スズムシの世話をはじめてみると

 

駿河昌樹

 
 

スズムシの世話をはじめてみると
スズムシの気持ちを
それなり
やっぱり考えたりする

エサのナスを楊枝に刺して
土に立てるにも
キュウリを立てる場合にも
どこに立てようか
けっこう考えたりする
煮干しも楊枝に刺して立てるが
その位置も気にする
霧吹きで水分をふっかけるにも
どのぐらいにしておこうか
ようすを見ながらやる

かれらときたら
じぶんの脚をなめたり
ほかの脚でこすったり
触角を口で磨いたり
羽に付いたゴミを落そうとしたり
けっこう
おめかしに忙しいが
こういうのを見ていると
気持ちだけでなく
それなりの考えや
美意識まで持っているんだろう
と感じてくる

スズムシの顔は
コオロギとちがって小さいので
馴染んでくると
顔の小さなほかの虫も
なんだか
前よりずいぶん近い存在に
思えてくる

とにかく
スズムシは虫なのだから
これに馴染んで
気持ちを汲んでやろうとしたりすると
蚊だって
蠅だって
カガンボだって
カゲロウだって
ゴキブリだって
もうみんな
お隣さんに思い直されてくる

汲んでやるべき気持ちが
スズムシにあるのなら
ほかの虫たちにも
同じように気持ちがあるはずで
そんなことを
ながいあいだ勝手に無視して
人間
だとか
大人
だとか
やってきたつもりの人生には
たぶん
やっぱり
たいした意義はなかったかもな
どこか
ちがっていたよな

思ってしまう

 

 

 

この夏の霊魂をのせた一艘の舟が揺籃の地を過ぎるとき

 

駿河昌樹

 
 

ほとんど言わないことなのだが
たまに
言っておいてみても
いいかもしれない

わたしは
じぶんが書くものが誰かに読まれるとは
思っていない

誰かに読まれたことがあるとも
思っていない

いずれは読まれるだろうとも
思っていない

そのように思いながら言葉ならべをする人
わたし

ヘンだとは思わない

わたしは厖大な書籍を所有しているが
古いものは
現代では
まったく読まれていないのを知っている

うちからは十五分も歩けば古書店街に着くが
そこには
かつて発行されたものの
今では好事家にしか見向きもされない本が
まさに山積みされている
本が貴重な尊いものだなどという妄想を一瞬に打ち砕くには
絶好の光景がどこの古本屋にも見られる

書くのが
なにか意義がある
などと
思うのが
どうかしているのだ

書けば
ひょっとして
読まれるかもしれない
などと
期待するのが
どうかしているのだ

読まれたら
どうにかなるのだ
なにかが起こるのだ
などと
考えるのも
どうかしている

読まれる
というのは
書いた者の期待するような読まれ方をする
ということで
パラパラ
ページをめくられて
適当に断片的な言語印象を拾われていくことを意味しない

だいたい
書いた者も
書いた者の未来に
裏切られ続ける
続けていく

本というのは
作ってしまったが最後
死屍累々の紙束のひとつになるだけのことで
それ以上のなにかとして
残るかもしれない
などと
期待するのは狂気もいいところ

ソ連が崩壊し
東ドイツが崩壊してから
しばらくして
マルクス主義専門の古書店に行ったことがある
政治や経済の本はもちろんだが
マルクス主義的文芸批評や文明批評や精神分析の本まで
ごっそりと並んでいて
本や思考や精神が一気に無効化していく現場を眺めていた
『腹腹時計』なども売っていて
あ、これがあれか
これが…
などと
ランボーみたいな反応をしたが
それだけのことで
革命は流産していた
暴力は遠い老人だった

もちろん
本は使いようだから
帝国主義的発想や連合赤軍的文明批評や
オウム真理教による悟り方全書だって
いくらでも価値はある
しかし
それらを論文のための思考の助けに使うことはできなくなる
資料としてしか
もう使えない
その際にも周到に注をつけ
説明を加えながらでしか
使えない

わたしは短歌結社に入っていた頃
毎月発行される歌集をさんざん貰ったり
買ったりしていて
年間で優に数十冊は溜まっていったものだったし
それらのどれもそれなりに面白くはあり
作者の思いというものにそれなりに触れた気になったし
いちいち礼状を書いたし
いちいち感想を書き送ったし
その後に作者に会えば「いい歌集でした」と
紋切り型のご挨拶から始めたものだが
いま手元に残っているのは
もう
一冊もない
ぜんぶ古本屋に売ってしまった
古本屋の中には「こんなの貰っても
ぜんぜん売れないから燃えるゴミなんだよね」と
正直に言ってくる店もあったりで
数十年そんなことをくり返すうちに
歌集というのはまったくなんの意味もないと思い知った
意味が多少とも出てくる歌集というのは
出版社が費用を出してスターを作ろうとする時の歌集で
それ以外の自費出版はなんにもならない

スターというのは
どのようにしてなるのだろう?
馬場あき子に何度か言われた
寺山修司は中井英夫のお稚児さんになってまでして
ああして出して貰ったんだからね
中井英夫に尻を差し出してね
なるほど
そうしないと
スターにはなれないのだろうか?

詩集も同じことで
いろいろな人からたくさん貰い続けたものだし
中にはなにかの賞を取ったものや
いろいろと取り沙汰されたものもあったりしたが
引越しのたびに手放し
何度も引越ししたいまでは
もう昔に貰った詩集も雑誌も一冊も手元には残っていない
自分の書いた詩が載っている詩誌さえ
いまの住まいに越すにあたっては全部売ってしまった

あちこちで買い集めた
かつて
ちょっと著名だった詩人たちの詩集も
ほとんど手放してしまった
西脇順三郎全集も売り
ほとんど持っていた入沢康夫もすべて売り
清水昶を売り
清水哲男を売り
飯島耕一だけは好きだが買わなかったので売りさえせず
石原吉郎は残し
ほぼすべてを持っている吉増剛造はすべてを残しているが
たぶんもう読まないだろう
と思いつつ
サイン入りの『熱風』(中央公論社、昭和五十四年)をこの前見たら
これは面白く
見直し始めている
1990年代に盛んに書いていた団塊の世代の詩集は
すべて捨てた

稲川方人だけは手元に起き続けている

堀川正美の『太平洋』の初版は持ち続ける

現代詩文庫はほぼ全部を持っていて
ほぼ全部を読んだが
詩を一度いちおう読みましたというのは意味をなさないので
だから何だ?
ということでしかないがもう読まないと思う

  ああ、霊感がいっぱい、あたりまえのこといっぱい*


吉増剛造

  この夏の霊魂をのせた一艘の舟が揺籃の地を過ぎるとき**
  この夏の霊魂をのせた一艘の舟が揺籃の地を過ぎるとき

  この夏の霊魂をのせた一艘の舟が揺籃の地を過ぎるとき
  この夏の霊魂をのせた一艘の舟が揺籃の地を過ぎるとき


吉増剛造

 

 

*吉増剛造『熱風』(中央公論社、昭和五十四年)p.66
**吉増剛造『熱風』(中央公論社、昭和五十四年)p.122

 

 

 

うれしい

 

駿河昌樹

 
 

  一度死んだ人が、わたしの身体のなかで何度死んでもいい。
                         土方巽

 

ネット上に
見ていないホラー映画を見つけたので
すこしずつ
明日から見ることにしよう

そろそろ
眠ろうかな
 (近くの消防署でなにかの訓練が終わった頃
 (土でふくらんだ人形をかたづけている消防士たちがいて
 (ヘノヘノモヘジみたいな顔の重い人形に
 (消防士たちはけっこう参っていた

水を
一杯飲みに台所へ行ったら
 (水一杯を台所に飲みに行くにも
 (思い出してしまう
 (過去のいろいろな台所

食べやすく
三角形に薄く切った西瓜が二切れ
宙を舞っていた

西瓜も
眠れ

高原に住んでいる人から
清流釣りの写真が
スマホに来た

わたしは街の人間に思われているかもしれないが
そう簡単ではないよ
わたしは

フォークまで宙を踊ると
ちょっと
剣呑

さすがに
ちょっと距離を
取っちゃう

むかし会った人たちがときどきいっぱい廊下に密集していて
どうしようかな、通りづらいな
と思う時がある
でも
みんな死んだ人
みんな
みんな
死んでしまっている人

死んでさえいない人
わたし

死者の名刺ってある?
いる?

暑さの募っていく朝がた
ラジオ体操に子らが出かけていく時間に
死んだ人たちが廊下に密集していたりすると
この世の真理に触れた気にすごくなる

うれしい

 

 

 

体験してきたのでわかる

 

駿河昌樹

 
 

空白空白すてきなことはみんないつか終わるもの
空白空白空白空白空白村上春樹『スプートニクの恋人』

 

こうして生きてるだろ?
あしたもあさっても
だいたいはこんな感じで
続いていくと思うだろ?
けれどこういうのが
ある時ぜんぶ終わるのを
ぼくはよく知っている
なんども引越しをしたので
ある日ほんとうに
ぜんぶ変わってしまうのを
体験してきたのでわかる
人が死んでその人の家を
かわりに整理したこともあって
終わるとはどういうことか
体験してきたのでわかる
悪くなかった家族なのに
ある時爆発のように壊れて
ちりぢりになって二度と
戻らなくなってしまうのも
体験してきたのでわかる
大事にしてきたものが
薄いガラス細工のように
容易に砕け散って二度と
戻らなくなってしまうのを
体験してきたのでわかる
だから大事なものは
二度と持ちたくなくなるのも
体験してきたのでわかる
みんな死んでしまえばいいのに
という綾波レイのことばが
じぶんの内奥のことばとして
ずっと共鳴し続けていくのも
体験してきたのでわかる

 

 

 

ニャ

 

駿河昌樹

 
 

ごく親しい人とは
じつは
あまりにほんごを使っていない
ニャアニャアばかり
言っている
だいたいの意思疎通は
ニャアニャア
で足りるのであるからして
ニャアニャア
なのである
ニャアニャア

以前も書いたが
ムカついた時には
ニャンたることかニャア!
と発語すると
たいてい収まる
けっこう怒った時も
ニャンともニャア!
と言えば
ほとんど収まる
このふたつで収まらない怒りや
動揺というのは
めったにないといってよい
ニャンたることかニャア!

ニャンともニャア!

かなり強力で
マントラとしてイケると思う
確信しておる

ネコだというわけではないし
ネコをマネしているのでもない
連中のもの言いは
聞いてればすぐわかるが
はるかに素っ気ない
だいたい
ニャ
ぐらいで終えている
こっちが
ニャアニャア呼びかけても
返してくるのは
ニャ
である
達人の域に達しているから
駄弁を弄さないのである

 

 

 

中古の関係

 

駿河昌樹

 
 

愛人
ということばは好きで
聞くたび
いいなぁ
と思う

なんといっても
愛シテイル人
なんだから
他者を引き立てるための
添え物の意味あいの

なんて
いうのよりも
よっぽど
いい

刺身の妻
より
刺身の愛人
のほうが
やっぱり
いい

とはいえ
愛人
と聞くと
げんなりもする
あゝ つまんない
とも思う

馴染みすぎな感じが
もう
所帯じみた
というか
なれ合い過ぎ
というか
妻でもないのに
新鮮味が
もう
消えてしまっている

愛人
をこしらえて
安住している男って
嫌だな
とまでは思わないが
つまらないな
と思う
愛人
までいかない
不安定な
心理の駆け引きの間だけが
どうにか
こうにか
面白くって
お互いに理解しあったり
大丈夫な人だと
安心してしまったり
って
つらいな
つまらないな
もう
中古の関係じゃないかサ

……と
愛人

長くやっている人の
話を聞いて
思った次第なわけです

 

 

 

小箱のでいいから

 

駿河昌樹

 
 

会わなかったけれど
もっと
もっと
それが会うことでもあったような
カトリーヌ

公園で
あたしはこれから
会うところ

ユリをきょうは
買ってくればよかった

でも
噴水の水がとまっているので
キャラメルを
きっと
買って帰るわ
空白空0(小箱ので
空白空0(いいから

 

 

 

われも静かに

 

駿河昌樹

 
 

大空を
しろい雲が
ゆく

しずかだ

しずかなことだ

あんなふうに
生きていくべきだな
わたしも

しずかに

すこぶるしずかに

 

 

空白空白空白空白空白空白空白空白空白空白空白空白空白空白空白空白空白相馬御風
大空を静かに白き雲は行くわれも静かに生くべかりけり

 

 

 

池でないものを

 

駿河昌樹

 
 

停滞そのものとなって
人生
などという
大それた巨視を
すっかり放棄してしまった人が
きっと
はじめて
詩のようななにかを
書き止められるのかもしれないと
思っている
いつも

思いながら
ない池の
ほとりにたたずんで
見ている

池でない
ものを