voice 声

 

昨日
ネットワークプリントと

いうもので
新丸子のコンビニのコピー機で

詩を
プリントしてみた

それから
ユアンドアイの会に出かけた

ユアンドアイは
あなたとわたしということ

あなたとわたしの間に
詩を

置くということ

詩は
あなたとわたし

無い声のようだ

 

 

 

rainy 雨の降る

 

雨の
音を聴いた

目覚めたとき

雨の
音がした

もう
女は出かけていった

四谷の大学に
用事があるのだと言った

雨のなかで
金槌の音が続いている

休日に
本棚でも作っているのか

雨の朝
世界には二重の橋が架かります

コーヒーに豆乳を注いだ

 

 

 

model 模型 型

 

海を
みてた

山を
みてた

休日には空を雲が流れるのをみていた

小さなころ
ことばをおぼえて

まだ
遊んでる

チチは死んだ
ハハも小さくなって死んだ

ヒトは生まれていきて
いつか死ぬ

あまり
語るべきことはない

小舟の底に寝て空をみていた

 

 

 

forest 森

 

今朝
海をみてた

休日には
海をみてる

いつも

まだもうしばらくあなたを愛していたいの。
I want to love you a little longer.

愛ってどうなんだろう
わからない

美しいヒトに出会うこともある

海をみてる
森をみてる

 

 

 

early 早い

 

京浜東北線の蒲田で降りた

最終の

電車に
乗れなかったから

蒲田で列にならんで
タクシーに

乗った
真っ黒の光るタクシーには

南島訛りの
運転手さんがいて

やさしい声でいくつも飴玉をすすめた

恐ろしかった
やさしさ

昨日も美しい女を見なかった

 

 

 

鈴木志郎康 新詩集「化石詩人は御免だぜ、でも言葉は。」を読んで、ブオーッ、ブオーッ。

 

さとう三千魚

 

 

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鈴木志郎康さんの新しい詩集「化石詩人は御免だぜ、でも言葉は。」を読んだ。

それで、わたしの受けとった詩人の声は、「新しい詩が成立する場所に立ち会い新しい詩を生きるためには、何でもありだぜ。」という声です。

この八十歳を過ぎた、痛い腰や足を引きづり杖をついたり車椅子に乗ったりしている詩人は自身の詩を生きるために何度でも自身の詩を捨てて新しい詩を生きることを実践しているのだということが伝わってきます。

そして、この詩集から不思議な声が漏れ出し、沁みでてくるのをわたしは聴くのです。

ほとんどの詩が「浜風文庫」で読んでいた詩でしたが、詩集となってあらためて一連の詩を読み通してみるとこの声が不思議に思えるのです。

 

ホイチャッポ、
チャッポリ。
何が、
言葉で、
出てくるかなっす。
チャッポリ。
チャッポリ。

 

「びっくり仰天、ありがとうっす。」という詩の冒頭部分です。

この「ホイチャッポ、チャッポリ。」は何をあらわにしているのでしょうか?
擬音語でもなく、擬声語でもなく、擬態語でもなく、擬情語でもないように思われます。

いわば言葉にならないものでしょう。
言葉にならないでわたしの身体から漏れ出し、沁みでてくるもの。
かぎりなくわたしの身体に近いもの。

 

ヒィ、
ヒィ、
ヒィ、
ピーと鳴らない
口笛吹いて、
土手を歩いていたら、
川面に、
ボロ服着た人が浮かんでいたっす。
女の水死体が浮かんでたっす。
そこいらの草の花を取って、
その上に投げたら、
一つだけ、
当たったっすね。
ヒイ、
ヒイ。

 

「女の土左衛門さんにそこいらの花を投げたっす」という詩から冒頭を引用しました。
ここには鈴木志郎康さんが子どものころに見た水死体のことが書かれているでしょう。この子どもは女の水死体を見て、びっくしして可哀想に思ってか草花を投げつけたのでしょう。

そのことを思い出しているこの詩人から「ヒィ、ヒイ。」と声が漏れ出し沁みでてきたのです。

 

ぐだぐだ書いたけど、
書いてもしょうがないことですね。
身体って、
当人だけのものなんだからね。
病気のことを言葉にすると、
「お大事に」
と、言葉が返ってくる。
身体の中に
突き上げてくる鋭角があるって言ったって、
当人じゃないからどうしようもないものね。
でも、そこで、
鋭角が身体の内側を削った果てに、
身体は温かいものになるんですね。
身体が当人だけのものでもなくなってくるんだ。
つまり、その先に身体の消失ってこと。
そこに、
名前と言葉と写真とか、
身体なき存在が残ってくる。
また、記憶の中の存在になる。
温かい存在ってこと。

 

「鋭角って言葉から始まって身体を通り越してしまった」という詩から一部引用しました。

「突き上げてくる鋭角」って痛みのことでしょうか、その先に身体の消失があり、身体は他者の記憶となる、と書かれています。
人は逃れ難く誰でもそのように死を迎えるでしょう。

その近くに「温かい存在」があり、そこから声は漏れ出し沁みだすでしょう。
「温かい存在」は大切なものであり愛しいものでもありましょう。
「温かい存在」とは人を根底から支えるものでしょう。

わたしは詩は詩人自身を支えることができるものだと思います。
鈴木志郎康さんの詩は鈴木志郎康さんを支えれば良いのだと思います。
そして鈴木志郎康さんの詩が鈴木志郎康さんを支えられるのであれば、その詩は鈴木志郎康さんが大切に思っているものたちを支えることもできるのだと思います。

大切のものたちは奥さんの麻理さんだったり、猫のママニだったり、子供たちであったり、友人たちであったり、庭の草花だったり、子供のころにみた女の土左衛門さんだったり、詩の読者さんだったりするだろうと思います。

鈴木志郎康さんの新詩集「化石詩人は御免だぜ、でも言葉は。」は、詩はけっこう素敵なものなんだぜ、ということを示してくれていると思います。

 

 

⬛️「化石詩人は御免だぜ、でも言葉は。」

2016年8月28日初版第一刷 発行
菊変(214×140) 258ページ

※購入方法は書肆山田サイトでご確認ください。

 

 

 

pleasure 喜び

 

昨日こだまの
車窓の

流れる景色を見て出かけてきた

仕事の帰りに
神田の地下鉄の駅の

剥がされた化粧壁の下の汚れた
壁を見た

新丸子では
小さなショウウインドウの

年老いて並んだ姉妹の
ブラウスを見た

いとしいものはそこにいる
わたしではない

 

 

 

blood 血

 

暑いので
雨戸をしめて

エアコンを点けた

悠治さんの
シンフォニアを聴いてる

先週は
母の初盆で帰省していた

姉と兄に会い
仏壇に手をあわせた

大切なものたちが
奪われてく

西馬音内の盆踊りを長尾さんと見た

帰りに姉は
茗荷の酢漬けを持たせてくれた

 

 

 

daily 毎日の

 

初盆に

新庄まで
新幹線で来て

奥羽線で湯沢まで帰ってきた

新庄から
湯沢に抜ける間の

景色が好きだ

みどりの稲穂のひろがる向こうに
里山がある

毎日
書こうとしている

詩の構造がここにある

うみそらくもそうもくとりわれ
その先にない母がいる