはある意味当たり前であって、既存の制度に共同で反抗するという気運が失われたことで、詩本来の「自分だけのものを追求する」という面がぐっと前に出てくるようになり、忙しく毎日を過ごさなくてはならない大衆は他人の内面に本来さほど関心がないことから、詩への興味も薄れてしまったのだと思う。逆に詩人たちはオタク化して興味が専門化され、ますます大衆の理解から遠ざかるようになっていった。前衛芸術が盛り下がっていた80年代に詩を書きたいと思った今井さんが「1個人の、何らかの生活上の出来事から発生する気持ち=素朴な表現意欲を出発点」としたことは、ごく当然のことだと考える。

「7 『詩人』を名乗る事と現代詩の『賞』について」は、4章に引き続き、詩の制度的な問題について書かれている。今井さんは、詩集の出版や詩壇での評価と関係なく、詩を書いていれば詩人と名乗れる、と書いている。至極もっともな意見だ。芸術表現は、生きる権利や生きる自由とともにあり、故に万人のものであって、評価とか業績とかいったこととは無縁のはずである。吉岡実は「詩は万人のものという考えかたがありますが」という問いに対し、「反対です。詩は特定の人のものだ」と答えたが、これは誤った考えだと思う。今井さんは「詩を書く才能」は「詩をどうしても書いてみたい、という動機」に繋がっていくとし、「持って生まれた資質」より上位に置いている。スポーツ選手であれば生来の資質はかなりモノを言うだろう。だが、詩は特殊技能ではない。動機があれば誰でも書くことができ、詩人になれる。繰り返すが、詩は生きる権利とともにあるからだ。言葉の世界で強く生きたいと願って詩を書けば、言葉の運びは拙くても何かしらは伝わるだろう。
こうした個人の詩への欲望に、「『詩の賞』を受賞して、詩人として『それなりの、自分のポジション』を獲得していきたい」というステイタスへの野心が対比される。今井さんは詩の賞の選考委員が「中堅詩人」と「ベテラン詩人」によって占められ、詩の真価とは離れたところで賞が決定されていると感じているようだが、私は前述のように、中には政治的に動いている人もいるかもしれないが、大概の選考委員は公正を心がけて選考していると思う。但し、選考委員の顔ぶれが一定で、毎年同じような傾向の作品が受賞するということはあるかもしれない。実は私も、詩集『ガバッと起きた』を出版した時、幾つかの賞に応募してみるということをしてみた。今までやったことのなかったことだが、このマンガのようなテイストの詩集がどの程度受け入れられるのか試してみたかったのだが、受賞はおろか、候補にもならなかった。私はこの結果に満足した。委員の方々には読んでくれてありがとう、の一言しかない。そして私としては今まで同様「自分だけのもの」を追求していくだけである。「上昇志向=有名詩人になる、という考えを持つ事は、別に非難されるような事ではなく、そのような志向に向かって努力をしている詩人たちを非難するわけではない」と今井さんは書いているが、試験に対する傾向と対策のような意識が生まれ、「自分だけのもの」の追求が疎かになることはあるかもしれないなあとは思う。上昇するなら、自分の内的衝動をずうずうしく押し出すやり方で頑張って欲しい。

「8 わたしから見た現代詩に見られる書法の特徴についてと詩が発表される『媒体』について」は商業詩誌に掲載される詩の傾向と、詩が発表される場について書かれている。
今井さんは現代詩を、書いた人の姿の反映のされ方という視点で5つのタイプに分けて分析する。この分け方はとても独創的で、今井さんの詩に対する見方がよく出ている。「1 作者と詩の中の話者が一致しているか、限りなく距離が近い詩」「2 主に『直喩』から造形化されていて、その中に『人の姿』が見える詩」「3 主に『暗喩』から造形化されているが、その中に『人の姿』が見える詩」「4 主に『暗喩』から造形化されているが、その中に『人の姿』があまり見えない詩」「5 作者と作品中の話者が分離していて、詩の中の話者が作者の想像力によって、自在に動き回れる詩」の5つである。今井さんは書いた人の姿が言葉の中に見えるかどうかを重視している。その人がどういう固有の現実に触れたのか、言葉の中からその痕跡が窺われる詩を良いとしている。ナマの現実が言葉の中の現実にどう飛躍を遂げるのか、飛躍の仕方はいろいろあるにしても、基となるナマの現実が文字通り生々しく他人に伝えられる、そこに表現の本質を見出している。今井さんは「4」が商業詩誌によく見られる詩であるとした上で、「形式を重んじて、作者の意識を投影しようとする意識はあるのかもしれないが、それが、充分にあるいは殆ど投影されずに、詩が形骸化されてしまう危うさを持っている」とやや批判的である。私は、表現が他者に対して開かれたものであるという意識が薄いために、こういうことが起こるのかなと思う。紙媒体の世界では詩壇を軸とする中央集権的な意識が生まれやすい。喩の使い方や意味の飛躍の作り方に一定のモードが生まれ、そのスタイルを使いこなすことが現代詩人として認められる暗黙の条件となる。その枠の中で斬新と呼ばれていても、今を生きている人々にメッセージを伝えていくという点が弱いと、詩人の独白で終わってしまいがちになる。この章では私がツイッターで呟いた「(求められるのは)『現代詩』ではなく『現代の詩』ではないか」という言葉が引用されているが、これは、単なる独白では同時代を生きる人間にインパクトを与えることができないのではないかとの危惧からきたものだ。
今井さんは紙媒体でなくインターネットでの発表の方に希望を持っている。インターネットはボーダーレスであり、未知の読者にランダムに働きかける力を持っている。詩誌や賞における「選ぶ/選ばれる」関係の外にいるので、特定の人間に評価を独占されることがない。
行数の制限がないので長い詩も書ける。お金もかからない。SNSに投稿すれば、シェアしてもらえたり、コメント欄で感想をもらえたりする。もちろんいいことづくめではない。いいね!の数を気にして神経質になったり、誹謗中傷のコメントがきて落ち込んだりすることはあるだろう。それでもコミュニケーションの幅の広さは紙媒体とは比較にならない。今井さんは「作者の手を離れた詩について、参加者、読者同士の間で、その詩について語り合える喜びが次々に生まれていくようになっていくのではないか」とその可能性について肯定的に語っている。インターネットの普及によって、詩もコミュニケーションの一形態なのだという単純な事実が明確に浮かび上がったきたことは特筆すべきことではないかと思う。今井さんは、紙媒体の詩誌とネット詩誌が交流をしてより広い詩人たちの交流ができあがると良いと書いている。これには私も全面的に同意する。紙媒体の詩誌にはしっかりした編集がある。ここはネット詩誌が比較的弱い部分である。紙媒体の詩誌が行う様々な企画は詩に様々な角度から光を当ててその魅力を引き出していく。詩を読み書きしたい人にとって有益な情報や論考の宝庫である。その価値を認めないわけにはいかないだろう。また商業詩誌は様々な評価を行って業界を盛り上げようとする。これは当たり前の話であり、そこから学ぶべきことも多い。それを絶対視するのは良くないが、無視するのもつまらないものだ。テレビ番組でもtwitterやyoutubeの情報に触れることが多くなってきた。紙とネットが交流して互いを補え合えれば、面白い文化が生まれるだろうと思う。

さて、今井さんのエッセイで私なりに気になった点について書いてみたが、今井さんの考えの基本は「自分だけのものを大切にする」ということに尽きる。どの話題に触れていても必ずここに戻ってくる。次に「自分だけのものを他人と共有する」が来る。表現というものは、「表」に「現」していくもの、人に伝えていくものであり、決して独り言ではない。芸術は爆発であって誰にもわからなくていい、みたいな考えは根本のところで間違っているのである。人間は共生する動物であり、伝えたいものがあるから爆発するのである。その爆発の仕方によっては、人にうまく伝わらないことがある。伝え方が悪いか、その人に受け止める準備ができていないか、ということだが、双方に伝えたい意志・受け止めたい意志があれば、何かしら残るものはあるだろう。今井さんの詩に対する考えの基本は共感できることが多い。今井さんとはこれからも詩人として、友人として、つきあっていきたいと改めて思ったのだった。

 

 

 

夢素描 21

 

西島一洋

 
 

水の音

 

地下道だ。古いコンクリート壁の割れ目から地下水が滲み出て、ポタリポタリと落ちている。

ポタリポタリというのは、本当の音ではない。犬がワンワン、猫がニャアニャア、蛙がケロケロなど、という常套擬音というわけでもないのだが、ポタリポタリではないことだけは確かだ。音を描写するのは難しい。

ここにしよう。近くの廃屋に寝泊まりし、ここに、七日間、日の出から日没まで、鎮座し、この水の音を筆記しよう。

地下道は、約50mが二本、十文字に交差している。その交差している少し横に、この水の滴りがある。落ちる音は、微かなのだが、わずかに地下道の洞に響いているようにも聞こえる。

水が落ちる落差は、10cmほどだから、ポチャンというより、ポタリという感じだ。音採集行為でもあるのだが、この音を正確に文字で描写することは、難しい。

ただ、僕は、ここにいて、七日間筆記行為を続ける。描写もするが、音を聞きながらの自動筆記である。文字だけでなく、記号や楽譜のようなものや絵のようなものにも変異していく。それは、意図するものでなく、落ち葉が風に吹かれて、落ち葉の溜まりを生じ、風の痕跡というか落ち葉の集積というか、そんな感じである。

地下道の壁からポタリポタリと落ちる水の音。壁に向かって、小さな黒いちゃぶ台を置く。ちゃぶ台の前に一畳ほどのござを敷く。ござの上には直径60cmの鉄球と、七日間座り続ける古い煎餅座布団。

ちゃぶ台の上には、筆記するための巻き紙。障子紙だ、幅35cm長さ20m。今は一本五百円以上もするが、当時は三百円ぐらいだった。和紙なので丈夫い。濡れても破れない。七日間の間に巻き紙何本書いたか記憶にない。おそらく、数本だと思う。

筆記具は、ペンテルの筆ペン、一応顔料インクとしたが、途中でインクが無くなってしまって、水で薄めて使った記憶がある。文房具屋に顔料インクのスペアを買いに行った記憶もある。ここの場所ではないが、雨の日は筆ペンは無理なので、油性ボールペンで筆記した時もある。ここは、地下道だから雨が降っても大丈夫。

1日目。

日の出より、水がポタリポタリと落ちている地下道の壁に向かって鎮座する。

上記の通り、鉄球とござとちゃぶ台と筆記具。これらは、ここから徒歩30分くらい離れた寝泊まりしている廃屋から、キャリーで毎日引っ張って運んでくる。そして、この地下道の、この水の落ちる場所に設置する。行為は日没まで続け、これらの道具類は、その日の行為後、片付けて、またねぐらまで持ち帰る。

そして、水の落ちる音を聞き、連綿と、巻き紙に書き続ける。草野心平の蛙の声の筆記とはちょっと違うが、まあ似たようなもんだ。違うところは、この水の音、音ばかり記述するにはあまりにも単調で、情景描写も筆記することになる。

日の出頃、つまり、この日の行為の始める頃、この地下道にお爺さんがやってきた。このお爺さんと最初何を会話したかは忘れた。このお爺さんは、毎日、早朝家を出て、この辺あたりを掃除しているとのこと。奉仕活動というか、ボランティアというか、まあ、お爺さんが勝手に毎日、毎朝掃除しているのだ。

彼が箒とちりとりは持っていた記憶はあるが、ゴミ袋の記憶はない。なんでだろう。

まあ、ともかく、このお爺さんと、毎朝、七日間、会うことになった。僕は、壁に向かって鎮座しているだけなので、しかも横に鉄球が置いてあるし、変人だろうと思われたかもしれないが、お爺さんは、気さくに僕に声をかけてくれてた。

「何やってるんですか?」とお爺さんは僕に問いかけた。僕は、ことの仔細を丁寧に答えた。お爺さんは、不思議とすぐに理解してくれて、「頑張ってください。」というエールまで貰った。

朝夕の通勤通学時間になると、普段ひとけのない地下道がこの時だけはわずかに賑やかだ。僕の後ろを、何人もの人が通り過ぎて行く。子供達は、屈託ないので、寄ってくる。「トトロを描いて」というので、分からんけどこんなもんだろうとさっさっさと描いた。鉄人28号は子供の頃から描き慣れているので、これもついでに描いた。

2日目。

お爺さんは今日も来た。みかんを三個ほどくれた。嬉しかった。

3日目。

お爺さんは、自分を描いて欲しい、と言うので、描いてあげた。巻き紙のその部分を破ってあげた。この日も、何か忘れたけどお爺さんからの差し入れがあった。

4日目。

お爺さんが、お爺さんの奥さんに、僕が描いたお爺さんの絵を見せたら、奥さんが「これをタダで貰ってきてはいけないよ。」ということで、今日、お爺さんは僕に三千円渡そうとする。僕は、「そういうつもりで描いたのではないので、受け取れない。」というと、がっくりとした顔をしていた。帰ったら、奥さんに叱られるのかもしれない、受け取っておいた方が良かったかなあと、あとで少し後悔する。

5日目。

お爺さんは、今日も一緒だった。お金は受け取れないという僕のことを気遣って、飴玉を一袋持って来た。しょうがない、ありがたく頂いた。

6日目。

お爺さんは、今日も、何かを持って来た。バナナだったかなあ。記憶は曖昧だが、とにかく、毎日の差し入れ。

7日目。

この場では、最後の日、お爺さんは、やっぱり何か持って来た。
僕は、お爺さんが帰ったあと、お爺さんのことを思って、裸になり、ふんどしを締め、鉄球を地下道の中、サラシで引っ張ってゴロゴロ転がした。その反響音は、地下道にこだました。

水は静かに、ポタリポタリと落ちていた。

 

 

 

また旅だより 41

 

尾仲浩二

 
 

何年ぶりかに元日に初詣に行った。
ボケがはじまった母親の繰り返す話が辛く、少し散歩に行くと家を出て、子供の頃に暮らした団地など巡って夕方まで戻らなかった。
神社でもらった長寿お守りを渡すと、そのまま仏壇に置いて、また同じ話をはじめた。
今年は母の家に戻ることが多くなりそうだ。

2022年1月1日 千葉県君津にて

 

 

 

15日から写真展が始まります。
「マタタビ日記」 2000年から2005年の日記から、当時の作品とスナップで構成した展示です。
中野、ギャラリー街道にて30日までの土曜、日曜に開催。どうぞよろしくお願いします。

 

 

 

あきれて物も言えない 30

 

ピコ・大東洋ミランドラ

 
 


作画 ピコ・大東洋ミランドラ画伯

 

窓辺に、二羽の雀がくる

 

わたしの本のある部屋の窓の外には手摺りがあり、
そこに板を渡して固定してその上にチーズケーキの入っていた白い陶器の入れ物を置き、粟(あわ)、稗(ひえ)、黍(きび)などの剥き実を入れてあげて障子を閉めると雀がやってくる。

 

雀はいつも二羽で、
兄妹なのか恋人なのか夫婦か、わからない。

窓の内側には障子があるから、
二羽は、障子に影絵としてあらわれる。

まだ警戒している影絵は餌のそばにきてしばらくは動かないでじっとしている。
それから、怖がりでない方から餌に近づいて陶器からこぼれた餌を啄ばみそれから陶器の中に首を突っ込んで餌を頬張っている。

音を立てると逃げてしまうから、
わたしは障子のすぐこちらでじっと影絵のふたりの様子を見ている。

そこには、
ほんわりとした陽だまりがありふたりの生きるよろこびがあるように思われて、うれしくなる。

 

今日は午後から「ユアンドアイの会」の詩人たちとzoomで詩の合評会をしていた。
その間もふたりは窓辺でちょこちょこと動きまわっていた。

わたしは「犬儒派の牧歌」という浜風文庫に公開している詩で皆さんの講評をいただいた。
辻 和人さんが「さとうさんの詩は、ミニマルアートみたいに抒情をブツ切りにする詩ですね。」と言ってくれた。

うれしくなってしまった。

そうか、
わたしの詩は「抒情をブツ切りにする」のか。

「抒情をブツ切りにする」と残るのは骨片のようなものだろう。

骨片を拾う。

 

桑原正彦が4月に亡くなった。

そのことをギャラリストの小山登美夫さんから教えていただいた。
わたしはそれから身動きができなくなってしまった。
なにも、手がつかなかった。
わたしの詩集に桑原正彦の絵を掲載させてもらっている。
詩集には桑原の絵をずっと使わせてもらおうと思っていたから桑原正彦がこの世にいなくなってしまったということは受け入れられなかった。

桑原正彦が、
わたしの母のために絵を描いてくれたことがあった。
わたしの母はALSという筋肉が動かなくなる病気でわたしの姉の家で闘病していたのだった。
その母のために桑原はわたしが渡した母の写真を見て絵を描いてくれた。
わたしの神田の事務所に桑原正彦が絵を持ってきてくれた。
桑原はアトリエからほとんど外に出ないし誰にも会わないと知っていた。
その桑原がわたしの神田の事務所の応接間にきてくれた。
いまはもういない母の部屋の漆喰の壁にその絵はいまも掛かっていてわたしの姉の宝物となっている。

 

ここのところわたしはわたしを支えてくれた人たちを失っている。
中村さん、渡辺さん、父、母、義兄、兄、桑原正彦を失ってしまった。
最近では、家人や、犬のモコや、浜辺や、磯ヒヨドリ、西の山、羽黒蜻蛉や金木犀、姫林檎の木、雀のふたり、それと荒井くんや市原さんなどがわたしの友だちとなってくれている。
「浜風文庫」に寄稿してくれる作家たちと「ユアンドアイ」の詩人たちもわたしには大切だ。
詩や写真や絵や音楽を大切なものとして生の根底で共有できる人たちだ。
経済的なメリットからほど遠いが互いの生を理解して尊重できる人たちだからだ。

 

ここのところ新聞の一面には「国交省、自ら統計書き換え」* 、「赤木さん自死 国が賠償認める」* 、「森友改ざん 遺族側、幕引き批判」* 、「三菱電機製 重大な不具合 非常用発電機 1200台改修へ」* 、「アベノマスク年度内廃棄」* 、「日立系、車部品検査で不正 架空記載や書き換え」* などなど、この国の官民が不正を行っていることが露見しているようだ。

新聞記事に現れるのはごく一部なのだろう。
コストや人を極限まで削り下落させ成り上がる。
世界の経済は自己利益を優先することで回っているのだ。
格差が金を生む。
日本だけでなく世界の人々を自己利益の渦に巻き込みながらこれからも進んで行くだろう。
近代以降の資本主義の終着駅を過ぎ去るのだ。

 

窓辺には、二羽の雀がくる。

そこには、
ほんわりとした陽だまりがあり影絵のふたりの生きるよろこびがあるように思われて、わたしはふふんとうれしくなる。

 

この世界には呆れてものも言えないことがあることをわたしたちは知ってる。
呆れてものも言えないのですが胸のなかに沈んでいる思いもあり言わないわけにはいかないことも確かにあるのだとわたしには思えてきました。

良い年を迎えましょう。

 

作画解説 さとう三千魚

 

* 朝日新聞、2021年12月16日、21日、22日、23日、一面見出しより引用しました。

 

 

 

また旅だより 40

 

尾仲浩二

 
 

初めて津軽海峡を船で渡って函館へ行った。出港が危ぶまれる程の荒天だったが、少しくらいは揺れないと気分が出ない。他に乗客もいない船室で、用意しておいた焼酎を飲んだ。酔う前に酔えばいいのだ。
函館には何の用事もないのだけれど、大人の休日きっぷで青森まで来たので、そのついでに行ってみたのだ。
雨があっという間に雪になったり、突然快晴になったり目まぐるしく変わる空模様で、これは写真を撮るのには楽しい。寒風で芯から冷えた指先は、塩ラーメンのどんぶりに押しあてて温めるのがいいと知った。

2021年12月5日 北海道、函館にて

 

 

 

 

詩について 02

 

塔島ひろみ

 
 

すきまについて

 

高い吊り橋を渡るとき、板と板の間のすきまからずっと下の峡谷の底が見える。
すごく恐い。
開けたところから下を見るより、ずっと恐い。
ホームに電車がやってきて停まる。ホームと電車の間のすきまは真黒だ。
さっきまで陽に照らされていた線路が、急に恐ろしい深淵に変わってしまう。
その恐ろしい深淵に、私が追っかけた害虫が逃げ込んだ。
細すぎて懐中電灯の明かりも届かない、洗面台と床の間の真っ黒い空間は、這う虫の命を守るシェルターで、
道端の、ゴミだらけのほんのわずかなコンクリートのすきまからは、ここからもそこからも雑草が芽吹き、根をはり、花を咲かす。
時に生物を奈落の底へ落とし込むすきまは、命の魔法の泉でもある。
それより大きく、強いものが入りこめない、弱者の世界。
弱者に挽回のチャンスを与える、逆転の装置。

地元の京成立石駅周辺は、曲がりくねった細い路地が入り組んで、すきまだらけで、そのすきまには赤い顔の大人たちがひしめいて立ったまま酒を飲む。またあるすきまではまだ開いていないスナックの前で、猫好きのおばあさんが猫に餌をあげている。通りを歩いていると、どこかのすきまから、カラオケの音痴な歌声が聞こえてくる。
そのすきまには、彼らより大きく、強いものは入れない。
そのすきまの深淵が恐ろしくて、恐くて入れない人もいる。
すきまは、その形、サイズ、深さによって、一人一人に違う意味をもって存在する。
肉屋と、つぶれた花屋の間にすきまがある。細くて、黒くて、その先に何があるのかは見えない。
何が始まっているのか、何が企まれているのか、私には見えない。

重なり合う葉と葉のすきま、げんこつを握った時の指と指の間にできるすきま、
この世には、同一のものなど何一つなく、全てがいびつだ。
図面上ではフラットでも、モノとモノがくっつけば、すきまができる。
図面とモノの間にもすきまができる。
いびつな地球を、数字と定規で表そうとするときにも、すきまができる。
そしてある思いを、ある感覚を、言葉という記号で語ろうとするときにも、すきまができる。
あなたの言葉と、私の言葉の間のすきま。
体と言葉、こころと言葉の間のすきま。
そのすきまが「詩」。なのではないか。
そんな気がする。

だから詩は、弱く、小さいもののためにある。
弱く、小さいものを、闇に沈めたり、温かく包みこんだりする。

立石駅周辺、4.4ヘクタールもの一帯は更地になり、4棟の超高層ビルが建つらしい。
「土地の合理的かつ健全な高度利用と都市機能の更新を図り、魅力ある駅前環境を形成するため」と、北口地区の計画書にある。
いくつものすきまが消滅し、虫も、ノラ猫も、酔っ払いもいなくなった4.4ヘクタールに建つ超高層ビルに住む人の孤独を考える。心のすきまを考える。
「合理的な」窓、「健全な」キッチン、機能的な居住空間と、そこに住む、いびつな生きものである「人」たちとの間にできるすきま。35階建ての壁に生じるぞっとするような暗い亀裂。そのすきまに、
まだ誰も見たことのない雑草が生えるだろうか。
誰も見たことのない虫が眠るだろうか。
誰も読んだことのない詩が生まれ
頑丈にロックされた防音窓のすきまから
まだ誰も歌ったことのない歌が、聞こえるだろうか。
そのとき区長は、「しくじった」と、自分の禿げた頭を叩くだろうか。

 

 

 

夢素描 20

 

西島一洋

 
 

鉄球について

 

ここに直径60センチほどの鉄球がある。40年くらい前に拾った。

浅間山荘事件の時の鉄球によく似ていると思って、拾った。

名前があるというわけではないが、僕はこの鉄球に非殺生の力を感じるので、名前があるのかと聞かれると、安易にアヒンサと答えてしまっている。

中は空洞で、少し水が溜まっている。転がしたり、振ったりすると、その水が鉄球の内側を優しく撫ぜる音がする。しゅるらん、しゅるらん、しゅん、という感じの音。

重そうに見えるが、意外と軽い。展覧会のため韓国に郵送しようとして、その時に初めて重さを量った。重さ制限をこえていて、送れなかった。およそ、25kgである。

車で運ぶこともあるが、キャリーに乗せて歩いて運ぶ事が多い。国内だけでなく、ニューヨークやサンフランシスコなどの行為の時にもキャリーで持っていった。

晒し木綿を括り付けて、運ぶというか、転がしながら一緒に歩くという時もある。夏の炎天下、自宅から犬山のキワマリ荘まで17km、五条川を歩きながら鉄球を引っ張りながら遡ったこともある。翌日、強烈な歯痛。歯医者に直行。奥歯を噛み締めすぎて、溜まっていた歯石が歯茎に食い込んでいるとのことだった。

余談だが、子供の時から、歯磨きの習慣が無く、それでも虫歯が一本も無いというのが自慢の種だった。歯石が溜まっているのは知っていた。というよりも、歯石が溜まって、時折、その塊がゴソっと取れる時の快感に至福を感じていたくらいだった。このキワマリ荘までの17kmをきっかけに、歯を磨くようになった。歯間ブラシも使う。一転変わって、今や歯磨きの快感を享受することになった。

鉄球に戻る。

40年ほど前に、北陸、福井の原発内の浜で拾った。漂着物である。高いフェンスで覆われた立ち入り禁止の浜だった。

原発で勤めている絵描きの友人がいて、原発内の浜が美しいということで、10人くらいだったかな、写生会となった。

僕は元より原発に反対であるし、放射能も怖かったから、参加したくは無かったが、つい押し流されて、その浜に入ってしまった。浜に入る前に、原発の施設を通過しなければならない。被曝の計測の装置があり、入る時と出る時にチェックがあった。

押し流されているという軟弱な自分に対しての自己嫌悪は強くあった。

確かに美しい浜だった。両抱えできないほどの、極太の老松が浜にたくさん連なって林になっていた。土地名も美浜という。原発の立地は、もともと人口が少なく、したがって人に汚染されていない風光明媚な場所ということになる。原発は、そういうところに作るのだ。人口が少ないから反対する人も少ない。原発ができてからは、さらに人が訪れることもなく、浜は、時の痕跡を逆説的だが自然な形で残している。

写生会ということだったが、僕は絵を描く気には全くならない。浜をうろうろしていると、さまざまな漂着物がある。大砲の弾のようなものもある。なんの道具か、もしかしたら兵器の朽ちたものか、やたら錆びた鉄製のものが多い。大陸から日本海の浜に流れ着いたのだろう。

で、そのような雑多な漂着物の中に、この鉄球があった。

浅間山荘の鉄球をすぐに連想した。僕はほとんど無意味にこの鉄球を持って帰ろうと思った。しかし、この原発の浜は、フェンスに囲われており、監視カメラもある。持ち出すことは困難だと思われたが、意外にすんなりとフェンス外に持ち出す事ができて、誰かの車に積んだ。まあ、原発で働いてる友人の知り合いという事で、監視もあまかったのだろう。

で、福井から名古屋に持って帰ってきたものの、この鉄球自体が放射能に汚染されていないか、心配だった。

したがって、おためごかしかもしれないが、家族とは少し離れた、自宅裏にある三階建ての建物の屋上に置いていた。

ここからが若干複雑になる。

(複雑になる前に、さらに複雑な言い訳というか、成り行きとというか、まあ、孑孑彷徨変異というか。夢素描について、少し説明したい。端的に言うと、夢日記では無い。夢の記憶を辿る時の、思考回路を援用し、現実の記憶を構築する行為だ。したがって、夢そのものを筆記するときもあれば、夢でなく現実を筆記するときもある。この作業は同じ地平なのだ。端的にと言いながら、さらに分かりにくいかもしれないが、自分の思考回路というか、感覚に嘘はない。まあこれ以上、とりあえず今は説明しない。時間さえあれば、ちゃんと説明できるということだ。素描だから作品概念は無いものの対象化の作業はできるだけしている。)

鉄球を拾った当時、1980年代前半頃だと思う、僕は、飯田美研との濃厚な交流があり、彼等の考え方に強い影響を受けてもいた。

飯田美研というのは、長野県飯田及び豊丘村とかその周辺の現代美術家の活動体である。西村誠英と木下以知夫がその中核か。

西村誠英は、メールアートを通じて各国から紙片の廃物を集め、そこに文字(漢字の「死」の上に何か記号が書いてある)を書き埋め尽くし、それを細かく破っては、さらに糊でくっつけ、さらにそれを破り、それを繰り返すという作業(行為)を連綿と続けていた。西田哲学に強い影響を受けていたと思う。

木下以知夫は、廃物となったガードレールを山から拾ってきて、それを大きなハンマーを全身で叩きつけるという作業(行為)を連綿と続けていた。禅の思想が背景にあったのかもしれない。ある時作業中に、突然、柿の実が、自分の首筋後ろに落ちた時に「覚」があったとのこと、これは僕でもなんとなく分かる。

彼等飯田美研は、なぜ、こんな行為を続けているのか、僕なりに、よく分かっていた(つもり)。

彼等飯田美研は廃物、とりわけ人工廃物と、対話(闘って)していた。長崎や広島の原爆についても、人の営為の虚しさと限界について語っていたように思う。いや、もっと深い。

彼等飯田美研は、やたらと造語を使うので、とても難解だ。特に、書かれた長文の文章を読み解くには相当のエネルギーを要する。僕が、無学だからかもしれない。でも、僕は、感覚的に、飯田美研の言っていることを、断片的にせよ理解していた。

例えば、彼等飯田美研の言う「物力(ぶつりょく)」。

よく見ると、目の前にあるもの、そしてその周辺、さらにはそれを取り囲むものは、全て人工物で横溢している。全て人間が人間のために作ったものだ。まあ、厳密に言えば、作ったと言うより加工したものだ。

具体的に言うと、今、これを書いている状況では、手の先にiPad、それを支える空き箱、空き箱に入った飲み残した薬、消しゴム、ペン、すぐ横にはコンセントがいくつも刺さった電源、ちょと奥に目をやれば、ビデオカメラを修理しようとして本体から外した極小のビス、刺身皿大の陶器皿五個に分類して入っている、その横に冬だから使っていない電気蚊取り線香、上の棚に目をやれば、置き時計、ふと横を見れば、ベランダの掃き出し窓、その窓の向こうには、道をはさんで3階建てのマンションのまどのあかり。

何が言いたいかと言うと、生活用品も家も道路も人間のためにだけ存在させられている。彼等飯田美研の論法で言えば、物が人間の抑圧を受けて存在している。物力は封じ込められている。かなり分かりにくいかなあ。でも、僕は分かる。

ゴミとは人工廃物。人間が人間のために自然を加工して、人間が使用し、そして要らなくなって、打ち捨てられたもの。

彼等飯田美研はそこに、人工廃物に、物力が生じると言う。つまり、人間の抑圧を受け続けてきた物が、ゴミとなることによって、人間の抑圧から解放されて、本来の物力を取り戻すのだ。ゴミは人間にとっては廃物だが、物にとっては人間の抑圧からの自由解放で、本来の物力が生じるのだ。彼等飯田美研はその物力をリスペクトする。

だから、彼等飯田美研は、ゴミのリサイクルもジャンクアートも否定する。リサイクルは、ゴミとなってせっかく人間の用を離れて自由になったのに、もう一度人間の束縛を受けなければならない。ジャンクアートも然りである。せっかく自由になった物を拾い集めて、再びアートという人間の勝手な幻想のもとに束縛を与える、この矛盾。彼等は、愚直にも廃人となって、ゴミとの直接の対話の行為を選んだ。ジャンクアートではない。僕はそれが正しいと思う。とても苦しい修行のような行為だ。

僕は鉄球を拾った。

拾った時点でもう、間違いを犯していたかもしれない。せっかく人間の抑圧から逃れて自由になって、海を漂い、たまたま海岸で休んでいたのだろう。それを、僕が、拾って、無理矢理、福井から名古屋に持ち帰った。

安易だった。街の中をゴロゴロ転がせば面白いかなあ、その程度だった。

だが、飯田美研の人工廃物に対しての接し方を見ていたから、僕は、持ち帰った鉄球を側に置きながら、何もすることができなかった。鉄球との対話はした。自己問答のようなものではあるが、僕はまさしく鉄球と対話していた。

対話は続けていたが、何も出来ずに、五年程が経過した。僕にできることは、もう、海に還すしかない。というより、そのつもりになっていた。

五年ほど経過した頃に、ある展覧会があった。北川フラムが日本での受け入れ先となった「アパルトヘイト否!国際美術展」である。美術展の経緯や内容の説明は省くが、この展覧会は世界だけでなく日本では各地を巡回した。

名古屋展では僕が受け入れの事務局的な役割になってしまった。なってしまったというのは、当初市民運動家達中心の運営の催し物にということで、動き始めたけれど、彼らの動きに無理があって、結局美術家達側の僕が動かざるをえなかった。マネージメントとか、本当に大変だった。心身ともにクタクタになったし、もう二度とこのようなことに関わりたくないとさえ思った。

ただ、名古屋展は、この国際美術展を受け入れるだけでなく、同時に名古屋の美術家に呼びかけて、同時にメッセージを発信したいと思った。そして、「from our hearts」という展覧会を企画した。これは、事前に岐阜の美術館や名古屋のギャラリーで開催し、さらに国際展の行った名古屋国際センターで同時開催した。おそらく国際的にも異例なことだったと思うが、単にこの国際美術展を受け入れるだけでなく、自らも発信したいという想いが形になったのだと思う。

で、その美術展に、自分の等身大の人形を作り、その人形の上に鉄球をおいた。人形は寝っ転がって、鉄球を抱えている。正確にいうと、三回あった美術展のギャラリーでの時に出品した椅子の上に座っている人形を、最終の国際センターでの展示には寝っ転がして、鉄球をポンと置いた。

ポンと置いた時に、5年間対話していたことが少し分かった。僕は今まで、この鉄球と対話と言いながら、対等ではなく、僕の所持品としての物(ぶつ)だった。でも、この時、理屈ではなく、吹っ切れた。僕はこれまでこの鉄球を所持品と思っていた。それが違うということが分かった。

所持品という概念はすっ飛んでしまった。もっと言えば、主従の関係で言えば、一緒にいる時は、鉄球が主であり、僕が従であるという感じかな。できれば対等でいたいが、何故かしらまだ鉄球はそれを許してくれてはいない。まあ、僕としては、側に居させてくれているだけで嬉しい。僕の鉄球と関わる一連の行為は、追悼と懺悔である。追悼は永遠、懺悔は無限。

吹っ切れた僕は、それまでと一転打って変わって、鉄球を相当手荒く扱うようになった。一日中晒しで引っ張って、路上を転がしたり、建物の屋上からぶん投げたこともある。丈夫な鉄球であるが、結果、長年の間にかなり傷ついて、でこぼこになってきた。

最近はあまり見ていないが、10年くらい前だったか、何度か続けざまに、鉄球の夢を見た。そのほとんどが、鉄球が、紙風船がしぼむように、クシャクシャになってしまうという夢だった。

40年も一緒に居ると情が湧く。今でも路上を転がしたりはするが、昔よりは丁寧に優しく接している。

 

 

 

あきれて物も言えない 29

 

ピコ・大東洋ミランドラ

 
 


作画 ピコ・大東洋ミランドラ画伯

 
 

ひかりだね、と言った

 

高橋悠治のサティピアノ曲集「諧謔の時代より」のCD * を聴いて、
詩を書きはじめている。

詩をふたつ、
曲名からタイトルを引用して書いて浜風文庫に公開してみた。

「内なる声」
「犬儒派の牧歌」

高橋悠治のサティのピアノ曲集はソクラテスと共に若い時から聴いてきた。
“ピアノ曲集 01″ は1976年に、”ピアノ曲集 02” は1979年に日本コロムビアの第一スタジオで録音されている。

若い時から高橋悠治の弾くサティにもケージにも惹かれてきた。
理由がわからないが惹かれるということは恋愛みたいなものかもしれない。
恋愛はいつか壊れることもあるだろうけれど高橋悠治の弾くサティもケージも壊れることはなかった。
だから、サティもケージも恋愛とは比べられないだろう。

 

朝になった。
今朝も朝になった。

言語矛盾だが、
今朝も朝になった、そう思える。

窓を開けて西の山を見ている。
灰色の空の下に青緑の西の山が大きく見える。
今朝も西の山はいる。

佇んで、
いる。

詩の言葉もそのようにして佇むだろう。

人と人のコミュニケーションの道具のように言葉は使われることがあり「コミュニケーション力」という言葉を聞くことがあるが、
詩の言葉はその対極にあるものかもしれない。
詩の言葉は言葉の伝達が終わった後の”絶句”からはじまるようにわたしには思えます。
言葉が絶句して佇むところに詩は生まれるように思えます。

 

いつだったか、
新丸子の夜の東急ストアの明るい光の中でわたし電話を受けました。

画家の桑原正彦からの電話でした。
近況を話しているうちに桑原正彦は自身の絵について「ひかりだね」と言ったのでした。
わたしも「ああ、そうね」と言ったのだと思います。
そのことがいまでも何度も思い出されます。

その言葉に桑原正彦という存在が佇んでいました。
その言葉に桑原正彦が佇んでいるといまのわたしにははっきりと思えます。

 

そして桑原正彦は遠く逝ってしまいました。
わたしは桑原正彦の絵をいくつか持っています。
いまはリビングに3つ、この部屋に一つ、桑原正彦の絵を掛けています。
押入れにもいくつかの桑原正彦の絵がしまってあります。

いま桑原正彦の絵がわたしとともにあることがわたしには希望となっています。

 

この世界には呆れてものも言えないことがあることをわたしたちは知っています。
呆れてものも言えないのですが胸のなかに沈んでいる思いもありますし言わないわけにはいかないことも確かにあるのだとわたしには思えてきました。

 
 

作画解説 さとう三千魚

 
 

* 高橋悠治のCD「サティ・ピアノ曲集 02 諧謔の時代より」

 

 

 

また旅だより 39

 

尾仲浩二

 
 

三重からの帰りは中央線経由で新宿へ戻ることにした。
なんとなく薮原という駅で途中下車。
次の電車までは二時間ある。
小さな集落はすぐに歩き終わってしまった。
昨夜の残りの焼き芋をホームで食べる。
今年の秋は気持ちのいい空が続いている。

2021年11月2日 長野県木祖村にて