michio sato について

つり人です。 休みの日にはひとりで海にボートで浮かんでいます。 魚はたまに釣れますが、 糸を垂らしているのはもっとわけのわからないものを探しているのです。 ほぼ毎日、さとう三千魚の詩と毎月15日にゲストの作品を掲載します。

俺っち束ねられちぁかなわねえ。

 

鈴木志郎康

 

 

束ねられるっていやだねえ。
俺っち、
高齢な身体障害者よ。
役に立たねえって、
十把一絡げにされちゃ、
かなわねえ。
役立たずの
日本国民って束ねられると、
おお嫌だ。
役に立つ日本国民が
束になってかかって行く、
なんて、
俺っちは御免だぜ。
何んにしたって、
高齢者って、
身体障害者って、
人間を束ねるってのがいやなんだ。
人を束ねて見ちゃいけねって思ったね。
束ねると、
レッテルを貼り付けて、
役にたたねえとか、
敵とか味方とか、
決めつけちゃう。
そいつが良くねえんだ。
高齢者って束ねられたって、
障害者って束ねられたって、
国民って束ねられたって、
役に立とうが立つまいが、
ひとりはひとりよ。
ひとりは弱いって、
弱くて結構よ。
俺っちの人生は全うしなきゃね。
てもね、
闘って勝つには、
束になって向かって行かなきゃなんねってね。
おお嫌だ。
国民って束ねられたら、
たまらないね。
一丸になれってきたら、
糞喰らえ、
アワワ、アワワ、
アワアワンズッテーン。

 

 

 

forest 森

 

今朝
海をみてた

休日には
海をみてる

いつも

まだもうしばらくあなたを愛していたいの。
I want to love you a little longer.

愛ってどうなんだろう
わからない

美しいヒトに出会うこともある

海をみてる
森をみてる

 

 

 

early 早い

 

京浜東北線の蒲田で降りた

最終の

電車に
乗れなかったから

蒲田で列にならんで
タクシーに

乗った
真っ黒の光るタクシーには

南島訛りの
運転手さんがいて

やさしい声でいくつも飴玉をすすめた

恐ろしかった
やさしさ

昨日も美しい女を見なかった

 

 

 

由良川狂詩曲~連載第3回

第1章 丹波人国記~プロテスタント

 

佐々木 眞

 
 

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さて綾部は、このお話の主人公、健ちゃんのお父さんの故郷でもあります。
お父さんのマコトさんは、大学生になってからは東京に出てしまったために、いまは綾部では健ちゃんのおじいちゃんのセイザブロウさんとおばあちゃんのアイコさんが、西本町で小さな下駄屋さんを開いています。
屋号を「てらこ」というのですが、江戸時代には寺子屋、つまりいまでいう幼稚園か小学校があった場所に、健ちゃんのお父さんのお父さんのお父さんのそのまたお父さんが下駄の商売を始めたのでした。
つまり健ちゃんのひいおじいさんが、明治の終わりごろに開業したのが「てらこ履物店」だったのです。

いまの人は、下駄なんて浴衣を着るときくらいしか履きませんが、健ちゃんのお父さんが子供の頃は、まだ和服を着る人も多く、下駄を履く人と靴を履く人がちょうど半分くらいの割合だったそうです。
あるとき、(それは健ちゃんのお父さんが、いまの健ちゃんくらいの12歳頃のことでしたが)マコトさんが、セイザブロウさんが下駄の鼻緒をすげるのを眺めていたところへ、ひとりのよぼよぼのおじいさんが、傘をついてやってきました。
ちなみに綾部では、ロンドンのようなにわか雨が降るのです。
そのおじいさんは、「てらこ履物店」のある綾部の中心街からバスで1時間半ほど丹波高原の山地へ入った上林村の、さらにいちばん奥地の奥上林村から、半日かけてやってきた80歳くらいの人物で、腰は曲がり、髪は真っ白、顔は白い口ひげとあごひげにおおわれて真っ白、まるで仙人のような、この世離れしたいでたちで、てらこのお店へやってきたのでした。
おじいさんは、左手に碁盤模様の風呂敷包みと古ぼけた傘、右手にはなにやら灰いろにすすけた木のかたまりのような、ボロのような、奇妙な物体をぶらさげていました。
そして、その汚らしい物体をカウンターの上にどさりと置きながら、こういいました。
「ほんま、この下駄は長いこともちよったわ。おおきに、ありがとう。どうぞ新しいやつと取り替えてやってつかあさい」
セイザブロウさんは、なんのことやらさっぱり分かりません。
「取り替える、といいますと?」
「いやあ、てらこはんの下駄は、ほんま丈夫で長持ちしますなあ。しゃあけんど、もうこうなってしもうたら、寿命や。ほんでなあ、これとおんなじやつがあったら、はよ取り替えてやってつかあさい」
「あのお、うちは古い下駄のお取り替えは、やっとらへんのですけどなあ」
そういいながら、セイザブロウさんは、あることに気づいて愕然としました。
人間よりも猪が多い、と冗談のようにいわれる山奥から、腰に弁当を下げ、雨傘をついて、えんやこらどっこい、町の繁華街に出かけてきたこの仙人のようなおじいさんは、昭和の34年にもなるというのに、下駄屋でも、どこの店でも、その都度お金を払って新しい商品を買うのだ、という商習慣が、てんで分かっていないという事実に。
おそらく彼はいまから4、5年前に、今日と同じように、中丹バスに揺られ揺られて、西本町の「てらこ履物店」にやって来て、そのときは間違いなくお金を払って1足の下駄を購ったのでしょう。
しかしその下駄が、ちびて、すり減り、とうとう使い物にならなくなったとき、てっきり、定めし、必ずや、てらこでは、無料で、ただで、ロハで、新しい下駄に丸ごと交換してくれるに違いない、という思い込み、信念、確信が、この奥上林村の仙人の頭の中には、ずっしり、どっしり、はっきり、とありすぎたために、健ちゃんのお父さんのセイザブロウさんも、新しい、まっさら、ピカピカの下駄を、その白髪三千丈のおじんさんのために、あやうく、あわや、ほとんど、カラスケースの中から取り出そうとしたくらいでした。
当時の綾部には、それくらい浮世離れした人々が大勢いましたし、じつは何を隠そう、いまでも素晴らしく浪漫的な人たちが、町のあちこちに住んでいるのです。

「てらこ履物店」の人々、とりわけ健ちゃんのひいおじいさんのコタロウさんは、この町の筋金入りのクリスチャンでした。
表通りは下駄屋でも、裏に回れば玄関のとっつきに「死線を越えて」の著者がこの家を訪ねた折の揮毫が、ついたてにして飾られ、欄間のあちこちに明治の基督者たち、たとえば、海老名弾正や新島襄の筆になる額がかけられていました。
ご存知のようにこの国では、戦時中は信教の自由なんてものはありませんでした。コタロウさんのような熱心なクリスチャンは、「ヤソじゃ、ヤソじゃ」と向こう三軒両隣からもさげすまれて、開戦直後に警察のブタ箱に放り込まれる始末でした。
ようやく戦後になっても、コタロウさんの筋金入りのプロテスタントぶりは痙攣的に発揮され、コタロウさんの孫たちは、神社や寺社仏閣の子供会の早朝参拝や掃除には参加を禁じられていました。
その代わりにコタロウさんが孫たちに強制したのは、日曜日の朝の礼拝への出席でしたが、これは現行憲法が保障する、個人の「信教の自由」の侵害であったといえるでしょう。
そういえばある晩のこと、中学生になっていた健ちゃんのお父さんのマコトさんが、毎週土曜夜の学生礼拝をさぼって、町でただ1軒の映画館「三つ丸劇場」で、ジェームズ・ギャグニー主演のめったやたらに面白いギャング映画を見物している最中に、てらこの特別捜索隊に発見され、泣く泣く教会に連れ戻されたという、聞くも涙、語るも涙の物語もありました。
その際、劇場の切符もぎりのおばさんが、思わず洩らしたひとこと、「せっかく楽しんどってやなのに、親がそこまでやらんでも、ええのにねえ」に、筆者(わたくし)は、いまなお衷心より共感いたすものであります。

 

空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空空次回へつづく

 

 

 

鈴木志郎康 新詩集「化石詩人は御免だぜ、でも言葉は。」を読んで、ブオーッ、ブオーッ。

 

さとう三千魚

 

 

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鈴木志郎康さんの新しい詩集「化石詩人は御免だぜ、でも言葉は。」を読んだ。

それで、わたしの受けとった詩人の声は、「新しい詩が成立する場所に立ち会い新しい詩を生きるためには、何でもありだぜ。」という声です。

この八十歳を過ぎた、痛い腰や足を引きづり杖をついたり車椅子に乗ったりしている詩人は自身の詩を生きるために何度でも自身の詩を捨てて新しい詩を生きることを実践しているのだということが伝わってきます。

そして、この詩集から不思議な声が漏れ出し、沁みでてくるのをわたしは聴くのです。

ほとんどの詩が「浜風文庫」で読んでいた詩でしたが、詩集となってあらためて一連の詩を読み通してみるとこの声が不思議に思えるのです。

 

ホイチャッポ、
チャッポリ。
何が、
言葉で、
出てくるかなっす。
チャッポリ。
チャッポリ。

 

「びっくり仰天、ありがとうっす。」という詩の冒頭部分です。

この「ホイチャッポ、チャッポリ。」は何をあらわにしているのでしょうか?
擬音語でもなく、擬声語でもなく、擬態語でもなく、擬情語でもないように思われます。

いわば言葉にならないものでしょう。
言葉にならないでわたしの身体から漏れ出し、沁みでてくるもの。
かぎりなくわたしの身体に近いもの。

 

ヒィ、
ヒィ、
ヒィ、
ピーと鳴らない
口笛吹いて、
土手を歩いていたら、
川面に、
ボロ服着た人が浮かんでいたっす。
女の水死体が浮かんでたっす。
そこいらの草の花を取って、
その上に投げたら、
一つだけ、
当たったっすね。
ヒイ、
ヒイ。

 

「女の土左衛門さんにそこいらの花を投げたっす」という詩から冒頭を引用しました。
ここには鈴木志郎康さんが子どものころに見た水死体のことが書かれているでしょう。この子どもは女の水死体を見て、びっくしして可哀想に思ってか草花を投げつけたのでしょう。

そのことを思い出しているこの詩人から「ヒィ、ヒイ。」と声が漏れ出し沁みでてきたのです。

 

ぐだぐだ書いたけど、
書いてもしょうがないことですね。
身体って、
当人だけのものなんだからね。
病気のことを言葉にすると、
「お大事に」
と、言葉が返ってくる。
身体の中に
突き上げてくる鋭角があるって言ったって、
当人じゃないからどうしようもないものね。
でも、そこで、
鋭角が身体の内側を削った果てに、
身体は温かいものになるんですね。
身体が当人だけのものでもなくなってくるんだ。
つまり、その先に身体の消失ってこと。
そこに、
名前と言葉と写真とか、
身体なき存在が残ってくる。
また、記憶の中の存在になる。
温かい存在ってこと。

 

「鋭角って言葉から始まって身体を通り越してしまった」という詩から一部引用しました。

「突き上げてくる鋭角」って痛みのことでしょうか、その先に身体の消失があり、身体は他者の記憶となる、と書かれています。
人は逃れ難く誰でもそのように死を迎えるでしょう。

その近くに「温かい存在」があり、そこから声は漏れ出し沁みだすでしょう。
「温かい存在」は大切なものであり愛しいものでもありましょう。
「温かい存在」とは人を根底から支えるものでしょう。

わたしは詩は詩人自身を支えることができるものだと思います。
鈴木志郎康さんの詩は鈴木志郎康さんを支えれば良いのだと思います。
そして鈴木志郎康さんの詩が鈴木志郎康さんを支えられるのであれば、その詩は鈴木志郎康さんが大切に思っているものたちを支えることもできるのだと思います。

大切のものたちは奥さんの麻理さんだったり、猫のママニだったり、子供たちであったり、友人たちであったり、庭の草花だったり、子供のころにみた女の土左衛門さんだったり、詩の読者さんだったりするだろうと思います。

鈴木志郎康さんの新詩集「化石詩人は御免だぜ、でも言葉は。」は、詩はけっこう素敵なものなんだぜ、ということを示してくれていると思います。

 

 

⬛️「化石詩人は御免だぜ、でも言葉は。」

2016年8月28日初版第一刷 発行
菊変(214×140) 258ページ

※購入方法は書肆山田サイトでご確認ください。

 

 

 

ファミちゃんが1番

 

辻 和人

 

ファミちゃん、ファミちゃん
レドちゃん、レドちゃん
ファミちゃん、ファミちゃん
レドちゃん、レドちゃん

「かずとん、かずと-ん。
んもぉ、またぶつぶつ言ってる。
自分で気がついてるの? 会社とかでも口に出してるんじゃないでしょうね?」

ついついつい
掃除機かけながら
ついついつい
いやあ、困った、困った
困ったちゃん
ファミちゃん
レドちゃん

一人暮らしが長かったせいで
すっかり独り言が多くなっちゃった
「どれ、コーヒーでも飲むか。」
「さて、風呂にでも入るか。」
聞かれてもいないのに
相手もいないのに
言葉が出てきちゃう
壁や机やカーテンに向かって
いくらでも話しかけちゃう
どう思う?
「ヘンダァー、オカシィヨォー、アリエナィー。」
薄っぺらい体を電球にクルクル巻きつけたり解いたりしながら光線君が答える
だよなー、だよなー
困ったちゃん
「また何か独り言。もおぅー。」

外では大丈夫なんだが
一人になると
ついついつい
口を突いて出てくる
その代表格が
「ファミちゃん、レドちゃん」
これ
声に出すのを我慢する方が難しい
実は会社でもトイレに立つ時とかに小声で
ついついつい
困ったちゃんしてるんですよ

ではでは
そっと声に出してみましょう
「ファミちゃん、ファミちゃん、偉いねえ。」
「レドちゃん、レドちゃん、かわいいねえ。」
ぽっ
声に出した途端に
ぽっ
ほら
ぽっ
ほら
出現したでしょ?
ぽっ
では
撫でる仕草をしてみますよ
手首をひねって、5本の指を柔らかく柔らかく動かして
ふわっふわっ
もふっもふっ
ツーッと鼻筋を撫でると
目を細くしてうっとりする
顎に手を伸ばすと
首筋をぐっと伸ばしてもっともっとと促す
光線君も触ってみたら?
ぼくが指し示した場所を
薄い四角い体の先を紐のように細くして恐る恐る突っつく光線君
チョン・・・・・・チョン
ほら
ふわっもふっ
「ホントー、ホントー。」
光線君、体を扇子状にパタパタさせて驚いてる
だよねー、だよねー
いる、みたいな、感触
声に出しただけで
ふわっもふっな姿が
空中にしっかりちゃん

このマンションでは猫は飼えないし
第一、実家に馴染みきった彼らを今更他の場所に移すのは酷なこと
ファミ、レドとは離れて暮らさざるを得ないけど
ついついつい
名前を呼べば
現れる
ついついつい
名前を呼べば
賑やかになる
名前、名前
名前っていいなあ
「ナマエワァー、
ヨブヒトノォー、
ココロモチヲォ-、
アラワスナーリィー、
コエニダセバァー、
スガタモアラワレルナーリィー。」
光線君、よく言った!
その通りなりぃ

食後のお茶を飲んでると
ミヤミヤが不意に湯呑みを置いてぽろり
「かずとんはいつでもファミちゃん、レドちゃんなのね。
ファミちゃんが1番、
レドちゃんが2番、
ミヤミヤが3番。」

えーっ、困ったちゃん
「そんなことあるわけないよ。」ってすぐ返したけど
ぼくに向ける視線にどことなく不満が宿ってる
本当にそんなことないんだよ
だいたいレドはファミと同じくらいかわいがってるし
あ、そういう問題じゃないか
そりゃさ
新婚旅行にスペインに行った時
地下鉄の行き先を確認しようとしてミヤミヤに
「ねえ、ファミちゃん」って話しかけちゃったことはあるさ
「昔の彼女の名前を呼ばれるよりもショック」と睨まれたさ
でもそれはね
ミヤミヤなら
何を聞かれても大丈夫
ってことなのさ
かずとんとミヤミヤは一緒に住み始めて6ヶ月
オナラの音を聞かれても「ま、いっか」って感じになりつつある今
ミヤミヤが傍にいても
一人でくつろいでいるのと同じなのさ
「オナジィー、オナジィー。」
裾をきらきら翻しながら光線君がぼくとミヤミヤの間をさぁーっと走り抜ける
「ミヤミヤが1番に決まってるじゃない。
それより今度の日曜日、小金井公園にウォーキングに行こうよ。」

ウォーキングに行っても
周りに誰もいなくなれば
ついついつい
傍にミヤミヤがいても
ついついつい
ファミちゃん、ファミちゃん
レドちゃん、レドちゃん
ファミちゃん、ファミちゃん
レドちゃん、レドちゃん
名前を呼べば
困ったちゃん
みんな一緒に暮らしてるのと
「オナジィー、オナジィー。」