広瀬 勉
#photograph #photographer #concrete block wall
2023©Cloudberry corporation
詩作最優先の生活と、離婚しようかと、考えている。
そして、生活の中から聞こえる詩と、結婚するのだ。
1991年から2018年まで詩集を出して──。
その間30年詩を最優先する生活と共にあったのだが。
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詩集の制作費は、もう尽きてしまった。
ところで、詩集を出していないと、詩人ではないのだろうか?
僕は、1918年に今のところ最後になる詩集をだして以降、詩人・さとう三千魚さんが主宰するウェブ誌「浜風文庫」に詩を寄稿させて頂いている。
ここに載せている僕の詩は、僕の死後「未完詩篇」として、纏めるつもりはない。詩集化することもなければ、さとうさんに強くお願いして、「浜風文庫」内に、アーカイブしていただくことも、前提にはしていない。この数年、特にテーマも無く取り留めもなく書いてきているので、散乱したものをいかにも綺麗に整理して、纏めるつもりはないのだ。
ネット上に遺しておいて、どんな1篇であっても、どなたでも読めるように配慮しておくのが、作者としての誠意、時代の趨勢なのかもしれないが、それは、やらない。僕は、僕が、自信を持てる作品だけを、自分が考えられる限りの方法を持って、遺す。
だから、僕の死後は、予めさとうさんにお願いさせていただいて、「浜風文庫」の目次から、僕の名前を抹消してもらうつもりだ。だからといって、僕が詩を書く人でなくなることにはならない。僕が、死ぬ間際まで書いていた事実はぎりぎりこの世に遺そうと思ってはいるのだから。体を張って詩作をしたことには、しっかりと、誇りを持ちたい。
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1991年から2018年まで詩集を出して──。
その間30年詩を最優先する生活と共にあったのだが。
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僕は、寝食を忘れて、詩作を続けてきた。通勤電車に乗っている時も、仕出し弁当を食べている時も、会社のトイレに入っている時も、煙草休みのひと時も、そして、とうとう勤務時間にまでさえ詩作をするようになってしまい、それが会社の知るところとなり、解雇されてしまった。(一方で、精神の病気の進行もあったのだが、)その時、僕が真先に考えたことは、「やった!これで毎日満足のいくまで、詩を、書くことができる!!」というものだった。
その頃、僕は、紛れもなく、詩と「結婚」していた。解雇後、多少の貯金と退職金はあったので、再就職する気持ちなんて、さらさらなかった。病気療養中に社会に出てしまったので、再就職することなど、到底無理だったのだが。
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2018年以降、だんだん貯蓄も尽きてきて、新しい詩集を出せる見込みは、遂に失くなることとなった。紙媒体=詩集、雑誌、同人誌。電子媒体=ネットオンライン、電子書籍など。僕は、詩集の刊行によって、詩作の道を歩んできたので、紙媒体の良さ=手の上の重さや、紙から漂う匂いなどは理解しているつもりだが、媒体の変遷の話に戻ると紙媒体から後の詩の発表媒体は、ネットに移行してゆくとは、ずっと考えていた。そこに、大きな不安はなかったが、驚いたことに、さまざまな分野でネットに、各々の作品を上げて、どこからでも配信することが標準になってきているのに、詩についてはかなり異なっていた。あくまで昔ながらの紙媒体への固執。ことに同人誌への執拗な拘りには、つくづく驚かされてしまった。ある程度、理由はわかる。例えば、縦書きの詩が、横書きになるのが嫌なんでしょう?だったら、時代の変化とともに、「好き」になれば良いのではないか?大概の人がパソコン、スマホを所有している時代になっているのだから、それらを使って、いつでも、詩を書ける、発表できる媒体に移行していけば良いだけだ。編集会議したり、会費を払ったり、発送作業したりする時代はもう終わりだ、と言ってしまおう。
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とは言え、作者本位、読者本位を満たす優れた個人メディアを立ち上げて、集客して、運営するのにはかなり特別な能力が必要だ。読みやすくないデザイフォーマットには、人は集まらない。僕自身、何度か、個人メディアを立ち上げようと試みてみたが、自己満足に終わってしまって、どうにも駄目だった。
── そんな時、知ったのが、詩人・さとう三千魚さんが主宰・運営していたウェブ誌「浜風文庫」だった。それは、僕には、とても眩しく感じられた。ネットの宙(そら)に延々と作品が伸びているように感じられたし、読んでいくと作品の質はとても高かった。僕は、早速さとうさんにお願いして、「浜風文庫」に詩を掲載させていただいた。自分が作品を掲載させてもらっているから言うのでは断じてないが、「浜風文庫」は現在リリースされている詩の媒体の中で群を抜いている、のではないか、と推測する。閲覧しない人は、損をする。
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「浜風文庫」に詩を掲載している多くの詩人たちは、自らのテーマに添って、やがて詩集に纏めることを考えて、書き続けているのだと思う。
但し、僕の場合は、詩集にまとめる行為はすでに終了してしまっているので、「浜風文庫」で、何を、どのように書き継いでいくのか、戸惑ってしまった。まさに、低空飛行である。自分で納得できる作品を書けているかどうか……実に怪しい。
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そんな折、僕は2023年9月に精神疾患者を対象としたグループホームに、幸いにして入居することができた。そこは、東京都の福祉事務所が運営しているところで、そこでのグループホームスタッフとの出会いが僕の曖昧としていた気持ちを決定的に変えた。彼らは徹底的に「人に尽くす」のである。長い期間、自我に拘って生きていた僕には、それは、あまりにも大きな驚きだった。何か困ったことがあると、すぐに駆けつけて来てくれて、最善の解決方法を一緒に考えてくれる。特に感激したのは、忘れもしない2024年2月29日に、「新型コロナ」に感染してしまった時のことである。通所している作業所で寒気と筋肉痛が出て、ふらふらになって帰宅した後、着替えもせずにすぐにベッドに横になり、グループホームスタッフに携帯で連絡をした。するとほどなく体温計と水枕と食糧と飲み物を持ってグループホームスタッフが僕の居室に訪ねて来てくれたのである。熱は非常に高温でなるべく早く病院へ 、という状態だった。スタッフの1人が車を出してくれて、駅前の内科クリニックまで搬送してくれた。その時は、もう手足が思うようには動かず、ストレッチャーが必要なほどだった。── 速攻検査の結果、「新型コロナ」と診断された。薬局に行ったら、薬局はとても混んでいて、かなり待つこととなったのだが、その時、スタッフの1人が僕に深々と頭を下げて発した「言葉」に、僕は感銘を受けたのである。「……お待たせしてしまって、本当に、ごめんなさいね」。それは…、僕が、発するべき「言葉」だろう。
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このような出来事があってから、僕とグループホームスタッフの関係は、ぐっと親密になっていった。入浴支援、買い物支援、洗濯・掃除支援のほか、僕の具合が悪い時には、郵便物を郵便ポストに投函しにいってくれたり、クリーニング屋さんに洗濯物を持って行ってくれたりした ── 。
そして、何よりも感激したのは、ある日のこと、僕がグループホームに謹呈した第1詩集『SWAN ROAD』の読み合いが、事務所で、行われていた、ということである。作者冥利に尽きるとは、このようなことを言うのではないだろうか。
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徹底的に「人に尽くす」。このようなことを、僕は60歳にして学んだ。彼らにしても、良い歳をして、僕のような、自己満足人間がいることに、驚いたかもしれないが…。
「自分の為に書く」というのは、表現の基本かもしれないが、手渡す以上、「相手の、為にも、書く」ことも、とても重要なのではないか。── 僕は、目が覚めた思いだ。
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これから、僕は、幾つまで生きられるかわからない。不摂生をしてきたから、70歳くらいが良いところかもしれない。70歳を過ぎても生きられていたら、デーサービスに通うことになるかもしれないな。
いずれにしても、僕には決めていることがある。「死ぬまで、詩を書くということ」、そして、対象とする読者には、少なくとも、「かならずお世話になっていく、福祉担当者」を含めていくということ」である。
(2024/04/21 グループホームにて。)
2023©Cloudberry corporation
萌黄色の花が、あつまっている。
萌黄色の着物の端切れのように。
あの方とはもう逢わないだろう。
僕は、もう60歳に達してしまったし、
あの方は、後期高齢者になる。
慈しみあったことも、あった。
狂ったようにいさかいあったこともあった。
でも、手と手は温かかった。
あの方の手の方が、温かかった。
僕は、もう、平和が、いい──。
墓が、2つ並ばなくていい。
萌黄色の花が、あつまっている。
そのときに、思い出されればいい。
(2024/04/20 グループホームにて。)
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これから、型式的なことを、書きます。
将来性など、ゼロの、僕が
24歳エス嬢に、婚姻を申し込む──。
「こんな、真正エムの僕ですが
100分間だけ、夫婦になってください」
「まあね、良いわよ!」
グループホームのベッドの上が聖なるチャーチ。
「僕は、生涯に1度だけ、結婚してみたいんです」
「分かったよ。何度も、うるせえ、な」
聖なるチャーチの中で、僕は
なつめさん、の左の薬指に銀の指環を嵌める。
なつめさんは、身長170cmのスレンダーな美貌の人。
「真正エムは、先ずわたしの指令通りに徹底的に御奉仕すること!」
仰向けになっている、なつめさんの上へと、僕はしなしなと跨がってゆく。
「よしゆき。わたしの股間を
これから、徹底的に、お掃除しなさい!」
「はい。なつめさん!」
「それから、お尻の穴を、徹底的に、お掃除しなさい!」
「はい。なつめさん!」
「まだまだ、御奉仕の仕方が足らないね。では、千切れるほど乳首を噛みなさい!」
「はい。なつめさん!」
僕は、ことごとく、なつめさん、の指令に従ってゆく。悦びの、ひと時。時々、烈しい蹴りや平手打ちなど浴びながら…。
「今度は、倍返しで、わたしが、よしゆきを嬲ってやる番!真正エム野郎!」
── エスエムなんて、あまりに型式的なプレイだということは、もちろん承知しているつもりだ。けれども、僕は、なつめさんにどうしても躰を委ねてしまうのだった。全方位的に、誰かに躰を委ねてもよい空間なんて、この世には、滅多に存在しない、と思うからだ。
「お前、アナルセックスは好きか?真正エム野郎!」「はい。大好きです、なつめさん!」なつめさんは、僕の首根っこを摑んで繰り返す。「お前、アナルセックスが好きなんだな。真正エム野郎!」「はい。大好きです、なつめさん!」「じゃあ、四つん這いになって、わたしの方にケツを向けて、なつめさん、ください!と、心からお願いしろ!」「はい。承知致しました、なつめさん!」
「なつめさん!お願い致します。僕のお尻の穴をめちゃくちゃに犯してください!」
「ペニスバンドにローションをたっぷり塗って今からめちゃくちゃにしてやるから、大きな声を出して、よがれよ!」「はい。承知致しました、なつめさま!」……………
それから、僕は、突かれて突かれて、躰が、どうにかなりそうになり、「あーん、あーん!」と烈しく啼いてしまった…。
そんな時、僕は…ふっと思い出してしまった…のだ。グループホームの優しいスタッフ、山神さんのことを。
山神さんは、僕と同年代の御婦人で、毎週木曜日の午後2時に僕の居室に来てくれて僕の渡したメモに添って近所のスーパーで1週間分の食料品の買い物代行をしてくださる方だ。その山神さんが、今の僕の姿を見たら「醜態」だと思って、僕のことを永遠に毛嫌いすることになるだろうか。「福祉」のちからは、個人の至極プライベートな「性癖」までもは、守り切ることはできないものなのだろうか?僕には、山神さんに烈しい悲鳴を浴びせられない、自信というものがない…。
100分間だけの結婚期間の終わりを告げるベルが鳴った。
「なつめさん、どうもありがとうございました。とても嬉しい時間でした。結婚期間は終わったので、銀の指環は外して、そこら辺に放り投げていただいて結構です」
「いえ、わたし、この指環、いただいておくわ、今日の記念に。こちらこそ、ありがとう!」
それから、僕たちは、着替え、手を繋いで、デリヘルの営業車の待つ駐車場へ駆けていった ──。
(2024/04/10 グループホームにて。)
熊が
出てる
という
昨日の夜だったかな
秋田の姉に電話してみた
そうなのよ
その辺にいるのよ
姉は言った
最近は山にも登っていないという
山菜採りにも行かないという
山にもでてるけど
西馬音内にもいるのよ
散歩も
近所にしか行けないのよ
熊も
きっと
気候変動で困ってるのよ
人のせいなのよ
姉は
熊に同情していた
熊も困っているのだ
人も困っている
人は人を殺すけど
熊は熊を殺すのか
どう
だろう
今朝も
窓辺には
雀がきた
ヒヨドリもきた
山鳩もつがいで来ることがある
#poetry #no poetry,no life
おとうとをまもれなかった
それだけを
根にもって
わたしの父親は生きてきたらしい
(そうだ、おまえがいけなかったのだ)
おとうとの
傷ついたくちびるの
あの血はいつまでもかわかない
それがにくたらしい
老いてから
大学ノートにそのことを書いた
死ぬまぎわまで
おとうとには会おうとしなかった
わたしたちの夢の土地は
ときとして
そのような
遠いおとうとで濡れている
休んでいる
クリエイティブな仕事を止めるという意味で休んでいる
「魚を治めなさい」とだけ云われている
‘今日’と呼ばれる時期が続く限り
魚の世話をする
明日は分からない
汚い字で
瞼の裏の
二色の取り合わせに驚かされているが
クリエイティブな仕事は休まなければならない
あなたは魚を治めなさい
汚点ではなく創(キズ)が間違っているから
休んでいる
もう一度言うがクリエイティブな仕事は休まなければならない
偽の陶芸家は休まない
言葉は生きていて
働き続けている
それは創の中身が明らかにされるため
休むために働いている
マルクスを誤読したハンナ・アーレントは労働を廃絶すべき悪のように看做したが
額に汗してパンを食べる事態と、働いて充実感を得ることは矛盾しない
働くことは休むこと、休みに入ろうとすることであり、休むことは工芸化を止めることである
あなたの魚を治めなさい
#poetry #rock musician
2024年1月
元旦にできたての詩を、知り合いにメールで送ったのだが、間違えて、隣のメルアドの人に送ってしまったのを、一日中気にしている。1/1
政府は、余のイタリア亡命をけっして許さず、言を左右にしながら、余を、この憂鬱と絶望の国に、未来永劫に亙って閉じ込めようとしているのだ。1/2
その町の中心部をぶらついていると、ビルの1階に映画館ともミュージックホールともつかぬ、およそ60人位が座れる劇場があったが、前方に向かって深く傾斜しており、その先端を見ることはできなかった。1/3
やがて敵が攻めてきて、前線を守っていたドイツ人兵士を殺し、次いで第2陣の国際義勇軍を殺してから、去っていったが、そのあとを、また別のドイツ人兵士が、守りについた。1/3
不思議なことに、そのAIは、私の作品を私の作品と認定しようとはしなかった、のが不思議だった。1/4
再び「宮中某重大事件」が勃発したので、かの西郷ドンをはじめとする大勢の重臣が次々に登城し、今上帝自らが企図した宮中クーデタは、完全な沈黙のうちに、幸か不幸か未然に阻止されたのだった。1/4
アートフェアは、毎年この界隈で開催されるのだが、イケダノブオは、自分のデザインは、私のコピーと、自分のカジュアルマインドと、西海岸のアートハートによって駆動されるんだ、とかなんとかいう話をぶち上げていた。1/5
「戦闘が終わった時には、必ず敵から奪った土地にいるようにせよ」という司令官からの厳命は、わが軍だけでなく、敵軍でも共通していたので、彼我の兵士たちは、お互いにこっそり相談して、司令官の知らない新領土に、知らん顔して君臨していたのよ。1/6
ボクらは、コロンビアの町に入って、映画スタアが着るようなド派手なTシャツを買ったが、とうとう一度も着ることはなかった。1/7
いよいよ戦前が戦中になったので、帝国軍が目抜き通りを行進するので、「わが社でも歓迎のモニュメントを製作して、窓から陳列しようじゃないか」と忖度上司が提案したので、おらっち「それは戦争協力じゃないか」というて反対したので。1/8
この頃、余の催眠術力は最高潮に達しており、会社の同僚たちの両肩に手で触れるだけで、連中は即「眠り男」、「眠り女」になって、幸せそうな顔をして、すやすや眠りこけるのだった。1/9
取り調べ室で「なぬ、まだ言い逃れをする気か。これが動かぬ証拠だあ!」と突き付けられた写真を急いで食いちぎったら、その食いちぎられた断片から、また別の写真が出てきたので、俺も刑事も驚いた。1/10
歌舞伎町の人がいつまで待ってもやって来ないので、ベンチの片隅にボストンバックを置いたまま、撮影現場に直行して、しばらくしてから戻ってきたら、影も形も見えなかった。そんなヤバイ場所に、貴重品を置きっぱなしにしたおらっちが阿呆だった。1/11
撮影現場では「終わったらメシにでもいきましょうか」と、ハスミ大先生と連れ立ったシバタさんから誘われていたので、そこへ向かおうとしたが、そのフレンチは、歌舞伎町にあったかしら。それにおふらんす映画社のシバタさんは、もはや泉下の人ではなかったか?1/11
城内は、出撃派と籠城派に真っ二つに分かれ、一触即発の情勢に陥ったので、家老が調停に乗り出し、どちらにするかを、城主の決断に委ねることになった。1/12
権力者は、10〇名の暗殺部隊者に命じて、我を現世から追放し、常闇の国に送りこんだのだ。1/13
一晩中、朝ドラのブギウギで、シュリが歌う下手糞な「恋しいお方は」とかいう、下らない唄が鳴り響いていたので、いつものようには、安らかな夢を見ることができなかった。1/14
余は、そのデパートメントストアから、すべての商品とにんげんを掃き出し、町の外に追いやったのよ。1/15
それまで、ええ恰好しいの君子聖人ぶりっ子で、局外中立に甘んじていた六角党、渡部党、笹木党なども、ついにたまりかねたように大刀振りかざして、広大な敵地に押し入り、切り取り次第に切り取った。1/16
ある反抗的かつ愛国的紳士の家に忍び込んだ女てろりすとの左手に輝くナイフを見たとき、彼は「これだ、これだ、これがオレの求めていたナイフだ!」と叫んだ。1/17
自動自転車に乗って南米コスタリカの田舎町にやってきたおらっちは、汗臭いTシャツを洗濯してもらおうと、一軒家に入ったが、そこの女主人が、あまりにも美人なので、圧倒されて、とうとう「洗ってくれ」と言い出せなかったよ。1/18
久し振りの手入れを受けたおらっちは、もう年だし、疲れ切ってもいたので、「あたらしいハッパをありがとうございます」というて、タイホされたのよ。1/19
今日は本屋さんから、余の本が着く予定なので、ずっと待っていたら、ようやく着いたので、大喜びでギュッと掴んだのだが、どういう風の吹き回しだか、猿沢の池だか、大沢の池だかに、ポチャンと落っこちてしまったのだ。1/20
広告担当のサトウ君は、北欧のメーカーとタイアップして、そのかっこいい木製品のインテリアの中に、自社のポスターを貼りたかったのだが、いろいろ揉めた結果、超だっさい国産メーカーの、超だっさいインテリアの中の、自社ポスターを見て、がっくりした。1/21
コロナが猖獗を極める中で、われは極悪ウイルスに汚染されたかもしれぬ古いグラブをば、真新しいグラブに取り換えて、試合に臨んでいたが、さっぱり戦果が上がらないので、また旧に復した途端、連戦連勝だった。1/22
家族、親類一同で大型クルーザーを借り切って、遠洋航海に乗り出したのだが、どこへ行くのか肝心な話を、船長とやり取りするのが中学生のレンちゃんしかいなかったので、太平洋上で、危うく遭難するところだった。1/23
庭に布団を干そうとしていたら、突然マイケル・ジャクソンの動画に出てくるゾンビ踊りをしながら、初老の男女数名が庭に入ってきた。その中の2名は縁側を跨いで青畳の8畳間に侵入しようとしているので、「なんだお前らは!勝手に我が家に入るな」と叫んだら、慌てて青い芝生が生い茂る庭に逃げ出し、ゾンビ踊りの仲間に加わった。1/24
念のために2階に通じる階段を調べてみたら、そこにも男か女かは分からぬ風体のゾンビが瞳孔を開いたまま呆然と座っているので、パシリを一撃お見舞いすると、ようやく目に光が蘇ったので、お前たちはなんでこんなことをするのだと訳を聞くと、驚くべきことを口走った。1/25
なんでも彼らゾンビは、かつて700年前の鎌倉時代にこの家が建っている所に住んでいたオオエヒロモトの従者たちだ、というのである。ここ鎌倉十二所に、鎌倉幕府の官房長官みたいな権力者であるオオエヒロモトの屋敷があったことは、知る人ぞ知る史実で、近所に立っている鎌倉青年団が建立した石碑にも刻まれている。1/26
このヨモタ訳の日本古典は、途轍もなく素晴らしい日本の美を照射しているが、それが竹取物語だったか、源氏物語だったか、はたまた枕草子だったのか判然とせず、もしかしてアンネの日記ではなかったか、とも思うのだった。1/27
確か2課のヤマサワ君と一緒に、杜子春のように極楽への梯子を昇っていたはずなのだが、あと一歩というところで、下から昇ってくる有象無象の仲間たちのアリのような姿を見たものだから、わっとよろめいて、真っ逆さまに地獄の池へ転落してしまった。1/28
ノーヴジュアル、ノーナレ、ノーロゴの、世界初のCⅯ作りに成功しちゃったよ。1/29
ヒゲタショウユが値上げしたので、全国からクレームが殺到したのよ。1/30
私は電器屋に勤めている時、主人に隣町への出張を命じられて、その都度冷蔵庫、洗濯機、エアコンなどを10点売上げてきたが、不思議なことに、それは同じように隣の隣町に出張している先輩と、同じ数だった。1/31
2024年2月
「可哀想だた、惚れたってことよ」、と歌うように叫んでいる奴がいるので、どうにも寝られない。斎藤秀三郎選手かと思ったら、「俺は『可哀は可愛』としかいうておらん」、というので、やっぱ広田先生とこの与次郎だあね。2/1
10年以上前に頼んでいた古本が、今朝やっと納品になったが、どうしてこんな本を頼んだのか、私にはさっぱりわからんかった。2/2
広大な荒地を平等に折半したのだが、こっちを掘っても、出るのは水ばかり。ところがあっちは、熱いお湯が、ジャカスカ湧き出るのだった。2/3
この人が新しいコンマスですというて、マネージャーが紹介した男は、3年前にわがオケの
第2バイオリニスト募集に応募して、見事落選した男だった。2/4
ふと思い立って遭難者の多い高峰の要所要所にビバークのための用具を設定して、目印のためにおらっちの名前を書いておいた。2/5
そこにはいろんなミュージシャンが、自分の部屋で録音した、たくさんのテープが捨ててあったので、それらを拾い集めて聴いてみると、公式発売された演奏よりも、はるかに面白かったずら。2/6
核戦争に備えて、庭にシェルターを造ってみたのだが、あまりにも小さすぎて、実用には適しなかったので、もっと大きなのにトライすることにした。2/7
いつも夢の中でたどり着いてしまう第2拠点に、新しい家をつくることにした。そうすればいくら夜遅くなっても、そこに泊まってゆっくり眠ることができるだろう。んで問題は、その場所が、夢の中でしか出てこないことだ。2/8
クトゾフ将軍が、突撃命令を出したにもかかわらず、貴族部隊も市民部隊も、無視したので、われらエタヒミン部隊だけが、コサック兵に襲い掛かったのだが、攻撃はしてもされたことが一度もない敵さんは、驚いて、必死に逃げ惑ったのよ。2/9
私は目の前に現れる敵を機械的に撃ち殺していたのだが、ふと見ると、非常に綺麗な娘が立っていたので、「お前いくつなの?」と聞くと、「18」という答えなので、なんでかしらんけど不憫の情に襲われて、爾後殺すのは止めてしまった。2/10
「たった一人の男のために、3人の男が捕虜にされるなんて、ナンセンスではないか」と名古屋の殿様がいうので、困ってしまった捕虜たちは、「それでは私は水軍に入ります」、「私は陸軍に入ります」、「空軍に入ります」と口々に言い立てたが、殿様は納得しなかった。2/11
彼は、自分が属する政党のランクを、いつもの満点の5点から、2点に初めて変更したところ、案の定、党首みずからが主宰する査問員会にかけられてしまったので、大いに後悔したが、後の祭りでした。2/12
1756年だか1891年だか忘れたが、ある特定の年号と、その年の記憶が、歴史年表から丸ごと抜け落ちていることに、今更ながら気づいた。2/13
なぜだか、おらっちの親戚の葬式は、おらっちの友人が、友人の親戚の葬式は、おらっちが担当し、同じ日の、同じ時間に、同じ会場で行われることにすることになったのよ。2/14
またしても伝染病で、大勢の大宮人が死んでしまったので、わいらあいつも験が良い近所の道長邸に避難して、嵐が去るのを待つことにしたずら。2/15
そのうちミシマユキオが下宿していた部屋の火事が、ますます激しくなってきたので、タニザキジュンイチロウが下宿していた部屋を借りていた我々も、すたこらさっさと急いで避難したのよ。2/16
雷撃を受けると同時に、大名時計が時を刻み始め、それは未来永劫続いていたのだった。2/17
商品計画と販売計画、それに加えて宣伝広告とが奇跡的にマッチしたキャンペーンを展開したのだが、さっぱり売れなかったので、スタッフ全員が集まって、反省会をもったのだが、誰も何もいわんかった。2/18
彼ほどの偉大な科学者が、ことあるごとに神社の籤をひいて、左右の進路を決めるのには心底驚いた。2/19
エンドウ上等兵以下、4名の兵士が何者かに爆殺されているというので、おらっちは昼メシ抜きで、現場に急行したのよ。2/20
おらっちは料理などやったこともなかったのだが、ラーメンくらいできないでか、と眦を決して作ってみたのだが、やっぱりこれがヒジョーに不味かったので、甚だ絶望した。2/21
さてそのビルジングの、ある部屋を覗いてみると、大勢のデザイナーやモデリスト、カラリスト、スタイリストが、その男の周りを取り囲むように座っており、いましもふぁっちょん講座が始まろうとしていたので、おいらは、すたこらさっさと逃げ出したずら。2/22
ジョージ・チャキリスとアラン・ドロンを足して2で割ったような面差しのアマミヤ氏が「ボク、これから国会突入のデモに行ってきます」と宣言したので、おらっち「それではあなたの着ているピエール・カルダンの青い背広を貰ってもいいですか?」と迫ったのだが、アマミヤ氏は何も言わずに立ち去った。2/23
おらっちは、僻地の分校の校舎で、阿呆莫迦テレビ番組をみたら、これがヒジョーに面白かったので、本校舎に戻ってからも、その阿呆莫迦番組をみつづけたので、とうとう阿呆莫迦人間に、なっちまったのよ。2/24
すべての予算を弟につぎ込んで、新プロジェクトをやってもらったのだが、失敗してしまった。やはり自分でやるべきだったのか。2/25
秀才クルクルパーマンは、メンボウ教授の退官講義を聴講したのだが、どうやらその内容をは、全部AIがつくったものらしく、クルクルパーマンは、メンボウ教授じたいも単なるアバターではないか、と考えたのだった。2/26
城主がご馳走するというので、手下を連れて、コントラクト鉄道に乗り込んだのだところ、軍と警察によって皆殺しにされてしてしまったが、わいらあと一人の部下だけは、危機一髪のところで逃げ延びた。2/27
いよいよ大動乱の時節になったので、民衆は、海に山に盆地に逃げ惑ったが、そこにかのヨシモト大明神が祭られていたので、皆でお伺いを立てたところ、「逃げよ、逃げよ、また逃げよ」という答え。「わいらあ、もうさんざん逃げまくっおるんですけど」というたが、返事はなかった。2/28
「おらっちの最後の叫びを、誰か後の世に伝えてくれないかあ」と、暗闇の中で叫んだが、誰も答えてくれる人はいなかったずら。2/29
ブルックナーの交響曲第8番の第4楽章をBGМにしながら、おらっちは、血みどろの戦場に向かって突撃したのだが、気が付くと、右手と左足が無くなっているのに気が付いた。2/29
2024年3月
那智の滝の滝壺に棒立ちになって「グ、ググッ、ギャガアアアオ!」と叫んでいる裸男がいるので、「お前さんは誰だ?」と尋ねると、「ワシはヨシマツゴウゾウだあ」と答えた。3/1
クラス担当のトミタが、高2のオレが到底実現不可能な使命を次々に下すので、頭にきたオレは、ベランダから校庭を見下ろしている彼奴の両足を担ぎ上げて、コンクリの地面に突き落としてやった。3/2
人気巻き返しの一世一代、乾坤一擲の最新作「ヨオキヒ」の製作に際しては、当代一流のプロデューサー、役者、演出、スタッフを取り揃え、それこそ万全を期したのだが、「これがもしこけたら」と思うと、身の毛がよだつ。3/3
「じゃあ今度は、ランスの大聖堂で会おう」というて、竹馬の友と別れたのだが、ついにそれきりになってしまった。あの時握手して、手を、ギュッと握っておかなかったことが、じつに悔やまれる。3/4
本番に備えて、脚本に添付した香盤表を作り、物語の流れと、各シーケンス毎の登場人物、科白、ト書き、5W1Hまで書き加えたのだが、その甲斐もなく、初演は大コケにコケた。3/5
吾等3人組は、海と山に囲まれた半島の先端の村に住んでいた。やがて戦争になり、2人の友人は戦場へ行ったが、私は徴兵を忌避して、裏山に身を隠し、草木を食べ、露を飲んで生き長らえて、終戦を迎えたのだが、友はついに還ってこなかった。3/6
誰よりも優れたと思う歌を詠んでも、だれ一人認めてくれないので、俊成のおいらは、「やはりもうちょい身分が高くないから、こうなっちまうのか」と、僻んだのよ。3/7
この避難所では、一食380円の定食が出されるので、とてもうれぴい。毎日ここでこれを食べて、そこにある黒い椅子に座っていると、心も落ち着くのだ。3/8
予の大詩集を読んだ会社の先輩たちが、予の後輩のサカイ君の詩集を出そうと画策していると、そのまた後輩のアオキさんが教えてくれたので、予は激しく嫉妬してしまったのだが、考えてみると、サカイ君はとっくの昔に泉下の人になっているので、どこか変だ。3/9
飛行場の荷物場を、ぐるぐる回転寿司のように、いつまでも回っていた、赤白青の3つの荷物が、とうとう競売に付されたようだ。3/10
宇宙工学の専門家が不足している、というので、引退したはずの私とカド君が呼び戻され、毎日横須賀線で通っているのだが、毎晩終電ギリギリなので、東京駅まで全力疾走を強いられるのだが、ふと脇を見ると、カド君は屋台の中華ソバを食っているのだが、さてどうしたものか。3/11
地図には「取り付く島」と書いてあったので、万難を排して、「取り付こう!」と、懸命に試みたのだが、結局取り付く島などなかった。3/12
懐かしい蒸気機関車が停まっていたので、即乗り込んだが、新橋品川間で脱線、転覆し、火の玉になって炎上し始めたので、気分転換に、ブルックナーの4番をかけたのよ。3/13
どたまがいかれているそいつのセガーチーニ論というタイトルの卒論は、一読するだけでも大変だったのだが、なんべん読んでも意味不明なので、こいつを卒業させるかどうかで、教授会はおおもめにもめている。3/14
突然微細物測定器が作動して、極小物を破壊せよという指令が下されたので、ニシダは、タイワンリスの卵をこっぱみじんにした。3/15
一袋100gの表示で販売されていたカッパエビセンを、微細物測定器で軽量してみると、98gから102gまでバラツキがあったので、もっと正確に配給し、足らないよりは増量するよう、上層部からの指示があった。3/16
むかし東海道線に乗った時、東京駅から新橋、品川を過ぎて、大船から藤沢を経て小田原の辺で、黄色いバナナがふさふさ生っているのを見つけた。黄色いバナナは、ひとふさ、ふたふさ、みーふさ、ヨーふさ、全部でなな房ありまして、それらがだんだん色づいてくる。3/17
バナナは、白っぽい黄色から、次第に熟して濃い黄色になって来る。そして、黄色みが増すに連れて、だんだんウマソーになってくる。3/18
忘れもしない10月16日のボクの80歳の誕生日、今日こそバナナを収穫しよう、と東京駅から新橋、品川過ぎて、大船から藤沢、小田原を経て、熱海駅で降りて、白い砂浜をサクサク踏んで歩き、ドンドコドンドコ黄色いバナナを探して歩いたが、黄色いバナナは影も形もなかったのよ。3/19
「あなたの部屋の、あのごちゃごちゃのビデオとか、CDとか、オーデオセット一式を、全部捨てて、すっきりさせませう」と彼女がいうので、一時はその気になったのだが、結局は、元の木阿弥になっちまったよ。3/20
池田ノブオがジャンプ一番、教育勅語を破り捨てた。3/21
またしても、革命的ポップスを唄って、一躍超人気者になった若者。これまでは超ウザイ奴らとしか思っていなかったのに、まぢかにみると、やはり人物も実力も相当なものがあったので、おらっちは衝撃を受け、始発電車の中で突然糞したくなったのだが、必死で我慢しているとこ。3/22
われは、いつものようにある意図を以て、ベルクの全作品を聞き始めたのだが、そのうちに、最初の意図などどこかに忘却してしまい、ばらばらに分断された脳細胞毎に、ベルクの音楽を、ひたすら聴き始めたのだった。ひたすら分散的に。3/23
ともかくこの音楽祭の雰囲気は、独特だったので、プログラムの中身とは関係なく、毎年夏になると、人々は避暑を兼ねて、三々五々やって来るのだ。会場の真ん中には、いつものように、横長の巨大な伝言板が据え付けられていて、そこには「俺は食堂にいる」と大書し、隣に愛称やケータイ番号を書き添えたりしてあった。3/24
ふと見ると、左にA嬢、右にB嬢が立っていた。2人共若くて美しいので、私は思わず2人を抱きしめて、接吻したりすると、とても懐かしい良い匂いがしたので、ありましたっ。3/25
世界一決定戦の後楽園ホールを飛び出して、帰宅しようとしたが、その途中文京区の古い家並をみて、「ここらへんで残りの人世を過ごそう」という意思を固めたが、半ズボンのチャックが開いて、我の陰毛が丸見えになっているのに今頃気付いて、素知らぬ顔で閉じたところです。3/26
そこに東京駅行きのバスがやって来たので、飛び乗ったら、のぶいっちゃんとひとはるちゃんが座っていたので、「ひさしぶり、今日は後楽園で世界戦を見物していたんだよ」というたが、なぜかおらっちの話が、てんで分かっていないようだった。3/27
そうこうしていると広島で抗争している生きのいいヤクザが、いきなりおらっちの腹の上を、2カ所もドスで刺しやがったんだが、幸いかすり傷で、なんとかかんとか事なきを得たんだ。3/28
でも、駅での集会が終わってからが大変。西口の改札前で迷彩服を着た屈強な兵士にいきなり抱きすくめられたので、必死に藻掻いていると、彼奴がなにかもっと大切な用事を思い出したように手を緩めたので、なんとか振りほどいて東口方面に逃げることが出来たんだ。3/29
喫茶店の2階から交差点を見下ろしていたら、煙草を吸いながら自転車に乗っていたケンちゃんが、ヤクザにぶん殴られている。すぐにも助けに行きたいと思ったが、お客さんと話しているので、そうもいかない。3/30
浅いが綺麗な海の中で、小さな魚や海藻がゆらゆら揺れるのを見ていると、時が経つのも忘れてしまう。ふと気が付くと、私は水の中でも呼吸が出来るようになっていた。3/31
2024年4月
ランバダを踊りながら、彼女は、「こんなの単なるビジネスよ」というたので、おらっちも福知山音頭を唄い踊りながら、「そうだよ、これも単なるビジネスさ」と答えたのよ。4/1
今日の午後、大学の授業に出るために田舎から出てきたのだが、終わって帰宅しようと思ったら、もう深夜になっていて、東京駅から出る電車もバスも、終わってしまっている。はてさて、どうしたものか。4/2
リーズ音楽祭の最終日の夜に、ディスカウとブレンデルの顔合わせで、おらっちの「バックミンスター・フラー博士と鈴木エドワード」が演奏されたのだが、会心の出来栄えで、満場拍手喝采だった。4/3
社主が亡くなり、その形見分けが行われたが、その机や椅子、照明器具やソファー、文房具、身の回り品、小道具の一つひとつが、まことに適切な贈り物になっていて、彼がいかにきめこまかく部下の仕事場を観察していたか、が伺われ、みな舌を巻いたのよ。4/4
2025年の新企画として、早くも物凄いのが出来ているので、我々オマンタ倶楽部は、5人組のチンドン屋になってオマンタ音頭を唄い、踊りながら5街道の目抜き通りを練り歩き、世界の民草に世界平和を訴え続けていますが、どうです、貴方も参加しませんか?4/5
誰かが教えたものかどうかは、分からないが、学生が1階と2階を自由に移動できる秘密の裏階段があって、「これは便利だ」と、盛んに利用されているようだった。4/6
女性歌手が「いつか」を唄っていると、男性歌手が「かなた」を唄って、夢のハーモニーが実現したのよ。4/7
第3次世界大戦がやっと終了したあとの世の中は、もはや回復不可能なほど傷つき、疲弊していたが、それまでの2度の大戦では実現しなかった、武装放棄を義務付けた平和憲法が、どの国でも施行されたことが、唯一の、しかし貴重な収穫だった。4/8
第一次世界大戦の塹壕戦で、機関銃の代わりにオリベッテイのタイプライターを敵陣めがけて、ダダダと撃ちかけたのだが、左隅に「ささきまこと」の「さ」を打とうとしたが、打てないので、仕方なく「し」を打とうとしたのだが打てないので、仕方なく「き」を打とうとしたのだが、打てないので、仕方なく 4/9
この節は監視カメラに音声AIがついているので、おらっちが町中を歩きながら、「ジャジャジャジャーン」と呟くと、周りの監視カメラも、連れションみたく「ジャジャジャジャーン!」と大音響で吠えまくるので、煩くて仕方がないずら。4/10
その子の本名は、「単5予為Ⅿs呂有ベオウルフ」という変わった名前だったので、同時通訳者は、完全にお手上げだったのよ。4/11
その夏のキャンプでは、それこそ1ミリも泳げなかった子供たちが、全員ノシやカッパ泳ぎが出来るようになったのが、一大収穫だったが、それにも増して、最後の夜のキャンプファイヤーで、おねいさんが敢行した信仰告白が感動的だった。4/12
ポスト・コロナの最新型の感染症が流行し始めたが、私はいち早くそのワクチンの開発に成功したので、早速自分で飲んで試してみたのだが、その物凄い副反応で、あやうく死ぬところだった。4/13
世界マージャン選手権の王者決定戦が始まったのだが、おらっちは、立て続けに白牌を3枚もつもってきたので、チョー驚く。そういえばこの試合は、自動配牌ではなく、人力配牌方式だったのに、誰も真面目に混ぜなかったからかも知れない。4/14
今日もまた、灰色の大きなイボガエルを捕まえた。「止めろよ、早く離してくれよ」とブツブツ文句をいうておるのが、不気味だ。そういえば、先週も、同じ灰色のイボガエルを捕まえて、引き出しの中に入れておいたが、あれはどうなっているだろう。4/15
大阪支店へ行ったら、全員が自分勝手に仕事しているので、驚いた。出先から帰社した課長は、非常に大事にしているカメラが壊れているので、「誰が壊したんだ?名乗り出ろ!」と大声で喚いているので、三十六計逃げるにしかずと、トンずらしたのよ。4/16
急になにもかもが嫌になってきたので、料理長は、デザートの土佐文旦の皮を剥かないで、ナイフで細かく切り刻みはじめた。4/17
ロックポートの在庫見切り品を、9割オフで売っていたので、「三足まとめて買う」というたら、「本社までご足労願いたい」というので、川崎本社まで行ったら、社長がアジ演説していたので、帰ろうとしたら、「隣に平凡出版という本屋があるから、そこで新入社員の激励応演説をしてくれ」という。4/18
仕方なくマイクを握って、かの偉大なる百科事典を褒めたたえていたら、「それはわが社とは何の関係もない平凡社の出版物だ」と苦情が出たので、「ライバルの平凡社に負けない、世界一の百科事典を世に贈ってくらさい」と、とってつけて逃げ出したのよ。4/18
鎌倉河岸の汀のR社の受付に、ゼンちゃんがやって来たので、5階から降りて「久しぶりだから、2人して千代田ホテルで昼飯でも食おうか」と、桜満開の表通りに出た。4/19
ワシは労働組合の書紀をしているんだが、給料の1割カットの計算が出来ないので、困ってる。4/20
随分長くアマチュアオケの指導をしているんだが、格段の進歩を遂げている。昔の演奏をビデオで見ると、金管楽器などは、メチャクチャに音を外して、音符についていくだけで精一杯なんだね。4/21
家の近所に、いつでも清冽な清水がふつふつと湧いている小さな泉があるので、私は詩を書こうと思うときには、いつもその泉に行って両手で清水を掬うと、直ちに1篇の詩が誕生するのだった。4/22
ピーターは、なんで自分がこんな田舎の支局に飛ばされたのか、さっぱり分からず、元の上司に何度も電話してそのわけを聞こうとしていたが果たせず、何年間も腐っていたが、ある日おらっちが上司の上司からそのわけを尋ねると「実は別の奴を飛ばせと指示したのに、人事が間違ってピーターを飛ばしたんだ」というのだった。4/23
巴里の下町を友人たちとぶらついていたら、突然ナベショーが出てきて、偉そうにもっともらしい長広舌を振い始めたので、嫌になったおらっちは、横丁を抜けて大通りでフランタクを拾い、ホテルまで戻ったのよ。4/24
所謂「蘇る近江会長事件」にずるずる巻き込まれて、彼は、華やかなキャリアを忽ち失い、歴史の薄暗い暗闇の底に沈んだきり、二度と浮かび上がってはこなかった。4/25
おらっちは、郵便夫を人質に取って、返す刀で大勢の人々をわが手にかけたが、まっこと愉快じゃった。4/26
会期が迫ったパリコレに出す服のデザインを必死で考えているおらっち。そのコンセプトのひとつは「踊る服」で、もう一つは「考える服」だったが、そもそもおらっちは、物を考えたことなど皆無なので、後の作品はてんで出来ないのだった。4/27
こないだ神田鎌倉河岸の会社で、はじめてPCを使って作画してみたら、セイさんやイマナカさんやムラクモタロウまでも、よってたかって「なかなかいじゃんか」というてくれたので、鼻高々になったのよ。4/28
いつも上等の青い背広姿のナガタさんは、いったいどーゆうキャリアのⅯDなのか知らなったので、おらっちは、一度尋ねてみたいと思ったのだった。4/29
朝、咽喉がムズムズするので、ケタクソ悪いなあと思っていたら、突然見慣れない小人が飛び上がって、まるで誕生したばかりのお釈迦様のように、両手を高く掲げてテーブルの上に着地したので、えらく驚いたよ。4/30
どーゆう風の吹き回しか、カワバタ副社長は、オレのことを偏愛するようになり、いきなり頭を抱えこんでは、ぽかぽか殴りだすので、安ポマードでべったり状態、になるのだった。4/30