家族の肖像~「親子の対話」その16

 

佐々木 眞

 
 

 

京浜東北線205系は平成26年までだよ。
それからどこかへ行っちゃったの?
インドネシアだお。

ひいでるってなに?
優れてるってことよ。

とにかくって、とりあえず、のことでしょう?
そうだよ。

盛り上げる、盛り上げる。盛り上げるってなに?
よーし、と頑張っていくことよ。
盛り上げていきましょう。

お母さん、強引てなに?

ちょっとタンマって言ったお?
誰が?
キンニクマンだお。

お母さん、叫ぶってなあに?
やっほー!

ぼくタイ子さんすきですよ。
タイコ?
イクラちゃんのお母さんですお。

お母さん、こなごなってなに?
小さくなってしまうことよ。
こなごな、こなごな。

申すと甲、漢字がちがうよねえ。
ほんとだ。

ご迷惑をお掛けして申し訳ございません。

まえトイレットペーパー使いすぎって言われたよ、スギウラさんに。
大丈夫よ。

耕君もほんとうに苦労しながら生きてるのね。
そうだお。
ほんとうに我慢しながら生きてるのね。
そうだお、そうだお。
これからも頑張って生きていこうね。
はい、そうしますよ。

お父さん、武蔵野線、東京まで?
そうなの?
そうなんですお。

トキワ君なくなっちゃったよねえ。
病気だったの?
そうよ。
ぼくトキワ君ですお。
こんにちはトキワ君、あの世で元気にしていますか?
元気ですよ。

お母さん、それにしてもってなに?
そうねえ……
それにしても、それにしても。

お母さん、ぼく妙高高原好きだ。
耕君行ったの?
行きましたお。
どうだった?
良かったですお。

お母さん、修了証書もらいましたよ。
そうなの。
以下同文、以下同文。

お父さんに「ばか、キライ」っていわれたお。
wwwwww

ただいまって現在のことでしょう?
そうだよ。

お母さん、地震のとき武蔵野線とまったよね?
そうなの。
ぼく、武蔵野線好きだよ。
そう。

お父さん、宏さん、おじさん?
そうだよ。

お父さん、赤羽駅に自動改札ある?
あると思うよ。一緒に赤羽駅行きますか?
いやだお。

お父さん、京浜急行、赤でしょ?
そうだよ。

お父さん、十日市場、横浜線でしょ?
そうなの?

お父さん、再は再放送の再でしょ?
そうだよ。

お母さん、オトゾオさんはずっと生きてたでしょ?
ええ、生きていましたよ。

オトゾウさん、目を閉じたでしょ?
閉じましたか?
閉じたお。

お母さん、しりとりしよ。脳波。
ハ、ハ、花。

終点って電車の終りでしょ?
そうだよ。

お母さん、えみちゃん好きだよ。

お母さん、最低ってなに?
全然駄目なことよ。
最低、最低。

10分経過って10分たつことだよ。
そうだよ、耕君よくしってるね。

耕君の工賃は500円でしょ。月500円しか使っちゃいけないのよ。だから無駄遣いしないでください。
wwwwこれから気をつけますお。

バンザーイ、バンザーイ!
お母さん、ぼくいまバンザイしましたよ。
あら、そう。

健ちゃん、ファイトみた?
見たと思うよ
ふぁいと!

 

 

 

潜水艦

 

佐々木 眞

 
 

 

あなたは、潜水艦を見たことがありますか?
私は、時々それを見るのです。
はじめて実物を見たときは、ちょっと驚きましたが。

それは横須賀の岸本歯科へ行くとき。
JRの横須賀駅で降りて、すぐ左手のヴェルニー公園まで歩くと、
そいつはいつでも、ずんぐりむっくりとした怪異な姿を、浮かべているのです。

潜水艦は、今日も波穏やかな軍港に停泊していました。
珍しく大勢の人々が艦橋に乗って、なにやら作業をしていました。
今日明日にも、出港するのでしょう。どこへ行って、なにをするのか知らないが。

潜水艦を見るたびに、私はヨシナガさんを思い出します。
ヨシナガさんは、戦争中、潜水艦に乗っていたそうです。
「伊○○号」とかいう名前がついた、日本帝国海軍の潜水艦に。

誰でも思うことですが、潜水艦の中は、きっと狭くて暗かったことでしょう。
航海中は、酸素や電気や食料を浪費してはならないから、
乗組員は、腹を空かせた酸欠状態の金魚みたいに、息苦しかったに違いない。

そして、そんな息詰るような極限状態の中で、
ヨシナガさんは、戦った。
朝から晩まで、見えない敵と戦ったのです。

ヨシナガさんが、どうして海軍に入って潜水艦に乗るようになったのか、私は知らない。
どんな恐ろしい目に遭い、あるいは敵にそんな目に遭わせたかも、知りません。
でも彼は、恐らく死とすれすれの危険な目に、遭ったのではないでしょうか。

しかし、もし私がヨシナガさんだったら、
冷たい水の奥底で、人知れず死ぬことだけは避けたい、と思ったことでしょう。
せめてさんさんと降り注ぐ太陽の下で、新鮮な外気を吸いながら死んでいきたい、と願ったことでしょう。

さいわいなことに、ヨシナガさんは、死ななかった。
奇跡的に生き延びて、無事に内地に帰還したヨシモトさんは、基督者となった。
そして私の郷里の丹陽教会で、毎週日曜日の礼拝にご夫婦で出席されていました。

日曜日以外のヨシナガさんは、町の外れの醸造会社で働いていて、
当時私たち子供が夢中になって集めていた、「ヒガシマル」などの醤油瓶の
商標シールを、自由に採取させてくれました。

いつもかすかに微笑みながら、
「ほら、そこにもあるよ。取っていいよ」
と、優しい声で教えてくれるのでした。

だから私は、横須賀で黒塗りの潜水艦を見るたびに、ヨシナガさんを思い出す。
ヨシナガさん、あれからどうされただろうか?
もしかして、まだ生きておられるのかしら?

 

 

 

由良川狂詩曲~連載第9回

第3章 ウナギストQの冒険~戦う深海魚たち

 

佐々木 眞

 
 

 

ああケンちゃん、僕はもうこれですべてジ・エンドだ。
由良川のウナギストたちには申し訳ないけど、僕は、性格が悪くて腹ペコちゃんりんゆであずきの深海魚たちの手にかかって、よってたかってオルフェオのように八つざきにされて短い一生を終えるんだ。

ああ、魚たちが僕に襲いかかって来た。
急いで急いで辞世の歌をうたわなくっちゃ。
ああ、早くしなくちゃ。
えいくそッ、この非常事態に、いっとう大切な時に何の文句も出てこないとは!
と嘆きつつも、僕は歌ったんだ。

ゆうべえびすで呼ばれて来たのは
鯛の吸い物ございの吸い物
一杯おすすで
スースースー
二杯おすすで
スースースー、
三杯めにさかながないとて
出雲の殿様お腹をたてて
ハテナ ハテナ
ハテ ハテ ハテナ……

するとその時、殺到するタラたちの前に、チョウチンアンコウが、夜目にも美しく輝くあのチョウトンを高々と掲げて、立ちふさがったの。
そして大声で叫んだんだよ。

「待て、このチビウナギをお前たちに独り占めさせておく俺さまだと思ったら、大間違いだぞ。こいつを喰いたきゃ、その前に俺さまを斃してからにしろ!」と。

そこへ、フジクジラとカラスザメも大勢の仲間と一緒に駆けつけ、アバンコウ、ワヌケフウリュウウオ、トリカジカ、それに例の悪漢3人組が入り乱れて、光と闇、蛍火と燐光、正義と邪悪、弱肉と強食、天使と悪魔、髑髏と般若、有鱗と無鱗、花と蝶とが丁々発止の大決戦!

深海魚同士の同志討ち、さらには共喰い騒ぎまでおッぱじまったのをいいことに、雲を霞み、夜を曙、波を帆かけの夜討ち朝駆け、艦長ネモの操縦するノーチラス号を遥かに凌ぐ最大巡航速度25ノットで、深度800メートルから、たちまち500メートル、300メートルまで、ぼく、一気に浮上したの。

そしてヒョーキン者のスナイトマキやキタホンブンブク、チャマガモドキ、クモリソデ、ウチダニチリンヒトデ、トゲヒゲガニ、エゾアイナメにアヤボラ君たちが元気に泳ぐ姿を見たときには、「やれやれこれで助かった」と思わずひと安心したんだ。

ここでケンちゃんは、
「田舎のおっさん
あぜ道通って
蛙をふんで
ギュ
Qちゃん、九死に一生だったんだね」
と、かるーく一発ジョークをかましたのですが、
Qちゃんは全然耳に入らないようで、夢中で話を続けます。

ねえケンちゃん、聞いて、聞いて。
ボク「もう怖いことは、こんりんざいごめんだ、ごめんだ」と泣き叫びながらも、さらにエンジンを全開して、水深わずか50メートルのところを、猛スピードで泳いでいたら、時計回りにぐるぐる回るあたたかな黒潮と、反時計回りでぐるぐる回るつめたい親潮とが入り混じっているところに出くわして、上を下へのぐるぐる巻きに状態になってしまったの。

アジ、サバ、スルメイカ、サンマ、ブリ、カツオ、キハダ、カジキマグロの大群が、おいしいプランクトンを求めて踊り狂う大海原。
ようやっとの思いで水面すれすれ、青空と青い潮のいりまじる境界線にぽっかり顔を突き出したところは、ちょうど鹿島灘の沖合およそ1.5キロの地点でした。

 

 

 

鈴木志郎康著「新選鈴木志郎康詩集」を読みて歌える

 

佐々木 眞

 
 

 

1980年に思潮社から出版された12冊目の詩集です。

ここには「家庭教訓劇怨恨猥雑篇」「完全無欠新聞とうふ屋版」「やわらかい闇の夢」「見えない隣人」「家族の日溜り」「日々涙滴」から抜粋された92の詩篇と2つの詩論、富岡多恵子氏の鋭い詩人論、清水哲男氏の誠実な解説がぎっしりと充満していて、最近少しずつ現代詩を勉強しはじめた私にとっては、大いに勉強になりました。

「家庭教訓劇怨恨猥雑篇」の「グングングン! 純粋処女魂、グングンちゃん!」や「完全無欠新聞とうふ屋版」の「爆裂するタイガー処女キイ子ちゃん」などは、それ以前の「プアプア詩」の前衛的パンクてんこもりの続編として、読めば読むほどに血沸き肉踊るような破壊的な喜びを覚えました。

でも、もう先輩の皆さんにとっては周知の事実なのでしょうが、
そんな詩人の作風は、3番目の「やわらかい闇の夢」で、突然その世界がうって変わります。

まあ、豹変ですね。

あのシュトルムウントドランクの日々は限りなく永遠に続いて、“戦後日本を代表する世界遺産”になるかと思われたのに、さらば真夏の太陽の黄金の輝きよ。それは余りにも短かった。

「ああ、なんて勿体ないことをしてしまったんだ!」

と、思わず私は叫んだほどでした。

そんな門外漢の私の歯軋りなどおいてけぼりにして、詩人は、さながら東洋のボードレールのように、

「もう秋だ。お嬢さん、おうちに帰りな。往来の言葉蹴り遊びはもう終わったぜ」

とでも言いたげに、ひそやかに別の歌を呟きはじめるのです。

深夜鏡の前で自分の裸体を見つめながら“裸の言葉、裸の心”という奴を探し求めるように、とうとつと独語しながら、いわゆるひとつの内省的な思索を繰り広げるようになるのです。

あたかもベートーヴェンの「第9」の合唱が入るところで、すっくと立ち上がったバリトンが、能天気なはやとちりの管弦楽をさえぎって、

「おお友よ、その調べではない。もっと別の歌をうたおうではないか」

と叫ぶように。

けれどもそれは、耳に心地よい歌ではありません。「狂気がバタバタしている」物音です。

新しい自分、新しい詩を求める詩人が、自分の心臓に向かって蛇入する血まみれの即物音。
まるで自分の胸に聴診器を当てながら、病根を探ろうとする医者のモノローグのような肺腑の言が、ここにはドクドク刻まれているようです。

さて、自ら求めて人為的な“冬の時代”に突入した詩人が、その後どのような紆余曲折を辿りつつ「化石詩人は御免だぜ、でも言葉は。」の現在にまで至ったのか?

不勉強な私はてんで知らないのですが、いろいろ有為転変があったにもかかわらず、詩人の心底の底の底では、あのプアプアちゃんの純粋桃色小陰唇の幻影が、いまなおプアプアと浮遊しているのではなかろうかと睨んでいるのですが。

 

空白空白プアプアちゃんグングンちゃんとキイ子ちゃん3人揃って爆裂するや 蝶人

 

 

 

家族の肖像~「親子の対話」その15

 

佐々木 眞

 
 

 

「どんど晴れ」のねーちゃん、比嘉愛未でしょ。
そうだったね。

お母さん、すまなかったってどういうこと?
ごめんなさい、のことよ。
すまなかった。すまなかった。

お父さん、ハクションは風邪でしょ。
そうだよ。

ねえお母さん、蓮佛さんと中井貴一、両方好きですよ。
そうなの。

耕君、インフルエンザなんだから、食器を片付けないでね。
分かりました。分かりました。
耕君のインフルエンザがお母さんにうつったら、どうなるの?
分かりませんよ。
お母さんも同じ病気になるのよ。
分かりました。分かりました。

小田急に湘南急行あったお。
へえ、どこからどこまで?
新宿から藤沢までだお。
へえ、いまでもあるの?
ないお。

守ってください。
はい、守ってあげますよ。

イナズミさんに「そんなときは話しちゃだめ」っていわれたの。
そうなんだ。

ぼは、ほにてんてん、ポはほに○でしょう?
そうだね。

つけっぱなしは、つけたままのことでしょ?
そうだよ。

黒木メイサ、柳沢さんとかでしょ?
なんだ、ドラマの話か。

お母さん、ぼく二酸化炭素好きなの。
へええ、驚いた。

おたっしゃで、ってなに?
元気でね、のことでしょう。
おたっしゃで、おたっしゃで。

きらめくってなに?
キラキラすることよ。

はいポーズ、ってなに?
いい格好することよ。

薬が効けば、直るでしょ?
はい、早く効きますよ。

お母さん、ぼく「国鉄最終章」好きだよ。
そう、良かったね。

お母さん、アルプスってなに?
高い山のことよ。
ぼく、「アルプス1万尺」好きだお。
(2人で歌う)♪小槍の上でアルペン踊りを踊りましょラララララ

 

 

 

幻の名機「KEF104ab」を探して

音楽の慰め 第13回

 

佐々木 眞

 
 

 

しばし呆然とその場に佇んでいた私が気を取り直して「ね、清水君、で、このスピーカーいくらするの?」と尋ねると、「中古とはいってもまだ比較的新しいですから、ま新品の半額の五万円ですね」という返事が返ってきました。

今だってそうですが、70年代のはじめの五万円は相当な物入りです。
私は3日間悩みに悩んだすえに、この欲しくて欲しくてたまらなかったスピーカーを涙を呑んで諦めたのでした。

あの運命の夜から幾星霜、2017年の1月に入ったある寒い夜、何気なくヤフオクをチエックした私は、なんとあの曰くつきの名器KEF104abが競売に付されているのを見つけたのです。

横浜のリサイクルショップが出品していたそのスピーカーは、もちろん年代物の中古品です。70年代にクラシックファンから好評を博したKEF104abは、しばらくすると製造中止になり、今ではこういう形でしか入手できなくなったのです。

今や棺桶に片足をっ込んでいる後期老齢者の私に、突然あのスピーカーから迸り出る朗々たるチャイコスキーの弦の奔流、そして管弦楽に抗して連打されるティンパニーの猛虎のごとき咆哮が生々しく甦りました。
「よおし、この千載一遇の機会を逃してなるのものか」
私は万難を配して、この幻の逸品をものにするぞ、と決意しました。

しかし気になるのは財布の中身です。
リーマンを止め、フリーライターを止め、大学の教師を辞め、年金生活に入った私が自由にできる金額は、ほんのわずかなものです。
1000円から始まった競合入札が、どこまで高みにせり上がるのか。
私は毎晩ネットでその金額が上がるのを、はらはらどきどきしながら見詰めていました。

ラッキーなことにこの物件は、横浜保土ヶ谷区にあるその会社での「現物手渡し」が条件になっていました。
通例では全国から殺到する競合者と張り合わなければなりませんが、これだと恐らく横浜市内か神奈川県下に在住している人に限られてくるでしょう。

私は車を運転できないので、その会社まで電車で行き、横浜市のタクシー会社に予約して決められた日時に現地で待ち合わせ、トランクの中に2台のスピーカーを入れて自宅のある鎌倉に向かえば、八千円ほどの費用で賄えることが分かりました。
交通費込みで3万円ならなんとかいけるな、と私は踏みました。

そして、いよいよその決戦の夜がやってきました。
ライバルは6人くらいに絞られ、締め切り寸前の値段は、1万7000円と思いのほか低い。これなら楽勝と思い、私はあと締め切りまであと1分の段階で2万2000円を張り込み、「見事落札おめでとう!」の知らせを心待ちにしていたのです。

ところが、ところがです。なんと、なんと落札終了時間が過ぎた後で2万2500円をつけ、最後に笑った奴がいたのです。
2人のライバルがデッドヒートを繰り広げているのを知った出品者が、終了時間を延長して落札価格の引き上げを図ったに違いありません。

ああ、なんということだ!
ヤフオクで煮え湯を飲まされたことは、これまでも何度かありましたが、今月今夜の敗北はじつに手痛い。
かくて幻の銘器KEF104abで、ムラビンスキー&とレニングラードフィルハーモニー管弦楽団の交響曲第5番を半世紀ぶりに耳にして涙にむせぶ奇跡は、うたかたの夢まぼろしと消え去ったのでした。

 

 

 

夢は第2の人生である 第47回

西暦2016年神無月蝶人酔生夢死幾百夜

 

佐々木 眞

 
 

 

隣にいた家族がなかなか戻って来ないので、ああやっぱりなあ、と諦めていたのだが、しばらくすると、あの皆殺し殺人ゲームで殺されなかったとみえて、無事に戻ってきたので、驚いた。10/1

「あんたがたは、今何を作っているんだ?」と尋ねられたので、右手を出して「こんな指輪だよ」というと、興奮して「すぐ欲しい」と騒ぎだしたので「横高で売ってるよ」と教えてやった。10/1

村人たちは、慰安旅行に行こうと朝早く公民館に集まったが、いつまで待っても矢沢夫婦だけが来ないので、見に行くと、2人は激しく性交を続けていた。10/1

弟子を連れてスケッチに出かけたのだが、彼は誤ってお城の堀に転落してしまった。すぐに助け出そうと思ったのだが、私はその時、脳裏に浮かんだ幻影を定着しようとアトリエに引き返したために、彼は溺れ死んでしまった。10/2

もう秋か。久しぶりに大学へ行った私は、今年もまた試験はおろか授業さえ出ていないことを思い出し、これでは何年かかても卒業できないのではないか、と冷汗を流した。10/4

人生の調子を整えるべく、神様は時々私に任意の昔をもう一度生き直すように強いることがあった。万年筆にスポイトでインクを注ぎ込むようにして。10/5

一夜にして山と成った一夜山めざして、私は一晩中走った。10/6

私は持っていたCDを、雨水が溜まったところに落としてしまった。すると一緒に歩いていた長男は、自分のせいだと思いこんでいきなりその水たまりに飛び込み、ずぶぬれになりながら探そうとするので、私はその余りにもストイックな態度に深くうたれた。10/7

権謀術策を凝らして、私は、とうとうその小さな島の王になった。10/8

今年入社した私たちは、新規も中途もまじえて全員が寮に閉じ込められ、訳のわからぬ研修を受けたのだが、私は同室の若くて超美人のねいちゃんを毎晩可愛がっていたから、ちっとも文句はいわなかった。10/9

マイケル・J・フォックスの娘という人を遠くから眺めていると、日産の広報嬢が「あの人どうですか?」というので「いいですねえ」と答えると、「彼女、なかなか評判がいいんですよ」と宣うた。10/10

会社が物置に使っている部屋が、なかなかに趣があるので、私たちは、時々この部屋で寝泊まりしていた。ある日そこで端坐していたら、いきなりブルトーザーがつっ込んできて、私は大けがをした。10/11&12

私たちは、その詩人が生まれた町を訪ねて、研究発表の材料にしようと思っていたのだが、同行した女性たちの観光気分に妨げられて、何の成果も得られず引き揚げようとしたとき、上空に人力飛行機が現われた。10/13

かつて私が下宿していた家を訪ねたら、猛烈なゴミの集積の中に、乞食のようなおばはんがいて、ニヤリと不気味な笑みを浮かべたが、それはあたかも私の来訪を知っていたような表情だった。10/15

平行棒のように伸びた木の枝をつたって、上へ上へとましらのように登ってゆく2人の男を見よう見まねで真似て、木の頂上にたどり着くと、村の女たちに歓声と共に迎え入れられたが、あの2人の男は見当たらない。いったいどこへいったのか? 10/16

大好きなポネルの演出で、モザールの「フィガロ」をビデオで視聴したのだが、いつもと違って全然面白くない。途中で再生をやめてクレジットをよく見たら、ポネルではなくパネルと書いてあった。10/18

海底の穴の中で、大きな魚と隣り合わせた小さな貝の私は、懸命にいろいろお世辞をいうてその場を取り繕うとしたのだが、とうとうぱくりと喰われてしまった。10/19

逆風が吹き始めたので、「朝まだきひんがしの空を見上げれば」という歌を詠んだのだが、どうしても下の句が出てこなかった。10/20

買ってきた外付けHDDが、「早く早く私をレコーダーに取り付けてください」と枕元で囁き続けるので、結局朝まで一睡もできなかった。10/22

バスに乗っているのは荷物ばかりだったが、駅に着くと、男たちが一斉に乗り込んできて、荷物の中の朝顔に水をやるのだった。10/23

深い谷底を流れる急流に転がり落ちた私だったが、そのままどんどんどこどこ流されて、とうとう海にそそぐ緩やかな大河に至った。10/24

おばはんは、私が大事にしている英国製の高級スピーカー、ロジャースを小脇に抱えると、いきなりナタを振るってメリメリと壊し始めたので、「なんてことするんだ、このおオタンコナす!」と怒鳴りつけると、「おら、薪にしようと思っただけずら」と平然としている。10/25

そこいらに自転車や自動車を停めておくと、すぐに警察がどこかへ持って行ってしまうので、油断も隙もならない。10/26

明日はこの鎌倉石の掘削現場を離れて、江戸城の再建工事に加わると決まっているのに、私は弟子たちの衝撃と離反を懼れて、まだなにも喋ってはいなかった。10/27

前夜私は、どこかで会社の貴重な資料が入ったカバンを無くしてしまい、終電に遅れて義父の家に泊めてもらった。夜が明けると私は、義父の車に乗せてもらって会社に向かった。10/28

ヤフオクで見事に落札したのに、いつまで経っても出品者から連絡がないので焦っていると、私が落札したはずの商品が、いつのまにか再び出品されているので、いったいこれはいかなる仕儀かと、私はまたまた焦った。10/30

会社のPR誌で短歌を募集したが、誰も応募しなかったので、金メッキした安時計が段ボール一杯ぶん残ってしまったので、社員全員に配ったが、まだまだ大量に残っている。さてどうしたものか。10/31

仲間たちと登山中に遭難したオラッチは、誰かの助けを求めたが、たまたま風邪を引いていたので、ついでに風邪薬も持ってきてくれと頼んだ。やがて捜索隊が到着して、仲間は全員救助されたが、風邪薬の入荷は5日後になるというので、私だけは5日後に救助された。10/31

 

 

 

や、やよ、ゆけゆけ2度目の処女!~長田典子詩集「清潔な獣」を読んで

 

佐々木 眞

 
 

 

これは著者が2010年に出したおそらく現時点では最新の詩集で、イントロ的な「蛇行」以下、全部で10篇のかなり長めの作品が収められています。

そして詩の進行具合は、「初めは処女のごとく、終りは脱兎の如し」、あるいは「一点突破全面展開」という疾風怒濤の展開となり、全編を通じて作者が自作自演する、なにか気宇壮大な物語、詩小説が眼前で物語られているような、横隔膜がうんと広がったような、なんだか愉快な気持ちになるのです。

私はこの一カ月を除いて、詩集なんかほとんど読んだことがなかったから、よく分からないけど、ふつう詩集では、「わたし」という主体が、世界の中心にデンとましましていて、その「わたし」の行動や思いの数々が、縷々るるると述べられていくわけです。

でもこの詩集では、「わたし」が作者本人を思わせる妙齢の女子であったり、うら若い乙女であったり、清潔な獣であったり、老いたる要介護の母親であったり、イケメンの男子であったり、まるで怪人20面相のように自由自在、神出鬼没に変容するのです。

「自分ファースト」ではないけれど、自分の内部に、他者が蛇のように自由に出たり入ったりする詩のメタモルフォセス自律運動に、詩の奔放さ、弾力とリベラルさというものを、つよく感じました。

シェークスピアに、All the world’s a stage,and all the men and women merely players.という有名な言葉があるそうですが、作者にとってはAll the word’s a stage,and all the men and women merely players.なのではないでしょうか。

この詩集全体が、まさにその格好の舞台になっていて、どことなく物哀しいヒロインは、自分と他人と全世界をば、なんとか光彩陸離たるものに塗り替えてやろうと、一世一代の独りカタリ芝居を見せてくれるようなおもむき。

私がいたく気に入ったのは「いったいii 」というタイトルの、マルキュウ(東急109)の洋服が大好きな貧乳ギャルの場外乱闘です。

そのめくるめくノンストップしゃべくり捲り大騒動&はちゃめちゃ行状記、この言葉と肉体の超高速ラップに、いったい誰が追従できるというのでしょうか。

私は思わず、
「や、やよ、ゆけゆけ2度目の処女!」
と、大向こうから声をかけたくなりました。

そしてその後から押し寄せる「カゲロウ」、「世界の果てでは雨が降っている」、「湖」における、大蛇がうねるような勁い構想力と、その細部を織りなす挿話の繊細さに感嘆しない読者はいないでしょう。

 

 

 

長尾高弘著「頭の名前」を読みて歌える

 

佐々木 眞

 
 

 

かつて鎌倉の青砥橋という田舎に「青砥」という地元の主婦が運営している精進料理の店があって、贔屓にしていた。

それは安くて美味しい料理もさることながら、部屋の壁に私の大好きな画家、熊谷守一の書が掛かっていたからだった。

良寛に似ているようで、もっと純朴な「五風十雨」を飽かず眺めていると、お店の人が、守一95歳の書「一去一来」も見せてくださった。

最晩年の枯れた書体が、背景の軸物の薄茶色や床に活けられた秋海棠と映えて、まことに情趣深いものがあった。

熊谷守一の猫の絵などは、誰が見たって本当に素晴らしい味わいを持っていて、それこそわが国を代表する最高の芸術家といえようが、それを支えているのは彼の中の卓抜な観察者であった。

あるとき彼は、地面をうろちょろしている蟻を丸一日じっと見つめていたが、「長い間疑問に思っていたが、とうとう分かった。蟻は左の二番目の足から歩き始めるんだね」と語ったそうである。

この小さな詩集に収められている16の作品は、どれも比較的短く、私が知る作者の風貌のように、表現は質朴にして平明そのものである。そしてその多くは日常の茶飯事を主題にしている。

しかしそのいずれの中にも、私は熊谷守一流のアリへの視線を感じる。

身近な素材を腰を折って熟視し、そこからささやかな、しかし自分にとってはとても大切な知見をそっと引き出す、作者独自の方法とその見事な達成を、私はあきらかに認めたのである。

 

 

 

高橋啓介著「なんとかして」を読んで歌える

 

佐々木 眞

 
 

 

大人になっても子供の心を失わない人がいるなどと世間ではよくいいますが、そんな人実際にはなかなかいませんよね。少なくとも私が知る限りでは。

しかしこの本の最初の2つの詩を読んだだけで、このタカハシさんという人は、もしかするとそういう稀有な魂の持主ではないかしら、と誰もが思うのではないかしら。

「疑似体験」は、次のような3行からはじまります。

 

きれいなきみをおもいながらベッドにはいる
つかれたからだにかわがながれ
きりのおもいにひかりがさす

 

1日の闇雲で五里霧中の労働にくたぶれた若きリーマンに、ようやっとやすらぎの夜が訪れた、というわけです。

ちょっと話が飛びますが、いま京都の伏見でお医者さんをやっている私の弟は、少年時代に、「兄ちゃん、わいらあ毎晩きょうはどんな夢を見れるんかと思て、楽しうてしょうがない」などと申しておりましたが、まあそんなところでしょうか。

で、次の3行がこうなります。

 

ぼくの×××は
△△△することで
それをあらわし
きみの○○○○はどうだ

 

どうですか。分かりやすいパズルですね。
というか、分かり過ぎるほど単刀直入な突っ込みが、作者の人世への明朗闊達な楽天性をおのずから表明しているようです。

以下、好きな女の人をしたなめずりしながら料理していくタカハシさんの「疑似体験」が続いて、あっという間に終わってしまうまるで童話のような短い詩ですが、じつに率直で、真っ正直で、健康的でしかも純乎としている。
私はお酒は飲めませんが、ウイスキーでいうとピュアモルトというところかしら。

ともかくこの詩集は、冒頭からこんな感じで始まるのですが、2番目の「木になるたのしみ」では、タカハシさんは、なんと本当に葉緑素になり、樹木になりきってしまうのです。

世の中にこれに近い人はいますが、絶対にこんな人はいない、と断言できます。
誰か、なんとかしてあげてください。

そうして驚いたことに、私はそんなタカハシさんの、ちょっとした知り合いなんです。
どうだ、参ったか。
ザマミロ。