家族の肖像~親子の対話その14

 

佐々木 眞

 
 

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小さいは小田急線の「お」でしょう?
うあん、そうだね。

お父さん、横浜線、八王子まで運転されるんですよ。
いつから?
平成3年からだよ。

お父さん、いとこの英語は?
カズンだよ。
カズン、カズン、ぼく、いとこ好きだよ。

お母さん、アドバイザーってなに?
教えてあげるひとよ。

お父さん、世間てなに?
世の中のことだよ。

お父さん、いくじなしってなに?
根性がないことだよ。

お母さん、置き去りってなに?
そのままになってしまうことよ。
おきざり、おきざり。

小田急、白に青い線でしょ?
うん、青と白だね。

箱根、高いとこ登れないでしょ?
うん。
それでスイッチバックでしょ?
そう。

お父さん、去年比嘉さん泣いちゃったよ。
でも今年は泣かなかったでしょ?
うん。

有楽町、ヒロシさんが行ったとこだお。
そうね。
お母さん、今度有楽町行きますお。
行きましょうね。

ヨウコちゃんもタクちゃんも、子供生んだでしょ?
そうね。

お母さん、にらんだら困るよね。
そうよ。
ぼく、にらまないようにしますお。

お父さん、背中の英語は?
バックだよ。
セナカ、セナカ。

快速、浜松町に停まるようになったんだよ。
どうして?
モノレールに接続するためだお。

なんで森昌子「まったくう」っていったの?
心配かけたからでしょ。
そうだよ。

ミート君、ぼく好きですお。
ミート君て、だれ?
キンニクマンのだよ。

 

 

 

「ボブ・ディラン全詩集」(片桐ユズル・中山容訳)を読みて歌える

 

佐々木 眞

 
 

西暦2017年1月23日、ギャラプの世論調査によれば、トランプ大統領の就任直後の支持率は45%で、調査を始めた1953年以来過去最低を記録したそうだ。

この日大統領は、「TPP交渉から米国が永久に離脱するよう」指示した。

永久?永久?永久?
お前さん、まさか永久に大統領を続けるつもりやないやろな。
死んでも永久に生き続けるつもりかいな。

とわいが驚いとると、あの「プラトーン」のオリバー・ストーン監督が、「トランプを良い方向にとらえよう」とツイッターで呟いたそうや。

来日した彼は、朝日新聞24日朝刊のインタビューで、
「ヒラリー・クリントンが勝っていれば、危険だと感じていました。米国による新世界秩序を欲し、他国の体制を変えようとする彼女が大統領になっていたら、第3次大戦の可能性さえあったと考えます」
なんちゅうことを平然と語っておるので、またまたびっくらこいてると、
突如、わいの目の前にメリーゴーランドが現われ、ゆっくり、ゆっくり回りはじめた。

回れ、回れ、メリーゴーランド。
ゆるゆる回れ、メリーゴーランド。
僕らを乗せて、ゆるゆる回れ。

「トランプ氏は“アメリカ・ファースト”を掲げ、他国の悪をやっつけに行こうなどと言いません。米軍を撤退させて介入主義が弱まり、自国経済を機能させてインフラを改善させるなら、すばらしいことです」

などとストーン監督はのたもうんやけど、その嘘ほんまかいな?嘘かいな?
ちょいとばかし楽観的にすぎるのではないかいな。

そういえば、わが国の東京都知事も、盛んに「都民ファースト」を呼号しとる。
そういえば、だいぶ前から食い物はファースト・フードだし、アパレルはファ(ー)スト・ファッションが大流行だし、なんでもかんでも速攻自己中心の“ファースト主義”の時代になったやろうか。

ほな早速、ボブ・ディランはんに聞いてみまひょ。

「半分の人間は、いつもなかばは正しい。
何人かのひとはときどき完全に正しい。
しかしみんなのひとがいつも正しいことはありえない」
やて。

そりゃそうやけんど、そもそもオリバー・ストーンはんは、正しい人か?
トランプは悪魔か、それとも正義の味方か? ボブ・ディランはんは、どっちの半分や?
わいらあ、だんだん自信がのうなってきたよ。

するとボブ・ディラン選手がまたあらわれて、わいにウインクしながらこう言うた。
「いまの勝者は、つぎの敗者だ。
第一位は、あとでびりっこになる。
とにかく時代はかわりつつあるんだ」

回れ、回れ、メリーゴーランド。
ゆるゆる回れ、メリーゴーランド。
僕らを乗せて、ゆるゆる回れ。

なんか人世が厭になってしもうたわいがテレヴィをつけると、かつて「米国抜きのTPPはあり得ない」と語っていたアベ・シンゾウが、まるで猪八戒のような顔を30度傾けて、参院本会議場で演説しとる。

「トランプ大統領は、自由で公正な貿易の重要性は認識していると考えており、TPP協定が持つ戦略的、経済的意義についても腰を据えて理解を求めていきたい」

なぞと、目玉をキョロキョロさせながら、ゴーストライターの書いた原稿をほとんど聞き取れない猛烈なスピードで読みあげている。

しかし肝心のトランプが「永久に」蹴ってしまった交渉の座席に、「腰を据えて理解を求め」るなんて、世界中の誰にもできっこないだろう。

回れ、回れ、メリーゴーランド。
ゆるゆる回れ、メリーゴーランド。
僕らを乗せて、ゆるゆる回れ。

民放にチャンネルを切り替えると、横綱昇進が決まった稀勢の里が、今まではほとんど開けなかった目玉をぐっと見開いて、

「これから、ますます強くなります。土俵入りは不知火型ではなく、雲竜型で行きます!」
と威勢よく語っている。まるで血液型が変った別人23号のようだ。

別のチャンネルに切り替えるとかの「仁義なき戦い」で有名な俳優、松方弘樹はんが、脳リンパ腫で74歳で亡くなったと悼んでおる。

ここで急遽、元妻の仁科亜希子はんの言葉が紹介される。

「このたびの、訃報を聞き大変驚いております。私が本気で愛し、2人の子どもを授かり、20年以上も共に歩んでまいりました方です。今は、安らかにおやすみくださいますよう、心よりお祈り申し上げます 合掌」

わいらあ、その「私が本気で愛し」に完全に痺れてしもうた。
こういう赤裸々な告白を、芸能人、いや世間の人々から聞くことはめったにない。
恐らく別れた後で、「ホントウニ愛シ」ていたことが分かったのだろう。ええ話や。

回れ、回れ、メリーゴーランド。
ゆるゆる回れ、メリーゴーランド。
僕らを乗せて、ゆるゆる回れ。

すると、よせばいいのに、またアベ・シンゾウが出てきた。

アベは、共謀罪の趣旨を盛り込んだ組織犯罪処罰法の改正案について、「捜査の相互協力などを定めた国際組織犯罪防止条約の締結に必要だ」と強調。
「国内法を整備し、条約を締結できなければ東京五輪・パラリンピックを開けないと言っても過言ではない」と述べたそうや。

なら、オリンピックなんて止めちまいな。謹んで返上してしまいな。
だあれも困りはしないよ。
なあ、ボブ。

そこでボブは、立ち上がる。
立ち上がって、歌う。

「何回弾丸の雨がふったなら、武器は永遠に禁止されるのか?」
「何人死んだら わかるのか あまりにも多く死にすぎたと?」
「おい戦争の親玉たち。あんたがたにいっておきたい。あんたがたの正体はまる見えだよ」

いいぞ、いいぞ、ボブ、ええやんか。

「それで ひどい ひどい ひどい ひどい雨が降りそうなんだ」

回れ、回れ、メリーゴーランド。
ゆるゆる回れ、メリーゴーランド。
僕らを乗せて、ゆるゆる回れ。

 
 

*トランプ大統領、オリバーストーン監督、安倍首相の発言は西暦2017年1月24日付朝日新聞、ボブ・ディランの発言は片桐ユズル・中山容訳「ボブ・ディラン全詩集」の「第三次大戦を語るブルース」「時代はかわる」「風に吹かれて」「戦争の親玉」「ひどい雨が降りそうなんだ」より引用。

 

 

 

刑事コロンボの妻

 

佐々木 眞

 
 

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ちちんぷいぷい ぶぎぶぎぶぎ
ちちんぷいぷい ぶぎぶぎぶぎ
あはあ、うへえ、ぶよよよーん!

嘘から出た真、瓢箪から駒、、驚きももの木、サンショの木。
ヒラリーおばはんに、みんごとババをつかませて、
世界一下品でえげつないサイテー男が、ほんとに米国の第45代大統領になっちゃった。
なっちゃった。

よ、大統領!
や、大統領!
古来稀なる大統領!

万歳、万歳、マンセイ、万世!
今年で古稀のトランプ新大統領!
暴風雪、高波、大雪低気圧も押し寄せて、
今日は世界万国、ほんとにおめでたい。

「2017年1月20日は、国民が再びこの国の支配者となった日として記憶されるのです」
やて。

いいね、いいね、すごくいいね。
ハート印の特大の「とってもいいね!」を押してあげる。
ケネディ以来、久しぶりに登場したイカス大統領だ。

ちちんぷいぷい ぶぎぶぎぶぎ
ちちんぷいぷい ぶぎぶぎぶぎ
あはあ、うへえ、ぶよよよーん!

「私たちの国で忘れ去られた男性、女性は、もう見捨てられることはありません。すべての人々が皆さんに耳を傾けています」
やて。

よ、大統領!
や、大統領!
古来稀なる大統領!

おんとし70歳の老大統領が、今日から同じ年寄りや、貧乏人や障がい者、社会的弱者、先住民、移民などの「忘れられた人々」に、明るい光を与えてくれる。
やて。

アーメン、ソーメン、冷そうめん
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
ああ、ありがたや、ありがたや。

すると、泉下でミヤザワ・ケンジの懐かしい声がした。

「おれたちはみな農民である。
ずいぶん忙しく、仕事もつらい。
もっと明るく、生き生きと生活する道をみつけてもらいたいもんだ」

すかさず、トランプ爺が答えた。

「私たちは、雇用を取り戻します。
私たちは、国境を取り戻します。
私たちは、富を取り戻します。
そして、私たちは夢をも取り戻すのです」

急いでミヤザワ・ケンジがたしなめる。
新大統領の能天気な空理空論を、どうせなら広大な宇宙的視野の元でじっくり見直せ、と提言したのだ。

「新たな時代は、世界が一の意識になり、生物となる方向にある。
正しく強く生きるとは、銀河系を自らの中に意識して、これに応じていくことなんだ。
われらは、世界のまことの幸福をたずねよう。
求道すでに道である」

ちちんぷいぷい ぶぎぶぎぶぎ
ちちんぷいぷい ぶぎぶぎぶぎ
あはあ、うへえ、ぶよよよーん!

知らん顔して、老獪なトランプは、タメを張る。

「私たちは大きなことを考え、より大きなことを夢見なければいけません。
米国では、私たちは国が頑張っている時だけ、国が存在し続けると理解しています。
私たちは口先だけで、何も行動しない政治家はもう受け入れないでしょう。
絶えず文句を言いながら、そのことに対処しない人たちです。
中身のない話をする時間はおしまいです。行動する時がやってきました。」

再びケンジが、くぎを刺す。グサッと刺す。

「われらの古い師父たちの中には、さういう人人々もたくさんいた。
でも、世界ぜんたいが幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ないんだ」

ちちんぷいぷい ぶぎぶぎぶぎ
ちちんぷいぷい ぶぎぶぎぶぎ
あはあ、うへえ、ぶよよんよーん!

しかし、ミスタ・ドナルド・トランプの世界観と幸福論は、ミヤザワ・ケンジとは正反対だ。

「この日から、新たなビジョンが私たちの地を統治します。
この日から、「米国第一」だけになるのです。米国第一です」

よ、大統領!
や、大統領!
古来稀なる大統領!

「私たちは、失敗しませーん。この国は再び繁栄し、豊かになりまーす」

お、いいね、いいね。
懐かしのモンロー主義の再来だ。
マリリン・モンロー甦れ!
そろそろニッポンも、日米奴隷同盟解体の時かしら。

すると突然うちのカミさんが、テレビに向かって噛みついた。

「米国第一ですって!
あのねえ、あんた、それを言っちゃあ、おしまいよ。
もしもお腹の中でそう思っていても、絶対に口に出さないのがプロの政治家ってもんでしょう」

思いがけない反撃を受けた第45代米国大統領は、チチチチと歯軋りし、
右手の人差し指と中指を、せわしなく揺り動かしながら、監視カメラに向かって喚いた。

「そ、そういうあんたは、いったい誰なんだ?」

私のよれよれのレインコートのボタンをつけ直しながら、うちのカミさんが答えた。
「刑事コロンボの妻ですが、なにか?」

ちちんぷいぷい ぶぎぶぎぶぎ
ちちんぷいぷい ぶぎぶぎぶぎ
あはあ、うへえ、ぶよよよーん!

 

 

 

西暦2016年11月12日

 

佐々木 眞

 
 

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人身事故

 

11月のある晴れた日、わいらあ、久しぶりに東京に出かけた。

ところがなんちゅうことかいのお、横須賀線が人身事故で動いてへんかったん。

朝はよう保土ヶ谷駅での人身事故で、東海道線が止まってしもうて、その影響で横須賀線も動かへんちゅう訳や。

人身事故ちゅうことは、多分誰かが飛び込み自殺をしたちゅうことで、その人は恐らくヨンどころのない事情で、目の前にやって来た電車に飛び込んだんやろうが、わいを含めたほとんどの人は、その人のヨンどころのない事情なぞには、てんで想いを馳せることもなく、むしろ自分が被った迷惑の原因をつくったその人に同情せんと、むしろちょいと憎んだりする。

「くそったれ、なんでよりによって、わいが乗ろうと思うた電車の邪魔をしくさるねん。

やるなら、どっか別の時間に別の電車に飛び込んでくれ」

ちゅう訳や。

考えてみたら、不人情な話やね。

飛び込んだんが、おのれや身内やったら、まるで違うリアクションをするに違いないけど、結局人間なんて、その程度の冷たいいきものなんやね。

しゃあけんど、その人、よりによって、なんでこんな秋晴れの穏やかな日に飛び込んだんやろな。

男かなぁ女かな。年よりかな若者かな、などど考えることもなく考えながら、わいらあ妻に頼んで、白いアクアで京急の新逗子駅まで送ってもらい、都営浅草線経由で新橋まで行くことにしたんやった。

新逗子駅から羽田空港ターミナル駅行きに乗って、上大岡で特急に乗り換えると、急に車体が揺れ始める。

この鉄道は、なぜだか広軌で他の線より線路幅が広いから、走行が安定しとるはずなんやけど、実際はその逆で、飛ばせば飛ばすほど揺れる。怖いほどに揺れる。

怖いといえば、むかし品川から新川崎まで前後左右に揺さぶられながら吊革につかまっとったら、2人の若い女の子が、青ざめた顔をして進行方向に向かって走って行きおる。

しばらくすると、坊主頭のヤクザ風の男が、血相変えてその後を追っていった。

どういうことかよう分からんかったけど、翌日の新聞をみると、電車の中で女が出刃包丁で刺されて怪我をしたゆう記事が出とった。

「誰か助けて!助けてえ!」と叫びながら逃げたけど、刺されるまでに、車内の誰も助けようとはしなかったそうだ。

そんなことだと分かっていたら、わいらあ身体を張って阻止したかどうかは自信がないけど、これをもって、当時のこの線に乗る客層の程度が知れる。

そんなことを思い出しとるうちに、電車は上大岡駅を発車した。

 

人身が事故で死んだというけれどその人身とは我が身にあらず 蝶人

 

 

弘明寺の二短調協奏曲

 

上大岡を過ぎると、すぐに弘明寺や。

平仮名で綴るとぐみょうじ、でっせ。わいらあ昔この普通しか止まらない駅から、品川まで京急で行き、そこから山手線に乗り換えて、原宿にある会社まで通ってた。

駅前はいきなり坂道になっていて、坂の途中に、生真面目な青年が経営するレコード屋さんがあった。

わいらあ生まれて初めてのクラシックのレコードを、この小さなお店で買うたんやった。

当時フィリップスというレーベルの廉価版に「フォンタナ」という1枚1000円のシリーズがあり、わいらあ、その中から旧ソ連のピアニスト、スヴャストラフ・リヒテルが演奏するバッハとモーツァルトのピアノ協奏曲を選んだんやった。

オーケストラは、バッハはソビエト国立交響楽団、モーツァルトはソビエト国立フィルハーモニー管弦楽団、指揮はいずれも旧東ドイツ出身のクルト・ザンデルリンクという人やったなあ。

A面のバッハのピアノ協奏曲第1番BWV1052を聞いた時は、ちと驚いた。

冒頭からいきなりピアノとオーケストラが全力疾走するんやけど、その響きのなんとまあ悲愴なこと。わいの心をまるごと鷲摑みにして、地獄に道連れにしていくようやった。

ああ、これがクラシックというもんか。なんて暗くて、ぎょうぎょうしいや。夢も希望もない音楽やなあ。

そう思いながらレコードをひっくり返して、B面のモーツァルトのピアノ協奏曲第20番を聞くと、これがまた陰々滅滅たる序奏ではじまりよる。

ようやくピアノが入って来ても、わいの疲れた心はますます重苦しくなる。

いまでこそ分かるけど、偶然とはいえ、この2曲は同じ二短調の曲やったから、「元気はつらつ、さあいくぞ!」というような活発で陽気な世界とは正反対の、死にたくなるような、悲愴で、厳粛な気分に満ち満ちていたんや。

なるほど「降れば土砂降り」がクラシックなんか。

聞けば聴くほど悲しい憂鬱な気持ちになるなあ。

しゃあけんど、これは今のわいの気持ちにぴったりやなあ、と思えたもんやった。

 

弘明寺の観音通りの坂道の袂にありしレコードショップ 蝶人

 

 

プールサイド小景

 

そういえば、弘明寺駅のレコード屋さんのある出口とは反対方向には、なぜかプールがあった。

秋になると、広葉樹の落ち葉が、水面をすっかり覆ってしまう小さなプールやったなあ。

会社から帰って、山の上にあるアパートに向かう途中で、急な坂を気息奄々と登りながら、高みから蛍光灯に照らされたこのプールを見おろすと、いつもわいは庄野潤三の「プールサイド小景」のラストシーンを思い出したもんや。

そして、落ち葉の間に、わいのようなくたびれはてたサラリーマンの死体が浮かんでいやせんか? 浮かんでたら、それはもしかするとわい自身ではないやろうか、と、じっと闇に目を凝らしたもんやった。

わいらあ、このプールの麓からひと山登ってあっち側に降りた、静かな傾斜地に立つアパートに住んどった。

当時のわいは、慣れない会社の仕事に疲れ、障がい児の長男の療育にも疲れ果てとった。

妻の記憶では、長男は鎌倉の産婦人科で生まれたときに産声が聞こえなかったというとるから、もしかすると出産時に障がいを蒙った可能性もある。

2歳までは特に他の子と変わった様子もなかったんやけど、モンシロチョウが舞う春の野原を、サイの子供のようにノロノロと這いまわる姿は、なにやらまだ地球が知らない動物のようで、可愛いといえば可愛いが、気味が悪いといえば気味が悪かった。

そのとき私の中の植松聖選手が、脳内でこんな歌をうたっていたようやった。

イモムシ、ゴーロゴロ、イモムシ、ゴーロゴロ

イツマデモ ソコデ ゴーロゴロ ハッテロ

オマエハ ソコデ イモムシニ ナーレ

イモムシ、ゴーロゴロ、イモムシ、ゴーロゴロ

長男はちょうどその頃から、溝の穴や、水道の水や、くるくる動くものなど、特定の事物や行為にいたく固執するようになってきた。

しばらくすると、はじめのうちは出ていた言葉を次第に失い、他人とは会話できず、ふつうのコミュニケーションがとれんようになってきたさかい、わいは時には会社の休暇をとって、カミさんと親子3人で、地元神奈川や東京近辺の様々な病院を訪ね、この奇妙な症状を示す我が子の治療方法を捜し求めたんやけど、どこへ行っても納得のいく対策案ももらえず、途方に暮れたもんやった。

 

京急の弘明寺公園の桜咲きプールに漂うわたしの屍体 蝶人

 

 

くたばれ東大医学部!

 

そんなおらっち夫婦が、横浜戸塚の療育センター(旧こども療育)の診断を請うたのは、1976年のことやった。

当時既に東神奈川の小児療育センター、東京の梅ヶ丘病院、久里浜の国立医療センターなどでは、それなりの先進的な研究によって、「自閉症心因説」や「情緒障害説」をとっくの昔に退けていたんやけど、おらっちはここに勤務していた小児自閉症専門の担当医師(東大医学部の2人の教授)の尊大な態度に驚き、あきれ果てたもんやった。

彼らは、当時もっとも非科学的で時代遅れとされていた「自閉症母源病説」を声高に唱え、

「お母さん、この病気の原因はあなたの育て方が悪かったからです!」

「ご両親の子育て方法が間違っていたために、心に傷が出来てしまったのです」

などと、おらっち夫婦を誹謗中傷しながら、偉そうに御託宣を下しやがる。

んで、おらっちは、頭に血が昇って、こう反論した。

「俺の仕事が頭を使うから、子どもが自閉症になったんだと! どういうことや。そもそも頭を使わないで済む仕事なんて世の中にあるのか! イ、イ、インテリゲンチャンの子どもが、みな自閉症になるなら、どうしてト、ト、東大のイ、イ、インテリゲンチャンのお前の子どもも、自閉症にならへんのや。言うてみろ! え、どうなんだ!」

妻も泣きながら抗議した。

「私の育て方が過保護で、そのせいでこの子が自閉症になっただなんて、とんでもないことです。私は天地神明に誓って、そんないい加減な子育てをした覚えはありません。お医者さんが、そんな無責任なことを言っていいんですか!」

東大医学部精神科からここへ派遣されている30代のエリート医師は、口から猛烈に唾を撒き散らして怒り狂うわいと、泣きじゃくりながら必死に抗議する妻に困ってしまって、50代のいかにも偉そうな顔をした先輩医師に、すがるような視線を向けた。

するとそいつは、またしてもわいのどたまに来る台詞を、平然と吐きくさった。

「まあ自閉症もいろいろありますが、結局は情緒障害ですから、まずお父さんお母さんの生き方から改めてもらわないとね」

「なに、生き方やと? お前いったい何様じゃ。糞へタレ医者のお前なんかに、わいの生き方をうんぬんされとうないわ」

その、人を人とも思わぬ言葉に、またしても怒り狂って反論するわいと、泣いて抗議する妻をせせら笑うようにして、私たちを見下していた東大医学部の阿呆莫迦教授を、わいらあ一生忘れへん。

わいは、無知の癖に傲慢そのものだったあの2人の東大教授を、いまなおどうしても許せんのや。

おのれの不勉強を棚に上げて、権威に胡坐をかき、したり顔で中世さながらの「魔女狩り」ごっこを演じていた彼らの醜悪な姿こそ、1968年に東大全共闘が打倒すべき腐敗堕落した白い虚塔の象徴だったんや。

わいは、あれから30年以上の歳月が経過した現在もなお、この2名とどこかの街道筋で鉢合わせした場合、物理的な打撃を彼奴らに与えずに通り過ぎる自信は、あらへん。

 

アホ馬鹿の東大教授の暴言に我は憤怒し妻は泣きたり1976年夏戸塚の杜に 蝶人

 

 

自閉症大研究

 

彼奴らが、その後どんな腐れ医者になり果てたかはいざ知らず、いまでは自閉症は、生後2歳半くらいまでにあきらかになる,一種の「発達障がい」ということになっとる。

その症状はいろいろあるうえに、人によっても症状が異なるので,複雑かつ面倒くさいんやけど、そこを思い切って整理すると、次のようになる。

1)自分自身や周囲の状況がよく分からない「認知の障がい」

2)自転車乗りやキャッチボールがうまくできない「運動の障がい」

3)友達との遊びができないなどの「社会性発達の障がい」

4)他人との会話ができない「言語発達の障がい」

5)水や数字や動くものなどに対する「同一性の固執」や「常同的な遊びや行動のパターン」を示す。

それから、次のようなことも分かってきた。

自閉症は自閉的と考えるのは間違いで、自閉症児の「自閉的要素」要素は、自閉症の症状のほんの一部に過ぎん。

実際に自閉症児は、自閉的どころか、むしろ多動児であることが多いんやね。

また自閉症を「心の病気」と考えたり、子育てや母子関係のスキンシップなどの「情緒の欠如」としたり、テレビの見過ぎやカギっ子、おばあちゃん子が自閉症児をつくるとする見方もすべて誤りである。

このような非科学的な決め付けや思い込みが,自閉症研究を遅らせ、親たちに過大な負担を強いたんや。

今年105歳になる,聖路加病院名誉院長の日野原重明という偉もんはんは、自閉症を風邪やガンなんかと同じ範疇の「病気」だと思っているらしいが、とんでもない話やで。

自閉症は、病気ではない。精神病や精神分裂症でもない。「心因」ではなく、「身体因」にもとづく障がいや。具体的には先天的な脳の機能的・器質的障害、中枢神経機能の障がいなんや。

脳機能の統合化プロセスにおけるなんらかの発達障がいを持って生まれた自閉症児の症状は重篤で、その症状は各人各様やから、画一的な対応をすることはできんちゅうわけや。

では、そんな自閉症児にどのように対応するのか?

自閉症の原因は、脳の機能障がいと考えられてはいるものの、残念ながら、現在のところ根本的な治療方法は発見されとらん。

しかし特に症児の幼少期には、言語、知能、運動、社会的習慣の各側面において健常児に比べて成長が遅れている部分をできるだけ刺激して改善できるように家庭、学校、地域、医療、行政などが協力して取り組めば、成人後とは比較にならないくらい長足の進歩を遂げることができるという訳や。

ああしんど。

ともかく、あの植松聖選手のように、障がい者を皆殺しなんかせず、むしろ健常者よりあんじょう大事に大事にして、障がいのあるなしに関わらず、共生共存できる世の中にしていくのが大事やちゅうことやね。

 

障がい者はこの世の宝 皆殺しせず共に生きよう健常者たちよ 蝶人

 

 

自閉症研究の現在

 

ところで、その後の自閉症の研究はどうなったんか。

進んだともいえるけど、全く停滞しているともいえる。

進んだというんは、自閉症にお仲間がどんどん増えていったゆうことや。

初めのうちは、うちの長男に該当するような知的障がいのある古典的なカナー型症候群が多かったんやけど、80年代に入ると、例えばアスペルガー症候群(カナー型のような言語障がいや知的障がいがない、いわばお利口さんの高機能の自閉症)が発見され、世間でも大きな話題を集めたんや。

アスペルガー症候群の他にも、自閉症の同類項がまるで雨後のタケノコみたいに発見され、中には「アインシュタインやモーツァルトも自閉症だった」とか、「私は自閉症です」「私も自閉症でした」などとと突然カミングアウトする普通の健常者まで続出して、もはやなにが味噌だかなにが糞だかさっぱり分からん状態になってしもうた。

自閉症を長い虹の孤を持つ「スペクトラム症候群」として、その該当範囲を拡大したり、さらには境界線児童や学習障害児や注意欠陥多動性児まで全部ひっくるめて「広範性発達障がい」なんちゅう、戦時中の大政翼賛会のような巨大なお題目を発明する奴まで出てきた。

これでいくと、身体や精神にちょっとした遅れや異常があれば、みな「発達障がい」というレッテルが貼れることになる。

しまいには、わいらあ一家が昔からお世話になっていた自閉症研究の草分けのS先生までもが、「人間みな発達障がい者」などとのたまいはじめたので、わいらあ、世も末だと思うに至ったんや。

 

カナー氏はカナー症候群をアスペルガー氏はアスペルガー症候群を発見したり 蝶人

 

 

喫煙、人を密殺す

 

ところで、自閉症の大本山ともいうべき「日本自閉症協会」では、最近どんな動きをしてるんやろう。

協会の前会長は、石井哲夫氏やった。
30年前のその昔、私は超ベテランの石井選手などが主張する、自閉症児の障がいをただありのままに受け入れようと主張する「受容療法」に批判的やった。

そんな悠長なやり方やのうて、自閉症の症状と障がいのもっと本質部分に肉薄し、脳障がいの損傷部分を活性化する、いわば「積極的な療法」を重要視していたわけや。

しゃあけんど、障がい者に対して強制的にかかわる際の反発や逆効果などを考慮すると、半世紀後の「大人になった」今では、こういう受け身の対応も、それほど間違っていたわけではないな、と再評価しておったんや。

ところがこの石井会長、数年前にフランスの学者・研究グループが「自閉症遺伝説」を唱えはじめると、「わしも自閉症の原因はどうも遺伝のような気がする」などと訳のわからんことをのたもうて、突如会長を辞任されはった。

そのせいかどうか知らんけど、自閉症協会の自閉症定義ないし解釈では、おらっちがこれまで述べた脳の器質障害というこれまでの説明を削除してしもうたから、いずれは自閉症遺伝説の新しい看板を掲げるのかもしれん。

ダウン症の原因が第21番染色体の異常であることは昔から知られているけど、「自閉症遺伝説」を唱えはるなら、自閉症はどこの遺伝子のどういう異常で発生するのか、さっさと言うてもらおうやないか。

遺伝によって自閉症になるのなら、今までお前さんやおらっちが、身体を張って力説してきた「自閉症脳機能障がい説」との関係、整合性はどうなるんじゃ。
ほれ、言うてみなはれ。ほれ、ほれ、言えんじゃろうが。

あんたに言えんなら、脳科学研究者としてマスコミで有名な養老孟司はん、なんにでも首を突っ込む茂木健一郎はん、ダサイ服を着とるけど頭の良さそうな中野信子はん、ちょっくら助けてくらはいな。お願いしまっせ。
わいらあ北朝鮮拉致被害者の親御さんとおんなじで、もう先が長うないうえに、くたびれ果ててしもうた。

まあざっとそんな体たらくやから、この半世紀の自閉症研究は、進化どころか退化しているかもしれんちゅうわけや。

最後にひとこと。

おらっちは、かつてはたちから27歳までの足掛け8年間、猛烈なヘビースモーカーで、まあ強度のニコンチン依存症やった。
ほいでもって、1日両切りピース50本のその猛毒が、間接喫煙した妻の胎内に入って自閉症の脳障がい児を誕生させたと確信しておる。

そやさかい、これからの時代を担う若い人たちには、どうしても禁煙してほしいんや。
それがわいらあの遺言。

ああ、あかん、あかん、また脱線してしもうた。

 

モザールもアインシュタインも耕君も味噌糞一緒に発達障がい 蝶人

 

 

新橋の女

 

いまから40年前のにがい思い出に、ひとり胸の奥深く激高しているうちに、電車は新橋に着いたわいな。

新橋駅のカラスモリ口といえばちょいと懐かしい思い出があるなあ。

いまは昔の東京五輪の開会式のとき、わいらあ上京して毎日アルバイト生活に明け暮れていたんやけど、五輪委員会のパーティのボーイをやっとったときに、配ぜん係の女子の中に楚々とした美人がおってなあ、わいらあ彼女に取り入ろうとカナダの代表団の役員はんからもろうた楓のバッジをあげたんやけど、「ありがとう」と御礼を言われてそれっきり。

その周旋会社が新橋のここいらへんにあってなあ、もしや彼女がこの事務所に現われるんやないかと、あれからも時々覗いてみたんやけど、そう簡単に問屋が卸すはずもなく、哀れとうとうそのままになってしもうたんや。

なんだか惜しいことをしたような気が今でも時々するんや。

それはともかく新橋に来ると、なんでか知らんけど天丼が食いとうなって、よく「てんや」に入ったもんや。

ほんで今日も確かこのへんにあったなあと思うて、カラスモリ神社の入り口を過ぎて歩いていくと、そのちょっと先に天丼「てんや」の暖簾がでとった。

まだお昼前なんでがらがらやったけど、「いらしゃい、お好きな席におかけください」と妙なアクセントで迎えられ、その顔をよく見ると、中国か台湾の女の子やった。

店内には他にも中国系の女の子が働いていて、2人でぺちゃくちゃ中国語でおしゃべりするので、気になってしゃあない。

店長は日本人やったけど、接客する人間が中国人やったら、その店のイメージが中国になってしまう。

わいらあ別に中国人をどうこう思う訳やないけど、人件費が安いからというて、みだりに外国人を使うのはやめてほしいと、天丼屋の「てんや」の為に思うたことやった。

500円の並み天丼はいつもと同じ味やったけど。

新橋の蒸気機関車広場では、古書市の最終日で北隆館の「原色蛾類幼虫図鑑」2800円也に、ちょいと心惹かれたなあ。

心を鬼にして帝国ホテルに向かうおうとしたんやけど、日比谷がどっちの方角なんか耄碌してきててんで分からんようになてしもうたんで、恥ずかしながらおのぼりさんになって交番で尋ねたら、若いお巡りはんもおのぼりはんとみえて、

「帝国ホテルなんて分かりません」

というもんやさかい、あわてて奥から出てきた中年のお巡りはんが、区分地図を出してきて親切に教えてくれた。

わいらあ、もう完全に浦島太郎やなあ。

 

楚々として見目麗しきひとなりき東京五輪開会式の青い空 蝶人

 

 

日比谷公園、松本楼、フランス映画社など

 

まだ時間があるので、美術館へ行こうかなと思ったんやけど、内幸町の交差点あたりでキョロキョロ見回しても、見つからへん。

その代わりというてはなんやけど、進行方向左手に日比谷公園が見えてきた。

格調高い公会堂は、工事中、懐かしい野音は、入口が封鎖されて入ることができんかった。芥川也寸志の交響曲や、「全国の学友諸君!」のシュプレヒコールが聞こえてきたような気がしたけど、あれは空耳アワーやたんかいな。

好天の土曜日とあって、公園はおおぜいの善男男女や家族ずれが、楽しそうに散歩している。

イチョウの黄色や紅葉したモミジや碧や赤が、雲ひとつない青空に鮮やかに映えとる。

ああ、秋やなあ。

すると、左手に見えてきたのは松本楼や。

確か今から半世紀ほど前に、フランス映画社の創立安十周年だかを記念する祝宴がここで開催されて、わいらあも招待されたんやかど、浅いつながりしかないおらっちに恐れ多いとおもうて、欠席してしもうたんやけど、あの頃が世界の名画をビシバシ本邦に紹介してきたフランス映画社の、全盛期だったんやろうなあ。

輝かしい伝統を誇るあの会社が、たしか3200万の負債のために倒産した、ちうニュースを聞いたときは、ショックやった。

わいが金持ちなら、代わりに払ってあげたのに、と不遜なことまで考えたんやけど、ほんまなんとかならんかったんやろうか。

あれからもう何年も経つけど、社長の柴田さんはどうしてはるんやろう?

元気かなあ、いや元気なはずはないわな、などと思いながら、花や樹木に囲まれてまるでお伽噺に出てくる洋館のように綺麗な松本楼を遠くに見ながら遠ざかってゆくと、菊人形ならぬ菊の展覧会が開催されておった。

白や黄色の大輪の花が、ここを先途とばかりに美しく咲き誇っていたが、いくら眺めてなんでこの菊が一等章でこれが2等賞なんか、さっぱりわからん。

やっぱり見る目が無い者には、猫に小判なんやろな。短歌と同じやな、などと取ってつけたように思いつつ、帝国ホテル3階の富士の間に向かったんやった。

 

そこここに生魂宿る菊人形 蝶人

 

 

富士山大賞

 

「富士山大賞」ちゅうのは、日本一の富士の山を顕彰する短歌を募って、優秀作品を選ぶという、いいか悪いかさっぱり分からんイベントなんやけど、わいらあこの夏、たまたま審査員の東直子さんがフェースブックで告知されているのを見かけて、早速ネットで応募したん。

なんで応募したかとゆうと、審査員長が岡井隆、審査員が東さんのほかに穂村弘、三枝昂之の両氏だというのんで、ああええなあ、と思ったからや。

ほしたら10月になって「あなたはんは見事佳作に当選されました。おめでとうございます。ついては授賞式を行いますので、御来場ください」ちう手紙が舞い込んできたといううわけ。

自慢じゃないが、これまでわいらあ、短歌だけやなしに、賞と名のつくもんを貰ったことがまったくない。佳作は佳作でちと残念やけど、賞は腐っても賞やから、まずはおめでたい。

それに行けば、あこがれの岡井大先生の御尊顔を拝し奉り、謦咳に接するることもできるかもしれん。

千載一遇のチャンスとはこのことやんか。万障繰り合わせてでも出席しよやないか。

そう思うて、鎌倉くんだりから出張ってきたんや。

 

富士山に歓声あげる僕ら乗せ修学旅行車激しく傾く 蝶人

 

 

ユ、ユ、ユ! ユ、ユ、ユ!

 

しゃあけんど、岡井先生のおそば近くにはべり、審査員の先生方の講評を受けるという光栄に浴されたのは、遥かなる高みの壇上にい並ぶ大賞、準大賞、優秀賞受賞のエリートはんだけで、残念ながらその他佳作のわいらあは、大広間のテーブルに陣取って、ただただ壇上に拍手を送るだけ。

せめて双眼鏡を持ってくればよかったなあ、と切歯扼腕した次第やった。

彼方から遠望する岡井大人は、矍鑠とされてお元気そうで、マイクを通しての声も、力がありやした。

氏は最近、富士吉田で講演をなさったようで、その講演は、かの山部赤人の「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける」という万葉集の歌の解説から始まったそうやけど、開口一番

「「田子の浦ゆ」の「ゆ」といううのは、いったい何だ。どうしていきなりユがついているのだ。ユ、ユ、ユ!」

と、大声で叫ばれたので、満座はユベシのように静まり返りやした。

ユ、ユ、ユ! ユ、ユ、ユ!

そんなこと今まで一度も考えたことがあらへんかったなあ。

ユ、ユ、ユ! ユ、ユ、ユ!

評論家の加藤典洋氏が、文章を読むときに、ほんのちょっとしたことに気づいて「そんなことってあるだろうか?」と思うて「わからなくなる」。

そしてその生まれたばかりの驚きに立ち止まり、「世界をわからないものに育てる。そういう時間が大事だ」と力説されてたけど、これはまさしくそれやないか!

「ユ」に立ち止まって、ゆっくり考えんと、万葉集も短歌も始まらへんちゅうわけ。

さすが、わいが敬愛する大歌人やなあ。

岡井うしは、なおも講演を続けようとされ、わいも息を呑んでその続きを待ったんやけど、氏はそんな話を延々と続けたら、審査委員長の挨拶にはならへんことに賢明にも気がつかれたとみえて、

「ユ、ユ、ユ! ユ、ユ、ユ!」

の叫びは、虚しく不意の間の天井あたりへ消えていった。

 

ユユユユユ、ユユユユユユユユ、ユユユユユ田子の浦よりうち出でてユユ 蝶人

 

 

タカマツノミヤヒデンカオンウタアア

 

審査員の講評が終ると、今度は宮内庁掌典職の堤公長という人が壇上に出てきて、大賞、準大賞、学生最優秀賞を宮中歌会始のあの乗りで音吐朗々と講じはじめたので、朝が早かったわいが、ついうとうとしていたら、周りの人々がいきなりテーブルから立ちあがった。

何事ならん、と耳を澄ますと、

「タカマツノミヤヒデンカオンウタアア」

と、掌典職がのたまわっているようだ。

タカマツノミヤヒデンカとは、高松宮喜久子妃殿下のことならんか。

見れば、受賞者の披講の時には着席していた連中が、皇族の誰かの短歌が始まるや否や、いきなり起立して、なにやら居住まいを正しているではないか。

すわ何事なるか?

司会者も、堤氏も、それを要請することもないのに、民草どもが、いそいそと立ちあがるとは、いったいどういう了見をしておるんや。

わいが座ったまま会場をゆっくり見回すと、驚いたことには、会場にいるすべての人が起立している。

座っているのは、わいだけやんか。

何事におわしますかは知らねども、かねてより人の上に人をつくる天皇制という制度の一日も早い廃棄なしには、本邦に棲息する人間の自由も平等も自立もありえないと信じているおらっっちは、急にその場につどっている人たちに大いなる違和を感じ、

 

なにゆえに人の上に人が立つ人間は生まれながらに平等なのに 蝶人

と、吟じながら、ひとり席を立ってホテルを出たんやった。

 

 

バーキンのバーキン

 

思えばこの帝国ホテルは、結婚式を挙げたあとで、妻とはじめて泊まったホテルや。

当時の夫のジャック・ドワイヨンと来日したジェンバーキンが、わいが半日鎌倉を案内してあげた御礼だといって、ホテル内の日比谷花壇で買ったクリスマスリースを買って贈ってくれたホテルや。

「アンアン」の莫迦な編集者が、バーキンの私物のエルメス特製のバッグ、バーキンを、新館に通じる道路に地べたに置いて撮影しようとしたので、おらっちに怒鳴られたホテルや。

宝塚劇場の前に押し寄せた群衆を掻き分け、有楽町に向かって歩いていると、わいらあ、たしかここらへんでバーキンと食事をしたことがあったなと思い出した。

知人と3人でフランス料理屋に入ろうとしたら、ボーイが彼女のジンーズをじっとみてから「只今満員ですのでお断りします」とほざいたんや。中を覗いたらガラガラやったのに。

それで仕方なく隣の大衆的ななんでもあり食堂に入って、わいらあ3人で寿司、天ぷら、すき焼きを食べ放題に食べたんやが、その食堂もそのレストランも、いまは跡かたもない。

それは80年代のはじめのことやったが、いまでは覚えているのはわいだけやろう。

それは今日と同じような、素晴らしいお天気の午後やった。

気を取り直したわいは、JR有楽町駅から上野まで乗って公園口から歩道を渡った。

土曜日の午後とあって、ここも大勢の男女が群れ集ってる。

文化会館では、午後3時から滞日中のウィーン・フイルが、ワグナーの「ワルキューレ」をやるそうだ。

S席67000円で一番安い席でも17000円もする。イヴァン・フィッシャーは、そんな悪い指揮者やないが、到底わいのような貧乏人は、お呼びではない。

 

さようなら さいならさいなら さようなら もう二度と会わないだろうジェーン・バーキン 蝶人

 

 

やあ、ルターはん!

 

進行方向右手を覗くと、こないだ世界遺産に登録されたばかりの国立西洋美術館で、「クラーナハ展」をやっとった。

クラーナハ。はてな?

名前は聞いたような気がするけど、作品をみるのははじめての絵描きさんやな。

1472年に生まれて、1553年に81歳で死んだ、ルネサンス期のドイツ人やそうやけど、なんと宗教改革のリーダーとして知られるルターと、ほぼ同時期に生きた、と知れば、なんとなく親しみもわいてくるなあ。

芸術の前では、名前も経歴もどうでもええけど、実際に作品の前に立つと、そのリアルな写実に、あっと息を呑んでしまう。

あの宗教改革のルター夫妻なんて、500年前の人物が、目の前に実際に佇んどるようで、わいらあ思わず「やあ、ルターはん!」と呼びかけてしもうた。

神聖ローマ帝国カール5世なんて、厳めしい肩書やけど、こんな浅ましい顔つきの男やったんか。

これではどこかの国の宰相とええ勝負やんか、と言いたくなってしまう。

しかし、美女の裸体のプロポーションなんかは、上半身がちと寸詰りやし、目の表情もちと偏執の気味があるさかい、この節流行の微細カメラ的描法とはちと異なるけど、もしかすると、鎌倉期に頼朝や重盛の肖像を描いたという藤原隆信や江戸時代の渡辺崋山、現代の舟越保武を先取りする超絶的リアリズムかもしれんなあ。

しゃあけんど、被写体が同時代の人物やのうて、歴史上あるいは神話的人物像、例えばヴィーナスやサロメ、とりわけ「ホロフェルネスの首を持つユディト」なんかを描くとなると、その女体に独特の奇妙なエロスの味付けが加わって、見る者を限りなく蠱惑するんやねえ、これが。

ホロフェルネスを誘惑して、酔わせて、その首を斬った寡婦ユディトの絵は、古来多くの画家によって描かれてるけど、クラーナハのユディトの冷たいニル・アドミラリなまなざしは、嗜虐主義者の谷崎潤一郎ならずとも、世の男どもの愚かな劣情を、ゆらゆら揺り動かしまっせ。

うっすらと目を開いたホロフェルネスはんを見てみい。、こう呟いているみたいやないか。

 

こんな美女なら、首なんかちょん斬られても、余は満足じゃ。 蝶人

 

 

ゴッホ対ゴーギャン

 

もう印象派なんかさんざんみたからどうでもええけど、せっかく上野に来たんやから、ちょっと覗いてみるか、というようなノリで乗り込んだ都美術館やったけど、これが想定外におもろかった。

何がやねん?

ゴッホ対ゴーギャンという2人の男の構図が。

アルルにやってきたゴッホはんは、海でも、山でも、野原でも、家の中でも、じゃんじゃん書きまくりよる。ここを先途と、命懸けで書きまくっとる。

それはわいの故郷綾部の偉人、出口なおはんの御筆先からほとばしる生気を、まの当たりにしているようや。

出口王仁三郎はんの、めくるめく色彩世界の陶器をみているようや。

例えば1888年に描かれた「耕された畑(畝)」を見てみい。

これでもか、これでもかとキャンバスに荒々しく部厚く部厚く塗りたくられた油絵の具のうねりの中に、ゴッホの、

「いまこの瞬間を生きるんや!」

ちう、赤裸の叫びを、わいは見る。

聞く。

打たれる。

それは、ほとんど狂気にすれすれの異常な叫びで、実際に彼はこの直後に狂うてしもたんやけど、それでも絵は、異様なまでに純粋で、美しい。

アルルのゴッホが、命懸けの生の極限を生きる、その姿が、そのまま芸術に転化していたとすれば、すぐ傍にいたゴーギャンは、迫りくる死に向かって、日々衰弱していく、己の絶望そのものが芸術やった。

ゴッホの「恋する人」は、生の祭壇への生贄であり、ゴーギャンの「アルルの洗濯女」の背中には、すでに死霊が取り憑いてる。

この2人の天才の心身の奥深く喰い入った生と死は、背中合わせで共同生活しながら、陰陽2つの見事な花を、アルルで咲かせていたんやね。

 

南仏のアルルの真昼に咲き誇る2本の向日葵生と死の花 蝶人

 

 

エピローグ

 

ゴッホ対ゴーギャン展を見終わると、もう夕方やった。

上野公園のケヤキに落ちる夕日が、長い陰をつくっとる。

動物園のパンダも、そろそろねんねぐうする頃や。

菊、公園、短歌、展覧会。今日ひとひの幸に感謝しながら、

わいは、とぼとぼJR上野駅に向かったんやった。

 

 

 

ムラビンスキーのチャイコフスキー交響曲第5番

音楽の慰め 第12回

 
 

佐々木 眞

 
 

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昔むかし、今から半世紀近く前のこと、東京は原宿の千駄ヶ谷小学校の近所にあった会社で、私はリーマン生活を送っていました。
会社の小路を隔てた向かいには「ヴィラ・ビアンカ」という名の7階建てのモダンなマンションがありました。

ここは日本で最初のデザイナーズ・マンションといわれ、かつては今は亡きイラストレーターの安西水丸選手が住んでいたそうです。地下1階には中華料理屋があって、しばらくすると、そこが桑原茂一選手が経営する、かの有名なライヴハウス「ピテカトロプス」に代わるのですが、今日はその話ではなく、1階にあった中古オーディオ屋さんのお噺です。

確か「オーディオ・ユニオン」という名前のそのお店には、かなり高額の中古品のアンプやプレーヤーやスピーカーが並んでいて、当時オーデイオに夢中になっていた私は、会社の昼休みや放課後にちょくちょく顔を出し、すぐに仲良くなったお店の主任のシミズ選手に頼んで、毎日のように試聴させてもらっていたのでした。

私は、つとに名高い米国の名スピーカー「JBLの4343」、そして流行作家の五味康祐選手が絶讃していた英国製の最高級スピーカー、「タンノイ・オートグラフ」の妙なる美音に耳を傾け、「ああ安月給の自分が、こんな高嶺の花を手に入れる日が、いつか来るだろうか、いや絶対に訪れないだろう」と思いつつも、連日の「オーディオ・ユニオン」詣を欠かしませんでした。

ある日の夕方のこと、私は大学時代の同級生の門君と、このお店で待ち合わせをしました。門君は、某大学のオケのハイドンの交響曲の演奏会で、「チェロを弾きながらうたた寝していた」という伝説のある人で、私はそんな偉大な豪傑から、クラシック音楽の手引を受けたのでした。

さてくだんの門君がやって来たので、一緒に店内を物色しながら歩いていると、シミズ選手が「ササキさん、いい出物がありますよ。騙されたと思って、ちょっと聞いてみませんか」と言葉巧みに誘います。
「これから新宿の厚生年金会館でゲンナジ・ロジェストベンスキー指揮のモスクワ放送交響楽団のコンサートがあるから、ちょっとだけだよ」というと、すぐさまシミズ選手が、物置から割合小ぶりの英国製スピーカーを取り出してきました。もちろん中古品です。

「ご存じかもしれませんが、これが「KEF104ab」というイギリスのBBC放送局お墨付きのモニタースピーカーです。曲は何にしますか。なんでもいいですか。お急ぎでしょうから第4楽章だけおかけしましょうね」
といって、テクニクス製のプレーヤーに乗せたレコードが、ムラビンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団が演奏するチャイコフスキーの交響曲第5番でした。

これは1960年にウイーンに楽旅に出た彼らが、1960年 9月14, 15日にウィーンのムジークフェラインで収録したものですが、さすが毎年ニューイヤーコンサートが行われている名ホールでの録音だけあって、時代を感じさせない鮮明さで定評があったのです。

そして肝心の演奏はといえば、この曲を偏愛して何度も何度も録音を重ねた全盛時代のムラビンスキーとレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団が、燃えに燃えた、空前絶後の怒涛の名演奏を繰り広げている名盤中の名盤なのです。

そんなことは、門君も私もよーく分かっているのですが、驚くべきはその貴重な音源をものの見事に劇的に音化している、この、見た目は貧相な2本のスピーカーです。
低音もブンブン唸っているが、殊に中高音の鳴りっぷりが素晴らしい。ムラビンスキーと当時のソ連ナンバーワンのレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団と名機「KEF104ab」が、完全に三位一体となって、歌いに歌いまくっている。

有名な「運命の動機」が高らかに奏され、ホルンとトランペットが豪快に応答しながら終曲に殺到するコーダでは、文字通り、血沸き肉が踊る思いで、演奏が終ると、私と門君は、思わず「ブラボー!」を何度も叫んで「KEF104ab」選手に向かって盛大な拍手を贈っていました。

それまでのどんな生演奏でも味わったことのない感動、そしてこの直後、新宿厚生年金会館でゲンナジ・ロジェストベンスキー指揮のモスクワ放送交響楽団が聞かせてくれた、チャイコフスキーの交響曲第4番のこけおどしの阿呆莫迦演奏を遥かに凌ぐ真率な感動を、この英国製の「地味にスゴイ!」中古スピーカーは、生まれて初めて私に体験させてくれたのでした。

 

 

空白空白空白空白空白空白空白空白空空白空白空白空白空白空白空白空白空大興奮のまま、来月に続く

 

 

 

夢は第2の人生である 第46回

西暦2016年長月蝶人酔生夢死幾百夜

 
 

佐々木 眞

 
 

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私は司会者から「たかがゴミだが最後にひと泡ふかせるゴミ」という注釈つきで紹介された。見ると壇上にゴミのぬいぐるみが置いてあったので、それを頭からかぶって「主とは一人称単数なり」という短詩を朗読した。9/1

自分で言うのもなんだが、その頃の私は写真家としての絶頂期で、どんな被写体であろうが、レンズを向けるやいなや、前人未到空前絶後の物凄い映像が撮れるのであった。9/2

友人の軽井沢の別荘でくつろいでいたら、突然安倍蚤糞のお気に入りで、AKBを売り出して大儲けしている作詞家がやって来て、挨拶もせずにニタニタ笑うので、けたくそ悪くなって引き揚げた。9/4

宮廷から招かれた昼食会は、なぜだか当世風のバイキング方式だったが、盛装した老人たちは、遥か遠方に三々五々配置された食卓の上の食べ物を、皿に取ることができず、大層困惑していた。9/5

丑三つ時に、猛烈に左の奥歯が痛くなった。これはもう我慢が出来ない。朝になったら岸本歯科に電話して、すぐに治療してもらおうと思ったのだが、朝になると軽快しているので、あの夢は本当だったのか、それとも嘘だったのか、奥歯を触りながら考えているところ。9/6

今から何十年も前、この山奥の駅で、大勢のサーカス団の人々が死んだという。9/7

「その美形を抱きに来たんだろう。早く見番に行って指名しろよ」と廻りの連中はしきりにそそのかすのだが、私は、なぜかその女が怖いので、ためらっている。9/8

社長が「今季のテーマはビッグシルエットだ」と命じているのに、最末端の新入りの彼女だけは、ミニばかりデザインしていたので、とうとう馘首されてしまった。9/11

いくら呼んでも、恋の呼び出しに応えられなかった。9/12

この節は、できるだけ寡黙に徹して、馬脚を現さないように努めるのに精いっぱいだった。9/12

中韓両国との外交折衝を担当する私は、虫歯と難交渉で疲労困憊したので、急遽帰国して横須賀の岸本歯科に立ち寄り、その後小田原の元老に経過を報告しにいった。9/13

昼食の時間になったので一膳飯屋に入ると、1階は超満員なので、2階へ行こうと階段を登ろうとしたが、そこもおしくら饅頭の状態である。ここで妻と待ち合わせをしている私は、はたと困った。9/14

帰宅する途中で、パーティがあることに気付いた。出版社が年2回開催していて、豪華な食いものやお土産がついてくるので、会場のホテルに行こうと思ったが、その近くのコンサートホールで、死んだはずのパバロッティが1曲歌うというので、私の心は揺れた。9/15

「伊勢丹は80年代に戻っています」という広告コピーが出来たので、早速真木準に見せようと思ったが、彼はもう泉下の人となっているので、私は誰に相談していいのか分からなかった。9/16

私は、長州藩の侍だった。いま池田屋に戻れば、新撰組に殺されてしまう。行かなければ、命は助かる。はてさてどうしたものか、といつまでも東大路の道端に佇んでいた。9/16

細長いビルで開催された日本美術展の作品を、階上から順番に見物し終えると、もうどこへも行きたくなかったので、私は1階の展示スペースの真ん中で昼食をとった。9/17

散歩に行くと、日本人と日本人、日本人と外国人、外国人と外国人というさまざまな組み合わせではあったが、みなあられもないすがたで、道端で無我夢中で番っていた。9/18

私が景品として貰った2千万円を贈ると、彼女は「有難うございます。これでようやっとお家を作ることができます」というて、深々とお辞儀をした。9/19

仲間と観光地を歩いているうちに、私だけが遅れてしまったので、追い付こうと懸命に歩いているうちに、道がまくれ上がるようにしてどんどん立ち上がり、急勾配の坂道から壁になってしまったので、私は途方に暮れた。9/19

なんとかいう有名なグルメの達人の甘味チエックが、ぺろりと入った。私はいよいよ食べられてしまうのか。9/20

私は、ブレーメンで何も買わなかったことを悔やんだ。夜な夜な悔んだが、どうしようもなかった。9/20

そのレストランの3階から、勢いよく2階のベランダに滑り降りたのだが、私はまるで仰向けになった海亀のようにもがいていたら、電通の古川選手たちが嘲笑った。9/21

樋口さんちの隣の小路を降りてゆくと、深い谷間になって、そこを森林鉄道が走っていた。あれは確か九州へ行くはずだと思って、さらに谷間をどんどん下って行くのだが、いつまで経っても辿りつかない。9/21

中央公論社の営業の田中君は、私を無理矢理バスに乗せたのだが、生憎超満員だったので身動きできない。こんな状態で到底3時間も我慢できないのでバスから降りると、田中君は「困ります。社長に怒られるのでなんとか乗って下さい」と訴えるのだった。9/22

河の中にWが手招きしているので、見ると、AとBと女がいた。「どうした、早く上がってこいよ」というと、Wは首を振る。私は、Wは女の前ではいつもとがらせているので、そこから身動きできなのだろう、と想像した。9/24

そこで私は、もうWにそれ以上呼びかけるのをやめてしまったが、急激に体力を失ってしまったWは、下流の方へどんどん流されていった。9/24

東京支店では、型どおりのしんねりむっつり型の展示だったが、大阪支店では、私は空飛ぶマネキンに変身させられ、部屋から部屋へとムササビのように飛びまわり、最後は韃靼人のように踊らされた。9/25

ショーのおまけつきの展示会が終って、帰ろうとしたら、高木さんが、手招きするのでついていくと、中島君の部屋が大改造され、2人のモデルが遊んでいた。これでは東京に帰れそうもない。9/25

息子と歯医者へ行ったが、2人とも予約がないので断られてしまったので、泣く泣くお手手をつないで引き返したのだが、いつの間にか息子は行方不明になってしまった。9/26

一度もゴミ出しをしなかった隣の人が、久しぶりに運び出したのだが、その分量たるやあまりにも物凄くて、ゴミ置き場はたちまち見えなくなってしまった。9/28

ホテルで美人コンテストが開催され、A嬢がグランプリに選ばれた。私は個人的にB嬢がすさわしいのではないかと思っていたので、異議を唱えようとしたが、時既に遅く、夕方皆でてんぷらを食べて別れた。9/29

不気味な死神に追われて、女が私に助けを求めてきたので、匿ってやったが、死神が「早く始末してしまえ」となおも迫ってくるので、私も困り果てたが、家に帰ってみると、女は巨大なイカやタコを全身に巻き付けて、息を引き取っていた。9/30

 

 

 

由良川狂詩曲~連載第7回

第3章 ウナギストQの冒険~アサラーム・アライクン!

 

佐々木 眞

 
 

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(そういえば、こいつはあの時のウナギにちょいと似てやしないか?)

ケンちゃんは急いで水盤の中で悲しそうに尻尾を巻いてじっとしているウナギの尾ひれを見つめました。
するとそこには、あきらかに独逸ゾーリンゲンの特製ハサミで突起を3本ゾリッとカットした跡があったのです。
「やっぱりこいつは、ウナギのQちゃんだったんだ。去年の夏、綾部の最後の晩に由良川へ逃がしてやったQちゃんだね? あんときボクは、お前に神聖な命名式を行ったあと、ユダヤ式の割礼をドイツ製のハサミで断行し、そのあとで「アサラーム・アライクン! 平安御身にあれ!」と3度唱えてから、夕闇せまる由良川にお前を解放してやったんだ」
ウナギのQちゃんは、ケンちゃんお得意の挨拶「アサラーム・アライクン」を3回耳にするやいなや、反射的にふたたびみたびウナギのぼりのジャンプを試みました。
そして3回目にちょうど目の高さのところまで大きくジャンプしてきたQちゃんを、ケンちゃんは、しっかりとつかまえました。
「ようよう、元気かよ。ちびのQちゃん。どうして最初から名乗りを上げないんだよお」
すると全身をギュッと握りしめられたウナギは目を白黒させて、「そんなこと、ボクのシッポを見ればわかるじゃないですか。でも、あんときは命を助けてくれてありがとう! 本当に本当に助かりました!」
「お礼なんていいってことよ。それよか、あれから1年近く経ったのに、どうしてまだこんなチビちゃんなの? どうして背ビレも尾ひれもこんなにボロボロになっちゃったの? よっぽど苦労したんだね」
「そのとおりなんです。ボクは本当に苦労してきたんです。一口では言えないほど……」
「そうなのか。それより、この物語の最初の話の続きだけど、君たちを襲ってきた怪物って、いったいどんな奴なの?」
「いままで僕たちが見たことも聞いたこともないくら、超ドーモーなやつらでした。こう、気色の悪いどす黒い色ををしていて、まるで殺人鬼のような冷たい目で、こっちをジロリと睨むんです。そして目が合ったが最後、どこどこまでも僕たちを猛スピードで追いかけてくる。その早いのなんのって、アユさんより2倍から3倍のスピードがあるうえ、こおーんなデッカイ口を、ガバーと開いて、その口の中には、ナイフのように鋭い牙がいっぱい。手当たり次第口当たり次第に、なんでもかんでも、その大きな口で、パクリパクリと噛みついたら最後、いっきにムシャムシャむさぼり喰ってしまう。もう僕たちの仲間が、何千何万と喰い殺されてしまいました。これは魚の口から言うのもなんなんですが、皆殺しのジェノサイドです。このままいけばあのギャングどもにみんなやられてしまいます。魚類浄化です。お願いです。ケンさま! 神さま! 仏さま! どうか由良川の魚たちを助けてください!」

Qちゃんの涙ながらの訴えを聞いて、ケンちゃんの気持ちは、ぐらぐらと揺れ動きました。ケンちゃんは今年小学6年生。来年は中学だといういのに、勉強は全然やりません。学校から帰るとカバンを玄関に投げ出して、そのまま遊びに出かけます。
昨日の午後も、学校の帰りにヒロユキ君とタケちゃんの3人で、学校の近くを流れている滑川に入って、夕闇が迫ってくるのも忘れて、素手で夢中でウナギ摑みをしていました。
ところがてっきりウナギだと思ってむんずとつかんだマムシが、ヒロユキ君の右腕にガブリと噛みついたからたまりません。ベルトで止血したり、救急車を呼んだりの大事件を起こしてしまったので、3人とも家族から大目玉をくらい、当分は3人組での活動は絶対禁止、まかりならぬと言い渡されてしまったのです。
いらいお父さん、お母さんからのダブルチェックも入るし、来週からは試験も始まるし、生物クラブの部活も忙しくなる。「僕ウナギの仲間を助けるために綾部へ行って来るよ」などと口走ろうものなら、すぐにも戸塚ヨットスクールか風の子学園に入れられるかもしれません。とても由良川どころではないのです。
首をガックリとうなだれ、小さなエラをひくひく動かして、微かに空気呼吸をしているウナギのQちゃんを見ているうちに、ケンちゃんは、ふとあることに思い当りました。
(Qちゃんは、いったいどうやって鎌倉の僕の家のまでやってくることができたのだろう? )
そこでケンちゃんは、Qちゃんに尋ねました。
「Qちゃん、Qちゃん、お前はどうやって僕のお家までやってきたの?」
するとQちゃんは答えました。
「ケンちゃん、理科の授業で習わなかったの? 僕たちウナギストは世界中どこでも旅行できるってことを」
「君たちが太平洋の遥か彼方、マリアナ海溝の奥深くで産卵してから稚魚となり、次第に成長しながら2000キロも海流に乗って日本にやってくるという話は、理科のクロサカ先生から聞いたけど」
「その通り。でも、それだけじゃありませんよ。僕たちは、海でも川でも自由自在、世界中どこへでも旅行できるんだよ。すべての道がローマに通じているように、僕たちウナギストにとって、すべての水が綾部に通じているのさ」
「うそだあ、そんなわけのわからない話って、はじめて聞いたよ。でもQちゃん、丹波の由良川って、日本海に注いでいるよね。そこからどうやって太平洋までやってこれたの?」
「そんなのオチャノコサイサイさ。まずせんげつ吉日、綾部の由良川で、ほらケンちゃんが去年僕を逃がしてくれた井堰のところで、お父さんとウナギストたちの仲間が、僕の壮行会をやってくれたわけ。それでね、その日のうちに由良川の大きな波に乗って、スメタナの「モルダウ」をBGMにしながら、君美の里をほぼ直角に左折して、下流の大きな街、福知山からは進路を北東にとって、♪長田野こえて、駒を速めて亀山へ、あ、どっこいせ、あ、どっこいせ、どっこい、どっこい、どっこいせ、ちょこちょいに、ちょいのおちょいのちょい、大江山ゆく野の道はとおけれど、まだふみもみず天の橋立、を遥か北北西に遠望しながら、酒呑童子のすむという大江山の麓を、お腹をお天道さまに照らされながら、粛々と通り過ぎ、山椒大夫の屋敷があった丹後由良の浜までは、鼻歌をうたいながら「朝寝して時々起きて昼寝して宵ネするまで居眠りをする」ってな具合で、風のまにまに波まかせ、のんびり、ゆっくり流されて来たっていうわけ」

 

空白空白空白空白空つづく

 

 

 

夢は第2の人生である 第45回

西暦2016年葉月蝶人酔生夢死幾百夜

 

佐々木 眞

 
 

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政権党の横暴を向こうに回して、かよわい女一匹がプッチーニのオペラ「西部の娘」のミニーのように立向かう、という構図に興奮した多くの選挙民たちは、誰かが「こいつはゴリゴリの右翼でファシストだよ」と囁いても、誰一人聞き入れようとはしなかった。8/1

ナス1キロを販売するには1週間分のナス料理のレシピを無償で提供しなければ駄目なんだということを、私はコストコで学んだ。8/1

僕はじつに巧みに全身鉄で出来た敵兵を撃ち殺していたのだが、その決定的瞬間をテレビが中継してくれないので頭に来ていた。8/2

この駅はいつも電車が混雑する上に、乗客が振り回されてよく死人が出るので、十分に注意しなければならない。8/3

わしはバンダル王を2度まで破り、国境線の向こう側に放逐したのだが、彼奴はそのたびに王座に戻ってまたしてもわしの王国に挑んできたので、3度目には首を斬ろうと決意していたにもかかわらずそれをしなかったので、それがわしの命取りになったのじゃ。8/5

短いホットパンツをはいた女がしゃがんでいるので妙に気になった私は、思わず腰を浮かして立ちあがったが、それ以上何もしなかった。後で彼女はこの港町一番の美女だと聞いた私は、もっと積極的にアプローチすればよかったと後悔した。8/6

どんな詩でも、無料でそれなりの詩集にしてくれるというサービスをある出版社が始めたところ、注文が殺到したのはいいけれど、残念なことに、すぐに倒産してしまった。8/7

ばせをの如き俳諧師が我が辞世の句をたちどころに消してみせるというので、「やってみろ」というたら、「枯れ枝にカラスのとまりけり」という句のカラスに水をかけて消してしまった。8/7

去年このホテルで知り合った長尾さんと佐藤さんが、今年も同じ女性を同伴していることに気付いた。長尾さんは女優の卵、佐藤さんは和服が似合う粋筋の美女だったが、2人は私の傍に居る北欧の長身のモデルに気づいて驚愕したようだった。8/8

懇意にしているフランス料理屋の主人が、どうも客の入りがおもわしくない、という。料理などの改善点について尋ねられたが、このせつはフレンチよりイタリアンだから仕方ない、とは言いかねた。8/10

真夜中に蚊に刺されて目を覚ますと、突然アメリカ人の若い女性兵士が寝室に入って来て蚊を叩き殺し、刺された私の手足にキンカンを塗ってから、ウインクして窓の外へと去っていった。8/11

カタログ撮影で南のA島に行くことになり、慌ただしく準備していたら、ナベショーがしゃしゃり出てきて、「B島のほうがいい」というので、かつて両方の島に遠征したことのある私が、その理由を滔々と述べたら、尻尾を巻いて消えてしまった。8/12

環境問題活動家のAさんが、乱暴者に襲われたというので、僕等は急いで病院に駆けつけた。その場に居合わせた電通の岩橋さんの話では、Aさんは釘を打った棒で全身を乱打された、という。8/13

結婚式に招待されたのだが、こびとにはこびと用の椅子と料理が供されたので、さすが塚田家と舌を巻かされた。8/14

私が預かっている女性のうちの、3名までは、すでに傷ついていた。8/15

四条梅小路から自転車で夜道を走っていると、大学の建物が見えた。この学校の一般教養学科の単位がまだいくつか残っているので、まだ卒業できない。早く下宿へ帰って勉強しよう。8/15

「立ち論」という題名らしからぬタイトルでなにか書いとくれ。あんたなら立て板に水だろう、と友達からそそのかされたんで、とりあえず台所に立ってみたが、なんの考えも思い浮かばないので、あっさり投げ出してしまった。8/16

そいつは、ともかく全身がいわば抜き身をひっ下げたように、ぬううとそそり立っていて、余りにも不気味だったから、みなに懼れられたが、そのようにそそりたつことが、真剣白刃取りのように過剰な負担になっていたらしく、若くしてあっさり死んでしまった。8/16

全盛時代のイケダノブオはんは、ポップでシュールなスーパーカジュアルな洋服を発明しては、お店に並べて人気を博してはったけど、いつのまにかブームが廃れて、日本全国何百とあった売り場は、大阪ミナミのすがれた百貨店だけになってしもうた。8/18

しかも今ではその店でも、洋服はもう販売されていない。しかし店長が、「かまへん、かまへん、スーパーカジュアルなウエアの代わりに、スーパーカジュアルなフードを売ったらええがな。ここは食品売り場のとなりやさかい、誰にも分からへんよ」と好意的なので、鍋焼きうどんを売らせてもらっている。8/18

私は、どうしても給料だけでは食べていけなかったので、往年の大女優吉野花子の付き人を志願して、アルバイトに励んだ。彼女は最初は迷惑そうだったが、だんだん協力してくれるようになったので、私の晩年は、それほど悲惨にならずに済んだ。8/19

講談社の新男性誌が創刊され、編集長の原田氏から原稿を依頼されたので、しばらくしてから送稿したところ、「すんまへん、ダブルブッキングで他のライターに書かせてしまいましたあ」というメールが来たので、頭に来て、彼の上司の常務に文句を言うたら、速攻原田選手は解任されちまった。8/20

有名デザイナーのアシスタントをしているヒラヤマ嬢は、毎日赤いポストの貯金箱に硬貨を入れていたが、それがなんと2800円になったと喜んでいる。「何に使うの?」と尋ねたら、「男に誘われていざと云う時」と、頬を赤らめて答えた。8/22

別館でうち合わせしていると、銀ラメのロングドレスを着たワタナベナオミが、「巴里のスギハラさんから電話です」という。出ると「ササキさん、平凡パンチの20ページをサービスしますがどうですか」と、いつものようにまくしたてるので、思わず笑ってしまった。8/24

私は編集者なのだが、いくら思案してもいい企画がてんで出ない。それでも苦心惨憺して野坂昭如の自伝を提案したら、「きみい、あの人はもう故人だよ。そんなことも知らないのか」と罵倒された。その故人に書かせるというのが、私の企画だったのだが。8/26

没企画ばかり出していた編集者の私は、とうとう会社を首になり、まもなく死んで棺桶の中に入ったのだが、なんとそこには、生前ついに出せなかった私の詩集が置かれていた。8/27

惑星間移動ロケット競技で、金賞を貰ったのはうれしかったが、歳月人を待たず、その時すでに私は、100歳になんなんとしていた。8/28

夏の終わりにマラソンをしている時、どういう訳か蚊が襲ってくるので、道端でキンチョーの蚊取り線香をじゃんじゃん燃やしていたら、放火犯と間違えられて、警察に逮捕されちまった。8/29

私らは特攻に出る前に、京都名産の千枚漬けを全身にふりかけ、ねばねばした液体や昆布を擦りこんだ。こうしておけば敵機に撃墜されない、と上官がいうのである。8/30

夏のジャンボ宝籤の抽選で、なんと塩飽寿司なる貴重品が当たった。おそるおそる口にしたが、今まで食べた物の中で最高の味だった。8/31

 

 

以下に「夢百夜」の未掲載分を追加します。

夢は第2の人生である 第28回

西暦2015年弥生蝶人酔生夢死幾百夜

 

時代はますます閉塞し、すべての人民は投獄された。われわれは牢に入れられたまま労働し、生活することになったのだが、権力者たちの圧政と暴力によって完膚なきまでに打ちのめされ、もはや抵抗する気力すら喪っていたために、奴隷のようにいいなりになっていた。3/1

銀座通りのど真ん中で、黄金いろのウンチが湯気を立てていた。3/2

「こんな格差社会だから、最底辺に生きる人を対象にした、親兄弟4人でせんべい布団1枚に寝るような木賃宿を開きなさい」と、隣の玉ちゃんがせっかく勧めてくれたというのに、断ってしまった。地底人の俺たちには、そんな道しか残されていなかったのに。3/3

ロスに旅行した時、3分で万物が合体する奇跡を伝授された私は、そのテーブルにいた5名をたちまちアマルガムのように接着してしまったので、おおいに怨まれた。3/4

僕が駅への階段を降りていたのに、彼奴は「車で送ってやる」と云うてきかない。

最近発見された「佐々木眞侯維新好色日記」は面白い。数多くの同名の別人物をめぐる凸凹譚もくわしく載せられているからだ。3/5

「君は私たちの子ではない。アフリカの奴隷商人がマラケシ島で売っていた父なし児なんだ」と告げると、息子は「そんなはずはありません。私はお父さんとお母さんの子供です」と言いながら、ラアラアと泣くのだった。3/6

「これを新しい会社のロゴマークにすればいいじゃないか」と云いながら、私はどこかのデザイナーが作った奇妙な図像を示すと、広報の前田さんは小首を傾げた。3/6

久しぶりに北鎌倉まで散歩に行って疲れたので、横須賀線で帰ろうとしたのだが、何台待っても来る電車が中国や韓国やモンゴルの人たちで超満員なので、仕方なくあきらめて、また歩いて家まで戻った。3/7

無名の国の無名の村で開催される「なんちゃらフェス」に招待された私は、「なんちゃら航空」機で現地に到着したのだが、小学生のころ郷里の「なんちゃら病院」で手術した左肩が激しく痛んでしまい、とうとう1曲も演奏できずに引き返した。3/8

あたいは大丈夫だよ、もう中国語の芝居のセリフは全部頭に入ってる。でも心配なのは、いま連日公演している日本語の芝居のセリフに、その中国語のセリフが紛れ込まないかということなの。3/8

ヨーカ堂で販売していたワンポイントウエアの商標が使えなくなったので、「ワンポイントウエアからキーポイントウエアへ」という企画書をでっちあげ、鍵のマークのワンポイントウエアを提案したら、意外なことにすんなり受け入れられた。3/8

憲法改定の国民投票の会場に行くと、「改定にイエス」と書かれた自動販売機のような投票機械と、「ノー」と書かれた機械の2種類が並んでいたが、裏に回ってよく観察すると、電線がつながっているのは「イエス」の方だけだった。3/9

「彼女なら銀座の山本ネクタイで働いているはずだよ」という友人の情報を頼りに、その店を訪ねてみると、店長が「先月末に辞めてロスへ行ったよ」と教えてくれた。3/10

広瀬さんチの土地を、地元のヤクザがぶんどろうとしていたので、おいらはそれを止めさせようとしたのだが、だんだんヤクザに対抗するのがしんどくなってきたので、とうとう逃げ出したが、その結果、健さんに対する尊敬の念が一気に高まった。3/11

私が熟睡していると、すぐそばで物凄いイビキが聞こえたので、たちまち目が覚めてあたりを見回したが、誰もいない。イビキの主は、おそらく私だったのだろう。3/11

反乱軍に捕らわれ、鋭い刃に全身を串刺しにされて死んだメソポタミアの王は、彼に逆らった3つの蛮族を呪いながら死んだが、3人の蛮族の長も、王と同じやり方で虐殺された。3/12

私は長い間この街に来たことがなかったが、ふとこの街の大学をまだ卒業していなかったことに気付いた。急いで教務へ行くと、「3つの教科のレポートと卒論を提出すれば、証書を授与する」というので、しばらく当地に滞在して、長年の懸案を果たすことにした。3/12

いよいよレポートすべき国文学講座が始まる日、キャンパスの入り口で「こっち、こっち」と私に手招きする人がいるので、近寄ってよく見ると、今中さんだった。3/13

どうして彼がこんな所にいるのか分からなかったが、今中さんは、「早く、早く。急がないと授業が始まってしまうぞ」と、私の手を取るようにして、坂の隣を上昇しているエスカレーターに乗り移った。

ところが、そのエスカレーターが鈍速なので、焦った2人が3段跳びの駆け足で飛躍してると、到達まぢかなエスカレーターがちょんぎれて、私たちは、まるでだらりの帯のようになった階段の先端に、両手でぶら下がって、ひとの助けを呼ばなければならなかった。

ようやくキャンパスの構内に辿りついたが、今中さんは「今日の授業は最後に漢字の書き取りテストがあるから、どうしてもその参考書が必要だ。僕が一っ走り書店に行って買ってくるから、君はここで待ってて呉れ給え」と云う。

それきり今中さんは、いつまで経っても戻ってこないので、しびれを切らして焦りまくった私は、傍を通りかかった学生に教室の場所を聞くなり、全速力で走りだした。教室に着くと、大勢の人が立錐の余地なく詰めかけて、授業どころの騒ぎではない。

私の目の前には、仏文5年生の怒りのチビ太や、イヤミや、蝶の好きな多田さん、グラン佐々木、それに六つ子なども勢ぞろいしていて、徒党を組んで階段教室を下りながら、全員が黒づくめの犬になってしまって、「なんだ坂、こんな坂」と大声で歌いながら踊り狂うている。

ワン ワン ワン
Wang Wang Wang
ワワン ワワン ワンワンワン

おめえは、なにを舐めてんだ
あんたのお尻を、舐めてんだ
くすぐったいから、やめてけれ

なんだ坂、こんな坂
ワンワン、キャンキャン ワンワンワン
おいらは犬だ あたいは犬だ

秋田犬、津軽犬、岩手犬
阿波犬、越後柴、樺太犬
なんだ犬、こんな犬

紀州犬、高安犬、薩摩犬
四国犬、屋久島犬、縄文犬
お前は、単なる犬に過ぎない

森林狼犬、仙台犬、大東犬
秩父犬、珍島犬、土佐闘犬
そうさ、おいらはただの犬

羽衣之柴、肥後狼犬、豊山犬
前田犬、北海道犬、豆柴犬
犬は犬でも、国産犬

雪甲斐犬、琉球犬、鷹版犬
三河犬、甲斐犬重慶犬、日向犬
そうさ、あたいはMade in Japan

なんだ坂、こんな坂
ワンワン、キャンキャン ワンワンワン
おいらは犬だ あたいは犬だ

すると別の学生の一隊が、「これからは国産ドッグファイトからグローバル・キャット・ファイトの時代じゃあ!」と叫んで、ドラえもんやのび太と一緒に真っ白な衣裳に身を包んで「猫じゃ猫じゃ」と歌いながら、講堂の舞台の上で踊りはじめた。

ミャオ ミャオ ミャオ
Myaw Myaw Myaw
ニャ、ニャ、ニャン ニャン

おめえはなにを舐めてんだ
あんたのお尻を舐めてんだ
くすぐったいからやめてけれ

なんだ坂、こんな坂
ニャー ニャー ニャニャン、ミャー ミャー、ミャー
おいらは猫だ あたいは猫だ

ぶち猫、三毛猫、どらの猫
白猫、黒猫、ヒマラヤン
なんだ猫、こんな猫

さび猫、とらねこ、バーミーズ
赤とら、サバとら、純白猫
お前は、単なる猫に過ぎない

赤猫、灰色猫、斑猫
アビシニアン、オリエンタル、バナナブラウン、
そうさ、おいらはただの猫

ペルシャ、ベンガル、ターキシュ
メインクーン、ロシアンブルー、チェシャ猫
猫は猫でも国際品

キジトラ、トビ三毛、縞三毛
マンクス、ボンベイ、コンラート
そうさ、あたいはMade in the World

なんだ坂、こんな坂
ニャー ニャー ニャニャン、ミャー ミャー、ミャー
おいらは猫だ あたいは猫だ

あまりにも革命的な3次元デザイン短歌が次々に生まれてゆくので、私を拉致した入れ墨の大好きなパオパオ族の酋長も驚きあきれて、部族メンバーの全員一致で釈放されることになった。3/13

会社が経営危機に立ち至ったので、経営者が大幅なリストラを行うと宣言した。全員に残留テストを実施して点数の低い若い社員から順番に馘首するというのだが、私はもうなにもかもが厭になって、自分から退職してしまった。3/14

もはや万事休すだ。最後の戦いに敗れたら潔く死んでいくしかない、と深く心に刻んでいたはずなのに、いざ実際に敗れてしまうと、腹など切らず、草葉の陰に身を隠してでも、おめおめと生き延びていきたい、という思いが募るのだった。3/15

隣の家のおばさんが、また近所をうろついている。彼女は歩きながら、お得意のお仏蘭西語を、般若心経のように高唱するので、すぐに所在が知れるのだ。3/16

こないだ青木君がレッド・ツェッペリンのコンサートの切符を呉れたのだが、今日またやって来て「あの切符を返してくれ」と云うので、涙を呑んで返した。3/16

顔だけは相変わらず猪八戒そっくりの安倍蚤糞だったが、その醜い能面の下に、いつの間にやら別の怪人が入り込んでいるのだった。3/16

講談社のKさんは、鯛のおすましが出てくると「私はね、来月号はカブトムシの形をしたCDを読者にプレゼントしたいんだ。これくらいの大きさのね」と云いながら、吸い物の中に指を突っ込んだので、茫然としていると、上司のSさんが「いい加減にしろ」と怒鳴った。3/17

長年にわたって、生真面目な教員生活を続けていた私だったが、ある日魅力的な人妻に一目ぼれをしてしまい、それからどんどん深入りをしていったのだが、このままではお互いに不幸なことになる、と思っていったん別れたのだが、しばらくすると、またズルズルべったりになってしまった。3/18

我われは行軍する際に、上の歯でチチチと舌打ちしたら前進、下の歯で同じようにしたら後退する、という取り決めをしたのだが、その違いがうまく伝わらなかったので、その作戦は失敗に終わった。3/19

ようやく築地までやって来たので、寿司屋でランチをつまんでいると、隣のおやじが「バブルの頃は、ここでシャンパンを8本も空けたんだけどなあ」と焼酎を飲みながらぼやくのを聞いているうちに、嫌気がさして新宿に行くのをやめた。3/19

いくら有名になったり、大金持ちになったり、権力の絶頂に立ったとしても、無理して体を壊して病に冒されてしまえば、そんなものは屁のツッパリにすらならない。そろそろあんたの生き方を変えたらどうだね、と私はナベショウに説いた。3/20

アフリカの新興国とはいえ、複数の国の大使を兼任するのは難しい。それでも私は、しょっちゅう問題を起こしている隣接する2国を、毎日のように行ったり来たりして、ヘトヘトになっていた。3/20

「さあいよいよ戦争だ、これで思う存分人殺しができるぞ」と、二人の若者が期待に胸を膨らませながら、陛下恩賜の三八銃をピカピカに磨いていたのだが、突然、地面が大きく揺れて亀裂が生じ、二人は、そのまま地底深く呑みこまれてしまった。3/21

俄か成金になった私は、友人から「東京湾の埋め立て地を買わないか」といわれたので、早速現地へ行ってみると、見渡す限り泥水が続く敷地が広がっていた。そのうち便意を催したが、最寄りのバラックまで数キロあると聞かされたので悶絶してしまった。3/22

なんたら芸大の人気教授の客寄せ講演「人類の深くて狭い穴について考える」が始まった。サクラで駆り出されていた私は、「ヨオ、大統領!」と叫んで、陰ながら応援していたのだが、案の定開講5分で女子大生の大半が退席して、閑古鳥が何匹も鳴いていた。3/23

最高級の牛肉をグルメする会に出たら、シェフが「ここは肩肉、これは腹肉」などと解説しているはしから、肉全体が次々に復元され、とうとう一頭の巨大な闘牛が誕生した。3/24

社長が「新ブランドの売り出しに最適の媒体計画を大至急作ってくれ」というので、あれこれ考えているのだが、どの媒体を使えばいいのかてんで分からないので、電通の社員が持っている媒体手帳がどこかに落ちていないか、と自転車に乗って探しに出かけた。3/25

突然壇上に押し上げられた私は、なにを言っていいのかてんで分からず、かろうじて「吾輩のこんにちあるは、ひとえに大恩ある○○先生のおかげでありましてえ」と、なんちゃら社交辞典にあるような言葉を口にしたが、その後が続かず、絶句してしまった。3/26

聖戦十字軍を代表する戦士として、アラブ随一の女戦士と決闘を挑んだ私は、無残にもあっと言う間に武器を奪われて敗北し、屈辱と不名誉のどん底に沈んだのみならず、彼女の奴隷にされてしまった。3/27

夕方、外で涼んでいると、誰かが庭から勝手に俺の家の中に入ってくるので、「なんだなんだ、おめえは誰だ」と誰何すると、「私はあなたと同姓同名なので、ここへやってきました」という。3/28

そいつはプロの殺し屋で、何度も俺に肉薄して来たが、あと一歩と言うところで難を逃れてきた。しかし今日はまずい。いかにもまずい。ポケットに手を突っ込んだが、いつものピストルはなく、一羽の鳩しか出てこなかった。3/29

ずっと若いころエイズに罹ったが、体に良いという井戸水を張った水槽に毎朝全身を浸していると、不思議なことに快癒してしまった。その後私はNYで新進アーティストとして成功し、金も名誉も手に入れたので、「もう思い残すことはない。いつ死んでもいい」と思って、水槽を壊してしまった。3/29

新興住宅街にあるギャラリーを出て、夜の盛り場を彷徨っていると、ベネチアのカーニヴァルで見た顔を白く塗った女たちが、長い列を作って私を待ち構えていたので、その真ん中を通って、屋敷の入口に通じる階段を登ってゆくと、真っ暗な部屋があった。「おおい、誰かいないか?」と尋ねたが、返事はない。誰もいなかった。3/29

私が奥菜恵似の女と仲良くしているのを知った吉高由里子似の女が、「デートしよ」といって私を植物園に誘ったので、2人で植物園に行ったあとで動物園に行ったら、猿どもが白昼公然と性交しまくっていたので「こんな不愉快な所はやめて、もっと愉快な場所へ行こう」と2人でラブホへ行った。3/30

本社から越中島の営業部に異動になったが、営業なんかやったことがなく、名刺すら持っていないので、得意先へ行っても、上司や同僚の背後に隠れてしまう私を見て、みんな呆れ果てていた。

そんなある日、東映から健さんがやって来て、なんとか組の親分役としてわが社の営業を手伝ってくれるというので、興奮した私は1本の包丁を買って来て、晒しに巻いてスーツの中に忍ばせていた。

ある日、みんなで雁首揃えて地方へ出張に行ったら、先を歩いていた健さんが、誰かと喧嘩になったので、すっ飛んで行って、そいつのでかっ腹を正宗の包丁でブスリとやったら、上司が「よくやった。これで邪魔者は消えたから、この地区の売り上げは倍増だ」と大喜びした。3/30

上等兵の一再ならぬ執拗な苛めに耐えながら、「所詮は、これがおいらの人世だったんだ」と思いつつ、黙って歩き続けていると、いつの間にか元居た地点に戻っていた。3/31

前回のロケット到着の際にはおよそ数キロの誤差があったが、今回は私が特製のグローブでキャッチしたので、どんピシャリだった。3/31

 

 

夢は第2の人生である 第29回

西暦2015年卯月蝶人酔生夢死幾百夜

 

前線で戦う兵士たちは全員ワイヤレススピーカーを装着していたので、強力な敵軍に遭遇して奮闘苦戦する現場の状況が、ここ司令塔でも手に取るように分かったが、彼らはけっして「天皇陛下万歳」とか「お母さん!」とか無駄な言葉は口にせず、次々に無言で玉砕していった。4/1

カーマイケル氏は、日本軍占領下の南洋諸島で諜報活動に従事していたそうだが、それがいかに危険で困難を極めた命懸けの業務であったかについて、我が軍に捕えられてからも縷々語り続けるのであった。4/2

久しぶりに展覧会に行ったら、畳10帖敷きくらいの大きさの絵が会場狭しとぶら下がっていたが、不思議なことに私らは、その絵を貫いて歩くことができた。聞けば画用紙に描かれた原画を、最新の4D技術を用いてプロジェクターで投影しているという。4/3

奇妙な人形が現れでたので、そいつをクリックすると「4年間だうもありがたう」と言いながら、深々とお辞儀をして消え去った。4/4

夕方になったが、まだ試合は続いた。12回裏2死満塁。すっかり日が落ち、暗くなった球場で私が放ったライナーは、左翼手のグラブを掠めてなおも空高く舞いあがり、やがて見えなくなった。4/5

W氏にぱったり出くわした。この人は、日本一の広告会社に勤務していたとき、クライアントの営業を担当していたが、なにか不祥事を起こして首になり、傘下の小さな会社に飛ばされたはずだが、ちょっと挨拶しただけで、逃げるように去って行った。4/6

当社のキャンペーン「ライフ・イズ・ビューチフル」が、世界各国のみならず国連の年間共同キャンペンとして採用された、という速報を知った私は、早速社長に報告しようと社内を探し回ったのだが、「1か月前から行方不明になっている」と専務が言うので、唖然としてしまった。4/7

すでに私を含めて2人のカンフーが雇われていたが、ステージ全体がおよそ30mもあり、演者1人が3.5mを動くとすれば、少なくともあと6人の少林寺拳法の名手が必要だった。4/8

私たちは平君の案内で、泉佐野の辺りをのんびり歩いていたのだが、突然、平君が「われ何処に行かん!」と叫んで、大阪支店に向かっていっさんに走り去ってしまったので、クマゼミたちが大声で鳴き喚いた。

それから路に迷ってしまった私たちは、ようやく大阪平野を見渡す峠への獣道を発見して小躍りしたのだが、麓へ下ってゆく路のいたるところに、夥しい黄金いろの雲古がてんこ盛りになっているので、それらを踏まずに歩くのはとても難しかった。4/9

やがて私たちは小汚い大学に辿りついたが、その大学に勤務していたさる外国人非常勤講師は、「おいらはそんな就活指導なんか絶対にやんないぞ。そんなギャラなんかもらってないもんね」と、不平たらたらでキャンパスをのし歩いていた。4/9

異常な金融緩和政策ゆえに、銀行ではどんどん金を貸してくれるのだが、ベンチャービジネスに対しては、例外なく渋い顔をするので、IT企業の若手経営者たちは、美貌で知られているネット銀行の女性CEOに多額の貢物をして、数千万円の融資を受けていた。4/10

彼らは情報交換と称して、その美人CEOが経営し、支配人も兼任している銀座の超高級クラブに、夜な夜な出入りをしていた。その毎月の飲食費ときたら、借金の利子の数十倍に上っていたのだが、そんなことなど忘れたように、毎晩セッセセッセと通いつめていたのだった。4/10

私は水の中の映画館で、2本の映画をみた。1本は馬を殺す映画で、もう1本はありきたりのボーイ・ミーツ・ガール物だったが、スクリーンと座席の間に色とりどりのたくさんの魚が泳いでいるので、くわしい内容は最後まで分からなかった。4/11

松下表具屋の店先を覗き込むと、橋本画伯と表具師の間にいる青白い幽霊のような男が、2人の両肩に手を置いているのが見えたが、この謎の人物は、後ろにぶら下がっている橋本画伯の日本画の中から抜け出してきた若侍だった。4/11

火星社書店でエロ本の立ち読みをしていると、口の中がザワザワする。鏡の前で口を開いてよく調べてみると、大臼歯の詰め物が取れた痕から、1本の鮮やかな緑色の若葉が伸びていたので、私は口を大きく開けたまま暮らそうと決めた。4/11

どんどん記憶が失われてゆく。よほど困ったときには、庭に備え付けてある碾臼に頭を擦りつけながら、ごんごん碾いていると、いつの間にか忘れ去られていたわが親しき思い出が、ハラハラと踊り出てくるのであった。4/12

なぜか村の祭りの余興の審査委員長に指名された私が、12組の演目の中から、かねて思いを寄せていた娘のひな踊りを最優秀賞に選ぶと、村人の大多数が異議を唱え、あまつさえ投石を始めたので、身の危険を感じた私は、娘の手を引いて海辺に走った。

渚にもやってあった小舟に飛び乗って海を漕ぎ出すと、村人たちも2艘の船で後を追ってくる。懸命に櫂を操ったが、さして遠くに行かないうちに追いつかれ、私たちは奇怪なお面を被った村人たちの櫂で散々打たれ、血まみれになって海に投げ出されてしまった。4/12

この野球チームには、1軍と2軍の間に「かみつき屋」と称される連中がいて、試合中も練習中もたえず真剣勝負を挑んでくるので、我われ1軍の選手も、一瞬たりとも息が抜けなかった。4/13

その港には、巨大な張りぼての女たちが三々五々憩うていた。その顔を良く見ると、目や鼻や眉毛はなく、その代わりにカスリーンとかジェーンとかキティとか女性の名前が両目の辺りに大書してあった。ここはなんと台風の基地だったのだ。4/14

彼女と遠距離恋愛をしていたのだが、交通費が莫迦にならないので、超廉価の携帯を買うて来て、なんちゃらかんちゃら話していたら、「これから上京するので、そのまま繋ぎっぱなしにしておいてね」と彼女が言うてきた。4/15

その収容所では1日2回食事が給されたが、弱った病人や老人は、それさえ食べきれず、みんなが食堂から引き上げたあとも、毎回1人や2人は食卓にうつ伏せになったままの者がいた。彼らは、私たち料理人の手で迅速に処理された。4/16

俺が捕虜をわざと逃がしてやったことを、相棒はひどく気にしていたが、俺は「その責任は全部おいらが取るから、お前は心配するな」と何度も言い聞かせた。俺はすでに覚悟を決めていたのだ。4/17

あれから3年、今夜は故郷の町の温泉祭りだ。ムショから出たばかりの俺は、裾までからげた両脚を温水が流れる小川に浸しながら、3年前に俺をチクッて監獄に送った密告野郎がやってくるのを、今か今かと待ち構えていた。4/17

同窓会というものに初めて出かけてみたが、私が誰かも分からないようだし、出席者の名前を聞いても誰ひとり見分けることができないので、焦っているうちに彼らの顔がとろけ出して、まっしろけののっぺらぼうになってゆく。4/19

早朝、長身の若い娘がわが家のポストに何かを入れて立ち去ったので、2階から降りて調べてみると、写植の紙焼きでした。その日の午後、私が筋違橋の辺を歩いていると、その娘が桜映社という看板の写植屋で働いている姿が見えました。4/20

軽く助走してから、ホップ、ステップ、ジャンプの三段跳びをやってみた。すると私の体は、まるでツバメのように軽々と宙に浮き、しばらくは着地しなかったので焦ったが、いったいいつの間にこんな軽業を身につけたのか、と我ながら訝しく思った。4/21

脳の具合が悪くなって入院していた私は、治療のために良いとされるフルメタルジャケットを着せられたたまま、主治医の診察を受けるために、深夜の病院の廊下に並んでいたのだが、その長い長い列は、いつまで経っても縮まらないのだった。4/21

その病院では、だんだん水不足が深刻になってきたが、神明社の階段の下を歩いてきた者だけが、水道のコックを捻ると1杯の水が出ることが分かったので、この参道も、朝から真夜中まで押すな押すなの大行列だった。4/21

けれども、容態が悪化して身動きできなくなってしまった私が、山口君と茂原さんに頼んでコップ2杯の水を枕元に持ってきてもらった直後に、誰が神明社詣でをしても、もはや水道からは一滴の水も出なくなってしまった。4/21

今回の試験は、1平方キロもある広大な原っぱで行われることになった。原っぱのあちらこちらに置いてある回答箱の中に、氏名と番号を書いた問題用紙を入れるのだが、問題の数はあまりに多く、原っぱはあまりにも広大なので、私たちはたちまち汗まみれになってしまった。4/21

7万円のプレーヤーと10万円のアンプで、ジャズやクラシックのLPをかけて、会社の全部のフロアに大音量で流していると、いろいろ文句をいう奴が出て来たので、叩きのめしてやりました。ざまあみろ。4/22

栗の木の林に入ると、大きなカブトムシがちょうど目の高さに止まっていたので、私はこれを耕くんに取らせようか、健ちゃんに取らせようか、それとも卓ちゃんに取らせようか、あるいは亮ちゃんに取らせようか、または陽子ちゃんに取らせようか、ひろくんに取らせようかと、迷いに迷った。4/22

そこへ辿りつくためには、どうしてもこの急な坂を登りつめなければならないのだが、坂道のいたるところに、悪臭を放つ糞尿やら、泥や、雑多な塵が堆く積み重なっているので、私は蝸牛の歩幅ほども前進できない。4/23

「バブルの時に、僕のような者にもちょっとしたお金が入ったので、渋谷の坂の下の地下を走っている道を1本買って、「渋谷日不見」と名付けたんだけど、こないだ渋谷の地下街で迷子になったときに、そのことを思い出したんだ」

「んで、渋谷も大規模再開発で繁盛しているようだから、この道をシブヤヒミズと改名して、僕の専門の音楽CDや、楽譜や、ふぁっちょんや雑貨や飲食などを精選した地下名品街をつくったらいいんじゃないかと思うんだけど、どうかしら?」と、坂本教授が聴きとり難い声で呟いた。4/24

四方八方から打ちだされるひょろひょろミサイルを、毛むくじゃらの両の腕を水車のように振り回しながら、ひとつのこらず叩き落としてやった。なにを隠そう、私はキングコングだ。4/24

どんな気に入らんことがあったのか知らんけーのお、女衆が家の司に刃向かって、全員で首を吊って死んでしまおうとしたらしかが、いざとなると、蛮勇の振るいどころがのうなってしもうたとみえて、けっく泣く泣く元の鞘に戻ったげな。4/26

誰かがすぐ傍で生々しい呼吸をしているので、ハッと飛び起きたら音が消えた。それはどうやら私の呼吸音だったようだ。4/27

夕方そろそろ雨戸を閉めようかと思っていたら、応接間のガラス戸が開かれていて、白い顔がこちらを覗いていたので驚いた。しばらくすると、その顔の持ち主は姿を消したが、どうやら長男と同じ障がいを持つ娘らしい。4/27

教授から中世の宗教曲「ハルレ・ミサ」曲の歌詞を朗読せよ、と命じられた私は、急いで自分のテキストや楽譜を調べたが、どこにもないので、隣の女子学生から借りた教科書を見ながら、らあらあラテン語を呟きはじめたら、教授が「もういい」と制止したけれど、大声で叫び続けた。4/27

この公団での私の仕事は、はっきりいってほとんどなかったので、私は朝9時に出勤すると直ちに自宅にとんぼ返りして、朝寝してから再び出勤し、公団の食堂でランチを食ってから、公園のベンチでたっぷり昼寝して、かっきり午後5時に帰路につくのであった。4/28

てんでお金がないものだから、私は第一詩集「赤と黒のサンバ」を自分のパソコンで編集・印刷して、道行く人に配ろうとしたが、通りすがりの一人のインディアン、もとい、赤黒い顔をした先住民だけが、恭しく一礼をして受け取ってくれた。4/29

巨大な体躯を誇るそのビッグピープルの内部には、無数の賢いリトルピープルが住んでいて、阿呆な大家が莫迦げたことを仕出かさないように、日夜監視しているのだった。4/29

しょんべんをしたくなったので、ある大学に忍び込んだら、古くて狭くて暗い教育学部であった。トイレが見つからなかったので1階に降りると、若々しい女子大生が嬌声をあげて戯れていたので、「もはや自分の青春は終わったのだ」と言い聞かせていると、「お前は胆汁質だな」という野太い声が聴こえた。4/30