water 水 水域

流れて

いた

空から
したたって

流れていた

魚たちと
淵に澱んでうすみどりになった

見あげた水面に青空と太陽がひかっていた

水の底を
流れながらひかりをみていた

流れながらひかりのおどるのをみていた

ひかりを

流れていた
流れていった

 

 

drop 滴 落下

ススムヨコタさんの
skintoneというCDが届いた

肌の色合いという

そのなかの
カワノホトリノキノシタデという曲をくり返しきいた

滴だった
滴がくり返し落下していた

滴が落下してはじけていた

川のほとりでわたしも生まれた
川のほとりで生まれた

 

 

language 言語 ことば

深夜

マリア・コゾルポヴァの
ヴァイオリンを聴いている

コトバはない

マリア・コゾルポヴァのバッハ
バイオリンソナタ第3番第3楽章を聴いている

コトバはない

虫がないている
朝には鳥も鳴くだろう

コトバのないコトバを求めるだろう

 

 

bark 吠える

吠えない
だろう

花は
吠えないだろう

そのヒトは
この世はデコボコに見えるといった

白い花はここにはないといった

白い花は
どこにもない裂け目だった

白い花が咲いていた
白い花が咲いていた

白い花がデコボコのなかに咲いていた

吠えていた

 

 

そういうふうになっている?

 

根石吉久

 

ファミリーマートの駐車場
ファミリーマートの駐車場

 

千曲川にかかる平和橋を渡ると、八幡というさびれた町がある。稲荷山という別のさびれた町まで行く途中にガソリンスタンドがあったがつぶれた。 給油機がひとつだけのごく小さな個人経営のスタンドだった。八幡は山の裾の町なので、車で山に登る日などに、軽トラのメーターを見て、ガソリンが 少ないと1000円分追加してから登るような使い方をしてきた。そんなケチな客ばかりが寄ったからというわけでもないだろうが、つぶれてしまっ た。一方、国道18号では篠ノ井橋に近いところでひとつ、戸倉でひとつつぶれ、埴生小学校に近いところで新しくひとつ開店した。つぶれたのも開店 したのも、それほど小さな店ではないが、つぶれていくのは個人経営、開店するのはチェーン化された店という流れはあるようだ。

チェーン化されたものの代表格はコンビニだろう。ガソリンスタンドは減っていくが、コンビニは増えている。家から車で5分くらいのところに、7 軒もある。開店したりつぶれたりするが、少しずつ増えている。つぶれた店はセブンイレブンが多い。本部からの締め付けがきついのだと噂に聞いた。 つぶれたセブンイレブンから車で1分くらいのところに別のセブンイレブンができたりしているが、ローソン、ファミリーマートなど他のチェーンの店 が増えているので、チェーンとチェーンの競争が激しくなり、セブンイレブン本部からの各店舗への締め付けが多少弱まったのだろうか。最近はコンビ ニはつぶれなくなってきている。

コンビニはよく使う。かっぱ寿司で放射能寿司を食った後、国道18号をはさんだ向かいのセブンイレブンで100円のコーヒーを飲む。驚いたな あ、あんな小さい子供にロシアンルーレットの回転寿司を食わせている、などと思いながらコーヒーを飲む。放射能寿司の後のひと休みだが、戸倉の キャロルというスナックで昼飯を食べた日は、ファミリーマートで120円のコーヒーを淹れてから、車で千曲川の土手を越え、川原に近いところで川 原を眺めて飲む。ここしばらく出水がなく、川原は夏まで草に覆われていて、川原石が見えなかった。さきごろの台風で、川原が洗われ、また川原石が 広がっている。
セブンイレブンのコーヒーは「放射能寿司のコーヒー」であり、ファミリーマートのコーヒーは、「川原のコーヒー」であるが、その他にも畑の行き 帰りに寄るローソンのコーヒー、つまり「野良仕事コーヒー」がある。静岡茶から放射能が検出されたと聞いた時から、ペットボトルのお茶を一人で飲 むことはあるが、家では飲まなくなった。家には孫がいる。

お茶を飲まないわけではないが、コーヒーが多くなった。

毎日、ほぼ昼頃起きる。起きて30分くらいしたら第一食目を食いに出て、食べた後、コンビニの駐車場や千曲川の川原で食休みするというのがほぼ 習慣になっている。そのコーヒーに煙草が伴う。コーヒーと煙草は相性がよく、両方あるとうれしい。30分くらいぼんやりする。
その後、車のエンジンをかけて、「仕事」で使う道具や材料を買いに綿半(ホームセンター)に寄ったりする。今は、煉瓦で窯を作っているので、煉 瓦やセメントを買ったりする。「仕事」というように括弧をつけるのは、お金にならない仕事だからだ。なるべくお金が出ていかないようにすることに は役にたっているが、お金が入って来るわけではない。塾以外でお金を得ようとする試みはいくつかやったが、すべて失敗した。借金をしなかったか ら、破産もしなかっただけだ。今度の窯で焼き芋を焼いて売るという計画で、私の生涯における賭けは最後だろう。
家を自作したのも、収入が不安定だったからだが、なるべくお金が出ていかないように暮らしたかったこともある。家の自作は13年もかかったが、 借金はしないで済んだ。収入が少なくても、出て行くお金が少なければ暮らしていける。この考えは根本的なところで妻の考えと合わず、よく喧嘩の元 になった。妻はお金に不自由しない家に育ったのだ。お互いにいちいち言い返すので、仲が悪い。ついでだから言うが、妻は土佐の女だ。金に不自由しなかったのでも、ハチキンはハチキンだ。

脳梗塞をやったので、煙草はやめなければいけないと医者に言われているが、やめられない。英語の仕事をやめればやめられるかもしれないが、その 仕事を続けている限りはやめられない。自分一人で英語をやっているのであればやめられるかもしれない。相手(生徒)がいて英語を扱う時、一時的に 強度のストレスが襲うことがあり、そこが乗り越えられない。襲ったストレスに身をまかせれば、相手をどなることになり、生徒は激減する。だからやめられない。
ビールは毎日飲む。ビールに関しては、医者のいいつけを守っている。医者は量を減らせと言うのである。やめろとまでは言わない。
ビールもコンビニで買うことが多い。冷蔵庫に買いだめしておくと、短期間にみんな飲んでしまうので、値段が高くても一本ずつコンビニまででかけ て買う。わざわざ不便にしておかないと、あるだけ飲んでしまう傾向がはっきりとあるので、わざわざ不便にしておくのである。
ビールと煙草とコーヒー。これがコンビニで買うもののほとんどである。このうち、ビールか煙草を買うと、レジに置いてある液晶画面に「20歳以 上ですか」というような意味の疑問文が出て、「はい」という文字を客がタッチするように言われる。初めて見たときは、なんだこれ?と思いながら、 つい押してしまった。ビールや煙草を買うたびに、「20歳以上ですか?」「はい」をやっていたら、だんだん不快感が強くなってきた。私は62歳に なっており、どこからどう見てもじいさんである。自分では、じじいと言っている。
ある日、「俺がじじいだってのは、見りゃすぐわかることだろ?」とローソンの店員に言った。「お客様にタッチしていただくようになっております」と店員は言った。「一目でじじいだとわかるこんなじじいが、自分で自分の年齢を確認しなきゃならないってどういうことなんだ」とじじいの私は 言った。つべこべ言うと、必ずつべこべ言い返す店員だと、「じゃあ要らねえよ」と言い、品物をレジのテーブルに置いたまま店を出てくることが続い た。その頃から、液晶画面の「はい」ボタンを押すことを一切やめた。
「俺が19歳だとか20歳だとか言い張ったら、おまえさん、俺を信用するのか。俺がどこからどう見たってじじいだってことは、見てすぐわかるよな。19と言おうがハタチだと言おうが21だと言おうが、俺が嘘を言ってることはすぐわかることだ。60過ぎのじじいがハタチを過ぎてるってこと も世界の常識だ。わかりきったことじゃないか。双方でわかりきっているのに、なんでじじいが自分で自分の年齢を確認しなきゃならないんだ。歳は毎 年変わるから、俺もときどき忘れる。だけど、俺が61のじじいなのか62のじじいなのかを思い出そうとしたって、この店にも警察にも何の関係もな い。俺の年齢確認はコンビニじゃ何の役にも立たねえんだよ。客だって、財布の中の小銭を数えたり、カードで支払うか小銭で間に合うか迷ったり、間 違えて病院のカードを出しかけて戻して、ポンタカードを引っ張っり出そうとしたり、カードが財布の角にひっかかってすぐ出てこなかったり、カード を差し出したり受け取ったり、5ポイント獲得したのかと思ったり、ポンタカードを財布に入れてすぐまた楽天カードを出したり、やることはいっぱい あるんだ。このくそ忙しいときに、どう見たってじじいだってはっきりしている俺が、「20歳以上ですか」「はい」なんてやってられるか。前はハタ チ前で年齢を詐称している疑いがある客には、免許証とか出させて確認していたんだろう? それでいいじゃないか。その手間を省いて、こんな馬鹿な ことを客にやらせるんなら、酒も煙草も売ることをやめちまえ。客がいやがっていると本部にちゃんと伝えろよ。」
それだけくどくど言われて、むっとした顔をして、やりにくそうに腕を伸ばし、「馬鹿はいボタン」を押す店員もいた。
今では、近所のコンビニのほとんどが、何も言わなくても、店員が黙って「馬鹿はいボタン」を押すようになったが、私がつべこべ言うと、つべこべ 言い返す店員もまだ生き残っている。「あのじじいはボタン押さねえぜ」ということが、アルバイトの間で伝承されないのだろう。
つべこべ言い返す連中が言うことは決まっている。「そういうふうになっている」である。そんなことはこっちもわかっている。本部が「そういうふ うになっている」のだ。「馬鹿はいボタン」を考えた本部が、「馬鹿はい本部」なのだということくらいはわかっている。この店のせいじゃない。しか し、「馬鹿はい本部」が決めたことに、「そういうふうになっている」と従うだけでなく、「馬鹿はいボタン」を押さない俺に、「変わったやつ」「変 なやつ」という視線を向けてよこすのは、「馬鹿はい本部」の馬鹿がしっかり感染してしまった馬鹿以外のものではない。高校生くらいの若いアルバイ トに感染馬鹿が多いことがわかり、暗い気持ちになったことが何度もある。若いやつらが、ものごとはもう決まったことでできているのだと思っているのだ。
「そういうふうになっている」なのである。

感染馬鹿はテレビに出てくる東京電力の社員に多くいた。「馬鹿はい本部」の言いなりであるだけでなく、その「はい」がくだらないことを疑うこと がないのだ。「馬鹿はい」どもの集合体である東京電力に、事故収拾の能力はない。東京電力だけではない。日本の役所の中には国家公務員だろうが、 地方公務員だろうが、「馬鹿はい」に感染した痴呆コームインがうじゃうじゃいる。「頭のいい馬鹿」は、今や量産されている。頭がいいと言ったとこ ろで、テストで点がとれるというだけのことなのだ。元のところは、コンビニのアルバイトの高校生の感染馬鹿と変わりはない。

昨日の夜、亀の湯に行き、帰りにファミリーマートに寄って煙草を買った。少し前から気付いていたのだが、ファミリーマートは「20歳以上です か」「はい」をやらなくてもよくなった。徳間にファミリーマートが開店したばかりの頃は、画面にタッチしろと言われたことがあった。こちらから 「年齢確認は店の側がやってください」と言ったことが二度ほどあったが、そのうちに何も言われなくなった。
昨日、「この店は、煙草を買うのに客が自分で年齢確認をするってことはしなくてもよくなったんですね」と訊いてみた。
「こちら側(店員が押すキーボード)に、店員が押すボタンがあるんです。お客様の画面タッチは意味がないです。19歳の人が「はい」のボタンを押せば、店は売ってしまいますから」
コンビニの店員から「あれは意味がない」という言葉を初めて聞いた。そうだ。意味がないのだ。60を過ぎて脳梗塞をやったじじいが、意味がない ことをやれと言われ続けたのだ。「20歳以上ですか」「はい」。馬鹿みたいだ。

「セブンイレブンやローソンはいまだにやってますが」
「もうじきあのシステムはなくなります」
そうか。なくなるのか。なんでそこまで知っているのか訊くのを忘れたので、今日、ローソンで訊いてみた。そしたら、ローソンの機械にも店員のい る側に店員が押せるボタンがあることがわかった。
「店員が20歳以上だとわかってボタンを押しているんなら、客が画面にタッチする必要がどこにあるんですか」
「店員とお客様と両方で押して、二重に確認をとっているわけです」
そんなもの二重にしたところで、19歳の老けたやつが「20歳以上ですか」に「はい」とタッチしたら、一発破れる。馬鹿みたいだ。
「このシステムは終わるとファミリーマートで聞いたんですが」
「運転免許にICチップが埋め込まれていますが、免許証をかざせば年齢確認ができるようなシステムがまもなくできあがります」

おい。60過ぎたじじいが運転免許をかざして、自分がハタチ過ぎだと相変わらず証明しなくちゃならないってのか? 一目見ればわかるってことを 馬鹿にしてないか。自明性ってことを馬鹿にしてないか。そういうことを馬鹿にするローソンは、自分の馬鹿確認をしてるのか?
店員やってるのは人間だろうと思う。それなのにロボットみたいに、客に画面にタッチしろと言い続けたのだ。システムが変わったら、運転免許を機械にかざせと言うと言うのか。

20歳未満に煙草が買えないようにするのは、青少年の健康のためだというのが建前だというのはわかっている。しかし、自分が「馬鹿はい」になっていることを疑うことを知らない青少年が結構多くいる。よほどそのことの方が問題だ。馬鹿みたいだ。

「馬鹿はい」を作り出すのは、支配側にとっては利益があるのだろう。
政治が「戦争やるぞ」と言い出せば、「はい」だもんな。「自衛隊はアメリカ軍に合流するぞ」と言えば、「はい」だもんな。「そういうふうになっている」だもんな。
日本が「馬鹿はい」だらけになったら、みんな死んじまうのも、それはそれでいい。それもオツなもんだろう。