書かなかった
のかい
なにも
書かなかったのかい
指が
震えていた
あなたの目蓋を
指でひらくと
瞳はわたしを追わなかった
震えていた
人差し指を小さく震わせた
なにも
書かなかったのかい
低いところから
聴こえるさ
あの雲雀の声はさ
書かなかった
のかい
なにも
書かなかったのかい
指が
震えていた
あなたの目蓋を
指でひらくと
瞳はわたしを追わなかった
震えていた
人差し指を小さく震わせた
なにも
書かなかったのかい
低いところから
聴こえるさ
あの雲雀の声はさ
母の部屋には
ひかりが溢れていた
ひかりのむこう
には
田圃がひろがり
ひかりのなかにヒトはいない
田圃のなかの
ほこらの中には
男根と女陰が祀られていた
闇の中に
たくさん祀られていた
ひばりの声が聴こえた
ひばりの声がたくさん聴こえていた
見ていた
花を
見ていた
そのヒトは花を見て
佇ちつくす
あることと
ないことの向こうに
ヒトも
ヒトビトも
佇ちつくす
そこに
小さな葉をつけてピンクの花は
咲いたろう
無いこころを抱いて
いた
そのヒトの無いこころを抱いていた
雲のなか
浮かんでいた
頂きは
白くひかっていた
恥ずかしい
ことはなかったかい
丘の此方
からあちらはみえないけれど
なかったかい
なにもなかったかい
知ってたの
かい
貰ってきた仔犬は
オオカミの子どもだった
灰色の眼をしていた
ラッキーと呼ばれた
朝に
食卓に
すわっていた
窓から光は射していた
家族は
集まって
いた
そのヒトも来ていたろう
ねこもいた
名を持たなくていい
名を持たないで
くればいい
ひかりの途をあるって
だまって
そのヒトは
無いこころを灯していた
ミカラ・ペトリは10代はじめからコンサート活動を行なっている。最初の頃は家族(ハンネ・ペトリのチェンバロ、ダビッド・ペトリのチェロ)でミカラ・ペトリトリオを編成し、コンサートやレコーディングを行なっていた。しかし、突出した才能をかかえた家族が演奏を続けていくのは難しい。やがて多くの演奏家やオーケストラと共演するようになる。
そうした中で、ギター、リュート奏者であるラース・ハンニバルと出会い、1992年からデュオのコンサートを開始する。共演のディスクも発売された。1994年に「Souvenir」(邦題「愛の贈りもの」)を発表し、その3年後には「AIR」(邦題「G線上のアリア」)が出ている。この頃、ペトリとハンニバルは結婚しており、「愛の贈りもの」というタイトルや「AIR」のジャケットデザインにはそれが色濃く反映している。
「AIR」はわたしが買ったミカラ・ペトリの最初のディスクである。それまでにも、彼女が参加しているCDを手にしていることがあったかもしれないが、ミカラ・ペトリがいるということを意識したことはなかった。だが、「AIR」にはリコーダーの演奏家として強い存在感を示す女性がいた。ディスクはサティの「ジムノペディ1番」からはじまる。このCDがどれくらいペトリ自身の意向が入っているのか、ハンニバルの意見が反映されているのか、またプロデューサーや製作スタッフの意図がはたらいているのかはわからない。ただ、最初にサティをもってきた選曲だけを見ても、これまでとは違うリコーダーのディスクをつくろうという意欲が伝わってくる。
「ジムノペディ」は1番、3番、2番の順で使われている。あたかもこのディスクに集めた曲を要所々々で束ねるように最初と真ん中と終わり近くに配されている。このサティの曲がどちらかというと暗い色調を帯びているせいもあって、そのほかの曲の演奏がことのほか明るい。グリーグの「25のノルウェイの民謡と踊り」からの5曲などは当然としても、「悪魔のトリル」として有名なタルティーニのソナタ、ト短調も超絶技巧を極めるデモーニッシュな印象などさらさらなく、ただひたすら軽快で明るい。天衣無縫とはこういうことをいうのだろうか。こうしたところは、もっと以前の録音を聴いても変わらない彼女の特性と言える。
もうひとつ、このディスクの特徴は、全体にみなぎっている幸福感にある。わたしは演奏家の私生活の状態で演奏をとやかく言うのは極力排除したいと思っているが、手をつないで駆け出した二人の写真の白いジャケットも、天稟にさらに磨きをかけた明るいリコーダーの音色も、結婚式のアルバムを開くような香気に満ちている。ペトリはハンニバルに出会って、それまで演奏のことばかり考えて閉ざされていた自分が開放されたというようなことを言っている。ここに収められた曲はことごとくその幸せがあふれているような演奏だ。こう書くと情感に流れそうだけれど、それを引き締めてとどめているのが、3つの「ジムノペディ」とミカラ・ペトリの技術だと思う。正確な音程、揺るぎない運指は誰にも真似できない。バロック演奏の知識のなさや使用楽器の歴史的な曖昧さを指摘する人もいるようだが、無意味なことだ。学問としてオーセンティックな演奏を追求するのが無価値とは言わないが、ミカラ・ペトリはそういうところで音楽をしていない。
リコーダー奏者ミカラ・ペトリについて書けば、当然フランス・ブリュッヘンに触れなければならない。ミカラ・ペトリが登場するまでは、リコーダーといえばブリュッヘンだった。しかし、ミカラ・ペトリがリコーダー演奏の天才だとすれば、ブリュッヘンの才能は音楽そのものを構築していく方向に向かっている。彼は、ニコラウス・アーノンクールやグスタフ・レオンハルトとともに、バロック音楽を中心としたレパートリーの演奏を続けた後、世界中の優秀な古楽演奏家を集めて18世紀オーケストラを結成する。彼らの演奏は、その前に41番までの交響曲を70曲以上として全集を仕上げて当時の音楽界をあっと言わせたクリストファー・ホグウッドのモーツァルトを演奏面で凌駕していく。ブリュッヘンは古楽器や楽譜の検証を重視しながらも、それよりもさらに音のひびきや音楽性の高さに重きを置いた。それは1985年以降、矢継ぎ早に繰り出された録音を聴けば明らかだ。シューベルトのハ長調の大交響曲(D944)など、フルトヴェングラーの次に来る名演だと信じている。
ブリュッヘンとペトリと、録音している曲に重複はたくさんあるが、耳にしたときの心地よさはミカラ・ペトリが圧倒的に勝っている。かつて「リコーダーの妖精」として華々しくデビューし、いまもリコーダーの第一人者として広範なポピュラリティーを獲得しているのも頷ける。しかし、もう一度聴こうということになると、ブリュッヘン盤を選ぶことが少なくない。彼にとって古楽の研究は、そのまま自身の音楽を深めていくことにつながっていたように思える。18世紀オーケストラは毎年世界各国をまわるツアーに出る。最後にオランダに戻ってきて最後の公演を行ない、その録音をディスクにするという活動を繰り返していた。そんな彼らの傑作のひとつにモーツァルトの「レクイエム」の録音がある。
これはオランダではなく、日本各地でコンサートを行なった後、東京の最終公演が録音されたディスクだ。当日のコンサートのままに、「フリーメーソンのための葬送音楽」、「クラリネットとバセット・ホルンのためのアダージョ」そして「レクイエム」の順で納められている。全体に抑制された表現をとっているが、内に秘めた力が伝わってくる演奏になっている。「レクイエム」の間に歌われるグレゴリオ聖歌も典礼の雰囲気を高めていて、ブリュッヘンが常に音楽表現として最高のものを求めながら、古楽演奏を続けているのがわかる気がする。一度聴いたら胸の底の方にいつまでも沈んでいるような音楽になっていて、何度も繰り返し聴けるものではない。
金木犀の
枝を刈ってからすこし歩いた
岸辺の向こうに
テトラポットと水平線があった
公園の生垣の向こうに突堤があり
水平線があった
西の山が霞んで空に浮かんでいた
そこには境界はあるのに
触れることがない
ことばでないものをことばで語っていた
散歩に行かなかった
モコはソファーで
眠い眼をうすく開けていた
午後に散髪屋で坊主頭にされて余計に
醜いものとなった
あの花の名前がわからない
白く薄い花弁をひろげて
風に
揺れていた
たぶんカオスは
騒々しいものじゃないだろう
本が
積み重なって
いる
机の上にもベットの傍にも
重なっている
壁には
たくさん絵が掛けてある
山田さんから
頂いた絵
桑原くんや千尋さんや
千代さんの絵
広瀬さんや
兼人さんや三俣元さんの写真
だれもいない
なにもない部屋にいる
雨の季節には
水を張った田圃に苗を植えていた
若い母の頬が
晴れた日には汗をかいた
庭には白い野バラの花が
咲いていて
祖母が窓から庭を見ていた
ヒトは
花のまえで佇ち尽くす
何も持たずに祖母は逝ったろう
わたしは八代にいたのだった