michio sato について

つり人です。 休みの日にはひとりで海にボートで浮かんでいます。 魚はたまに釣れますが、 糸を垂らしているのはもっとわけのわからないものを探しているのです。 ほぼ毎日、さとう三千魚の詩と毎月15日にゲストの作品を掲載します。

「夢は第2の人世である」第103回

 

佐々木 眞

 
 

 

2023年6月

電車に隣り合わせに座った男は、自分が惚れた女の鼻が、さながらピノキオの鼻であることに気づき、女は、惚れた男の唇が、ホッテントットのように分厚いことを知って興冷めし、かくて百年の恋も一瞬にして終わったのであったあ。6/1

幸い自宅が大学の坂下にあったので、私は試験日には弁当を持って早朝から坂道を登っていくと、暗闇の中で受験生たちが蠢いていた。大学の正門をくぐると、学生たちがブラックエンペラー集会を開催していた。6/2

試験を受けている最中に空腹を覚えたので、風呂敷をを開いて日の丸弁当を喰っていると、父から「試験ぐあんばれよ」という電話をもらったのだが、死んでから半世紀以上経って、史観会場でそんな電話を貰ったことが、不思議でならない。6/2

僕らは解雇される前に、一人前のデザイナー&ディレクターとしての仕事がやれる技量を、身につけさせてもらいたい、そうなったらいつレイオフされても結構だと喰い下がったのだが、テキがは、そんな都合のよい主張を認めるような甘い経営者ではなかった。6/3

原宿本社の5階の突き当たりに、来日して展示会を開いたデザイナーのペリー・エリスが、通訳のサトウケイコ嬢に付き添われるようにして立っていて、マスコミの取材を受けているのだが、彼の顔は逆光になっていて、よく見えない。6/5

同じ5階の反対側のエレベーターの前に1台のレッテラ・ブラックが置いてある。米国最古の婦人衣料ブランド「ボビー・ブルックス・オブ・ニューヨーク」を担当する英語の堪能な課長が、中目黒のレナウンルック社に移転するので捨てたのだろうが、勿体ないので拾っておこうかと迷う。6/6

来客があるというので、1階の正面玄関まで降りていくと、葉山に住んでいるという写真家のブルース・オズボーン氏が井上佳子さんと一緒に立っていて、「このビルはガンダムに似ているので撮影したい」というので、「どうぞどうぞ」と答えて、彼が撮影するのを見ていた。6/7

余は反乱軍の仲間たちと、専権王の軍隊に向かって突撃していたが、ドンキホーテに扮した指揮官のアランドロンが、行手に立ち塞がったので、余は踊り上がって、彼奴の胸に両手に持った短剣を突き刺して、息の根を止めてやったのよ。6/8

おらっちは、ついにそいつの居所を突き止めて、夜中に忍びこんで、そいつを布団丸ごと縛り上げて、そいつの心臓のところに、「返り忠の鼠」の印を、つけてやったのよ。6/9

おらっち藤井名人と対戦中なんだが、藤井選手がお馴染みの大長考に耽っている間に、おらっちの手足のさきっちょから、頭のてっぺんのところから、どんどんどんどん溶け始めたので、こりゃまたどうしたことかいなと、焦りに焦る。6/10

突如、異次元男が、「万事を放擲して、3年半永平寺で修行する!」と宣言したので、全国民が「それはなによりの朗報!」と、喜んだのなんの。6/11

お馴染みのリヴァイアサン選手がでてきて、おらっちの前に、面白そうなオモチャを投げ出すので、みな寄ってたかって、奪い合うのだ。6/12

夜の公園の中に、大勢の外国人家族が座っている。住むべき家のない彼らは、昼間は客のいない百貨店などをブラブラし、夜はここで野宿して、何カ月も過ごしているのだ。6/13

ある会社のリーマンでありながら、某製作会社に頼まれて同業他社のTVCMを企画制作したら、これがなんとカンヌでCMグランプリを獲ってしまったのだが、おらっちが授賞式に出る訳にもいかず、うれしいような悲しいような、不思議な気持ちずら。6/14

それがどんなに古くても、その写真の中のどこかのポイントを押すと、そのポイントが拡大されて3次元のカラーの動画が展開される画期的なシステムを発明したのだが、はてさて、これをどうしたらいいものか?6/15

久し振りに横須賀のヴェルニー公園を散歩していたら、ヒロ君一家とぱったりでくわした。ヒロ君は商売繁盛で、奥さんと2人の子供も元気そうなので、安心した。6/16

わたしらは何日も何日もスタジオに籠って音作りをして、「アレ」が訪れる、あの聖なる瞬間を待っていたのよ。6/17

交響曲のはじめと終わりの数小節だけ聴けば、それでその真価が分かるような気がしていたのだが、現代音楽のライヒやグラスなどは、いくら聴いてもさっぱり分からなかった。6/18

その老舗旅館に泊まると、夜寝るときに枕を持った美貌の男女が現れ、望めば夜伽をしてくれるというので、国内外の旅行客からの圧倒的な人気があった。6/19

夜中にトイレに入ったら、「倍、倍、倍」というて、オシッコがいっぱい出て来たので、驚いた。6/20

大量の粗大ゴミを、今すぐ名越の焼却センターへ持っていかねばならんのだが、あんな急坂まで、このオンボロ自転車で運べるだろうか?6/21

第2営業部で打ち合わせをしていたら、ムロタ課長の似顔絵を描いてくれと頼まれた。「おらっちの所属は宣伝課だが、デザイナーではないから描けない」と固辞したんだが、「どうでも描け描け!」と迫って来て、とうとうムロタ課長がお馬に乗ってハイドウドウの大騒ぎだ。6/22

トントンと釘を打っているような音がしたのは、私が横たわっている棺桶の蓋をしているのだと、今頃になって気づいた。6/23

ド田舎の取手で開かれている息子の展示会場は高層ビルの7階にあるので、エレベーターに乗ったら、息子の担当教授が一緒に乗り込んできて、さんざん息子の悪口をいうので、反論しようとしたらさっさと降りてしまい、代わりにシャワーを浴びた素っ裸の男の子が乗り込んで来た。6/24

僕らの「いかすぜバンド大会」が始まった。おらっちが演奏するのは、もちろんジュリア・リンカーの「あたいのワンコを起こさないで」と、「バリハイ」の特別ヴァージョン。んでアンコールは、勿論近田春夫&ビブラトーンズの本邦初のラップ「いい女ってなんで、こっちに来ないの」(「AOR大歓迎」所収)だ。6/25

私は我ながら卑劣な振る舞いをしてしまったことを、今頃になって悟って、フマ君に謝ったが、どうやら謝るべき相手を間違えたようだった。6/26

その親切な伯母さんは、「具合悪いからだで、そんな急な階段を降りたら、躓いて階段の下まで落下してしまう。早く手すりをつけなさいよ」というてお金まで送ってくださったので、手すりができて、とても重宝しているずら。6/27

おっらちの不用意な発言で、本来ならシャンシャン大会であるべき株主総会が、大荒れに荒れてしまったので、おらっちは花形の総務部の株式担当からはずされ、資材購入係に降格処分されちまったぜい。6/28

どんどん左の眼が見えづらくなってくるので、蔵並眼科を訪ねて、一日も早く手術してくれと頼んだが、あーたは前回の手術を勝手にキャンセルしたから、どこか他をあたってくらさいと言われてしまったずら。6/29

おらっち焦ってラグーン社の塹壕にタラコをぶら下げておいたら、いつの間にかバクダン虫になってしまって、みんなが寝静まっている時に次々に爆発したのよ。6/30

 

2023年7月

血の杯を呑み干して、あれほど固く兄弟の契りを交わしたにもかかわらず、、俺たちの反乱は未遂に終わってしまったが、それは拷問の脅しに負けて、俺たち全員があっさり自白したからだった。7/1

小学館の「小学1年生」から「小学6年生」の6誌に「よいこ」「めばえ」などを含めた幼児学年誌の全編集長が我が家にやって来たので、とりあえず皆さんを風呂場に案内したのだが、狭いうえに、風呂椅子も洗面器も足らないので、抗議の声が殺到している。7/2

一晩中、全世界をうろつき回ってみたが、どこもかしこも、おらっちに適した居場所とは到底感じられなかった。7/3

五反田のTOCを覗いてみたらJCの展示会をやっていて、そこに新年度の宣伝計画表が掲示されていたので、にゃろめ担当のおらっちに相談もせず勝手なことをしやがって、と土たまにきたので伊藤忠に文句を言いにやってきたところだ。7/4

A将軍によって完全に包囲されたB将軍の軍勢は、降伏するか全滅するかいずれかだと誰しもが思ったのだが、一夜明けると彼らの陣営はもぬけの殻となっていたので、A将軍はあっけにとられた。7/5

万事絶不調なのに、どうして「万事快調」なんて詩を書くの?と訊ねる人がいたので、万事絶不調だからこそ書いたんだよと答えたのだが分ってもらえないようだった。7/6

詩のようなものの書き反故ですが、というてどっさり半紙を送ってきたのだが、一枚一枚読み進むうちに、端倪すべからざる傑作揃いと思えて来たのだった。7/7

おらっちが出したお弁当箱くらいの大きさを米粒くらいの細かい活字で埋めた一巻物の大詩集を、一夜にして読了してしまったので、完読賞を下さいと迫られたので、仕方なく授与して差し上げたのだった。7/8

「1枚千円展」という展覧会に行ってきた。展示作品のどれでも1枚千円で買えるといういまどき珍しい大胆不敵な販促キャンペーンが功を奏して、押すな押すなの大入り満員の大盛況だ。7/9

余は、長い長い大旅行からひさかたぶりに帰国したので、愛する家族への土産も半端ない数量にのぼった。余は暗い三畳間の30ワットの電球を捻って明りをともしながら、老いたる父母、一足飛びに大人になった弟妹のためにボストンバッグの中から手品師のように次から次へと土産物を取り出していった。7/10

ミッドウエイで撃沈されて沈みそうな空母のブリッジに最後の最後までぶら下がっていたら、陛下から特別報奨金が下賜されるというので、我われ水兵は必死に食らいついていた。7/11

やはり関東大震災が勃発し、東京は完膚なきまでに壊滅し、消墨色の灰燼と化したので、京急は焼け焦げた無蓋の矩体を乗せた馬車を、三浦半島の端まで定期バスの替わりに運行させている。7/12

おらっちパリコレのプレタのモデルを頼まれていたのだが、余りの暑さにスケジュール帖が脳味噌の中で蕩けて腐ってしまったので、無断欠席となって除名処分を受けちまったよ。7/13

わいらあ国際義勇軍はウクライナを支援しようと空路はるばる戦場までやって来たのだがロシア軍の猛烈な爆撃に息も出来ずにタコつぼに潜んでいることしかできなかった。7/14

岐阜の大垣と謂う所に来ているようだが、その山奥にある大滝の源泉を捜しながら急峻な坂道を登攀しているのだが、あともう少しで頂上というところで滝から流れ落ちる水流とと共に麓まで落下してしまうのだが、幸いなことにおらっちはパラシュートを身につけているのだ。7/15

ウクライナ戦争即時停止と世界平和即時実現、日米安保条約即時解体を祈念して、私らはやってやってやりまくったのよ。7/16

暑くて暑くてどうにも寝つかれないので、大弱りしていたが、ふとセイユーのレジのクレジットカードを入れる際の侵入角度を参考にして体位を変えてみたら、みごとに嵌ってスイスイ寝られたのよ。7/17

ボクは今日26歳の誕生日を迎えた選手に「誕生日おめでとう!体に気をつけてガンバ!ガンバ!」とエールを送ると、ヒジョーに喜んでいた。7/18

その大書店のいちばん先のひら台の上に私の詩歌集がどっさり積まれているので驚いていると、どこからか子供が出てきて、本を玩具にして遊んでいるので、もっと驚いてしまった。7/19

サントリーの入社試験会場に来てみると、出された問題はイヌの育て方と飼い方についてであったが、半分以上はイヌ愛に満ちたイヌ学のお勉強だった、中にはヘナ、ナカという名前の品種もあったが、ともかく全員合格の目出度い試験だった。7/20

過日北原博士一家は、長男が大麻を吸引していたというのであろうことか家族全員が築地署の頑丈な牢屋に入れられ、歌舞伎座帰りの暇人の好奇の晒し者にされたというのだが、酷い話だ。7/21

剣闘士の私は毎日ローマの円形闘技場で食うか食われるかの殺し合いをしていたのだが、だんだん厭になってある日仲間と相談して殲滅一歩手前の八百長試合を敢行したのだが、コロシアムをうづめ尽くした観客が怒り狂って殺せ、殺せの大合唱が沸き起こって諸共に殺されちまったのよ。7/22

当初村の主だった連中は、文月は革命に適さないから葉月に延期しろと何度も忠告したのだが、わいらあ若衆連はかえってそれに反発して決起したのだが、案の定準備不足で大失敗してしまったずら。7/23

えらくひもじくなってしまったが、なにせ夢の中であるからなにも食えないので、じっと我慢しているのら。7/24

「あける」、「いのる」、「うむ」、「えぐい」「おこる」「かむ」、「きる」「くすぐる」「ける」…。ビデオショップに行くと、おらっちが企画した<あいうえおシリーズ>がずらりと並んでいたが、売れた形跡はなかった。7/25

ある女の一生について書いたが、やはり文字だけではなく、写真なんかを入れた言方がさまになると脇から言われたので、そうしようとは思うのだが、残念ながらその材料がないのだ。7/26

私の小学時代の同級生だが、いまだもって独得の民族衣装を纏っているのだが、それががどこの民族なのか私も本人も知らないのだ。7/27

ゴダールとロメールが共同編集して巴里で2年間だけ出ていた「ル・シネマ」という映画雑誌が物置から出てきたので、とりあえず表紙だけ撮影したんだが、これって「なんでも鑑定団」に出してみる値打ちがあるだろうか。7/28

A国のさる土地をB国が基地にしたので、それをC国がとがめて、「おらっちにも基地にする土地を寄越せ」と恫喝したので、A国はB国の基地の隣の土地をC国に与えてしばらく様子を見ることにした。7/29

真夏日の朝の光の中で、深紅の薔薇の花弁はいつまでもいつまでもハラハラと水の上に落ちるのだった。7/30

開高健のことを書こうとしていたのだが、いきなりタイトルを「開高海○」としたものの、○の個所にどんな漢字をもってきたらいいのか、いくら考えてもてんで思い浮かばないので、結局開高健論は没になってしまったずら。7/31

 

2023年8月

亡くなったケータイが、どこかでぶつぶつ言うておるよおだ。8/1

むかし椎名誠が逗子のWWW店のカジュアルウエアはなかなか面白いよとビーパル誌で語っていたのを思い出して行ってみたのだが、そんな店は跡形もなかったずら。8/2

さる高名な哲学者が、私の詩集の感想文を書いてくれたのだが、超難解でしかも3冊の超難解な哲学書に拠っての書き下ろしなので、おそらく書いた本人にしか理解できないと思われた。8/3

日中米露そしてコスタリカからやって来た5人の若者が開発した超半導体AIなる最新式の機械が全世界からの反響を呼んでいるが、その中身は杳として深い闇につつまれている。8/4

寝苦しい夜を輾転反側しているといつのまにか漱石もどきになって、次のような歌が転がり出てきた。「我もまた剥犬の如くうろつきぬ東京大阪巴里倫敦」。8/5

この風景を前にしてどういう風に写真を撮ればいいのかと聞かれたので、1枚はアジア風に、もう1枚はアフリカ風に撮り給えと助言したのよ。8/6

今回の総選挙に臨む党の方針を聞かれたので、前回のしかつめ路線をやめて、ワハハ本舗で行こうと即答したのだが、果たしてその真意を分ってくれたか否か、自信はない。8/7

昔の言葉でいうと女工さんたちが大勢行き来している洒落た小さな町だったが、私はどうしたら彼女たちに気に入られるのかいくら考えてもそのやり方を思いつかなかった。8/8

アラン大使館で発信しているおらっちのブログが大好きですとジョージが言うので、現実世界だけではなく冥界の住人にも読んでもらえるように地下通信を開始したのよ。8/9

私のグループは何グループ?と聞かれたので、スウエンソンの白鳥グループだよと返事したが、相手はそれっきりうんともすんとも言わないので、ほんとにスウエンソンの白鳥グループなのか心配になってきた。8/10

ツアラストラのおらっちは、なお多くのことどもを語ろうとしたのだが、突然語るべき中身がなにもないことに気づいたので、それからは大いなる沈黙期に入ったのよ。8/11

おらっちは一人の孤高の老テロリスト、および10年の若手テロリストを大事にせんといかんと思ったずら。8/12

元騎兵隊員の俺は、キヘイタイについて知るために電話をかけるが、誰からも返事がないので、奇兵隊に電話すると、こちらのほうは速やかに返事があった。8/13

この鉄道会社では始発列車を待つ乗客のために、夜中から翌朝まで読書室を開放し、湯茶のサービスから簡易ベッドまで据え付けてあったが、なんといっても嬉しかったのは書架に余の詩集が並んでいることだった。8/14

会社を抜け出して赤電話がやけに目立つ田舎町をほっつき歩いていたのだが、やがてそれにも飽きて赤電話で「夕方までには戻るから」と会社に電話したのよ。8/15

おらっちが病院の中で夕涼みをしていたら、タンアミなんとかに似たおばハンが、おらっちの預金通帳を持っていこうとしたので、「こらあ、なにしてけつかんねん!」と大声で抗議した。8/16

戦前戦中から映画雑誌で映画の感想文を書いていたのだが、敗戦直後からは進駐軍による検閲をかいくぐって、日米安保条約は良くない、という趣旨のコラムを書いているのだが、誰も読んでいないようだ。8/17

お父さん、ビデオ撮って、と度々息子が電話するので、おらっちは時間の海に浮かんでいる9時30分と5時15分の2つの表示板をつかもうと必死で平泳ぎしているのだが、波が荒くてなかなか辿りつけない。8/18

Oオリ氏はどうやらおらっちへの生前贈与を考えていたらしいが、結局はそれを断念して軽井沢で静養しているらしい。8/19

ブルックナーが怒涛のブルックナー進行を続けている間も、超満員の地下鉄に乗り込もうとする乗客の中には、母から大層世話になった多くの人たちがいたのだった。8/20

私に麻酔をすると、正しい日本人、正しくない日本人、変わらない日本人、時々変わる日本人、やたらと変わる日本人、日本人じゃない日本人のどれかに転位してしまうので、あらかじめいうておかんけりゃならん。8/21

女性ナンバーワンの評判の女史の論文を読ませてもらったが、別段どうということもないので、なんでナンバーワンなのかさっぱり分らんかったずら。3/22

「やっぱ寄る年波には敵わん、俺の最後の勝負は大失敗に終わった!」と、ナベサンはNYの5番街で大いに嘆いたが、所詮は後の祭りだった。3/23

1万1千発の花火とまつがえて、1万1千発の核ミサイルを撃ってしまったので、その男は急いで下宿に帰って、4畳半の押し入れで頭を抱え、誰かにペンペンしてもらうべく、尻をぐっと突き出していた。8/24

だんだん耄碌して何がホントか分らなくなってきたので、本当のことだけを書き綴った真実の本」全10巻をつくって、国立国会図書館に納品したが、いったい誰が読むのだろう。8/25

SNSの記述については「趣味」と「実益」と「その他」の3つのジャンルに分けて保存しておこうと思うのだが、じっさいには「その他」ばっかりに入れる羽目になってしまう。8/26

過激音楽が、香りの黄金公園で、ひとしきりシブヤ鳴り響いていた。8/27

すべては形象破壊の瞬間にかかっているのであり、タダのダダではありえない、と狂い咲きサンダーバードが教えてくれた。8/28

ともかくねえ、目の前に銃があると、撃ってみたくなるので、そんときもすぐに撃ってみたのよ。8/29

今朝白内障の手術をするはずの眼医者へ行ったのだが、どこかへ引っ越したとみえて、影も形もなかった。8/30

アメリカにいる池田ノブオのオレは3枚の写真を撮った。一枚は先住民がハンマーで鉱石をぶち割っているやつ、もう1枚はアリゾナの大平原に沈む夕陽の写真なのだが、3枚目のわが人世最高の傑作が一番素晴らしい奴がどうしても思い出せないので焦り狂う。8/31

 

 

 

運動

 

廿楽順治

 
 

運動が苦手だったので
体育の授業では射撃をえらびました

使う筋肉は脇だけです
走ることもありませんでした

きみはもうなんでも撃っていいんだ
という資格だけはある

死んだ友だちもいます
わたしは銃を撃ってもよいのです

マリアさんのうちで
わたしたちはたくさん食べさせてもらった

仕事がないので
最近は塗り絵ばかりしていたらしい

子どものころは
鶏肉の配給にどきどきしました

脇をしめて眼を細めます
この世の運動というのがこわいのです

 

 

 

佐々木小太郎古稀記念口述・村島渚編記「身の上ばなし」

「祖父佐々木小太郎伝」文責 佐々木 眞
 

佐々木 眞

 
 

 

第1話 母の眼病

私が行き年12の時、(以下年齢はいずれも行き年)、33歳の母は4人目の子を産んで、この子は育たず、母は産後眼を病み、だんだん悪化してついに全く失明してしまった。

にわかめくらの不自由はたとえようもなく、何とかして治さねばと、当時は日本一の眼医者として知られた浅山博士を院長とする京都府立病院で診療を受けるため、渡世の下駄屋を閉め、弟と妹を親類に預けて、母をカゴに乗せ、父と私が付き添って2晩泊まりで京都へ行き、東洞院佛光寺上ルの十二家という丹波宿に泊まり、翌日京都府立医大病院に行って浅山博士に診てもらうと、「これはクロゾコヒといって、とても治らぬ眼病だ」と宣告され、母はガッカリして、「死んでしまう方がよい」といって泣き悲しみ、父も思案にあまって、このまま綾部に帰る気にもなれず、途方に暮れていた。

すると母は、「わたしは柳谷の観音様におこもりして、“消えずのお灯明”をあげて一生一度の願を掛けてみようと思う。どうぞわたしをそこまで連れて行って、あとはどうなろうとかまわずに、3人は綾部に帰っておくれ」と、いうのだった。

母はかねて柳谷の観音の霊験あらたかなことを聞いていたのである。“消えずのお灯明”よいうのは、手のひらに油を入れてお灯明をともし、一生一度の大願を掛けるのだということである。だが、そんなところに、この不自由な母をおきざりにして帰れるものでもなし、ますます困り果てて悲嘆に暮れ、2人の駕籠かきまで一緒に泣いてくれたほどだった。

この愁嘆場を十二家の主人が見るに見かねて親切に慰めてくれ、それから「千本通鞍馬口は十二坊というところに、俗にエッタ医者という眼医者があります。たいへん上手で、いかな難病でも治すという評判が高く、遠国からも病人が来て、ひどくはやっているそうです。そこへ行って診ておもらいになったらいかがでしょう」とすすめるのだった。

藁にもすがりたい気持ちの私たちは、すぐに母を駕籠に乗せて、京の町を端から端へ、遠い千本通鞍馬口へ、十二坊のエッタ医者というのをたずねて行った。

行ってみるとこの辺は京も田舎の静かなところだったが、病院はなかなか大きく立派だった。院長は益井信といい、そのお父さんの老院長とともに開いている眼科専門の病院だった。

院長の診断によれば、いかにも難病は難病だが、まんざら見込みがないとはいわないのである。ところが入院しようにも病室は満員でどうすることもできない。それを何とかして、「せめて1週間でもよいから」と頼んで、薬瓶など積んであるせまい物置部屋を片付けて収容してもらった。そこで父と駕籠かきは綾部へ帰り、私が母の介抱に残った。

にわかめくらの母は、何一つとして自分ではできない。食事の世話は箸の上げ下ろしから、便所通いにはいちいち肩を貸し、私は大事な大事な母、好きな好きな母のために、学校を長く休むかなしさとも、友だちと遊べないさびしさも忘れて、かた時も傍を離れず介抱した。

病院には広々とした庭があって、中に観音様の御堂があった。お参りする人が次から次へとあって、線香の煙の絶え間がなかった。母の目を治すために、何か祈りたい気持ちでいっぱいだった私は、母から聞いた柳谷の観音と、いずれ同じ観音様だから、これに母の眼病平癒を一心込めて祈ってみようと決心した。

毎朝母が目を覚ますと、いちばんに便所に連れていかねばならぬ。それから次々と用事がある。お参りは、まだ母が目を覚ます前にしなければならない。
私は毎朝うすぐらい時に起きてお参りをした。それからお祈りをするにしても、ただ「お母さんの目を治して下さい」だけでは、自分の真心が観音様に通じないような気がして、とつおいつ考えて、「私の片目をお母さんに上げますから、お母さんの片目だけでも見えるようにして」といつでも祈った。
それもただ心の中で念じるだけでは通じないような気がして。声に出して祈った。

こんなに早く誰も聞いている人は無いと思って、声はだんだん大きくなった。
ところがそれを聞いている人があった。丹後の森というところから来ている馬場治右衛門というおじさんと、越前から来ている川合おえんさんというおばさんだった。

馬場さんは目の悪い奥さんに付き添って来ていて、ひまさえあれば老病院長の碁のお相手をしている心の優しいおじさんだった。
おえんさんも優しい世話好きの良いおばさんだった。

この2人が病院中、に言いふらして、「可哀そうなことだ」、「感心なことだ」と、大変な同情を呼び、とりわけ老病院長がすっかり感動して、病院長と老夫人が願主となり、馬場さんやおえんさんたちが奔走し、病院中こぞって観音様に百万遍の大祈祷を病院の大広間で開くことになった。

私もその座に連なった。見ると一つひとつの玉の大きさがピンポンの玉ほどもあるような大きな数珠を座敷に置き、それを囲んで一同が輪に座り、まず願主の祈りがあると、続いて会衆は口々に南無阿弥陀仏を唱えつつ両手で玉を送って数珠をグルグル回すのである。

玉の中に格別大きくて房の垂れたのがあって、それが老院長のところへ回ってくると、老院長はうやうやしくこれを押し頂き、「戌の年三十三歳女眼病平癒致しますよう南無大慈大悲の観世音菩薩」と唱え終わると、すぐにまた数珠回しが始まり、これが限りなく繰り返される。

はじめのうちは数珠の回りがゆるやかだったが、だんだんそれが早くなり、念仏の声も高くなり、一人ひとりに憑き物でもしたかのように満場湧きかえるような白熱した祈りとなった。

私は人の情のありがたさに泣き、これほど熱のこもった大勢の祈りは、きっと観音様に通じて御利益が頂けるだろうと、何だかひどく元気づけられた。母もきっとおかげが受けられるだろうと言って喜んだ。

この御祈祷のあと、綾部から父が来た。この時、老院長は父に向かって「ひとつ一か八かの治療をやってみようと思うのだが」といって父の承諾を求め、その治療が行われた。注射器の針を眼尻の少し上のあたりに差し込んで血を取ったのである。ドス黒い血が太い注射器にいっぱい近く取れた。

その翌日、母を便所へ連れていく時、病室から明るいところへ出ると、母は私の肩から手を放して、「これ、畳のフチじゃないか。これ、障子のサンじゃないか」といって、畳を撫でたり、障子に触ったりするのだった。

「ああ、眼が見える! 源や! わしは眼が見え出した。うれしいことじゃ!うれしいことじゃ! 勿体ないことじゃ! うれしいことじゃ!」と、まるで気ちがいのように大きな声を出し、変な身振りで二度も三度も躍り上がるのだった。

それから畳に身を投げ出し、掌をいそがしくすり合わせて、観音様や院長様にありったけの感謝のことばを並べあげるのである。

この騒ぎに病院中の人がみるみる集まってきた。みな百万遍の珠数珠を回してくれた人たちである。眼が見えだしたと聞いて、誰もかもが自分のことのようによろこび、言い合わせたように一回ひれ伏して、観音様に奉謝の祈りを捧げ、祝福のことばが雨のように私たち母子の上に注がれた。

母の眼は、それからグングン良くなった。大体元通りになって、生涯さしつかえないだけの視力を保つことができた。
私はこの時おかげを受けた観音様や、親切にしてもらった多くの人々の御恩を忘れることができない。

十二坊の病院は、今はない。あの辺もひどく変わって、今は相当の繁華街になっているが、観音様は少し位置は変わったが、通りに面して今もある。後に、ほど遠からぬ場所にネクタイ工場を持った関係から、今はクリスチャンの私であるが、通りすがりには少しくらい回り道をしてでも、時々お参りをしている。

馬場治右衛門さんは、舞鶴辺の人と聞いていたが、住所の森というところがどうしても分からなかった。去年ある人から、東舞鶴の森の宮町が、昔は森といった、と聞いたので、行ってみたら、お宮の出口のところに馬場という豪家があった。

尋ねてみたら当主を亀吉といい、亡き祖父の名が治右衛門で、碁の名人だったこと、私たち母子の話も祖父から聞いていたとのことだった。私は後日改めて手土産を携え、再び馬場家を訪れ、仏をおがんで旧恩を感謝した。
ただ越前とのみ聞いていた川合おえんさんの住所は遂に分からなかった。

母は眼病後も7、8年経った頃、胆石病でおお患いをした。
胆石独特のはげしいはらいたがたびたび起こってひどく苦しみ、からだは見る影もなくやせ衰え、医者の薬もききめがなく、再三再四起こるさしこみに耐える力もなく、ただ死を待つばかりのありさまとなった。

この時も私は、眼病の観音様に祈ったのと同じ気持ちで、「私の命を3年縮めて母を病苦から救い、あと3年の寿命をお授けください」と、今度は、母の信仰する生まれ在所の稲荷様と讃岐の金毘羅様に、毎朝頭から3杯の水をかむって祈りに祈った。

その時の主治医の長澤さんが、「それは手術して胆嚢を切り取ってしまうよりほかに、仕方がない。私がやってみる」といわれた。まだ若い内科医の長澤さんが、まだやったことがない胆嚢摘出という大手術を、衰弱しきっている母の腹を開いてやろうというのだから、これもまた一か八かである。
ところがこれがまたみごとに奏効して、母は胆石の病苦を脱し、健康を回復して49まで生きた。

この二度の体験、わけても12歳の時の体験は、「まごころをこめた祈りは、必ず神仏に容れられる」という信念を、私に植え付けた。
これが子供心に焼き付けられて信仰の芽生えとなり、私は常に神仏を認め、これを敬い、これを畏れた。

後にキリスト教に入信し、いまだ、はなはだ至らない信仰ながら、ひたすら神を求めて祈りと感謝の明け暮れを送っているのは、この少年の日の苦難からもえ出た信仰の小さな芽生えが、雨露の恵みを受けて枯れしぼむことなく育った賜物である。

「それ信仰は、望むところを確信し、見ぬものを眞実とするなり」(ヘブル書第11章1節)
これは聖書中、信仰の定義といわれている有名な一節であるが、私が12歳の時の体験は、信仰というにはあまりにも幼稚なものであったにしても、この聖句の一端にシカと触れたものだと思い、かかる機縁を恵み給いし主と母とに感謝している次第である。

 

 

 

ティン カン トン

 

原田淳子

 
 

 

ティン カン トン

根っ子の 奥の
きみの 響きさ

ティン カン トン

ひかりの 泉の
ぼくの 寝ぐらさ

ティン カン トン

ここに 来て
ここに 来ないで

白い 太陽が
ぼくらを 灼く

雨の ハンモック
逆さまの 虹

ぼくらは 子のない
無口な 家族さ

 

 

 

石を積む

 

さとう三千魚

 
 

このところ
荒井くんと

話していない

64の頃だから
6月くらいからかな

話していない

どう
してるかな

酔うと
荒井くんは

ひどいことを言う
それで

しばらく
電話していない

でも
気になってる

どうしてるの
かな

いま聴いてる
ラ・モンテ・ヤングも

工藤冬里も

荒井くんの
両国か

浅草のアパートで
聴かせてもらった

ラ・モンテも
工藤も

音で石を積んでいる

ちいさなころ
わたしも

軒下の土台柱の端に石を積んだ
雨垂れを避けて

ひとり
積んだ

いまも
石を積んでいるよ

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

エアー・ピアノ

 

小関千恵

 
 

爪の先が地に届く
夏の終わりにもう焚き木をさがして
燃え尽きそうな中心

植物らのりんかくが光輝いて 風に揺れてる
そら ミライは あの雲を掴みに行くだけだ

すまいの
垂れたカーテンの くたびれの向こうから 歩いてくる 命を  ♢  影を
見ないようにして しないで
エアー・ピアノで 畳を踏む 聴こえる
移動してる
忘れてしまう しまわない

鷺よ 山へ帰って 戻って 弾いて
慰安婦の 子供たちの そらを飛んで
だけど それとして ゆかないで

ゆかないで ゆくために 弾いて

飛ぶことを 弾いて