家族の肖像~「親子の対話」その11

 

佐々木 眞

 
 

img_2815

img_2802

 

お父さん、大洋がベイスターズになったの?
そうだよ。
耕君、ベイスターズ好きなの?
好きですお。

お父さん、「どんど晴れ」の夏美のなつは、夏のなつですお。
そうだよ。夏のなつだよ。

お母さん、レイプってなに?
嫌な言葉よ。どこで聞いたの?
知りませんよ。

お母さん、責任てなに?
しなくちゃいけないことよ。
お母さん、ぼく責任持ちますお。
そう、持ってくださいね。
無責任はいけないことですお。ぼく責任持ちますお。

ぼく「国鉄最終章」の本、好きですお。
そうなんだ。
ぼく、「国鉄最終章」の本、買いましたお。
そうですか。

耕君、無駄遣いしないでね。
はい、ぼく無駄遣いしませんお。
無駄使いするとお金がなくなるからね。お金がなくなったらどうなるの?
どろぼう?
お米やお肉や野菜が買えなくなるでしょう?
はい、ぼく無駄遣いしません。

お父さん、賜物ってなに?
wwwww

お父さん、さいならって、さよならのことでしょ?
そうだよ。
さいなら、さいなら、さいなら。

あしたおばあちゃんチに行って、図書館へ行って、西友へ行きますお。
分かりました。

お父さん、ベロだしちゃだめでしょ?
だめだよ。

お母さん、つべこべってなに?
つべこべいうことよ。

「横浜線では混雑緩和が試みられることになった」
お母さん、ぼく読みましたよ。横浜線好きになったんですよ。
そう、良かったね。

お父さん、横浜市は金沢区とかでしょう?
そうだよ。

お母さん、ミニストップ行ってきますよ。
なにしに行くの?
アイスクリーム買ってきますよ。
気をつけてね。
はい、行ってきます。

神様ってなに?
耕君がちゃんとやってるか上の方で見ているひと。
そうなの?
そうなのよ。

お母さんさん、歴史ってなに?
これまでいろいろあったことよ。平成の前は昭和でしょう、その前はなんだった?
大正。
そうそう、そういうふうに。

お母さん、せせらぎってなに?
川がゆっくり流れていることよ。
せせらぎ、せせらぎ。

お母さん、まぼろしってなに?
人には見えないものよ
まぼろし、まぼろし。

お母さん、めんどくさいって、なあに?
めんどうなことよ。

お母さん、おだやかってなに?
グワーと怒らないことよ。
ぼく、おだやかにしていますお。

お父さん、埼京線は浦和南高校に行く時でしょ?
そうだよ。

お父さん、コスモスは秋と桜でしょ?
え? ああ、そうだね。

お父さん、三角の英語は?
トライアングルだよ。

お父さん、ファは小さいアでしょ?
そうだよ。

お父さん、小田急は青い線でしょ?
そうだよ。
無人改札って駅員さんがいないんでしょ?
そうだよ。

ありふれたってなに?
よくあること、よ。

お母さん、早くお風呂に入ってね。
はいはい。

ぼく、蓮佛さんの声好きですお。
蓮佛さんの声真似してみて。
「ご迷惑をおかけしてどうもすみません」「かいとくん、早く良くなってね」
上手だね。

蓮佛さん、なんで泣いていたの?
生まれて初めて作ってもらったお弁当が美味しかったからよ。

調べるのは検診でしょ?
そう。
歯のゴミは歯石でしょ?
そうだよ。

お母さん、責任取るってどういうこと。
最後までちゃんとやることよ。
ぼく、責任持ちますので。

お母さん、ぼく、雨と雪両方好きだよ。
そうなの。

ジュース1本にしましたお。
ホントかなあ、いっぱい飲んだんだろ?
今度1本にしますお。

お母さん、なほちゃんに会った?
会いましたよ。
なほちゃん、笑ってた?
笑ってたよ。
なんで笑ってたの?
楽しかったからよ。

お母さん、ぼく鎌倉郵便局好きですよ。
そう、じゃあ今から行こうか?
嫌ですお。

お母さん、アドバイザーってなあに?
いろいろ教えてあげるひとよ。

お母さん、あざやかってなに?
きれいで輝いていることよ。

お母さん、黒木メイサがジュースを飲んでるとこになって。
「ああ、おいしい、おいしい」
ぼく黒木メイサが笑ってるの、好きだお。

お父さん、京浜東北線変っちゃったねえ、
青い電車もうとおってないでしょう?
もうアルミ車ばかりでしょ?
へー、そうなんだ。

「来い」って「来てね」のことでしょう?
そうだよ。

ぼく、オダカズマサ好きだお。
そうか、耕君は小田和正好きなんだ。

車椅子そっと押すのよ。
そうね、そっと押さなきゃね。
ぼく、車椅子そっと押しますお。

お母さん、ジョウトってなに?
譲り渡すことよ。
JR203系、インドネシアに譲渡されたよ。
へえー、じゃあ今インドネシアで走ってるの?
そうだお。

お母さん、じょじょにって、どういうこと?
だんだん、ということよ。
じょじょに、じょじょに。

お父さん、ぼく旅行でおみやげ買ってきますよ。
ありがとう。
お母さん、ぼく旅行でおみやげ買ってきますよ。
ありがとう。

ぼく群馬旅行好きですよ。
そうなの。
ぼく「ホテルきむら」好きになりましたお。
群馬旅行、また行きますか?
また行きたいですよ。

大宮高校どこにあるの?
埼玉県だよ。
お父さん、ぼく埼玉県好きだよ。

 

 

 

マジカル・ミステリー・デンタル・ツアー

 

佐々木 眞

 
 

img_2618

 

歯が痛い、歯が歯が痛い、歯が痛い。
アーメン、ソーメン、ひやソーメン
悪しきをはろうて たあすけたまえ てんりんおうのみこと*
ああ歯が痛い、歯が痛い。

歯が猛烈に痛みます。
この痛みは、なんなのだ? 虫歯かブリッジか歯槽膿漏?
それとも心臓からの悪しき便りか。
痛い痛い、歯が猛烈に痛いんだ。

我慢に我慢を重ねていたけれど、左の奥歯がひどく傷むので、
無理矢理頼んで押しかけたのは、横須賀大滝町の沖本歯科。
皇太子さんにそっくりの顔をした温厚な先生が
「佐々木さん、どうされましたか?」

と、私の名前を呼びながら、顔を下から覗きこみました。
まず患部周辺をレントゲンで撮影したあと、奥歯の臼歯の治療が始まります。
虫歯がすでに神経に達しているので、麻酔をかけて神経を取ることになったのですが、
どういう訳だか、麻酔がなかなか掛からない。

歯が痛い、歯が歯が痛い、歯が痛い。
アーメン、ソーメン、ひやソーメン
悪しきをはろうて たあすけたまえ てんりんおうのみこと
ああ歯が痛い、歯が痛い。

先生のピンセットが患部に触れると、
その都度ピリリ、ビリリとシビレエイにやられたような痛みが走ります。
沖本先生は「痛かったら左手を挙げてください」とおっしゃるのですが、
ピリッときても、なかなか手をパッと上げられない。

そんな時、いつも考えるのは脳に障がいのある息子のこと。
「痛かったら左手を挙げてください」なんていわれて、どうするんだろう。
「ハイ!ハイ!ハハイ!」と答えはするものの、
困って、おびえて、パニクってしまうのではなかろうか。

しかし変だぞ。今日はおかしい。
私は昔からいともたやすく麻酔が掛かるのですが、
今日はいったいどうしたことか?
掛かり方がぜんぜん弱いのです。

すると先生は、慌てず騒がず「しょうきガスを使ってみましょう」とおっしゃいます。
「正気?」
「いや笑気です。これを両方の鼻の穴から注ぎ込みますと、しばらくすると頭がぼんやりしてきますからね」といって他の患者さんのところへ行ってしまいました。

ひとりぼっちで取り残された私の頭は
次第にぼんやりしてきましたが、
これまでいろいろお世話になった歯医者さんのことが
突然私のくたびれ果てた脳裏に浮かんできました。

どういう風の吹きまわしか1960年代の終わりにリーマンになった私が、慣れないスーツ姿で通い始めた会社は、神田鎌倉河岸にありました。
その神田では伊藤歯科がいいというので、私が神田駅に近いその歯医者を訪ねますと、そこには老若2人の伊藤先生がいて、私は若い方の伊藤先生にあたりました。

若先生といっても既に中年で、医者というより英国風の紳士のような知的な風貌が印象的です。他方老先生は70代を過ぎて、もう米寿になんなんとする温和なお年寄りで、医者というより、春風駘蕩たる落語家のようなこの方が、名医と謳われていたことが後になって分かりました。

ある日のこと、酷い虫歯になった私は、奥歯の神経を抜くことになりました。
物慣れた手つきで麻酔を掛け終わった若先生は、さっきからピンセットのようなものを握りしめて、穴の奥にひそんでいる細い糸のようなものを引っ張りだそうとするのですが、これがなかなかうまく行きません。

歯が痛い、歯が歯が痛い、歯が痛い。
アーメン、ソーメン、ひやソーメン
悪しきをはろうて たあすけたまえ てんりんおうのみこと
ああ歯が痛い、歯が痛い。

白いマスクの上の額からは大粒の汗が浮かんで、
それが瞼の上に落ちてきます。
若先生はだんだん苛立ってきたようです。
いきなりマスクをはずすと、大きな声で叫びました。

「困った、困ったあ! こんな細かい神経は今まで一度も見たことがない。困った、困った! いやあ、参った、参ったあ! 佐々木さん、ぼく、どうしましょう」
歯医者に「どうしましょう」と言われても、私はどうする訳にも行きません。
ちらっと向こうを見ると、大先生は知らん顔をして女性の患者と楽しそうに話しています。

いやしくも大都会の街中で開業している医師が、
そんな捨て鉢な台詞を患者に向かって吐いていいものでしょうか。
大学でも講義しているというインテリゲンチャンの若先生は超理論派かもしれないが、
大先生に比べると、技術で劣る不器用な人だったのでしょう。

同じ伊藤歯科なのに、
どうして大先生に治療してもらえなかったのか。
どうして眼高手低の若先生に当たってしまったのか。
私はその時ほど恨めしく思ったことはありません。

さて。
時と所は変って、1970年の原宿竹下通り。
ここは平成末期の現在とは違って、真中あたりに鰐淵晴子さんのお父さんのバイオリン教室があるくらいで、朝から晩まで閑古鳥が鳴いていました。

そうして。
原宿駅からその竹下通りを歩いて、
明治通りに出たすぐ右側に、
その歯医者さんはありました。

ドアを開けると、そこはたったひとつだけの座席と必要最低限の設備しか備えていない、
狭い狭い部屋である。
まるで西部劇に出てくる散髪屋のような空間に、汚れた白衣を無造作にはおった年配の男と、唇が妙に赤い妖艶な看護婦が控えておりました。

無精ひげをはやし、よねよれのネクタイを巻いた男は、医師というより流れ者。
医師というならドク・ホリディといった風情で、もうもうと煙をあげて両切りのピースをふかしています。
彼の机の上には、テネシー特産ジャック・ダニエルのボトルがでんと置かれていました。

若づくりのおねいさんは、
看護婦というより、飛鳥公園前のバーのホステスのような婀娜な風情で、
私が入室する直前まで、この怪しい中年医者とクチャクチャガムを噛みながら
イチャイチャイチャイチャ××××××××していた模様です。

二人がペッペッとガムを捨てたのを合図に、治療が始まりました。
男は、いきなり目の前にぶら下がっている器具を私の口腔に突っ込むと、ガリガリやりはじめましたが、その乱暴なこと。
ウイスキーと香水が入り混じった猛烈な口臭が私の鼻を襲います。

そういえば、こういう治療の光景を、むかしどこかで見たことがある。
それは浅草の木馬座という名のしがない大衆劇場。
若き日の「野火」の映画監督が、自作自演したお芝居「電柱小僧の冒険」!
そこに出てきた、満洲帝国大学のマッドサイエンス教授の人体解剖実験でした。

破竹の勢いでたちまち治療を終えたマッドサイエンス教授は、
「はい終了」
といいながら、なにやら白い物を抛り投げ捨てると、それは見事に部屋の隅に置いてあった白い衛生箱にスポンと収まりました。

あっけに取られてその不思議な光景を眺めていた私は、
おねいさんが鳴らすレジの
「チーン!」という音に送られて歯科を出たのですが、
痛みは治まるばかりか、ますます激しくなる一方です。

歯が痛い、歯が歯が痛い、歯が痛い。
アーメン、ソーメン、ひやソーメン
悪しきをはろうて たあすけたまえ てんりんおうのみこと
ああ歯が痛い、歯が痛い。

痛くて痛くて眠れない一夜が明け、私は頬っぺたを押さえながら、
同じ原宿の千駄ヶ谷小学校交差点の近くの山下歯科を訪ねました。
ここは名医として定評があったのですが、いつも超満員で長く待たされるので、物好きな私はそれを敬遠して、あえて初めてのマッドサイエンス歯科に走ったのでした。

「ありゃ、ありゃ、これは何だ?」
といいながら山下先生がピンセットでつまんで白い物を目の前に突き付けました。
「驚いたなあ、脱脂綿が入ってますよ」
昨日マッドサイエンス教授が放り投げたのは、脱脂綿の残りだったのです。

名人、山下先生の仕事は、素早い。
私の治療がだいたい終わったので、いつの間にか隣の患者さんに麻酔の注射を打とうとしています。
するとその男はいきなり子供のような悲鳴を上げて、こういいました。

「先生、先生、その注射は、お隣の佐々木さんに打ってくれませんか?」
「佐々木さん、ご無沙汰しています。私からのお中元をどうぞお受け取りください」
驚いて男の顔を良く見ると、
なんとイラストレーターの安東さんではありませんか。

「冗談じゃない。そんなお中元はお断り。安東さんも、余計なことをいわないでください。頼みますよ」と私が慌てふためくのを知ってか知らずか、
山下先生は、ぶっとい注射針を、安東さんの奥歯の根っこにグサリと差し込みました。
カラカラカラと悪魔の笑いを高らかに響かせながら。

歯が痛い、歯が歯が痛い、歯が痛い。
アーメン、ソーメン、ひやソーメン
悪しきをはろうて たあすけたまえ てんりんおうのみこと
ああ歯が痛い、歯が痛い。

 

空空空空空空空空空空空空空空空空空空*「天理教御神楽歌」より引用

 

 

 

由良川狂詩曲~連載第4回

第1章 丹波人国記~水無月祭り

 

佐々木 眞

 
 

img_2326

img_2251

 

「てらこ履物店」のいちばんの上得意は、色街の月見町の芸者さんたちでした。
彼女たちは、上等の着物をきて酒席にはべりますから、当然、その行き帰りにはこれまた上等の草履をはきます。
下駄よりも、ヘップ(オードリー・ヘプバーンが映画の中ではじめてはいたサンダルのことを、いつのまにか下駄業界用語でそう呼ぶようになりました)よりも儲かるのは、当然のことながら高級草履でした。
昼間は神聖な教会の祭壇に額ずき、夜は月見町の芸者たちに御世辞のふたつもみっっつもいいながら、ハンドバッグとセットで2万5千円もする高級草履を売り込むセイザブロウさんとアイコさん。
健ちゃんのお父さんのマコトさんは、そんな父と母が、日ごと夜ごとに繰り返す、表と裏、聖と俗の二重生活というものにたいして、生意気にも、罰あたりにもいまいち得心がいかず、軽い反発すら覚えていたというのですから、ずいぶんとネンネエのおぼっちゃまだったのですね。

さあて昨年の夏ことでしたが、いまは鎌倉に住んでいる健ちゃん一家は、そんな格調高い歴史と伝統を誇る綾部の「てらこ」を訪ねました。
海に近く夏でも涼しい鎌倉から新幹線でやってきた京都は、無茶苦茶に蒸し暑く、もっと暑い綾部に辿りつくには、そこからさらに山陰本線の急行で1時間半かかります。
山陰本線の狭軌も狂気のように、明治ミルクチョコレートのようにぐんにゃり曲がり、運転手さんは懸命にレールを取り替えなければなりません。
そして取り替えられた分だけ列車は進み、とっかえひっかえしながら、健ちゃんたちはようやく懐かしの故郷に辿りついたのですが、到着した綾部盆地は、さらにさらに蒸し暑い。連日35度を超えるうだるような暑さに、アブラゼミは飛びながら鳴き死に、ニイニイイゼミは一声チチと鳴いてから、息を引き取りました。

綾部は水無月祭りの夜でした。
由良川に架かる綾部大橋を埋め尽くした群衆の頭上高く、五色の菊やしだれ柳や紫陽花の大輪、中輪、小輪の夜目にも鮮やかな花々が、中空に何度も何度もはじけました。
光と色がきれいに組み合わさった花模様が、黒い夜空にバチバチとはぜて消えてゆく一瞬、盆地を見おろす四尾山と寺山と三根山のほの青い輪郭が、ほのかに浮かんではすぐに消え、それはどんな夢にも終りがあることを告げているようでした。
しばらくすると、大橋の上流一キロのところから流された灯籠が、あちこち寄り道しながら、ゆらりゆらりとこちらへやってきます。
それを見ながら健ちゃんは、まるで遠い祖先の精霊がざわめいているみたいだ、と思いました。
橋の上から手を合わせ、頭を垂れている人もいます。
灯籠をよく見ると、桐の葉の上に柿の葉を敷いて、さらにその上にナスやキュウリ、ホオズキ、トウモロコシの赤毛などで上手に作った牛や馬が、可愛らしく乗っかっています。
昔の人への供養を念じて、いまの人々の敬虔な真心が流す数百、数千の灯籠は、由良川の川面を埋め尽くし、橋上の善男善女が口々に唱えるご詠歌が最高潮に達したとき、川の左岸では曽我兄弟富士野巻狩仇討の場の仕掛け花火が水火こきまぜて、ドドオーン!と鳴り響きました。
夜空からは菊、桜、柳、山茶花、四花の五尺玉、はては特大の六拾センチ玉の打ち上げ花火が百花繚乱と咲いては散り、得たりや応と一糸乱れぬ乱れ打ちが、盆地全体を轟然と揺るがせます。
地軸も曲げよと吠える天地水、倶梨伽羅紋紋の唐繰り仕掛け、一世一代の大舞台と花火師が腕に撚りを掛けた光と音の饗宴は、さながら真夏の夜の夢まぼろしのように、今宵を先途と蕩尽しつくしました。
綾部の目抜き通りの西本町の老舗履物店「てらこ」では、由良川河畔の並松、上町、東本町、さらに旧城址がある上野、田町あたりから団扇に浴衣掛けでそぞろ歩く人々に向かって、橋から戻った健ちゃんが、黄色いボーイソプラノを投げつけています。
「さあ、いらっしゃい! いらっしゃい! 寄ってらっしゃい、見てらっしゃい! 品良くて、値段が安くて、持ちが良い。買うならことと、下駄はてらこ。てらこの下駄だよお!さあ、いらっしゃい!いらっしゃい!」
セイザブロウさんとアイコさんは、かわいい孫のあきんどの姿を、目を細くして眺めています。健ちゃんの御蔭で下駄もヘップも少しずつ売れて行くようです。

ちょうどその時、いつの間にやらうら若い二十三、四の月見町の小粋な姐さんが、ひとりでお店に入って来ました。
利休鼠の絽の着物に白、黄、紅、金、緑の斑点を総柄に散らし、三本の山百合を鮮やかに咲かせて。帯は黒地に観世水。雪のように白い肌を思い切りよくぐいと肩まであらわに。裾捌きもなまめかしう。
姐さんは疾風のように「てらこ」に入って来たので、彼女の金口の黒のバッグから一本の口紅がころがり落ちたのを、健ちゃん以外の誰一人気づきませんでした。
健ちゃんは、金色の容器から飛び出した真っ赤な口紅を拾ってすぐにお姐さんに渡そうと思ったのですが、なぜだかそれに触ってはいけないような気がして、どうしても手に取れません。
じっとそいつを見つめているだけで、心臓が早鐘を打ち、額の周りには冷たい汗がじっとりと湧きでてきました。
――ええい、こんちくしょう。口紅がなんだ。こんなもんがつかめなくてどうする!
と、思い切って右手を伸ばしてそいつをつかむと、意外にもズシリと思い手ごたえ。
そおっと鼻で匂いをかいでみると、今まで感じたこともない、未知の、禁断の、大人の、成熟した女の、不潔で、いやらしい匂い!
自分でも思わず知らず、そのきたならしい真っ赤なやつを、地べたのコンクリーの上に力いっぱい塗たくると、これが、いつか公園のトイレの片隅で見つけた薄いゴムの中のぶよぶよ淀んだ青白い液体のように、ぐんにゃりやわらか。どこまでも続く赤い血の流れに乗ってどこかへずるずると引きずられてゆくような怪しい磁力を感じて……
健ちゃんは、魔がさしたように、その口紅をそおっと自分のくちびるに塗ってみました。
舌の端っこでチロリとその赤いやつをなめてみると、急に頭の芯のところでジーンとしびれ、下半身がふあーんと暖かくなり、吐き気がするといえばするような、めまいがするといえばするような、気持ちがいいといえばよく、悪いといえば悪い。要するに、自分で自分が分からなくなってしまったのでした。
……とその時、やたら長い足をあだっぽく組んで竹のストールに腰かけていた姐さんが、今の今まで吸っていたキセルを、はっしと煙草盆に打ちつけました。
おしろいで真っ白に部厚く塗りたくった襟足から、きれいな櫛目をつけて、湯あがりに結いあげたばかりの、漆黒の日本髪が、ぐらありと半回転しました。
そして、健ちゃんのほうを向いたその顔は、いつかどこかで見たことのあるノッペラボーだったのです。

 

空空空空空空空空空つづく

 

 

 

フリードリッヒ・グルダ親子の思い出

音楽の慰め 第8回

 

佐々木 眞

 

img_2605

 

私は、昔は音楽といえばクラシック、クラシックといえばベートーヴェン 、ベートーヴェンといえばフルトベングラーの第9交響曲が大好き、という笑うべき超保守的人間で、モーツァルトなんて内容空疎な軟弱な2流の音楽家と勝手に思いこんでいました。

しかしどんどん歳をとっていろいろな音楽に接しているうちに、必ずしも「ベートーヴェンが硬派で、モーツァルトが軟派」ではないこと、2人とも天才ではあるが、どちらかといえばモーツァルトの方が神様に近いところにいるような天才的な音楽家で、ベートーヴェンは、そんなモーツァルトの音楽に迫ろうと懸命に努力を重ねた音楽家ではないかと考えるようになってきました。

極端なことをいうと、私にとってベートーヴェンの音楽は、人間的な、あまりにも人間的な音楽であり、モーツァルトのは(「神に愛されし人」という意味の“アマデウス”という名前が示す通り)天上から降って来る神様のような音楽なのです。

そんなモーツァルトの音楽は、いつどこで、誰の演奏で聴いても、私たちの心を楽しませたり、慰めたりしてくれるのですが、今宵はウイーンっ子のフリードリッヒ・グルダが演奏するピアノ・ソナタを聴いてみましょうか。

この「モーツアルト・コンプリート・テープ」6枚組は、題名通りもともとテープに録音されていたものを、CDに焼きなおしたものです。
1956年から97年にかけて、フリードリッヒさんがこっそり自宅などでテープレコーダーに録音しておいたのを、彼の死後、息子のパウル君が発見したんだそうです。

そして彼が、それを独グラモフォンから売り出すようにしてくれたお陰で、私たちはこの素晴らしいモーツァルトに接することができたのです。

それだけではありません。パウル君は偉大なお父さんが未完のままで放り出していたK.457の第3楽章を、できるだけグルダ風に追加演奏して、親子合奏完結盤を新たに制作してくれました。

私は父グルダには会ったことなどないのですが、1961年生まれの息子のパウル君には、かつて渋谷のタワーレコードでひょっこりはちあわせしたことがあります。

私が6階のクラシック売り場でCDを物色していると、すぐそばにひとりの若い外国人がやってきて、やはりウロウロしています。その顔がどうもどこかで見た顔で、よく見るとすぐ傍に張ってあった「パウル・グルダが渋谷タワーにやって来る!」というポスターの写真の顔なのでした。

あちらの国の人たちは、こちらの国の人たちと違ってべつだん知り合いでなくとも挨拶代りに笑顔を差し向けますが、このときもパウル君が私に頬笑んだので、急いで慣れない「頬笑み返し」をしながら私が、「もしかして貴君はパウルさんにあらずや?」と尋ねると、その青年ははにかみながら、小声で「イエス」と答えたので、私はそれ以来、パウル君の熱烈なファンになったのでした。

そんなパウル君が、亡き父君のために編んだ、私の大好きなモーツァルトのピアノ曲集は、これからも生涯の愛聴盤となっていくのでしょうが、どのソナタに耳を傾けても、聴衆をまったく意識しないインティメートな表情と赤裸の心に打たれます。

どうやらグルダは、モーツァルトその人に聴いてもらうために、深夜そっとベーゼンドルファーの鍵盤に触れていたように思われてなりません。

そしてその白眉は、ボーナスCDに付された「フィガロの結婚」の自由なパラフレーズ集ではないでしょうか。たった1台のピアノが、スザンナの、モーツァルトの、そしてグルダの生きる喜びと悲しみを、あますところなく表現しています。

 

ああグルダのフィガロ この演奏を耳にせず泉下の人となるなかれ 蝶人

 

参考 https://www.youtube.com/watch?v=1ssk4tfKcIM

 

 

夢は第2の人生である 第42回

西暦2016年皐月蝶人酔生夢死幾百夜

 

佐々木 眞

 
 

img_3312

img_3329

 

私が海に身を躍らせると、目の前に広がっているのは夥しい数の墓標だった。それは私が潜っても潜っても眼下にいつまでも広がっていて、墓標のピラミッドの周りには名も知らぬ青い魚が泳いでいるのだった。5/2

私は港の沖合の小島の木陰の小舟に乗って、様々な秘密情報や音楽を敵に占領された本土の人々に向かってFMで流していた。5/3

戦後復員兵士たちでぎゅうぎゅう詰めだった大阪支店だが、半数は別の建物に移動したのでだいぶ楽になったが、5階の窓から眺める風景は荒涼たる焼け野原だった。5/4

朝も10時を過ぎたのに、会社があるその駅では、電車に乗り切れない乗客が途中下車したり、線路に降りて長蛇の列を作って歩いているので、私はいまごろ息子たちはどうしているんだろうと心配になった。5/5

大船行きの電車がもしかしたら載せてくれるのでは、という期待に胸を膨らませた人々が一斉に駆け寄ったが、電車は速度を落とさず走り去り、線路の上には切断された両足を呆然と見詰める小太りの婦人だけが取り残された。5/6

知らない人からどんどんケータイが掛かって来るので、よく見たら機種は同じだが別のものだった。しかし、いつどこで私のものとすり変ったのかいくら考えても思い当たらないのだ。5/7

外出から帰って来て、外の様子を孝壽君に報告すると、彼はそれを几帳面に記録していた。彼はその後病気で、どこかの病院に入院しているというのだが、大丈夫なのだろうか。5/7

私はあらかじめ彼に、「過去の死刑に関する判例集を渡して研究しておくように」と命じておいたので、最難関の司法試験を最高の成績で突破したときいて、とてもうれしかった。無脳人間にもそこまでは出来るのである。5/8

関東大震災で倒壊した高層マンションの西棟を、東棟の最上階から見下ろしながら、私は殺到する負傷者の治療に忙殺されていた。あの西棟の10階の部屋にいた、私の愛する妻子はどうなってしまったのかと案じながら。5/9

「私は原子炉の前で素っ裸になって全身を晒した結果、不死身になったんだ!」と宣言すると、六つ子は蒼ざめて胸に手を当て、「イヤミはシェー!」と叫びながら逃げ出した。5/10

余りにも荷物が多すぎて鎌倉駅で降りられなかったので、次の逗子で降りようと懸命に準備していたのだが、そばにいた小僧が邪魔立てするので、バッグを振り回してぶっ飛ばすと、車体の障壁ごと線路の向こうにすっ飛んでいった。5/10

美しきエトワール、オーレリー・デュポンをガルニエ座から拉致した私は、彼女を後ろ手に縛り上げ、ナイフで脅かしながらフェラチオを強いたのだが、そのめくるめく快楽にたちまち気を遣ってしまった。5/11

3万円払ったが、おつりは30円しか返ってこなかった。5/12

いきなり声がした。「ここにABCと3つの世界がある。お前らは普段Bに住んでいるのだが、時にはAやBに行く時もある。しかしその場合、お前たちは姿形がすっかり変っていることにまったく気づいていないのだ。」5/13

お城で失われた珍品の数々を、元の持主に返す催しが開かれ、我われ業者は3日間待機していたが、誰も現われなかったので、それらを全部引き取って古買に付そうと楽しみにしていたが、ふと眼を離した隙に誰かが全部引っさらっていった。5/14

誰かが私のことを社会人と紹介したので、「そうではありません、私は大学5年生です」と訂正した。5/15

わが社の新製品であるコーヒーメーカーの色をなに色にするかを巡って、何週間も大論争が続いていたが、結局これまでと同様の無難な白にすることに決まった。5/16

わが社の全社員が大講堂に集まって社長の訓示を聞いている最中に、どういうわけか見知らぬ人々が通りかかって、興味津津の面持ちで耳を傾けているので、社長も我われも驚いた。5/16

皇室から作曲を依頼されたので、できるだけ馬鹿馬鹿しい漫画的な曲をつくったら、意外なことにおおうけして、「次もぜひお願いしたい」ということになった。5/18

功なり名遂げた私は母校に招かれたので、「何でも疑ってかかれ」とか「モザールを聞けばモー君が美味しいミルクを出すという与太話は迷信だ」とか「世界一丈夫で美しいパンティはまだ誕生していない」というような話で、お茶を濁した。5/20

写真一筋の余は、「自然や人世の化生を写し取る」をモットオに、今日もシャッターを切り続けていた。5/21

親戚大集合の催しに遅刻した私は、焦っていたのか前に座っているフジイ氏に熱い味噌汁をぶっかけてしまい、謝りながら慌ててハンケチで拭いたり、大童だったが、このフジイ氏とは何者なのか、いくら考えても思い出せなかった。5/22

政府がこれまでの規定を全部反故にしたので、我われの会社でも全員が居残って、この国に残留するか否かを熱烈に討論していたのだが、山口君だけは「今日はひどく疲れたので帰ります」というて、闇の中に消えた。5/23

腹立ち紛れに、つい暴言を吐いてしまったことを、いたく後悔したが、後の祭りだった。5/24

私は長年にわたって脳裏に浮かんだ思いつきを、そのつど手元のテープに録音していたのだが、何百何千もあったカセットテープはいつの間にかすべて姿を消してしまった。5/25

正月早々出勤した私だったが、上司から幹部会に出席するよう命じられていたことをすっかり忘れていた。会議は本社ビルの2階の大会議室で行われているので、急いで駆けつけたが、あいにくそのフロアだけエレベーターが止まらないようにしてあったので、大いに焦った。5/26

誰かが「裏口から入れるよ」というので、急いでいったんビルを出て、裏側に回ろうとしたが、生憎の大雪で、行けども行けどもなかなか辿りつかない。額に汗して歩き続けているうちに、かえってビルからどんどん離れていくので、私はますます焦った。5/26

背後から私を追って来る人のように、私の家を追ってくる家があった。私が人から逃げ惑うように、私の家も逃げ惑うのだった。5/27

TYOの木村君と話していた男が、突然高価なオーディオ製品をいじりはじめたので、木村君が「駄目駄目、それを勝手にいじると、スギヤマ・コウタロが怒りますよ」と注意したので、「そうか、あの大人しいスギヤマ・コウタロウも怒ったのか」と思って、私もその男を注意した。5/27

この街で行きかう人々の顔は、みなぽっかりと穴が開いた□の形をしていた。5/28

ウッチャンはファックス機の新品をあげる、「ただだよ」と来る人ごとに言うたが、誰一人下さいとはいわなかった。5/29

大阪支店の遠藤君が、私を見知らぬ飲み屋に連れて行った。そこには同じ支店の営業部の連中が、三々五々呑んだり食ったりしていたが、いつのまにかいなくなったので、真っ暗な道をよろめきながら歩いていたが、肝心の遠藤君も行方知れずになってしまった。5/30

さっき通りかかったガソリンスタンドでは、赤いミニドレスんのおねえちゃんが誘ったので、なにしたんだが、今度のガソリンスタンドでは、白いミニドレスのおねえちゃんが誘ったので、またなにしてしまった。5/31

 

 

以下に「夢百夜」の未掲載分を追加します。

西暦2014年長月蝶人酔生夢死幾百夜

 

日払いマンションに住んでいた私。毎日会社から帰ると、お金を入り口に投入して扉を開き、2DKの部屋に入ると、奥の6畳間に居る女の処へ行って、朝まで抱いたり抱かれたりしているうちに、とうとう尻子玉を抜き取られてしまった。9/1

マンチェスターかリバプールの小さな村に、私たちは3人で住んでいたのだが、MORE OVERという歌が有名になると、「MORE OVERとつぶやくとすぐに有名になれる」という伝説が生まれて、世界中から大勢の人が押し寄せた。9/3

大部屋住まいの新米役者見習いの私は、大先輩の五味龍太郎氏の付き人として、信長に侍従する日吉丸のような謙恭な態度で、諸先輩の芸を盗みとろうとしていたが、いつまで経ってもなんの収穫もないのだった。9/4

テレビで宝くじの当選番号を放送していたので、私はそれを全部メモしてから宝くじ協会の倉庫に忍び込んで、当たりくじだけを拾って引き揚げた。これで当分生活できそうだ。9/5

久しぶりに地上に降りてきたら「テニスのなんとか選手を知ってるか」、「テング熱を知ってる蚊」などとブンブブンブとうるさいので、「んなもん知るか、要らんことを知るくらいなら、なんも知らんほうがよっぽど健康的じゃ」と答えると、そいつはアキレタボーイズになって黙ってしまった、9/5

私たちは、決死の覚悟でその城砦に立て篭もったのだが、指導者たちは、籠城の意思を固めたために、日が経つにつれて食糧が乏しくなった。これでは戦うためではなく、飢え死にするためにここへやってきたようなものだ。9/6

私の城の主はだんだん若返って、いまでは孫の代から曾孫、玄孫の代にまで及ぼうとしていた。9/7

1937年、帝国陸海軍の上海攻撃に井汲氏と参加することになったので、私らは緊張高まる日本海の荒波を乗り越えて、中国本土に到着した。9/9

私がモンブランの設計図を立体化した着ぐるみを身にまとっていると、吉田秀和翁がなぜか非常に興味を持って「とってもいいね」とほめたたえるので、私はいつのまにか大勢の人々に取り囲まれてしまった。9/10

李氏朝鮮時代に渡海した私は、素晴らしい馬を見つけたので、「これはいくら?」と尋ねたら、「5千ウオンだよ」というのだが、その時代にウオンなる通貨単位が存在しているか否かが不明だったので、さんざん迷った挙句に買わずに帰国した。9/11

最愛の耕君が、大阪道頓堀の名物カニ料理の前で行方不明になったので、旅行はそこで中止となり、警察が大捜索を開始した。9/11

イケダノブオが「佐々木さん、これからは耳たぶデザインの時代だと思うんです。それで耳たぶデザイナーの名前を考えてくれませんか」とせがむので、面倒くさくなった私は、「耳たぶデザイナーでいいじゃないか」と答えた。9/11

オバマ氏に招かれて、キッチンがついた6畳間だけの木賃アパートへ行った。煎餅布団が敷きっぱなしの狭い部屋は、ごみやがらくたでいっぱいだったが、孤独な大統領は「私が心からくつろげるのは、世界中でここだけなんですよ」と、涙目でぼそぼそと呟くのだった。9/12

スイスのチューリヒで開催されている国際ネーミング大会から招待されて、私は空港からタクシーで会場に直行したのだが、何千名も収容できる国際会議場には、人っ子ひとり、猫の子一匹いなかった。9/12

暮れなずむ巴里の街角のカフェで、西田佐知子が「♪オークレールドラリューン、メザミピエロ」と歌っていたが、「アカシアの雨に打たれて」とは勝手が違うので、ずいぶん音程が狂っていた。

インディアン、つまりアメリカ先住民の襲撃に備えて最前線で銃列を敷いていた私に、隣の男が「あんたの母校はどこだい?」と聞くので、「長岡先祖学校だよ」と答えると、「それははじめて聞く名前だな」と言うので、私もそう思った。9/13

茂原印刷が謹製した円、ドル、ユーロ、ポンドなどの紙幣の偽札は、みな溜息が出るような傑作ばかりだったが、特に素晴らしい出来栄えだったのは、キューリー夫妻やドビッシーの肖像が印刷されたフランの旧札であった。9/14

インド帰りの吉田君が「上野桜木の家に来て泊れ」というので、久しぶりに東京に出かけた。まだ旅館や下宿のある本郷西片町や母の生まれた谷中の坂道を辿っているうちに、急激に懐かしさがこみあげてきて、もう一度この地で青春を送りたいと思った。9/16

私の右の胸のあばら骨の下にいた武装兵が、私の左胸のあばら骨の下にいた無防備の人々に襲いかかって皆殺しにしたので、彼らが極右のテロリストと分かった。9/17

若い男女2人がシャドー・バスケットをはじめたので、中年男もそれに加わろうといたのだが、その動きについていけず、尻尾を巻いてすごすご逃げ出した。9/18

卒業生たちがお礼参りにやって来て、学校のすべての教室に大量のウンチをまき散らしていったので、私たち在校生は驚いたが、それがもしかすると黄金に変わるのではないかと思ってそのままにしておいた。9/20

こんなに狭い島なのに権力闘争は続けられ、細川宮はナチの応援を求めて接触しようとしていたが、荒川将軍は「そんなことは断じて許さん」と息巻いていた。9/20

宝くじが外れたというので、私は右腹を偽の息子に刺されたが、それでもなお豆腐を作る手をやめなかった。9/21

最近私のSNS友になった戸田という男が、朝から晩まで大量のメールを送りつけてくるので、私は夜も寝れずノイローゼになってしまった。9/22

大阪支店の支店長に、「「JALには商品を卸すけれど、ANAには卸さない」というのはどういう理屈かね」と、問いただしているうちに朝になった。9/22

必死に逃げ回ったけれど、ついに捕えられた私は、太陽神ラアのピラミッドのてっぺんで心臓をえぐり取られることになった。9/23

私のように才能のない醜い男が、ふぁっちょんデザイナーになれるなんて、思ってもいなかったのですが、どういう風の吹き回しか実際にそうなってしまうと、まだ子豚のように醜く肥る前の真木よう子似の美人が近寄って来て、「一夜を共にしたいわ」なぞと囁くのでした。9/25

明日から戦車隊の後部砲員に配属されることになったが、エコノミー症候群の私は、その密閉された狭い空間が恐怖で、今のうちに屋外に出て深呼吸をしておこうと思うのだが、それも出来ないのだった。9/25

その広告会社の本社兼社員用アパルトマンには、てんで仕事をせずにデスクの上で寝そべっている大勢のぐうたら社員がいたが、彼らの大方がクライアントのアホ馬鹿子息だったので、会社は首にするわけにもいかず、飼殺しにしているのだった。9/26

その会社の本社ビルジングの最上階は6畳くらいの狭い1室があって、そこには風采の上がらない無精ひげをはやした中年男がひとりで住んでいたのだが、朝な夕なに有名人やタレントたちが訪ねてきて、なにやら怪しい人世相談に乗ってやっているのだった。9/26

明田五郎の家は地下にあるというので、我われがどんどん階段を降りていくと、烏賊や蛸が切り刻まれている部屋や、血まみれの嬰児の死体が散乱している部屋が、まるで菊人形のようにあらわれたが、地底の奥底の部屋に五郎は座っていた。9/27

深夜まで残業したあとでタクシーで帰宅し、車から降りて我が家に向かっている。真っ暗な坂道を喘ぎながら登っていると、なにやら足元でもぞもぞ蠢くものがある。はじめはゲジゲジかムカデかと思ったが、良く見ると蠍の大群だった。1メートル近い巨大な奴が躍りあがって尻尾を振った。9/28

レリアンの今井社長が、「すぐにテレビCMを制作してもらってくれ」というので、市電に乗って電通の築地本社へ行き、某プランナーに依頼したのだが、「ったく、やんなっちゃうなあ、忙しくて3日も家に帰っていないんですよ」とブウブウ文句をいう。9/29

それをなだめすかして、「ともかく今晩中になんとかしてくれよ」と頼むと、彼は社内の自動販売機に1万円札を入れて「CM企画キット」を取り出し、私に向かって「ではオリエンをお願いします」という。9/29

つまり、このCMのターゲットは誰で、訴求する商品のセールスポイントはなにかを教えてくれ、と迫るのだが、私はまさかこんな展開になるとは思わなかったので、「ミ、ミ、ミッシーカジュアル」とつぶやいたまま、絶句した。9/29

 

西暦2014年神無月蝶人酔生夢死幾百夜

 

日本百名山に次々に挑戦していた私は、いよいよ富士山を征服しようと、いつものようにヘリに乗り込み、頂上から縄梯子を伝って降り立ったのだが、待てよこれは「登頂」ではなく「降臨」ではないかと思い当たり、すべてをやり直すことにした。10/1

その会社の経営者が幹部に示す月次方針は、いつものように絵と文字が複雑に入り組んでいるために、解読するのに骨が折れるのだが、今月のは文字がなく、パウル・クレーのような絵しか描かれていなかったので、経営会議は紛糾した。10/2

その村の入り口にひとりの老人が座っていたが、私に「ネットのことをわしに聞くな。auに電話して聞け」と告げると、また眠りこんでしまった。10/3

ラムパル峠のてっぺんまでやって来たので、私は「きみがここまでわざわざ送ってくれたから、僕はもう寂しくなんかない。寂しくなったら、きみのことを考えるさ。もう充分だから村に引き返しなさい」というと、彼女は「でも私はどうすればいいの」と呟いた。10/4

久しぶりに授業に出ようと思って大学にやって来たのだが、友人とお喋りしている間に時が経ってしまい、いつどこの教室でどんな講義があるのかも分からないので、焦った私は校舎のはずれの鉄塔の下の夏草に潜りこんで、いつまでもキリギリスの鳴き声を聴いていた。10/5

断崖絶壁に白い中古のフォルクスワーゲンを停めた男は、白い手袋を嵌めてハッチバックを開け、(私はこんなカブトムシを初めて見た)、大量のバイブルをその後部空間に並べて販売を始めると、いつのまにやら大勢の人々がやってきて、競うようにそれを買うのだった。10/6

全国シューズ学会における彼女の発言は、出席者から拍手喝さいで迎えられたが、それは彼女の赤裸々なプライベート・フィルムの上映に対して贈られたものだった。10/7

酔っぱらった吉村氏が、ナイフを振りかざして襲いかかって来たので、私はカスバの木賃宿を飛び出し、そこに止まっていた自転車に飛び乗って、大砂漠の底に通じる坂道を猛スピードで降りながら、もう二度とカスバの女王には会えないだろうと思って、紅い涙を流した。10/8

クグツのごとき風体の正体不明の3人組を見た瞬間、脅威を直感した私は、襲われる前にやれ、とばかりに彼らを馬から引きずりおろし、奪い取ったスコップでめった打ちにして、顔面を靴で蹴り上げたが、のたうち回っている彼らを見ながら、「待てよ、これは私よりも弱い無辜の民ではないか」という後悔が頭に擡げてきた。10/9

ネットを開くと、だいぶ時間が経ってから、鮫と人間の頭と石榴が出てきた。道理で時間がかかったわけだ。10/11

「雌鶏」を「面食い」と取り違え、「大事にしてください」を「お大事にされてください」などと言う教養のない男が、親のコネで理事長に就任したので、私たちは嫌気がさして仕事を怠けるようになった。10/12

しかもその新たな経営者は、「野球の試合でホームランを打った者には、おいらのカミサンを抱かせてやる」とおふれを出したのだが、彼女の写真を見た私たちは、一層やる気を失ったのだった。10/12

台風が来るから早く寝ようと思っていると、台風が早く来るから早く寝ようと思っていると、台風が早く来るからと思っていると、台風が来るから早く寝ようと思っていると……10/14

台風がやってくる/雨か風か/トイレにいかねば/台風がやってくる/雨か風か/トイレにいかねば/台風がやってくる/雨か風か/トイレにいかねば/台風がやってくる/雨か風か/トイレにいかねば/台風がやってくる/雨か風か/トイレにいかねば10/14

真っ暗闇の道を、オートバイのうしろに彼女を乗せて疾走している。左側から張り出している樹木を避けて右にハンドルを切り、また左に戻ろうとしたら、巨大な茶色のヒグマが両手をバンザイして立ちふさがっていたが、私はそのまま突っ走った。10/16

いまでは国家警察によって、我々のすべての私生活が動画に記録されるようになってしまったのだが、私は長年にわたって鋭意研究努力を続けた結果、彼奴らによってそれが再生されないようにする特殊技術を開発することに成功した。10/18

港町の安宿で呻吟していたら、橋本氏が「Tender is the Night だよ」と囁いたので、「ダーバンの港はほのぼの明け染めて今宵限りはデボラも優し」なるアフリカ短歌和歌が生まれたのだった。10/19

商社の巴里駐在員の私は、日本の某有名企業から物見遊山にやってきた3人の女性の接待を命じられた。初日はA子をアテンドして終日市内を観光し、晩飯の後で踊りに行ってホテルまで送っていったら、そのまま朝帰り。翌日はB子、その翌日はC子の繰り返しで、私は死んだ。10/20

夜中に妻が突然頭部への激痛を訴えたので、タクシーを呼んで湘南鎌倉病院へ行くと、救急外来には多くの患者が思い思いにソファーに寝そべっていて、ほんの2,3人しかいない新米医者から名前を呼ばれるのを待っているのだった。10/21

公金を横領して会社を首になり、起訴されて有罪判決を受けた情けない男の話が新聞に出ていたので、ケケケと嘲笑っていたら、なんとそれは私のことだった。10/22

いつものように大方の反対を強引に押し切り、大人向けの製品なのに、「ユベッ子」という商標を押しつけて裁断しようとするマエ・セイゾウを、私は面と向かって「いい加減にしろ、世界はお前を中心に回っているんじゃあないぞ!」と怒鳴りつけた。10/22

久しぶりに省線電車に乗ると左に井出君が座っていて、右側にチイチイパッパと群れている若手女子デザイナーのあれやこれやについて、くわしく伝授してくれた。

会社の中で大勢のスタッフが展示会の準備をしているのを見物しながら、あちこちうろついていると、いつの間にかどこかで見たことがあるような、しかし実際は初めて見る可愛らしい女の子が頬笑みかけ、私の右腕を取って暗がりに導く。

接吻をうながされたので唇を近付けると、彼女は「そうじゃなくて猫又キスよ」と言いながら、いきなり上半身を海老反らせて一物を含もうとするので、私は大いに慌てふためいて、進退に窮したのであったあ。10/23

その商業施設には「オールウエイズ・ハッピー」という標語を掲げた店が出店していたが、その真後ろには「トゥジュー・トラバイエ・ボクウ」と書かれたショップが向こうを張っていた。10/24

おひるごはんを立食べてから、みんなで立ち新井のの道を歩いていると、ドングリの実がたくさん落ちていた。すると妹は、「私はどうしてここにドングリの実が落ちているのかを説明する本を書いた。そしてどうしてドングリが姿を消すのかについて説明する本は私の友人が書いたのです」と云うた。10/25

短歌の五七五七七をデジタルではかる測定機が開発されたというので、大勢の歌人たちが、我も我もと自分の歌を積算しようとしていた。10/27

夜遅く書斎で仕事をしていると、家の外でなにやら物音がする。恐る恐る窓を開けると誰かが逃げ出したので、「こらああ!」と怒鳴ろうと思ったが、声が出ない。そいつを見ようとしたが眼が開かない。10/28

私が小説だか論文だかを死に物狂いで書きまくっていると、だんんだん小さな石のような物になって、海の中に沈んでしまった。しばらくするとその石のような物が動き出して、私の分身のような者となり、またしても小説だか論文だかを死に物狂いで書きまくるのだった。10/29

お萩を食べても食べても、新しいお萩が出てくる。10/30

私の治めている城に、和泉式部を名乗る女が「一夜の宿を借りたい」と申し出てきたので、泊めてやった。式部とともに城内を歩いていると、恋人との別れを辛がって泣く関野や、早く子供をおろせと女を責める桐野など、兵士の心中が手に取るように分かった。10/30

鈴木正文課長は、「今日から3日間特別教習を行う。徹底的に扱くからそのつもりでおれよ」と発破をかけたが、私は「またここから坂が下るのか。そいつを固く踏みしめねばならぬ」と思っていた。10/31

 

 

 

家族の肖像~「親子の対話」その10

 

佐々木 眞

 
 

%e5%81%a5%e3%81%ae%e7%8a%ac1

 

平成は、天皇陛下が亡くなったからでしょ?
そうだよ。

お父さん、動物の英語は?
アニマルだよ。
動物、動物、動物。

お母さん、ぼくが笑ったから、森田先生バカタレて言ったんですよ。
そうなの。
そうなんですよ。バカタレー、バカタレー。

お父さん、綾部におばあちゃん2人いたんだよ。
誰と誰?
愛子さんと静子さんだお。

とのさきさん、「今度検診」ていいましたよ。

まえ京王線、京浜東北線に似ていましたよ。

6扉車座れないよね。
うん。
ラッシュのときでしょ。
そうだね。

スイッチバックは、登ることができないからでしょ?
そうだよ。

お父さん、京浜東北線、急行なかったでしょ?
無かったね。
京浜東北線、品川で止まるようになったでしょ?
そうだね。

古い横浜線、さようなら、さようなら、さようなら!

前、お父さにんに「汚いから手を洗え」っていわれちゃったのよ。
そうなんだ。

ひたい、おでこのことでしょ?
そうだよ。耕君のおでこ、どこ?
ここですよ。

沖縄は那覇でしょ?
そうだよ。耕君、沖縄行きたいですか?
分かりませんお。

お母さん、歯石は歯のごみだよ。
そうだよ。誰が歯石取ってくれたの。
岸本先生だお。

耕君、きょうはふきのとう舎でボーナスがでるじゃない。ボーナスってなに?
お給料のことですお。

松島奈々子、結婚しましたお。
そうだね。結婚したね。

お母さん、ぼくカーブミラー好きですお。
そう、お母さんも好きですよ。
カーブミラー、カーブミラー。

お母さん、「大したことない」ってどういうこと?
大丈夫ってことよ。

耕君、こんなお天気になるなら、ふきのとう舎、行けたね。
お母さん、そんなこと言わないでください。

お母さん、ロープウエイある?
あるよ。「噴火の浅間」っていうテレビでみたのね?
そうだお。

ぼく、頑張っていますお。
そうなの。耕君、なに頑張るの?
分かりませんお。

お母さん、ヨーグルト食べてくださいね。
耕君にいわれなくても食べますよ。

お母さん、腹ペコってなに?
お腹が空いたってことよ。
お父さん、お腹の英語は?
ボディだよ。
おなかって、腹でしょう?
そうだよ。

俺の生徒にクズなんていないんだよお!
なにそれ?
反町隆史が言いましたお。

お母さん、まれ、なんで泣いているの?
悲しいからでしょ。

蓮佛さん好きだお。
そう。
蓮佛さんの声、大好きだよ
そうなんだ

蓮佛さん、お弁当食べて泣いちゃったよ。
なんで泣いたの?
生まれて初めてお弁当作ってもらったから。蓮佛さん、泣かないでよ。

お母さん、殺されると痛いですよね?
大変よ。
ぼく殺されるの、嫌ですお。
お母さんもよ。

お父さん、どっちみちの英語は
in any caseだよ。
お母さん、どっちみちっってなに?
どちらにしても、よ。

お父さん、お日様に十書いて「早」いでしょ?
そういえばそうだね。

ゆかりさん、ばーじんろーど、歩いた?
うん、歩いたよ。
そして、赤ちゃん生んだ?
うん、生まれたよ。

バンザーイ!バンザーイ!(と両手を挙げる)
ぼく、ばんざいしましたお。

 

 

 

電信柱も夢を見る

 

佐々木 眞

 

IMG_1730

 

谷戸の真ん中の電信柱のてっぺんには、
いつも大きな鳶がとまっていた。
ところが半年前から、その姿を見かけなくなった。

きゃろらいんちゃろんぷろっぷきゃりーぱみゅぱみゅ
げんなじるふとべんすきいまるこーにぱっぱあーの
いったいこれはどうしたことだろうね。

どうしたことかと訝しんでいたのだが、せんだってその理由が分かった。
いつの間にやら、電信柱が激しく傾いていたの。
これでは鳶だって、おちついてあたりを睥睨できないでしょう。

ほかの電信柱はどうなんだろうね?
近くの電信柱を見上げると、大きく右に傾いているではないか。
その隣のコンクリートのやつも、その隣もやっぱり右に傾いている。

きゃろらいんちゃろんぷろっぷきゃりーぱみゅぱみゅ
げんなじるふとべんすきいまるこーにぱっぱあーの
新事実だ! 新発見だ!

これは最近ますます右寄りに傾いている凶暴な政権党員の仕業ではないだろうか?
急いでわが在所の電信柱をきょろきょろ探したら、左に傾いているものも、ちゃんとまっすぐ立っている電信柱もあったので、ちょっとばかり安心したよ。

でも、それはもしかして、おらっちの目の錯覚ではないだろうか?
と少し心配になったものだから、県道204号の電信柱を、この眼で、まじまじ、「まあけっとりさーち」してみました。

すると、
右 32本
左 23本

まっすぐ 11本
合計 66本
という結果だった。

(ところでいま気がついたんだけど、
「右傾は逆から見れば左傾」なんだね。
これって、わりとあーたらしい物の見方ではないでしょうか?)

きゃろらいんちゃろんぷろっぷきゃりーぱみゅぱみゅ
げんなじるふとべんすきいまるこーにぱっぱあーの
おどろきもものきさんしょのき

でも右顧左眄せず自立している電柱は、なんとなんとたったの6分の1だったんだ。
さあて、ここで問題です。
「どうしてあんなに多くの電信柱が傾いているのでしょう?」

「電信柱の荷物が、重すぎるから」
ブッ、ブ、ブ、ブ、ブウーッ!
おねえいちゃん、そんな生易しいことではニャアですぜ。

「フクイチで手いっぱいの東電が、電信柱どころではないから」
ブッ、ブ、ブ、ブ、ブウーッ!
おにいさん、世の中なめたら、いかんぜよ。

草木も眠る丑三つ時、電信柱は夢を見る。
毎晩まいばん、夢を見る。
頭に天が落ちてくる、怖いこわーい夢なんだ。

山河も眠る丑四つ時、電信柱は等伯が描いた「松林」になる。*
「おいらはたしか電信柱だったのに、どうして松になってるんだろう?」
芸者ワルツを歌いながら、電信柱はゆらゆら揺れる。

天井が落ちてくる恐怖に耐えられないおらっちが、
夜な夜な身体をくの字に折り曲げるように、
電信柱も、柱を曲げる。クックックッと、背骨を曲げる。

きゃろらいんちゃろんぷろっぷきゃりーぱみゅぱみゅ
げんなじるふとべんすきいまるこーにぱっぱあーの
このせつ、電信柱も、大変なんだ。

 

*長谷川等伯(1539-1610)晩年の傑作「松林図屏風」

 

 

 

由良川狂詩曲~連載第3回

第1章 丹波人国記~プロテスタント

 

佐々木 眞

 
 

IMG_2488

IMG_2480

 

さて綾部は、このお話の主人公、健ちゃんのお父さんの故郷でもあります。
お父さんのマコトさんは、大学生になってからは東京に出てしまったために、いまは綾部では健ちゃんのおじいちゃんのセイザブロウさんとおばあちゃんのアイコさんが、西本町で小さな下駄屋さんを開いています。
屋号を「てらこ」というのですが、江戸時代には寺子屋、つまりいまでいう幼稚園か小学校があった場所に、健ちゃんのお父さんのお父さんのお父さんのそのまたお父さんが下駄の商売を始めたのでした。
つまり健ちゃんのひいおじいさんが、明治の終わりごろに開業したのが「てらこ履物店」だったのです。

いまの人は、下駄なんて浴衣を着るときくらいしか履きませんが、健ちゃんのお父さんが子供の頃は、まだ和服を着る人も多く、下駄を履く人と靴を履く人がちょうど半分くらいの割合だったそうです。
あるとき、(それは健ちゃんのお父さんが、いまの健ちゃんくらいの12歳頃のことでしたが)マコトさんが、セイザブロウさんが下駄の鼻緒をすげるのを眺めていたところへ、ひとりのよぼよぼのおじいさんが、傘をついてやってきました。
ちなみに綾部では、ロンドンのようなにわか雨が降るのです。
そのおじいさんは、「てらこ履物店」のある綾部の中心街からバスで1時間半ほど丹波高原の山地へ入った上林村の、さらにいちばん奥地の奥上林村から、半日かけてやってきた80歳くらいの人物で、腰は曲がり、髪は真っ白、顔は白い口ひげとあごひげにおおわれて真っ白、まるで仙人のような、この世離れしたいでたちで、てらこのお店へやってきたのでした。
おじいさんは、左手に碁盤模様の風呂敷包みと古ぼけた傘、右手にはなにやら灰いろにすすけた木のかたまりのような、ボロのような、奇妙な物体をぶらさげていました。
そして、その汚らしい物体をカウンターの上にどさりと置きながら、こういいました。
「ほんま、この下駄は長いこともちよったわ。おおきに、ありがとう。どうぞ新しいやつと取り替えてやってつかあさい」
セイザブロウさんは、なんのことやらさっぱり分かりません。
「取り替える、といいますと?」
「いやあ、てらこはんの下駄は、ほんま丈夫で長持ちしますなあ。しゃあけんど、もうこうなってしもうたら、寿命や。ほんでなあ、これとおんなじやつがあったら、はよ取り替えてやってつかあさい」
「あのお、うちは古い下駄のお取り替えは、やっとらへんのですけどなあ」
そういいながら、セイザブロウさんは、あることに気づいて愕然としました。
人間よりも猪が多い、と冗談のようにいわれる山奥から、腰に弁当を下げ、雨傘をついて、えんやこらどっこい、町の繁華街に出かけてきたこの仙人のようなおじいさんは、昭和の34年にもなるというのに、下駄屋でも、どこの店でも、その都度お金を払って新しい商品を買うのだ、という商習慣が、てんで分かっていないという事実に。
おそらく彼はいまから4、5年前に、今日と同じように、中丹バスに揺られ揺られて、西本町の「てらこ履物店」にやって来て、そのときは間違いなくお金を払って1足の下駄を購ったのでしょう。
しかしその下駄が、ちびて、すり減り、とうとう使い物にならなくなったとき、てっきり、定めし、必ずや、てらこでは、無料で、ただで、ロハで、新しい下駄に丸ごと交換してくれるに違いない、という思い込み、信念、確信が、この奥上林村の仙人の頭の中には、ずっしり、どっしり、はっきり、とありすぎたために、健ちゃんのお父さんのセイザブロウさんも、新しい、まっさら、ピカピカの下駄を、その白髪三千丈のおじんさんのために、あやうく、あわや、ほとんど、カラスケースの中から取り出そうとしたくらいでした。
当時の綾部には、それくらい浮世離れした人々が大勢いましたし、じつは何を隠そう、いまでも素晴らしく浪漫的な人たちが、町のあちこちに住んでいるのです。

「てらこ履物店」の人々、とりわけ健ちゃんのひいおじいさんのコタロウさんは、この町の筋金入りのクリスチャンでした。
表通りは下駄屋でも、裏に回れば玄関のとっつきに「死線を越えて」の著者がこの家を訪ねた折の揮毫が、ついたてにして飾られ、欄間のあちこちに明治の基督者たち、たとえば、海老名弾正や新島襄の筆になる額がかけられていました。
ご存知のようにこの国では、戦時中は信教の自由なんてものはありませんでした。コタロウさんのような熱心なクリスチャンは、「ヤソじゃ、ヤソじゃ」と向こう三軒両隣からもさげすまれて、開戦直後に警察のブタ箱に放り込まれる始末でした。
ようやく戦後になっても、コタロウさんの筋金入りのプロテスタントぶりは痙攣的に発揮され、コタロウさんの孫たちは、神社や寺社仏閣の子供会の早朝参拝や掃除には参加を禁じられていました。
その代わりにコタロウさんが孫たちに強制したのは、日曜日の朝の礼拝への出席でしたが、これは現行憲法が保障する、個人の「信教の自由」の侵害であったといえるでしょう。
そういえばある晩のこと、中学生になっていた健ちゃんのお父さんのマコトさんが、毎週土曜夜の学生礼拝をさぼって、町でただ1軒の映画館「三つ丸劇場」で、ジェームズ・ギャグニー主演のめったやたらに面白いギャング映画を見物している最中に、てらこの特別捜索隊に発見され、泣く泣く教会に連れ戻されたという、聞くも涙、語るも涙の物語もありました。
その際、劇場の切符もぎりのおばさんが、思わず洩らしたひとこと、「せっかく楽しんどってやなのに、親がそこまでやらんでも、ええのにねえ」に、筆者(わたくし)は、いまなお衷心より共感いたすものであります。

 

空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空次回へつづく