また旅だより 35

 

尾仲浩二

 
 

どうやら梅雨が明けそうな東京。
長い暗室作業が終わった。
コンタクトシートを見て選んだカットのネガを取り出す。
時計の修理の時に使う様なレンズを目に挟み、ネガに付いている埃を取る。
ネガフィルムをネガキャリアに挟み引伸機に入れる。
イーゼル上でトリミングを確認しルーペでピントを合わせる。
ポイントとなる部分にテストピースの印画紙を置き露光。
自動現像機にテストピースを挿入し、しばし待つ。
出てきたテストピースを水洗し乾燥機へ。
テストピースをチェックして露光時間と三色のフィルターを調整。
調整作業を幾度か繰り返し、落とし所を見つけ本番プリント。
色味、露光時間、見落としていた埃など調整して再度プリント。
この作業を暗室で25日ほど続けていた。
来週からは猛暑となるのだろうか。

2021年7月15日 東京中野にて

 

 

 

 

夢素描 15

 

西島一洋

 
 

野原(草叢)

 

牛蛙が鳴いている。
断続的にあちらから、こちらから。

断続的ではあるが、そのひとつひとつの声は、長い。

低いのもあるが、時折間違えたように、高いのもある。
高いというか、突っかかったようで、
間歇泉のように、不規則だ。

おそらく、一度だけ食べたことがある。
一度だけだ。
もうニ度と食べたくないと思ったわけでは無い。
普通にうまかった。
でも、食べるときに、あの声は聴こえなかった。
心の中でも聴こえなかった。

牛蛙の姿は知っている。
捕まえたこともある。
殿様蛙の色を鈍くしたような感じで、確かにデカイ。
これを見て食欲は湧かない。

牛蛙は本当に牛が鳴いているような声を出して鳴く。
低く、大きい。
夕刻というか、日没後の薄明かりのなかで、壮絶に鳴き合う。合唱ではないが、地から盛り上がったようなうねりがある。

でも、静かだ。
確かに鳴いていてうるさいはずなのに、静寂を感じてしまうのは何故だろう。
もとより、この声は無かったのではないか。
幻聴ではないか。

幻聴だ。
幻聴だ。
正しく幻聴だ。

耳鳴りみたいなものか。
大きくあくびをしよう。
できるだけゆっくりと。

肩が痛い。
腰も痛い。
膝も痛い。

風呂に入るか。
水風呂か、湯風呂かで迷う。
面倒なので、もう一度寝よう。

とっくに、牛蛙はいなくなった。

もう一度牛蛙の夢を見よう。
草叢を歩くところから。
いや、自転車でも良い。

牛蛙はもう居なくなった。
だから、声も無くなった。

もう一度、草叢だ。
夕暮れ。
といっても太陽はすでに沈んだ。
沈んだことに気がつかなかった。

遠くの方に、かろうじて薄明かりが見える。
どんよりと暗い。

草叢は、文字通り草の塊だ。
匂いがする。
草の匂いなのか、泥の匂いなのか。

蛙の声は無くなった。

やはり、草の匂いだ。
草の匂いが音を発している。

僕は自転車でその横を通り過ぎる。
草叢は塊になって、あちらこちらに散在している。

不思議と草叢の中に突入することはない。
礫層がむきでた黄土色の坂を上がると、不意に空が見えた。

そうか、まだ、いくらかは明るいのだ。
しかも、この中途半端な明るさが、ずっと続いている。

草叢は、遠い景色だ。
蛙の声はどうしたのだろう。
とんと、聴こえぬ。

草叢はとっくに集まって密談をしている。

 

 

 

「虚対虚」の言葉から透けるナイーブな私

中村登詩集『プラスチックハンガー』(一風堂 1985年)を読む

 

辻 和人

 
 

 

中村登の第一詩集『水剥ぎ』は、暗喩を多用した、一見意味の辿りにくい言葉でできた詩集だった。しかし、中身は作者の少年時代から現在までの生活史を忠実に追ったもので、比喩が生活のどういう局面を指しているかは容易に想像ができる。比喩は深い含みを持ってはいるが、言葉と現実が一対一の直接的な対応を見せているという点で、実は極めてシンプルな構造を備えている。しかし、3年後に刊行された『プラスチックハンガー』では様子が異なっている。この詩集も暗喩が多用されているが、『水剥ぎ』のように言葉が作者の現実を素直に指し示してはいない。作者の実生活や心情がベースにあることはわかるが、言葉の示す範囲が曖昧であり、意味を明確に把握することができない。言葉と現実が直接対応するのでなく、現実を挟んで、言葉と言葉が対応している。前作より複雑で手の込んだ技法が盛り込まれていると言えよう。
巻頭に置かれた表題作「プラスチックハンガー」を全編引用してみる。

 

空0ズズズーッとひきずりおろすと
空0腹が割れて
空0左肩、右肩の順に出している
空0右ききの右手で
空0欲しかった
空0褐色の革ジャンパーを脱いでいて
空0屠殺された牛の皮だ
空0屠殺する
空0男の手がある
空0のだと思いもしなかった
空0生きていた牛の手ざわりもない
空0鞣皮を
空0キッパリと脱ぎ捨てるそこに
空0仄白い
空0首が出ている
空0手が這い出している
空0ぴくぴくと引きもどされては
空0指が逃げている
空0牛の鞣皮を着た男に追われる
空0私の夢の中にまだ
空0妻はいてくれたのか
空0見ていた胸が
空0隆起していた その女は
空0電車の中でクリーム色のコート
空0暗く着ていた
空0膨んだ胸のコートを脱いで
空0パタン とこうしてタンスをしめるのだろう
空0コートをハンガーに掛けたのだ
空0プラスチックのそれに
空0「日々の思いを吊るす」のだとは

空0ツルリ
空0のびる舌を
空0巻きあげていく
空0真っ赤な内臓がぬたっている
空0その男もその女も
空0股に股たぎらせもっとしていくらしても
空0よくなって疲れて
空0眠っているのだ
空0眠っている妻の声が
空0耳に
空0耳の奥に 耳の奥底に木霊しているが
空0………
空0闇のお宮の怖い大根(おおね)の間を
空0子供の私と妻が
空0足音を殺して駆け回っている

 
 
場面としては、牛革のジャンパーを脱いでプラスチックのハンガーに掛ける、というだけである。ジャンパーは欲しくてやっと手に入れたものだが、手にした途端、それは衣類というカテゴリーから離れて、原材料である牛という生き物に行き着く。牛がジャンパーになる過程では「屠殺」が不可欠だ。生き物の命を奪うという行為である。「屠殺する/男の手がある/のだと思いもしなかった」ということは、購入する際は思いもしなかったが今は実感しているということだ。話者は「鞣皮を/キッパリと脱ぎ捨てるそこに/仄白い/首が出ている」と、屠殺された牛同様の自身の命の無防備さを感じる。ついさっきまで何とも思わないでジャンパーを着ていた自分が、今度は牛を屠殺した男になり代わり、無防備な自分を殺しに来る場面を夢想し、更にその夢想の中に「女」が現れる。その直前に「妻はいてくれたのか」の一行があり、誰かは知らない架空の「女」であることがわかる。
クリーム色のコートを着ていた女は、帰宅して、話者同様コートをハンガーに掛ける。その何気ない行為には生活の鬱屈が詰まっている。話者は妻とともに床につくが、夢想の中の男女は鬱屈した生活を忘れようとするかのように激しい性行為に耽る。それは命を生み出すものだが、牛の屠殺のイメージが濃厚なため、むしろ命の危うさを印象づける。話者と妻は、性を知らなかった子供の頃に立ち戻り、その際どさに恐れおののく。
現実の場面としては、牛革のジャンパーを脱いでハンガーに掛け、妻とともに就寝する、というだけである。が、製品であるジャンパーが、元は牛を殺して作られたものであるという事実を強迫観念のように打ち出し、拡大することで、平穏な日常の裏に潜む危うさを見事に表現していく。部分を見ると、整合性の取れない不条理なイメージの連なりのように見えるが、全体を見ると、生命体である限り脆いものでしかない私たちの日常の危うさが象徴的に浮き上がってくる仕掛けになっている。

この飛躍の多い書き方は全編に渡っており、逐語的に意味を取りながら読もうとすると混乱する。言葉と現実が対応しているのでなく、言葉と言葉が対応した、「虚対虚」の空間を作っているのだとわかれば、一気に流れが掴める。

 

空0あした6時に起こしてくれるう
空0なんてゆう
空0起こして下さい は他人行儀だし
空0起こせ! は指導者風だし
空0すると起こしてくれるう、の
空0るう は水に溶ける
空0ルーさながらに聞こえるらしく
空0ホント ホントウに起きられるの とくる
空0ルーに 本当はきびしい
空0ルーは溶けてユラユラとただよい出す
空0頼りない 今までがそうだったから
空0ユラユラとホントウの関係は
空0不実なコトバ
空0とかを飼ってしまう
空白空白空白空白「朝のユラユラ」より

 

家族にモーニングコールを頼むという場面を描いているが、もちろんこの詩のテーマはそういう実用的なことではない。「くれるう」と伸ばした語尾の音を問題にしている。「るう」「ルー」「ユラユラ」といった、脱力的な語感に徹底的に拘り抜き、奇妙な論理の流れを作っていく。

 

空0不実 とかゆわれ いくどもいくども絶対と
空0石のようなモノをむりやり飲みくだしたので
空0男の喉はぐりぐり隆起しておまけに
空0ぐりぐりをふたつも袋に入れている
空0ユラユラの中に沈んだっきり
空0石のように重いモノは
空0なかなか起きあがれやしない それが
空0ユラユラと石のようなモノとの関係であって
空0少しいい訳がましい
空0とにかく起きてやんなきゃなんないって
空0決めたんだよ!ついまたいきむ

 

こんな調子で、ナンセンスな思いつきから無責任に比喩を作り出し、比喩のまた比喩、そのまた比喩というように、どこまでもつなげていく。時間が許せば永遠に続けられるだろう。発端は、人にモーニングコールをお願いする際のちょっとした遠慮の気持ちなのだが、元の現実のシーンからどんどん離れ、現実に帰着しないような、意味の空洞を堅固に造形していくのである。ここで作者が書きたかったものは、気分の浮遊そのものであろう。今さっき「現実のシーンからどんどん離れ」と書いたが、実用的なことから離れて気分がユラユラ浮遊していくという状態は、日常の中でよくあることである。つまり、作者は理性で把握しやすい現実から故意に離れることで、実は現実の中に存在する、理性では掴み難いある意識の様態を明確に描き出しているというわけなのである。

端的な言葉遊びの詩としては次のようなものがある。

 

空0

磨かれた鉄の唇を吸って

空0

丸太まぐわい毛深いまぐわい それでか

空0

「中村君は女の人のおとを犬か猫かにしか

空0

考えられないひとだからね」 その

空0

犬にも猫にもニンゲンの女性器を

空0

移植できないかと願っていたのだ

空0

肉欲の独裁

空0

にくのさかさが

空0

くにのさかさが

空0

じゅにく

空白空白空白空白「板の上」より(太字は原文ママ)

 

空0みみにじじじじい
空0みみにじじじじい
空0みみにせみがとんでいます
空0みみにきをうえます
空0ふゆのせみがふゆのきにとまります
空0じじじじじじいっと
空0ふゆのつちに
空0しもがおります 
空0うわっ しもうれしい うわっ
空0うれしいしもふんで
空0ぐさぐさぐさぐさぐさあっと
空0ふゆのせみをつかまえようって
空0こどもがかけてきます
空白空白空白空白「しもやけしもやけ!」より

 

どちらの詩も、どこへ行くのかわからない、不定形な言葉の流れが特徴的である。「板の上」では、人間の女性器を動物に移植するという、気味の悪い思いつきを連ねているが、ただただ言葉を弄んでいるだけで、背徳的な観念を深めようなどとはしていない。「しもやけしもやけ!」では、真冬の霜が下りる時季に蝉が現れるというナンセンスそのものの設定で、こちらもただ言葉を弄ぶだけだ。意味の上での展開は重要ではない。逆に、これらの詩では「言葉を弄ぶこと」自体が重要なテーマになっている。言葉は、意味としての発展はないが、流れとしてはどんどん発展していっている。空疎な思いつきがあるリズムをもって次々と流れ出る、ということは、そうした無為な心的状態を忠実に言語化しているということだ。訴えたい何かしらの観念があるわけではない。言いたいことは何もないが言葉だけは吐き出したい、そうした気分の表出である。これは、無意識の表出を試みたシュールリアリズムの自動記述とは全く異なるものだ。意識の深層が問題になっているのではなく、意識の表層が徹底的に問題にされている。つまり、夢のような奥の深い世界を探っているのではなく、意識は醒めきっているし足は地に着いている。ただ、膠着した日常に対する底の浅い苛立ち、反感といったものがある。そうしたものは誰もが日頃覚えるものであるが、ばかばかしいものとして、次の瞬間には頭を振って打ち捨てるのが常だろう。しかし、中村登はそうした「底の浅い」気分を丁寧に拾い集め、リズムを与えて可視化させる。どこへ行くかわからない不定形な流れだが、何となくそうなっているのではなく、言葉がある核を目指しているように見えないように、固まらないように、常に方向を分散させるやり方で言葉を制御した結果が、これなのである。意識の「底の浅さ」というものを言葉によって組織的に生成させた詩だということだ。

求心性を拒む書法は同時期のねじめ正一の詩にも見られるものでる。

 

空0朝、九時四十八分、シャッターひき上げるや秤見乍ら黒豆袋詰めす
空0す隣りの豆屋の長男におはようございますと挨拶し乍ら、また遅刻
空0時給五百四十円のアルバイト嬢待てずに店の前ざっと掃き、店先ひ
空0ろげる陳列台ひっくり返してはハス向いの阿佐谷パールセンター七
空0年連続商店会長いただく『神林仏具店』の旦那が張り切り弾んでき
空白空白空白空白「三百円」より 

 

この詩における「底の浅さ」の表現は中村登より遥かに徹底している。倫理主体としての作者を完全に排除し、日常における様々な事象を重みづけしないままに精密に描写し、ひたすら並列させていく。これは現実そのものの表現ではなく、現実を素材とした記号の表現と言うべきだろう。そして、冷たい記号の集積による「虚対虚」の表現の向こうから、現代社会に対するフラストレーションが透けて見える構図になっている。
それに対し、中村登は不透明な「個」を手放すことができなかった。

 

空0プラテンを叩く音が見えます
空0向かいの四階で
空0和文タイプライターを打っているのです
空0活字の一本一本はそれほど重くありませんが
空0ピシッとプラテンに用紙を巻いて
空0原稿をキャッチし
空0目指す活字を拾って打ちつけるのは
空0肩が凝ります
空0目が痛みます
空0刷られる前の活字は
空0三ミリ角ほどの鉛柱の頭に
空0逆さの姿で刻まれています
空0文字盤にはどれもこれも
空0見分けのつかない虫のように
空0ゴッソリと隠れています
空白空白空白空白「セコハンタイプライター」より

 

まずは和文タイプを打っている人がいる現実の情景があり、印刷会社に勤めている作者にはその作業がかなりきついものであることがわかる。作者はそこから不意に次のようなファンタジーを生じさせる。

 

空0さてプラテンの円筒に巻く用紙は
空0真っ白な一枚の空です
空0そこに鉛の活字をアームの先でツンとくわえ
空0白い空を満たしていきます
空0「私の目は鳥の空腹」と四階のタイピストは
空0くわえ上げていっては黒々と巣を
空0密にしていきます
空0眼下の野にゴッソリ隠れている虫のなかから
空0おいしい虫を
空0パクン パクパクパクン パクパクパクン と
空0次々に宙に飛び交い
空0その胎で虫たちの魂を転生させます

 

聞こえてくる音から存在を確かめられるだけの「四階のタイピスト」との、想像の中での暖かな触れ合いが描かれる。この暖かさはねじめ正一の詩にはないものだ。意識の表層を描いているうちに、ふっと表面を突き破って深みに嵌ってしまう。

 

空0整然と並んだ鉛の行列の頭をなでて思います
空0肉筆よりも活字を多く見てきて
空0見慣れて美しく感じます
空0見慣れ慣れる慣性は
空0感性をつくるのでしょうか
空0見慣れた手から見慣れた文字が書きつけられ
空0私の肉筆は左へ左へと曲がって右に向きを変え
空0そして左へと蛇行します
空0見慣れても少しも美しくありません
空0不思議なものです

 

手書きの文字よりも活字に美しさを感じると告白した後、作者は子供時代の純情な思い出を掘り起こし、手書きと活字、日常と詩の対比をもじもじとした態度で行う。

 

空0きれいに印刷された活字を手本にして
空0子供の私の手はかじかみました
空0それから肉親を恥ずべき物のように
空0思っていた頃
空0好きになったむこう町の少女とすれ違う時は
空0かじかんでさよならもいえませんでした
空0きれいに印刷された文字が
空0そのむこう町のかわいい少女というわけで
空0とりわけ美しく印刷された少女が
空0詩であるとき
空0肉親をもった私は
空0どうも固くなります

 
 
「セコハンタイプライター」は、現実の細かな描写から入り、言葉遊びを弄しながら、最後は極めて個人的で身体的な体験・感性に降りていくという詩である。全体として言葉を記号として扱い「虚対虚」の関係を構築していくスタイルを取りながら、部分的にそのスタイルに穴をあけ、綻びを作って、極めて個人的なナマな感情を露出させていく。この「破綻」が意図的なものなのか、図らずもそうなってしまったのか、それはわからない。いずれにせよ、中村登の「人の良さ」が滲み出た言語表現であり、そこに詩の魂を感じてしまう。

最後に巻末に置かれた短い詩を全行引用してみよう。

 

空0もしかして
空0そう思って
空0いやそんなことはない
空0と思いなおして
空0駅まで歩いているが今
空0器具せんつまみをひねった
空0という指を
空0渦を巻いてくる
空0人込みの中で探している

空0ないのである
空白空白空白空白「ガス栓」全行

 

出がけにガスの元栓を閉めたか閉め忘れたか不安になる。これに類する経験は誰しもあるだろう。中村登は、歩きながらつまみをひねった自分の指をもぞもぞ探すが、見つからない。自分探しは不首尾に終わってしまうわけである。前作『水剥ぎ』で行った「現実対比喩」の構造を超えた、「虚対虚」の詩を目指したものの、ついどうしても「虚」と「虚」の間に作者固有の現実を一枚挟み込んでしまう、そんな風に見える。「虚」と「実」がぐちゃっと混ざる瞬間がどの詩にもあり、その不透明感が、逆にこの詩集の魅力を形作っているのだ。元栓をひねる幻の指を探して右往左往する意識の運動が、言葉の運びに刻み込まれ、詩集の個性になっている。どこまでもナイーブな作者の人柄が言葉の構築の仕方に素直に表れていると言えるだろう。

 

 

 

あきれて物も言えない 24

 

ピコ・大東洋ミランドラ

 
 


作画 ピコ・大東洋ミランドラ画伯

 
 

工藤冬里のボックスCD「goodman 1984-6」が届いた

 

24回目の5月には、なにを書こうとしていたのだったか?
5月の「あきれて物もいえない」を飛ばしてしまった。

“あきれて物も言えない 21 “では、わたしが毎日、詩を書くことについて、書いた。
2月だった。

“あきれて物も言えない 22 “では、モコと、女と、わたしの暮らしについて、書いた。
3月だった。

“あきれて物も言えない 23 “では、福島の原発汚染処理水の海洋放出ついて書いた。
4月だった。

書くべきことがないのはいつものことだった。
書くべきことがないということをいつもことさらに書いてきたのだった。

詩もそうだ。
はて、困ったと、いつも空を見上げて、書きはじめるのだった。

困ったなと、
あきれるところから書きはじめるのだった。

そして、
6月には、

工藤冬里のボックスCD「goodman 1984-6」が届いた。
ボックスCD「goodman 1984-6」の工藤冬里の音楽を聴いている。

絶句した。
あきれた。

工藤冬里もあの1980年代を生きていたのだったろう。
ほとんどすべては終わっていたように思えた時代だったろう。

絶句の後に、
工藤は、
ピアノの鍵盤を叩いたのだろう。
ギターの弦を爪弾いたのだったろう。

演奏中に電話が鳴ったりしている荻窪のGoodmanという場所で仲間たちと鍵盤を叩いたのだったろう。

わたしはいま、
工藤冬里の「僕は戦車[I am a tank](20 Feb 1985)」に絶句する。

空0戦車の中でまどろんでいた
空0目覚めぬ見張りの鎧の中は血でいっぱい
空0血は戦車の内側に流れ出ていた
空0この辺り一帯は廃墟
空0ペリカンの上に空漠の測り網
空0やまあらしの上に荒漢の測り網が張り巡らされる
空0Singing’ with the harp
空0is prophesying my wars.
空0Singin’ with the harp
空0is prophesying the war. *

そして、「unknown Happiness ‘of’ the past(20 Feb 1985)」に絶句する。
そして、また、「guitar improvisation ‘86 7/3 at home」にも絶句する。

1980年代以降の資本主義は世界を平らに踏み潰していたのだったろう。
わたしもその時代を東京で生きていた。
わたしの知らなかった工藤冬里も荻窪のあたりで生きていたのだろう。
1980年代に「キャタピラー」というタイトルの詩をわたしも書いていただろう。
いま彼と彼の仲間たちの音楽を聴くと不自由の中での自由を感じることができるだろう。

工藤冬里のボックスCD「goodman 1984-6」には、
「パラレル通信」[ GO AHEAD,MAKE MY DAY 1987 5.1 ]という当時の冊子の複写が付録として付いてきていた。
そこには1985年当時の工藤冬里のテキストが資料として掲載されていた。

「私達はコード進行をその生み出す種々の実によって選びとり、更生することができます。決してそこから別の音楽様式が生まれる訳ではありませんが、私達はそのことによって音楽に対する平衡のとれた態度を示すことができます。高さも深さも私達にとって意味のないものになろうとしています。深い精神性なるものも他愛のない子供の歌も同じ平面で考えることができるようになります。それは良い果実を生みだすこと、・・・・・・・・・・何であれそうしたものを思いつづけていることです。」

いま、新聞には疫病や、ワクチンや、非常事態宣言や、宣言の解除や、オリンピックや、オリンピックにおける政府と専門家との意見や、対立や、河合元法相の実刑判決や、原発汚染処理水の海洋放出や、ミャンマーのクーデターと市民への弾圧、香港リンゴ日報幹部の逮捕、イランの保守強硬派新大統領の誕生などなどの記事が掲載されています。

混乱した世界のなかで人々はどこに向かっているのでしょうか?

ここのところ工藤冬里のボックスCD「goodman 1984-6」の音楽を聴きつづけていました。
工藤冬里の歌もこの世界の中にあります。

「それは良い果実を生みだすこと、・・・・・・・・・・何であれそうしたものを思いつづけていることです。」

私達はあの時代の中で発声された工藤冬里の苦渋に満ちた”肯定的な声”を聴くことができます。
そこに小さな光が見えています。

 

夕方の西の山は灰色の雲の下に青く佇んでいます。
呆れてものも言えないが、言わないわけにはいかないのです。

 
 

作画解説 さとう三千魚

 
 

* 工藤冬里の”僕は戦車[I am a tank](20 Feb 1985)”より引用しました。

 

 

 

また旅だより 34

 

尾仲浩二

 
 

2007年9月1日 チワワ鉄道でクリール
6:30 1日に2本しかない列車に乗りクリールを目指す。途中駅でトウモロコシの皮に包まったチマキのようなものを買う。蒸したクスクスの中に甘辛い何かが入っていた。冷房が効きすぎて辛いのでデッキに出る。大きく揺れると怖いが、風が気持ちいい。草原には黄色い花が一面に咲きそこに馬や牛が、駅が近づくと西部劇のような街が現れる。12:30 クリール到着。まずはホテルを探し荷物を置いて街へ。レストランのメニューを見ても分からないのでビーフステーキとビール。街外れのテントで古着の長袖シャツを買う。

9月2日 クリール
レンタサイクルで草原を走る。気持ちよく撮っていたら急に犬に吠えられ、すると数匹の犬があちこちから走ってきて必死に自転車で逃げる。知らぬ間に手の甲を虫に刺されひどく腫れてしまった。夕方の街は馬に乗った集団やバギーカーやトラックで大音響の音楽を流しながらのパレードが続く。部屋のテレビは母屋のチャンネルと連動しているようで勝手に次々と番組が変わる。酒屋で買ったワインはサングリアでとても甘かった。

9月3日 クリールからポサダ
手持ちのメキシコドルが少なくなったので銀行へ行くがCD故障でカウンターには長い列、諦めて12:30 の列車に乗る。険しい渓谷を走るのだが、脱線し転落した車両が時々見える。昨日案内所で勧められたポサダ駅で下車するが、降りたのは現地民の少女ひとりと僕だけで少女はすぐに山へ入っていってしまった。無人駅にはなんの案内もないので、仕方なく宿を探しに歩き出すが山道が続くだけで、心細くなっていたところに馬を3頭引いた親父が現れた。宿を尋ねると馬に乗ってついてこいと初乗馬。小さな集落に着き、農家の庭に建てられたコテージに泊まることに。夕方から激しい雷雨、テレビもなく馬のいななきと犬の遠吠えだけが聞こえるこんな所で一夜を過ごすとは。

 
写真展情報

尾仲浩二写真展「馬とサボテン」

中野・ギャラリー街道
6月18日より27日 金曜、土曜、日曜のみ開催

 

 

 

 

鈴木志郎康 写真集「眉宇の半球」について

 

さとう三千魚

 
 

 
 

随分とそこにある。
何度か開いてみた。
何度も、開いてみてきた。

鈴木志郎康の写真集「眉宇の半球」を机の上に置いている。

志郎康さんの写真集「眉宇の半球」と、
志郎康さんの「徒歩新聞」合本と詩集「わたくしの幽霊」と「攻勢の姿勢」などなどは、わたしの机の上に置いてある。

志郎康さんと、
わたしが鈴木志郎康という詩人のことを馴れ馴れしく呼ぶのは志郎康さんはわたしの先生だと思っているからなのだ。しかし鈴木志郎康という詩人は「先生」と自身を呼ばれるのが嫌いなので、わたしは志郎康さんと呼ぶのだ。

わたしは志郎康さんから東中野にある新日本文学会の木造の建物の詩の教室で1979年頃に詩を教わったのだった。

その頃、
志郎康さんから「徒歩新聞」という冊子をいただいていた。
赤瀬川原平さんの絵が表紙にある小さな薄い冊子だった。
また、わたしが持っている志郎康さんの詩集「わたくしの幽霊」の扉には志郎康さんのサインがある。
はじめて志郎康さんの詩集を購入してサインを書いてもらったのではなかったろうか。

さとうみちお様
 一九八〇年七月九日
      鈴木志郎康

志郎康さんの写真集「眉宇の半球」が机の上に置いてある。
「眉宇の半球」は随分とわたしの机の上にありつづけた。

わたしは志郎康さんの「眉宇の半球」について書こうとしている。
このままこれらの志郎康さんの本はわたしの机の上で、わたし一人、開いて、見れれば良いではないかとも思ってしまうが、わたしは志郎康さんの本に出会い、開いて感じたことを書き留めようとしている。
志郎康さんに新しく出会い、志郎康さんを発見するためにわたしは言葉を書き留めようとしている。

写真集「眉宇の半球」は1995年12月1日に発行されている。
編集・発行者は津田基さん、発行所は株式会社モールと写真集の奥付に記されている。

1975年から1995年の間に魚眼レンズと呼ばれる180度の画角のレンズを使用しフィルムカメラで撮影されたモノクロの写真が纏められた写真集だ。
1975年から1995年というのは志郎康さんが40歳から60歳までの間、詩集「やわらかい闇の夢」を上梓した翌年から阪神・淡路大震災があった年までだ。志郎康さんの最初の妻の谷口悦子さんが1995年に亡くなっている。

表紙には志郎康さんの掌に包まれた八重桜の花の魚眼写真が使われている。
指が太いから志郎康さんの掌だとわかる。魚眼レンズの写真は円形に写され円の周りは黒くなるから写真部分が丸くトリミングされて表紙に配置されている。
巻末の写真メモには「1992年多摩美上野毛キャンパス。新入生ガイダンス合宿に出発する朝。」と記されている。
裏表紙には、これも志郎康さんの指だろう、紫陽花の花を太い指の手が摘もうとしている魚眼写真だ。
写真メモに「1993年自宅テラスで。」と記されている。

円周魚眼レンズの写真たちは世界が丸く切り取られている。
巻末にある志郎康さんの写真メモの一部を引用してみる。

「3 1995年8月文京区白鳥橋。」

「4 撮影年月不詳。日本橋浜町付近。幼い頃の記憶と結びつく。」

「5 1975年墨田区立花、中川の土手。1945年3月10日の戦災のとき、ここを母と祖母と逃げて走った。」

「9 1993年自宅付近。トンネルは何時も取りたくなる。」

「13 1975年亀戸天神で、麻理と草多1歳。」

「21 1975年頃、江東区木場で、麻理。」

「33 1992年8月江東区森下と白河に掛かる高橋。」

「42 1993年7月札幌市。」

「46 1990年8月新幹線車窓の眺め。」

「47 1990年8月新幹線車窓の眺め。」

「52 1990年広島市。」

「53 1991年8月霧ケ峰高原で、野々歩。」

「59 1992年5月阿賀野川河畔の津川で。川口晴美さん。「現代詩の会」グループ旅行。」

「62 年月場所不明。」

「79 1990年西多摩郡檜原村、払沢の滝。」

「88 1992年8月江東区白河の渡辺洋さん宅での家族像。気分のいい夕方。」

「94 1992年自宅仕事場で。自写像。」

「95 1993年頃、自宅仕事場での自写像。」

「96 1993年頃、自宅仕事場で。」

「97 1993年頃、自宅仕事場で。」

「98 1989年7時間半に及ぶ映画『風の積分』のフィルムの一部分のコマ。」

「100 1993年頃、自宅仕事場での自写像。」

「101 1995年8月 自宅仕事場での自写像。」

「102 年月場所不明。」

頁数と志郎康さんの写真メモだけでは、写真がないからイメージが浮かばないだろう。わたしには写真集「眉宇の半球」があり、そのページを開いて写真の景色を見ることができる。

「3 1995年8月文京区白鳥橋。」

白鳥橋は飯田橋から江戸川橋に向かった首都高5号池袋線が神田川に沿って左に大きく曲がるところだろう。
神田川に丸い橋脚が垂直に立ち、淀んだ川の上に首都高が覆い被さっている。
首都高は戦後、1959年に工事が着手され1964年東京オリンピック開催前にはかなりの部分が開通している。

地方の農民など労働者の都市への出稼ぎや移動を加速させ首都高は完成されていったのだろう。

「4 撮影年月不詳。日本橋浜町付近。幼い頃の記憶と結びつく。」

真ん中に電柱が真っ直ぐに天に伸びて空には電線が縦横に伸びていてその下の電柱の両脇に下町の木造日本家屋が犇めいて並んでいる。軒下には植木鉢が並んでいる。

「5 1975年墨田区立花、中川の土手。1945年3月10日の戦災のとき、ここを母と祖母と逃げて走った。」

1944年8月に山形の赤湯に学童疎開して栄養失調で脚気になり10月に東京の亀戸の家に戻り空襲にあったのだろう。3月の東京大空襲で焼け出されたという。写真には川に沿って土手が続き土手の向こうに日本家屋が低く連なっている。

「9 1993年自宅付近。トンネルは何時も取りたくなる。」

代々木上原のJRのガード下のトンネルか?
蒲鉾のようにトンネルがありトンネルの向こうに道路が二股に分かれていてその上の空が明るい。

「13 1975年亀戸天神で、麻理と草多1歳。」

若い麻理さんが草多さんを抱いて表情がやわらかい。草多さんが笑っている。

「21 1975年頃、江東区木場で、麻理。」

木造の商店か、「ちとせ」という看板が入口の上に掛かっている。その前に若い麻理さんが立っている。

「33 1992年8月江東区森下と白河に掛かる高橋。」

川の向こうに高層集合住宅が建っている。橋を男性が自転車で渡って行く。

「42 1993年7月札幌市。」

志郎康さんがホテルの部屋のベッドに服を着たまま横たわっている。
棚に置いたカメラでタイマーを使い撮ったのだろう。

「46 1990年8月新幹線車窓の眺め。」
「47 1990年8月新幹線車窓の眺め。」

ひとつは車窓から真っ直ぐに伸びた川と土手が撮されている。
もうひとつは車窓から撮されたトンネルの手前の鉄骨構造物と電線などが流れ去っている。

「52 1990年広島市。」

柵の向こうに原爆ドームがしらじらと佇んでいる。人がいない。

「53 1991年8月霧ケ峰高原で、野々歩。」

少年の野々歩さんが草むらで笑っている。山々が見える。

「59 1992年5月阿賀野川河畔の津川で。川口晴美さん。「現代詩の会」グループ旅行。」

若い川口晴美さんが河畔の岩の上に腰を下ろして微笑んでいる。背景に川が流れている。

「62 年月場所不明。」
「102 年月場所不明。」

この二つの写真メモは「年月場所不明。」とだけ記されている。
写真メモの意味をなさない。
62頁の方の写真には背の高い野の花が繁茂していてその花々の向こうに農家の納屋のようなもが見える。
102頁の方の写真には枯れた葦原が風に薙ぎ倒されたような光景が画面の全面に広がり葦原の向こうに林が見えている。

どちらも写真の光景は円形に切り取られている。

志郎康さんはこの写真集に「魚眼映像は気持ちいい」というタイトルのエッセイを寄せている。

「魚眼の写真が気に入っている。単純に撮っていて面白い。中心を通る直線以外はすべて歪んでしまうというのも面白いが、対象との間に絶対的な距離が生じてくるというところがいい。たいてい写真というのは、撮る人の対象へのこだわりが出てくるわけで、そこが面白いとされるところなのだが、魚眼はそれとは逆に対象に対する無関心が出てくるところとなる。魚眼レンズで撮ると、誰が撮っても同じになる。そこがいい、と、それ以上に素敵だという気分になれる。わたしがそこに現れないですむのが素敵なのだ。

以前、『極私的魚眼抜け』という魚眼映画を作ったが、その時は魚眼レンズが対象世界を「中心」と「周辺」に置きかえてしまうということに気がついたのだったが、今度は『風の積分』をやってみて、「空洞」を作れるということに気がついてワクワクさせられた。

・・・中略・・・

つまり、「わたしの作品」だなんていえない。対象はまるまる自然の変化なんだから、当たり前のことだ。それをどう映像にするかというところに、「わたし」があるといっても、カメラがオートで撮っているのだから、「わたし」が立ち会っていることもなく、不在は不在である。でも、わたしがやったんだから、やった主としている。わたしがやっていて、わたしがいない。これが最高に気持ちがいいっていうことだとわかった。」

と志郎康さんは書いている。

“魚眼レンズで撮ると、誰が撮っても同じになる。そこがいい、と、それ以上に素敵だという気分になれる。わたしがそこに現れないですむのが素敵なのだ。”

ということなのだ。

“わたしがそこに現れないですむのが素敵なのだ。”と書きながら、
しかし、魚眼レンズで志郎康さん自身を撮った写真が写真集の最後に続いている。

「94 1992年自宅仕事場で。自写像。」
「95 1993年頃、自宅仕事場での自写像。」
「96 1993年頃、自宅仕事場で。」
「97 1993年頃、自宅仕事場で。」
「100 1993年頃、自宅仕事場での自写像。」
「101 1995年8月 自宅仕事場での自写像。」

そこには志郎康さんが対象物のように素っ裸になって写し出されている。
にこりともしていない志郎康さんが写っている。

「街中を歩いても、テレビを見ても、言葉やらイメージやらが多くて非常に鬱陶しい。そういう関係に毒を盛って毒を制するような関係が、これらの写真と向かい合ったときに持てれば幸いである。」

そう、志郎康さんは写真集のあとがきに書いている。

この世界には人によって作られたイメージや言葉が溢れている。
それらのイメージや言葉は人を商品や貨幣や党派などに誘導するための効果が目指されたものだろう。
それらは人々を誘導するための嘘さえもを含んでいることだろう。

「そういう関係に毒を盛って毒を制するような関係」と志郎康さんは魚眼写真のことを言っている。

「毒を盛って毒を制するような関係」とは詩や写真で我を無にして新しい我に至るということだろう。それは”無我”ということだろうか?

“無我”とは世界との関係のことだろう。
志郎康さんはそのことを”極私”と言った。
志郎康さんの”極私”は詩や写真の働きによって自己を世界に開いて自由になるということだ。

その”極私”をわたしも生きてみたいと思っている。

 

 

 

夢素描 14

 

西島一洋

 
 

 

雨が降っている。

川の中だ。
浅い川だ。
川岸も川底も全てコンクリートだ。
川幅は広い。
暗渠もある。

濁ってはいない。
透き通っているが、臭い。
汚泥の匂いだ。
糞尿の匂いだ。
強い消毒薬の匂いも混じっている。

全身裸で横たわると、流されていく。

川底はスルスルとしている。
滑らかだが、藻ではなく、汚泥の沈殿物が、うっすらと覆っている。
沈殿物の中には、ドロドロになった便所紙もある。
表面は、細い髪の毛のようなものが、流れに沿って揺らいでいる。

半身は水面(みずも)より上に出ている。
時折、全身が沈み、
川底に当たり、クルクルと回転されながら流される。

すこーし傾斜が強いところに出ると、スピードが出る。
といっても、時速40キロメートルくらいだ。

流されていると、建物があるはずなのに、見る余裕が無い。
せいぜい川岸まで程しか視界に入らない。
流されることに必死だからだ。
ただ、建物に囲まれている気配は十分にある。
建物は、全てモノクロームで、凸凹(でこぼこ)したバロック建築だ。

人の気配は全く無い。
ずーっと一人っきりで流されている。
川の中にも、川岸も、それらを囲むように林立しているだろうと思われる建物の中にも。
人の気配は無いのだが、虫のような気配があるのが不思議だ。
ただ、生命体ではない。

動かない虫だ。
死んでいるのではない。
ただ動かないだけだ。

動いているのは、川と僕一人だけだ。
あとは、きちんと見えてはいないが、
気配としては、じっとしている、というのを感じる。
それらは動いていないのに、それらの気配だけは感じる。

川幅の広いところに出た。
突然、虫の気配も、建物の気配も無くなった

空間というか、天空というか、空というか、何も無いというか、そのような気配が生じてきた。
何もないのに、あるという気配ではない。
何も無いという、そのものの気配なのだ。
言葉的には矛盾しているが、無という有が感じられるのだ。

怖くは無い。

この辺りに来ると、川は二股に分かれている。
上流から下流に向けて二股になるというのは、不自然ではある。
しかも、二股になることによって、水量も増える。
流れの勢いも増す。
これも不自然だ。

血管で言うと、静脈でも動脈でも無い。
静脈は、山から、小さな川が、徐々に一つになって海に流れ込むという態だ。
動脈は、津波のように川が海から逆流して、陸の奥に行くに従って分散していくという態だ。
そのどちらでもないのだ。

雨も強くなってきたが、音が無い、静かだ。
しかし突き刺さるような雨の力だ。
豪雨を超えてはいる。
視界は薄暗いが景色はハッキリしている。

二股のどっちかを選ぶ余裕も無く、僕は左の方の流れにぐいと引き寄せられた。

雨はまだ降っている。
まだ降っている。
いつまでも降っているので、
雨に飽きてしまった。

もう少しで、橋の下をくぐる。
木造の橋である。
木は腐ってカスカスだ。
崩れる寸前の太鼓橋だ。

僕が行くまで崩れずに、
ずーっと待っていてくれる。

おそらく。

 

 

 

夢の世界<夢はひとつか>

 

木村和史

 
 

 

若いころは、よく夢を見ていた。夢の世界と現実の世界は、わたしの中でそれほどはっきりとは分断されていなくて、夢の余韻を引きずったまま、午前中の半分くらいを過ごすこともまれではなかったような気がする。夢の話を熱心にノートに記録していた時期もある。書きとめようとするとたいてい、夢の余韻は手をすり抜けてしまうのだったが。とにかく若かったわたしにとって夢は、わたしとともにあって、わたしそのもののように生きているなにものかだった。

それが、いつのころからか、ほとんど夢を見なくなった。今はもう70歳になったので、振り返って正確に思い出すことはできないのだが、きっかけは40歳のときの交通事故にあったことは間違いないような気がする。3か月入院して、退院してからもしばらくのあいだ松葉杖の世話になっていた。骨が飛び出したり、折れたり、割れたりしたところは徐々にそれなりの動きを取り戻していったけれども、原因がはっきりしないまま、脳が異常に疲れやすくなってしだいに鬱のような状態になっていき、慢性的な頭痛や不眠に悩まされるようになった。

入院しているときに、それまで見たことがないような怪物が夢の中によく出てきた。若い頃に、入院していた友人がやはり怪物の夢の話をしていたことがあったので、麻酔とか点滴とかの薬物が影響していたのではないかと思う。

怪物が出てくる夢は、退院したあとほとんど見なくなったのだが、代わりに、絶望的な状況に追いつめられ、絶望的な気持ちになって目が覚める夢を見ることが多くなった。

「わたしを囲んでいる山々がいつのまにか火山に変化していて、足元の地面も、いつ爆発しても不思議じゃない危険な状態になっている。どこにも逃げ道はない。まもなくわたしは噴火に飲み込まれ、わたしのすべてが終わってしまう」「コンクリートの堰の上にひとりぽつんと立っている。堰は洪水に囲まれていて、すでに足元まで水が迫り、水かさはどんどん増している。どこもかしこもそんな状態で、洪水に呑み込まれ、押し流されるのを黙って待っているしかない」「戦国の時代。もうすぐ戦さが始まろうとしていて、わたしはすでに戦いの装束に身を包んでいる。刀も手に握っている。しかしそれは絶対に勝ち目のない戦さで、必ず敗北することが分かっている。戦いに出たら、わたしは殺される。それでも、刀を放棄して逃げ出すとか、なんとか助かる道はないだろうかと考える気持ちにはならない。殺されることに向かって吸い込まれるように気持ちが集中していく」「わたしはかつて殺人を犯した人間で、長いあいだうまく逃げ延びて来たのだが、まもなく犯行が露見して逮捕される。そして死刑の判決が下される。死刑になるという絶望感よりも、わたしは殺人を犯した人間だったという事実に直面して、すべてが塗りつぶされたような気分になる。」

平穏な日常生活の中では、どんなに気持が落ち込んでも、救いの道がひとつもないという状況は多くないような気がする。自分で見つけることができなくても、誰かが救いの手を差し伸べてくれるかも知れない。ものの見方を少しでも変えることができれば、息がつける空間が開けることもあるだろう。何日か絶望して、気がついたら楽になっていた、ということもある。ところがわたしの悪夢は、すべてが閉ざされている。わたしの終わりがすぐ目の前に迫っていて、なすすべがない。ひたすら落下して、絶望するためだけの夢のようなのだ。

頭が疲れているときに絶望的な夢を見るということが、何年も後になって徐々に分かってきた。原因が分からなかった頭痛や鬱などの不調も、外れたままになっている肩の肩鎖関節のせいで、脳への血行が悪くなっていたせいらしいと気がついた。血行が悪い状態で集中して頭を使うと無理がかかるようなのだ。鎖骨に沿ってメスが入っているので頭痛になりやすいです、と医師にも言われていた。

事故から30年、70歳を過ぎてしまった今は、症状のそれなりのかわし方を身につけているつもりだが、骨が外れている状態は今も変わりなくて、絶望的な夢を見ることも無くなったわけではない。そのときは、ひたすら脳を休めるよう努める。絶不調だった40代のある日に、勉強はしない、のらりくらり生きる、治ったらまた勉強する、と決めてから、少しずつではあるが頭痛や鬱などの不安から離れていけたように感じている。

絶望的な夢を見ることはしだいに減っていったのだが、なぜか、普通の夢を見ることも少なくなった。毎日のように夢を見ていた頃と比べると、夢を見なくなったといってもいいくらいに減ってしまった。それでも、ふとしたはずみでという感じで、悪夢でも絶望的な夢でもない、普通の夢を見ることがある。

ところがその夢は、以前に見ていたわたしの夢のようではない。夢のなかでわたしが連れていかれる場所がことごとく、今まで見ていた夢のなかの風景と違っている。そこが実在するどこそこの街であったり、どこそこの駅であったりという認識はできるのだが、すっかり模様替えがされてしまっていて、実在する場所を想起させる手がかりがどこにも感じられない。今まで一度も来たことがない場所のようなのだ。しかもその風景は、夢を見るたびに変化するわけではなくて、繰り返し、変わってしまった同じ場所に連れていかれる。レールが切り替えられたみたいに、新しい夢の世界にしか行けなくなっている。今まで見ていた夢に、夢という特別な世界があったとすると、わたしの新しい夢もまた新しい夢の世界を持っていて、その夢の中でわたしは、今までの夢の中のようではないわたしを生きている。そして、新しい夢のなかのわたしは、わたし自身とぴったり重なっていないように感じられる。

生まれてからずっと見つづけてきたはずの夢の世界は、わたしの実際の人生からそう遠くへは離れられず、往来が許されているというか、そこでわたしはもう一度わたし自身を生きているといえるようななにものかだった。ところが新しい夢の世界はわたしとのつながりがどこか断ち切れていて、なじみのない景色のなかで、必ずしもわたしのすべてではないと感じられるわたしが生きている。おかしな言い方だが、夢のなかでわたしの本当の現実に戻っていけなくなってしまったのだ。
わたしは変わってしまった。体も精神状態も、怪我の回復とともに元に戻っていくものとばかり思い込んでいたわたしは、戻れないなにかを抱えてしまった。そうなってしまったことを受け入れられない無意識の気持ちがあって、退院してしばらく経ってからつきまとうようになった、それまで経験した覚えのない日常的な不安の陰のようなものも、そのあたりに原因があったのかも知れない。

事故から3年ほど経った頃だったと思う。血液の問題に詳しいある人に「親からもらった設計図はもう壊れています」と言われたことがある。

肉体の一部は壊れてしまって元には戻らないが、事故の痕跡はそれなりに修復されていく。傷跡や麻痺が残り、動きに違和感を感じたり、痛みが出るときもある。それでも、体はなんとか普通に使えるようになる。もう患者ではないし、松葉づえをついたり、脚を引きづったりという、修復工事中の看板はいつのまにか外される。でも、体の内部であらたに生じた変化は、その後もずっと続くことになる。

設計図が壊れているということは、壊れた設計図によって肉体が再生されているということだろうから、変化した肉体を受け入れて、変化したわたしを生きるしかないとその人は言いたかったのかも知れない。けれども、設計図が壊れているという言葉は、わたしの耳にそのまま素直には入ってこなかった。そのときのわたしは、壊れていない、元どおりのわたしとして生きようとする気持ちが強く、受け入れるべき現実を素通りさせていたのだと思う。

傷ついても、壊れても、わたしはわたし以外のなにものでもない。傷のない、壊れていないわたしが、わたしの中に変わることなく存在していて、回復は元のような肉体に戻っていく方向で進んでいく。そんなふうにどこかで信じていた。後遺症が残ります、年をとったらがたがたになります、と医師とリハビリの先生から言われていて、傷跡が消えないことも分かっていたのだが、不調の日々だったとはいえ40代のわたしは、立ち止まったり、うつむいて暗い気持ちになるにはまだ余力があり過ぎたようだ。わたしの肉体を、どうにかして以前のわたしの肉体に重ね合わそうとしていた。

わたしが変わってしまったことに気づこうとしない。以前のわたしがすでにひとつの幻想になっていることを理解せず、新しい自分を生きようともしていない。わたしがもう、以前のわたしではないということを、夢だけがちゃんと分かっていて、繰り返し教えてくれようとしていたのかも知れない。

人生はひとつながりにはつながっていない。どこかで切れる。一度ではなく、もしかしたら、気がつかないうちに何度も切れているのかも知れない。

それにしても、新しい夢の世界はいつまで経っても、どうしてわたしに馴染んでくれようとしないのだろうか。わたしにとって、わたしの人生はたったひとつで、わたしの夢の世界もたったひとつで、ふたつの世界はつかず離れず寄り添いながら、不思議な時間を織りなして来た。新しい夢の世界は、その流れに割り込んで来て、たったひとつのはずのわたしの人生から、たったひとつのはずだった夢の世界をどこかへ追いやってしまった。物心ついてからずっと寄り添っていた夢の世界を見失ってしまったわたしは、それほど先ではないわたしの最後の日がやってきたときに、わたしの人生を最初から最後まで歩き続けたと納得することができるのだろうか。

 

 

 

閉じこもってしまいたい でも/閉じこめられてしまえば/出たいと思う

中村登詩集『水剥ぎ』(魯人出版会 1982年)を読む

 

辻 和人

 
 

 

中村登(後年、古川ぼたると改称)の詩は、長い間私の関心の的であり続けている。私が大学に入って間もない頃、渋谷のぱろうるで第1詩集『水剥ぎ』を手に取り、即、購入したのだった。私は高校の時から現代詩に対する関心を抱き始めていたが、読んでいたのは既に実績のある年配の詩人の詩集ばかりで、若い詩人の作品はほとんだ読んだことがなかった。中村登(1951年生まれ)の詩を、私は「現代詩手帖」の広告で知ったのだったが、私(1964年生まれ)にとっては感覚的に共感するところが多く、店頭で立ち読みしてすぐ気に入ったのだった。以来、しばらくの間、枕元に置いて寝る前に必ずどれかの詩を読んでいた。更に、詩集『プラスチックハンガー』(1984年 一風堂)、『笑うカモノハシ』(1987年 さんが出版)を愛読し、彼が参加していた詩誌「ゴジラ」や「季刊パンティ」にも目を通した。まるで中村登のおっかけのようなものである。後に自分が詩作を始めてからも、彼の詩はいつも頭のどこかにひっかかっていた。彼ならどう書くだろう、と考えたりしていたのだ。「季刊パンティ」が終わった後、詩を余り書かなくなっていたが、2012年にさとう三千魚さんを通じてブログ「句楽詩」で詩作を再開したことを知り、嬉しく思った。
私は一度本人にお会いしたことがある。鈴木志郎康さんの講演の場で偶然一緒になった。穏やかな表情の快活な方という印象だった。お話ししたいことがあったが、用事があったので一言挨拶を交わしただけだった。その後、ネット上で少しやりとりをした。いつかゆっくりお話をしたいものだと思っていたが、2013年4月、急死されたと聞いて驚いた。脳出血とのことだった。もう新しい詩が読めないのかと思うと寂しい気持ちでいっぱいだが、残された作品を論じることはできる。

私は中村登の詩のどこがそんなに気に入っていたのか。彼の詩は、身の周りのことを書いた私詩的なものが多く、一般の目を引くドラマチックな題材などは一切扱わなかった。言葉の運びは巧みだったが、華麗な比喩を使うこともなければ抒情美でうっとりさせることもなかった。一見すると、ネクラな、ぱっとしない詩という印象を与えられる。
しかし、二十歳前の若者だった私は夢中になったのだった。読み込んでいくと、はらわたに浸み込むように、その真価がわかってくる。中村登の詩には、彼が生活の中で抱えた問題-金銭の問題とか人間関係の問題とか健康の問題とかいったテーマのはっきりした問題ではなく、もっともやもやした、個人的な問題-を正確に言葉にしようと苦闘する様が刻む込まれているのがわかってくるのである。

まず、冒頭に置かれた表題作「水剥ぎ」を全文引用してみよう。

 

空0水を一枚ずつ剥ぐ。
空0今宵の流れは何処へめぐるか。
空0乳白色に迫ってくる河は、
空0巨大な交尾に浮上する。
空0交尾に狂う河だ。
空0河が固い喉を裂いた。
空0ふるえを飲む。
空0泥を飲む。
空0関東ローム層のスカスカした暮らしの
空0腕がこわばる、
空0樹を飲む。
空0橋を飲む。
空0道路を飲む。
空0家を飲む。
空0自我へ渡る睡眠中枢を断ち、
空0喩に痩せた夢飲まず。
空0大陰唇押し広げ、
空0飲み下す舟の軸先が突き刺さる扁桃腺の浅瀬で、
空0否定項目が苛立ってくる。
空0ちくちくと畜生。
空0蓄膿する眼底に意味を流しては囚われるばかりだ。
空0青大将が鎌首もたげて顔色見てるな。
空0小水程の氾濫とみくびっていやがる。
空0煙立つ深夜の四畳半ギッと握り締め、
空0ずり足で河へ入る。
空0向う脛掬われ溺れそうだ。
空0家族を薙ぎ倒し、
空0記憶が胸元で濡れようと一瞥、
空0だが、明日は何処へちぎれるか解らぬ。
空0詩人奴が新しい喩を使う事件が不在だと嘆いている。
空0事件!
空0「何処にどんな気持ちのいい河があるんだ」

空0水剥ぎ、
空0交尾に狂う河を浮上させ、
空0幻想の瘡蓋剥ぐ。

 

荒れる河を前に昂揚した心情を歌い上げた、緊張感溢れる詩だ。畳みかけるような鋭角的なリズムが、凶暴化していく気分を描いている。「ふるえを飲む。/泥を飲む。」以下の「飲む」のリフレインが特に効いている。河は、様々なものを飲み込んでいくが、「自我へ渡る睡眠中枢を断ち、/喩に痩せた夢飲まず。」とあるので、自意識だけは飲んでくれない。逆に言えば、河が、自意識が裸で突っ立っている状態を作っているということだ。更にその後、「大陰唇押し広げ、/飲み下す舟の軸先が突き刺さる扁桃腺の浅瀬で、/否定項目が苛立ってくる。」とあり、性の営みも出てくるが、それは話者に豊かな官能をもたらすものではなく、むしろ苛立ちを掻き立てる。話者は「蓄膿する眼底に意味を流しては囚われるばかりだ」と物事に意味を求めるのを止め、「煙立つ深夜の四畳半ギッと握り締め、/ずり足で河へ入る。」と、たった一人で、荒れる自然の営みの中に入っていく。自分を支えてくれるはずの家族も「薙ぎ倒し」、過去も捨てる。自己表現の手段である詩でさえも、「詩人奴が新しい喩を使う事件が不在だと嘆いている。」と揶揄する。そして、「事件!/「何処にどんな気持ちのいい河があるんだ」と吠えるのである。
制度化されたものを一切拒否したい。が、事はそう簡単ではない。途中で「青大将が鎌首もたげて顔色見てるな。/小水程の氾濫とみくびっていやがる。」の2行がある。吠えながら、自分を縛ってくるものから逃れることはできない、と、心の底でわかっている。自由を希求するヒロイズムではなく、それが不可能なことの憂鬱が語られた作品なのだ。

鈴木志郎康はこの詩集の跋文の中で「詩集の頁をめくって行くうちに、ひとつの歩調を持って、水から離れて乾いて行くという経路を辿っているのである。『渇水』して乾いて行くのであるから、息苦しくなってしまうのだ」と述べている。では、序詩と言える表題作の後、どう「渇水」していくかを見てみよう。

詩集の始めの方は釣りのことを書いた詩が多い。中村登は子供の頃から河で釣りを楽しんでいたようだ。「切りつめズボン少年の夏は河口へ」は、少年時の作者と思われる人物が自転車を河口へ走らせるが、河口は赤潮に満ちていてお目当てのハゼは釣れず、また自転車に乗って引き返すという詩である。

 

空0飛白肩手ぬぐい貼り当て軒先に立つのを
空0ひしゃく振り祖父が
空0水打散らす
空0ボクら弟前に押し
空0コジキコジキ囃子
空0イッチャンニット黄歯頬かぶり笑い
空0コウチキローサンのバケツブリキに
空0味噌ムスビころげころげ
空0“稲が燃えるぞ アッハッハー
空白梨が燃えるぞ アッハッハー“

 

少年時代の作者は近所の人たちと親しくつきあっていたことがうかがえる。釣りはそれをすること自体楽しいが、社交の場としても機能していたようだ。同年代のイッチャン、大人のコウチキローサン、祖父も近所に住んでいる。そしてみんな一緒に釣りを楽しんでいた。中村登が少年時代を過ごした1960年代の埼玉の農村では、関係の密な地域共同体が生きていたのだろう。ゲームセンターもなく映画館もない、そんな中で、釣りは地域のみんなを結びつける貴重な娯楽だったのではないかと思われる。
釣りは潤いのある共同体を映し出す鏡のような存在だったが、中村登が成人する頃には様子が変わってくる

 

空0あぎとに突然
空0一条の水が突き刺さった
空0喉を引かれるままに
空0膜を破り見た
空0俺のような死体が
空0草のなかで
空0乾いた鱗が反りかえっていた
空白空白空白空白「魚族」より

 

空0青草を敷いて
空0闇に竿先を見つめる
空0失職の夜は
空0針ほどの目に暗くて
空0頼りたかった
空0河を渡る電車の窓光
空0旋回する飛行機の尾灯や建物の明りが
空0赤い腫れもののように
空0浮きあがる
空白空白空白空白「夜釣りの唄」より

 

釣りはみんなでわいわい楽しむものから一人でするものに変わっている。ここでの釣りは、「乾いた」自分を見つめる、孤独との対峙の場である。埼玉の農村も郊外の波が押し寄せてきたのだろうか。

 

空0逃げてゆく
空0逃げてゆこうとする魚が私を
空0引っ張る
空0たまらず竿を立てる
空0一日中釣りのことで毎日を過ごしたい
空白空白空白空白「釣魚迷(つりきちがい)」より

 

ここでの作者は、「切りつめズボン少年」だった頃とは全くの別人になっている。周囲との関係を絶って、逃げてゆくものをひとすら追いかける、という行為の中に自分を閉ざしているのである。

作者は結婚し、家族を持つが、そこでも安らぐことはできない。

 

空0娘が陽を溜めた
空0赤茶が
空0トウモロコシは泡の中
空0からんでる
空0私だけが浮き上がる
空0ドラム缶に転げる
空0200㎏に軋んだ
空0工場の爪は
空0髪にすすがれ
空0鮮やかになる隙間で
空0浴場
空0と限り掴む
空白空白空白空白「湯上りに娘の耳を」より

 

作者は風呂からあがって幼い娘に優しく向き合うが、工場での無機的な労働の記憶が消えず、自分が周囲から浮き上がっているように感じてしまう。

 

空0ムカデが妻を誘っていた
空0子供らが傍で関節を折っていた
空0男の子の手にハシが突き刺さっていた
空0女の子の胸にキキがララと笑っていた
空0妻は息を殺して這っていた
空0全足が喚起する苦しげな腹でムカデは
空0妻を包み込むように身をよじった
空白空白空白空白「妻の病」より

 

家の中にムカデが這い出て緊張が走る光景と妻との性行為がダブルイメージで描かれている。駆除すべき虫が、夫である自分に成り代わって、妻と交合する。最も親密なエロスの場からも爪はじきされた気分なのだ。或いは、夫であり父である自分が、家族によって駆除される存在のように感じられてしまうのか。

この状況は、テレビがまだ普及しきれていない時代のことを書いた「夜の荷台」という詩と好対照をなす。「(町の最初のテレビが八時になろうとしていた。昼のうち道路の砂利を新しくしていた父が慌てて夕飯を喰う)」という前ふりで始まるこの詩は、

 

空0頭の上にうなっている
空0時間ではなくいつも蠅が(トオサン百姓)
空0季節が首を吊ったまま(ボク子供のノブ)
空0目の裏に鮮やかな
空0呼び戻す胃で
空0上等兵が杓文字で殴る
空白空白(頬につくわずかな飯粒がうれしかっ
空白空白空0たってトウサンが言うのを聞いたし、菊と宝刀
空白空白空0があるとも、その腰)

 

父と子が一体となって町に一台しかないテレビにかぶりついている様子が描かれている。父は農作業の傍らに土木工事に従事し、家族を養っていたようだ。父は戦争の記憶が鮮烈であり、その記憶は戦争を舞台としたドラマを通じて子に継がれている。釣りと同じくテレビも皆で楽しむものだった。親子の間で記憶の断絶はない。
しかし、農業で食べられていた時代はどうやら父の代までで、作者が成人する頃には農業が衰退してしまったのだろう、作者は工場で働く他なくなる。

 

空0赤い顔料が渦巻く
空0言葉を熱く頭にめぐらす粒子が
空0こすれて発熱する
空0熱を溜める体に
空0顔料が流動する工場は
空0言葉が言葉をもっている言葉は連れて行く
空白空白空白空白「熱い継ぎ目」より

 

単調な作業の繰り返しの中で、人との接触を絶たれて行き場を失った言葉が、独り言のように頭の中で生まれては消えていく。労働疎外とは、こうした感覚が麻痺した状態を指すのであろう。

次に全文引用する「防爆構造」は、本詩集で最も完成度の高い作品と思われるが、当時の作者の切迫した心情を描いている。

 

空0工場の朝へ
空0足が溜る
空0吹き出す
空0口を
空0防爆に
空0モーターの
空0螺子込み垂れ籠み
空0きっちりと
空0火花を摘んである
空0時折り 爪が
空0蓋に咬まれつぶれる
空0死血が溜る
空0排卵の月は筋めく股
空0妻かって?
空0餅切り
空0くっつかないように
空0片栗粉まぶし
空0餡子も熱いうち金時と
空0塞いでしまう
空0伝説の四天王では詰まらない
空0容器をまちがえたか
空0詰め物がちがうか
空0凝ってくる
空0影に引かれて
空0蝙蝠
空0こんもり夜が
空0帰ってきた玄関で腰に
空0警棒が
空0たかっている
空0腐りものを探しているのだ
空0発酵寸前の
空0いい匂いがするのだ
空0チューブ巻きあげ
空0ハンバーグがにょっきり出たりするので
空0肛門開きのぞき込む
空0台帳のナカムラさんですか
空0と丁寧に念入りな箪笥抽斗押入鴨居
空0やがて
空0性交の数まで根堀り葉堀り長さ太さに穴の深さを
空0手帳する
空0それではアレもあるだろう
空0もちろんアレもあります
空0まだぬくといアレだぞ
空0ハイハイそうです
空0ぶっくりふくれる
空0子宮です

 

ねじめ正一はこの詩に対し、「防爆構造とは、一つ間違えば爆発する構造に他ならない。いや、もっと言えば爆発が不可避だからこそ防爆構造なのである」と述べている。まさにその通りだろう。勤務先で監視されながらふらふらになるまで酷使され疲弊した作者は、家に帰っても「監視されている」という感覚が消えない。夫婦の営みとその結果としての妻の妊娠は、普通なら潤いに満ちた愛を示すが、そうした最も親密な行為さえも「監視されている」という感覚を伴ってしまう。性行為は体を重ねて求めあう濃密な行為だが、唐突に出てくる「ハンバーグ」という言葉は、そこから愛する者同士のコミュニケーションという本質的な要素を抜き去って、行為の物理的な生々しさだけを強調する。「警棒」が家庭内に侵入し、行為から意味を除去し、即物的に記録していくのだ。その不快さに対し、我慢に我慢を重ねている、それが「防爆構造」なのである。
「防爆構造」を抱え込んだ意識は

 

空0私は思うこともなく煙草に火をつけていると
空0扉の把手の金属の内側に
空0閉じこもってしまいたい でも
空0閉じこめられてしまえば
空0出たいと思う
空白空白空白空白「便所に夕陽が射す」より

 

のように、自分が何をしたいのかわからない、ふらふらした「モノ」のような様態となる。このふらふらと行先の定まらない意識は、様々な奇怪な幻想を紡ぎ出すようになる。

 

空0あぶな坂の夕陽の辺りに
空0乳首が上下している
空0髪をすきにくるあなたは
空0南風に
空0ケガをしたのですか?カアサン
空0妻の股から今し方あなたの
空0首が降りて来ました
空0その首を吊り下げて
空0坂の中腹にさしかかると
空0飛んで刺しにくる 初めは
空0アルコールでスッと拭きました
 空白空白空白空白「私の声が聞こえますか」より

 

空0壁を剥ぐ
空0妻の股には傷口が深くえぐられ赤い内面に
空0血液がしたたる
空0倒れた妻を抱き血液をなめいとおしむ脳の
空0空地に土砂降りの雨が溢れ
空0沼をかきむしるその手に
空0缶カラッ、看板、破けた
空白空白空白空白「夜の空地」より

詩集の後半では、性的なモチーフから、非現実的で不気味なイメージを引き出す局面がたびたび出てくる。妻は魔女のように極端にモノ化されて表現される。こうした対象のモノ化は、生活に疲れ切って荒んだ作者自身の意識の表出であろう。

 

空0妻と子供らが帰ってこない
空0熱い夜は窓を開けて寝る
空0風のなかではぴらぴらと少しも
空0位置がはっきりしないそれが
空0家庭の本質、とつい絵の中のコウモリが
空0監獄の天窓めがけて飛び立つ夢を描く
空0夢が描けない俺は
空0未決の留置場で朝ごとにバスが来る
空0なんでも吐いてしまいな
空0と言われても
空0ただの酔っぱらいの俺に何が吐ける?
空白空白空白空白「風に眠る」より

 

妻が子供を連れて実家に帰ったのだろう。もしかしたら夫婦の間で何か揉め事があったのかもしれない。作者は深酒し、家庭というものについて改めて考えるが、答えを出せないまま吐き気に苦しむ。架けてある絵にはコウモリが描かれており、それは空想の中で、こともあろうに「監獄の天窓」に向かって飛ぶ。しかも作者は監獄に入るという、どん底ではあるが決然とした運命には行き着かず、「留置場」という中途半端な場所で生殺しに近い状態に置かれる。吐きたくても吐けない、という状況設定に作者の心境が窺える。

 

空0妻と行く先々の話を
空0今から話した
空0子供は六歳の雪江と三歳の秋則で私は妻より
空0二年遅れて死ぬ
空0死ぬ日から数えて
空0今はいつなのか
空白空白空白空白「大嵐のあった晩」より

 
 
この詩を書いた時中村登は30歳になっていないのだ。まだ若い作者がこんなことを思いつくのは、未来に希望を見い出せないからではないか。かけがえのない生きる時間というものも、一種の「モノ」として捉えている。土から引き剥がされ水から引き剥がされ、それでも一家の大黒柱として、家族を養うために過酷な労働に従事することをやめられない。その苦い認識が作者を人生の行き止まり地点に連れていくのだろう。

 

空0粗方の荷物は昼のうちになかに運び込んだ
空0傷つくのを気づかってくれた
空0大きなものは重い重いと言いながらも
空0置き場が見えていた
空0タンスとか冷蔵庫とか父とか母とかは
空0弟や義兄が手伝って家に帰った後夜になった
空白空白空白空白「引っ越した後で」より

 

「タンス」「冷蔵庫」と、「父」「母」が、「モノ」として同じ比重で扱われている。「切りつめズボン少年の夏は河口へ」で描かれた暖かな人間関係と何と異なることか。作者は、家族を、淡々とした筆致でもって、とことん突き放して描いている。心を故意に、虚ろで鈍感な状態にしているように見える。
その虚ろな心的状態は「漏水」という詩で端的に描かれる。

 

空0目が割れている 何処の
空0家庭の蛇口も深夜には
空0閉じられる
空0水圧があがる 見えないが
空0内部が磨滅しているのだろう 隙間から
空0水がもれている

空0私に隠して
空0感情の接点をむすんでいる
空0妻の背中で
空0漏れた水が流れ込む その底に
空0闇水が眠っている

 

「防爆構造」の緩みを、蛇口から水が漏れる場面に即し、外側から内側から、精密に描出していく。目に見えないところで、摩耗し、漏れていくものがある。それは確かに感じられる。しかし、何が摩耗し何が漏れるのか、作者自身にもはっきりと説明することができない。はっきり説明できないもどかしさと不安を、詩の言葉でなら克明に表現できる。中村登を詩に向かわしめる動機は、ここにある。

社会的な面で、中村登の詩を巡るポイントは二つあると思う。一つは都市化・郊外化の流れで、住民の関係が密な村落共同体が壊れていき、個人がバラバラな状態に向かっていったということ。釣りは、みんなでわいわい楽しむのが常であったが、それが孤独を見つめる行為と変化した。テレビも同様である。少年時代が幸福であっただけに、その変化はひとしお不自然なものに感じられたであろう。郊外化を推し進めたのは、高度成長の副作用と言える農業の衰退であり、若者は土を離れて工業に従事せざるを得ない状態となった。働く者の判断で仕事を進めることのできた農業と違い、工場では労働を徹底的に管理され、人間性を剥ぎ取られたような扱いを受ける。労働に対する疎外の感覚が生まれるということだ。
もう一つはジェンダーの問題である。中村登は20代で結婚し、父親となった。保守的な地域において、男性が家庭を持つということは、家の長として家族を養う責務を追うということになる。性的役割分担制は、しばしば女性の自由と権利を侵害するが、男性の場合でもそうである。どんなに辛くとも対面を保つために金を稼ぎ続けなければならない。都市化のために、自分の裁量で事を進められる自営的な仕事が立ち行かなくなり、資本によって雇用され稼ぐしかなくなった時、人間性を侵す残酷な扱いを甘受しなければならない。しかも、形の上で女性を支配する側として立つ男性の場合、その辛さを口に出すことは世間的に許されないのである。男性の過労死・自殺が多いのはそうした理由によることが多い。
その点で言えば、中村登の詩は、「女性詩」として括られていた同時代の詩との親和性が高いように思うのである。

 

空0あんたがもってきた時計のおかげであたしは
空0キャベツの千切りの速度が決められた
空0その気づくはずがなかった慣習という
空0単純な不幸のために
空0あたしはあんた好みに重くなっていく
空0寝ているあたしを隅においやり
空0家具と並べてながめ
空0なじめていない丸い部分を削りとる
空白空白空白空白白石公子「家庭」より

 

空0穴であると感じた
空0私は、自分を穴でしかないと感じた
空0そういうふうに私が抱く特権が
空0今のあなたには与えられているということか
空0ただし、穴には感情がない
空0私はどうでもよくなった
空白空白空白空白榊原淳子「飼い殺し2」より

 

この二人の詩人は、女性として受けた抑圧を、赤裸々にうたいあげている。心の抑鬱を、自らの性や身体の在り方に即して、読者に直接語りかけていくのだ。その語りの激しさに心を打たれないではいられない。常に個人の身体感覚を基点に言葉を繰り出す点において、中村登の詩は二人の女性の詩人の詩と酷似している。「女性詩」とは、女性が書いた詩のことなどではなく、女性の書き手が多いことはあったにしても、固有の性と身体から出発し常にそこを基調とする詩を指すのではないだろうか。であれば、中村登の詩も「女性詩」の範疇に入るように思うのである。
但し、白石公子、榊原淳子という二人の詩人がどちらも、被抑圧者として抑圧者を「告発する」という姿勢を露わにしているのに対し、中村登の方は姿勢がすっきりせず、もごもご内向している感じである。この「もごもご感」は、家父長として「抑圧する側」に立たされているために、「告発」という形を取れないために表れる。男性のジェンダーを語ることの困難がここにある。そして中村登は、このすっきりしないもごもごした様態を、詩の言葉でもってできる限り正確に伝えようと、苦闘していると言える。

「閉じこもってしまいたい でも/閉じこめられてしまえば/出たいと思う」という詩句には中村登の詩の特質が凝縮して表れている。こういう苦しさがあるのでこうしたい、と事態を打開する道を模索するのでなく、打開の道などないと諦観した上で、閉じこもったり出たり、ふらふらしている。その逡巡ぶりは一人の男性が生きて苦しんでいる時間の伸縮そのものであり、詩を読み始めたばかりの私はそこに惹かれて夢中になったのだった。