はり、まぼろしの

(「いと、はじまりの」補遺)

 

薦田愛

 
 

つつっと落ちた色水が
浴室の隅をほの暗く染める
春の終わり
編むよりも織るよりも
縫うことの好きな女の子すなわち母が
ミシンに向かうらしかった
向かうのだと買ってきた布を
水とおししたのだろう干してあった
換気扇の音がむやみにおおきい

型紙を起こしたのを知っている
けれども
縫い始めたのを知らない
何を縫うのかも
いいえ
知っていた
きいた

丈の長いスカートが
探しても探してもなかなかないのよ
たまにあっても
フレアがおおすぎるのや柄物ばかりと常づね
かこつ母のクロゼットに並ぶのは
くるぶし丈の黒もしくはグレーないしチャコールグレー
昔はちがったベージュや焦げ茶ワイン色なんかもあったのに

シルバーパスで都バスを東日暮里三丁目で降りて
日暮里繊維街の店から店
きっと早足で
チャコールグレーの無地、みつかったんだ
これならって思えるのがあったんだね
縫えるのだから、好みにあわせて
仕立てればいいんだもの
コートにスーツ
ウェディングドレスまで仕立ててきた洋裁師にとっては
スカートなんて
お茶の子さいさい
などとまで簡単ではないにしても
傘寿の今は

みえづらくなってね、とくに黒いもの
裾をまつるにも針先ですくった布のうえの針目がみえない

(みえないというので目をこらすうち気づく
おもむろに
「縫う」という字は
「糸が逢う」のだと
空白――糸が布に
空白――糸がボタンに
空白――糸が鋏に
空白――糸が糸に
空白――糸がひとに
空白――糸がミシンに
そして
空白――糸が針に
空白――針に)

それでね
言わなくちゃと思ってたんだけど
ミシンの糸は二本、でも
針は一本。一本よ。
――え?

読んでくれたんだね「いと、はじまりの」
ミシンが出てくる新しい詩。
書きあげるたび紙で渡したり携帯に送ったりしているから
何でも言ってくれるのはありがたい
とはいえ、ちょっと緊張する

ほかのことはまぁ、いいとして
うんうん
糸は上と下、二本あるけど、
針は一本。
いっぽん?
そう
にほん、じゃなくて?
うん。
そうか、そうなのか――
ミシンは賢くて、
一本の針は二本の糸を連れてくるのよ
えっと、上の糸は針の穴に通すけど、
下の糸はどうなってるんだっけ?
それがねえ、どんなしくみになっているのかわからない
でもとにかく
針は一本だからね
一本の針で二本の糸を使って縫うのよね
詩のなかでは
ミシンの糸って二本、針も二本、ってあったから
わかる人なら、あれおかしいって思うでしょう
もしかしたら、これは変わったミシンで
ふつうなら一本の針、二本の糸のところ
二本の針がついているのかしらって
ふしぎに思うでしょうね
そうなの――ということは
それぞれ針に糸を通したふたりが
出逢って一緒に布を縫ってゆくのではなく
ひとりが糸をとおした一本の針で
もう一本の糸をたぐり寄せ
縫いあげてゆくのね
とするなら
母と出逢ってふたり物語を仕立てあげてゆく父は
何を手にして、どこに立てばいいのか

糸いっぽんを通した針が
さしつらぬく布と
布に隠れた穴の下ふかく設えられたうつろ
もういっぽんの糸を迎えにsawing machineの針は
いちぶの迷いもなく穴の奥ふかくへまっすぐ押し下げられてゆく
母の手で

ぽかんとしたまま話を畳んで出かける
ぽかんと晴れたそら
ひもときはじめた物語の続きをみうしない私は
今日踏み出す足を決めかねている

 

 

 

ふたつの世界を股にかけて母は

 

薦田 愛

 
 

ある朝、ウサギの目をして母は

結膜下出血だよそれは、と白目の充血を指さし
ともかくも眼科へ行っておいたほうがいいから、と
付き添うわけでもないのにきっぱり言い放つ私だ
八十になる母にしてみたら
いくら気丈に日常茶飯を切り回している現役主婦とはいえ
もうちょっと親身になってくれないものかと
恨めしいかもしれないけれど
そこはそれ、長女じゃなくて長男みたいと言われるほどの
父の亡きあと三十数年を何とか乗り切った子としては
会社員の顔を楯に残りの算段すべては母にゆだねてきたのだから
いまさら優しい顔もしづらいのである

白内障の手術をしなくてはなりません。
できれば早く
一刻を争うというわけではないけれど
私の親なら手を引っ張って、すぐに、と促します、
と近所の眼科、女医さんは決然としているらしい
片目ずつ、二度にわたって、
その前に血液検査
気がつけばカレンダーに書き込まれている予定
採血の針がなかなか刺さらないと突つかれてと
母は顔をしかめる
そのうえ
動脈硬化まで発覚したのよとしょげるのを
フェイスブックで知り合った方から教わった、
漢方の処方もしてくれるという内科婦人科の女医さんに
この際だから並行してかかってみたらどう? とすすめる
口だけは達者なんだ私、口から生まれてきたって言われるたび、
人間はたいがい頭から生まれてくるんだから口からよね、なんてうそぶいた

ためらう時間があまりないのは幸いなこともある
重い腰をあげて出向いた内科婦人科のほうの女医さんのもとでは
採血に何の問題もなく
加えて血圧問題も動脈硬化問題もさほどの重要事とみなされず
けれど八十の母の疑問や鬱屈はそれなりに聞き届けて答えを示してくれて
直面する白内障手術への心の揺れを少なくしてくれた
(たぶん)(どうやら)

九月になったらまもなく手術だからと八月末に髪をカット
月改まって目薬を差す
これすなわち手術の助走路
手術自体は短く簡単なもの、といっても
準備はずいぶん前から始まるんだね
つまびらかなところは何もわからぬ私を残して
母はするするとその日へ邁進
いや、どんなお気持ちですか、だなんて
訊くにきけないだけで
母のほうも改めてちょっときいてよだなんて
話す気性ではないだけで

そうこうするうち手術その一、左目からでしたか。
帰宅するとは母は眼鏡の下に眼帯、遠近両用眼鏡を外して暮らすのは不自由だから
眼帯の上にかけると浮くのよね、といいながらも眼鏡
遠近感がくるってこわい
そうだよね、わからないけどわかる。
痛みはないの?
頓服出されたけど、電話もかかってきて訊かれたけど、だいじょうぶ。
ならよかった。
採血うまくいかなかったお医者さんではなくて
手術専門の人が別に来ていたよ。
歯医者さんの椅子みたいな診察台に座って顔じゅう水浸し、そしてまぶしい。
あっという間だけれど、
傷んだほうを砕いて溶かして吸い取って
あとへ人工のレンズを入れてって、
やってることは凄いよね
聞いているだけでくらくらするけど
本人はけっこうけろっとした顔
ああでも、ちょっとテンションあがってるのかな

消毒とか、してくれるの?
うん、朝九時に行くから、いそがしい
近所のお医者で、ほんとよかったね

行ってらっしゃいと送り出してすぐ出かけたのだろうか
様子を想像するまもなく溺れる書類のかげで携帯がふるえ
着信。ほう、そうなんだ

――眼帯をはずしたらせいせいしたけれど、徐々に慣れてきたら、何とも落ち着かない(顔文字)
異様に明るくて。その明るさが、紫がかった蛍光色っぽい というか、これがよく聞く
「世界が変わったみたい!」というの? そうだとしたら、慣れるしかないというわけね。
手術した方をつむると、今まで当たり前だった日常がセピア色に見えるのよ。
これ どうしたらいいんだろう? もう片方も手術したら、確かに世界が変わっちゃうのかも。
それはそうとして、手術は普通と比べて、かなり大変だった由。目の状態が大分悪くなっていて、
手術があれ以上遅れると もっと大変になるところだったらしい。
考えてみると、あの 目が赤くなったのは、無視できない赤信号だったのね――

セピアカラーの世界とLED白色灯めいた世界
片目をつむっては開けつむってはあけ
ふたつの時間ふたつの世界に股をかけて踏みしめる足もと
手術その二を終えれば長崎・五島への旅が待っている
西の海に満ちる光はなにいろだろう
八十歳のまあたらしいまなざしは使い慣れたデジカメをとおして
どんな空どんな雲を撮るだろう

あっ、母上、断りなくメールを詩に織り込ませてもらっちゃったけど
手術も成功したことだし、ここはお目こぼしを――

 

 

 

いと、はじまりの

 

薦田 愛

 
 

一九六六年、昭和なら四十一年ごろのこと。
埼玉県川口市
つまり
キューポラの町のはずれ
ふたつの川にはさまれた工場街の一角の
三階建て集合住宅
社宅へ越してなんかげつ
推定四歳半の女児すなわち
わたくし

あおいにおいたたみのうえ
よこずわりにすわって
ほそくとがった
これは
つまようじ
とがってないほうにぎざぎざ
そこに
きゅっとするんだ
むすぶ
白いのやぴんくきいろいのも
りょうてをひろげたよりもっと
ながいほそいそれ
しつけいとっていうのよって
まま、の
てのなかにあるたば
まま
まま、に
ちょうだいといった
「まま、ちょうだい」と

ぺらっとうらっかえせば
まっしろの
ちらしっていうのを
ぬうの
ぬののかわり
ぬうのは、ね
まま、のまね
ままは、ね
ようさいし

あぶないからさわっちゃだめって
ままは
とがってほそぉいぎんいろの
はり、をいっぽん
ふえるとのはりやまからぬくと
あたまのところ
めがひとつ、じゃなくて
ちいちゃくあいた
あな
あなへとおす
いと、を
ななめにきって
くちにくわえて
しとっとさせてきゅるん
ねじってほそらせる
ほぉらほそぉくなったいとのさきが
すいっ
すいっとちいちゃな
とんねるをいま
とおってく
それは
ままのまじっく

つつっとはしるみたい
はり
まっすぐ
それにまぁるく
くれよんみたいな
ちゃこでかいたみちも
めじるしやもようのないところも
ぬののおもてうら
くぐってはおりかえし
すすんではもどり
はりのねもとにきゅきゅっとまきつけ
ふしにするんだ
かたくかたぁく

そんな
ままのまね

しつけ糸と爪楊枝と折込みチラシ
糸と針と布地の代わり
これとこれ、ともたらされたのではなく
こんなふうにと教えられたのではなく
推定四歳半の女児が
どうしてだかたどりついた
ままごと

ままごとのむこう
ままは

いたのまにみしん
ぐんぐんふみこむぺだるの
いったりきたり
みるみるおりてくるぬの? きじ? その
かたっぽうのはじがくるっ
くるるっとたたまれ
しつけいとじゃない
もっともっとずっとあっちまで
おわらないいとで
みしんのうえぎゅるんとゆれる
いとまきにまかれた
いとで
ぬっていく
ぬう
まっすぐまぁっすぐ
ままのまじっく
それは

編むよりも織るよりも
縫うことの好きな女の子
それはわたくしではなく
まますなわちわが母
一九五〇年、昭和でいえば二十五年ごろのこと。
たぶん
香川県観音寺
それとも善通寺
海にちかいちいさな町の中学生は
日曜日
お弁当を提げて先生の家へ行く
ミシンを借りに
まあたらしい生地なんかじゃない
ふるい浴衣をほどいて洗って裁ちあとをつないだ布に
折りしわ残る紙でつくった型紙をあて
ブラウスの前身頃、後ろ身頃
襟に袖

それが最初のいちまい?
ままの
ううん
かぶりをふる母
もっとまえよ
小学生の時から
ぬってた
ブラウスだけじゃなく
スカートも?
ワンピースも?
授業じゃなくてね
好きだったし得意だったから

おさいほう好きなんでしょ
よかったらいらっしゃいって
うれしかった
どきどきしながら
次の日曜日もでかけた
どうぞっていわれたろうか
たたきに靴をぬいだとき
うつむいて
ひきむすんでいた口からふうっと息がもれた
きっと
日の傾くまでいっしんにミシンをふむ
おさげの中学生
洋裁師への道はもう始まっていた

本科師範科デザイン科
三年行ったんだってね
これが出てきたのよって母は
ある日
洋裁学校の修了書を広げる
デザイン画は苦手って前に言ってたね
型紙は起こすけどやっぱり
デザインするより縫うのが好き
だから
もくもくと縫えればよかった
子どものスカートや
社宅の奥さんたちのワンピース
時どき町なかの洋裁品店だったか
工賃表を買ってたしかめてたね
スカートいくら ワンピースいくら婦人物コートいくらと
示されたリスト
それより少なくしかもらわなかった
十年二十年着ても傷まない
出来栄えもあたりまえという矜持を
そっと縫い込み

まま、ママ、
ミシンの糸って二本、針も二本なんだね
家庭科の課題はついに一度も手伝ってもらわなかったけど
それはあなたに似て器用だったからではない
それでよかった
家にミシンがあるから
ボビンの入れ方はすんなりわかったよ
でも
迷いのない速さですすむ
まま、ママの縫い方には追いつかない
洋裁師にはかなわないよ
娘は縫うことをつづけなかった

二本の糸
二本の針が行き交って縫いあげてゆく
からだをつつむもの
ものをいれるふくろ
自分のと娘のと
二着のウェディングドレスを縫った
ふくれ織の白
裾を引く長さの一着を縫いあげた四畳半で
父は細身の母をかかえて声をあげた
ぼくの花嫁さん、と(*)
針は折れ糸は尽き
父はいなくなっても
縫いつづけた母
けれど
夕方になると黒っぽいものは見えにくくてねと
わらって手を止めた
六十歳少し前のことだったか。
たぶん

そして傘寿の春
この春
浴槽の上で乾かされていた
いちまいの布
水を通した生地、スカートを縫うのだと
久しぶりに型紙を取ったときくうれしさ
洋裁師だもの
自分の身は好みのかたち好みの色好みの風合いでつつむ
まま、ママ、そうだね、そうだよ
それがわが母

おっくうでね
型紙起こすのもね
でも、起こしたんでしょと問う娘には
計り知れない何か
暮れる春
立ち上がる夏
思ったよりかたくってねという生地はまだ
母の身体をつつまないまま

 

 

*昭和三十五年の五月のある日、二月から一緒に住むようになった日吉のアパートの四畳半で、わたしは自分のウェディングドレスを縫っていました。質素なものでした。いなかでの結婚式を目前に、それが仕上がったとき、あなたは早く着せたがりました。
気取って、ミシンの椅子の上に立ったわたしに、あなたは照れもせず無邪気に歓声をあげました。
「ワァー、ぼくの花嫁さん!」
いいながら、わたしを軽々と持ちあげて椅子からおろしました。*

空空空空空空空0*薦田英子『いのち ひたむきに』(一九八五年刊)終章「此岸より」

 

 

 

ふとん、あの家の

 
 

薦田 愛

 

 

予讃線上り列車の進行方向左手は海
海に向かっている
波のかたちはみえないけれど
台風がちなこの季節にも雨は多くない
あかるい空に覗きこまれ
今治から川之江へ
父のねむる一族の墓所へゆく
普通列車の一時間はアナウンスも控えめだから
うとうとしていたら乗り過ごしてしまいそう
どうしよううたた寝には自信がある
乗り越して戻っていたら日が傾く
JR四国はそんな時刻表

バブルなんて時代の少し前
たぶん
母を残してひとり川之江へ
夏休みだったろうか
父と三人暮らした社宅から引っ越した後だったか
電話すると母の口がおもい
どうしたの
はじめてパパが夢に出てきてくれたのだけど
出てきてくれたのよかったじゃない
それがね
うん
日曜の夕方かな野球か何かテレビをみてて
ああそんなだったね
私は台所にいるんだけど呼ばれて振り向いたら
うん台所でね
振り向いたらパパの顔はみえるんだけど
身体の下のほうから薄くなって
みえなくなっていくのよ
え、なに?
だからねいやだっ消えちゃ! って
自分の声で目が覚めちゃった
そう
そうだったのきっと
きっとパパは夢に出てきたのに
私が四国に来ているとわかって
あわててこっちへ来ようとしたのかもしれない
身体はひとつなのに気持ちが
ふたつに裂かれて
うーんそうねぇあんたがそっちにいるからねぇ

恋愛結婚だった仲のいい夫婦だった
二年で三度の入院手術ははじめてのことだった
バスと電車を乗り継ぎ雨の日も雪の日も付き添った
春の明け方さいごのいきにいきをのみ
なみだはこぼれないまま
しずみきったふちからペンを手に
図書館に通いつめ医師に話をきき
ふたりで歩いた町を訪ねなおし二年後
闘病記をまとめた克明に淡々と
あとがきに記した生まれ変わってもと
うまれかわってもわたしはと

しまなみ海道を渡りきった今治では
父方の伯父伯母、従兄が迎えてくれた
画歴約二十年の従兄・登志夫兄ちゃんが
私設ギャラリーで食事を出してくれるというので
あまえた
あまえついでに思いついてメールを
(母は生の魚介と肉が食べられないのです)
やさしい先生だった従兄から
(野菜中心で考えてみますね)
と返信があったので安心していたけれど
虫の鳴きしきる草むらの扉の奥やわらかな灯しのもと
椎茸と生クリームのスープに喜んでいたら
ピザの隅っこにはソーセージ仕方ないよね
急なお願いだったもの
丁寧に淹れてくれたコーヒーに
デザートのケーキまでお手製
おまけにギャラリーを埋め尽くす大小の木版画
今治や内子と愛媛ばかりか飛騨に京都
なかに尾道を見つけた母
行ったばかりだからすぐにわかった
ぜひ譲ってと頼みこみ包んでもらって
うふっと肩先がゆるんだ
小さな作品だからうちにも飾れるね
私はこの桜咲く蔵の一枚がいいな
どこの酒蔵だろう
額入り二枚を抱えて宿へ
明日はしまなみ海道のみえる公園へと誘ってくれるのを
タオル博物館とねだる
みどり深い山せまる博物館は
父の元気なころにはなかったはず
母と二人あまえたみたいに
たぶんもっと
ねえさん、兄貴とあまえていたらしい末っ子の父
その父の退場が早すぎたぶん弟の家族を
心配し続けてくれる伯父と伯母
父の齢をとっくに超えた子としては
もうだいじょうぶですってばとつぶやく思いと
健在ならこんな年ごろ、と仰ぐ思いがないまぜの
糸になる
ああタオルの糸ってきれいだ

父のねむるお墓は一家のものだから
あとでうつせないけどいいねと念をおされた
封を取り除いて骨壷からあける
父を見舞った祖母も加わった
長兄の伯父も
それはどんなねむりなのだろう
ひとりひとりのねむりはまじりあわないのだろうか

あの家、川口の
父と母が六畳間となりの四畳半に私
ふすまを隔てて勉強机と本棚
押し入れにふとんと押し入れ箪笥
だったろうか
勉強机の前でうとうとと居眠り
ちゃんと寝なさいとたしなめられて敷くふとん
寝返りを打つ間もなく寝入る子ども
手のかからない子どもだった
そのねむりのうっすら浅くなる
深夜
終電で帰った父と話し込む母の時間の果てにふたり
ふすまをあける
こたつぶとんを手にして
銘仙のだったろうか着物をつぶした布でつつんだ
おもくおおきないちまい
赤外線の熱をためたいちまいをふたりふわっと
いえずしっと
ねむる私のかけぶとんのうえに
なだれこむ蛍光灯のまぶしさがまぶたをとおす
ねむいねむりのふかみからよびおこされる
けれどめざめてはならないきがして
ねむい子どもは
ときにねがえりをうちながらまぶしさをのがれ
ずしっとあたたかいふとんをまちながら
ふたつめのねむりへしずみこんでいったのだったろう
ふとん、あの家の
こたつぶとん、あの家の

 

 

 

しまなみ、そして川口の

 

薦田 愛

 

 

渡る
渡るということ
向こうがわへおもむくということを
かんがえていた

みるみる暮れかける河川敷の
奥行き知れなくなる時分
荒川大橋を渡る
渡ったのだとおもう
かえって
川口へ行ってきたよと話すと
母は
そう、と応え
ややあって訊く
どうだった?
そうね、変わってしまったとも言えるし
ああこんなふうだった
あの頃のままというところもあるよ
バスの本数は前よりもっと少なくなって
工場だったところはたいてい
配送センターみたいなものになっているけど
化学工場も残ってる
バス停の名前もね
工場街って
でも
あの社宅の一画はまるっきり跡形なくて
三十年以上経つんだもの
無理もないね
ふたつの川に挟まれた
町、といえるのか商店もない地区
今はもうない会社に勤めていた父と母と私
2DKで過ごした頃の
梛木の橋を渡ってバスに
川沿いを走るバスに乗って

ふた月前 秋彼岸
尾道の港ぎわキャリー持ち上げ
大丈夫ですか荷物大きいんですがと問うと
運転手さんは
空いてますからこのとおりと笑う
座席は片側ビニルシートで覆われ
折り畳み自転車の持ち込み待機態勢
母と私を乗せ高速バスは
くるりと海に背を向け
中国山地へ駆けのぼってゆく、のではなかった
新幹線の駅の高みをピークに
まっさかさま まぶしい
海をふみこえ
しまなみ海道
向島因島生口島大三島伯方島大島と
つなぐ橋ななつを渡りきれば今治
今治に着く
父かたの伯父と伯母、従兄の家族が待つ
今治に

パズルのピースをぶちまけた
床ではなくって海原
脊椎動物の背骨のかけらとかけらを順ぐりに
縫いあわせる橋梁のゆあんゆよん
潮目を往き来する水軍漁るひとみかん農家汐汲み干すひと
領地をわかつ樽流し
真鯛も章魚も穴子もでべらがれいも
波をきりわける境界線なんて知らない
太古から
まして私そして母
隣の香川で生まれ育ったって
初めてよと母は
今治へ
速度をあげるバスの窓から
橋のアーチを島影をフェリーだろうか船を
さんざめく秋まひるの光でつかまえようと
デジカメ構え

お城の石垣が海に迫る町高松で
出会ったふたり
二十三歳の父が渡ったのは
この橋ではない
むろん
二十二歳の母が渡ったのも

船で渡って父は行った東京へ
船で渡って母は行った東京へ
オリンピックを控え首都高もなく空はまだ広かった東京へ
会社員として洋裁師の卵として
松山でなく高松でなく
大阪でも神戸でもなく
東京へ
(TOKYOへ)

だのに暮らしたのは
東京のへりを滑り落ちたところ
産業機械メーカーの経理部勤務とお針子のふたり
まず川崎そして川口と
東京を突っ切って

梛木の橋の停留所でバスを降りる
川幅の狭い芝川を渡ると左右は工場
錆びた鉄の色正体のわからないにおい
まっすぐ行けば荒川の土手危ないから一人で行っちゃ駄目
手前の角を左折すると片側に古びた洋館日暮れにはこうもり
その先に
三階建て二十四世帯の家族寮奥に独身寮も
広場の草取りが手間だからと鋳物用の砂を入れさせたのは
父だったか
草いっぽんの緑もない窓はまだアルミサッシではなく
行き交うトラックに舞い上がる砂ほこりを免れなかった
「あんな場所
ひとの住むところじゃない」
言い放った中学の担任は社会科教師
水を汲み上げて調べたのだと
青ざめた母つめよることもできず憤りをかかえて
父にはそのまま伝えたのだろうか

二十年あまりを働きづめに働き
たおれた父
今治ではなく郷里の川之江に戻って眠った
骨になって
一家の墓に
カロウシという言葉がなかった頃
あれを労災と言わないなら何を労災と呼ぶのかと
心をとがらせるきっかけを子に与えた生き方
おれは悔いはないが
お前たちがふびんだと言い置くくらいなら
他に途はなかったのか
なんの咎もなく命は尽きる
海を渡って橋もないのに
船で渡って東京へ
ナンノタメニナンノタメニナンノタメニナンノタメニ
なんのためにと呟きながらこみあげてくるものを
のみこみながらバスは
バスは芝川沿いの道を折り返し
荒川大橋を渡る
東京へ赤羽へ
土手にのぼればひろやかな空のもと対岸にみえる町へ

いえこれは
しまなみ海道
大山祇神社のある大三島からは今治
樹齢二千六百年と伝えられる楠のねじれた幹
八方へさしのべられる枝ごとのしなやかさ
来たことがあったろうか父は
尋ねようとしてではなく
ふりむけば母は
デジカメの電池を入れ替えている

 

 

 

穴子、瀬戸内の

 

薦田 愛

 

 

手を振って純子さんと別れ
桟橋の上のホテルに戻る
母と
預けてあったキャリーをひいて部屋へ入れば
窓はひろい
川ではないかと
訝しむひとがいるのも不思議はないほど
手を伸ばせば届きそうな対岸
向島の灯台からきらっと灯がもれる
尾道
坂道や階段を歩くつもりでいたけれど
あんまり歩かなかったね
でも、お腹すいた
せっかくだから穴子食べよう
東京と違って小ぶりなのをね
蒸すのじゃなく焼いたのをさ

海ぎわの遊歩道をのぞむ通りを歩いて
刺身は食べられない母と夕食をとる店をさがす
街灯のオレンジ色に染まりながら
フロントにあったグルメマップとガイドブック
すみずみまで目をとおして
たぶんこっち
純子さんと三人歩いたアーケードのひとすじ海側に
ここならたぶんと当たりをつけた
覚えにくいひらがなだらけの名前
これかな、ランチ穴子飯と大きな字
夜も食べられるかな居酒屋だけど
階段をのぼり
あのう食事だけでも大丈夫ですか
どうぞと迎えられて海の見える席へ
たんたんと母は
いやほっとした顔
メニューに穴子の炊き込みご飯を見つけて私も
旅のミッションその二を完了した気分
となると
明日も早起きだしお酒はちょっと
などと思ったのをころっと忘れ
ねえ、なんか飲む? ビールかな喉乾いたねと
メニューをめくり直す始末
いいねぇと乗ってくれる母とグラスをあわせ
やっぱり穴子だよね

うなぎなんて食べられないと
もっぱら穴子派だった父
瀬戸内海の地の魚をたくさん食べていたから
東京は魚が美味しくないとこぼして
それでも夜中に鉄火巻きを提げて帰ってきたり
食べろと起こされるのはもちろん私
母は玉子とかんぴょう巻きと穴子
父は
東京の穴子も食べていた
蒸して甘がらいたれを塗ったのを

この店の名前、どういう意味なんですか
ああ、魚の名前なんです
このあたりで獲れる
ええと
関係ないかもしれないんですけど
私たち四国の人間で
父がよく言ってたんですが
でべらがれいって
そうそれです
たまがんぞうかれいっていうんですよね
それでたまがんぞう
そうなんです
しらすのサラダだの梅酒のソーダ割りだのに
ほろっとゆるんで
パパは来たことあったんだろうか尾道へ
どうだろう
宮島の写真はあったと思うけど
ああ母と
こんなふうに旅先でいるところ
父は知らない
炊き込みご飯を分ける
こうばしい
ひきしまった穴子の甘がらくない身がごはんになじんで
美味しい
ふふっというふうに母は
満足を控えめに表明してくれる
よかった
ミッション達成ということにしておこう

次の朝
日照時間の長いこの地方らしく快晴
ホテルの前から
しまなみ海道を辿って今治に到る高速バスに乗る
背骨のように並ぶ
向島、因島、生口島
次の大三島で途中下車
この島から愛媛県
四国一大きな神社
大山祇神社へ
駆け足でご挨拶をと考えたのだけれど
お詣りの次第は他日改めて記すとして
備忘録よろしく書いておきたいのは
お詣りを終え今治へ
向かうバスに乗る前に
お昼を何か食べなくてはと
走りまわったこと
ええ
伊予一の宮大山祇神社の門前だからといって
道の駅があるからといって
隣り合わせる伯方島の塩のチョコレートや
柑橘類を使ったお菓子や野菜は豊かに並んでいるものの
おむすびやサンドイッチは扱われていないのだ
コンビニも見当たらない
しまなみ海道を自転車で行くひとたちに人気の
海鮮丼が食べられる店が鳥居前にあるけれど
時間が足りない
そういうもの
置いてるのはショッパーズだけですと
お土産屋さんが指し示すのは鳥居前のバス停から徒歩三分では着かなかった
親切な道の駅のさらに先
あと六分
しかたない待っててね
母と母のキャリーと私のキャリーを日蔭に残し
ダッシュ
ショッパーズ大三島店へ
惣菜売り場とパンのコーナーはどこ
奥へ奥へ
ひんやりした一角にそれはある
穴子中巻き三百九十八円
パンのコーナーは通り過ぎ
割り箸ください
二膳と言ったか言えなかったか
レジ袋はくるくるねじれて
まだ来てないよね
車内が混み合ったら食べられないと
気づいたのはその時
ええままよってこういうことを言うのか
ほどなくバスは着き
がらんとした後部座席にキャリーを引き入れ
ごめんなさいお行儀わるいけれどそそくさと
穴子中巻きいちパックを分けて
ひとごこち
バスは
伯方島から大島へ
さしかかろうとしている

 

 

 

海、尾道の

 

薦田 愛

 

 

地図と映画でしか知らない町へ行く
初めての
私にとって 母にとっても
尾道
海にのぞむ町
純子さんに連絡してみようと母

シルバーウィーク直前の平日は雨
通勤電車にキャリーをひいて乗り込む
日比谷線山手線
飛行機ではなく新幹線で
雨雲は新神戸あたりでちぎれた
たぶん
坂の多い町だから歩きやすい靴がいいよね
車にも自転車にも乗らない母と私だから
駅に近いホテルに泊まろう
町と海を見おろす
高台の宿にも惹かれるけれど
ロープウェイに乗ればいいよね

午後一時半
桟橋の上のホテルで待っているよと母は
洋裁学校の同級生・純子さんに電話
新幹線のデッキは音がひどくて聞こえないから
続きはメールでねと言って切ったと
福山から山陽本線
東尾道駅を過ぎると海が近くなる
一時半
フロントでキャリーを預け
長いテラスを歩いてくるあれは
純子さん
白いシャツの襟を立て
黒を利かせたいでたちがおしゃれ
ギンガムチェックのシャツの母も傘寿には見えないし
洋裁学校出身だけあって二人とも
着こなしはなかなかのもの
久しぶり、元気そう、と小さく交わす
洋食ランチを注文すると
話は同級生たちのこと
純子さんの娘さんたちお孫さんたちのこと
十年くらい前に東京で同級生が集まっていたけれど
こんなふうに訪ねるのは初めてだものね
孫の話ができなくて寂しかろうと
母に同情するのはこんな時
聞いてみたことはないけれど

どこに行く? ええと千光寺だっけ
千光寺、ロープウェイ乗ってみる?
いいね
先に立つ純子さん
歩きまわれる靴で出かけてきたけれど
秋の午後は長くない
見晴らしのいいところに行ければ十分だよねと
母と私は目と目で納得
山陽本線に沿って東へ走るバス
長江口で降りて
鳥居の脇を進むとロープウェイ駅
座席が少ない車内で母は立ち
デジカメを取り出す
神社を見おろし
三重塔だの誰かの住まう屋根だの緑の密集だのを飛び越し
振り向けばとうに
ひらけていた足下この山の木立の向こう
尾道水道そして向島因島たぶん生口島
手前は黒々とその奥は重なって少し明るみ
目を凝らすともうひとつ淡い島影
携帯のカメラ機能を調整するうち
ああ
着いてしまった

晴れていたらねぇ、もっと遠くまで
見えるんだけどと純子さん
尾道に四十年あまり
もともとは和歌山そして洋裁学校は高松
海の町から海の町へ
海沿いのボードウォーク娘さんとベンチで
お弁当を広げることもあるのだと
パンがおいしいと言って
さっき案内してくれた店のいい香り
風のなか母子ならんで
サンドイッチにコーヒー
ドックや灯台行き交う船を見ながら
食べてみたくなる

洋裁学校に通いながら
ねぇ、ダンスを習いに行ってたのよね
何度もきいているのに改めてきく
踊る楽しさに目覚めたこころは
親の昔話に興味がつのる
純子さんはチャチャチャやジルバ、サンバが得意
私はスローなワルツやブルースが好き
難しかったけどタンゴもね
テンポの速いのは苦手
そんなことない お母さん活発だったわよと
純子さんはいたずらっぽい
お小遣いなんてもらってないのに
よく通ってたわよねと母
それなら前にきいたことがある
教科書代や教材費が要ると言って
もらってたんだと
憶えていないなあと今は
でも忘れていないこと 忘れるはずがないこと
たーくん、と呼ばれていた
父に出会った時のこと
同級生のみゆきさんが連れてきた
幼なじみと言って
大学生だった父のひとこと
ダンスなんかする女の子はきらいだと
それでやめてしまうのだ母はダンスを
出会ったばかりのひとが
そんなふうに言ったからと
みんなどんなに驚いたろう
からかわれたりしないはずがない

携帯もパソコンもない時代の
その先の物語を純子さんはたぶん
私よりよほど詳しく知っているのだけれど
父の口からきくことはもうできない
ママの清楚なところがいいと
言っていたひとと母とは銀婚式を迎えられなかった
三十三回忌も終えたのよと母
そんなに経つのねと純子さん

アーケードの商店街を抜け
旅行鞄の傍らしゃがむ芙美子の「放浪記」の碑を撮って
お茶をしながら秋は暮れてゆく
東京に来る時は声かけてね
行けるかしら 何言ってるのと
ほんの少し湿っぽく
でも一度来たからまた来られるよねと励まし
はるばる来てくれてありがとう気をつけてね
つきあってくれてありがとうと手を振り合う
二人に戻って桟橋の上のホテル
そう
旅は始まったばかり
明日
私たちは海を渡るバスに乗る
父の郷里へ向かうのだ

 

 

 

窓、犬山の

 

薦田 愛

 

 

乗り込むと間もなく
チョコレート色のバスは動きはじめる
ふりかえって母と顔を見あわせる
博物館明治村というんだね
前に一度来ているのに憶えてなかったよ
岐阜だと思い込んでいたけれど
ここは愛知
犬山城へ寄らずにまっすぐ来る人は珍しいのかな

うねうねと坂はのび
白壁にバルコニーや瓦葺き木造の民家
煉瓦や石でできた洋館のあいまを縫って
あれは三重県庁舎、そして金沢監獄
その隣のこれは、なに?
車内アナウンスが追いつかない
ああ
ここで降りよう

十一月薄曇りの空のもと
午後の空気はひんやり
池の奥には帝国ホテル、
写真で見たことがあると母
一部といってもおおきい
日比谷からここまで運んできたんだね
細工の施されたタイルや煉瓦や石が組みあわされ
込み入った造り
声がするほうを見あげると
中二階でパーティーの様子
現在進行形で使ってるんだね
話しかけたらいない母を探すと
団体さんの向こうでデジカメ態勢
撮りたいものばかりなのは私も同じだけど
あまり長居はできないよ
今日のメインはここじゃない

何しろ教会が三つ
誰もカメラを咎めない
挙式の希望にも応えてくれるらしいけど
それはいつか必要が生じたら思い出すことにしよう
ステンドグラスもある
そして一年少し前
長崎の伊王島で
海に臨む馬込教会に行ったあと
島にもうひとつ教会があるとわかったものの
離れすぎていて辿り着けなかった
大明寺教会
正確には大明寺聖パウロ教会堂が
明治の初めに建てられた姿で
保存されているというのだから
急がなくては

銀行に写真館、芝居小屋に銭湯
ガラス工場に変電所、派出所に兵舎
幸田露伴や森鴎外、夏目漱石の住まいまで
近代史に文学史が混じる
そりゃあ博物館だもの
小学校に旧制高校そして師範学校
鼻の奥があつい

だってだってさ
明治村のことを知ったのは
高校のころ
明治の終わりにできた
女学校時代の建物もまだ使っていた
通称ベルサイユの旧校舎は火気厳禁
冬は手袋のまま学校新聞の記事を書いたり
ギロチン窓と呼ぶ上げ下げ窓が軋んだり
不自由極まりない旧校舎を
壊すというのだった私たちの目の前で
どうにか止められないのかと心は逸るのに
何ひとつしないままその日を迎えた
むざんむざんな
そのころ
明治村にでも保存できればねと
言ったのは教師のひとりだったか
明治村、というものが日本のどこかにあって
旧い建物を保存しているらしいと
たとえば旧校舎がそこに運ばれていくことを想像する
だったらだったらさ
上げ下げ窓の火気厳禁のそれが
目の前から失われてもいいと思えた
想像でしかなかった
運んでいくほどのものではないと
それでも当時、建築史だろうか専門家が来て
ひととおり調べたのだとあとから聞いた
それだけのものではあっても
それだけのものだったのか
だからだからさ
知りたくてならなかった
明治村にはどんな建物があるのか
保存するほどの建物って
どんなものなのか

そして三つの教会
京都にあった二つ
聖ザビエル天主堂と聖ヨハネ教会堂
そして長崎の大明寺聖パウロ教会堂
駆け足でまわってもまわりきれない村内の
北に二つ、南端の高台にひとつ
母はどれも見たいと言う
駆け足でまわろう
行けるところまで

紅葉の見ごろをやや過ぎ
赤はへりからちりちりと縮んで
ライトアップは今日明日まで
日没のあとも見ていられるけれど
きれいに撮るのは難しくなるかな
電池を換えなきゃと母はいそがしい
空へ伸びる聖ザビエル天主堂の内がわ
ほの暗いなかへ注ぎこまれる
すきとおった赤、青、黄、縦長のつづれ
そしておおきな円い
薔薇窓をこぼれる光の帯びる音
信仰のない母も私も
分け隔てなく染めてゆく誰かれの声
ほおっと溜め息で溶かしながら
母じしんと私じしんに返る
さあ大明寺教会堂へ
見えているのに近づかない道を選び直し
案内板を二度見直すふしぎ
どう眺めても教会ではないのだった
なにと言うなら学校の講堂や大きな田舎家
どうかするとお寺の本堂のような
ありきたりののどかさへ踏み入る、と
こうもり天井に祭壇
紛うことのない祈りの場
咎める人はいないのでシャッターをきる
余分なもののない清潔
表に出ると日脚は短い
急ごう

聖ヨハネ教会堂に通じる坂は幾度も折り返す
道の端には灯し
ライトアップに照らし出された外壁は
本当の色がわからない
階上にしつらえられてある
祈りの場はモノトーンに暮れて
壁いちめんは窓それが
ステンドグラスかどうか
判別できない暗さ
礼拝の時刻の様子を思い浮かべることはできないけれど
おごそかさを胸の底まで吸い込む
よそ行きではない習わしを
私としての誰かれが行なう
気配をたぐり寄せ
見あげる
ありはしない旧校舎の
上げ下げ窓
見あげる

 

 

 

そうめん、極太の

 

薦田 愛

 

 

宏くんがやっと東京に来られるというから
案内しなくちゃ、と母が
日ごと地図を広げるようになったのは
梅雨のさなかだったか

徳島の山あい阿波半田に住まう母のいとこ
母ひとり子ひとりというところは
考えてみたら、うちと同じ
その母、私にとっては祖母の妹すなわち大叔母の千代子さんは
眉の太い口数が多くはない
自分を偽らないひと、言葉を換えれば妥協がない
歳末押し迫っての大往生は淡々とくもりのない顔
病院との往復もしくは泊まり込みの数年を知っていたから母は
落ち着いたら東京へも遊びに来てよ
案内するからね、と年下のいとこをねぎらって
モノクロームの山と雲と川の町から私と帰った
宏くんとか宏ちゃんと母は呼び私は宏兄ちゃんと呼ぶ
母の実家のある琴平や父の郷里の川之江まで車で
県境を越えて送ってくれたり
いつの間にかみんなの写真を撮っていたり
大叔母に似た太い眉毛でにこにこ
そんな宏兄ちゃんが東京に

きくと隅田川の花火をはさむ日程だ
浅草に泊まるって宿はとれるのかな
二泊は浅草、花火の日は両国だって
移動しなきゃならないのは面倒ね
うちにも寄ってもらいたいから案内すると母
そうねと話しているところへ届く
そうめん、極太の
荷物になって持っていけないから先に送るよと
阿波半田の絶品そうめん、極太の
うどんじゃないのと驚かれもするこれは
そうめん、半田そうめんという、極太の

小学校に上がったばかりだったろうか雪の日に
社宅の前で泣きべそかきながら
縄跳びの練習をしていたところに現われた
宏兄ちゃん、親戚の誰かと
あれは川口の工場街
うんと大人に見えたけれど二十代だったんだな
あの時どんなふうに来たんだろうね
どうだったんだろうと母
とにかく羽田まで迎えに行くから

京急で行けるよね
そうだね長崎旅行の時、
都営浅草線で乗り換えなしだからと
勤め先に近い宝町まで来てもらったっけ
日比谷線なら人形町で直通電車に乗り換えればいい
平日の朝出勤する私に一緒に行ってと母は言わないけれど
乗換検索で時間は調べておこう
さもないとむやみに早く出かけてしまうから
それでもメモの時間よりだいぶ早めに出ると言う
空港行きではないのには乗ったらダメだよ、とだけ念押し
そうだね西馬込行きとかねとうなずき母は
じゃあ雷門で十八時にねと言い置いて

浅草寺や花やしきの奥イタリアンでビールにワイン
宏兄ちゃんのまたいとこ大島在住の清さんもまじえて
阿波半田の子どものころのこと
昼間、母と歩いた泉岳寺のこと
七十代が三人揃うとあっという間に満腹だからあとは食べてと
いい大人の私を若者扱いするので困りもの
明日は私のいとこ靖くんが案内
あさっては母と飯田橋を皮切りに江戸城をぐるりと歩くのだって
連絡してよと見送る母と帰りながら
日陰の少なそうなルートが気がかり
暑くなるから水分ちゃんと摂ってね
博物館なんかのほうが涼しくって安心だけどなあ
いやたぶん宏っちゃんはと勢い込むように
実際そこにあるものを見たいんだとおもう展示されてるものではなくて
それなら仕方ないね暑くても

それにしても八時集合は早いね移動日だとしても
東御苑は閉まるのが早いから早く行かなくちゃ
なるほど、どのへんで合流できるかメールするねと私
今週はお預けだね、そうめん
週末の昼はたいてい半田そうめん腰が強くて伸びにくいから
夏場はつゆにおろし生姜たまにぶっかけ寒くなればにゅうめんと決まっていたのを
思いついてポン酢とごま油で冷やし中華風にしたら簡単かつ美味しく
ホールトマトで冷製パスタ風にしてもらったらこれもなかなか
そういえば宏兄ちゃん
阿波半田で生まれ育ったのにそうめんを好きじゃないと言う
美味しいよねえと言うと、そうなと笑って
山あいの五千人に満たない町に四十もの業者さかのぼること二百年
歴史好きなのに宏兄ちゃん太い眉毛でにこにこ
好かんとさらり
流されないところは案外、千代子さんと似てるのかな
浅草でチェックアウトしたら入谷のわが家へ来てもらい
荷物を置いて出かけるという母に
花火の日は尋常じゃなく混み合うから
歩き始める前に両国へ移動しておいたほうがいいよと説得
不承ぶしょうの母と二人ずっしりかさ張る荷物を提げて
浅草から都営浅草線、浅草橋で乗り換え両国へ出て宿に荷物を預け
総武線で飯田橋へ出て牛込橋取って返して竹橋へ
またいとこ清さん再登場で三人というより
男の人はどうしてああふざけてばかりと眉ひそめる母が
先に立ちぐいぐい先導して平川門東御苑天守台松の廊下
お土産手配に東京駅そして赤坂紀尾井坂
道中の実況ショートメールが刻々来るけれど私は
夜集まる人たちに半田そうめん提げてゆくから荷物が重いしと合流をあきらめ
明日羽田まで一緒に見送るからと返信
昼過ぎの便ならその前に寄ってもらえばいいよね
ところが ところが

清さんが言うのよ日本橋に行くべきだって
せっかくお江戸に来たんだから
日本橋が好きな母はまんざらでもなさそう
聞き間違いで夜の便だったから時間はたっぷり
でも荷物は重いから手ぶらで来てもらって
あとから取りに行こうよ日本橋の前に
だとするとどこまで迎えに行こうかなと母
聞けば上野で晩ご飯だったというのでびっくり
赤坂からまっすぐ両国へ送っていったのではなくて
上野まで戻ってきたんだ銀座線で
それからまた両国まで送って帰ってきたんじゃ疲れたよね
乗り換えて降りて見届けてまた乗って乗り換えて日比谷線へ
三十五度超えのまぶしいまひると混み合う上野の駅ビルそして階段階段を思い浮かべる
清さんの登場に安心、半田そうめん提げて出るので合流しなかったけれど
母が振り出しの両国まで戻ることは考えてなかった
そうだよね不案内ないとこをひとり帰せなかったよね
でも最終日は途中まで来てもらうと言う
浅草と言うのを上野のほうがとつよく言ったのは
移動が楽だからなのだけれどそれが
間違いのもとになるなんて

出かけた母から連絡がない
まさかと電話するとうろたえ声会えないと
改札から改札へ探しまわったというのに
いちばん小さな改札へと案内したつもりでも慣れない町のこと
しかも日曜で夏休みあまりの人ごみに迷っているのか
迷う宏兄ちゃんもだけれど探しあぐねる母が
まっしろになって棒立ちになる姿が浮かんでしまう
私が行けばよかったいや行こう
バッグをつかんで立ち上がるや鍵のまわる音と声
照れくさそうないとこを連れて大変だったわよと母
改札の名前を間違えていたのは私
だからだろうか待たずに動いてしまった不安にもなるよね
携帯の声を頼りに見える駅舎をめざしてもらって
よく会えたよね行き交う幾十いくひゃくの待ち合わせをくぐりぬけ
ジュース飲んで帰ってきたからと日比谷線でひと駅
もうコーヒー淹れなくていいね
マンションの狭い屋内をひとわたり見せてと思っていたら
リフォームの仕事柄フローリングはシンクの高さは窓の大きさはとチェック
引き込まれそうになるけど時間がなくなるよ
汗を拭いてさあと促す
日本橋いやその前にもう一度荷物を取りに
両国へ

うちに来る前に宿から近いしと勧めた江戸博
連絡待ちになってしまって楽しめなかったみたい
母の分析どおり実地に見るのが好みなのかな
それより何より物知りでしっかり者と思っていたのが
切符はどこメモはどこと紛れがちなことにびっくり
私は日々探しもので大人の注意欠陥障害を疑ったりしてるけれど
にこにこ頼もしい宏兄ちゃんにまさか
なくしものの癖があるなんて
携帯で話した上野駅の待ち合わせ場所はいったい
どこに紛れてしまったのか

両国から日本橋へとシュミレーションは完璧
コインロッカーに荷物を三つ
今度こそ一緒だからと気持ちは先へ先へ
歩くの早いんなあとあきれられながら
さああれが日本橋と指さす先、首都高速のかかる大通り沿い
浴衣やうすものの女の人たち
川面には小舟
麒麟や魔物の青銅がそびえる橋の中ほど臍のような
あれは日本国道路元票
五街道はここからひょるひゅる四方へ伸びて
地を這う途切れることのない幾筋いずこへなりとも私たちを
いざなってくれる

 

 

 

光、長崎の

 

薦田 愛

 

 

ごめんねぇ本当は五島列島に行きたいのに
島といっても港からフェリーで二十分そこそこ
伊王島の高台から海に向かう馬込教会は
六月の日差しに眩しい白

久しぶりに
苦手な飛行機に乗る決心をしたのだもの
早起きして高速船で一時間半
渡ってみてもよかったよね
福江島の堂崎教会堂だとか
言葉にすれば決まって
母は打ち消す
そんなことないよ、初めて来たんだもの
そんなに遠くまで行かなくたって
見たいところ、見るところはたくさん

昨日は傘を広げたり畳んだり
初めての長崎
電気軌道を降り坂がちの町へ
まずどこへ? と問えばためらいもなく
大浦天主堂と母
だから だから
いっきに階段を駆けのぼりたいのに
つめかけた人の分厚い列
国宝なんだね
くぐもる声
いつか誰かの灰まじりの涙に濡れたまま
乾きききらない外壁の翳り
新調したゴアテックスの短靴で踏むことを強いられる
信仰はもたないけれど
高みから滴る彩りのちからに抗えない
平たく言えば
ステンドグラスに惹かれ
いのりと呼ぶには足りない思いをかかえて
えいっと踏み出し飛行機に乗り込んだ
母は
すっとデジカメをおろす
堂内へ
梅雨空の光染め分ける
とどかない窓へ
やっと

木の床から屋根裏へ
目を走らせるより早く
立つ身体を濡らす濁りのない色いろ
青赤そして緑と黄いろ
許し慰めすべてを受け容れる場所
いえ
そんなしつらえも持たず
禁じられた二百五十年をくぐりぬけた信者
明治初め
打ち明けられた側はそれを「発見」と呼び
信者がいることを「奇跡」と言ったのね
「発見」なんて受け身ではなくて
みずから「ここにいます」と
囁きとはいえ
声を挙げたというのに

そう
声が
母をここに連れてきた
カウンターテナー上杉清仁さん
その人となりと艶やかな声を知って
教会でうたわれる旧い歌の
豊かな声のちからにふれて
ふるえる母の心を染めた
ステンドグラス
木造のこんな天主堂で
歌が聴けたらね
上杉さんの
どんなふうにゆきわたるのだろう
ドイツやスイスや
あちこちの教会でも歌ってきたひとだもの

「ここにいます」
囁く信者に
驚いた司祭の住まいや羅典神学校が
緑にふちどられ傍らにある
天主堂のうちがわは胸におさめるしかないけれど
開け放された窓の外にも
ステンドグラスの色はこぼれているから
にじむ雨のあと鎧戸の窓の開け放されたありさまを写す
堂をこぼれる冷気と色とりどりが写る

坂から坂へ
グラバー園の紫陽花は雨気を含んでいたけれど
邸宅をめぐるうち
港を見おろす庭はすっかり乾いていて
喉が渇いた
お腹もすいたよと
昼どきを逃してお茶とカステラ
眼鏡橋も出島も気になるけれど
洋館好きの母と私としては
写していい窓も階段も
通りすぎるのが惜しくて
部屋から部屋へ幾度も
行きつ戻りつ

爆心地も平和公園にも行かなかった
代わりに伊王島
軍艦島の手前なんだね
ここも一時は炭鉱だったんだ

信者「発見」の明治ではなく
昭和初めに建てられたという馬込教会は
バス停の真上
上ってものぼってもまた階段で
母の足もとが気になる
大丈夫? ときいて
大丈夫ではなくても上ってしまう
母だから
きかない
少し離れて上る
陰のない海べりの高台すっくと白く
日曜のまひる
礼拝のあとだろうか
歌も祈りの声もない
ただ窓から
青や黄いろの光が降って

ふりかえってまた
デジカメを向け携帯を向ける
階段まで白い
汗をぬぐう
納屋だろうか
通りかかったその時
神父さん、と
神父さん
信者のひとのとりわけ多いという島で
教会の下の道
しんぷさん
女のひとの声に
応える気配
なんねとでもいうような
畑へゆくところでもあるような
日に焼けたひとの姿
波は目の下に寄せ
バスの時間はまだ先
潮のにおいまで照らすような
まぶしい
ああ
私たちはここまで光を観にきたのだ