michio sato について

つり人です。 休みの日にはひとりで海にボートで浮かんでいます。 魚はたまに釣れますが、 糸を垂らしているのはもっとわけのわからないものを探しているのです。 ほぼ毎日、さとう三千魚の詩と毎月15日にゲストの作品を掲載します。

今天,由我來送死

 

Sanmu CHEN / 陳式森

 
 

今天,由我來送死
盛大的守夜,彌留者的祈禱。
磨擦着聲音的細節,抬頭呼吸,
蘇醒的獸破解了的沉默。

每一個字𥚃骨頭都在呐喊!
不在的花朵深處
讓羊水流動,除了呼吸之外
我可以說的,只有那麼多。

驚蟄盲月的胸膛已洞開,
無知取代了我的呼吸。
我們悔意全無
雷,已經聾了。

在潮濕中燃燒我的信
燃燒我的呼吸我的號哭。
死的書!經書失去了信仰。
今天,由我來送死。

 
2024年3月9日 於碩門

 

 

 

 

いない人

 

野上麻衣

 
 

くらす人が家をるすにする日がつづく。

くらして2年、
ふたりの時間をすごしてきたあとの、
ひとりの時間。

いない夜がつづくと
声にならないぶんが
文字になった。

ふたりのひとりがいないぶん、
部屋はよごれない。

飲みかけのお茶、
洗わずにおいたままのお皿、
ひきかけの椅子。
景色がひとつも動かなくて
ここではひとりんぼう。
しん、と
きこえた
ひとりぶんの、声。

 

 

 

家族の肖像~親子の対話 その69

 

佐々木 眞

 
 

 

2024年1月

紫式部、なにするひと?
御本を書いたりするひとよ。
ボク、みますお。
みようね。

鎌倉、ツツツー、のあるとこですよ。
コウ君、ツツツーの信号、まだ苦手なの?
ダイジョウブですお。大丈夫。

コウ君、歯医者さんで虫歯を治してもらおうね?
嫌ですお。ダイジョウブですお。大丈夫。

ボクはねえ、オオヤさんとマイさん両方好きですお。
そうなんだ。お母さんも。

まひろ、泣いちゃったよ。
大丈夫だよ、コウ君。

まひろ、寂しかったんだよね。
そうだね。

ボク、まえポンキッキ好きだったんだお。
そうなんだ。

ボク、「光る君へ」の音楽、好きですお。
へえ、そうなんだあ。

 

2024年2月

めぐりあうって、なに?
また会うことよ。

お母さん、これなーに?
これはね、シロヤマブキの実なんだよ。
はい、わかりましたあ。

請求書って、なに?
これだけお金使いましたから下さい、というお知らせよ。

お父さん、あした石原さとみの番組、録画してくださいね。
分かりましたあ。

コウ君、うちのお金を黙って使うの、ドロボウだよ。ドロボウどうなるの?
ケイサツにつかまります。
つかまると、どうなるの?
困ります。
そうでしょう。ドロボウしたらダメよ。
分かりましたあ!

ドロボウ、困ります。うちお金ないのよ。
はい、分かりました。大事に使います。

ボクはイイコですよ。
そうなの? ワルイコは?
ドロボウですよ。
コウ君、ドロボウ?
違いますよ。

比較的って、なに?
わりあい、よ。

タイミングって、なに?
ちょうどいい時よ。

「転校生」で蓮佛さん、死んじゃったでしょう?
死んじゃったね。

お父さん、ホンマって、なに?
ほんとう、のことだよ。ホンマカイナ、ソウカイナ、エーだよ。

ボクは我慢できます!
なにが我慢できるの?
分かりませんお。

コウ君がどんどん遣うから、うちのお金、全部なくなっちゃうよ。
ぼく、無駄遣いしませんお!

お母さん、ごめんなさいとボクいいました。
お母さんのお財布の中のお金はお母さんのお金です。コウ君のお財布の中のお金がコウ君のお金です。
分かりました、分かりました!

お母さん、モリダクサンて、なに?
いっぱい、いっぱいのことよ。

 

 

 

レ・サングロロン デ・ヴィオロン

 

駿河昌樹

 
 

詩というと
ヴェルレーヌの『秋の歌』に
やっぱり
極まっちゃうのかな

思う

近代の

の場合は

簡単
シンプル
音の粋

だれもに沁みる
嘆き節
嘆き節以外に
詩なんぞ
ある
もんか!

あきらめ悟ったうえでの
明瞭な
つぶやき

ああ、いいね
あの音

 レ・サングロロン
 デ・ヴィオロン
 ドゥ・ロトン
 ブレス・モンクー
 デュヌ・ラングー
 モノトン

 トゥ・シュフォカン
 エ・ブレーム・カン
 ソンヌ・ルー
 ジュム・スヴィヤン
 デジュー・ザンスィヤン
 エ・ジュプルー

 エ・ジュマンヴェ
 オ・ヴァンモヴェ
 キ・マンポルト
 ドゥサ
 ドゥラ
 パレイユ・アラ
 フゥユ・モルト*

「なによりも音楽を!」
と言った人の
詩だから
まずは音でしょ
カタカナを通したのでもいいから
まずは音でしょ

意味は添え物

人生の意味や意義が
いつも
添え物でしかないように

だから
訳す必要はない

 秋の何挺かのヴァイオリンの
 長いすすり泣きが
 抑揚のあまりない愁いに満ちた音色で
 私の心を傷つける

 時の鐘が鳴る時
 息苦しくなり青ざめて
 私は昔の日々を思い出し
 涙を流す

 そして私は立ち去っていく
 悪い風に
 枯葉のようにそこここに
 運ばれながら

などと
なるべく芸もなく直訳ふうに意味を取ろうとしながら
訳す必要など

 
しかし
芸もなく直訳ふうにしてみると
うまかったなあ
上田敏は

思い出す

 秋の日の
 ヰ゛オロンの
 ためいきの
 身にしみて
 ひたぶるに
 うら悲し。

 鐘のおとに
 胸ふたぎ
 色かへて
 涙ぐむ
 過ぎし日の
 おもひでや。

 げにわれは
 うらぶれて
 ここかしこ
 さだめなく
 とび散らふ
 落葉かな。

やっぱり
これも
うまかったなあ
堀口大學の
訳も

思い出す

 秋風の
 ヴィオロンの
 節ながき啜泣(すすりなき)
 もの憂き哀しみに
 わが魂を
 痛ましむ。

 時の鐘
 鳴りも出づれば
 せつなくも胸せまり
 思ひぞ出づる
 来し方に
 涙は湧く。

 落葉ならね
 身をば遣る
 われも、
 かなたこなた
 吹きまくれ
 逆風(さかかぜ)よ。

金子光晴の訳も
あったなあ
これは
すっかり口語になっていて
なるほどなあ

思い出す

 秋のヴィオロンが
 いつまでも
  すすりあげてる
 身のおきどころのない
 さびしい僕には、
  ひしひしこたえるよ。

 鐘が鳴っている
 息も止まる程はっとして、
 顔蒼ざめて、
  僕は、おもいだす
 むかしの日のこと。
  すると止途もない涙だ。

 つらい風が
 僕をさらって、
  落葉を追っかけるように、
 あっちへ、
 こっちへ、
  翻弄するがままなのだ。

そもそも
音だけでいいのだし
これだけ
訳もいろいろあるのだし
訳す必要など
ない
こんなふうには

 秋
 すすり泣く
 ヴァイオリン
 緩急なく
 ながながと
 音のびて
 愁いのしみる
 わがこころ

 時の鐘
 鳴ったりすると
 泣けてくる
 思い出すのだ!
 むかしの日々を!
 息も詰まり
 青ざめたかな?
 すこしは
 顔も

 そして
 枯葉
 まるで
 枯葉
 荒っぽく
 そこやここ
 吹き散らされて
 去るほかに
 なきわたくしと
 なりにけり

 なりにけり

 
 

*Chanson de l’Automne  Paul Verlaine (1844 – 1896)

Les sanglots longs
Des violons
  De l’automne
Blessent mon cœur
D’une langueur
  Monotone.

Tout suffocant
Et blême, quand
  Sonne l’heure,
Je me souviens
Des jours anciens
  Et je pleure;

Et je m’en vais
Au vent mauvais
  Qui m’emporte
Deçà, delà
Pareil à la
  Feuille morte.

 

 

 

いちみり

 

道 ケージ

 
 

いちみり
あといちみり
風に消えるか
風を迎えるか

罪人になるか
罪人にするか

あといちみりは
耐えられない
耐えられる

起こってみないと
わからない
どこかで
音がする

バンジョーではない
祭りではない
何かが轢かれている
何度も何度も
細切れ
切り落とす

穴のような
寝床で
腐ったものを食べる
雑巾のようなものが放り込まれる

皿の破片がアヘンのように白い
指で拾う
どこに落とすか
マネスキンだよ

 

 

 

穴出し蜥蜴 誰ぞに呼ばれん

 

一条美由紀

 
 


夜明けと共に勘違いした幸福感は剥がれて
人 イコール 一人 とメモる
毎回同じことを繰り返し
やっと他人との距離感を確定する
頭上ではハッピー、ハッピー
と鳥が鳴く

 


誰も住まなくなった家の床が
揺れるボートのようにぐにゃりと沈む
散らかった家は惨めな痕跡となる
立ち止まる風と時間だけがその営みを覚えてる
やがて記憶は薄れて霧と漂う
いつか全てを忘れて空からこの地を見た時、
私は泣くだろう、意味もわからずに。

 


俺が死んだら猫飼うの?
君が先に死んだらホームに行くよ。
どちらか一人になったら寂しいな。
お互い何とか長生きしようね。

 

 

 

佐々木小太郎古稀記念口述・村島渚編記「身の上ばなし」その6

「祖父佐々木小太郎伝」第6話 弟の更生
文責 佐々木 眞
 

佐々木 眞

 
 

 

私には金三郎という、たった一人の弟があった。この弟が十三、私が十七の時、忘れられぬ思い出話がある。

その時、私は蚕糸講習所を卒業したばかり、弟はまだ小学校在学中だったが、家は貧窮のどん底に落ちてしまったので、弟は学校をやめさせて京都へ奉公に出すことにし、私が連れて行った。

京都へ着くと、丹波宿の十二屋に落ち着いてから、程遠からぬ東洞院佛光寺の下村という縮緬屋に弟を連れていき、私はその夜十二屋に泊まり、朝発って帰ろうとすると、弟が帰って来て「もう奉公には行かん。兄さんと一緒に綾部へ帰る」というのだ。

私はそれをいろいろとなだめすかして、主家下村へ連れていき、家の人にもよく頼んで、逃げるようにしていったん十二屋へ戻ったが、何だか弟が後を追ってくるような気がするので、それをかわすつもりで、知りもしない違った道を北へ向かって走っていくと、大変な人混みの中へ出てしまった。

それは北野の天神さんの千年祭の万燈会のにぎわいだったのだが、少しブラブラして道を尋ねて桂へ出、丹波街道を園部へ向かって歩いた。

私は家を出る時、少しばかりの旅費しか貰わなんだので、一文の無駄遣いをしたわけでもないのに、この時財布に十二銭しかなく、これでは昼飯を食ったら今夜の泊まり銭がなくなるので、昼抜きのまま、とうとう園部にたどり着いて、来がけにも泊まったかいち屋という宿屋に泊まった。

十二銭では、まともな泊まり方はできない。
私は、「胃病だから晩飯は食べない」と言って直ちに床に入って寝た。
裏を流れている川の瀬音が、昼飯も晩飯も食べないスキハラにひびいいて、なかなか寝付かれなかったその夜の情けなさが、今も忘れられぬ。

朝は宿屋がお粥を炊いて、梅干を添えて出してくれた。
それを残らず食べて宿賃十銭を払うとあとは二銭。宿屋が新しいわらじを出してくれたのを、「そこまで出ると下駄を預けてあるから」と言って裸足で宿を出、道々落ちわらじを拾って、はいては歩いた。

昼頃になると、朝のお粥腹がペコペコに減ってきたので、いろいろ考えた挙句、寂しい村のある百姓家に入り、「昼飯を食べ損なって困っているから、何か食べさせてください」と頼むと、米粒の見えないような大麦飯にタクワン漬を副えて出してくれた。

私はそれを食べ、最後の二銭をお礼に置いて、一文無しになって明け方川合の大原に着いた。大原には貧しからぬ父の生家がある。そこで出してもらったお節句の菱餅をイロリで焼く間ももどかしく、まるで狐つきのように貪り食い、そのまま道端で寝込んでしまった。

さて私の弟は、メジロ獲りが上手で、メジロを売って儲けた十銭だかの金を、後生大事にこの時の京都へ持っていったものだ。
弟はこのチリメン問屋に三、四年くらいいたと思うが、「アメリカに行きたい」と言って、英語の独習などをやっていたが、ついに主家にひまを貰い、神戸に行って奉公した。
渡米の機会を狙っていたものらしい。

それから朝鮮の仁川に行こうと密航を企てたのだが、発見され、仁川で降ろされた、ということだった。仁川では、日本人の店に勤めて、なかなか重用されていたようだが、その後徴兵検査で内地に帰り、福知山の20連隊に入営した。

明治四十四年に退営後、福知山の長町筋に家を買い、嫁も貰ってなかなか盛大にメリヤス雑貨の卸問屋をやっていたが、その資金などをどうしたものかは分からない。
その頃の私の家は、相変わらず貧乏だったはずだが、父はトコトンまで貧乏するかと思うと、不意にまた儲けて盛り返し、七転び八起きしたもんだから、あるいは調子の好い時、弟に相当の資金を与えたのかもしれない。

ところが弟は女房運が悪く、初めの嫁は離縁し、二度目の嫁には病死され、それに腐ってひどい道楽者になり、芸者の総揚げなどという身分不相応の大大尽遊びなどをやって、とうとう福知山で食いつぶしてしまい、京都へ出て西陣の松尾という大きなメリヤス問屋の番頭に住みこみ、そこで好成績をあげて主家に信頼され、間もなく自立して同商売の店を持ち、なかなか好いところまでやっていたのであるが、またもや酒食に身を持ち崩し、手形の不渡りなどで度々窮地に陥り、そのたびに私のところへ無心にきた。

その都度私には内々で、妻がだいぶ貢いだものだが、結局京都の店は持ち切れず、東京に逃げ、ここでも一応成功していた風だが、大正十二年の大震災で焼け出され、一時は人力車夫までやったようだ。

それから大阪に帰り、親戚をたよって、今度はお家芸の下駄屋の夜店を出し、少し儲かったので、手慣れたメリヤス雑貨にかわり、ここで嫁を貰って、今度は堅気になるかと思ったら、また性懲りもなく道楽をはじめ、商売もめちゃめちゃになり、手形の不渡りなどでだいぶ好くないことをやったとみえて、警察から綾部の私の家へ弟のことを尋ねてきたりして、ひどく心配したものだ。

その時父の病が篤く、電報で知らせたのだが、なかなか帰ってこない。
ようやく帰ってきて臨終に間に合ったが、これがまた隠岐から帰った時の父同様、着の身着のままのみすぼらしい姿だった。
後で聞けば帰ろうにも旅費の工面がつかず、河内の方まで行って、友だちに帯を借り、これを質に入れて旅費を作って帰ってきたということだった。

葬式の時は、幸い私が夏と冬のモーニングを作っていたから、夏の分を弟に着せ、ちょうど四月の花時分だったので、どうにか恰好がついたのであった。

さてこの弟について、私はこの際、父の形見という意味で三、四千円の金を与え、好きな所へ行って、好きな仕事をさせようと思った。
実を言えば、この道楽者とは、後難のないよう、きっぱり縁を切りたかったのである。
それを弟に、今日は言おうか、明日は言おうか、と折を狙っていた。

だが私は、キリスト教入信以来すでに十余年、弟に対してこんな仕打ちをすることに対して、愛の足らぬことを深く反省させられた。
これは全然肉親の愛情に欠けた、神の御旨にそむくことで、クリスチャンのやるべきことではない、と思い直した。

かつて本間俊平氏から聞いた、氏が、凶悪な強盗犯の免囚を、自己の経営する大理石工場の金庫番にして更生させた話を思い出し、ただ己の安きを求めて弟を疎んじるようなことせず、「救わるるも、滅ぶるも、いっさい弟と共に」の決心を固め、まずこれを心に誓い、神に祈り、それから容を改めて弟に語った。
はじめに私の考えていたことが、まったく兄弟の義に背いた悪魔の考えだったことを述べて、「まことにお前に対して申し訳ない」と、手を突いて詫びた。

すると弟は、オイオイ泣き出して、「兄さん何をいうのだ。兄さんに詫びられるわけがどこにある。どうか手を上げてください。皆私が悪かったのです」と、気狂いのようになっていうのだった。

互いに心の奥底まで打ち明けて、兄弟の間の溝はすっかり取れ、弟が京都へ奉公に行った時のことを思い出して、神の前に幼子となり、「兄弟力を合わせて一仕事やろう!」と誓い、私の希望を容れて、弟は酒も煙草も絶って、更生することを誓った。

薄志弱行、放蕩無頼の弟も、永久にこの誓いを破らず、深く私徳とし、私を尊敬して、次節に記すつもりだが、私が財産の大部分を投じ、兄弟共同の事業として経営したネクタイ製造業に粉骨砕身し、よく私を助け、持ち前の商売上手と過去の経験を生かして、工場を守りたててくれた。

昨年十二月、私の家に弟が来た時、私は鯛づくめの御馳走をつくり、絶対に買ったことのない上等の酒二合を求め、私が手ずから温めて弟に勧め、「よく辛抱してくれた。今日はひとつゆっくり呑んでくれ」といって、とりもった。

弟は、「こんなうまい酒を呑んだことがない」といってよろこんだが、血圧が高いからといって、みなまでは飲まなかった。

その時弟は、死んだ妻のことを「実に良い姉さんだった」とほめ、「私が酒をやめてからこのうちへきて泊まる時、姉さんは、土瓶の中へお茶と見せかけて酒を入れ、私の枕元において飲ませてくださったものだ」と白状した。

それから弟は、「私は、ほんとうはキリスト教に入れてもらいたかったのだが、私のような者は、とても入れてもらえんと思って、今まで黙っていた。兄さんはきっと長生きされるが、私は血圧は高いし、とても長生きはできん。死んだらせめて葬式だけでも、キリスト教でしてもらえまへんやろか」といった。

私は、「お前のその心が、すでに神に通じとるのだから、葬式などわけもないことだ」と返事しておいたが、その言葉がシンをなした如く、ことし五月七日脳溢血で死に、葬式は遺志の如く、京都紫野教会で山崎享牧師の手によって行われた。

遺児男二人、女一人、いずれも同志社大学に学び、長男、長女はすでに卒業し、長男は早くより父の業を継ぎ、弟は、後顧の憂いなく安らかに眠った。
神の御恩寵は、私の上のみでなく、父の上にも、弟の上にも豊かだった。
感謝の至りである。