電信柱も夢を見る

 

佐々木 眞

 

IMG_1730

 

谷戸の真ん中の電信柱のてっぺんには、
いつも大きな鳶がとまっていた。
ところが半年前から、その姿を見かけなくなった。

きゃろらいんちゃろんぷろっぷきゃりーぱみゅぱみゅ
げんなじるふとべんすきいまるこーにぱっぱあーの
いったいこれはどうしたことだろうね。

どうしたことかと訝しんでいたのだが、せんだってその理由が分かった。
いつの間にやら、電信柱が激しく傾いていたの。
これでは鳶だって、おちついてあたりを睥睨できないでしょう。

ほかの電信柱はどうなんだろうね?
近くの電信柱を見上げると、大きく右に傾いているではないか。
その隣のコンクリートのやつも、その隣もやっぱり右に傾いている。

きゃろらいんちゃろんぷろっぷきゃりーぱみゅぱみゅ
げんなじるふとべんすきいまるこーにぱっぱあーの
新事実だ! 新発見だ!

これは最近ますます右寄りに傾いている凶暴な政権党員の仕業ではないだろうか?
急いでわが在所の電信柱をきょろきょろ探したら、左に傾いているものも、ちゃんとまっすぐ立っている電信柱もあったので、ちょっとばかり安心したよ。

でも、それはもしかして、おらっちの目の錯覚ではないだろうか?
と少し心配になったものだから、県道204号の電信柱を、この眼で、まじまじ、「まあけっとりさーち」してみました。

すると、
右 32本
左 23本

まっすぐ 11本
合計 66本
という結果だった。

(ところでいま気がついたんだけど、
「右傾は逆から見れば左傾」なんだね。
これって、わりとあーたらしい物の見方ではないでしょうか?)

きゃろらいんちゃろんぷろっぷきゃりーぱみゅぱみゅ
げんなじるふとべんすきいまるこーにぱっぱあーの
おどろきもものきさんしょのき

でも右顧左眄せず自立している電柱は、なんとなんとたったの6分の1だったんだ。
さあて、ここで問題です。
「どうしてあんなに多くの電信柱が傾いているのでしょう?」

「電信柱の荷物が、重すぎるから」
ブッ、ブ、ブ、ブ、ブウーッ!
おねえいちゃん、そんな生易しいことではニャアですぜ。

「フクイチで手いっぱいの東電が、電信柱どころではないから」
ブッ、ブ、ブ、ブ、ブウーッ!
おにいさん、世の中なめたら、いかんぜよ。

草木も眠る丑三つ時、電信柱は夢を見る。
毎晩まいばん、夢を見る。
頭に天が落ちてくる、怖いこわーい夢なんだ。

山河も眠る丑四つ時、電信柱は等伯が描いた「松林」になる。*
「おいらはたしか電信柱だったのに、どうして松になってるんだろう?」
芸者ワルツを歌いながら、電信柱はゆらゆら揺れる。

天井が落ちてくる恐怖に耐えられないおらっちが、
夜な夜な身体をくの字に折り曲げるように、
電信柱も、柱を曲げる。クックックッと、背骨を曲げる。

きゃろらいんちゃろんぷろっぷきゃりーぱみゅぱみゅ
げんなじるふとべんすきいまるこーにぱっぱあーの
このせつ、電信柱も、大変なんだ。

 

*長谷川等伯(1539-1610)晩年の傑作「松林図屏風」

 

 

 

model 模型 型

 

海を
みてた

山を
みてた

休日には空を雲が流れるのをみていた

小さなころ
ことばをおぼえて

まだ
遊んでる

チチは死んだ
ハハも小さくなって死んだ

ヒトは生まれていきて
いつか死ぬ

あまり
語るべきことはない

小舟の底に寝て空をみていた

 

 

 

俺っち束ねられちぁかなわねえ。

 

鈴木志郎康

 

 

束ねられるっていやだねえ。
俺っち、
高齢な身体障害者よ。
役に立たねえって、
十把一絡げにされちゃ、
かなわねえ。
役立たずの
日本国民って束ねられると、
おお嫌だ。
役に立つ日本国民が
束になってかかって行く、
なんて、
俺っちは御免だぜ。
何んにしたって、
高齢者って、
身体障害者って、
人間を束ねるってのがいやなんだ。
人を束ねて見ちゃいけねって思ったね。
束ねると、
レッテルを貼り付けて、
役にたたねえとか、
敵とか味方とか、
決めつけちゃう。
そいつが良くねえんだ。
高齢者って束ねられたって、
障害者って束ねられたって、
国民って束ねられたって、
役に立とうが立つまいが、
ひとりはひとりよ。
ひとりは弱いって、
弱くて結構よ。
俺っちの人生は全うしなきゃね。
てもね、
闘って勝つには、
束になって向かって行かなきゃなんねってね。
おお嫌だ。
国民って束ねられたら、
たまらないね。
一丸になれってきたら、
糞喰らえ、
アワワ、アワワ、
アワアワンズッテーン。

 

 

 

forest 森

 

今朝
海をみてた

休日には
海をみてる

いつも

まだもうしばらくあなたを愛していたいの。
I want to love you a little longer.

愛ってどうなんだろう
わからない

美しいヒトに出会うこともある

海をみてる
森をみてる

 

 

 

early 早い

 

京浜東北線の蒲田で降りた

最終の

電車に
乗れなかったから

蒲田で列にならんで
タクシーに

乗った
真っ黒の光るタクシーには

南島訛りの
運転手さんがいて

やさしい声でいくつも飴玉をすすめた

恐ろしかった
やさしさ

昨日も美しい女を見なかった

 

 

 

由良川狂詩曲~連載第3回

第1章 丹波人国記~プロテスタント

 

佐々木 眞

 
 

IMG_2488

IMG_2480

 

さて綾部は、このお話の主人公、健ちゃんのお父さんの故郷でもあります。
お父さんのマコトさんは、大学生になってからは東京に出てしまったために、いまは綾部では健ちゃんのおじいちゃんのセイザブロウさんとおばあちゃんのアイコさんが、西本町で小さな下駄屋さんを開いています。
屋号を「てらこ」というのですが、江戸時代には寺子屋、つまりいまでいう幼稚園か小学校があった場所に、健ちゃんのお父さんのお父さんのお父さんのそのまたお父さんが下駄の商売を始めたのでした。
つまり健ちゃんのひいおじいさんが、明治の終わりごろに開業したのが「てらこ履物店」だったのです。

いまの人は、下駄なんて浴衣を着るときくらいしか履きませんが、健ちゃんのお父さんが子供の頃は、まだ和服を着る人も多く、下駄を履く人と靴を履く人がちょうど半分くらいの割合だったそうです。
あるとき、(それは健ちゃんのお父さんが、いまの健ちゃんくらいの12歳頃のことでしたが)マコトさんが、セイザブロウさんが下駄の鼻緒をすげるのを眺めていたところへ、ひとりのよぼよぼのおじいさんが、傘をついてやってきました。
ちなみに綾部では、ロンドンのようなにわか雨が降るのです。
そのおじいさんは、「てらこ履物店」のある綾部の中心街からバスで1時間半ほど丹波高原の山地へ入った上林村の、さらにいちばん奥地の奥上林村から、半日かけてやってきた80歳くらいの人物で、腰は曲がり、髪は真っ白、顔は白い口ひげとあごひげにおおわれて真っ白、まるで仙人のような、この世離れしたいでたちで、てらこのお店へやってきたのでした。
おじいさんは、左手に碁盤模様の風呂敷包みと古ぼけた傘、右手にはなにやら灰いろにすすけた木のかたまりのような、ボロのような、奇妙な物体をぶらさげていました。
そして、その汚らしい物体をカウンターの上にどさりと置きながら、こういいました。
「ほんま、この下駄は長いこともちよったわ。おおきに、ありがとう。どうぞ新しいやつと取り替えてやってつかあさい」
セイザブロウさんは、なんのことやらさっぱり分かりません。
「取り替える、といいますと?」
「いやあ、てらこはんの下駄は、ほんま丈夫で長持ちしますなあ。しゃあけんど、もうこうなってしもうたら、寿命や。ほんでなあ、これとおんなじやつがあったら、はよ取り替えてやってつかあさい」
「あのお、うちは古い下駄のお取り替えは、やっとらへんのですけどなあ」
そういいながら、セイザブロウさんは、あることに気づいて愕然としました。
人間よりも猪が多い、と冗談のようにいわれる山奥から、腰に弁当を下げ、雨傘をついて、えんやこらどっこい、町の繁華街に出かけてきたこの仙人のようなおじいさんは、昭和の34年にもなるというのに、下駄屋でも、どこの店でも、その都度お金を払って新しい商品を買うのだ、という商習慣が、てんで分かっていないという事実に。
おそらく彼はいまから4、5年前に、今日と同じように、中丹バスに揺られ揺られて、西本町の「てらこ履物店」にやって来て、そのときは間違いなくお金を払って1足の下駄を購ったのでしょう。
しかしその下駄が、ちびて、すり減り、とうとう使い物にならなくなったとき、てっきり、定めし、必ずや、てらこでは、無料で、ただで、ロハで、新しい下駄に丸ごと交換してくれるに違いない、という思い込み、信念、確信が、この奥上林村の仙人の頭の中には、ずっしり、どっしり、はっきり、とありすぎたために、健ちゃんのお父さんのセイザブロウさんも、新しい、まっさら、ピカピカの下駄を、その白髪三千丈のおじんさんのために、あやうく、あわや、ほとんど、カラスケースの中から取り出そうとしたくらいでした。
当時の綾部には、それくらい浮世離れした人々が大勢いましたし、じつは何を隠そう、いまでも素晴らしく浪漫的な人たちが、町のあちこちに住んでいるのです。

「てらこ履物店」の人々、とりわけ健ちゃんのひいおじいさんのコタロウさんは、この町の筋金入りのクリスチャンでした。
表通りは下駄屋でも、裏に回れば玄関のとっつきに「死線を越えて」の著者がこの家を訪ねた折の揮毫が、ついたてにして飾られ、欄間のあちこちに明治の基督者たち、たとえば、海老名弾正や新島襄の筆になる額がかけられていました。
ご存知のようにこの国では、戦時中は信教の自由なんてものはありませんでした。コタロウさんのような熱心なクリスチャンは、「ヤソじゃ、ヤソじゃ」と向こう三軒両隣からもさげすまれて、開戦直後に警察のブタ箱に放り込まれる始末でした。
ようやく戦後になっても、コタロウさんの筋金入りのプロテスタントぶりは痙攣的に発揮され、コタロウさんの孫たちは、神社や寺社仏閣の子供会の早朝参拝や掃除には参加を禁じられていました。
その代わりにコタロウさんが孫たちに強制したのは、日曜日の朝の礼拝への出席でしたが、これは現行憲法が保障する、個人の「信教の自由」の侵害であったといえるでしょう。
そういえばある晩のこと、中学生になっていた健ちゃんのお父さんのマコトさんが、毎週土曜夜の学生礼拝をさぼって、町でただ1軒の映画館「三つ丸劇場」で、ジェームズ・ギャグニー主演のめったやたらに面白いギャング映画を見物している最中に、てらこの特別捜索隊に発見され、泣く泣く教会に連れ戻されたという、聞くも涙、語るも涙の物語もありました。
その際、劇場の切符もぎりのおばさんが、思わず洩らしたひとこと、「せっかく楽しんどってやなのに、親がそこまでやらんでも、ええのにねえ」に、筆者(わたくし)は、いまなお衷心より共感いたすものであります。

 

空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空次回へつづく