無一物野郎の詩、乃至 無詩! 43 riou 様へ
さとう三千魚
ひろばでは
水の
流れる
音を聴いた
アンデスの
笛の
音も
聴いた
桜は
どんな
音がするの
花びらが
流れていく
たくさん
***memo.
2023年6月4日(日)、静岡駅北口地下広場での即興詩イベント、
「 無一物野郎の詩、乃至 無詩!」第十四回で作った43個めの詩です。
タイトル ”おと”
好きな花 ”桜”
#poetry #no poetry,no life
ひろばでは
水の
流れる
音を聴いた
アンデスの
笛の
音も
聴いた
桜は
どんな
音がするの
花びらが
流れていく
たくさん
***memo.
2023年6月4日(日)、静岡駅北口地下広場での即興詩イベント、
「 無一物野郎の詩、乃至 無詩!」第十四回で作った43個めの詩です。
タイトル ”おと”
好きな花 ”桜”
#poetry #no poetry,no life
川が海に向かって流れている
貨物列車が荷物を積んで北へ走る
川と線路に挟まれて
9丁目は動かないでそこにあった
ずっと前からそこにあった
公園も店もない 家だけが
日々の暮らしだけがそこにあり
ヒトが自転車を洗っている
土に 名前のない草が茂り 名前のない花が咲き
ネコがいる
大きな目で 前足をギュッと握って
甲の毛は汚れ
木のように動かない
何をつかんでいるのか
甲を引っ掻いても開かない
血が流れる
土に染み込む
ヒトが自転車を洗い終わる
外階段をのぼり 自転車を2階のベランダに干している
空に向かって干している
9丁目に来た
橋を渡って9丁目に来た
足を引きずって9丁目に来た
何も持たずに 誰にも言わずに
9丁目に来た
ヒトが ヒトと 話している
私の知らない言葉で
鳥の言葉で
羽はないのに
鳥の言葉で話している
風が吹く
片足を使えないネコが 木のようにそよぐ
名前のない草花たちも 風にそよぐ
貨物列車がまた走っていく
その音を聞いた
前足は爪が伸びて
ここまで歩いて 泥だらけで
その前足を静かに握ると
歩けなくなった
虫の一匹もキャッチできない
9丁目で
名前のない花のそばの地面の上で
見えない何かを抱きながらすわりこみ
北へ運ばれていくモノたちの音を
私は聞いた
(5月某日、奥戸9丁目で)
鼻は
人の
顔の
まんなかに
あるね
花は
こころの
まんなかに
ある
ぽっと
咲いていた
灯っていた
ダリア
わたしの花
***memo.
2023年5月27日(土)、しずおか一箱古本市の会場「水曜文庫」での即興詩イベント、
「 無一物野郎の詩、乃至 無詩!」第十三回で作った42個めの詩です。
タイトル ”はな(華)”
好きな花 ”ダリア”
#poetry #no poetry,no life
「浜風文庫」は、今年、2023年6月8日で、開設して11年を迎えます。
最初期から浜風文庫を支えてくれたのは詩人の鈴木志郎康さんでした。
志郎康さんとの出会いは、いまから40年以上も前のことです。
わたしが小沢昭一さんの芸能座という劇団の研究所演出部研究生を辞めた頃、
東京の江戸川橋の小さな工場で働きはじめながら東中野の新日本文学会の文学学校に通いはじめた時からでした。
そこに志郎康さんがいたのです。
詩人の志郎康さんや阿部岩夫さん、他にも小説の先生もいらして、わたしは志郎康さんの詩の教室に通ったのでした。
小さな木造の学校の教室に詩の生徒が10人ほど集まり、作品を提出して、生徒全員から講評をいただき、最後に志郎康さんの講評をいただくという仕組みでした。
仕事で疲れた体や頭でやっと書き上げた詩を提出すると志郎康さんの厳しい講評が頂けるので、ハラハラしながらも楽しい教室でした。
帰りには東中野の居酒屋で反省会をしてから帰るのも楽しかったのです。
最初の頃は志郎康さんの講評が厳し過ぎたのか生徒がどんどん少なくなったような記憶があります。それで生徒が居なくなるのは困るので志郎康さんの講評はすこしだけ優しくなったようでした。
さて、そんな志郎康さんの生徒であるわたしは仕事や生活に忙しく、なんとか時間を工面して詩を書いていたようです。
その頃わたしは志郎康さんのプアプア詩に感染していてプアプア詩の真似っこの詩を書いていました。
美智子妃殿下の詩とかをプアプア調で書いていたのです。でもプアプア詩は志郎康さんの詩であり、わたしはわたしの詩を書かなきゃ意味がないと思うようになりました。その頃に文学学校で知り合った来栖徹さん、中村登さんや神田典子さん福島素子さん疋田春水さん住友浩さん、それから外の世界の加藤閑さん、奥村真さん、井上弘治さんなどといくつかの詩の同人誌を作ることになりました。
わたしは小さな頃から詩を書いてきましたが現代詩と出会ったのは志郎康さんと会えたからなのでした。
でも、わたしの先生である志郎康さんは「先生」と呼ばれるのが嫌いな先生でした。
だからわたしは「志郎康さん」と呼ぶのです。
志郎康さんは浜風文庫にたくさんの詩を送ってくれました。
それらの詩が書肆山田から詩集として出版された時、わたしはとても嬉しかったのです。
その志郎康さんが、昨年、2022年9月8日に亡くなりました。
87歳でした。
わたしはぼんやりしてしまいました。
いまも、すこしぼんやりして生きています。
わたしは鈴木志郎康という詩人を追いかけてきたのです。
わたしのようなボンクラ詩人と違って志郎康さんはほんとの詩人だったのです。
これからは、
浜風文庫に頂いた志郎康さんの詩を読んで、
わたしなりに志郎康さんの詩を理解し紹介していきたいと思います。
今回は、
志郎康さんから浜風文庫に最初にいただいた詩、
2014年2月14日に浜風文庫に公開された「さあ、詩のテーマは東京都知事選!」という詩です。
「さあ、詩のテーマは東京都知事選!」
https://beachwind-lib.net/?p=1556
「権力者のあり方の地層ってのが、うーん、
民主主義を多数決で踏みつぶす全体主義の足取りの始めじゃねえか、」
この続きはまた後で!
・・・
外から、
帰ってきました。
続きを書いてみます。
志郎康さんの9年前のこの詩を読んでほぼ現在の政治状況を言い当てているなと思ったのでした。
「民主主義を多数決で踏みつぶす全体主義の足取りの始めじゃねえか」
という言葉にこの10年間の日本国の姿が見えてくるように思えたのでした。
この東京都知事選は、猪瀬直樹知事の徳洲会からの献金事件での辞職に伴い、舛添要一、宇都宮健児、細川護熙、田母神俊雄、ドクター・中松、マック赤坂などなどの各氏が立候補し、舛添要一氏が大差で東京都知事に当選した選挙でした。
この選挙は、
都知事を選ぶっていうだけじゃなくて、
権力者のあり方の地層ってのが、うーん、
民主主義を多数決で踏みつぶす全体主義の足取りの始めじゃねえか、
とか
個人主義を歴史意識で縛り上げる国家主義が誇らしく腕組みしてるんじゃねえか、
とか
って思えちゃってね、いや、まあ、詩人さん、先走るなよ。
都知事選は現実よ、ゲン、ジ、ツ。
ってやんでぃ!
いやー、思った通りで、
暮らしの安泰が第一ね。
世間様は怖い。
いやいや、わたしの子どものころにゃー
国の安泰ってことで、
鬼畜米英、撃ちてし止まむって、
世間様はみんな同じ顔して、 白い割烹着とカーキ色の国民服で、
万歳しちゃっていたじゃん、
ってやんでぃ!
ってやんでぃ!
古くさい体験の繰り言は止めにしな。
時間は止まっちゃくれないよ。
さあさあ
東京の200万の世間様を
お迎えするのは全く違う夢舞台ってところじゃん、
お父さんお母さんおじさんおばさんお兄さんお姉さん
取り戻された國の輝く世界一の東京とやらで
おもてなしの絆で結ばれた手を合わせ
どんな五輪ダンスを踊るのやら、
マスコミに揺さぶられた詩人の杞憂の妄想ってやつですよ。
ってやんでぃ!
「さあ、詩のテーマは東京都知事選!」より引用
志郎康さんは「国家」という制度がいかに「個」を縛り上げて踏みにじるかを子どもの頃からの体験として実感しているのだ。戦中の学童疎開、栄養失調による脚気、東京大空襲、戦後の混乱、などを生き延びて「国家」という制度の嘘と理不尽を痛く体験したのだったろう。
この詩で語られる「国家」や「安泰」や「世間様」や「東京五輪」に、
一人の個人として対峙しようとしているのだ。
一人の個人として生きることが志郎康さんの詩なのだ。
「ってやんでぃ!」
「逃げるなよ」
と志郎康さんは言っている。
志郎康さんは「一人の詩人」として生きようとしている。
その志郎康さんは、昨年、2022年9月8日に亡くなりました。
わたしは、ぼんやりしてしまいました。
いまも、すこしぼんやりして生きています。
そして「ボンクラ」という言葉を思い至りました。
「ボンクラ」というのは「ぼさっとしていて鈍い人。ぼんやりしている人、様子。」というような意味だそうです。
わたしは子どもの頃から一人でぼんやりと流れる雲を眺めていたのです。
そしてぼんやりと佇んでいたのです。
「一人の詩人として生きてみなよ。」
志郎康さんは、
志郎康さんの詩によって、
わたしのようなボンクラに、そう、言ってくれていたと思えるのです。
志郎康さん、
ありがとうございました。
わたしはわたしの詩を書いて生きてみます。
2023年6月1日 さとう三千魚
#poetry #no poetry,no life
朝
目覚める
朝
ぼんやりと
思う
幸は
あるの
どこに
あるの
百日草が
咲いた
赤や
ピンク
黄色の
百日草が咲いた
***memo.
2023年5月27日(土)、しずおか一箱古本市の会場「水曜文庫」での即興詩イベント、
「 無一物野郎の詩、乃至 無詩!」第十三回で作った41個めの詩です。
タイトル ”まいにち”
好きな花 ”百日草”
#poetry #no poetry,no life
あとどれくらい 苦しめば
本当のわたしの言葉を
紡げるのだろう
わたしは どこまで
不幸せになれるのだろう
わたしは どこまで
苦難に耐えられるのだろう
鏡は 本当のわたしを壊すだけで
何も 応えてはくれない
美しい人生の音色を奏でるのに
俗世の穢れた目は いらないだろう
裏切りは 本当のわたしの言葉を
紡ぐのに 幸いなり
偽物は 美言を弄し
本物は 沈黙する
石を投げよ
わたしは 罪人なり
わたしは ことばの十字架に架けられ
受難に見舞われんことを
幻覚に見る
死は まだ わたしのもとに
黒い死者を送ってはいない
これに
ついても
あれに
ついても
じつは
なにも
知らない
すみれの花
だけが
知っている
知らないということ
***memo.
2023年5月27日(土)、しずおか一箱古本市の会場「水曜文庫」での即興詩イベント、
「 無一物野郎の詩、乃至 無詩!」第十三回で作った40個めの詩です。
タイトル ”これについて”
好きな花 ”すみれ”
#poetry #no poetry,no life