私的な詩論を試みる

 

今井義行

 
 

1 始まり

 
わたしは、今から「私的な詩論」を試みようとしているが、これは、あくまでも「私の経験」に基づいて書いていくものなので、この論考を書くにあたり、サイトや図書館等で調べたりという事は、行なってはいない。
調べると「ああ、この箇所は、いかにも、きっと調べたんだねえ・・・」という事が、読者に伝わってしまうからだ。後々に述べる事に関係するのだが、わたしは「詩集」は、殆ど読んではこなかった。「現代詩文庫」も、殆ど読んではこなかった。
この論考を書くに際して、わたしが思った事は、わたしは詩を書いてから30年以上経つが、詩に関する散文は殆ど書いてこなかった。わたしは、最近になってわたしが数年経つと還暦になるという事を知って、驚いてしまった。そこで「わたしは、わたしなりの「私的な詩論」を書いておきたい」と思ったのだった。
わたしは、小学生から高校生まで、国語の教科書以外では「詩」を読んだことはなかった。単行本としての「詩集」を読んで感銘を受けたという事もなかった。小学校中学年に、誕生日のプレゼントに、親から「宮沢賢治作品集」を買ってもらった事があった。そこには「童話」の他に「詩」も収められていたが、それらは、独特の文体だった事もあって、途中で読めなくなってしまった。
わたしが小学校中学年の頃に熱心に読んだのは、最近亡くなってしまった、日本のファンタジー作家「佐藤さとる」氏の「コロボックル・シリーズ」というファンタジー作品だった。それは、面白かったので、夢中になって読んで、わたしなりに「コロボックル・シリーズ」を真似て童話のようなものを書いてみたりした。しかし、物語を創作するという事は難しいもので、タイトルばかりは考えたものの、その物語が完結するという事はなかった。そこから「文学というものは難しいものだ。」という、先入観ができてしまったようだ。
しかし、その後、数年経った中学2年生のとき、たまたま、中央公論社編の文庫本「現代詩アンソロジー・上巻」を書店で見つけ、購入し、読んでみたのだった。そこには、戦後から1950年代までの現代詩人たちの代表的な詩篇が収められていた。「田村隆一」氏の代表的な詩篇は、とても格好良かった。また「谷川俊太郎」氏や「黒田三郎」氏といった詩人たちの代表的な詩篇は「何処が、とは説明出来ないのだが、その説明出来ないところが、とても良いなあ。」と感じられるものだった。何よりも、それらは「創造的」であると同時に、とても「解りやすい」詩篇でもあった。わたしはそのときに「現代詩」というものがあると知ったわけなのだった。けれど、その後「現代詩アンソロジー・下巻」を買う事がなかったので、1960年代以降に書かれた詩篇を読む体験は持たなかった。とはいえ「現代詩」というものがあるのだと知ったわたしは、書店で「現代詩手帖」という雑誌を立ち読みしてみた。そして、そこに載っていた詩や論考が、あまりにも難し過ぎて、わたしには、さっぱり理解できなかったので、それから「詩」という文学からの興味は、またわたしから離れていってしまった。
──それから随分と経ってから、わたしは、大学の法学部に進学した。そしてわたしは、法曹サークルではなく「児童文学」のサークルに入り、また童話作品の創作をしてみた。そのときに、わたしは、久しぶりに文学体験をしたというわけである。何故その後に、わたしが童話作品の創作から離れていってしまったかというと、わたしは「児童文学」に関わっているというのに、実は「子供が好きではない。」という事に気づいてしまったからだ。
ちなみに大学生になると、まるで、決められた事のように文豪の作品「罪と罰」のような作品に手を出してみたりするが、わたしは、それら有名な小説を、それなりに読み通しはしたものの、何が「罪と罰」なのだかさっぱり解らず、その内容は、きれいさっぱりと忘れてしまった。
話は戻るが、わたしは高校を卒業してから、大学の法学部に進学したわけなのだった。しかし、わたしは、法曹を目指していたわけではなかったし、公務員を目指していたわけでもなかった。ただ浪人をする余裕が家庭になかったので「将来的に潰しがきくだろう。」という理由だけで、合格した大学の法学部に進学したのだった。この事は、今になってつくづく思う事だが、進学をする場合「どこの学校に進学する。」のかという事が大切なのではなくて「何をやりたくて学校に進学する。」のかという気持ちが、本当に大切なのだという事だ。わたしは今、いろいろな経緯があって、「精神障害者年金」というものを受給しながら、また福祉的なさまざまな支援を受けながら、生活をしている。また、一般的な就労はもうできないため、殆ど寝たきりに近い生活をしている合間に、ベッドで詩を書いて、定期的な通院をしながら、住んでいる地域の「作業所」に通所して、日々を営んでいる。わたしは、精神疾患を持ってはいるけれども、この環境にようやくたどり着いて本当に良かったと感じている。
「作業所」に通所しているメンバーは、30歳台から70歳台までの精神疾患者であり、メンバーは、わたしのように「精神障害者年金」を受給しながら生活をしている人たちもいれば「生活保護」を受給しながら生活をしている人たちもいる。わたしたちは、軽作業をしながら一緒にできたての温かい昼食を取り、月に1回、僅かではあるけれども「工賃」を受け取る。わたしが「作業所」に通所していて思うのは、「作業所」のスタッフがとても心優しい人たちであり、そのスタッフたちが「直接的に社会の役にたちたい。」という動機から、福祉的な仕事を敢えて選択しているという事が伝わってくる事だ。「スタッフたちの給与は、それほど高いものではないだろう。」と察するのだが、スタッフたちは笑顔を絶やさないし、1日を精神疾患者たちと一緒に過ごす。
「作業所」には、割合頻繁に、福祉学校の生徒たちが実習生として訪れて、わたしたちと一緒に一定期間を過ごす事がある。なぜ実習生たちが福祉の仕事に就きたいという考えに至ったのかは、1人1人異なると思うのだが、はっきりとしている事は、高校在学中から「福祉的な仕事に就こう。」と明確に定めていたのであろうという事だ。これは、とても大きい事だ。将来的にやりたい事が決まっていれば、自ずと、どのような学校に進学したいのかが、決まってくるからである。わたしは、わたしに関わることがらを、後悔しない性質の人間だと思っているが、唯一、今、わたしには思う事があって「わたしは、直接、人々を支える事ができる「福祉の仕事」を、なりわいにすれば良かったな。」という事である。

 

2 「詩作」への入り口

 
わたしは、大学卒業後、民間の中小企業に就職した。初めの内は、何事も新鮮に感じられたし、やはり、わたしにとって嬉しかったのは、今まで手にした事のなかった給与を受け取る事ができた事である。その給与で、わたしはわたしなりの望むような生活がある程度可能になったし、実家に一定額のお金を渡す事もできた。
ところが、働いている内に、わたしは、1つの事に気がついた。社員の誰もが自分の部署の仕事に邁進しているように見えていたのだが、社員が担当している仕事が完結しつつあるというのに、どういうわけか、上層部の決裁により、簡単に人事異動が行われてしまうという事だ。もう少しで、出来かかっている仕事だというのに、その仕事を奪われてしまって、担当していた社員は「とても悔しい思いをしているだろうなあ。」と思った。そのような事は、わたしには、とても理不尽に感じられた。わたしは「わたしなりの仕事を完成させていってみたいと思っても、簡単にそれを奪われてしまう可能性もあるのか。」と思った。わたしは「何者にも奪われない、自分だけのものを得たいものだ。」と望むようになっていった。
その頃、わたしの勤務地は渋谷にあって、そして、渋谷の駅前には東急のビルがあった。会社から帰宅するとき、何気なく、そのビルの上階に昇ってみた。するとそこには「東急BE」というカルチャー・スクールがあって、講座のパンフレットを眺めてみると「現代詩講座」という講座があった。講師は、わたしの知らない「鈴木志郎康」氏という現代詩人だった。そのパンフレットには、このような事が記されていた。「詩を書いてみましょう。詩を書くと、毎日の生活が活き活きしたものになります。」その文章を読んで、わたしは「これだ!」と直感的に感じたのだった。(結局、生きていく上で最も大切な事は、そういう事なのではないか。)と思った。そしてわたしは、その講座を受講してみる事に決めたのだった。

 

3 現代詩人「鈴木志郎康」氏と創作仲間との出会い

 
わたしは、講師の「鈴木志郎康」氏という現代詩人の事は、何1つ知らなかった。そこで休日に神田の書店街に出向いて「思潮社」から出ている「現代詩文庫・鈴木志郎康詩集」という本を買って読んだのだった。けれども、その詩は、よく解らなかった。「解らないのに、講座を受講して大丈夫か?」という思いがよぎったが「とにかく、勇気を出して、受講してみよう!」という気持ちになったのだった。
実際に「現代詩講座」を受講する事となって、参加した初日、教室には、「鈴木志郎康」氏が座っており、その周りには受講者たちが座っていた。講座の進め方は、受講者が予めコピーしてきた詩作品をその場で読んで、感想を述べ合う合評会の形式だった。今でも忘れられないが、初めて参加した日の講座で合評する事になった詩作品は、詩人「北爪満喜」氏の「白色光」という作品だった。わたしは、それを読んで、すぐに「ああ、これは難しいな。」と感じてしまって、感想を述べる順番がわたしに回って来たとき、どうにもならず「・・・パス。」と言ってしまった。そうしてわたしは、他の受講者たちが「北爪満喜」氏の詩作品の感想を思い思いに述べているのを見たのだった。正直なところ、わたしは、面食らってしまったが、その後になって、とても物静かな佇まいの「北爪満喜」氏の使う言葉が、詩の中では、跳ねて動いているように、強く感じられたのだった。わたしには、現代詩というものが、普段使っている日本語から成り立っているにも関わらず、別の構造を持っている造形物として強く感じられて、やや萎縮もしたのだが、やはりその事よりも、現代詩への大きな関心の方が遥かに上回った。そうして「わたしもわたしなりに詩作品を書いて、提出してみたい。」と思ったのだった。
わたしは、その後、アパートの自分の部屋で、わたしなりに、原稿用紙に、初めて「詩」を書いてみた。その初めての「詩」は、現代詩を知らないわたしによる、初めてのものだったので、あくまで、日常的な日本語で書いた「詩」だった。
そのときに、今でも忘れられない出来事が起きた。──ビリビリと、わたしの頭の先から足の先まで、電流のようなものが、激しく突き抜けたのである。そのような出来事は、わたしにとって、今までに1度も起きた事のない経験だった。翌週、わたしは、わたしの書いた詩をコピーして「現代詩講座」に緊張しながら持っていった。わたしは、「鈴木志郎康」氏と受講している人たちに、わたしの書いた詩を配って、わたしは、その詩を朗読した。ぐるりと、受講している人たちがわたしの書いた詩について、感想を述べてくれた。その感想が、おおむね好意的な感じだったので、わたしは、胸を撫でおろし、本当に嬉しかった・・・
わたしは、詩を読む事や詩を書く事から「詩の世界」に足を踏み入れた者ではないけれど「詩の世界」に足を踏み入れて、自分の好きなように、詩を書き始めた。「鈴木志郎康」氏は、講座の中で「詩は、勉強するものではない。」と受講者たちに言った。だから、わたしは、「現代詩文庫」を買い揃えて、貪欲に有名詩人の詩作品を読む事は少なかったし、今では閉店してしまったが、その当時、渋谷にあった、詩の専門店「ぱろうる」で、熱心に詩集を立ち読みしたり、詩集を買ったりする事も少なかった。
それでもわたしは「現代詩講座」を受講しながら、詩を書き続けていく事にしたのだった。何故なら「詩作」は、わたしの日常生活を、とても活性化させたからだ。毎週「現代詩講座」が終了した後も、みんなで、喫茶店に移動して、その日提出された詩作品について、長い時間、感想を述べ合って、その時間も、とても熱気が籠もっていた──

 

4 「詩壇」というものについて

 
そうした生活の中で、わたしは、詩の世界には「詩壇」というものがあるらしい、という事を知った。
今、考えてみて「詩壇」というものがあるとするなら、それは詩集の出版社の最大手「思潮社」が形造ってきたものと言って良いと思う。詩集に「思潮社」マークが入ると、詩人として認められるところがあり「思潮社」が発行する「現代詩手帖」の中で、それなりの役割=原稿執筆等の仕事を果たしていくと「詩人は「新人詩人」から「中堅詩人」となり、「中堅詩人」から「ベテラン詩人」になっていくという構造になっているのだ。」と思った。その結果、詩人たちの作品は「現代詩文庫」に収められて、絶版になった詩集も、その中で読む事ができる。「ベテラン詩人」として認知されると、その詩人は、他の文芸出版社からも詩集を刊行していく事にもなり、広くとは言わないが、詩人は、社会的にも認知をされていく。その事は「詩の世界の中での「会社」のようなものだ。」とわたしは思った。しかし、それは、別に悪い事でも何でもない。例えば「中堅詩人」というものは、会社で言うところの「中間管理職」のようなものだと言えるだろう。
わたしは、「鈴木志郎康」氏の紹介によって「書肆山田」という出版社から、第1詩集を出版する事になった。詩集のタイトルは「SWAN ROAD」というもので「現代詩講座」で発表した詩を纏めたものだった。その詩集の出版の打ち合わせのために渋谷の喫茶店で、わたしは「鈴木志郎康」氏と待ち合わせをして、詩集用の原稿の束を「鈴木志郎康」氏に渡して、1通り読んでもらった。「あなたは、今、何歳?」と尋ねられて、わたしは「27歳です。」と答えた。「鈴木志郎康」氏は「第1詩集を出すのには、ちょうど良い年齢だね。・・・でも、この詩集は、あまり評判にはならないかもしれないね。」と言った。
わたしは、その頃「思潮社」から刊行されている月刊誌「現代詩手帖」をときどき読むようになっていて、その12月号は「現代詩年鑑」というもので、その中には、「今年の収穫」という記事があり、それは、その年度に出版された中で、アンケート結果によって、良かったと判断された詩集が、特集されるというものだった。わたしは、その「今年の収穫」を閲覧して、わたしの第1詩集「SWAN ROAD」の名を探したが、たくさんのアンケート回答者の中で、わたしの詩集を挙げてくれた詩人は、2名だけだった。まさに、「鈴木志郎康」氏の予想通りになってしまった。
その後、わたしは、5年後に、主に俳句や短歌の句集を刊行している「ふらんす堂」という出版社から「永遠」という第2詩集を出版し、それからまた3年後に「思潮社」に連絡をして「詩集を発刊したいのですが、引き受けてもらえるでしょうか?」と告げた。すると「はい、解りました。1度、編集部に、原稿を持って打ち合わせに来てください。」と言われた。「思潮社」の編集部は、有楽町線の「護国寺」のマンションの2階にあって、わたしは、原稿の束を持って、発行者「小田久郎」氏の次男である「小田康之」氏に会った。「小田康之」氏は「とうとう、訪れましたね。」と、わたしに言った。
わたしの第3詩集のタイトルは「私鉄」と決まった。12月号の「現代詩年鑑・今年の収穫」に間に合うように、制作を始めたはずだったが、結局、詩集の完成は「今年の収穫」には、どうしても間に合わなかった。「思潮社」から届いた年賀状に、発行者「小田久郎」氏からの1筆があって、大きな現代詩賞の1つである「高見順賞の推薦に1票投じました。」という事が書かれてあった。わたしは「高見順賞」の発表式に出席して、受賞詩集の発表の成り行きを見ていた。その結果、わたしの詩集の名が読み上げられる事はなかった。他の詩集の名が読み上げられたわけだが、そのとき、わたしは、選考委員長が受賞詩人に向かって「壇上から、目配せをした。」のを、はっきりと見てしまった。(こういう事を見つけるのが、わたしはとても早い。)そのとき、近くにいた「小田久郎」氏が「詩の賞なんて、つまらないものだ。」というような事をつぶやいていたのを記憶している。わたしはその後、何冊かの詩集を「思潮社」から出版していった。その行為の中でわたしが考えていた事は「やはり、何らかの「詩の賞」を受賞して、詩人として「それなりの、自分のポジション」を獲得していきたい。」という、言わば、1つの野心であった。しかし、先に述べた、1例としての「高見順賞」のように、何らかの「「詩の賞」を受賞するためには「ある程度有名な詩人との繋がりが、かなり必要なんだな。」と感じてもいて「その事は、あくまで「「個」としての「自分」にこだわって、詩を書いていきたい。」という、わたしの考え方とは、かなり相反する事のようにも感じられた。また、わたしはやはり個人的には、受賞していく詩集での詩の書かれ方や「現代詩手帖」に掲載されている詩の書かれ方の多くには、何らかの大きな違和感も感じていた。すべてとは言わないが、それらの詩の多くは、難解な言葉で造形されていて、ある意味「格好良いじゃないか。」と思わせる部分もあったのだが、よく読んでいくと、「詩人の手つきは見えるのだが、書かれた詩篇からは「人の姿が、何故だか、あまり感じられない。」という事だった。その違和感とは、何だったのだろうか。それは、言葉による「オブジェ」という感じだったろうか?
しかし、言葉によらなくても、美術作品にも「オブジェ」と呼ばれるものは数多く存在する。「オブジェ」という存在を見て、その形に惹きつけられる場合、見た者は、何に惹きつけられてその形を「面白い」と思うのだろうか?・・・わたしには、その「オブジェ」という存在は、ある形を成しているわけだが「その形とは、まず表現者の頭の中に概ねの形のイメージがあって、そこから、表現されていくものなのか、それとも、表現してみようという意識や無意識の中で次第に、ある形が表れてくるものなのか。」という考えを持った、そして「現代詩の形の場合も、そのような2通りのプロセスのどちらかをたどりながら、その形が成り立っていくのだろうか?」と、わたしは、想像をしてみた。

 

5 現代詩講座での「鈴木志郎康」氏による詩の書き方についての指導の行われ方とその後のわたしの現代詩に関わる足跡

 
話は戻るのだが「鈴木志郎康」氏の現代詩講座での、詩についての指導の行われ方について、これから書いていきたいと思う。
先に述べたように「現代詩講座」での、講座の進められ方というものは、受講者たちが予めコピーしてきた詩作品を合評会形式で感想を述べ合っていき、最後に「鈴木志郎康」氏が講評を述べるというものであった。そこで大変に印象的だった事は、提出された詩に対して「鈴木志郎康」氏が、いきなり「技術論」を語って詩の添削をしていくのではなくて、書かれた詩には「何らかの欠点」が含まれているわけだが、その詩の作者が、その詩に於いて「一体、どういう事を言いたがっているのか。」という事から入っていって、その実現のためには「どのような工夫が必要なのか。」という形での指導がなされたという事である。そして、この事は「現代詩講座」受講のパンフレットに記されていた「詩を書いてみましょう。詩を書くと、毎日の生活が活き活きしたものになります。」という文言に、まさに符合するものであった。「誰だって、自分が言い表したい事が形になっていく事は、とても嬉しい事ではないか。」わたしは「この指導の仕方は、とても優れた方法ではないか。」と強く感じた。
しかし、その指導の徹底的に厳しい行われ方は、生半可なものではなかった。「詩の作者が、その詩に於いて「一体、どういう事を言いたがっているのか。」という事から入っていって、その実現のためには「どのような工夫が必要なのか。」という事への作者との対話が細かくなされていった。その結果「この詩は、何回書き直してもこれ以上進む事はないから、次の詩へと向かっていった方が良い。」という発言さえあった。また、あまりの指導の厳しさに泣き出してしまう受講者もいた。けれども「ダメなものは、ダメ。」という事なのであった。
「現代詩講座」は、一定の期間を以って終了し、その後も継続して受講するのかどうかの判断は、参加してきたそれぞれの人たちに委ねられる事になるのだが、1期間だけで満足して辞めていく人たちもいたし、指導が厳し過ぎて辞めていく人たちもいたようだ。「鈴木志郎康」氏の指導は大変に厳しいものではあったけれども「もっと上達して、自分自身の書き表したい事を、実現させていきたい。」という参加者たちは、継続して「現代詩講座」の受講を続けていった。わたしも、そのように強く願っていたので、継続して「現代詩講座」の受講を続けていく事にした。
その一方で、受講者たちの有志によって、盛んに詩についての合評会が重ねられて、その結果を「卵座」という同人誌にまとめ、現代詩に関わる多方面の人たちへ発送しては、その反応を楽しみにした。但し、同人誌を発行して、それを、現代詩に関わる多方面の人たちへと発送して、または、逆に発送されてきて、その反応を楽しみにしあうという行為は「詩に関わる人たちの間での循環」ともなる。それは、それで有意義な事なのだが、偶発的に、わたしたちにとって、未知の詩の「読者」との出会い=接点を生み出す事は、稀であった、と言えよう。
わたしは、その後、いくつかの同人誌活動を転々としながら、詩集の出版も盛んに続けた。出版した詩集は、これまでに数冊となったが、今はもう同人誌活動をするつもりもなければ、詩集を出版するつもりも持ってはいない。(その間に、わたしは、46歳のとき、会社という組織の中にいる事がつくづく限界に達してしまって、精神疾患となり、会社組織から追われる事になったのだが、その事は、わたしを、つくづく、安堵させた。)わたしはもう、同人誌活動も、詩集の出版も行わない。この事は、わたしの経済的な状況によるところもあるけれども、もっと積極的な意味合いを持っている。

 

6 「現代詩」が盛んに読まれていた時代があったと言う

 
わたしは、中央公論社編の文庫本「現代詩アンソロジー・下巻」を読まなかったので、1960年代以降に書かれた詩がどのような詩だったのか、解らなかった。ある日、知り合いの65歳くらいの元コピー・ライターの男性から「1960年代の末頃に「詩」が盛んに読まれた時代があったのだけれども「詩」って、今どうなっているの?」と尋ねられた事があった。その男性の話によると「その当時盛んだった学生運動とリンクして、映画や演劇や文学書や思想書や漫画が観られたり、読まれていたりしていた。」という事だった。
そこでは「鈴木志郎康」氏の詩も盛んに読まれていたし、わたしが現代詩講座を受講した後に知る事となった「吉増剛造」氏や「天沢退二郎」氏や「清水昶」氏らの詩作品も数多くの読者に支えられていたという。また詩人・思想家「吉本隆明」氏の著作物や、短歌・現代詩等の詩歌、「天井棧敷」での演劇、前衛的な映画等多方面で活躍した「寺山修司」氏の活動もとても大きく支持されていたそうだ。わたしは、先述の、65歳くらいの元コピー・ライターの男性に、自分が出版した詩集を贈ってみたのだけれども、彼から見ると「今は、もう「現代詩」という分野の文学は、殆ど存在していないのではないか。」という見解になるのだった。
それは「現代詩」というものが、1980年代半ば以降から、しばしば語られていたように「現代詩を読む人たちよりも、現代詩を書く人たちの方が多い。」という状況を指し示しているのではないか、という事にも解釈できた。その一方で、わたしは「「詩を書いてみましょう。詩を書くと、毎日の生活が活き活きしたものになります。」という、わたしが「現代詩講座」を受講する事になった、現代詩の在り方は「基本的な事」であり、それで、充分なのではないか。」とも強く考えた。あくまでも「詩というものは、1個人の、何らかの生活上の出来事から発生する気持ち=素朴な表現意欲を出発点として、詩という言葉にしていけば良いのであって、それが、何かしらの「詩壇的現象化・社会的現象化」をしていく必要等は、ないだろう。」と、彼と話していて、わたしは考えたのだった。

 

7 「詩人」を名乗る事と現代詩の「賞」について

 
ここで「詩人」を名乗るという事について考えてみる。まず「詩人を名乗るという事」は「詩集」を出版している人たちを指しているという事なのか?
わたしは、そのようには思わない。詩集を発行する事は、自費出版による事が殆どなので、ある程度経済的に余裕がないと、それは実現しない。「詩人」は、出費ばかりが、かさむので、職業にはならない。わたしは独身生活を続けてきたので詩集の出版が可能となったが、家庭を持っていて子どもがいる人たちにとっては、詩集を出版するための費用を捻出する事はかなり難しい事であり「詩を書き続けてきてはいるけれど、一生に1度くらいは、自分の詩集を出版してみたい、と願っている人たちは数多くいるだろう。」とわたしは想像した。詩を書き続けていて「わたしは「詩人」だ。」と名乗れば、その人は、もう詩人なのだとわたしは思う。また「詩人」は「詩を書く才能」がある人がなるのだろうか?「詩を書く才能」とは、何なのか?「詩」を書くには、ある程度、持って生まれた資質というものもあるのかもしれないとも思うが、文章を書くのが、巧いという事とは、まったく違うと思う。形が「いびつ」でも構わないとわたしは思うし、やはり「詩をどうしても書いてみたい、という動機こそが「詩を書く才能」へと向かって、繋がっていくのではないか。」とわたしは思うのだ。そこには「生活の中の切実さを乗り越えていきたい」という事もあれば「生活の在りかたをもっともっと豊かなものにしていきたい」等、さまざまな事があるだろうが、そこには「詩」を書いていく、強い意志と粘りが必要とされる。但し、何の意識も持たずに、言葉を改行して、それを「詩」としてしまうのは「安直である。」とわたしは思う。言葉を改行する事には、言葉を改行するための積極的な意識が必要なのであり、そこを外してしまうと「詩」にはならないと思う。
ところでわたしは、何冊かの詩集を出版してきた。その行為の中でわたしが考えていた事は「やはり、何らかの「詩の賞」を受賞して、詩人として「それなりの、自分のポジション」を獲得していきたい。」という、言わば、1つの野心ではあった。そこで「詩人」が得るものは「ステイタス」というもので、それは「詩人たちの「詩壇」で認められたい。」という欲望を満たす。わたしは、「詩の賞」を「あらかじめ、受賞者が決まっているのかもしれない。」というような疑問を持っている事を書いたが、それは、すべての「詩の賞」に当てはまる事ではないかもしれない。ただ、選考委員会は、ベテラン詩人と中堅詩人で構成されており、中堅詩人は賞の候補になった詩集を丹念に読み込んではくるが「やはりベテラン詩人の意向が強く反映されていくのだろうなあ。」という思いは、個人的には拭い切れない。詩人の名が冠された「詩の賞」等は、概ね、詩人の出身地域の文化振興とも大きく関わっていると思うので「純粋に「詩という文学」について与えられるものでもない。」とも想像する。
そのような事もあって、わたしは、わたしの詩壇での評価は、どうでもよくなってしまった。
上昇志向=有名詩人になる、という考えを持つ事は、別に非難されるような事ではなく、そのような志向に向かって努力をしている詩人たちを非難するわけではないけれども、あくまで、わたしは、そのような考えを持つに至って「自分の好きなように、詩を書ければ、それでもう充分である。」というふうに感じたのである。その時期、わたしは、わたしの持病である、精神疾患が悪化していってしまったので「詩壇」で、多くの詩人たちと交流する事から遠ざかってしまったし、また住所も非公開にしてしまったので、詩人たちから詩集や同人誌が送られてくる事も激減してしまったのだった。そしてわたしは「もう、それで良い。自分の好きなように詩を書いていければ良い。そして、身近な詩友たちとの間で熱心に詩について考えを交わし合えれば、それで充分なのではないのか。」という考え方を持つに至ったのだった。
そうしてわたしは、その後、詩人「さとう三千魚」氏の主催するネット詩誌「浜風文庫」に詩を掲載させてもらう事になったのだった──

 

8 わたしから見た現代詩に見られる書法の特徴についてと詩が発表される「媒体」について

 
現代詩の書かれ方=書法には、代表的なものが、複数存在すると、わたしは考えている。まず、それらを列挙していってみようと思う。
「「現代詩」は、難解である。」と、しばしば指摘される。けれど、必ずしもそうとは言えないので、現代詩の在り方をひと括りにして、考える事はできない。そういう事を踏まえて、わたしは、わたしなりに、「現代詩」の書かれ方について、整理してみた。

① 作者と詩の中の話者が一致しているか、限りなく距離が近い詩。

※ 生活の場面に即したり、身近な風景に即したりしながら、素直に書かれている詩ではあるが、作者と詩の中の話者が一致しているか、限りなく距離が近いため、詩の作者の経験の範囲に基づく詩となり、詩の中の話者が動き回れる範囲は狹くなる詩。

② 主に「直喩」から造形化されていて、その中に「人の姿」が見える詩。

※ ①の詩に近いが「〜のような」という「直喩」の修辞が多用される詩。詩で表現される言葉の世界が、①の詩よりも、大きく拡げられる詩。

③ 主に「暗喩」から造形化されているが、その中に「人の姿」が見える詩。

※ 「直喩」を使わずに事物そのものを「暗喩」として例えるが、その技法の奥に「作者」または、詩の中の「話者」の姿が見える詩。造形化されていても、その中に「人の姿」は見える詩。

④ 主に「暗喩」から造形化されているが、その中に「人の姿」があまり見えない詩。

※ あくまで「暗喩」から造形化されている詩。形式を重んじて、作者の意識を投影しようとする意識はあるのかもしれないが、それが、充分にあるいは殆ど投影されずに、詩が形骸化されてしまう危うさを持っている詩。現在「現代詩手帖」に掲載されている詩作品は、このタイプのものが多いように、わたしは感じている。何故、そういう事になってしまうのだろうか?③のタイプの構造の詩が「模倣されて、模倣されていき、」その結果、書き手の手つきばかりが残ってしまい、そういう事になっていってしまうような気がしてならなかった。

➄ 作者と作品中の話者が分離していて、詩の中の話者が作者の想像力によって、自在に動き回れる詩。

※ 作者は作者として在り、話者は話者として在り、作者と分離した形で書かれる詩。書き手の生活体験、生活範囲は限られているわけだが、詩の書き手の想像力を駆使すれば、詩の中の話者は自由に動き回る事が出来る詩。
わたしは、今は、⑤の方法で詩を書いている。何故なら、わたしの生活と共に、詩作に於いても、「さらに「自由」になっていきたい。」と願っているからだ。そうする事によって「書いていて楽しくなれるし、おそらく読んでくれる人たちも楽しい気持ちになれるのではないか。」と思うからだ。

わたしは、ある日、詩人「辻和人」氏が、ツイッター上でこのようなツイートをしているのを見つけた。それは、このような1文だった。「「現代詩」ではなく「現代の詩」ではないか。」わたしは、ツイッターはツイートが流れる速度が早過ぎて疲れるため、滅多に見ないのだが、わたしは、このツイートは「とても重要な事を、言い表しているのではないか。」と思ったのだった。
詩の書かれ方、①②では、もちろん書き手の姿が充分に見えるけれども、詩としては素朴過ぎる事を免れない。けれど、人の生活を端的に切り取るという面では充分に有効だ。③では「現代詩手帖」に多く見られる書法であり、言葉によるオブジェのようなものではあるが、その向こうに「人の姿」は見える。④では、これも「現代詩手帖」に多く見られる書法で、言葉の形はあるものの、その向こうに「人の姿」はあまりよく見えない。この書法では、書き手の意識が詩に投影される力が薄い、もしくは存在していないかのように見えるので、詩が形骸化して、読者を詩を楽しむ事から遠ざけてしまう危険を孕む。③④のような詩の書かれ方が、現在、最も多いのではないか。その理由は「詩としての姿形=言葉の配置のフォルムが「スタイリッシュ」だから、好まれるのではないか。」と、わたしは想像する。さまざまな詩集や同人誌では、詩の書かれ方は、まちまちかもしれないが「現代詩手帖」では、しばしば、そのような詩が掲載されているように、わたしには感じられる。
最近、しばしば「ネット詩」という言葉が使われる事がある。往々にして「ネット詩」というものは「紙媒体」で書かれた詩とは異なり「扱いが便利なインターネット上に書かれた、何処か薄っぺらい詩」のような解釈も多くされているようだが、わたしは「決してそうではない。」と思う。「「紙媒体」で発表された詩も、「インターネット上」で発表された詩も、同様に「詩」なのであり、「詩」が存在している、その在り方が、かなり大きく異なっているのではないか。」とわたしは考える。また、詩の書かれ方が、それまでの「縦書き」から「横書き」になるため、あくまで頑なに「縦書き」にこだわる書き手からは、敬遠されるのではないか?では、「紙媒体の詩」「ネット媒体の詩」それぞれの媒体で書かれる「詩」の在り方とは、何か?
「紙媒体」の詩は、主に「見開き単位」で考えられている事が多く、また「本のツカ」が厚くなり過ぎてしまうため、ある程度、1篇毎の詩の行数が意識されなければならないという面がある。そして何よりも、詩集や、わたしがかつて所属していた同人誌「卵座」に見られるような書物の発送先が、「詩人」や、詩の「同人誌」や、詩の「出版社」等に限られてきてしまうため、詩に関わる媒体の中での循環となり、それぞれの詩集や同人誌間での「感想」のやりとり」となってしまう事が多い。「鈴木志郎康氏」は「詩は、感想を言い合うのは良いけれども、批評をしあうのは良くない。」という事を言っていた。それは何故なのかと言えば「「紙媒体」同士でのやりとりでは、書き手同士が対面して、リアル・タイムで話を交わす事がなかなか出来ないし、発送等の関係で、詩を読み合うまでの間に「時間差」が生じてしまうから、詩人同士の「「コミュニケーション」に「制約」が出てきてしまう。」という事ではないだろうか?
また「現代詩手帖」には「詩誌月評」「詩集月評」というものがあり、ここでは、選者の嗜好による「選ぶ、選ばれる」という関係性での批評がなされ、取り上げられた「詩誌」や「詩人」は、その事で一喜一憂するような傾向が見られる。
現在は、既に、SNSの時代である。わたしは今、SNSの中でも「Facebookが「現代詩ではなく現代の詩」を発信する事に於いて、最も適しているのではないか」と思っている。Facebookは、参加者が、ウェブ・サイト上で、名前や顔(存在)を示し交流しあっていく、という性質を持つものである。
わたしは今、Facebook上にある、詩人「さとう三千魚」氏が主宰するウェブ詩誌「浜風文庫」の場を借りて、詩を発表させてもらっている。そこでの詩の在り方は、「ネット上の空間に詩が固定されている。」というよりも「ネット上の空間に詩が浮遊している。」という感じだ。ここで、わたしが「良い事だな。」と思う事は、詩人「さとう三千魚」氏の手腕によるところが、とても大きいのだが、ウェブ・サイトへのアクセス数が大変に多くなってきているそうで、それは、自分の書いた詩を、普段、詩を読み書きしない人たちを含めたところまで、読んでもらえる可能性を多く含んでいるという事である。また、何処からか訪れる詩人の投稿詩が多くなってきているそうで、その事も「ネット詩」の可能性を大きく示唆していると言えるのではないか。また、発表された詩がアーカイブされる仕組みを持つ事も出来る、という特長もある。
ここでは「紙媒体」で書かれる詩と「ネット媒体」で書かれる詩の、どちらが上、どちらが下、等という比較をするつもりは、さらさらないが、時代の潮流としては、良くも悪くも情報の伝達方法はインターネットが主流となってきている。インターネット上の情報は、誤りも多く持っているかもしれないが、昨今の新聞やテレビ等の媒体が、かなりイデオロギーに支配されている事を考えると、その有効性は図りしれないところがある。
わたしは、持病を持っているので、基本的には「ベッドの中」で、詩を書いている。スマホのメモ帳アプリで詩を書いていき、それをメールでパソコンに送って、ワープロで清書、推敲というプロセスを経て、詩を仕上げていく。わたしは、パソコンの前に座っていられる時間が体の関係で30分くらいに限られているので、その方法は、わたしにとってありがたいものだ。「わたしには、出来ない事がいろいろとあるけれども、ああ、こうやって、詩を書いていけるんだな。」という喜びがある。
Facebookには、「コメント欄」という決定的な特長があり、詩を読み合った「感想」のみならず「批評」もリアル・タイムで書き込み合う事が出来る。但し、それが実現されるためには、「詩のサイト」の参加者が、積極的に、そのような意識を持ち合う事が必要になってくる。「黙っていては、何も進展しない。」のだ。「詩のサイト」の参加者が、参加者同士での単純なコミュニケーションに留まってしまうと、結局「紙媒体」の同人誌内で行われる「合評会」と同じ事になってしまう。ネット詩誌「浜風文庫」では、参加者が知らないところで詩が読まれている可能性が大いにある。「現代詩手帖」に詩を掲載している詩人たちが「浜風文庫」を閲覧してくれている事も増えてきているような傾向も見られ、時には、コメント欄に書込みをしてくれる事もある。また、わたしは、Facebookフレンドをどんどん増やしていけば良いと思う。最初は、躊躇があるかもしれないが、「シェア機能」を活用して、FacebookフレンドからFacebookフレンドへと「詩の読者」を増やしていく事が出来るし、実際、わたしの書いた詩をめぐって、FacebookフレンドとそのFacebookフレンドが感想を言い合ってくれたり、意見を交わし合ってくれたり・・・というような、嬉しい出来事も起きたりしている。
「コメント欄」を大いに活用して「「浜風文庫」のレギュラーメンバーのみならず、投稿者やまわりで閲覧してくれている多くの詩人たちが、幅広く、詩をめぐっての「対話活動」を盛んに行なっていければ良い。」とわたしは思う。
そのようにしていけば、あくまで現在に於ける可能性だけれども、作者の手を離れた詩について、参加者、読者同士の間で、その詩について語り合える喜びが次々に生まれていくようになっていくのではないか。 
「現代詩手帖」では、ベテラン詩人による「鼎談」がしばしば行われているが、ベテラン詩人以外の詩人による「詩」についての考え方の声=議論が、あまり見受けられないような気がする。この事は、残念な事だと、わたしは思っている。また、投稿作品に対しても、ベテラン詩人が2名いて、感想や意見を語っていき、最終的には「現代詩手帖賞」が選ばれる仕組みとなっており、主に「現代詩手帖」の熱心な若い読者たちが、それを目指して、詩を投稿していく形となっている。そこには、ベテラン詩人と詩の投稿者との対話は成り立っていないように思うし、投稿作品の多くが、ベテラン詩人の作風の模倣になっているような感じもあり「詩誌内での詩の執筆者と執筆者、詩誌内での詩の読者と読者との「対話」も、生じにくいのではないのではないか。」とわたしは思う。
ここで「わたしは、現代詩手帖」の在り方の、批判をしているわけではない。「紙媒体」で書かれる事への「限界性」について、書いている。
ところで「「現代詩」ではなく「現代の詩」ではないか。」という指摘は「さまざまな、詩をめぐる境界を打ち破れる可能性を持っているのではないか。」とわたしは思っている。それは「詩」に於ける「平和的融和」について、広く考えていけるという事だ。
「「現代詩」という呼称は、「思潮社」が発明したものである。」とわたしは思う。この呼称は、今後も、長く用いられていく事であろう。しかし、「「現代詩」ではなくて「現代の詩」」という風に、解釈を拡大すれば、今書かれている「「現代詩」と「現代の詩」との垣根は、取り払われて、もっと自由に行き来する事が出来るようになっていくのではないだろうか?」と、わたしは、そのような事を願っているのだが、どうであろうか?「現代詩手帖」と「詩と思想」という「紙媒体」の雑誌同士での交流は、生まれ始めているようだ。理想論かもしれないのだが、そこに「ネット詩誌」も加わって、より広い「詩人同士の交流」「詩同士の交流」が生まれていくというのはどうであろうか?少なくとも、わたしが「紙媒体」の編集者だったなら、そういう事を提案してみると思う。何故なら、その方が、お互いにしあわせな「言葉の交流」を図れる事になると考えるからだ。

 

9 最後に

 
数年が経てば、今まで長く活躍してきたベテラン詩人たちが次々と逝ってしまう事になるのだろう・・・それは「とても寂しい事だ。」とわたしは思う。しかし、寂しい事ではあるけれども、わたしたちの世代、また次の世代・・・というように「進んでいかなければならない。」と思う。
わたしは、30年以上、詩を書いてきたが、還暦近くになっても「詩論は、書いてこなかったな。」と思う。その事に関しては「わたしは、もしかして、怠惰だったのかもしれない。」という思いもよぎる。けれども、その理由は、はっきりとは解らない。だから「これからでも、きっと間に合う。」というつもりで、わたしは、詩にも詩論にも、向かい合っていこうと思うのだ。
それを引き受けて「詩は、「現代詩」ではなくて「現代の詩」」としての拡大解釈が有効になっていくのではないか。」とわたしは思っている。

 

 

 

訪問看護はいかがでしょう? Ⅱ

 

今井義行

 
 

ドアを開けたら ああ・・・とうとう あの 娘(コ)が 玄関に 立っていた
薄いピンクの マスクなど 付けて・・・

「お久しぶり」「お久しぶりですネッ!」

(その ネッ!っていう 感じが いかにも 親しげで イヤ〜!)

親しげだというのに まったく 笑顔というものが ない・・・
お若いのにね・・・どこまでも 無愛想な 訪問看護師さんの 〇〇さん・・・

(ああッ・・・ホントウに 無愛想で イヤだなぁ〜!)

「どうぞ おあがりください」
「はい はい」

(ああッ・・・その靴の雑な脱ぎ方 ホントウに 無愛想で イヤだなぁ〜!)

あまりにも 無愛想過ぎて つくづく
(ムダな 30分間を 過ごしたなぁ〜)と 猛烈に感じて 訪問看護ステーションの 
所長さんに 「あの 〇〇さんという  看護師さんだけは わたしに 派遣しないで
ください!!」と 電話をしかけた わたしだった・・・

その〇〇さん わたしの部屋に 入るなり
サッサと 足をくずして
サッサと 羽根さえ 伸ばしているようだった・・・

(ああ そのくつろぎ方・・・ホントウに 無愛想で イヤだなぁ〜!)

(無愛想〜!無愛想〜!無愛想〜!無愛想〜!無愛想〜!)

わたしは 訪ねてくる どの訪問看護師さんより 30歳くらい年上なので どの娘(コ)たちにも むすめみたいに 気を遣いながら 接してきたつもり だったのだが・・・

(申し訳ないが この看護師さんだけは ダメ〜!!)

「まず バイタル(血圧・脈拍・体温)を 測定しましょう!!」

わたしの腕に ゴムのチューブを ギューッと 巻き付けて
「血圧 上 128 下 86 はい 問題ナシ!」と 彼女は言った

(その 無愛想で 勝ち誇ったような 感じ 何だか とっても イヤだなぁ〜!)

ところが彼女・・・そのあと 脈拍・体温の測定を終えてから アパートの部屋の 
斜め上の 空間を そっと 見上げながら

「実は ワタシには 100万個くらいの 悩みが あるんです よ・・・」と わたしに 
言った・・・・

「100万個ですか それは ずいぶん 多くないですか?」

「はい ものすごく 多いんです・・・」

「失礼ですが あの どのような 悩みを 抱えていらっしゃるのですか・・・?」

「訪問看護ステーションの 看護師さんたちって 〇〇さんも 〇〇さんも 誰もが 
看護師さんらしい 看護師さんじゃありませんか・・・? 
ところが ワタシときたら・・・」

(ははーん この看護師さん 無愛想過ぎて 訪問看護ステーションに クレームが 相当 殺到しているのに 違いないな!)

「ワタシ その100万個の悩みを 1つずつ つぶして なんていうか 自己肯定っていうんですか・・・毎日 そういう事に 取り組んでいるんです・・・」

よく見ると 彼女の瞼には 薄く 銀の真珠の粉が塗られている・・・

(ああ 彼女 は 軽くお化粧を してきて いるんだな それに 彼女の睫毛には
気のせいかもしれないけれど 泪のようなものが 少し滲んでいる ような・・・)

(ああ 〇〇さん・・・100万個の悩みの事は 少しずつ 彼女の 親しい
女ともだちだけに 打ち明けてきているんだろうなぁ・・・)

そんな 彼女の 仕草を見つめていたら
わたし 何だか その娘(コ)が 少しずつ カワイクなって きちゃったんだ な・・・

「どんなお宅に 訪問するたびにも 胸の鼓動が 激しく鳴ってしまって・・・
あの お願いなんですが ワタシの・・・左の胸の上に そうっと 手を 置いてみて
もらえませんか?」

「えぇッ!! 左の胸の上に?」

わたしは 重い精神疾患を 患っているから 男性性なんて 既に すっかり 失っているのだけれど・・・だから 言われるままに 彼女の 左の胸の上に 手を 置いて
みた 

「ああ 確かに 静かな鼓動が 伝わってきます ね」 そうして わたしは 重い
精神疾患者だといいながらも イタズラごころで 彼女の乳首も ちょっと つまんで
みた よ

「ああ 乳首はダメです これでも 敏感な ほうなんですから・・・」

わたしは真珠の粉が 薄く 塗ってある 彼女の瞼を じっと 見つめた 

そうしたら 去年の10月 わたしが通っている 作業所のメンバーで 茨城県・大洗の水族館に 行った事を 思い出してしまった・・・

わたしは 体調が悪くて うまく歩けなかったので 受け付けで 車イスを借りて 
女性スタッフの 鈴岡さんに ゆっくり 車イスを 押してもらいながら 幅広い通路の水族館を泳いでいる 魚たちを 眺めていったのだった

(ああ 広い 水族館には 小魚たちが 気もち良さそうに 右に左に 上に下に 
群がって キレイに 回遊しているなぁ あの 銀色に輝く 小魚たちは きっと イワシたちなんだろうなぁ・・・)

(あの たくさんのイワシたちは たくさんの たくさんの 銀色の粒々のように 見える
よなぁ・・・)

「ああ 魚たち いっぱい 泳いでいるわねぇ とっても とっても キレイねぇ・・・」と スタッフの鈴岡さんも 感嘆していた

あの 銀色の 粒子のような イワシたち それが 今日 訪れた 訪問看護師 
〇〇さんの 薄いお化粧に すっかり 重なって わたしには 感じられてしまったの
だった・・・

それから わたしは アパートの部屋の 斜め上の 空間を ずっと 見上げている
訪問看護師さんの 〇〇さんに 思わず 話しかけていたのだった

「ああ・・・アナタは とても 素敵な ヒトだなぁと感じますよ 1人の 女性としても 
とても 素敵だと感じるし 1人の 訪問看護師さんとしても とても 素敵だなぁ・・・と
感じますよ!」

「えぇっ ホントウですか!?」

そのとき わたしは ふと 彼女の 「乳首」についての 話を 思い出した

(ああ 〇〇さんの その 敏感な乳首・・・おそらく 彼女には 彼女が寄り添う
素敵な 彼氏が いるのだろう なぁ・・・)

(だから 〇〇さんは あまり多くを わたしに 語らないのかもしれない なぁ・・・)

「ホントウです とっても失礼ながら 今頃になって わたしは アナタの魅力を 
しっかりと 感じたようなんです よ」
 
「じゃあ こんな ワタシでも また 訪問看護に来ても いいんですか・・・?」

「モチロンですよ!」

わたしは 彼女の右手を取って
「良かったら 訪問看護師さんとしてだけではなく わたしの・・・お友だちにも なって いただけませんか・・・?」

・・・・・・・・・・・

「・・・ハイ ワタシで良ければ」

それから わたしたちは LINEの交換をして お互いに 笑いあった

「アナタは シフトがいろいろあって なかなか 都合がつかないでしょうから アナタの 時間が空きそうなときに 連絡をください ご覧の通り わたしは こんなふうに 
1日中 横になっていることが 多いんですから・・・」

「・・・ハイ 連絡します ネ」

(ああ もう 無愛想な感じが しないなぁ〜 それは 何だか 随分と 不思議な事
だなぁ〜!!)

「この近くの 荒川沿いに 千本桜という 広くて キレイな 公園が あるんです 
モチロン 今の時期 サクラは 咲いていませんが・・・そこに いっしょに 行って
みませんか?」

「とっても キレイそうです ネ その千本桜という公園 行ってみたいです」

「もしも 千本桜という公園で わたしたちが 手をつないで 歩いてみたら・・・
わたしたちは どんなふうに 見えるのかなぁ〜・・・」

「手をつないでいても・・・やっぱり 親子に 見えるのかしら でも ワタシ とっても 楽しみにしています!」

それから 彼女は 玄関のドアを開けて 次の訪問先へと 向かっていった
ときどき こちらを 振り返りながら

・・・・・・・・・・・・・・・・

ああ そのような事を 「詩」に 書きとめている わたし

この詩が みじかい 人情噺に 終わってしまわない事を わたしは 強く 願っているワケです・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・

(ああ・・・愛しあい方にも いろいろ あるんだなぁ〜!!)って ネ

 

 

 

夢の ウグイスダニ

 

今井義行

 
 

いまは どこも コロナ禍で 閉鎖されて

しまって いるのだろうけれど

ウエノ アサクサ ウグイスダニは

東京の 3大・男街で

わたしは ウグイスダニの かなり古い

旅館へと 足繁く通う 常連客だった



番頭さんに 2000円 払って

「きょうは ちょっと 遅いんだね」なんて 言われて ロッカーで

浴衣に 着替えて 2階の部屋へ のぼっていったりした 部屋は 全部で
4つあって わたしのお気に入りは 薄ら陽の射すミックス・ルームだった・・・



そこには 4つの 蒲団が 並べられていて 天井には 紅いランプが

灯っていた そこでは もう 浴衣を脱いで絡み合っている 人たちもいれば

浴衣を着たまま うつ伏せになって

相手を 待っている 人たちもいた



わたしは 浴衣を 着たまま

仰向けになっているのが 好きだった

誰かがおとずれて 浴衣をめくられ

なすがままにされるのが 好きだった

・・・・・・・・・

ひと遊びしてから わたしは風呂に入った

そして からだを 丁寧に洗ってから

もう夜になっている ウグイスダニの街へ出て 屋台の焼き鳥屋で 焼き鳥を
食べながら コップ酒を2杯呑むのが 好きだった



そのあと わたしは 夜の ウグイスダニを 徘徊するのが 好きだった・・・

ラブホテル街を 徘徊していると

あちらこちらに タチンボが立っていた


ニホンジンも居れば ガイコクジンも居て 

わたしは 幾たびも 声をかけられた

わたしは タチンボを 買う気は無かったのだが ある通りへ出たとき

小さな交番があって 2人の若い巡査が 立っていた



小さな交番の前には 小さな通りを挟んで 

ガイコクジンのタチンボが 客引きをしていた 「オニイサン ドオオ?」

目の前で 客引きを しているというのに

2人の若い巡査は 何にも 言わなかった

不思議に思ったわたしは 若い巡査の1人に 「・・・あの 余計なお世話かも
しれませんが あのガイコクジン女性 注意しなくても いいんですか?」

「ああ いいんだよ 彼女は 若いアルゼンチーナで 毎日の生活が かかっている
んだもんね」

「ああ それは そうですよ ね」

「上司が 目を 光らせているわけでもないし 今では 彼女とは 友だちだよ おーい アルゼンチーナ 今夜の売り上げは どう?」

そうしたら 若いアルゼンチーナが 交番に近づいてきて

「オマワリサン コンヤハ ダメダメ」と 大げさな身ぶりで 答えた

「・・・ここのところ 何にも 事件が 起こるわけでもないしねえ ああ 
ちょっと お腹が すいてきちゃったなあ おい アルゼンチーナ 
それから アナタ せっかく会ったんだから めしでも 食いにいかないか? 俺が おごるから」

「アア イクイク」と アルゼンチーナは 跳び上がって 喜んだ

「じゃあ わたしも ご一緒させて もらいます」

「それじゃあ 行ってくるわ」と 巡査が もう1人の巡査に 言った

「おう 楽しんでこいよ」



わたしたち3人は 近くのラブホテルの1階にある ひなびた定食屋さんに 
入った

「いらっしゃーい おまわりさん! あら 今夜は 3人連れで 何だか 楽しそうねえ・・・!」

初老のおかみさんが エプロン姿で そう言った



わたしたちは 4人掛けの テーブルに座って 店に貼ってある メニューを見た

「俺は 天津丼!」

「アタシハ ショウガヤキテイショク!」

「アナタは 何にする? ここの餃子は 皮から手作りだから 美味いよ」

「じゃあ わたしは ジャンボ餃子定食!」



「せっかくだから ビールでも 飲もう!
オーイ おかみさん 瓶ビールの大きいやつ とりあえず2本ね」

「はい はい」

・・・・・・・・・・・

しばらくしたら 湯気を立てた 料理が運ばれてきた 

わたしたちは コップに ビールを注ぎあって 「かんぱーい」と 言った

「くうーっ ビールが 冷えてて 美味いこと!」

「ワタシノ ショウガヤキテイショクモ サイコウーッ!!」

「ああ おまわりさん ここの餃子 皮が モチモチしてて うま~い!!」

「・・・だろうっ?」

「おかみさーん ビール あと2本追加」



わたしたちは 最近あった 出来事など

ああだ こうだと しゃべりあって

顔を 赤く 火照らせながら

2時間くらい 楽しく 過ごした


・・・・・・・・・・・


「さあ そろそろ それぞれの持ち場へ

引きあげると するか! アナタはどこから 来たの?」

「調布市から 来てます!」

「気をつけて 帰りなよ また会おうな!」

「はい」

「オマワリサン ゴチソウサマデシタ」と アルゼンチーナも 言った

「JRの 山手線 間にあうかな」と

わたしも 言った


「また 待ってるよお」と
定食屋さんの おかみさんも 言った

わたしたちは 外へ出て

お月さまが 煌々と出ている 空を見た 



「ああ いい気分 おまわりさんなんて

バカバカしくって やってらんねえよ!」



そうして わたしは 巡査と アルゼンチーナに 手を振って

「じゃあ また 今度ね」って 言った



・・・・・・・・・・・



そういう 出来事から ずいぶんと 経つけれど わたしは もう 彼らとは 
1度も 会ってはいない


夢の ウグイスダニで 彼らは どうして いるのかなあ・・・なんて ときどき 
思い出したりは するけれど も・・・

・・・・・・・・・・・



わたしは今 東京の下町の  「平井」という 街に住んでいる

平井は おじいさん おばあさんの多い街だ



平井の駅前にも 小さな交番があって

わたしは 駅前に出る度に 交番を見てしまう



すると やはり 若い巡査が 立っていて  重いショッピング・カートを苦労して
押している おばあさんに つかつかと 近づいて 
ショッピング・カートを 一緒に押してあげたりしているのだ・・・


そんな時  わたしは 「こうゆう おまわりさんもいるんだな」と 
つい 思ってしまうのだった・・・・・・・・・・・



 

 

 

「かかと」の 儚い人生

 

今井義行

 
 

いろいろ 理由(わけ)が ありまして

わたしは 半年振りに シャワーを
浴びることに なりました・・・

からだを 立たせたままでは
腰が キツイので
わたしは 浴槽の なかで
あぐらを かく ことにしました



わたしは 半年振りに シャワーを

浴びることに なったので・・・
髪を洗い 次に胸 両腕 というように
スポンジで 体をこすっていくと

たくさんの 垢がでてきました
それから そけい部 両足というように

下へ下へ スポンジを移動させて かかとに たどり着いたとき

「あーん」と わたしのかかとが
喜ぶような 声とともに よりいっそうの

垢を出したのです・・・
「どうしたの わたしのかかと?」
と わたしがわたしのかかとに 尋ねると

「もっと あたしをこすって」と

わたしのかかとが わたしに対して
求めてくるでは ありませんか

「ねえ わたしのかかとさん 
あなたは いま どうして おんなことばで わたしに話しかけてくるのですか?」

と わたしがわたしのかかとに 尋ねると
「あたし 別に オカマではありまシェン

あたし じぶんが いま はやりの

LGBTQ の どれに あてはまるか
なんて わからないで シュ シュ
シュッ シュッ シュッ・・・・

でも そんなこと
どーでも いいんじゃ ありませんの?

あたしは もうそんな事 いちいち
カテゴライズしても しょうがないと

思って いるのよ シュッ」

「そうだね わたしのかかとさん・・・

ところで その語尾の シュッていうのは
なんなの・・・?」

「いわゆる オノマトペ でシュよ」
「ああ そうなんだ

わたしのかかとさん もしかして・・・
あなたは 詩人では ありませんか?」
「詩人って 何でシュの?」
「詩人っていうのは ことばを虚構にして

造形化していく 人たちのことだよ」
「ああ そうなのでシュ ね

あたしって 陸上競技のアスリートじゃ

ないから 目や 腿や 胸みたいに

意識されることが 少ないじゃないの?

だから いままで ずっと からだの

脇役だから ほんとうに かなしかった
つらかった もしかしたら

気づかれないまま 火葬されちゃうんじゃ
ないかと 想像したら こわかった
でも きょうは 一所懸命 こすられて
はじめて スポットライトが あたった!
きょうは あたしの 記念日なのでシュ」

「ああ・・・いままで ずっと
気づいて
あげられなくて ごめんね
わたしのかかとさん・・・!」
「いいのよ 気になさらないで・・・」
「わたしに してあげられる ことは

ありますか?わたしのかかとさん」
「そうでシュね・・・」

「じゃあ もっと 強く 強く 強く

こすってください まシュか?」
「ガッテンダだ わたしのかかとさん!」

そうして わたしは わたしのかかとを
ゴシゴシ ゴシゴシ ゴシゴシ
魂をこめて こすり続けました・・・
そうしたら・・・

「あ あっ いいでシュ!
あっ いくっ いっちゃうでシュッ!!」

その瞬間 わたしのかかとは
たくさんのしろいものを 吹きあげました

それは 精子なのか 潮なのか
わたしには わかりませんでした けれど
わたしは わたしのかかとが
なにかに 到達した
ことだけは わかりました

「ありがとう ありがとう!!」
「いいえ どういたしまして
これからは わたしのかかとさんを
もっと 強く 強く 意識して

スポンジで こするからね!!」

「ありがとう ありがとう!!」



いろいろ 理由(わけ)が ありまして
わたしは 半年に 1度くらいしか

シャワーを
浴びることが できないのですが・・・

今日から わたしと わたしのかかとさんのあいだには
あたらしい きずなが

生まれたという わけなのです・・・

 

 

 

書けば、形になる。 02

── もしかしたら「邦楽」の良い ものは1部に過ぎないのではないか?

 

今井義行

 
 

プロローグ

前回の「洋楽エッセイ」に続いて、「邦楽エッセイ」を書いてみる事にした。しかし、前回「洋楽エッセイ」を書いてみて驚いたのは、浜風文庫の読者は、大衆音楽を殆ど聴かないのではという事だった。これはとても意外な事だった・・・しかし、クイーンやカーペンターズやビートルズくらいは、さすがに知っているはずだとも思った。わたしは、その時、詩人というのは、俗っぽいものには背を向けてしまうのかもしれないと感じた。エッセイで扱う対象は必ずしも「詩」でなくてもいいはずだ。これが「クラシック」だったら、少しは反応があったのかもしれない。それは、純音楽だからだ・・・けれど、わたしは、凝りもせず「邦楽エッセイ」を書いてみる事にした。とはいえ、わたしは、実は「邦楽」の方は、あまり聴いてはこなかった。そのため「洋楽」よりも遥かに知識を持ってはいない。しかし、なるべくネットで調べて書く事はやりたくないので、「洋楽編」よりも短くなってしまうかもしれないけれども、あくまで自分の言葉で、取り組んでみる事にした。



(取り上げたアーティストは、ほぼ、順不同。またわたしの記憶によるエッセイである為、誤りがあるかもしれない。)

 

● フリッパーズ・ギターについて。

活動期間は1987年 – 1991年。初めは、5人編成からなるグループだったのだが、その後、小山田圭吾と小沢健二の2人組ユニットとなり、「渋谷系」と呼ばれる洒落た音楽を次々に世に送り出し、席巻を巻き起こした。
わたしは、フリッパーズ・ギターの大ファンで、CDは、リリースされる度にすべて買い集めた。小山田圭吾と小沢健二は、ともに和光学園の出身でとても仲が良かったようだ。
わたしは、その頃既に詩を書いていて、1963年生まれのわたしは、1968年生まれの彼らに、猛烈なジェラシーを感じていた。わたしは詩作に夢中だったけれども、実は音楽も演ってみたかったのだ。フリッパーズ・ギターの3枚目にしてラスト・アルバムとなった「ヘッド博士の世界塔」は、頭がクラクラするほど、サンプリングを多用した大傑作だった。
フリッパーズ・ギターは「ダブル・ノックアウト・コーポレーション」名義で、他のアーティストにも、よく楽曲を提供していた。
・・・ところが、その後、彼らはあっけなく、解散してしまった。しかもツアーの真っ最中の事だった。解散の理由は、「音楽的な意見の相違」などではなくて、楽曲を提供していた、元おニャン子クラブの「渡辺満里奈」の奪い合いだったという。本当に、何処か、笑えてしまうところのあるユニットだった・・・

 

● 小山田圭吾について。

今回の東京オリンピックのテーマ曲を担当する予定だった、小山田圭吾。20数年前の、身障者のクラス・メイトへの、壮絶なイジメが発覚して大炎上となり、結局、小山田圭吾はテーマ曲に関わる仕事を辞任する事となった。このイジメにまつわる事は、ヤフー・ニュースなどのコメント欄で本当に多数の書き込みがあって、小山田圭吾は、FAXとSNS上だけで謝罪し、小山田圭吾の所属事務所もまた形ばかりの謝罪をした。そういう経緯の後、オリンピックの主催者側も、大慌てで対応せざるおえなくなったという出来事は、まだ皆んなの記憶に新しいところだろう。

確かに20数年前の音楽雑誌のインタビューで、そのイジメについて、自慢気にベラベラ喋りまくっていた小山田圭吾は自業自得と言われても仕方がないだろう。20数年前の雑誌のカルチャーはそういうものだったという指摘もあるが、わたしはそうは思わない。
いま現在も、全国の何処かで、そのような「(身障者が対象となるような事をはじめとした)相手が死なない程度なら何をやっても良い」という悪質なイジメは行われているはずで、わたしも学生時代からそのようなイジメの現場はたくさん見てきた。そしていまわたしが思うのは、イジメられた側にとって、その体験とは大変な苦痛な事であり、その傷は生涯消えるものではないという点に於いて、小山田圭吾が音楽界から干されてしまいつつあるのは当然の成り行きだとは思う。しかし、クラスでのイジメの場では、報復を怖れたりして完全に傍観者となってしまう夥しい生徒たちもいるはずで、その事もとても大きな罪なのではないかとわたしは思うのだ。そして、わたしもまた、イジメが行われているそのような現場での、確かに傍観者の1人となっていた。このイジメについての問題は、もっと時間をかけて考えられなければならない事ではないだろうか?
ヤフー・コメント欄でわたしはこのような記事を見つけた。「小山田圭吾は、末期ガン患者の方が闘病している病棟で、真夜中に演奏して苦しんで呻き声を出すのを聞いて楽しんでいた」というものだ。こうなってくると小山田圭吾は、イジメの常習犯というよりも「変質者」に近いところがあるのかもしれない。
けれども、テレビにもよく出ている漫画家の蛭子さんは、ヒトの葬式に出席する度に、どうしてもゲラゲラ笑う事を止められないという。そのような蛭子さんが非難されず、小山田圭吾が非難されるというのは、キャラクターの違いという事なのだろうか?そこのところは、分からない。

ところで、この場では小山田圭吾の創る音楽について語らなければならない。わたしは、フリッパーズ・ギター解散後の小山田圭吾のCDは、最初のアルバムから、途中までは買っていた。最初の内は、それは完全に「ポップ・ミュージック」だったのだが、だんだん聴き進めていく内に小山田圭吾が関心を持って創作していくものは「ポップ・ミュージック」から、ブライアン・イーノが創る音楽のような「アンビエント・ミュージック」へと移行していくという事がだんだん分かってきた。わたしは、「アンビエント・ミュージック」にはあまり興味がなかったので、小山田圭吾の音楽は、次第に聴かなくなっていった。けれども、その音楽の方向性によって、小山田圭吾の音楽は、世界でも、知られるようにもなっていったのだった・・・そうして、小山田圭吾は、東京オリンピックのテーマ曲を担当する事になったのだった。


 

● 小沢健二について。

今度は、フリッパーズ・ギターのもう1人のメンバー、「オザケン」の愛称でよく知られている小沢健二について語る事にしよう。
先ず、わたしは、小沢健二の大ファンだ。ソロ・デビューから現在に至るまで、そのファン心は、一切変わってはいない。東大文学部卒業、指揮者・小沢征爾の甥というような育ちの良さがあるにせよ、そんな事はどうでもよく、小沢健二は、日本のポップ・ミュージック界に於ける、天才クリエイターである。ああ、オザケンは、なんて素晴らしいのだろう!!

1993年にリリースされた、セカンド・アルバム「ライフ」は、名曲満載である。「今夜はブキーバック」「ラブリー」をはじめ、捨て曲一切ナシ!!歌声の不安定さ(音痴)がよく指摘されるが、そんな事はどうでもよかった。とにかく、小沢健二は魅力的な声をしている。「フリッパーズ・ギター」時代にはまだ感じられる事のなかった、歌詞、メロディの秀逸さは、2021年になった現在でも、まったく色褪せる事は無い!!王子様キャラで、紅白歌合戦にも、2年連続で出演してしまった。
ところが、1995年だったか、1996年だったか、突然、日本から姿を消し、ファンをとても驚かせたが、近年、19年振りに50歳を超えた小沢健二はまたソロ活動を再開させて、これもまたファンならず日本のポップ・ミュージック界に大きな驚きを与えた。19年振りのシングル曲は、内容はかつてのように飛び切りにポップなものだったが、その曲のタイトルは、何と「流動体について」という、小沢健二にしかできない、まったく嫌味の無い、文学性に富んだものだった。歌声の不安定さ、声の良さは、実に健在!!わたしの心は、歓喜でいっぱいになってしまった・・・!!

ニュー・アルバムもリリースして、その内容でも、天才振りを存分に発揮。気まぐれな小沢健二は、これからも音楽活動を続けていくのか、それともまた、かつてのように突然ファンの前から姿を消してしまうのか?それが予測のできないところが、また素晴らしい!!と、わたしは思っている。
ああ、「オザケン」、アナタはわたしにとって、いつまでも変わる事のない、永遠の天才アーティストである・・・!!


 

● B’Zについて。

B’Zは秀でたルックス・歌唱力を持つ稲葉さんと卓越したギターの演奏力を持つ松本さんから成る、男性ロック・ユニットで、30年前のデビューから50歳代後半になった現在に至るまで、リリースする曲、リリースする曲、そのすべてを途切れる事なく大ヒットさせてきた、稀有なアーティストである事は、誰もが認めるところだろう。
B’Zは、実に巧いアーティストなのだが、彼らの創る音楽は、アメリカのベテラン・ロック・バンド「エアロ・スミス」をお手本にしている事は、誰の耳にも、明らかだった・・・

いつだったか、タモリが司会をする「ミュージック・ステーション」という番組にB’Zが出演して、そして、特別ゲストとして、本家の「エアロ・スミス」も来日・出演して、番組内で、順番に、パフォーマンスを披露する事となった。確かにB’Zは実力派のユニットなのだが、本家「エアロ・スミス」のパフォーマンスがあまりにも素晴らし過ぎたので、完全にB’Zのパフォーマンスは、影が薄くなってしまった・・・その事は、おそらく、その日の「ミュージック・ステーション」を観ていただろう誰もが気づいていたに違いないのだが、B’Zだけが気づいていない、というとても可哀そうな事態になってしまっていたのだった・・・
後日、わたしの女ともだちから電話が掛かってきて、「ねえねえ、この前のミュージック・ステーション観た?B’Zとエアロ・スミスが一緒に出た日!」「ああ、観てたよ」「わたし、よく本家のエアロ・スミスを目の前にして、自分たちも巧いと勘違いして、演奏できるものだと思ったら、こっちの方が、恥ずかしくなっちゃって、どうしようもなかったわよ!!」「ああ、確かに、そうだったよねえ・・・」

そのようなわけで、日本を代表するロック・ユニット、B’Zは、全国に、大恥を晒す事になってしまったのだった・・・

 

● YOSHIKIについて。

わたしは、ベテランロック・バンド「X JAPAN」のリーダー、YOSHIKIの事が、とても好きである。先ずは、50歳代半ばだというのに、とっても美しいがゆえに。どうしてあんなに美しさが保たれているのかは分からない。けれど、本人はインタビューに答えてこう言っている。「実は、僕は、影では、血の滲むような努力をしているんですよ」ああ、そうだろうなあ・・・と、わたしは納得したものだった。
・・・ところで「X JAPAN」の元々のバンド名は単なる「X」だった。それが、バンドが世界進出を目指すようになってから、バンド名は「X JAPAN」に改名された。しかし、世界を目指すからと言って新しいバンド名が「X JAPAN」とは、何とも単純過ぎるというか、アタマが悪そうというか、わたしはそのような気もちを押さえられなかった。でもそんな事、どうでも良いじゃないか、と、わたしは思ってしまうのだった。なぜなら、YOSHIKIがとっても美しいがゆえに。
「X JAPAN」は、メジャー・デビューしてから、わずか3枚しかオリジナル・アルバムをリリースしていない。3枚目のアルバム「DAHLIA」をリリースしてから、既に30年近くが経っている。けれど、YOSHIKIはインタビューに答えてこう言っている。「アルバムは、もう殆ど出来上がっているんです。でも、最後のパートで、どうしても納得がいかない箇所もあって・・・」多くのファンは、もうしびれを切らしているというのに。完璧主義過ぎなのか、それとも今や音楽の聴かれ方が、CDからダウンロードの時代になってしまったからなのか。今のところ、YOSHIKIは、明言をしてはいないようだ。でもそんな事、どうでも良いじゃないか、と、わたしは思ってしまうのだった。なぜなら、YOSHIKIがとっても美しいがゆえに。
さて、この場は「音楽についてのエッセイ・邦楽編」であるから、「X JAPAN」YOSHIKIの音楽的な特徴について、語っていかなければならない。YOSHIKIは、ピアノとドラムを演奏する事が出来る。けれども、わたしは楽器を演奏する事が出来ないのでYOSHIKIのピアノとドラムが巧いのかどうなのか、あまり判断できないのだけれども、YOSHIKIの演奏力は、何となく「普通」なのではないか、と感じてもいる。ピアノの方は優雅に弾いているが、もしかしたら「ヤマハ音楽教室大人クラス」程度なのではないかという気もする。ドラムの方は、一所懸命叩いているのは分かるのだが、演奏しきって、ステージに倒れ込み、失神する姿などは、失神しているフリをしているのではないかと勘ぐってしまう。しかし、わたしにとっては、そのような事は、どうでもよく思えるのだった。なぜなら、YOSHIKIがとっても美しいがゆえに・・・
なお余談になるけれども、ロサンゼルス在住のYOSHIKIは、とても流暢な英会話が出来るとも聞く。しかし、その英語力も、もしかしたら日本のECC音楽学院で駅前留学をして学んだのではないかという疑惑をわたしは持っている。しかし、わたしにとっては、そのような事は、どうでもよく思えるのだった。なぜなら、YOSHIKIがとっても美しいがゆえに・・・


 

● YMOについて。

いまでは世界中の殆どの音楽ファンが知っていると思われる、日本発の「テクノ・ポップ」のパイオニア、YMO。そのメンバーは、細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏という充分にキャリアのある3人組である。かなり豪華なメンバーから成っていると言えよう。
しかし、わたしは、わたしが高校生の頃に流行った、初期のYMOのアルバムは、殆ど好きではない。有名な「ライディーン」や「テクノポリス」などの曲は、メロディーが陳腐過ぎて、発表当時から、かなりどうしようもないものではないかと思っていた。
わたしは、YMOのアルバムでは、そのキャリアの後期に於いて、優れたものが立て続けにリリースされたと思っている。「浮気な僕ら」「BGM」最後のアルバムとなった「テクノデリック」は、いずれも秀作ばかりである。
さて、YMOのメンバー、3人組の内、誰が最も才能があるのかについては、わたしが高校生の頃からかなり話題になっていた。やはり、日本の音楽シーンを1960年代後半からずっと牽引してきた細野晴臣ではないか、というのが、殆どの人たちの予想ではあった。しかし、メンバーの内、最も地味に感じられた、高橋幸宏が、実はYMOサウンドの要だったのではないか、というのが、最近のわたしの考えである。
アルバム「浮気な僕ら」は、YMOにとって、初めての歌モノ・アルバムで先行シングル「君に胸キュン」がヒットして、「歌のベストテン」に出演したりもした。またNHKの何かのキャンペーンに使われた「以信電信」は、わたしにとって、どこかビートルズ・サウンドを彷彿とさせるもので高橋幸宏は、ドラムが巧いだけにとどまらす、歌声もとても素晴らしいもので、本当に優れたアーティストだなと思った。
その高橋幸宏は、近年、脳腫瘍を患って、手術をして、その後、無事に回復をして「TAKEFIVE」というバンドを新しく結成した。高橋幸宏がリーダーのアルバムが近々リリースされる予定だったのだが、そのメンバーの中に、小山田圭吾が入っていたために、結局、発売中止になってしまった。何とも残念な話である・・・

 

● 坂本龍一について。

いまでは「世界のサカモト」として知られるようになったYMOのメンバーの1人、坂本龍一ではあるが、わたしは、坂本龍一の才能については、かなり疑いを持っている。
坂本龍一は、映画「ラスト・エンペラー」のテーマ曲を担当して、それが認められ、アカデミー賞最優秀作曲賞を受賞する事に至ったわけである。そして、その事によって、「世界のサカモト」と称されるようになったわけなのだが、アカデミー賞最優秀音楽賞受賞の最大の理由は、映画「ラスト・エンペラー」のテーマ曲がとてもオリエンタルな作風であったからだと、わたしは思っている。
では、坂本龍一の最高の作品は何かというと坂本龍一がソロ名義で創作した「千のナイフ」と大島渚監督の映画作品で担当した「戦場のメリークリスマス」のテーマ曲、この2つだけだと考えている。
わたしは、かつて、坂本龍一が担当したすべての映画音楽を収録したベスト・アルバムのCDを購入した事があるのだが、何と驚いた事に、他の曲は、本当に、今1つ、今2つであったという出来事に・・・とても愕然としたという記憶を、今でも忘れる事ができない。
「世界のサカモト」と呼ばれ、押しも押されぬアーティストとして知られる事となった坂本龍一ではあるが、本人は、その事について、どのように感じているのだろうか・・・
東京芸術大学でクラシック音楽を学んだ坂本龍一、YMOでは「教授」の愛称で親しまれた坂本龍一ではあるが、だからといって、必ずしも優秀な音楽家にはなるわけではないという事を、わたしは知ってしまったような気がしてならないのである・・・

 

● MISIAについて。

このエッセイの中で、1人も女性アーティストを取り上げていないので、せめて1人くらいは取り上げておこうと思い立った。ところが取り上げてみたい女性アーティストがなかなか思い浮かばない・・・松田聖子、中森明菜、安室奈美恵などがちょっと頭をよぎったが、彼女たちについては、散々テレビで観てはきたものの、エッセイに書くほどの知識を持ち合わせてはいない。また松任谷由実、中島みゆきなどのシンガー・ソングライターについても、有名な人たちであるにも関わらず、殆ど聴いてきてはいなかった。

そこで、最近、「紅白歌合戦」の大トリを務め、日本中を感動させ、また、最近では、東京オリンピックでの国歌を斉唱した事などで、かなり露出の多くなってきたMISIAについてなら、多少なら書けるかな、と思って、取り上げてみる事にした。
MISIAは、1998年のデビューで、その女性ヴォーカリストとしてのキャリアは、既に20年を超えている。その頃デビューした女性ヴォーカリストは、ディーバと称され、かなりのアーティストがいたと思うのだが、わたしは、殆ど覚えていない。MISIAについては、名前が変わっていたので、かすかに覚えている程度である。それから現在に至るまでの間に、テレビ・ドラマの主題歌を担当して、その曲が大ヒットしたくらいならば覚えてはいる。
今では、巧いヴォーカリストは、男性ならば、玉置浩二、女性ではMISIAという聴かれ方が定着しているようだ。わたしは、昨年の「紅白歌合戦」で大トリを務めたときのMISIAの歌唱を聴いたが、その少し前にテレビ番組の収録中に落馬をして背骨を傷め、その出来事を押して出演したときのMISIAの歌声を聴いたが、かなり圧巻ではあった。しかし、それは洋楽に長く親しんできたわたしにとっては「日本では巧いヴォーカリスト」としてしか評価する事はできない、と感じてしまった・・・それくらい、海外の、特にアメリカでの女性ヴォーカリストの層は厚く、故・ホイットニー・ヒューストン、マライア・キャリーなど名前を挙げればキリはない。この差は、MISIAには申し訳ないが、ヴォーカリストとしての喉の構造が違うとしか説明はできないと思う。けれども、MISIAが日本を代表する女性ヴォーカリストとして長く活動をしていく事は、おそらく間違いはないだろう。余談になるけれども、MISIAは、動物愛護活動を長く続いているとも聞いている。


 

● 北島三郎について。

日本が世界に誇るソウル・ミュージック「演歌」についても書いてみたいのだけれど、日本人なのに、わたしはこのジャンルについてもめっぽう弱い・・・「演歌」は、日本の民謡から発展して、大衆音楽に発展したくらいの事しか知識がない・・・

けれど「サブちゃん」こと「北島三郎」についてなら、少しは何か書けるのではいかと思ったので、ここでは北島三郎について書いてみたいと思う。
北島三郎は、1958年にデビューして、その後、演歌一筋、日本を代表するヴォーカリストとして現在に至っている。そのヴォーカリストとしての実力は、玉置浩二の比ではなく、アメリカの・故フランク・シナトラと肩を並べるほどであると、わたしは思っている。
活動歴半世紀以上、紅白歌合戦への連続出場は連続50回という記録を持ち、その50回目を区切りに、紅白歌合戦からは身を引くという事となり、50回目を目指してあちこちに手を回し、紅白歌合戦への出場を目論んでいた、和田アキ子とは本当に精神性のレベルが違い過ぎるとしか言いようがない。日本のカーネギー・ホールとも言える「新宿コマ劇場」での座長としての貫禄あるステージ活動もまた、圧倒的であるとしか言いようがない、と聞く。家が八王子にある北島三郎に憧れて、若い歌手たちが頻繁に弟子入りに訪れるという事も、当然の事だと言えるだろう。
ところで、北島三郎の代表曲の1つで、若い層にも充分知られている「与作」という曲は、「与作は木を切る ヘイヘイホー」というフレーズが印象的な大変な名曲だと思われるが、「与作とは、一体、誰なのか?なぜ、そんなに夢中になって木を切っているのか?」・・・が、明かされていないのが、謎めいていて、本当に素晴らしいと言えよう。まさにレジェンドとしての仕事を全うしているとしか言いようがない。
北島三郎は、現在84歳。昨年の紅白歌合戦では、特別席が用意され、4時間以上もの歌手たちの歌唱にひたすら耳を傾けていたが、最後にウッチャンから、紅白歌合戦についての感想を求められて、このように述べたのだった。「いやあ、わたしは本当に感動をしました。わたしは、半世紀以上、歌手をやってきたわけだけれども、時代は移り変わって、ジャンルなどには関わらず、素晴らしい歌手たちが、これからの音楽界を引っ張っていくのだなあ、とつくづく思って、感無量になりました」と言い切って、その姿を観たわたしは、北島三郎に対して「国民栄誉賞」を贈っても良いのではないかと強く、思ったのだった。政府の政治家たちの耳は、一体どういう構造をしているのかと、激しい怒りが湧いてきたほどであった。
日本が誇る音楽界のレジェンド、北島三郎には、ぜひ長生きをしていただいて、その歌声を皆んなに届けてほしいものだと、わたしは強く願ったのだった・・・


 

● 岡林信康について。

わたしが、日本のフォーク・ソングを熱心に聴くようになったのは、高校1年生のときの事だった。最初に大ファンになったのは、吉田拓郎であった。インディーズ・レーベル、「エレック・レコード」から、メジャー・レーベル「CBSソニー」へと移籍してからは、フォークの神様と呼ばれ、リリースするアルバムのどれもが大ヒットして、その人気は、大変なものだった。
しかし、その後、吉田拓郎、井上陽水、小室等、泉谷しげるの4人が立ち上げた新レーベル「フォーライフ・レコード」の社長になってからは、吉田拓郎の音楽家としての才能は、どんどん枯渇したと感じたわたしは、だんだんフォーク・ソングからは離れていってしまった・・・
・・・さて、前置きが長くなってしまったけれども、わたしにとっての第2次フォーク・ソング・ブームが始まったのは、2年ほど前からで、誰のファンになったかというと、吉田拓郎の先行世代で1968年にデビューした、最初のフォーク・ソングの神様と言われた、岡林信康である。
岡林信康の実家は、京都の教会で、父親はその教会の牧師だった。そういう事もあって、岡林信康は、同志社大学の神学部に進学したのだが、その後、牧師の父親との確執のため、家出をして、姿を消してしまった。岡林信康は、職業を転々として、アコースティック・ギターを持つようになり、1968年にフォーク・ソング歌手として、デビューする事となった。そして、山谷の労働者の暮らしぶりを歌った、あまりにも有名な「山谷ブルース」、部落問題をテーマにして歌った「チューリップのアップリケ」「手紙」などの曲を次々に発表して、一躍、時の人となったのだった。
1969年に開かれた「全日本フォーク・ジャンボリー」で、岡林信康は早くも、アコースティック・ギターからエレキ・ギターに持ち替え、フォーク・ソングのファンからの罵声を浴びつつ、ステージに立ち、「私たちの望むものは」「自由への長い旅」などのプロテスト・ソングを披露した。その時のバック・バンドの顔ぶれは、ベース・ギター細野晴臣、エレキ・ギター高中正義、鈴木茂、ドラムス松本隆、キーボード矢野誠(矢野顕子の元夫)という顔ぶれで、後の「はっぴぃえんど」の主要な顔ぶれとなるミュージシャンが3人も含まれていたというのは、凄い事である。この事からも、岡林信康の目利きぶりが、はっきりと分かると言えよう。ちなみに「はっぴぃえんど」は、初めての日本語のロック・バンドとして、今だに語り継がれているけれども、わたしは、そうは思っていない。初めての日本語のロック・バンドは、グループ・サウンズ「スパイダース」であり、「スパイダース」に続く「タイガース」や「テンプターズ」「ゴールデン・カップス」だと、わたしは捉えている。
岡林信康は現在、74歳で、今だにフォークの神様として活動を続けており、昨年23年ぶりのニュー・アルバムをリリースして、大きな話題となった。

岡林信康は、ライヴでのユーモアに富んだMCでも知られているのだが、Facebookでの「岡林信康・オフィシャルサ・サイト」の新しい記事には、次のような事が掲載されていた。

【近況報告⑥】

「散歩中の岡林信康さんが、神社の狛犬(こまいぬ)にかまれるという事件が起こった。フォークの神様と呼ばれた岡林さんを神社の神に仕える狛犬が「商売ガタキ」だと思っての犯行だと思われるが、単なる傷害事件か、それとも複雑な宗教論争に発展するような事件なのか、警察では慎重に捜査を進めている。
(イヌアッチケーニュース)」
2021年8月12日
岡林信康

岡林信康のユーモアは、ここでも健在で、岡林信康のライヴに1度は足を運んでみたいと思っているわたしは、岡林信康には、90歳くらいまで生きていただいて、現役「フォークの神様」として、歌い続けてほしいものだと願っているのだった。

 

● 小室哲哉について。

今では、過小評価、或るいは過去の人として扱われているようなところのある、小室哲哉ではあるが、小室哲哉は、J─POP史上最高の天才である。なぜわたしが、そう思うのかというと、1986年の渡辺美里の大ヒット曲「My Revolution」の作曲家であるという、この1点に尽きる。こんな名曲、そうそう、誰にでも創れるものではない。
1980年代の、TM NETWORK(小室哲哉、宇都宮隆、木根尚登の3人で構成される日本の音楽ユニット。このユニットにも、「GET WILD」という名曲がある)での活動を経て、プロデューサーとしても頭角をどんどん表していった小室哲哉だが、デビューしても鳴かずとまずだったアイドル歌手、安室奈美恵や華原朋美の才能に気づき、一流のアイドルとして成長させていった能力は、本当に大きいものだった。ただ小室哲哉のプロデュースから早めに手を引いた安室奈美恵に対して、小室哲哉と恋愛関係になり、すっかり寄り添って、結局、小室哲哉に捨てられて、自殺未遂をした後に、情緒不安定になり、どんどん人気が凋落していった華原朋美は、とても気の毒な事になってしまった。今では40歳代後半となり、一般人と結婚して、育児をしながら、ヒット曲はもう出ないが、今でもテレビで昔と変わらぬ歌唱をしている華原朋美を観ると、「がんばれ、トモちゃん!!」と応援してしまうのは、おそらく、わたしだけではないだろう。
さて、華原朋美を切り捨てた後、卓越したキーボード奏者の自分自身とヴォーカリストのケイコ、ラッパーのマーク・パンサーと組んで、1995年から1996年にかけて、J─ポップ界に小室哲哉をリーダーとしたグループ、globeを結成して、日本のJ─POP界に一大ムーブメントを巻き起こした事は、多くの人の記憶に残っている事だろう。
しかし、小室哲哉は、美輪明宏の言う「人生は、プラス・マイナスの法則で出来ている。人生をすっかり謳歌した人には大きな凋落が待っており、結局は、プラス・マイナス・ゼロなのである」という事を見事に体現してしまった・・・妻のケイコは脳梗塞で倒れ、自分自身は著作権関係の問題で逮捕され、財産を失い、とうとう還暦を前にして、音楽界から引退する事となってしまった・・・
そのような小室哲哉ではあるが、やはり彼の音楽家としての才能は、今でも色褪せる
事はなく、globeの残した数々のヒット曲には、必ず、再評価を得る時代が訪れる事であろうという、わたしの予想は、確実に当たると信じている。頑張れ、小室哲哉!!

 

* わたしはいま58歳で、10年経てば70歳近くになってしまうという事に、最近気がついた。日本人の寿命が長くなったとはいえ、70歳ちょっとで亡くなってしまう人たちは、かなり多い。10年経ってしまうのなんて、あっと言う間の事である。
* わたしは、30年以上詩は書き続けてきたけれども、散文の方は常に苦手意識があって、殆ど書いてこなかったという経緯があり「いま、書かなくて、一体いつ書くのだ」という気もちになり、遅ればせながらようやく散文を書き始めた、というわけなのである。これから先、エッセイだけではなく、たくさんの論考を書いていきたいと考えている。

 

2021年 8月16日 今井義行

 

 

 

訪問看護は いかがでしょう

 

今井義行

 
 

わたしは 週に2回 精神疾患に特化した 訪問看護を 受けている



今日の朝も まだ 成り立てだという 訪問看護師さんが 訪れた



その 訪問看護師さんは 猫柄の マスクなんて してる・・・



(それにしても なんて 若くて かわいい 看護師さん なんだろう)



「はじめまして」
「はじめまして」



訪問してくれる 訪問看護師さんは 決まっていなくて その日によって 変わる



(その 訪問看護師さんたちが 揃いも揃って 皆んな 20代前半の かわいい 
娘たちばかりなのは 何故なんだろう)




わたしは ピンッと きた




(訪問看護ステーションも ビジネスなので 応募者が 資格を持っているのは 当然のこととして 所長の採用基準が 20代前半の かわいい 娘たちばかりに 
絞り込まれているのは 明らかだな)




(これは 風俗 か)




「まず 検温を しましょう」

「はい」

「異常なし ですね」 

「次 血圧を 測りましょう」

「はい」

「異常なし ですね」

「次 脈拍を 測りましょう」

「はい」
看護師さんが わたしの手を 柔らかく 握ってくれた・・・

「異常なし ですね」



わたしは まず わたしの メンタル面での 著しい低下について 相談したかったのだけれど

訪問看護師さんの方から 先に わたしに 相談をしてきた



「わたし マクドナルドの マックフルーリー(アイスデザート)を 食べるのが 
好きなんですけど きのう 体重を 測ったら 1kg 増えてて ショックだったんです
どうしたら いいんでしょうか」



「アイスクリームは 300Kcalくらい ありますからね こまめに 体重測定をして 
体重の キープを 心がけていくのが 良いんじゃないでしょうか」



「わかりました そうしてみます」

「ところで 看護師さんは 何故 敢えて 精神疾患に特化した 訪問看護ステーションを 就職先に 選ばれたのですか」



「そうですね・・・それは わたしの 家族に 精神疾患者がいて それが きっかけで 看護学校に 進学して 何か 精神疾患者の役に立てないかなと 思ったからですね 他の看護師たちも そんな感じだと 思います」



「・・・そうなのですね」



わたしは 今日の 訪問看護師さんを 見送りながら

「看護師さんの お話を 聞けて 嬉しかったです ありがとうございました」

わたしは 頭を 下げていた



わたしはその晩 強い抗うつ薬と 強い睡眠薬を服薬して 就寝したものの 著しい
メンタル面での問題を抱えているにも関わらず どうにも気もちが 高揚してしまって なかなか 寝つく事が できなかった


わたしは 翌朝 訪問看護ステーションの所長宛てに メールを送ってみた



〈訪問看護ステーション

 所長 様



 いつも 大変 お世話になっております

 ところで どうしても ご相談したい事
 があるのですけれども〉  




1時間ほどして ノックを 強く 叩く音がした 訪問看護ステーションの所長が訪れた



「良かった・・・突然の 体調不良でなくて 安心しました」 



「心配おかけして 申し訳ありませんでした ところで 所長に 提案が あるのです

いつも 看護師さんたちには お世話になっていて ありがたい限りです

それなのに このような事を提案して 毎日 がんばっている 看護師さんたちには 大変申し訳ないとも思うのですが・・・



看護師さんの 訪問看護は 30分ですね 最初の15分間は 体温測定・血圧測定・脈拍測定ですね 残りの15分間は 健康相談や雑談となっています」



「そのような システムです」



「この後半の15分の内 5分を 希望する患者さんへの オプションとして
 「ディープ・キス」へと 充ててみるのです



昨日 訪問看護師さんに 脈拍測定をしていただいたとき 手を握ってもらいました そのとき 得も言われぬ 気もちが 湧き上がってきました 



就寝時間を過ぎても 

いつもなら メンタル面での著しい低下に 苦しむのですが 昨夜は とても 穏やかな気もちになって メンタル面での著しい低下が 収まったのです」 



「そうだったのですね」



「希望者する 患者さんには もう1つ オプションとして 訪問看護師さんを 「指名」できるというのは いかがでしょうか

断っておきますが このプランには 確かに「風俗的」な面はありますが これは 
あくまで「医療行為」として行なうものです」

「普通のキスでは ダメですか」 
「ディープが いいです」



「実際のところ わたしたちのビジネスとは「風俗経営」に属するものだとは 分かっているんです・・・

ですから 突然の 提案に すっかり驚いてしまいました・・・

ところで 「ディープ・キス」には 患者さんの 気もちとしては どれくらいの 金額を お考えですか?」 




(所長さんの ビジネス魂が 釣れたかな・・・) 




「税込み5000円です 看護師さんの「指名」をするときには プラス税込み1000円です 後腐れのない「医療行為」としての「ディープ・キス」は いかがでしょうか?

わたしには 既に 指名させてもらいたい 看護師さんが 3人います」



「・・・まあまあの 金額設定だとは思います しかし現在よりも 収益は上がるのだろうか ところで コロナ対策については どのように お考えですか?「ディープ・キス」は 濃厚接触の極みになると思いますが」



「コロナ感染を危惧する 訪問看護師さんには 大変申し訳ないですが 退社して
いただきます コロナ感染を危惧しない

若い看護師さんは オーディションで 積極的に 採用をしていきます



・・・もしも わたしが 指名させてもらいたい 3人の 看護師さんが 
辞めてしまったら 本当に 悲しいのですが」



「・・・患者さん 応募者はいると お感じですか」



「おそらく いま 生活に 困窮している 若い看護師さんたちは とても 多いのではないかと 想像しています・・・」



「患者さん とても メンタル面での著しい低下を抱えているようには見えないです」



「そうかも しれませんね けれども このような 対話も 既に わたしに とっては 大切な 「医療行為」と なっています



この提案は 訪問看護を受けている すべての精神疾患者にとって「救済」になると 思っています



何より わたしは この数年間 病気のため 「ディープ・キス」など 経験できては 
いませんから」



「・・・それでは よく考えさせてもらいましょう 患者さん もしも よろしければ 
わたしたちの ビジネス・パートナーになって もらえませんか 一緒に考えて
もらいたい事など 多くあります」



「はい いまは オリンピックなど 観ている場合ではないと 思うのです
この プランの方が よほど 「平和の祭典」になると思うのです」



「その通りかもしれません わたし 今日は これで 失礼します
これから 早速 訪問看護ステーションのリニューアルについて 検討に 入って
みなくてはなりません

何か ありましたら メールか スマホで 相談させてもらいます」



「もちろんです 新人看護師さんの オーディションを行なう際には 必ずわたしも同席させてください」



「あはははは・・・」

「あはははは・・・」




・・・・・・・・・・




「承知しました わたしたち これからは 手を取りあって がんばって いきましょう」



「はい がんばって いきましょう」

 

 

 

書けば、形になる。

── わたしを育ててくれた洋楽への短い考察

 

今井義行

 
 

プロローグ

詩は、それまでの、或いは現在の、作者の体験から生まれてくるものだと思うけれど、そして、それは概ね作者の読書体験であることが多いように思うけれど。わたしも或る程度は読書体験はしてきたものの、わたしは読書がどうにも苦手なので、その内容は殆ど忘れてしまった。

それでは、わたしが何から影響を受けてきたのかというと小学生から現在に至るまでの、洋楽鑑賞だと思う。ただし、わたしは洋楽鑑賞マニアではないので、有名なミュージシャンについてしか語ることはできない。それでも、「書けば、形になる。」と信じてエッセイとして、書き残しておくことにした。(登場するミュージシャンの名前は順不同。また、わたしの記憶に基づいた記述であるため、間違いがあるかもしれない。)

 

● ローリング・ストーンズについて。

言わずと知れたビートルズと並ぶイギリス出身のバンド。だけれど、ブルース・ベースの曲が、あまりにもキャッチーでないため高校生まで、その良さが殆ど分からなかった。

ところがなぜか大学生になってから、そのグニャグニャしたグルーヴに、すっかり飲み込まれてしまった。

アルバムは1960年代末からの「レット・イット・ブリード」から1976年の「女たち」までは名盤続きで、1枚に絞り込むなどできない。

ちなみに有名な「スタート・ミー・アップ」を含む1980年の「刺青の男」は、過去に録音した曲の寄せ集めであるため、かなり大味で名盤とは言えない。

ところで、ギタリストにミック・テイラーが在籍していた時代が、ローリング・ストーンズの最盛期だったことはよく言われることだ。ミック・テイラーが脱退した後、誰が後任になるかについてジェフ・ベックという噂が出た。ジェフ・ベックを見かける度に「吐きそうになる」と言っていたキース・リチャーズの発言からして、さすがにそれはないだろうと思ってはいたが、まあ無事に後任ギタリストは人柄も穏やかだと言われるロン・ウッドに収まった。ロン・ウッドならバンド内の不和も和らげられるだろうから最適だと思った。

ところでバンドの最年長のチャーリー・ワッツは常々「ローリング・ストーンズは会社のようなもの。わたしはローリング・ストーンズの社員なんだよ。」と言っていた。そのチャーリー・ワッツがミック・ジャガーを激しく殴りつけたことがあるという。ミック・ジャガーがチャーリー・ワッツに向かって「俺のドラマー。」と言ったからだ。チャーリー・ワッツはミック・ジャガーの傲慢に向かって「2度とわたしのことを、俺のドラマーなんて呼ぶな。呼んだらタダじゃおかない!」と叫んだのだ。

もう10年に1度くらいしかオリジナル・アルバムをリリースしなくなってしまったローリング・ストーンズだけれど、現在ニュー・アルバムを制作中だと聞く。ローリング・ストーンズは、どこまで転がり続けるのだろう?わたしは、ローリング・ストーンズは解散などせずに、自然消滅していくような気がしている・・・。

 

● マイケル・ジャクソンについて。



マイケル・ジャクソンは、ソロ・アーティストして、群を抜いて大成功を治めたミュージシャンであると思う。わたしは、マイケル・ジャクソンが、本当に好きである。

1970年代後半に、「オズの魔法使い」が原作で、黒人キャストだけで制作された「ウィズ」というミュージカル映画があり、音楽監督はクインシー・ジョーンズだった。主役のドロシー役は、ちょっと歳の行き過ぎたダイアナ・ロスで、そして、かかし役がその頃10代後半だったマイケル・ジャクソンだった。

映画は、ブリキマンやライオンやかかしたちが踊りながら去っていく場面で終わるのだが、マイケル・ジャクソンが演じるかかしのダンスだけが突出していて驚かされたものだ。

多くの人たちが、クインシー・ジョーンズがマイケル・ジャクソンを見出したと思っているようだが、実際はその逆で、ソロ・アーティストとして低迷していたマイケル・ジャクソンが、クインシー・ジョーンズに「僕の音楽プロデューサーになってくれないか?」と持ちかけたのが、事の始まりだ。そこには、マイケル・ジャクソンの目利きぶりが、早くも、顕著によく現れている。

その後は、誰もが知っての通り、クインシー・ジョーンズがプロデュースした「オフ・ザ・ウォール」「スリラー」「バッド」という大ヒット・アルバムが続くが、わたしは、そのどれもが嫌いである。殊に世界で5000万枚を売り上げ、今でも売れ続けているという「スリラー」は、とても嫌いだ。

「スリラー」が大ヒットした1984年当時は、MTVが台頭してきた時代であり、視覚的に誰もがマイケル・ジャクソンを観られるようになっていた。マイケル・ジャクソンのパフォーマンスが神がかっていた事もあるが、また黒人アーティストとして初めて白人アーティストのエドワード・ヴァン・ヘイレンやポール・マッカートニーを起用した事もあるが、とにかく歌詞が幼稚過ぎた。それが5000万枚ものセールスを挙げたというのは、子どもから高齢者までが楽しめる音造りと内容だったからではないだろうか?

わたしがマイケル・ジャクソンを本当に天才だと思ったのは、マイケル・ジャクソンがクインシー・ジョーンズの手を離れて制作した「デンジャラス」からである。このアルバムでは、もの凄くお金をかけて錚々たるサウンド・クリエイターを掻き集めて制作された作品である事は明白だったが、そして並のミュージシャンだったならば、彼らの操り人形となってしまうところだが、マイケル・ジャクソンの場合は例外的にそのような事は超越していた。このアルバムでは、錚々たるサウンド・クリエイターと天才マイケル・ジャクソンとがぶつかり合う奇跡的な作品となっていた。

そして「デンジャラス・ツアー」の出来がまた素晴らし過ぎるものだった。人類にでき得る最高のものを創出したと言える。
ところで、マイケル・ジャクソンは、見れば明白だと言うのに、何故「自分は、整形などしてはいない」と否定し続けたのだろうか?人間誰しも老化していくというのにそれに徹底的に抗ったという事なのだろうか?天才のする行為は本当に不可解という他ないが、マイケル・ジャクソンの顔が段々と崩れていくのには揶揄されても仕方のないようなところもあった。
マイケル・ジャクソンが50歳を迎えたとき、マイケル・ジャクソンはロンドンのアリーナでコンサートをすると記者会見をして、「THIS IS IT!!(やるぞ!!)」と大きな意欲を見せた。ところが、その後、マイケル・ジャクソンは急逝してしまい、ロンドンでのアリーナ・コンサートは、無くなってしまった・・・マイケル・ジャクソンのこの死には諸説あるようだけれども、わたしは「暗殺」だと思っている。マイケル・ジャクソンを生かしておいてはならないという巨大な謎の勢力が、確かに存在していたに違いないと思うのだ。


 

●クイーンについて。

クイーンは、フレディ・マーキュリーのエイズによる45歳という若き死を以って神格化されたバンドだという評価が固まっているようだが、本当にそうなのだろうか?クイーンは確かに巧いバンドなのだが、リアル・タイムで中学生の頃からクイーンのアルバムを聴き続けていた者には、どうにも違和感がある。

クイーンの人気は日本から火がついたもので、クイーンのメンバーも大の日本びいきであり、またメンバーのルックスも良かったので、とにかく女子中学生の間で爆発的にアイドルとして人気が出た。当時のアイドル・ロック・バンドを中心に発行されていたミュージック・ライフの人気ランクでは常にクイーンの各メンバーが首位を独走していたのを覚えている。それ故、男子のロック・ファンからは、クイーンを聴いている奴らは情けないという事になってしまいわたしと妹は、密かにクイーンを聴いていた・・・

クイーンのアルバムでは、あまりにも有名な「ボヘミアン・ラプソディ」を含むサード・アルバム「オペラ座の夜」が最高傑作と言われているようだが、それにはあまり異論はないのだけれど「オペラ座の夜」は多彩な種類の音楽から成り立っているためロック・アルバムとしての最高傑作を挙げるとすれば、ヒット曲「キラー・クイーン」を含む、セカンド・アルバムの「シアー・ハート・アタック」ではないかと思う。このアルバムでは、ブライアン・メイのギター、ロジャー・テイラーのドラムス、ジョン・ディーコンのベース、フレディ・マーキュリーのヴォーカル、その全てが絡み合って、見事なロック・アルバムになっていると思う。
フレディ・マーキュリーの45歳でのエイズによる早逝は、「早すぎる才能の死を悼む。」という論調、或るいは「可哀そう。」という論調も含まれていたと思うが、わたしは、前者の論調には同意するものの「可哀そう」という見方には、大変な違和感を覚えてしまう。
わたしは、フレディ・マーキュリーの人生の選択肢には、2つあったように思われる。1つ目は「ファンのためにも、ヴォーカリストとして末永く歌い続ける。」という事、もう1つは「性的嗜好として個人的な男色家としての人生を愉しみ切る。」という事。フレディ・マーキュリーは後者を選択したという事だ。セーフ・セックスなど一切心がけず、あくまでナマでの性行為に没頭し、エイズに感染したという事は、アナル・セックスを好み、精液を直腸に注ぎ込まれる事に至福の喜びを感じたという事で、そのセックスには微塵の後悔などなかっただろう。わたしは、この事についてはフレディ・マーキュリーに拍手を送りたい気もちだ。

わたしが社会人になった1986年は、アメリカからエイズが上陸した年で、「せっかくこれからセックスを愉しもうと思っていたのに、すっかり水を差されてしまった。」という落胆でいっぱいだった。この事は、つまり自分で自分の命を守ろうとする事であり、数十年経って、今やコロナ禍で世界は大騒ぎ。わたしには、表現活動を続けていきたいという願いがあるにしても、マスク着用、手指のアルコール消毒、手洗い、うがいの励行・・・というように、未だ自分の命を守るために、ちまちまと努力しているわけである。必要な事なのかもしれないが、何だか情けない人生を送ってきてしまったような気も何処かに持っているような気もする・・・

フレディ・マーキュリーは、ヴォーカリストとしても素晴らしかったと思うけれど、自分の人生を例え短命でもきっちり謳歌したという点で、尊敬に値すると、わたしは思うのだ。


 

● カーペンターズについて。


わたしが小学校4年生のときに、自分のお小遣いで初めて買った洋楽のレコードが、カーペンターズの「シング」だった。本当は「イエスタデイ・ワンス・モア」のシングルが欲しかったのだけれど、売り切れだった。1973年当時の日本は、空前のカーペンターズ・ブームで湧いていて、武道館での来日公演のチケットの申し込みはビートルズを超えたと大きな話題になっていた事をよく覚えている。もちろん本国アメリカでもヨーロッパ各国でもカーペンターズは大人気だった。

カーペンターズは、作曲家バート・バカラックの流れを汲むアーティストで、1969年のデビュー以来、プロデューサー兼アレンジャーの兄リチャード・カーペンターとヴォーカルの妹のカレン・カーペンターと共にハーモニーの美しいカーペンターズ・サウンドを造形していき、セカンド・アルバムに収録されていた「遥かなる影」のビルボード・チャート1位をきっかけに、アルバムのリリースを重ねていくごとにそのサウンドは洗練されていき、多忙なツアーの合間に制作されたとはとても思えないアルバム「ナウ・アンド・ゼン」でそのサウンドと人気は頂点を極めた。何よりアルト・ヴォイスが大変に魅力的で英語の教材にもなったというカレン・カーペンターのヴォーカルの魅力がカーペンターズ・サウンドの中核を成していたのは確かだが、リチャード・カーペンターのカレン・カーペンターのヴォーカリストとしての才能を活かし切るプロデューサー兼アレンジャーの仕事振りも実に的確なものだった。あまりにも有名な「イエスタデイ・ワンス・モア」が弱冠20歳のカレン・カーペンターの歌唱力で発表された事には今でも驚きを禁じを無い。

リチャード・カーペンターは常々カーペンターズ・サウンドとは「タイムリー・アンド・タイムレスにある」のだと語っていたのだが、その意味は、後にファンが知る事となった・・・
ポップ・グループが避ける事のできない人気の少しづつの凋落も、アルバム「ナウ・アンド・ゼン」の発表後、3年振りにリリースされた「ホライゾン」あたりから明確になっていった。このアルバムからは明るい曲調の「プリーズ・ミスター・ポストマン」がシングル・カットされ、見事にビルボード・チャートの1位に輝き、そのポップ・サウンドとしての出来栄えは実に素晴らしかったものの、それまでのカーペンターズの魅力が、片思いの女性の心情を切々と歌い上げる事の魅力が中核を成していたにも関わらず「プリーズ・ミスター・ポストマン」は万人狙いとも言えるファミリー・レストラン的なヒット曲として成功してしまったため、その後が続かなくなり、人気の凋落が始まってしまった。そして、若すぎるカレン・カーペンターの拒食症による1983年の32歳での若すぎる死は、カーペンターズ・サウンドの終わりを告げるには、あまりにも凄惨過ぎた。

後に日本で制作されたテレビ・ドラマ「未成年」では、カーペンターズの「青春の輝き」という曲が主題歌として用いられ、テレビ局には「カーペンターズのニュー・アルバムはいつ発売されるですか?」「カーペンターズの来日公演は、いつ行われるのですか?」という問合せが殺到して、カーペンターズのベスト・アルバムは瞬く間にオリコン・チャートを駆け上がり、200万枚もの売り上げを記録して、社会現象にまでなってしまった。アメリカのビルボード・チャートではこの曲は25位でとどまっていてヒット曲にはならなかったのだが、この曲の日本での成功により、「青春の輝き」は、日本では「イエスタデイ・ワンス・モア」を超えるものとなった。
ここに、リチャード・カーペンターが公言していた、カーペンターズ・サウンドとは「タイムリー・アンド・タイムレスにある」という言葉が証明される事となった。未だに、少なくとも日本に於いては、カーペンターズの代表曲は「青春の輝き」であるとされ、いつまでも聴き継がれている。

 

● ビー・ジーズについて。


ビー・ジーズは1970年に日本で公開され、大ヒットとなった映画「小さな恋のメロディ」で用いられた「メロディ・フェア」や「若葉のころ」によって、白人ポップ・グループとして認識されていると思うのだが、その本質は白人ソウル・グループとしての才能にあると思う。やはり「小さな恋のメロディ」で用いられた「トゥ・ラヴ・サムバディ」という曲は、元々飛行機事故で亡くなってしまったオーティス・レディングに向けて制作されたものだったと言う。
その後、人気の浮き沈みを乗り越えながら、やはり大ヒットした映画「サタディ・ナイト・フィーバー」の音楽を全面的に担当して、ファルセット・ボイスを駆使した独特のヴォーカル・スタイルで世界的にディスコ・ミュージックのブームを巻き起こす事となったわけだが、このときの音楽プロデューサーがアレサ・フランクリンの名盤「スピリット・イン・ザ・ダーク」を手掛けたアリフ・マーディンであった事は重要な事だ。

ビー・ジーズが1970後半にヒット曲を立て続けに発表した頃、そのファルセット・ヴォイスには賛否両論あったようだが、わたしはその後に登場する事となる若き日のプリンスの最初期のアルバムに見られたファルセット・ヴォイスにその影響が顕著に現れていると考えている。

また、ビー・ジーズは黒人アーティストへの楽曲提供も盛んに行なっており、ダイアナ・ロスに提供された曲も、ディオンヌ・ワーウィックに提供された曲も、軒並み大ヒットを記録していた。
わたしは、ビー・ジーズの横浜アリーナに於ける来日公演を聴きに行ったが、初期のヒット曲からディスコ・ミュージック時代までの曲が立て続けに披露され、その1連の流れが全く違和感を感じさせなかった事に、やはりビー・ジーズは、白人ソウル・グループなのだという思いを確信した事を覚えている。

その後、ディスコ・サウンド・ブームの終焉とともに、また3人のメンバーの内、2人のメンバーが亡くなってしまった事により、ビー・ジーズは自然消滅した形になっているようだが、ビー・ジーズが世に送り出した楽曲の数々は、記録として残っているばかりではなく、人々の記憶に残るものとなっているように思う。


 

●ボブ・ディランについて。

ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞した事は、まだ記憶に新しいところだが、ボブ・ディラン自身は受賞式には出席せず、代わりにパティ・スミスが受賞式に出席して、見事にボブ・ディランの「激しい雨が降る」を歌い上げ、人々に感銘を与えた事は記録に残る事だと思う。ボブ・ディランもパティ・スミスも、ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞には、ノーベル賞の話題作りだと気づいていたと思うのだが、パティ・スミスの受賞式への出席は、ボブ・ディランへのリスペクトそのものだったと言える。その頃、当のボブ・ディランは、劣化した声で「ネバーエンディング・ツアー」なるものを続けていたようで、アメリカの何処にいるのかもわからず、連絡がつかなかったようで、老境に達しながら「何をやっているんだ。」という具合で、気まぐれというか、何処か可愛らしいというか(笑)、実にしょうもない男ではある・・・

ボブ・ディランは、フォーク・ソングの先駆け、ウディ・ガスリーの影響を受けて、プロテスト・ソング「風に吹かれて」や「時代は変わる」などを発表して、フォークソング・ファンに熱狂的に迎えられたが、その後、歌の巧いモダン・フォーク・グループ、ピーター・ポール・アンド・マリーにより、それらの曲のメロディ・ラインがとても美しい事が認知され、ヒット曲にもなった。
1960年代半ば、ボブ・ディランがアコースティック・ギターからエレキ・ギターに持ち変えて活動を始めたとき、かねてからのフォークソング・ファンからは激しい罵声を浴びる事となったのだが、そんなときにリリースされた「ライク・ア・ローリング・ストーン」という6分近い曲は、全米で広く受け止められ、ボブ・ディランにとって、初のビルボード・チャートの1位を記録する事になったのだった。

フォークソング・シンガーがアコースティック・ギターからエレキ・ギターに持ち変え、フォークソング・ファンから罵声を浴びるという現象は日本にも飛び火して、岡林信康や吉田拓郎がそのような体験をしたわけだが、吉田拓郎の「結婚しようよ」が大ヒットしてしまった事により、「ライク・ア・ローリング・ストーン」が受け容れられたように日本のフォーク・シンガーたちも一般に受け容れられる事になったのだった。

1978年にボブ・ディランが初の来日公演を行なったとき、演奏スタイルを次々に変えてしまうボブ・ディランは、派手なラスベガス・ショーのスタイルで演奏して、聴衆を戸惑わせた。そのとき聴衆の1人としてボブ・ディランの演奏に接した美空ひばりからは「岡林信康の方が遥かに良い」と言われる事ともなったのだった。その発言には、美空ひばりが岡林信康から2曲の作品を提供されていた事も関係していたといういきさつもあるのではないかとも思われる。

ボブ・ディランの活動の全盛期はビートルズをも嫉妬させたという、1960年代末のアルバム「ブロンド・オン・ブロンド」から1975年のアルバム「欲望」までとされ、殊に「血の轍」は最高傑作とされているようで、わたしはその事に何の異論はないけれども、わたしにとっての愛聴盤は地味なカントリー・アルバム「ナッシュビル・スカイライン」で、1曲目のカントリー界の大御所ジョニー・キャッシュとの掛け合いによる曲も何の遜色もなく、見事なものとなっている。
デビューから現在に至るまで、ボブ・ディランのフォロワーは後を絶たないが、当のボブ・ディランは「ネバーエンディング・ツアー」で、今頃、アメリカの何処にいるのだろうか・・・?

 

●デヴィッド・ボウイについて。

2016年に(もう、そんなに経つのか)デヴィッド・ボウイが亡くなって、レディ・ガガが先頭に立って、追悼集会を行なったり、遺作となったアルバム「ブラック・スター」がビルボード・チャートの1位になったりしたときも、わたしはデヴィッド・ボウイの長年のファンだったにも関わらず、あまり大きくは心が動かなかった。

10年ほどアルバムのリリースがなかったので、どうしたのか、と思ってはいたけれども「地球に落ちてきた男」とまで言われていたデヴィッド・ボウイでさえ、癌で69歳で亡くなってしまうのだな・・・とは漠然と思った。
リリースされたアルバムは殆ど買い揃え、デヴィッド・ボウイの生涯を辿ってきたわたしは、デヴィッド・ボウイから多くの事を学んできたように思う。
知っている人は多いと思うが、1972年に、「ジキー・スター・ダスト」というキャラクターを自らに与えてイギリスのグラム・ロックを牽引したデヴィッド・ボウイ。顔に独創的なメイクを施し、山本寛斎デザインの衣装に身を包み、そのパフォーマンスは多くのオーディエンスを虜にした。何よりもとにかく「1番初めに挑戦してみる。」というアーティストとしての姿勢に魅了された。

デヴィッド・ボウイは、そのような派手なパフォーマンスをしながらも、インタビューでは次のように答えている。「わたしは、ボブ・ディランのようなアーティストを目指している。あくまでアルバム・アーティストとして在り続けて、時々シングルのヒット曲を出すような・・・。」
実際デヴィッド・ボウイは、「アラディン・セイン」「ダイアモンドの犬」などとキャラクターを変え続けて、アルバムの名盤を本国イギリスを中心にリリースし、精力的にツアーを展開しながら、時々シングルのヒット曲を出すという姿勢を貫いた。

そんなデヴィッド・ボウイではあったが、尖鋭的なアルバムを発表したのは、アルバムの制作場所をベルリンに移したり、アメリカに移したり、また本国イギリスに移したりしながらアルバムを発表した1979年のアルバム「スケアリー・モンスターズ」までに限られている。

その後、デヴィッド・ボウイは1983年制作の大島渚が監督した映画「戦場のメリークリスマス」に出演して、坂本龍一や北野武と共演したが、坂本龍一が映画音楽作曲家としてアカデミー賞を受賞したり、北野武が芸人から映画監督にも活動の場を広げていった事を考えると、デヴィッド・ボウイの俳優としての活動は凡庸であったと言わざるを得ない。
デヴィッド・ボウイは、再び活動の拠点をアメリカに移し、ヒット・アルバムの仕事人とまで言われたナイル・ロジャースのプロデュースのもと、「レッツ・ダンス」というダンス・アルバムをリリースして、そのアルバムはアメリカを中心に大ヒットしたが、その事は、アメリカでは、ダンサブルなアルバムでしか成功しないという事を証明してしまい、その後のアルバムはその2番煎じとなっていってしまい、尖鋭的であったデヴィッド・ボウイのサウンド造りの活動は、他のアーティストのダンサブルな音造りの後追いの形となってしまい、その事はおそらくデヴィッド・ボウイの死まで続いていったと思われる。
1度手を染めてしまったもので1度成功を得てしまうと、もう後戻りはできないという事をわたしは学んだ。
だからこそ、わたしは2016年にデヴィッド・ボウイが亡くなって、レディ・ガガが先頭に立って、追悼集会を行なったり、遺作となったアルバム「ブラック・スター」がビルボード・チャートの1位になったりしたときも、わたしはデヴィッド・ボウイの長年のファンだったにも関わらず、あまり大きくは心が動かなかったのである。

 

● ビートルズについて。


20世紀に最もその名を世界中に知らしめた、偉大なるロック・バンド、ビートルズの活躍振りに、異論を唱える人はまずいないだろう。リリースされたシングルは全て大ヒット、リリースされたアルバムは全て大ヒット。解散してから50年以上も経つというのに、デジタル・リマスターされた過去のアルバムその全てが今だにビルボード・チャートの上位を占めてしまう事などに於いても、このようなバンドはビートルズをおいて他に例がない。
また、10年に満たないその活動期間に於いて、リリースされるアルバムごとに、リスナーを毎回驚かすような進化が顕著だったという事も本当に大きな要素であるだろう。

そんなビートルズではあるのだけれども、わたしは、ビートルズに対しては、好きでも嫌いでもない。名曲の数々を世に送り出したビートルズに対して、わたしがそのような感情を抱く1つの理由は、単純にそれらの曲に対してのわたしの趣味嗜好によるところが大きいと思う。

とはいえ例外的に、「イエスタデイ」「ペーパー・バック・ライター」「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」「レット・イット・ビー」などは、あるのだけれども・・・

名曲の数々を世に送り出したビートルズに対して、わたしが好きでも嫌いでもないという感情を抱くもう1つの理由は、ビートルズが、そのキャリアに於いて、途中でライヴ活動を辞めてしまい、スタジオ・ワークにすっかり移行していってしまったという点にある。その環境の中で数々の傑作アルバムが制作されていったという事は分かるのだが、ビートルズが何故そのような選択をしていったかの理由については、彼らのファンではないわたしには分からない。

ローリング・ストーンズの大ファンであるわたしにとって、ローリング・ストーンズを好きなその最大の理由の1つは、ローリング・ストーンズがライヴ活動を重要視して、ロックの持つ昂揚感やスリリングさを非常に体現していた事にある。その点に於いて、わたしは、ビートルズに対して、何だか物足りさを感じてしまうのだ。
ビートルズがリリースしたアルバムの中でも、20世紀ポピュラー・ミュージックの金字塔と称される「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」については、各楽曲の質の高さ、各楽曲が緻密に制作されていった事などについて、十分に理解できるのだけれども、とにかく聴いていて、閉塞感が半端でなく、何だか窒息してしまいそうな感覚に、わたしは見舞われてしまうのだ。
このアルバムに影響されて、ローリング・ストーンズが「サタニック・マジェスティーズ」というアルバムを制作して、その出来栄えはなかなか良かったにも関わらず、「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」の出来栄えには遠く及ばなかった事、ビーチ・ボーイズの天才ブライアン・ウィルソンがスタジオに籠もって「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のようなアルバムを制作しようとしたあまり、精神疾患に罹患してしまった事などを考えると、いかに「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」というアルバムが秀でたものである事は分かるのだけれども・・・
また、ビートルズのおびただしい名曲の数々が、ポール・マッカートニーとジョン・レノンの競合によって、緊張感高く制作された事も、非常にビートルズの稀な成功にとって関わっている事だろう。
ビートルズが解散してからのポール・マッカートニーとジョン・レノンのソロ活動にについても見るべきところは多くあるけれども、ビートルズ時代の稀な成功には遠く及ばない。
またビートルズ解散の理由について、オノ・ヨーコがビートルズの活動に割って入ったという事もしばしば指摘されるところだが、ビートルズのファンにとっては、オノ・ヨーコの存在は本当に邪魔で仕方なかった事も想像にかたくないのだが、わたしには、オノ・ヨーコは前衛アーティストとして見るべきところがとても多い人物だと感じられる。
いずれにしても、ビートルズが20世紀に最もその名を世界中に知らしめた、偉大なるロック・バンドである事には変わりはないと、わたしは思っている。

 

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書けば、形になる。書かなければ、思っているだけで終わってしまう。そのような気もちで、わたしは、このエッセイを書いた。

 

 

 

もうすぐ誕生日がやってくる

 

今井義行

 
 

7月の半ばになると 誕生日が おとずれて わたしは 58歳に なる

「お誕生日おめでとう」とか「どうもありがとう」なんて やり取りをするのが 
苦手なので 生年月日は 非公開にしてある

還暦までに もう1回くらい 恋愛を してみたい なんて おもっても いる

病気に なって 会社を 解雇されて

わたしは 詩人に なりたかったので

ハローワークには 行かず 何回か アルバイトをした

(── それが どうした?)
(── それが どうした?)

わたしは 真面目に やっている つもりだったけれど

「わざと おそくやって お金を 稼ごうと して いるんだろう」と 何度も 
言われた

(── それが どうした?)  
(── それが どうした?) 

わたしは アルコールデイケアに 通っていて

まあ いろいろと あって 3か月 デイケアに 行けなかった

デイケアは 3か月 通所が 途絶えると
退所する ルールに なっている

メンバーは 看護師に 「あの人は 急に 来なくなったけど どうしたのですか?」と 尋ねたそうだけど 守秘義務が あるので 「そういう 質問には 答えられません」と 言われて わたしは 死んだことに なっている

(── それが どうした?)
(── それが どうした?)

まあ いろいろと あって

ようやく わたしが たどりついたのが 「作業所」 そこには わたしが 「仕事が遅い」と 皮肉を言う人は いなかった わずかだけれど 工賃も もらえた

(おおっ たどりついちゃったよ!)

「3,215」円などの 金額が とても 大きなものに おもえてしまうのが 不思議だった

(おおっ たどりついちゃったよ!)

作業所には いろいろな メンバーが いて 月曜日には グループホームから 
きている 女の娘が いる わがままで 朝から わあわあ 騒いで 手が 
つけられないのだけれど お昼ごはんのメニューを 決めるとき メンバーが 
食べたいものを 言い合い 多数決で 決めることに なっている 

その娘は 毎回 キーマカレーが
食べたいのだけれど わたしが 知る限り キーマカレーに 決まったことは なく 
その娘は 黙って 結果を 聞いている

彼女は そこで 民主主義を 学んでいるようだ

友人は 1人で 良い

友人は 「社会は 会社より 広い」と わたしに 言った

いま 疫病が 蔓延していて 解雇される人や 閉店せざる得えない商店や 家賃を
払えなくて 行き場を 失っている人たちが 多いと 聞いている

作業所のメンバーは わたしのように 精神障害者年金や 生活保護で 生活している人が ほとんどだけれど 毎月 支給が途絶えることは なく 赤字さえ出さなければ 生活していくことに 支障はない

旅行などには 行けないけれども・・・

わたしは 大病をしても 延命治療なんて ごめんだ な

日本は 何かと 非難の対象に なっているけれども そして その気もちも わかるのだけれども・・・ まだまだ そんなに 見捨てたものでは ないんじゃ ないか?

還暦までに もう1回くらい 恋愛を してみたい なんて おもって いるなんて 
書いたけれど 1生 恋愛なんて できない人も いるのかも しれないな・・・

(恋愛できないとして それが どうした?)

性器は 持っているけれども その人の それは もしかしたら 排泄器官でしかない みたいなのだ

けれど 排泄器官は 性器より 広い!

還暦までには やっぱり 恋愛してみたいな! 

最近 いい人 見つけちゃったんだけれど
35歳差じゃ 眼中に 無いだろう ね!

(── それが どうした?)
(── それが どうした?)

アルバイトなんてのも  やって みたいものだ!

 

 

 

改訂版・無銭飲食

 

今井義行

 
 

バスロータリーの まわりに たくさんある 唐揚げ屋さんの 或る1軒で 
わたしは 唐揚げ定食を 食べた
衣は パリッと していて 鶏肉は とても 柔らかく おいしい 唐揚げ定食だった

店を 出て しばらく 経ってから わたしは 気が ついた・・・
(あれっ?
わたしは お金を 払ったっけ?)

店員さんは 追いかけて こなかったし
わたしは きっと お金を 払ったんだろう なあ・・・

・・・・・・・・・・・・・・

それなのに わたしは 駅前で タクシーを 拾って 「小松川警察署まで 
お願いします」と ドライバーに 頼んで いたのだった
駅前には 交番が あるわけだし わたしは 軽く しらばっくれて しれっとして 
いれば よかった はずなのに なぜだ・・・?

・・・・・・・・・・・・・・

タクシーに 長いあいだ 乗っては みたものの どうしたことか 
わたしは 小松川警察署の 入り口に たどりついて しまっている ようだ
それは どうして なのだろうか?

そう か・・・ わたしは 平井の 或る 唐揚げ屋さんで 「無銭飲食」を したのでは なかった だろうか・・・

お金を払った 記憶も なければ 罪の意識も まったく 無い 
けれども わたしは タクシー乗り場で ドライバーに 「小松川警察署まで 
お願いします」と 言って いた ような 気が する・・・

── それとも 今朝は カボチャを 煮ていたのだった だろうか・・・?

わたしは 階段を 登って 曖昧模糊とした 状態で 小松川警察署の 
インターホンを 押している

「どうされましたか・・・?」と 返事が 返ってきた

「あの・・・ わたし 無銭飲食を して しまった ようなんです・・・」

「そうなのですか? では 中の 待合室に 入ってください・・・」

わたしが 待合室で 座っていると アルコール病棟で 一緒に 入院していた 全盲の 初老の おとこが 「やっていない! やっていない!」と さわいでいるのを 見た・・・ 万引きでも したか?

彼は 生活保護を 受けながら 1人で 暮らして いたのだった・・・

こんな ところで また 出遭ってしまう ことに なるなんて なあ・・・ 
それにしても キツイことは いろいろ あるだろうになあ・・・

いや・・・ もしかしたら 彼は 案外 しあわせに 暮らして いたのでは ないか・・・? それを 阻むものが ただ いるという だけなのでは ないかな?

(ただネ それが 警察官の しごと なんだろう けど ネ・・・)

わたしが 待合室に 座って いると 1人の 警察官が 近づいてきた 
「無銭飲食を したんだってね?」「はい そうらしいんです・・・ でも 本当に 
やったか どうか わからないん です・・・」

何人かの 警察官が 近づいて きた 「それは 悪い ことでは ないのか?」
「悪い ことだと 思います でも 本当に やったのか どうか 
どうしても わからないん です・・・」
「・・・痴呆かなあ? 帰りの 交通費は 持っているのか?」「持っていません」
「それじゃあ パトカーで 送って いくしか ないじゃないか あのね 
パトカーは タクシーじゃ ないんだ よ!」

── それとも 今朝は カボチャを 煮ていたのだった だろうか・・・?

パトカーに 乗って わたしは 窓のそとを ながめていた 
もう 日が くれかけてきている ようだ・・・

そうしたら わたしの 隣りに 座っていた わたしと同じ 
50歳台くらいの 警察官が わたしに 話しかけてきた
「わたしは ながいと 言います こういう ことって よく あるんです よ 
気落ちしないで しっかりと 暮らして いってください ね・・・」

(ああ こういう ひとも いるもの なんだなあ・・・)

翌朝 わたしが ベッドに 横たわって いると 携帯電話の 着信音が 鳴った

(・・・もしかして ながい さん?)

「こちら 小松川健康サポートセンターの
保健師の のざきと 申します いま お電話していても いいですか?」「はい」

小松川健康サポートセンターと いうのは 保健所の 出張所の ような ところだ・・・
わたしは 生活に 困窮していて そこに
何度か 訪ねて いった ような 記憶が ある・・・ けれども 
「これから 会議に はいりますから」と 言われて 
すぐに 門前払いを 食らって しまった ような 気がする・・・

── 或いは カボチャが 煮崩れないように こころを 砕いていたの だったか・・・? 

「小松川警察署から 連絡が あって あなたが 無銭飲食を したらしい との ことでした・・・ 詳しい お話を お聴きしたいので 明日にでも ご自宅に 伺いたいと 思いますが ご在宅されて いますか・・・?」「はい・・・」

(警察署が 動くと すぐに 行政が うごく もの なんだなあ・・・)

翌朝 ドアを ノックする 音がして 開けてみると 3人の 女性が 立っていた

「昨日 お電話を 差し上げた 小松川健康サポートセンターの 
のざきと 申しあげます」
「どうぞ お上がりください・・・」

わたしたちは ちいさな テーブルを はさんで 向かいあった ようだ

「早速ですが 唐揚げ屋さんで 無銭飲食を したのか していないのか 
わからなく なったそうで・・・?」
「はい・・・ そうなんです」
「よく そういうことは あるんですか?」

「いままでは 現実と そうでない側の 区別が わりあい はっきり ついていた 
ように 思うのですが・・・ 最近になって 現実と そうでない側が ないまぜに 
なってきて わけが わからなく なって しまうような ことが 増えてきた 
ような 気がするんです・・・」

── 或いは カボチャが 煮崩れないように こころを 砕いていたの だったか・・・? 

「そうなんですね・・・ もう ご心配なさらないでください これからは わたしたちがサポートして いきますから こちらに いるのが 訪問看護ステーションの 
ほうじょうさん こちらに いるのが ヘルパーさんを 派遣する 会社の よしださんです それぞれ 週に 2回 訪問させて いただく ことに なります 
よろしいですか・・・?」
「はい・・・ ありがとうございます」
「それでは この 書類に 署名と 印鑑を お願いします」

── それとも 今朝は カボチャを 煮ていたのだった だろうか・・・?

(これで わたしの 暮らしは すこしは らくに なって いくのかな・・・)と 
わたしは どことなく うれしく なって いるようだ・・・

── 或いは カボチャが 煮崩れないように こころを 砕いていたの 
だったろうか・・・? 

わたしは ちいさな テーブルを はなれて たちあがって いた ようだ

「どうされましたか・・・?」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「ちょっと 待っていて ください」
そうして わたしは 台所に 向かった ようだ・・・

(あれ・・・ ガスコンロに 火が ついていない あれ おおきな 鍋も
置かれていない・・・ いったい どうしたこと なのだろうか・・・?)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(わたしは いま どうして ここに いて
なにを して いるのだろうか・・・・・?)

・・・わたしは じぶんの こころの なかが もう どうにも
わからなく なって きて いる ようだ・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そのとき・・・ 警察署の ながいさんの 声が はっきりと 
聞こえて きた!

「だいじょうぶ だよ!」

そうか わたしは きっと しあわせに なれる 
はずだ・・・!

 

 

 

無銭飲食

 

今井義行

 
 

タクシーに 長いあいだ 乗っては みたものの どうしたことか
わたしは 小松川警察署の 入り口に たどりついて しまっている ようだ
それは どうして なのだろうか?

そう か・・・ わたしは 平井の 或る 唐揚げ屋さんで 「無銭飲食」を したのでは なかった だろうか・・・

お金を払った 記憶も なければ 罪の意識も まったく 無い
けれども わたしは タクシー乗り場で ドライバーに 「小松川警察署まで
お願いします」と 言って いた ような 気が する・・・

── それとも 今朝は カボチャを 煮ていたのだった だろうか・・・?

わたしは 階段を 登って 曖昧模糊とした 状態で 小松川警察署の
インターホンを 押している

「どうされましたか・・・?」と 返事が 返ってきた

「あの・・・ わたし 無銭飲食を して しまった ようなんです・・・」

「そうなのですか? では 中の 待合室に 入ってください・・・」

わたしが 待合室で 座っていると アルコール病棟で 一緒に 入院していた
全盲の 初老の おとこが 「やっていない! やっていない!」と
さわいで いるのを 見た・・・

彼は 生活保護を 受けながら 暮らして いた はずだ

こんな ところで また 出遭ってしまう ことに なるなんて なあ・・・
それにしても キツイことは いろいろ あるだろうけれど・・・ 全盲と いうのは
とっても キツイ こと だろう なあ・・・

わたしが 待合室に 座って いると 1人の 警察官が 近づいてきた
「無銭飲食を したんだってね?」「はい そうらしいんです・・・ でも 本当に
やったか どうか わからないん です・・・」

何人かの 警察官が 近づいて きた 「それは 悪い ことでは ないのか?」
「悪い ことだと 思います でも 本当に やったのか どうか
どうしても わからないん です・・・」
「・・・痴呆かなあ? 帰りの 交通費は 持っているのか?」「持っていません」
「それじゃあ パトカーで 送って いくしか ないじゃないか あのね
パトカーは タクシーじゃ ないんだ よ!」

── それとも 今朝は カボチャを 煮ていたのだった だろうか・・・?

パトカーに 乗って わたしは 窓のそとを ながめていた
もう 日が くれかけてきている ようだ・・・

そうしたら わたしの 隣りに 座っていた わたしと同じ
50歳台くらいの 警察官が わたしに 話しかけてきた
「わたしは ながいと 言います こういう ことって よく あるんです よ
気落ちしないで しっかりと 暮らして いってください ね・・・」

(ああ こういう ひとも いるもの なんだなあ・・・)

翌朝 わたしが ベッドに 横たわって いると 携帯電話の 着信音が 鳴った

(・・・もしかして ながい さん?)

「こちら 小松川健康サポートセンターの
保健師の のざきと 申します いま お電話していても いいですか?」「はい」

小松川健康サポートセンターと いうのは 保健所の 出張所の ような ところだ・・・
わたしは 生活に 困窮していて そこに
何度か 訪ねて いった ような 記憶が ある・・・ けれども
「これから 会議に はいりますから」と 言われて
すぐに 門前払いを 食らって しまった ような 気がする・・・

── 或いは カボチャが 煮崩れないように こころを 砕いていたの だったか・・・?

「小松川警察署から 連絡が あって あなたが 無銭飲食を したらしい との ことでした・・・ 詳しい お話を お聴きしたいので 明日にでも ご自宅に 伺いたいと 思いますが ご在宅されて いますか・・・?」「はい・・・」

(警察署が 動くと すぐに 行政が うごく もの なんだなあ・・・)

翌朝 ドアを ノックする 音がして 開けてみると 3人の 女性が 立っていた

「昨日 お電話を 差し上げた 小松川健康サポートセンターの
のざきと 申しあげます」
「どうぞ お上がりください・・・」

わたしたちは ちいさな テーブルを はさんで 向かいあった ようだ

「早速ですが 唐揚げ屋さんで 無銭飲食を したのか していないのか
わからなく なったそうで・・・?」
「はい・・・ そうなんです」
「よく そういうことは あるんですか?」

「いままでは 現実と そうでない側の 区別が わりあい はっきり ついていた
ように 思うのですが・・・ 最近になって 現実と そうでない側が ないまぜに
なってきて わけが わからなく なって しまうような ことが 増えてきた
ような 気がするんです・・・」

── 或いは カボチャが 煮崩れないように こころを 砕いていたの だったか・・・?

「そうなんですね・・・ もう ご心配なさらないでください これからは わたしたちがサポートして いきますから こちらに いるのが 訪問看護ステーションの
ほうじょうさん こちらに いるのが ヘルパーさんを 派遣する 会社の よしださんです それぞれ 週に 2回 訪問させて いただく ことに なります
よろしいですか・・・?」
「はい・・・ ありがとうございます」
「それでは この 書類に 署名と 印鑑を お願いします」

── それとも 今朝は カボチャを 煮ていたのだった だろうか・・・?

(これで わたしの 暮らしは すこしは らくに なって いくのかな・・・)と
わたしは どことなく うれしく なって いるようだ・・・

── 或いは カボチャが 煮崩れないように こころを 砕いていたの
だったろうか・・・?

わたしは ちいさな テーブルを はなれて たちあがって いた ようだ

「どうされましたか・・・?」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「ちょっと 待っていて ください」
そうして わたしは 台所に 向かった ようだ・・・

(あれ・・・ ガスコンロに 火が ついていない あれ おおきな 鍋も
置かれていない・・・ いったい どうしたこと なのだろうか・・・?)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(わたしは いま どうして ここに いて
なにを して いるのだろうか・・・・・?)

・・・わたしは じぶんの こころの なかが もう どうにも
わからなく なって きて いる ようだ・・・・・・・

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