焼き芋屋になりたい

根石吉久

 

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佐藤さんから、夕方、フェイスブックのメッセージ経由で、原稿を書くようにとのお言葉があった。それはほんとに「お言葉」なのであり、いまどき俺に原稿を書けなんて言ってくれる人はいねえやと思って生きてきたので、佐藤さんが毎月書くようにと言ってくれたのがうれしく、神棚があれば神棚にあげるべき「お言葉」だったのである。神棚はない。神棚がないからといって、仏壇にあげるわけにもいかない。そもそもその仏壇も、実はないのだ。どうにかしなければいけない。

佐藤さんの言葉が「お言葉」であるのは、私に原稿を書けと言ってくれたから「お言葉」であるだけではない。もともと、佐藤さんの言葉は「お言葉」だったのである。

フェイスブックやツイッターで読む佐藤さんの言葉が、ときどき、なんでだろうと思うくらい透明感がある。これはどこからくるものかわからない。一般には資質という言葉で済ませられるものだろうし、そうだろうが、その資質がどこから来たものかがわからない。
ヒヒョーの言葉が苦手なので、ただ短く断言することしかできないが、佐藤三千魚の言葉はとても透明なのである。透きとおっているのである。我が家は乱雑なので、どこに誰の本があるのかわからないが、私の好きな本は我が家のどこかにある。山本かずこの本、奥村眞の本、佐藤三千魚の本、中村登の本、松岡祥男の本。
脳梗塞をやったが、余命いくばくもないほどではなく、もうちょっとあると思っている。が、それはわからず、好きな本は乱雑な不透明な部屋の中から掘り出して並べた方がいい。並べてみたこともあるが、並べても、妻や娘は、またこんなところに本を出して、と言って、片付けてしまう。私から言わせれば、彼女らは本を再び乱雑の中に埋めてしまうのである。

佐藤三千魚の本は詩集だった。その詩集を読んだ頃から、なんでこんなに言葉が透き通っているんだろうと感じてはいたのだ。
日立の洗濯機ではなかったと思う。冷蔵庫だったのか、エアコンだったのか、何か空気をひんやりさせる製品だったと思う。ヒーターや足温器ではなかったと思う。なにかひんやりさせる日立の製品の製品名が詩集の中にあった記憶がある。こんな製品名でさえ、この詩集の中ではひんやりと透明だ、と感じていた。詩集の言葉だけではなく、フェイスブックやツイッターに佐藤さんが書く言葉もそうだ。(日立はヒタチと書かれていたような…ひんやりさせる製品ではなく、電気こたつだったかもしれない…だが、ひんやりと透きとおるという言葉の印象については訂正する必要はない。)
だから、何も足さない、何も引かない、のサントリー(?)のコマーシャルの言葉通り、佐藤さんからの原稿依頼は私には光栄なのである。私の好きな本を書いた人からの光る「お言葉」なのである。

生活雑記みたいのしか書けないなあと、佐藤さんから原稿を書くように言われた時に携帯電話で話したのを覚えている。メディアの種類はネットだということなので、それなら「枚数」はあんまり気にしなくていいのかなと思った。「枚数(字数)」を気にしなくていい生活雑記みたいのなら、フェイスブックにも書いているし、その延長でいいなら、緊張しなくてもいいのかなとも思った。
原稿、という言葉にわりと緊張する。それがうまくはたらいて、まあまあのものが書けることもあるし、ぎくしゃくしたままでおもしろくないままになることもある。どうせどっちかになるのだが、知ったこっちゃねえという太い根性が私にはある。その時書けるものしか書けやしない。
最近、フィリピンの大学生や若い人のアルバイトで、エーカイワができるネット上のレッスン(?)がある。私が使っているのは、一回30分、月に5回で月額2000円の Sralie とかいうやつである。 フリートーキングの太い根性の生徒である私は、毎回ビール片手にエーカイワの練習をしている。講師に「あなたはとてもスポンティニアスだ」と言われた。エーカイワは下手だから、口から出任せになってしまう。
原稿という言葉に緊張することは嫌いではないのだが、そういえば、エーカイワだけじゃなくて、ゲンコーを書くときも、割と出任せだ。昔から出任せだったのだ。出任せというと語弊があるのかないのか、語弊がある場合は誰に語弊があるのかもよくわからないが、スポンティニアスと言っとこう。

英語の塾をやって生活費をかせいできた。最近になって、負けたんだなと思う。今でも、塾はやっているし、ネット上でスカイプという電話みたいなものを使うレッスンもやっているが、負けたんだなと思う。ついに、人々の幾重にも重なった幻は破れなかった。今、生徒として私のレッスンを使ってくれている人たちは、わずかな人数だ。その人たちは、私が書いてきた語学論に何ごとかを感じてくれたから、私の生徒になってくれた。
大勢の人たちが着込んでしまっている幻想は、どうにもできなかった。まあ、しかし、語学論は少しずつ整理して、ネット上に置いておくべきだろうと思っている。

これもスポンティニアスだが、焼き芋屋をやろうかとピザ窯の作り方を特集した雑誌を読んでいて思った。ピザ窯で焼き芋は焼けないのかとネットで調べたが、ピザを焼く温度より焼き芋を焼く温度の方が低い。だったらできる。焼き芋兼用のピザ窯の設計図を何枚か描き、何度か描きなおした。兼用にしたのは、夏だったらピザも焼くからである。トウモロコシなども焼けたらいい。
実際に煉瓦を積み始めたら、設計図はまるで見ない。すべてが頭の中に入っていて、何も見なくても煉瓦が積めるのである、というのではなく、設計図を見ないのは、設計図とはまるで違うものを作ってしまっているからだ。
久しぶりにブロックや煉瓦を積んでいたら、自宅を自作していた頃の勘が戻ってきて、ああそうそう、こんなふうにやったなと思い出すことがいくつもあった。さすがに家は設計図を無視しなかったが、窯を築く段になったら無視に継ぐ無視。しかし、設計図を描いたのは無駄ではないのだ。ピザ窯というものは基本的にこういう構造なんだなというのは把握したのだ。
屋根をおっぱいみたいに丸くして「おっぱい窯」と命名しようかとか、キノコ状にしようかとか、男根型にしようかとか、お尻がいいなとか、桃みたいな割れ目を入れようかなとか、セメントを捏ねながら、あるいはグラインダーで煉瓦を切りながら、もうもうと煉瓦の赤い粉をあげながら、妄想することすること。
まあ、なんにせよ、エロチックでなくちゃいけないと思い込み始めている。なぜだかわからない。

焼き芋、売れるかなあ。ずぼらなので、庭で焼いて、庭先で売るつもりなのである。売れるかなあ。

英語屋を縮小して、焼き芋屋として終わる。いいんじゃないかと思っている、と書いていたら、急にステンレス板を使った釜の構造を思いついた。描いておかないとすぐに忘れるので、ちょっとそっちに取りかかります。
では、次回。

 

 

小島芳子

 

加藤 閑

 

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小島芳子の弾くハイドンのピアノ・ソナタ(ロ短調、hob.XVI32)を聴く。
フォルテピアノの演奏ということもあって、当然音は軽く、余韻があるとは言えない。この曲は、ハイドンのソナタの中では取り上げられることの多い作品だけれど、現代ピアノの演奏に慣れていると、最初は薄っぺらで物足りない演奏と感じることがある。たとえば一時よく聴いていたリヒテルのライブ録音と比べると、それは歴然としている。しかし、すでに大家となっているリヒテルは、この曲はこう弾くんだと言わんばかりに演奏する。もちろんそれは聴く者に安心と心地よさを与えるのだが、ある意味では充足してしまっている。

小島芳子の演奏はちがう。演奏しながら常に音楽に問いかけ、考えながら、あるいは対話をしながらピアノを奏でている。そんな印象をつよく受ける。だから、決して流麗に音楽を聴かせるというものではない。しかしこの演奏からは奏者の音楽への献身が伝わってくる。その真摯さは、聞き手にも同じ真摯さで音楽に立ち向かうように促しているかのようだ。こういう演奏をするピアニストは多くはない。

今、わたしの手元には、この人の演奏したCDが6枚ある。ソロ演奏のベートーヴェン初期ピアノ・ソナタ集、ハイドンのピアノ・ソナタ集、鈴木秀美との共演で、ベートーヴェンのチェロ・ソナタ集3枚(1枚はシューベルトのアルペジオーネ・ソナタを含む)、そしてチェロとピアノの小品集「ロマンス」。これらの録音を聴くと、一度はコンサートで直接聴いてみたいという思いにとらわれる。しかしそれはかなわぬことだ。小島芳子は2004年5月に43歳の若さで亡くなっている。

 

インターネットで検索すると、『小島芳子のサイト』というのがある。小島の死後、家族の手で立ち上げられたサイトで、「はじめに」と題された挨拶文では、道半ばで世界から消滅した芳子の記録を人々の目に触れる形で残して置きたいとの思いが綴られている。この文章には、父親の小島順の署名があり、日付は5月23日、死のわずか2日後である。

さらにサイト内には、同じ小島順の名前で「闘病生活」というページが設けられており、2002年8月の骨折の治療で肺癌が発見されたときから、昭和大学藤が丘病院での手術、郡山トータル・ヘルス・クリニックへの転院を経て、2004年5月21日の死、22日の火葬に至るまで、実に克明な、かなりの量におよぶ文章が掲載されている。父親としてできるだけ冷静に、客観的にすべてを書き留めたいという意志と、娘である小島芳子を失った無念さが、ひしひしと伝わってくる文章だ。日付は5月24日。娘を看取って火葬に付すという人生の大事件のさなかの3日間にこれを書き記すのは大変なことだと思う。あるいは逆に、いわば普通の状態でない時間の中にあったから書けたのかもしれない。ここには、「はじめに」で「世界から消滅した芳子」という表現がとられていたように、この事件をまだ娘の「死」としては受け入れられない父の苦悶がある。そう思ったとき、結婚間近の娘を交通事故で亡くした別の父親の話を思い出した。

 

鹿嶋敬は、10日前に結納式をすませたばかりの娘をボリビアでの交通事故で失った。彼は死んだ娘を絵でよみがえらせようと、写実画家の諏訪敦に娘の肖像画を依頼する。NHKの「日曜美術館」は、この様子を「記憶に辿りつく絵画~亡き人を描く画家」というタイトルでとりあげた。(2011年6月26日放映。翌年2月にはアンコールの再放送もされたから視聴者の評判もよかったのだろう)

番組は、娘、鹿嶋恵理子(当時30)を亡くした両親が、写真ではできない娘の再生を諏訪に託すところから始まる。この番組にしては、作品や作家の紹介は少なく、それよりも娘をよみがえらせたいと願う両親と、その困難に立ち向かう画家の物語に重点が置かれている。

ちょうどこの頃、諏訪市美術館で諏訪敦展『どうせなにもみえない』(2011年7月28日~9月4日)が開かれ、それにもこの作品は展示された。日曜美術館で紹介された両親のデッサンや、手を描くために諏訪が京都の佐藤技研に製作を依頼した鹿嶋恵理子の義手、絵画制作時に両親から提供された衣服などもいっしょに展示された。これらはすべて、図録を兼ねて発行された同タイトルの画集(求龍堂)にも掲載されている。

正直言って、作品としてみた場合の「恵理子」は、会場のほかの作品と比べると見劣りがする。肖像画として見ると、成山画廊オーナーの成山明光や日本画家松井冬子を描いた作品の存在感に比ぶべくもないし、人物像として見ても、展覧会タイトルとなった「どうせなにも見えない」をはじめとする、画家の表現意識を具現化させた絵とならべると作品として弱い印象は否めない。

しかし、諏訪敦は肖像画「恵理子」とともに、クライアントの鹿嶋敬の思いも、実在しない人物を写実絵画で表現するための時間や努力も、その試行錯誤をふくめた一切をひとつの作品として展示した。もちろんそこには、展覧会に先立って放映された「日曜美術館」と、展覧会の後も書物として残る画集も、あたかも時間の流れを誘う架け橋のように存在している。こうして「恵理子」は、他の作品と伍して展覧会の一角を占めているのだ。

 

家族の死は、特に若い家族を失うということは、残された家族に特別の、嘆きや哀悼を超えるほどの気持ちを喚起させる。それはしばしば、その死をどうしても受け入れ難い気持ちにさせる。子を亡くした親が、いつまでも子ども部屋をそのままにしておくのも、そうした心の表れだろう。『小島芳子のサイト』にもそれを感じる。すでにリンク先には存在しないサイトもいくつかある。父親自身も、サイト開設後の発信は、一周忌にあたって「一年たって」という短い文章で芳子の墓を紹介したにとどまっている。

パソコンから離れて、わたしはもう一度CDを手にとった。「わたしの演奏を聴いてほしい」彼女自身もそれをいちばん望んでいるに違いない。小島芳子の残したディスクは、数は多くないけれどどれもみな質の高い演奏だ。特にソロのハイドンとベートーヴェンはフォルテピアノの特質が音楽を引き立てている。作曲家の生きた時代に、次々と新しい音楽の要求にこたえていった楽器の清新さを感じ取ることができる。

鈴木秀美と組んだベートーヴェンのチェロ・ソナタ全集にもそれはあるけれど、それ以上に、ここではもっと音楽の幅が広くなっている。鈴木秀美という才能と出会ったことで、小島芳子の演奏の奥行きも増しているようだ。とりわけ、最初に出た1番、2番を収めたCDは素晴らしい。若いベートーヴェンの音楽がいま生まれたばかりのように新鮮にあふれ出てくる。いっしょに収められた変奏曲も同様で、これらの曲がこんなに魅力的に聞こえたのは初めてだった。3番以降の演奏も悪くはないが、これらの曲は、曲想からいってロストロポーヴィッチやフルニエの重厚さに比べると一歩譲る感がある。むしろシューベルトのアルペジオーネ・ソナタが、ピッコロ・チェロとフォルテピアノの音がうまく調和しているようで美しい。

わたしたちは、音楽(の録音)を聴くときに、演奏家の生死を云々することはない。小島芳子の演奏はこれからも聴き継がれるだろう。しかし、それと遺族が故人を悼む気持ちはまったく別のことだ。音楽と違って、その気持ちは他者と共有できるものではない。あくまでも個人の胸のなかに、忘れられない部分と忘れていく部分が葛藤を繰り返しながら、ふかく沈んでいくように思える。

 

 

ザビーネ・マイヤー

 

加藤 閑

 

20130715_閑さん_3つの貝殻と5つの人形(途中)4

 

吉田秀和の『私の好きな曲』の三番目には、モーツァルトのクラリネット協奏曲イ長調K622がとりあげられている。その書き出しは、ブラームスの調べ物をするうちにクラリネット五重奏曲にぶつかったら、モーツァルトの同じ編成の室内楽がひびいてきたというもので、それに続けて次のように書いている。

「両者の違いは、もう、どうしようもない。ブラームスの曲の、あの晩秋の憂愁と諦念の趣きは実に感動的で、作者一代の傑作の一つであるばかりでなく、十九世紀後半の室内楽の白眉に数えられるのにふさわしい。けれども、そのあとで、モーツァルトの五重奏曲を想うと、『神のようなモーツァルト』という言葉が、つい、口許まで出かかってしまう。」

こう書かれると、たしかにそうかも知れないと思ってしまう。だが、神とは何だろう。人知を超越した作曲の才能をモーツァルトが有していたということか、あるいは一種宗教に近い高潔さをこの曲に感じるということなのか、いま一つはっきりしない。吉田秀和はしばしばこういう書き方をする。彼は、豊かな音楽の知識と教養に裏打ちされた評論家であると同時に、いや、もしかしたらそれ以上に、言葉による表現を実践する文学者なのだ。彼が、みずから表現の素地を形成するにあたって影響を受けたとする交遊録に登場するのが、中原中也であり、大岡昇平であり、富永太郎といった、詩人や小説家であるのも頷ける。

文章を読み進むと、「神のようなモーツァルト」という言い方は、この章の主題であるクラリネット協奏曲が、モーツァルト最晩年の作品であり、洗練されたかなしみともいうべき精神性を獲得している曲であることを語るための伏線だったことが分かってくる。ピアノ協奏曲第27番ロ長調K-595と並んで、しばしば「天上の音楽」と称される曲であれば、それをつくった人が「神のよう」であるのは当然のことである。

吉田秀和が、常に読者を意識しながら文章を書いているのも、彼がいわゆる「音楽評論」ではなく、「読み物」を目指していたからではないかと思うことがある。いつぞやは、グレン・グールドがシューベルトの最後のソナタ(第21番ロ短調、D-960)を弾いている夢で目が覚めたという文章を書いていた。クラシック音楽の愛好家でグールドに関心を持っている人なら絶対に考えずにはいられないこと(それこそ夢のまた夢)を寝覚めの夢として書くことで、音楽評論の立場から一歩退いてみせるのは、心憎いばかりだ。

わたしもはじめはモーツァルトの曲に惹かれた。クラリネットに弦楽四重奏という編成が同じであるため、この二曲は1枚のCDにカップリングされることが多い。最初よく聴いていたのはアルフレート・プリンツの演奏したディスクで、その頃はモーツァルトが終わるとブラームスは聴かずにプレーヤーを止めていた。しかし、何度か続けて聴くうちに、ブラームスの曲に心を奪われるようになった。神の高みよりも人間の猥雑さの方が面白いと思ったのだろうか。

ふたつの五重奏曲の楽譜を開いて見ると、「神」と「人間」の違いがよくわかる。モーツァルトの方はどのページを開いても見た目に大きな違いはなく、音符も適度に散らばっていてすっきりそしている。(わたしは音楽の勉強をしたわけではないので、ここでは純粋に視覚的な意味で楽譜を見た印象を言っているにすぎない)そして、クラリネットと弦楽四重奏があたかも会話をするように、旋律を交互に演奏するようなかたちが全編にわたって続いている。

一方、ブラームスの方はというと、音符の密度の薄いばらけた感じのページや、やたらと細かな音符が絡み合っているページが順不同に出てくる感じで、なるほど人間の世界とはこういうものだと改めて実感させられる。クラリネットと弦楽器も、対話をするかと思えば一緒に同じ旋律を奏でたり、あるいは喧嘩をしたりといった塩梅で、モーツァルトよりよほど落ち着かない。しかし音楽を耳で聞いてみると、楽譜を見較べたときほど違う性質のものだとは思えないから不思議だ。そういう意味では、あの単純に見える楽譜でこれほど深みのある音楽を聞かせるモーツァルトは、やはり神に近いのかもしれない。

吉田秀和の『私の好きな曲』のせいでわたしはあまりに「神」と言いすぎてしまった。実際、「神のようなモーツァルト」という言葉は、あの本の中でもっとも印象深い忘れられない文句だった。しかし、ふたつの五重奏曲を繰り返し聴いたり、楽譜を眺めたりしていると、やはり二曲の間に横たわる時間というものを考えないわけにはいかない。モーツァルトのクラリネット五重奏曲の成立が1789年。ブラームスのそれは1891年。わずか100年あまりと言うこともできるが、産業革命が起こって世界の変化の車輪がにわかに加速していく時代の100年である。精神や表現の世界にも大きな変化が生じることに何の不思議もない。二つの楽譜の印象の違いは多分この100年に起因している。

ブラームスのクラリネット五重奏曲は、ザビーネ・マイヤーとアルバン・ベルク弦楽四重奏団のCDを聴くことが多い。有名曲だから録音は多いが、演奏はこれが傑出していると思う。ザビーネ・マイヤーは、カラヤンがベルリン・フィルの首席奏者にしようとしたが、楽員の総スカンをくって実現しなかったことで一躍有名になった人。美人だけれど唇が薄く(クラリネットやオーボエの奏者で唇の厚い人というのはあまりイメージできない)、ちょっと酷薄な印象を与える顔立ちだ。

一緒に演奏しているアルバン・ベルク弦楽四重奏団がまた上手い。ウラッハはもちろん、ライスターなどかつての名人のディスクでは、クラリネットが強すぎると感じることがあったが、この録音では、(当たり前のことだが)5人でひとつの曲をつくっているという印象に終始する。強音も弱音も、その移り変わりも、あくまで自然に流れる。それでいて聞き終わった後の充足感は他のどの録音にも負けない。この曲に関する限り、当分わたしにとってのベスト盤は動かないような気がする。

実は、わたしはザビーネ・マイヤーについては、これ以上のことはほとんど知らない。たくさん出ているディスクも、聴いたのは数点にすぎない。その中にはアルバン・ベルクとの共演盤の8年前に録音されたウィーン弦楽六重奏団とのブラームスの演奏が含まれている。そしてそのディスクには、ブラームスのクラリネット五重奏曲からさらに100年近くの歳月を経て書かれたもう一つのクラリネット五重奏曲収められている。

作曲者はユン・イサン(尹伊桑)。彼は生涯に二曲クラリネット五重奏曲を作っているが、これは1984年に書かれた最初の方。昔「オーボエ協奏曲」を聴いたときもそうだったけれど、彼の曲は聴き手に「耳を澄ませ」と命じるかのようにはじまる。しかし聴いてみると、わたしの感覚では、ブラームスよりもモーツァルトに近い。近いけれど、多分、神はもういない。

クラリネット五重奏曲はブラームス最晩年の作品のひとつだ。遺書まで書いて生涯の店仕舞いをしようとしていた彼の前に、ミュールフェルトというクラリネットの名人があらわれた。ブラームスは彼の演奏に触発されて、二曲のクラリネット・ソナタと、ピアノとチェロによるクラリネット三重奏曲と、そしてこの五重奏曲を書いたのだった。いずれ劣らぬ名曲揃いだが、やはり五重奏曲が素晴らしい。ブラームスの音楽に対して、よく哀愁とか諦観とかといった評言がつかわれるけれど、この曲はそうした彩りに満ちている。

何日か前、わたしはたまたま一人だった。夏の夕暮れの芝生が眼の前にあった。ふと子供じみたことがしたくなって、芝生のうえに仰向けに寝転んで空を見上げた。暗みかけた空を雲や鳥たちが横切って行った。そのときわたしは、青い空に無数の黒い線や影が広がっていることに気がついた。ちょうど傷だらけのガラスを顔の前に置いて空を見上げているような感覚だった。それが自分の眼についた傷だとわかったとき、こんなに眼を傷めるほどの時間をもう生きてしまったのだという思いが急にこみあげてきて、すぐには立ち上がることができなかった。眼は空いたままなのに、空はどんどん暗さを増していくのだった。

 

 

叫び声をあげてみる 鈴木志郎康 新詩集「ペチャブル詩人」について

 

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書肆山田から出版された鈴木志郎康さんの新詩集「ペチャブル詩人」を読んだ。

詩人はこの詩集の場所に至って大きな自由を手に入れたと思えた。
とても寂しく大きな自由を手に入れたと思えた。

詩集のタイトルにも使われている「蒟蒻のペチャブルル」から一部を引用してみます。

瞬間のごくごく小さな衝撃と振動。
ペチャブルル。
夕方のペチャブルル。
わたしの手を滑らせた、
スルリと落下、
手加減が狂って、
75センチ下の床に
コンニャクが落ちた。
ただそれだけのこと。

(中略)

それからひと月余り経って、
今夜、晩秋の雨の夜、
庭の枯れ葉が雨滴に濡れて揺れ、
窓からの光に照らされ、
雨水が光っているのをしばらくの間、見ていた。
闇の中に植物の葉がが光っている。
小さな光に見とれる人、
わたしこと、一個の詩人。

(中略)

葉を揺らす雨滴はスヌヌッーと無音の
極極の小さな衝撃と振動。
光の震える。

だから、どうだっていうの。
じれったいね。一個の詩人さん。

年老いた一人の詩人の現在の境涯が語られている。
「じれったいね。一個の詩人さん。」なんて茶化しているが、ここには大きな空白がありそのなかに自由があるように思われる。

晩秋の庭の雨にぬれた枯れ葉や植物の葉が光っていて詩人はそこになにものかをじっと見入っているのだった。

詩集の「あとがき」に詩人の空白についての説明があり、また引用させていただきます。

つまりわたしの空っぽ感は社会的な身の上のあり方と身体的なあり方が重なって生じているものと思えます。そういう心身のあり方の状況でこの『ペチャブル詩人』に纏められた詩は書かれたんですよ。始めの方の三分の一の詩は2008年から2010年までに書かれていずれかの雑誌に発表され、あとの三分の二は空っぽ感が強くなった2012年から今年の春までの一年間で書かれました。

この空白感の実質は「一人で階段を、もう一つ杖の詩」という、「二本の杖」「一人で階段を」という二つの作品で構成された作品に詩人の現在の場所がしめされていると思われ、「一人で階段を」という作品の全文を引用します。

一人で階段を

一人で
杖をついて、
階段を
降りるのは、
寂しい。

この子どもが書いたような素朴な印象の詩を読んだときわたしは詩人の自由な戦いと到達をみた思いがしました。

2011年に出版された詩人のエッセイ集「結局、極私的ラディカリズムなんだ」(書肆山田)のなかの「詩の実質(極私的詩ノート)」が思い出されました。以下、一部引用させていただきます。

・・・・・詩集を開くと、そこに並んでいる活字の言葉がわたしに真っ直ぐに向かってこないで、わたしを掠めて別の方向に向かっていってしまう。「ああ、この人は詩を書いてしまった」という思いが浮かぶ。その詩を書く寸前に彼の頭に渦巻いていた筈のクオリアが、郵便物として運ばれているうちにすっぽりと落ちていて、それを掴まえようがない。詩を書いちゃだめなんだって、変なことになっているわけです。先日「読詩困難症」になっていると言ったら、笑われた。ところが詩を書いている当人が目の前にいると、その詩が頭の中で渦巻いていた実感の滴となってしたたり落ちたものとして受け止められるんですね。どうしても、書いた方は書いたときの気持ちとか意図とか、あるいは隠していた意味とか話したくなる。そこです。言葉の生活、それが人間というものじゃないですか。詩を取り戻すというのは、言葉の生活を共有することですよ。

ここで詩人が語っている「詩」は、文化的な「作品」としてとらえることから、「詩を書く」という継続する行為のなかに「人として一つの個体であることを極点に据える」ことでかろうじて「詩」を捉え直すことの可能性が目指されているのでした。

例えば、「ウォー、で詩を書け」と「キャーの演出」という詩があります。

ウォー、で詩を書け

ウォー、
ウォー、
叫んで詩を書け、
ウォー、
大声で怒鳴れば、
頭は空っぽになる。
ウォー、
そこで詩を書け
思うな、
考えるな、
ウォー、
ほら、跳んだ。

さてと、叫んだら、
言葉が引っ込んじまった。
言葉って、
浮かんでくるのを待つのかい。
引っ張り出すのかい。
詩の言葉は用向きじゃないから、
身辺を遮断する。
向かう気持ち。
向かう気持ち。
いいなあ。

 

「ウォー、で詩を書け」全文です。

「キャーの演出」も全文引用したいのですが、「キャーの演出」は詩集で読んでみてください。

このような詩をわたしが70歳代後半で書けるだろうかと考えたとき困難に思えるのです。ここには意図された言葉についての考えがあると思われるのです。

「人として一つの個体であることを極点に据える」ことでかろうじて「詩」を捉え直すことの可能性が目指されているのだと思われるのです。

わたしは以前から鈴木志郎康さんの詩を読むと画家のフランシス・ベーコンを思い出してしまうのです。

戦艦ポチョムキンのなかの叫びのように「法王が叫んでいる」フランシス・ベーコンの絵を思い出してしまうのです。

あの絵には魂の叫びがある。

作品をさまざまな文化的なコンテクストから仮構することではなく、フランシス・ベーコンの絵には彼の生と密接な逃れられなさがあるのです。

「人として一つの個体であることを極点に据えて」世界と対峙するとき頭の中に渦巻くリアリティを現前させることの先に何ものかをみつけだすこと。

「人生って、寂しいことか」

「三つの短い詩」

「時間の極私的な哲学」

「表現の裸形」

「風が激しく吹いている」

などなど、この詩集にはまだまだ語りたい詩がたくさんあります。

「時間の極私的な哲学」という作品のなかに詩人が庭の草の葉の先に見ているものがあるのだと思われます。

時間ってことを言葉で言ってみると、
持続と切れない切断って言える。
充ちていく持続が、
切れない切断に遭って、
空っぽになる。
空っぽの持続が、
切れない切断に遭って、
充ちていく持続が生まれる。
そしてまた、切れない持続が空っぽになる。

 

ここにこの詩人が発見した場所があるのだと思われます。

ここが出発点であり到達点があるように思われてもくるのですが、まだまだ詩人の空白はこれからも続くのです。

わたしも、まずは、ウォー、キャーと叫び声をあげてみることから、初めてみることにしたいと思います。

 

 

 

カティア・ブニアティシヴィリ

 

 

加藤 閑

 

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なかなか一度では覚えられそうにない名前のピアニストだけれど、顔はすぐに覚えられる。美人だからだろうか。ピアニストに限らずこのごろの女流演奏家には美人が多い。天は惜しげもなく二物を与える。

2枚のソロ・アルバムが出ている。ショパンとリスト。ジャケットの写真は前者の方がいい。

大写しだし表情ももの憂げであまりピアニストらしくない。

この写真と、自分にとってはショパンの方に親しみがあるのを理由にショパンを買った。悪くないけれど、ラジオで聴いたときの方がインパクトがあった。

 

今年の3月、車の中のFMで初めて聴いた。ラジオをつけたときはちょうどショパンのスケルツォの1番と3番をやっていた。演奏会の録音なのだろうけれど、その紹介の部分は聞かなかった。

特に1番は息をのむ速さ。このひとは緩急の移り変わりを鮮やかに弾きこなす。指の早くまわることといったら、しかもそれを聴衆にひけらかすような、得意気なピアニストの表情まで見えるような演奏。リヒテルの「ソフィア・ライブ」でシューベルトの即興曲を聴いたときのことを思い出した。あのディスクではリヒテルもこれみよがしにピアノの音を切るように引いていた。「どうだ、上手いだろう」と言わんばかりに。

カティア・ブニアティシヴィリは1987年グルジアの生まれだから、まだ25、6歳の若さということになる。十代のころから活躍はしていたらしいけれど、ディスクデビューということを考えると、決して若くはない。どちらかというと成熟した女性のピアニストとして現われたという印象が強い。

CDで聴いてみると、スケルツォの1番も特別に演奏時間が短いというわけではない。それでも速さに圧倒されるように感じるのは、速いところとゆっくりしたところの差を際立たせるような演奏のせいだろうか。

 

1ヶ月ほど経って、また帰りの車でブニアティシヴィリの演奏を聴く機会に恵まれた。この日は昨年11月にサントリーホールで行なわれたクレーメルの室内楽演奏会の録音だったが、ピアノがカティア・ブニアティシヴィリというので聴いてみる気になった。プログラムは、フランクのピアノ三重奏曲(第一楽章のみ)、フランクのヴァイオリン・ソナタ、チャイコフスキーのピアノ三重奏曲「偉大な芸術家の思い出」というもの。このなかでは、有名なフランクのヴァイオリン・ソナタがもっともブニアティシヴィリの特徴が発揮されるだろうと思ったが、実際聴いてみるとその通りだった。特に第二楽章の冒頭など、リズムをためて実際以上の速度を感じさせる独特の弾き方が効果をあげている。

彼女のピアノを聴くと、いつも「命」について考えてしまうのはどうしてだろう。今年に入って、かつての同級生やいっしょに同人誌を出した仲間を3人続けて失った。だからわたし自身が「命」というものに敏感になっているのかもしれない。年をとってくると、それは生とか死とかとは少し違うものに思えてくる。もっと「存在」というものに近い、わたしをわたしたらしめている力のようなもの。それを女流ピアニストの演奏に見出したいと願っているのはわたし自身かもしれない。

ブニアティシヴィリのピアノを聴いていると、激しいピアニストの動きが見えるようだ。わたしは彼女の演奏を直接見たことはない。それなのに全身全霊で鍵盤に向かい、指どころか拳で、腕全体で、最後には自らの体を打ちつけるように演奏する様子がまざまざと見える。