あっちのあれ

 

長尾高弘

 

 

なにやってんだろう?
絵を描いてんのかな?
画板なんか立てちゃってるぞ。
その割には何描いてんだかわからないなあ。
遠くを見ているふりをしてるけど、
あれは抽象画ってもんじゃないか?
こんにちは。
何をなさってるんですか?
見ればわかるだろう。
何を描いてらっしゃるんですか?
見ればわかるだろう。
あ、いやどこですか?
あっちのあれだよ。
は?
あっちのあれ。
確かに描かれているものと同じようなものがある。
あっちのあれとしか言いようのないものが。
こんなに広い景色を前にして
たったそれだけというくらい小さいものだ。
もっと近くで描けばいいじゃないか、
と思ったけど、口にはしなかった。
でも、あっちのあれにそんな赤いものありましたっけ?
これはな、そっちを歩いている人の生命の炎だ。
そっちって、
あっちのあれとはずいぶん離れてるじゃないか。
それに生命の炎だなんてねえ、
よく恥ずかしげもなく言えたもんだ。
では、そこの緑は?
こっちの木の葉っぱだよ。
青いのは?
海に決まってんだろう。
肌色もありますが。
あの家のなかの裸の人だ。
かなり盛りだくさんらしい。
でも肌色の部分は裸の人には見えなかった。

 

 

 

夏の終わりに

 

長尾高弘

 

 

曇っていていつになく涼しいけど、
神社の杜に入ると蝉がうるさく鳴いている。
蝉が鳴き始めてもう二か月くらいになるだろうか。
最初の頃に鳴いていた蝉はもういないんだろうな。

蝉を探すのは面白い。
鳴き声が聞こえても、
たいていは見つからない。
どっちで鳴いているかは大体わかる。
でも大体しかわからないので、
探してもたいていは見つからない。
何本も木があると、
どの木にいるのかがわからない。
そういうときは、
じっとしていないで少し動いてみる。
聞こえる向きが変わるので、
この木で鳴いているのであって、
その木で鳴いているわけではない、
ということがわかる。
それでも見つかるときと
見つからないときがある。
見つかるとうれしい。
もやもやしていたものが
すっと晴れるような気がする。
カメラを向けて写真を撮る。
鳴いていたら動画まで撮る。
撮ろうとすると逃げるやつもいる。
ずっと遠くにいても気配を感じるのだろうか。

でも、
そんなことも二か月もやっていたら飽きる。
あっちからもこっちからも鳴き声が聞こえるけど、
かまわずに歩いていく。
暗い裏参道を抜けると、
ちょっと明るくなって、
ちょっと広いところに
本殿が建っている。
その本殿の前に来たときに、
ぎゃっというような声を上げて、
何かが飛んできて顔をかすめた。
びっくりしたけど、
すぐに蝉だとわかった。
アブラゼミだ。
蝉というやつは、
あんなに立派な羽を持っているのに、
どうして不細工な飛び方しかできないんだろう。
本殿にぶつかりそうになって
慌てて曲がり、
すぐに地面に落ちた。
落ちた蝉を見ると、
片方の羽がひしゃげていた。
今やっちゃったのか、
もうこんな状態だったので、
あんなにバタバタしていたのか。
たぶんもうじき死ぬのだろう。
最初はちゃんとしている方の羽を
バタバタ動かしていたけど、
だんだん動かなくなっていく。

表参道に入るとまた薄暗い。
少し歩いて行くと、
今度はミンミンゼミが飛んできて、
足下に落ちた。
よく見ると、
この参道のあちこちに
蝉の死骸が落ちている。
小さな蟻がたかっているのもある。
考えてみれば、
蝉の季節も終わりに近づいているのだから、
死骸がたくさんあっても、
不思議ではないのだ。
蝉、蝉、と気安く呼んでいるけど、
よく見ればとても精巧にできている。
2つの目があって4枚の羽があって6本の足がある。
胴体はしっかり作ってあって、
胸から腹にかけての曲線が美しい。
羽はステンドグラスのように小さな部分を集めてある。
簡単に作れるようなものではないのに、
一週間もすると死んでしまうという。
蝉を作ったのが神様ってやつだとすると、
ずいぶんもったいないことをするものだ。
せっかく与えた生命なんだから、
もうちょっと長持ちさせてやればいいのに。
そんな考えは余計なお世話ってものだけど。

死んだ蝉はすぐわかる。
確かめてみたりしなくても、
直観でそうだとわかる。
理屈をこねる前にわかる。
なんでだろう。
昨日は蝉の死骸の上で二匹の蜂がホバリングしているところを見た。
スズメバチの一種なのかな。
やばいと思って近寄らずに急いで通り過ぎた。
あれは食べるってことなんだろうね。
さっきたかっていた蟻もそうだし。

参道を通り過ぎると、
頭上を覆っていた木々もなくなり、
空が広い。
参道を振り返ってカメラを構えると、
ひじの裏側に蚊が止まっているのに気付いた。
反対側の手で叩いたら、
潰れて落ちたので死んだのだろう。
でも蚊が止まっているのが見えたらもう手遅れで、
きっとしばらくすると痒くてたまらなくなるに違いない。
自分で触ったひじの裏側は、
ぷよぷよとして柔らかかった。
これは若いときの張りがなくなったってことなんだろうな。
死んだらこれが硬くなる。

 

 

 

人人戯画

 

長尾高弘

 

 

鳥獣戯画展を見に東博へ。
門のところに看板を持っている人。
数字がふたつ見える。
四〇? 一五〇?
なぜふたつある?
四〇の方は平成館に入るまでの時間らしい。
げ。
一五〇はなんだ?
いやあな予感がするぞ。
よくわからないままに四〇の行列に並ぶ。
ちょっと太ったお兄さんが説明をしている。
なかに入ってからも行列がある?
それが一五〇ってこと?
行列する前に見所があるからそっちへ行け?
ははあん、
なかの行列が長くなりすぎないように誘導してるな。
行列していない方を見ているうちにきっと行列が長くなるぞ。
入ったらすぐ行列だ。
というわけで、
入ってエスカレーターを上ると、
反対側の
いつもはお土産売場になっているところが
行列スペースになっている。
最後尾の看板を持った人を目ざす。
一五〇分と書いてある。
ただでもらえるパンフレットに
クロスワードパズルが載っているのはそのためか。
そこでパズルをやって時間をつぶす。
こんな言葉聞いたことがない、
というものがいくつも出てくる。
これであっているのかね?
しばらくやっていると飽きてくる。
最後尾の看板を見ると、一六〇分になっている。
並んだときと比べて明らかに行列のしっぽが延びている。
やった、作戦成功。
クロスワードパズルに戻る。
縦は聞いたことがない単語だけど、
横は間違いないからこれでいいはずだ。
そうこうするうちに展示室に入ろうとしている。
最後尾の看板は一七〇分。
しめしめ、二〇分も得したぞ。
それはいいんだけど、
どう考えても一五〇分待ったような気はしない。
どういうことなんだろう?
という疑問の答えはすぐにわかった。
展示室のなかでもまだ行列していたのだ。
この行列が何の行列かということも、
だんだん理解してきた。
来る前から、
この展覧会で展示されるのが鳥獣戯画だけじゃないってことは、
まあ知っていた。
鳥獣戯画だけじゃ、
ちょっと入場料が高いぞ、
ってことになるだろう。
だから、館内で行列をしてまで見るのが鳥獣戯画で、
行列しなくても見られるのがその他ってことなんだろう。
とまあ漠然と思っていた。
でも、行列の案内の人がちょっとよくわからないことを言っていた。
「はい、こちらは鳥獣戯画、コーカンのみです」
このコーカンてのは何なんだろう?
クロスワードといっしょにもらってきた出品目録のパンフを見ると、
鳥獣戯画ってのは甲乙丙丁の四巻になっているらしい。
コーカンてのは甲の巻ってことで、
みんなが知っているウサギとカエルの相撲なんかの絵は、
全部甲巻に載っているようだ。
へー、そうだったのか、知らなかったなあ。
それくらいの理解で展示室のなかに入った。
さっきも言ったようにまだ行列だ。
いくつか分かれているうちの
中央右側の部屋に入っていく。
暗いのでもうクロスワードはできない。
と言うか、もうやる気がしない。
行列はディズニーランドのような行列で、
こっちの壁からあっちの壁に行くと、
そこで折り返して、
あっちの壁からこっちの壁に戻ってくる。
これを何度も繰り返す。
退屈しないように、
壁に説明が書いてあったり、
これから見る絵の複製が壁紙になっていたり、
ディスプレイがあってそこで込み入った説明をしてくれたり
するようになっている。
展示が途中で入れ替わることは来る前から知っていたけど、
具体的に今何が見られて何が見られないかは
この壁の説明でわかるようになっている。
甲乙丙丁の特徴もわかった。
甲はさっきも言ったようにみんなのお楽しみ。
乙にはキリンビールのラベルのような麒麟の絵がある。
丙や丁には人間が描かれている部分がある。
ええっ、それじゃあ鳥獣戯画じゃないじゃん。
それとも人間も獣のうちってこと?
でも、昔はそんな考え方しなかっただろう。
それに、例のウサギとカエルとサルの甲巻でも、
鳥なんてほとんどいないじゃん。
本当は獣獣戯画だよ。
でも、カエルは虫へんだから獣じゃないか。
虫獣戯画だな。
などと考えているだけではとても行列は終わらないのだけど、
しばらくすると部屋の出口が見えてきた。
ここを出て隣の部屋に行ったら、
いよいよ鳥獣戯画甲巻だ。
でも、もう一五〇分も待ったっけ?
まだそんなにたたないような気がするけど。
案の定まだ一五〇分もたっておらず、
部屋を出た行列は
隣の甲巻の部屋の壁に沿って続いている。
ああ、あっちの端まで行って、
戻ってこなければならないのか。
壁の反対側には展示物が並んでいて、
見物も並んでいる。
ガラガラというわけではないけど、
こちらよりは明らかに人口密度が低くて息がしやすそうだ。
おや、丁巻と書いてあるぞ。
本物の展示は人の陰になって見えないけど、
本物の上に見どころの拡大写真があって、
そっちはよく見える。
丁巻は甲巻とはずいぶんタッチが違うなあ。
そうこうするうちに壁の端までやってきた。
行列は戻ってこず、左に曲がる。
今の壁よりもずっと長い壁のあっちの端まで行って
戻ってくるようだ。
壁の反対側には、丁に続いて丙、乙の展示が続いている。
なるほど、いっぺんにがっかりしてやる気をなくさないように、
ちょっとずつポキン、ポキンと
気持ちを折るようにできてるんだ。
現に向こうまで行ってこっちに戻ってきている行列を見てみなよ。
みーんな俯いて死刑台に引っ立てられていく囚人みたいだぜ。
スマホを見て下向いているだけって人も多いけどさ。
などと考えているだけではとても行列は終わらないのだけど、
しばらくすると長い壁の往復も短い壁の往復も終わって、
甲巻が展示されている部屋にやっと入れた。
もう一五〇分待ったよな。
しかし、ここに最後のポキンが仕込まれていた。
甲巻の長さだけ往復してこないと
甲巻を見る列の後ろにつけないのだ。
待たされるのにはもう慣らされたので、
そんなのはへでもなかったけどね。
それに、この行列の復路では、
見ている人の後ろから絵巻自体を覗き込むことができた。
何しろ最後は横一列になって、
「後ろの方たちのためにも立ち止まらない観覧にご協力願います」
などと係の人に急かされて落ち着かなく見るんだけど、
それでもぴたっと止まるおばさんはかならずいるわけで、
特に後半では見物と見物の間に隙間が空きがちだったのだ。
だいたい、いつもなら一番前で見るために行列なんか作らず、
後ろからひょいと首を突っ込んだり、
隙間が空いていたらぐいぐいと入り込んだりして見物するわけだから、
最後の行列復路篇では、
絵の順番としては逆だけど、
いつものやり方で結構のぞき込んじゃった。
前半部分は混んでいたから見えなかったけどね。
で、いよいよ見物スタートのときがやってきた。
二十五メートルプール片道分くらい。
でも、忘れちゃいけないのが半分ずつ展示のこと。
今日は後半しか展示されていない。
展示の前半は、
ここにない前半部分の等寸大写真。
なんとここが一番混んでいたわけだ。
そして急かされちゃうので、
あまり落ち着いて見られないうちに、
後半はささっと目の前を通り過ぎていく。
鳥獣戯画甲巻との対面は二分、十メートルほどでおしまい。
どうせ図録を買って帰るからまあいいや。
だいたいマンガ見るのに原画を見なきゃなんて思うかよ。
ダイジェストでしか見たことのないものを
全体で見たかっただけなんだ。
ところが絵巻じゃなくて人ばっかり見ちゃって、
これじゃまったくニンニン戯画だぜ。
先に甲巻の大行列に並んじゃったから、
ほかの部分を見る気はだいぶ失せてたんだけど、
せっかく来たのだからと気持ちを奮い立たせて
ひと通り見てみた。
例によって前で見るために並んでいる人たちには付き合わず、
後ろからひょいひょいと覗き込んでいった。
まあそれで満足できるよ。
じっくり見たからって何かわかるわけでもないしさ。
三〇分くらいで全部まわれた。
甲巻の何倍分のものを見たのかな。
乙丙丁で甲の三倍で、ほかにも色々あったから
八倍とか十倍とか?
そういえば、
フェルメールの「真珠の耳飾の少女」が来たときには、
行列して前で見る人と
後ろから覗き込むので満足する人とで
二股に分かれるように誘導されたんだよな。
ここじゃなくて向かいの東京都美術館だったけど。
今度もああいうようにしてくれればよかったのに。
終わったときの館内行列は一五〇分。
あれ、元に戻っちゃったよ。
おまけに館外の行列はなくなってた。
がんばって午前中に行ったのに、
午後の方がましだったのかなあ。
いやいや、開館前から並ぶのが正解だよ。
来る前にはわかっていなかったことがわかったけどね、
もう来ないからこの知識は役に立たない。
ちなみに、おみやげコーナーのレジの行列もとんでもなかったので、
別枠だった図録以外は何も買わずに帰ってきちゃった。
独立採算制の独立行政法人とやらになって、
予算が絞り込まれちゃっているのに、
こんな客ばかりじゃ困るんじゃないかなあ。
余計な心配までしちゃったよ。

 

 

 

言文一致

 

長尾高弘

 

 

言文一致体だとか口語体だとか言うけどさ、
誰かを相手に話してるときに、
「だ」とか「である」で言い切ったりする?
たとえば、「今日は何曜日だっけ?」と訊いてさ、
「水曜日だ」って答えられたらびっくりするよね。
「水曜日である」だったらぶっとんじゃうよ。
「水曜日だよ」とか「水曜日じゃない?」とか
ただ「水曜」とか、そんなもんでしょ。
「だ」で止められちゃうのはキツイよ。
壁にぶつかってぽーんと跳ね返されるような感じがしちゃう。
「そんなこと聞くんじゃねえよ、バカヤロウ」かなんかが
ついてきてるような感じまでするよ。
普通ならさ、
相手の様子を見て、
機嫌を損ねないようにしゃべるものじゃん。
「水曜日だよ」ってさ、「よ」を付けてくれるだけで、
ちょっとほっとするんだよなあ。
逆に「水曜日だ」って、「よ」がないだけなのに
えらく横柄な感じがするよ。
「だ」でもそうなんだからさ、
「である」なんて絶対使わないでしょ。
「である」を口で言うってことで
ちょっとイメージできるのは演説かなあ。
でも、演説で「である」なんて使ってたのって、
自由民権運動とかそういう時代だよね。
今は政治家がしゃべるときでも、
「ですます」を使うと思うよ。
あの傲慢な総理大臣でもさ、
国会でマイクの前で話すときには、
「ございます」まで使ってるもんね。
そのくせ座っているところから、
「早く質問しろよ」とか汚い野次を飛ばしたりもするけどさ。
「である」はないよ。
「吾輩は独裁者である」なあんてね。
ありえない。
「である」については柳父章さんがこう書いてるよ。
《「である」という言い方は、
《実は、beingなど西欧語の翻訳の結果として、
《いわばつくられた日本語なのである。*
翻訳の結果だってさ。
つくられた日本語なのであるだって。
最初っから文章語ってことじゃんねえ。
柳父さんの文章も、
文章だから「である」てんこ盛りだよ。
そこへ行くと、「です」とか「ます」は
言い切ることがあるんだよね。
「今日は何曜日だっけ?」
「水曜日です」
こんなふうに「です」を付けて答えるってことは
対等な関係じゃないからだよね。
距離があるから言い切りの断定がびゅんっと飛んできても
手前でぽとんと落ちちゃうのかな?
でも、「ある」とか「ない」とかは対等な相手に言うんだよなあ。
「なかなかうまいことを書けたぞって思ったときに限って
あんまりリツイしてもらえないもんなんだよねえ」
「あるある!」
「ねえねえ、右から二番目の子とかどう?」
「ないない!」
ふたつ続けてでも言っちゃうよ。
「ある」なんて「である」と一字ちがいなんだけどねえ。
どこが違うんだろう?
話がばらけてきちゃったけどさ、
文章に出てくるのに、
しゃべってるときに使わねえなあってのを
あとひとつ、
逆説の接続助詞の「が」ってやつね。
「昨日は晴れだったが、今日は雨だねえ」
とは言わないでしょ、普通。
「昨日は晴れだったけれども、今日は雨だねえ」
とも言わないと思うんだよね。
「けれども」ってちょっと長ったらしいからさ、
そんなくどくど言ってらんねえよって感じだよ。
やっぱ、普通は
「昨日は晴れだったけど、今日は雨だねえ」
ってなところだよね。
別に最後は「だねえ」じゃなくていいんだけど。
でも文章で「けど」とか書いたら、
きっと呆れられるよね。
女子高生のLINEじゃないんだからって。
おっさんだってLINEじゃあ「けど」って使ってると思うけどなあ。
TwitterやFacebookでもね。
話がすっかりばらけちゃったけどさ、
言文一致体なんて言ったって、
文章の言葉は口でしゃべる言葉からは
ずいぶんずれてるってところは
最低限間違いないと思うんだよね。
前はあまり意識もしなかったんだけどさ、
最近ようやくね、
そういうことって大事だなって
考えるようになったのよ。
って言うのもさ、
詩ってのはやっぱり声を必要とすると思うんだよね。
ってことは普通の言文一致体の散文ってやつよりも
ちょっと本物の口語に近づけてみたらどうかな
ってなことも思うわけ。
でもやり過ぎると、
ちょっとうぜえよって感じになっちゃうけどさ。
そう言えば、
ちっちゃい頃、
口でしゃべったそのまんまを書くやつは
バカみたいに見えるからやめろって、
教えこまれたような気がするよ。
それで大人に褒めてもらえるように
一所懸命文章の書き方を覚えこんで、
気がついたら、
口語と文章語の区別もつかないくらいに
なっちゃったんだねえ。
変なの。

 

 

*『翻訳語成立事情』岩波新書、1982年、114ページ。

 

 

 

そういうこともある

 

長尾高弘

 

 

道端のドクダミにカメラを向けていたら、
反対側から声をかけられた。

《うわっ、怒られちゃうのかな。
勝手に撮らないでって》

でも、そういうことではなくて、

「珍しいの? 珍しいの?」

こっちもいい加減おじさんだけど、
こちらが子どもだったときに
すでにおばさんだったようなおばさんだ。

「ええ、八重のドクダミは珍しいですよね。
いつも探しているんですけど、
このあたりでは、ここでしか見ないんですよ」

「そうでしょう、珍しいのよ。
一本だけもらってきて植えたんだけどね、
なんだか増えちゃって。
でも珍しいから切らないでいるのよ」

「本当に珍しいですよね。
このあたりでもドクダミはいっぱい咲いてますけど、
一重のやつばっかりで、
八重はここでしか見ないんですよ」

「そうでしょう、珍しいのよ。
一本だけもらってきて植えたんだけどね、
なんだか増えちゃって。
でも珍しいから切らないでいるのよ」

同じことをきっかり二度ずつ言ったところで、

「どうもありがとうございました」

その場を離れた。
初めて会って、
ほかに話すことなんかないもんな。

《そうか、勝手に生えてきたわけじゃないんだ。
だからよそでは見つからないのかな?》

などと考えた。

おばさんも晩ごはんのときにきっとおじさんに言うだろう。

「あんたはいつもそんなもん刈っちまえって言ってるけど、
今日は珍しいですね、っつって、
写真まで撮ってった人がいるのよ」

来年も八重のドクダミを楽しめるはずだ。

 

 

 

どっち

 

長尾高弘

 

 

目を閉じて
口を開けて
おやすみなさい

外から見えるけど
中から見えない現実
中から見えるけど
外から見えない夢

叩き壊してしまえ
とささやく悪魔*
壊したあとは
どうなるの?

目を開けて
口を閉じて
おはようさん

夜と朝
どっちが先に来るの?

 

 

*一九二七年のドイツ映画『メトロポリス』では、悪魔は(映画のなかで)実在する人間そっくりに作られたロボットだった。

 

 

 

道具がやってきて

 

 

長尾高弘

 

 

同時に注文したんだけど、
断裁機だけはちょっと遅れた。
それでもスキャナーは使ってみたい。
まあ、それが人情だよね。
そこで切らずに読み取れるもの、
ということで、年賀状を読み取ってみた。
裏表を同時に読み取ってくれるし、
紙が重なって入っていくということはまずない。
一枚ずつ次々に吸い込んでいって、
それがまともな画像になっている。
とにかくすごいスピード。
フラットスキャナーで一枚ずつ取り込んでいたのが
馬鹿みたいに思える。
買うまでは知らなかったけど、
スキャナーは画像ファイルではなく、
PDFという形式の電子ブックを直接作ってくれる。
大量の画像ファイルを作って、
それを電子ブックにまとめるわけではないのだ。
(そうすることもできるけど、する理由がない)
だから電子ブックは思ったよりも簡単に作れることがわかった。
しかも、できあがった電子ブックでは、
年賀状の裏と表を同時に見られる。
間違っても紙のままではできないことだ。
なかなかいいじゃないか。

*

年賀状は三年分読み取った。
読み取っていないものはまだ何年分もある。
でも、やっぱり本をやってみたい。
断裁機が来ていないので大々的にはできないけど、
ゴムマットとカッター、スケールはある。
ちょうどいいんじゃないかと思うものはあった。
『フライデー』の増刊、「福島第一原発「放射能の恐怖」全記録」というやつ。
本棚に立っていられないので、
今は積み上がっている本の山の下の方に埋もれている。
ときどきは見てみたいと思うけど、
紙のままだとちょっと不便な感じがする。
それに、カッターで切れる程度に薄いし、
綴じ目まで写真が広がっているので、
断裁機ではちょっと切れない。
断裁機だとかならず捨てる部分が出るので、
写真がずたずたになってしまう。
そういうわけで本の山の下の方から
「福島第一原発「放射能の恐怖」全記録」
を引っ張り出して、
雑誌を綴じている留め金を外した。
ゴムマットの上に紙の束を置き、
スケールを当てて、
折れ目のところをカッターで何度も切った。
思ったよりも早く二つに分かれた。
バラバラになったので、
たとえば手に持っているときに落としたら大変だ。
前後がわからなくなってしまう。
ページにノンブルが付いていて本当によかった。
紙の束を揃えてスキャナーにセットする。
年賀状よりもくたっとしていて、
波打ってもいる紙だが、
スキャナーは一枚ずつ吸い込んでいった。

*

できあがったPDFは、でも何か少し変だった。
元の紙の雑誌と比べて、何かが足りない感じがする。
写真ページを見て、理由がわかった。
もともとの雑誌では、一枚の写真が見開き二ページになっていたのだ。
一枚の写真を半分ずつしか見られないのなら、
電子本なんてダメだろう。
で、ちょっとネットで調べてみたら見開き二ページで表示できることがわかった。
個別の電子ブックごとに設定することもできるし、
電子ブックリーダー全体ですべての電子ブックを対象として設定することもできる。
で、やってみると確かに見開き二ページで表示された。
左に偶数ページ、右に奇数ページが並んでいる。
写真は見開きの左端から右端に続いている。
うーむ。
電子ブックを作るAdobe Acrobatはアメリカ製だから、
横書きの本に合わせて左綴じのつもりで見開きを作っている。
しかし、縦書きの本は右綴じでなければならない。
で、またちょっとネットで調べて右綴じにする方法を見つけた。
「文書のプロパティ」の「詳細設定」の「読み上げオプション」というところで
「綴じ方」を「左」から「右」にすればいい。
でも「読み上げオプション」なんて言われてもねえ。
自力ではわからなかったわけだ。
これで見開きページが正しく並ぶようになった。
目が覚めるようだ。
見開きの写真には迫力がある。
と言っても写っているのは、3・11のあとの津波に破壊された福島の海岸線だから、
きれいに見えるようになったとはしゃいでいては、被災した人たちに申し訳ないな、
と思った。

*

以前から、PDFはスクロールすべきものではないとは思っていた。
翻訳の仕事では、画面左半分に原書PDFを開いて、
右半分で訳文を書いてきたのだ。
それ以前は紙の原書を見ながら画面に訳文を打ち込んでいたけど、
本は簡単にバタンと閉じるし、視線を大きく動かさなければならない。
かならずしも満足してはいなかった。
試しに編集部が本といっしょに渡してくれたPDFを使ってみたら、
PDFの一ページには紙の本の一ページと同じだけの情報が載っているし、
紙の本を使っていたときの不都合はないし、
意外と便利だなと思った。
そのうち、紙はなくていいのでPDFをくださいとまで言うようになった。
最初はPDFもスクロールしていたけど、
PDFのページには余白があり、
ページとページの間には二つ分の余白が入るわけだから、
ページをまたぐ部分はあまり読みやすいものではない。
それで、いつも一ページ全体が表示されるモードを使うようになった。
矢印キーを押すと、スクロールせずに次のページ、前のページがぱっぱと表示さ
れる。
ページがふらふら動かないところがいい。
しかも、このモードはツールバーのアイコンをぽちっとするだけで設定できる。
見開き表示にはそういうボタンはないのだ。
もっとも、
私が翻訳するような本では見開き表示の図面などというものはなかったので、
一ページ全体が表示されれば満足できていた。
見開き表示のことなど知りもしなかった。
しかし、大きな写真で見開き表示の効果を知ってしまうと、
文字だけのページでも見開きにするとなんとなく安心する。
それは、紙の本と同じだけの情報が目に入るからなのかもしれない。
本を読んでいる大部分のとき、
注視しているのは一文字かその前後の数文字だけなのかもしれないけど、
少し前に戻って話を確かめたり、
次の見出しの位置を覗いてみたりすることもときどきはある。
そういったことがスムースにできないと、
読みづらいと感じてしまうのだろう。
要するに紙の本と比較して足りない部分があれば、
電子ブックなんていらないということになるのだ。

*

断裁機はそれから一週間ほどしてやっと到着した。
Amazonの紹介ページに十八キロあると書かれていただけのことはあって、
宅配の人に渡されたらやたらと重い。
ごめんなさい、重いの運ばせちゃって。
重いだけでなく、ばかばかしく大きい。
窓際の本棚の横になんとかスペースを見つけて設置した。
最初に切る本は、ヘシオドスの『神統記』の文庫本と決めてあった。
特に深い理由があるわけではない。
単に間違えて買って二冊持っているから、失敗してもやり直せるというだけ。
この機械は、刃の先が台に留められていてそこが支点となり、
刃の反対側についている持ち手を下げると、
てこの原理で小さな力でも紙の束がすっぱり切れる、
という仕組み。
だから、本の綴じ目から数ミリのところに刃が当たるようにして、
ページの端っこの印刷されていない部分を切り取るわけだ。
しかし、一冊目はちょっと失敗してしまった。
四角いものの右端を切り取る形になっていて、
本を左と上から押さえ込んで動かないようにして切るのだけど、
上からの押さえ込みが緩かったらしい。
ちょっとずれてしまった。
しかし、使えないページができるほどずれたわけではなかったので、
そのままスキャナーに送り込んだ。
五分もたたないうちに全部読み取って、
電子本らしきものができあがった。
実際、この断裁機は優れもので、
本の固定さえしっかりやれば、
一瞬のうちに本がただの紙の束になる。
気持ちよくて癖になる。
これをやらないと一日がなにか物足りない。
大げさなようだけど、
生活がそんなリズムになってしまった。

 

 

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2014年12月14日

 

長尾高弘

 

 

行ってきました投票へ。
投票場は小学校、改築中の体育館。
曲がった道をうねうねと
矢印通りに歩いていって、
これじゃ途中で帰る人も
いるんじゃないかと思ったけど、
投票所のちゃんとした看板を通りすぎて、
体育館の建物に入ったら、
投票待ちの行列ができていて驚いたよ。
こんな風景初めてだ。
投票率が上がればマシな結果になるんじゃないか、
浅はかにもちょっと期待しちゃったよ。
後ろに並んだおばさんが、
「あらこんなの初めて」と
口に出して言ったので、
「本当にそうですねえ」と
声をかけてみた。
こっちも十分おじさんだけど、
おばさんはもっと上。
地元の人らしい。
見た目でなんとなくわかるけど、
昔からここにいるんだよということを
話の端々に混ぜ込んでくるので間違いない。
「こんなに早く来たのは初めてなんで、
それだから混んでいるのかなと思ったんですけど」
「いやいや、あたしゃいつもこの時間だけど、
こんなの初めてよ。
入口で手間取っているのかしらねえ」
しかし、見えてきた出口からなかを覗くと、
記入台は全部人で埋まっている。
「いや、なかもあれだけ人がいるんだから、
入口の問題じゃないでしょう」
「そうよねえ、選挙の人たちだって
ちゃんと訓練しているんだもんね。
何も知らない人を集めてやっているわけじゃないもんね」
「そうですよね、大切なことですもんね」
そのうち、行列の前に並んでいたおじさんも入ってきた。
この人もこちらよりかなり年上、
見かけも話の内容も地元の人らしい。
「俺もこんなに混んでるのは初めて見た」
「どうしたんでしょうねえ」
「選挙の人たちだってちゃんと訓練しているのにねえ」
ここでようやく入口に到着。
おじさんがなかを見て言った。
「ああ、受付が一人しかいないんだよ。
昔は町会ごとに受付がいたからな」
いや、受付がどんどん人を流したら記入台の後ろに行列ができちゃうでしょ。
それじゃあ投票の秘密って観点から問題があるんじゃない?
そう思ったけど口には出さず、
それぞれ受け付けてもらって投票用紙をもらい、
ばらけて記入台に行った。
小選挙区は△△、
比例区は○○、
国民審査は×××、
持参したボールペンできっちり書いた。
おじさん、おばさんたちは、
たぶん比例も小選挙区も××って書いたんだろうなあ。
××はもう農業を守る気なんてありませんよ。
大企業が儲かって政治献金してくれればそれで御の字。
我々一般庶民は食い物にする対象でしかないんですから。
おまけにここで大勝させたら憲法改正ですよ。
徴兵制が復活して、お孫さんたちが戦争に送られるかもしれないんですよ。
そう思っても、口には出せない。
言ったら選挙違反になっちゃうんだっけ?
ならなくても言わないだろうな。
それにしても、地元の人だったら農協で選挙の話もしてたんじゃないのか?
農協はもうTPPについては諦めたのか?
そもそも××は農協を解体しようとしていたんじゃなかったっけ?
あれこれ考えてもわからない。
おじさん、おばさんが××と書いたかどうかもわからない。
投票が終わったら振り返らずにどんどん出てきた。
おじさん、おばさんももうどこにもいない。
と思ったらおじさんは選挙の道案内の人をつかまえて、
受付が少ないから増やした方がいいと言っていた。
だから、あそこで増やしたら記入台に行列ができちゃうでしょ。
思っただけで言わなかった。
日本海側は大雪だと聞いていたけど、関東は晴れ。
メジロが柿をつついていた。
寒いけど陽は明るかった。
まるで何ごとも起きていないかのようだった。

 

 

 

暴君のうた

 

長尾高弘

 

 

哀れな罪人よ、
お前はなにゆえに首を斬られたのだ?

愛されるがゆえに。
我が君は愛するものから順に
断頭台に送っておられます。
函のなかに入れて、
いつでも見られるようにするために。

なんとわがままな!
で、お前は首を切られてから
お前の暴君に何度見られたのだ?

一度だけ。
それも最初の数ページをパラパラと見られただけです。
我が君は次から次へと首を斬ることに夢中で、
斬ったあとの私たちを見る時間は残ってないのです。

許せん!
お前たちに代わって、
このわたしが成敗してくれよう!

許してやってください。
今までだって、
私たちを見ることなどまずなかったのです。
それでも見たいという気持ちを表に出してくださったのです。
私たちにはそれだけで十分です。

で、お前たちはこれからどうなるのだ?

身体の方は再生に回されました。
きっと鼻紙として、
みなさまと再会を果たすことができるでしょう。
魂の方は函といっしょに朽ち果てると思います