佐々木 眞
拈華微笑
佐々木 眞
今回のボナールは、「日本かぶれ」とか「ナビ派」とか下らない包装紙に包まれて巴里から六本木までやってきたが、んなもん余計なお世話である。
僕にとってのボナール選手は、その名前のとおり、あのボナーッとしていて、ヌボーっとしたダイダイ色などの暖色が、疲れた心身を穏やかに揉みほぐしてくれるやわらかな存在で、例えばルーベンスとかルオーなんかの重厚長大派とは対照的に、「親和力に富む絵描きはん」、なのである。
作品は静物や風景、室内画、それぞれに良きものがあるが、なんというても愛妻マルタの入浴図にとどめを刺すだろう。
もう半世紀以上も昔の大むかし、丹波の田舎の中学か高校生だった僕は、美術鑑賞の時間に同級生と一緒に、恐らく京都の美術館でボナールの入浴図を見て、その美しさとエロチシズムにしばし陶然となったことがある。
その展覧会は、当時ポピュラーだった印象派を中心とした寄せ集めの「泰西名画展」で、ボナールはおそらく1点か2点しかなかったはずだ。
小一時間の鑑賞を終えて、クラス担任のU先生から、「ササキ君、どうやった? どれが良かった?」と聞かれた僕が即答できずにいると、U先生は、どことなく自信なさげに、でもその自分の感想を、誰かに支えてもらいたそうに、「ボクは、ボナールがええなあ思たけど、君はどう思った?」と尋ねられた。
あろうことか、僕は黙って、うつむいてしまった。
しばらくして顔を上げると、U先生の姿はもうなかった。
僕が「ボナール!」と即答できなかったのには、2つの理由があった。
ひとつは自分もボナールに感動したのだが、その絵があまりにも官能的であったので、教師の問いかけに、つい躊躇ってしまったこと。
もうひとつは、普段は謹厳実直そのもののU先生が、ボナールの裸婦に、僕と同じか、あるいはそれ以上に感動し、先生の顔が、興奮で少し赤らんでさえいることに対して、不遜にもある種の嫌悪感を懐いてしまったからだった。
そんなU先生の顔を、まともに見ることもできず、うんともすんとも返事できなかった自分……。
あの頃、丹波の田舎の教育者が、自分の教え子にエロチックな作品への肯定的評価を伝えるのは、それなりに勇気を必要としたに違いない。
思いきって心を開いてくれたU先生に、率直に応えられずに、あまつさえ不快な思いまでさせてしまった僕は、ほんとに嫌な奴だった。
先生、どうかあの時の無礼をお許しください。
恐らくは在天の先生に、半世紀前に答えるべきであった返事を、遅まきながらいま致します。
「ボナールです! 先生と同じ、ボナールの裸婦です!」
朝、我が家にやってきた一頭のナガサキアゲハが、
いまを盛りと咲き誇る天青の、 ほぼすべての花弁に、
次々に黒い頭を突っ込んで 、
甘い蜜を、存分に吸っていました。
夕べには息絶えた、朝顔の花々は、
どんなにか、うれしかったことでしょう。
眩しい真夏の光の下、
滑川の上流で戯れていた鮎たちは、
海の方へ下っていった。
いたどりの葉っぱの上で、
ひねもす交尾していたゴマダラカミキリは、
どこか遠くへ行ってしまった。
阿弥陀山の中腹で、
なにやら怪しげな呪文を呟いていた不如帰は、
行き合いの空で、行方不明になった。
だが、朝夷奈峠の麓には、
まだわずかばかりのセミたちがいて、
去りゆく夏への挽歌をうたっている。
むかしあるところに、おじいさんとおばあさんが、仲良く暮らしておりました。
ある朝、おじいさんとおばあさんが障子を開けると、庭に白い花が咲いておりました。
おじいさんが「ばあさんや、きれいな花だねえ。あれはなんという名前かのお」と尋ねると、おばあさんは、「あれかい、あれは芙蓉というんじゃよ」と、花の名前を教えてくれました。
その日の午後のことです。
山の芝刈りから帰ってきたおじいさんが、芙蓉の花を見ると、なんと白かったはずの花の色が紅くなっておりました。
「これはどうしたことじゃ。ばあさん大変だ。あの芙蓉を見てごらん。朝は白かったのに、いまは紅くなっておる」
針を持ったまま縁側に駆けつけたおばあさんも、あまりのことにびっくりです。
「おやおや、まあまあ、不思議な芙蓉だこと」と、二人揃って紅い芙蓉をまじまじと見つめていますと、突然紅い芙蓉のその色が、またしてもポポッと赤らんだではありませんか。
「おい、ばあさん。いまのを見たかい。芙蓉のやつ、おれたちに見つめられたので恥ずかしくなったんだよ」
と、おじいさんがうれしそうにいうと、おばあさんも「ほんにそのようでしたね」と答え、二人で顔を見合わせて「おほほほほ」と笑ったのでした。
いつのまにやら短い夏の日はとっぷりと暮れ、どこかでコオロギが鳴き始めたようです。
オペラ歌手の「大声コンテスト」に応募した私が、天井からぶら下がった、道成寺の鐘の下で、大音声を発すると、さしもの大鐘も、めりめりとひび割れてしまった。4/1
小学館のシマモト選手の案内で、珍しい古本屋や趣味の店を巡り歩いてから、杉並区に入ると、区民会館で杉並映画会のおばはんが、長々しい宣伝を続けているので、老舗の杉並シネクラブのスタッフが、とてもしらけていた。4/1
「せっかくだから、ゆっくりしていきなさい」と、言われるがままに、親戚の家で寛いでいたら、いつのまにか大広間で大伯母の18番の皮田踊りが始まった。能のように悠々と舞っているので、身動きもならず。ましてや逃げ出すこともかなわない。4/2
記者会見で「これから銀行は、銀行以外の機能が必要になる」と見得を切ったアソウは、「例えば」と言うたなり、後が続かず、永遠の長考に沈んだ。4/3
「おえめのようないかさま渡世人は、ここからとっとと出てゆけ。おれの目の黒いうちは、おめえのような極悪もんの勝手はさせねえから、そう思え」と、カタオカ・チエゾウは、凄んだ。4/4
うっかり座席に荷物を置いたまま、バスから降りたが、そこは私が降りるべき駅ではなかった。急いでバスを追いかけて、2駅目でようやく追いついたのだが、どこへ消えたか荷物はどこにもなかった。4/5
眠れないので、脳味噌の中に潜り込んだら、脳天に真っ白なサソリどもが蠢いているので、恐ろしくなった。これは、本当に私の脳なのだろうか?4/6
「田を耕し、己を耕し、世を耕す人となれ」と念じて、私は息子を耕と命名した。4/7
本邦初の南極探検に応募して、晴れて合格した私たちだったが、宿舎で待てど暮らせど、探検船は現れず、私らは、朝な夕なに水平線を見つめて日を送っていた。4/8
バナナボートに乗り込むと、バナナ娘が「デーオ、イデデエオ、イデデイデデイデデーオ、アンミソタリマンタリババナあ」と唄ったので、「そんなバナナ」と驚きつつも、船の中の美味しいバナナを食べ続けた。4/9
巴里滞在中に私が作った切り絵の鳥は、アルジェの展示会で、生きた青い鳥となって会場内をはばたき、やがて玉のように美しい娘となった。4/10
我が家に遊びに来たヒーちゃんは、「ちょっとごめんなさいね」というて、床の下に潜り込み、深い穴を掘って、妙な石を見つけたが、「はい、この悪い石を取り除いたので、もう大丈夫。これからは幸せが舞い込んできますよ」と予言して去っていった。4/11
お偉いサンの接待を仰せつかったのだが、なにをどうやっても気に入ってもらえないので、意気消沈する。いかに多くの人々が、嫌で嫌で仕方のない仕事をしながら生計を立てていることか。それを思うと暗然とする。4/12
いつもの退屈なNHKの定時ニュースの声が突如搔き消えて、「臨時ニュースを申し上げます。私らは、唯今本局を乗っ取った叛旗グループです。これからは公共放送にふさわしい正義の情報だけをお伝えしたいと思います」というアナウンスがあった。4/13
去年の夏、南の無人島に遊びに行ったタカヤマさんは、あれからずっと海水浴を楽しんでいる、という噂を聞いた。うらやましいなあ。4/14
人里離れた深山幽谷の岩窟に居を構えていた老師は、ますます歳をとって力衰え、いまや急速に迫りくる死に瀕していたが、唯一の友人である蝮が棲息する平らな岩の上に横たわって、安らかに眠り続けていた。4/15
モスクワ空港の免税店で、しこたまアルメニア特産のコニャクを買い込んだマッサンは、そいつをガブ飲みしながら、エコノミーの狭い座席で朗々とチェロを奏でるので、乗客は煩くて煩くて一睡もできなかった。4/16
打ち合わせのためにホテルに戻ると、アカシヤサンマがぶるぶる震えている。「このホテルにはかけ流しの温泉があるから、ちょっと体を温めたらどうだ」、と勧めたが、「どうにも気分が悪いからこのまま寝たいんや」といって、眠りこんでしまった。4/17
放射能にまだ汚染されていない人たちは、まだ地下壕に潜んでいたのだが、ある朝、彼らの顔の上を、何千何万というカマキリの子供が、ワッセワッセと歩いていった。4/18
今年のパリコレの話題を独占したのは、ベルギーの新ブランド「ランボオ&ヴェルレーヌ」による「パリ・コンミューンを遠く離れて」をテーマにした、疑似革命的なふぁっちょんであった。4/19
ランボオとヴェルレーヌを主人公にした「パリ・コンミューンを遠く離れて」という小説を書いたフマモトヒコ氏は、ついに念願の芥川賞を受賞したのだが、それを祝うはずの同窓生の多くが幽明境を異にしていた。4/19
「らっしゃあーい、美味しい水だよ。これをスピーカーに注ぐと、抜群にいい音が出るよ!」と、その香具師はペットボトルに入れた怪しい水を売りつけようとするのだが、誰も立ち止まらなかった。4/20
シルヴィー・バルタンのコンサートにやってきたお客さんは、バルタンならぬバルタン星人のような八代亜紀が、いきなり「新宿の女」を歌いだしたので、怒り狂って舞台に殺到した。4/21
コータロー氏を誘って教会まで来たのだが、いつのまにかいなくなってしまった。厳かなバッハの音楽が聞こえてきたので、もしかすると礼拝に参加しているのかもしれない。ナカノ一家もいたが、さてどうしたものか。4/22
ドケチな私は、ケータイの使用料を、なんとか自分のスポンサーに払わせようと、いぢましい苦労を、積み重ねていた。4/23
カマクラの町内会に、お隣のズシの市民が乱入してきて、勝手なことを言い始めたので、町内会長は、どうやってこの場を収集したらいいのか、途方に暮れています。4/25
丑三つ時になると、ほんとうに草木が眠っているのかを確かめるために、私は、時々森の中に入っていった。4/26
「キリノという男について、なにか知っていることはないか?」と駐在から問い合わせがあったので、「蕎麦を手打ちするのが趣味で、バハマの桃色の砂浜でジープを運転する男」と答えると、フーンというて引き上げていった。4/27
地下鉄東西線に乗ったら、2人の男が押しくら饅頭をしていたが、次の駅で乗ってきた男も加わって、3人で楽しそうに押しくら饅頭をしている。4/27
大人になってから、また寺子屋で学びはじめたのだが、読み書き算盤のうち、算盤だけは大の苦手で、昔と同じ12級のままだった。4/28
「○○」の役割は、ほんとうに難しい。半世紀の時間の経過に磨かれて、私はようやくなんとでもできるようになったのだが。4/29
私の長年の病気は、某病院の最新式の治療と手厚い看護のおかげで、ついに完治したのであった。4/30
あれは確か1980年代の半ばを過ぎた頃だったでしょうか。
私は久保田宣伝研究所が運営する「宣伝会議」主催するコピーライター講座の講師として、毎月何回か、当時銀座の松屋の裏手にあった教室に通って、コピーライター志望の若者相手に、自分流のカリキュラムを作って、まあなんというか、いちおう教えていました。
80年代になると、昔は「広告宣伝文案作成業」などと称されていたコピーライターが、突然時代の寵児のような人気職種になり、第2の仲畑、糸井を目指す人たちが「宣伝会議」の養成講座に群がるようになっていたのです。
「1行100万円!」のコピーライターを目指す気持ちはわかりますが、そう簡単に1流のコピーライターなんかなれるものではない。あらゆる芸事と同じで、生まれながらの才能がない人がいくら努力しても、ダメなものはダメなのです。
じっさい私がそうでした。いくら努力しても2流どまりだなと、早い時期に分かってしまったのです。もちろん若き学友諸君だって、そんなことは、3カ月もコピー修行を続けていれば、自分自身で分かって来ます。
そうなると話が早いので、第1級のプロになることを諦めた若者たちと、2流のコピーラーターに甘んじている臨時雇われ講師の私は、2時間の授業が終わると、そのまま安い居酒屋に直行し、その日の僅かばかりのギャラで、らあらあと気勢を上げて飲んだくれていたのでした。
確かある夏の夜のこと、いつものように学友諸君と一緒に、夜風に吹かれて銀座3丁目から4丁目の交差点にさしかかったところで、誰かが吹いているトランペットの音色が街の騒音を縫うようにして聞こえてきました。
日産のショールームの前あたりに、いかにも人世にくたびれ果てた顔つき、そしてくたびれた背広を着た一人の年齢不明の白人男性が、過ぎゆく人や車にはまったく無関心に、夜空に向かってペットを吹いています。超スローペースのメロディを、ゆったりゆったりと吹き流しています。
唇に当てているのは相当古びたトランペット、吹いているのはジャズのようですが、果たしてそれをジャズと決めつけていいのかどうか。その男は、じつに単純なメロディのようなものを、きわめて自由な、そして超遅いテンポで、なにか大切なことを、どうしてもこの際言うておかねばらなぬことを、自分自身に向かって言い聞かせるように、あるいはどこか遠くへ行ってしまい、行方不明になってしまったもう一人の自分に切々と訴えかけるように、朗朗と歌っているのです。
腹の底からジンジン歌っているのです。
それは例えてみれば、白人の虚無僧が吹く西洋尺八のリバティ音楽のようでした。
何人かの勤め帰りのリーマンたちに混じって、しばらくその西洋虚無僧の尺八の音に耳を傾けているうちに、私はこの10年間というもの、なんだか手ひどく抑圧された心が、ゆっくりと解き放たれるような気がしてきました。
ジャズのようだけどジャズじゃない。要するに、これはただの音楽なんだ。しかしただの音楽にしては、物凄すぎる。いったい何なんだ、これは? そうかこれが音楽なんだ。
とりとめのない想念がなおも渦巻く、こんがらがった頭の中を断ち切ろと、私が目を閉じて嫋々と鳴り響くソロに酔い痴れていると、突然隣で一緒に聴いていたホンダ君が叫ぶように口走りました。
「先生、もしかしてこれ、本物のチェット・ベーカーじゃないすかねえ」
*天才的ジャズ・ミュージシャンChet Baker(1929-1988)は、1988年にオランダ・アムステルダムのホテルから転落し、58歳で亡くなったが、その少し前の1986年と翌87年に来日している。
今月の20日、すなわち2018年8月20日にさとうさんの最新詩集が出版されました。
「浜辺にて」という632ページもある大著が出たのが、昨年の5月20日でしたから、このペースは驚きに近いものがあります。
この間、さとうさんはリーマンを辞めて郷里に戻り、「詩人になる」と宣言されていますから、余人には窺い知れないが、心中深く期するところがあったのでしょう。
彼は極力難解な言葉を避け、誰にもわかりやすい簡素で平明な言葉を用いて、自分の世界を言い表そうとしています。それはおそらく、これまでのいろいろな試行錯誤の果てにつかみとった彼のやり方なのでしょうが、自分の思想と詩法に、よほど自信がないとできないはずです。
それからさとうさんの詩集には、毎回必ずといっていいほどテーマがあります。
前回の「浜辺にて」では、英語の基本的な単語を、自分の頭と暮らしの中で噛み砕いて、それを創世記のように再定義する、という離れ技に挑戦しておられました。
今回は、彼が親炙する画家の桑原正彦氏から提示された「貨幣」というテーマに依って、貨幣のあり方と本質を考えようとして、この思索的な連作詩が書かれたようです。
従って本書を読む人は、おのずから貨幣についての思索を余儀なくされることになるでしょう。ちょいとばかり難儀なことですが。
私はこれまで「貨幣」について考えたことなんか一度もありませんでしたが、さとうさんが巻末に挙げている経済学者の岩井克人さんの、貨幣についての講演を、むかし耳にしたことを、はしなくも思い出したので、その折りのメモを頼りに自分なりの貨幣についてのヴィジョンを尋ねたいと思います。
*
その夜、岩井さんは、財布の中からいきなり一枚の1万円札を取りだしたので、私たちは、「あ、1万円だあ」と思って目の色を変えました。この場にヤギがいたら、もっと目の色を変えたことでしょう。
ヤギは、これは食べると美味しい紙だと思っているから、ウメエーと鳴いて、目の色を変えますが、私たち人間は、これが単なる紙切れだと思いながらも、それでいろんな本や服や食べ物を買えるので、値打ちがある紙だと思っています。
しかしそれが偽札でなくても、本当に値打ちがあるかどうかは、日本銀行、またの名日本国でも、100%保証しているわけではありません。たとえば子供が1円玉を1000個集めて銀行に持って行った場合、銀行は20個以上の1円玉を「お金じゃない」と言って拒否することが法律上できるそうです。
岩井先さんによれば、昔から有名な「和同開珎」とか「皇朝十二銭」とか、政府がいろいろなお札やお金を発行してきたけれど、いくらお上が躍起になって命令しても、お金として使われなかった例がいっぱいあるそうです。
お金は単なる紙切れだから、物としての価値はない。
では、なんでそんな吹けば飛ぶような紙切れが、絶大な価値を持つかというと、岩井さんは、「すべての人がこれを価値あるものと認めているから価値がある」と仰るのです。
ふーむ。これこそ貨幣がひそかに内蔵している逆説的な魔法だな、と、そのとき私は思いましたな。
もしも私が、これは1万円ではなく、福沢諭吉の肖像が浮き彫りになっているただの紙切れだと喝破し、それと同じように私の隣の人も、そのまた隣の人々も、次々に裸の王様を見るような目で見るようになれば、その瞬間に夢は破れ、大いなる共同幻想はドドンと崩れおちてしまう。
もしかすると、現世秩序のすべてが!
それから岩井さんは、貨幣と同じように、言葉も、すべての人がこれを価値あるものと認めているから価値がある存在なのだ、と厳かに付け加えられました。
この詩集の「あとがき」で、さとうさんは、「詩は貨幣の対極にあるものです」と宣言されていますが、もしかすると、貨幣も詩の言葉も対極にあるものではなく、きわめて近しい関係にあるのかもしれませんね。
ふと見れば、岩井先生の小太りの姿が、どこにも見当たらない。
アッと叫んで私たちが、窓の外を見ると、先生はいつのまにか銀座8丁目の高層ビルヂングの10階を飛び出した先生が、本物とも偽物とももはや見分けがつかなくなった万札を盛大にばら撒きながら、満天の星が輝く銀座通りの上空を、フクロウと一緒に楽しそうに飛び回っておられるのでした。
注 文中の岩井克人氏の言葉は、2004年に行われた「資生堂ワード」講演会におけるメモに基づいて自由に作成されているが、ラストの行動は、ある参加者の幻視に基づくものである。