ペダル

 

塔島ひろみ

 
 

がれきを積んで走ってきた
春の陽を浴び スックと 狼のように立っている
産業廃棄物運搬車第024295号
菜の花が似合う

私はこれから自転車で
年寄りからセカンドバッグを奪うために
川を渡る
年金を下ろした年寄りが、自転車の前カゴに金の入ったセカンドバッグを不用意に突っ込み、もたもた走る
私は遊ぶ金欲しさに 背後から追い抜きざまにそれを奪う
その実行現場へと
立ちこぎでペダルを踏み 橋へ続く坂をのぼる              
川の向こうは東京だ

左手に一面のネギ畑、菜の花、桜、そして
私が卒業した中学の校舎
その正門に続く畑の間の凸凹道を
国道からそれてトラックが一台 走っていく
幌がかかった大きな荷台を揺らし
畑の中にぽつんと立つ中学校へ トラックが向かう
ガタゴトと 次第に学校へ近づいていく
なぜか胸騒ぎを覚え 唇をかんで自転車をこぐ
学校では 私の後輩たちが給食を食べているだろう 
教室の窓から 近づいて来る大きなトラックを見るだろう
彼らは目をつぶり、祈るだろうか
チャイムが鳴る
チャイムの音が ここまで聞こえる

老人はペダルから足が外れ、傾いていた
左足で踏ん張りながら 右足をペダルに戻そうとするが
足がうまくかからない
「大規模環境創造型複合街区」の工事が進み
来るたびにきれいになっている、私から一番近い東京の
その、まだきれいになっていないパチンコ店裏の小さな道で
ボロボロの自転車のペダルがくるくると ぎごちなく回る
自転車と同じくらいボロボロの、老人の右足がペダルを追う 甲で位置を定めてから足を乗せようと試みるが
ペダルは逃げるように形を変え、 息が合わない
その間にも車体はさらに傾いて、老人の左足が入ったしみだらけのズボンがぷるぷる、ぷるぷると震えている

自転車はペダルだけが黄色に塗られていた

店がひしめきあっていた
弁当屋にも飲食店にも行列ができ
肉やパンを焼くにおいがたちこめる往来の片隅で
老人は一人黙々と戦っている
前カゴからコロンと、つぶれた空き缶が一つ落ちた
カゴには、年金が入ったかばんではなく、汚らしい空き缶が山盛りに入っているのだ

遊ぶ金欲しさに、前カゴに年金を突っ込んだ自転車を探す私の前で、
無益な老人は042495号産廃車のように孤独に、
最後のバランスを保ちながら立っていた

黄色い、菜の花のようなペダルを見つめ
私は自転車にまたがり右足をペダルにかけたまま唇を噛み息をこらし、
じっと祈る

 

(3月某日、葛飾区東金町で)

 

 

 

 

塔島ひろみ

 
 

じゃがいもの窪みが黒くなってて、包丁のヘリで掘っても掘ってもどこまでも黒くて結局向こう側に到達しちゃって、なんだこのいもダメじゃん、てことがよくある。この前はナスでも同じことがあり途中で青虫の死体みたいのが出てきたので捨てた。

そのいもの窪みと似た傷が手の甲にある老人が、公園で子供に傷を見せていた
戦争で、ラバウルという南の島で、弾が当たって、それがまだ手に入っている、とウソを言って見せている 
子供たちは「やばい」と言いながら熱心に「弾の入った手」を見つめる みんな100円ずつ払っている
「さわらして」とひとりが言った 
「じゃああと100円」子供たちは財布から小銭をつまみだし、老人に払う
「イタタタタタ!」触られたとたん老人は悲鳴をあげる
「まだ痛いの?」
「手の中でタマが少しずつ溶けているんだな、それで痛いから優しくさわろうね」
こどもたちはこわごわなでるように傷をさわり、それから念入りに手を洗って遊具に戻った
老人は集めた小銭を首からぶら下げた小袋に入れ、次の公園に行き、えものを探す

公園では私がひとりで鉄棒で遊んでいた
声をかけられ100円払うと、垢だらけのがさついた手が差し出された
中指と薬指の間がおぞましく窪み、奥まで黒く、中はどうなっているのだろう。掘ってみたい。青虫の死体が入っているのかしら。切り刻んでみたい。捨ててみたい。
もう100円払って触らしてもらう 硬くなっている所を押すと、老人は飛びあがり、泡を吹いてベンチから落ちた その泡だらけの口にもう100円、もう100円と入れていく
もっと触らせてよ、暴かせてよ、男にまたがり、顔面をなぐり、抱きしめる
男は臭くて、私は泣いていて、男は優しかったが、傷の正体は最後まで見せてくれない

その手が乾いたコッペパンを持って、口のところへ運んでいった 口が開きカサカサのコッペパンを飲みこんでいる 唾液が出て乾いたコッペパンが湿った 口の上には髭があり、髭の先にコッペパンのカスがつく 口の下方に首があって喉仏がびくんと大きく動き、コッペパンは老人の体内に深く入り、老人になった
髭についたパンカスはコッペパンのままなのに
手の傷も老人にならず傷のままなのに

スーパーで、大きなグレープフルーツをかごに入れた老いた女が、次に苺を選んでかごに入れ、ああ、何か違うとカートにもたれて考える
そして自分はいまグループホームに住んでいて、食事はそこで配されることを思い出した
女の手の甲には、じゃがいものウロのような、黒く深い傷がある いつか見たことがある傷がある
左手でさわるとむずむずし、押すと痛い
ああなんだ、これは私の傷だ、と女は気づく 
かごには大きなグレープフルーツと真っ赤な苺が入っていた
傷を左手で包み、大事に隠しながら、女はカートを押した ぐいぐいと押した
レジへ並ぶ 
今日はこのフルーツを食べようと思う   

犬と老人 夕焼けのベンチ
犬が老人の右手を舐める
ああ気持ちいい ああ気持ちいい ああ気持ちいい
傷は深くやさしく 老人の体の奥へ広がって
少しずつ老人になっていく

ベンチには穏やかに腐りかけた老人が ポツンとじゃがいものように座っている

もう子供たちは寄り付かない

 

( 2月某日 公園で )

 

 

 

カメラ

 

塔島ひろみ

 
 

カラスが羽を広げ飛行するその影が まだ見たことのない空と太陽の存在を教えてくれる

くらしをまもるために防犯カメラがまわっている
幸せをこわさないために防犯カメラがまわっている
悲しみをつくらないために防犯カメラがまわっている

高台にある静かな町で 私はS宅角から北へ延びる一本の道を見つめる
100度の広角で電柱に据り、動かない景色の中で私がまわる
犬の散歩、ウォーキング、
朝夕は連れだって中学生も通っていく
最近はみなマスクをして
24時間私が守る安全な道に現われ、小さくまたは大きくなり、ふっつりと、私の知らない世界に消え
次に少し違う様子で現われる人、
まったく違う様子で現われる人、
どこかしらきっと前のときと違っていて、
そのまま 永遠に消えてしまう人も時折いた

見慣れない地方ナンバーの車が停まり 大きな工具を抱えた男が下りた
道を見て 印をつけている そして
ズドドドドドド スイッチが入り激しい音とともに
電動ドリルが舗装をえぐる その下から 血がほとばしる
アスファルトがめくれ 肉塊がのぞく
黒々と光る肉にドリルの先端が突きたてられ
肉は叫びながら小さく砕かれ飛び散った
私はマスクをはずして呼吸をする
青空が見えた
穴の中に 天国の場所を見つけた気がした

車が去り
穿たれた道は平らにならされ あとかたもない
轟音は近隣の一人も呼び出さず
平和な風景に変わりはないが

道のへりに飛び散ったままの肉塊のひとつから 雑草が生えた
私のいない 私が映さないもう一つの世界では
くらしがこわれ、幸せがつぶれ、悲しみがこうして 草花を咲かせる

わたしは 何を守っているのだろう

Sが死んだ
不審な点があったらしく 私の記録が再生された
カメラには なにもうつっていなかったという

S宅は界隈でもっとも古い傾いた家で
まもなく解体工事が始まった
養生シートの隙間から コロンと一片のつちくれが道に転がる
つちくれからはじきに芽が出
春には花が咲くだろう

その小さな脆い固まりを 私は守りたい

 

( 1月某日、目黒区八雲で )

 

 

 

少女

 

塔島ひろみ

 
 

男女の間で何かあった
少女は傷を負い
血を流しながら夜の町をよろよろと歩く
倒れてしまう
少女はこの辺りの住人だが
道行く人はだれも少女を知らなかった
少女もだれも知らなかった
汚い靴底が鼻先をかすめザクザクと軍靴のように歩きすぎる
星を見ていた
ぐしゃり
ブーツのかかとに嫌な感触があり
私は少女の顔面を踏んだ
少女の頭部がアスファルトの割れ目に斜めにめりこむ

翌朝。
大人たちが数人集まり、足跡だらけの少女に土をかける
私も 大きなシャベルでかけている
土が入り、大きく見開いた少女の目から涙がこぼれる
もう 空は見えない
コンクリートを流して固め、舗装が終わった
大人たちはそれから別の家に行き、倉庫の下の土をかきだし、
家出に失敗した少年をそこに突っ込みコンクリートのふたをした
若者を埋める町 足の悪い老人が押し車を押しながらたくさんの買物を
運んでいる 食べきれないほどの食料を運んでいる

髪を染め、あちこちに穴を開けてピアスをし、タトゥーを入れ、化粧をし、
化粧をし、化粧をし、
何度も何度も鏡を見てやり直し、それでようやく外に出た
少しだけ楽しい時間があり やがて傷つき
倒れ、道に寝てまっすぐに星空を見た
毎晩スマホの画面で見ていたゼウスとエウロペのロマンスを見ていた

アスファルトの下に 少年少女たちの青春が埋まる
彼らは年取ってから掘り出されはじめて深く呼吸をし町を見まわし
曲った足でよろめきながらも、かつて血を流してさまよった道を
新しい若者を踏んづけながら 生きるために
歩く

つぎはぎだらけの舗装道に朝日が射す
道はいつも少し温かい
猫が日向ぼっこをしている
私はときどき足を止め 道端の草花の写真を撮ったりもする

 

(12月某日、西小岩で)

 

 

 

 

塔島ひろみ

 
 

地球全部を敵にしたような悲しい、怖ろしい目で、Tは地べたに座ってウイスキーを瓶のまま飲みながら、私を見た
40年前に見たその目を思い出しながら 私は「**ゴム加工所」と書かれた戸の前に、立っている
薄く開いたアルミ枠の引き戸から 白い煙が流れ出ている
シューシューと 弱い音が聞こえてくる
暗い作業場には老人が一人
Tは、工具を買いに行って留守にしている
環七下のガードをくぐり、壊れた工場の横をとおり、
坂を上がって土手へ出て
川に沿って黙々と、Tは歩く
カモが数匹 落ち葉のように川面に浮かぶ
その日だまりには、カモを眺める数人の老人の姿もあった
ささやかなそのにぎわいの風景に目もくれず Tは歩く
工具を買うのだ
工具屋は近所にも数軒あったが、
Tは下流にかかる長い橋を渡り、街道をてくてくとかなり進んだところにある店へ入る
そこで念入りに工具を選ぶ
一番持ちやすく、一番重いものを探す
手にとって、振り下ろしてみる
何度も何度も、いくつもいくつも、持ち変えては黒光りする工具を振り下ろす
額に汗がにじむ

シューシューいう音は老人の喉から漏れ出ていた
目はほとんど見えず 腎臓も悪い
かつてTを殴り、唾を吐き、支配した男は
工具を買いに行ったTの帰りを
Tが自分を殺しに戻ってくるのを
頭を潰されてTに撲殺されるのを 待っていた
もう、何十年も待っていた

工具屋を出るとTは街道を先へ進んだ
ずっとどこまでも歩いて行く その先はもうTも私もTの親たちも知らない道だ
ずっしりと重いモンキーレンチが入った布袋を提げ
次第に豆粒になり 見えなくなった

とうに廃業し小奇麗なアパートになった隣近所に挟まれて
傾いた壁を蔦が覆う**加工所は
今日も戸を少し開け、ゴムの加工作業を続ける
注文などひとつも来てはいないけれど

電気も止まっていたけれど

 

(11月某日、高砂で)

 

 

 

 

塔島ひろみ

 
 

今朝方、部屋を焼いた
人間扱いされなくて仕事をやめ
お金がなくなり
飼い猫が死に
独りぼっちの女はタンスに猫の死体と広告紙を入れ
油を撒いて火をつけた
つかまるために、誰かに見られ、飼われるために
部屋を焼いた
そしてその、行列に並んだ
長い列はゆっくり進み、入口で一人一人検査を受け、合格者だけが中に入る
⬜︎私はロボットではありません
それは人間を判別する試験である
ボックスにチェックし図中の「消火栓」を示すと女は「人間」と認められ
他の人間たちに続いて、檻の中に入っていく
門が閉められ太い閂がかけられた

パンダが笹を食べていた
行列はのろりのろり進みながら子どもパンダの写真を何枚も撮り
サル山に移動し、そこでのんびり猿たちを眺める
秋の日差しはほのぼのと降り注ぎ、赤ちゃんをしっかり抱く母猿を見る人間たちはみな優しい表情だ
象を見て、キリンを見て、白クマを見て、少し汗をかき売店でソフトクリームを買ってベンチで食べ
ゴリラを見て、トラを見て、カバを見て、コンドルを見て、少し、悲しい気持ちになって
日が暮れ、お土産を買って家に帰る
翌日はまたつまらない仕事が待っているけど
翌日はつまらない仕事をし、翌々日もまたつまらない仕事をし、その次の日も次の日もつまらない仕事を続けたあげく、
仕事をしないではいられなくなる。ときどき弱いものを殴ったり、なでたりしながら。
それが「人間」という種類のロボットです。
シマフクロウが子どもに説明板を読んできかせる

門は閉まっていてびくともしない
⬜︎私は人間ではありません
チェックを入れる
☑私は人間ではありません
錠が解け、女は檻から放たれた

外では、檻に入れない人間でないものたちが、ワイワイ集まって、大道芸を見物していた
一本綱に片足立ちのパンダの着ぐるみを着た人間でないものが、笹を食べようとしてバランスを崩し、綱から落ちた
拍手と笑い 猫やハト、カラスもやってきて輪に加わる
女は、離れたところでそれを見ていた
見上げると空は雲におおわれ太陽の位置さえわからなかったが
鳥が飛んでいた 迷うことなくどこかへ向って飛んでいた
出頭する前にせめてパンダでも見ておきたくてここへ来た女は
動物園をあとにし
警察とは逆の方角へ向う

ここもまた檻の中かもしれなかったが

 

(10月某日、上野動物園で)

 

 

 

 

塔島ひろみ

 
 

川は海の方角へ流れていたが
決して海には流れ込まず
また元の場所に戻ってくる
ゴーゴーと轟音をとどろかせ
泣く子を黙らせ、犬猫カラスさえもおびえさせ
一度流れにはまったら、永遠に逃れられず岸に上がることができないのだ

それが町を南北に分っていた

南側にはたくさんの町工場とアパート、家があった
北側にはそれらに加え、ボーリング場とカラオケ屋、他にいくつかの施設があった

南側に14階建のマンションが建つことになった
柵で囲われた巨大な空地にエノコログサが茂っている
大きめの板金工場が廃業し、隣接するアパートなどとともにK不動産が買い取った土地だ
その向いにH製作所があり、男はそこの主である
腰をかがめてトタン張りの工場前を掃除していた
川の音がここまで聞こえる
男はもうずいぶん前から念入りに道を掃いている
雨が降り出す
雨が少しずつ強くなる
男は掃除を続けていた
ちりとりでごみを取っている

北側に行くには一本の橋を渡ればよかった
橋に上がって空を見る
空は恐ろしい色をして 襲いかかってくるようだ
大粒の雨に橋下の流れは水かさを増し 大きく黒く膨らみながらも
更に速度を上げ、先へ先へと急ぐのである
橋を渡ると小さな居酒屋が2、3軒ある細道に出る
その更に先には少年センターと公民館などがある

男はこの川をいつも歩いて渡った
自由に南北を行き来していた
そしてあるとき車にあたり、右腕を失った

男は左手で丁寧に道を掃き終わると、H製作所の中に消えた
H製作所では 車の部品に使われるネジを作っている
キーンという金属音が川の音に重なって、聞こえてくる

国道14号 死亡事故現場
歩道橋を下りると、男の右腕が落ちている
何か大事なものを握り締め
そのまま硬直して 誰も開くことができない

 

(9月某日、江戸川区松江で)

 

 

 

ニュース

 

塔島ひろみ

 
 

4階の窓から顔を出すと熱のこもった空気がゆらりゆらりブランコのように揺れていた
誰もいない
すぐ真下に小さな公園が見下ろせたが
木も生えていない日陰のないそこには
虫さえも飛んでいなかった
Oは大きく「ふう」と溜息をつき、部屋に戻る
私がかつて暮らしていた10号棟406号室に戻り
私が使っていた冷蔵庫からビールを出して口をつける
冷えが悪い

急死して以来久しぶりに訪れた懐かしい団地
玄関口に私の名の代わりに「O」とボールペンで書いた札が、入っていた
Oは老人で、独り身らしく
驚いたことにほとんどの家具や電化製品が私が住んでいた時のままで、クーラーもないままで、
猛暑の中見覚えがある扇風機が皺だらけのOの首筋に申し訳程度の風を送っていた
Oはドアも窓も開け放し、ビールを飲みながらテレビを見ている
ランニング一枚 まるであの頃の私のようだ
今ひとつ意味のわからないお笑い番組からチャンネルを適当に切り替えると
緊張感を持った画面が映り
大きなニュースを伝えていた

Oは驚き、
テレビに釘づき、興奮した

O、テレビつけ放しでサンダルをつっかけ4階通路に出て見まわす
私が住んでいたころはクーラーのない部屋も多く、開け放たれた部屋部屋からテレビの音や生活音が聞こえたものだが、今日はどのドアも冷たく閉じられ、しんとしていた
O、今度は窓に行き、首を出す
前述のとおり人気はなく、誰かいたところでどうしようもなかっただろう
少し離れたところでセミがジージーしきりに鳴く声が聞こえた

Oが首を引っ込めたあと、ヤマトの車が敷地内に入ってきた
行き先の号棟を探してウロウロしている
Oへの届けものだろうか?! そしたらOはこの運転手とニュースの話ができる!
私はわくわくし、祈るような気持ちでヤマトの車の進行を追ったが
車、別の号棟の方角へ曲る
Oに荷物は届かなかった

Oはしばらくビールを片手に、真剣にニュースに見入っていた
それからチャンネルをお笑いに戻した
うとうとしている

いびきをかき始めたOの肩にそっと手を置く
私の打ち捨てた家具たちをこんなに大事に使い続ける老人の肩にそっと手を置く
テレビから笑い声が聞こえてきた
大きなニュースがあるのに 笑っていた
Oはもう見ていないのに 笑っていた

 

(8月某日、川崎市多摩区で)

 

 

 

屋上

 

塔島ひろみ

 
 

下水処理場の屋上に
咳が出始めた父親を押しこめる
すぐ迎えに来るからと、尻を、思い切り押して走って帰る

夏雲の下 老いた男女がボールを夢中で追いかけていた
フットサルコートになっている屋上の公園は 周囲を有刺鉄線で囲われている
元気な爺が追いつき、思うさま蹴上げると
ボールは天井の針金に突き刺さった 
その裂け口から見せしめのようにポタリ、ポタリと、黒いモノが滴り落ちる
ボールを失い、老人たちは汗を拭き拭き見晴らしの良い一画に集まる
眼下には濁った、あまり美しくない川が静かに流れていた
ここから人が飛び降りられるわけがないのに
屋上に鉄条網をめぐらす意味

奴らは俺たちが鳥だと知ってるんだよ
カラスのように口をとがらせて 一人が笑った
紫色の花弁を揺らして ムクゲが笑った
羽を震わして セミが笑った
カラカラ カラカラ
笑い声が立ち籠める

俺たちが自由だと 知ってるんだよ

仰向けに寝そべると鉄網越しに
ギラギラと美しい青い空と雲があった 一雨来そうだ

早く迎えに来ないかな

鳥が呟く

 
数日後。
防護服に身を包んで屋上を訪れた保健所員が
ブルーシートをめくってビックリした。

全部、もぬけのカラになっている!

 

(7月某日 小菅西公園で)

 

 

 

とんび

 

塔島ひろみ

 
 

道はまっすぐ海へと続く
梅雨の晴間の午下がり
電線の影を踏みながら
サンダル履きの男と女が
細道を並んで 歩いて行く
住宅街にポツポツある小さな店前を通りすぎ
海へ向かう
手もつながず 会話もなく 
当たり前のように並んで てくてくと
海へ歩く
公園脇を過ぎるとき
誰も乗らないブランコが揺れるのを 二人は見る
風があるのだ
国道下を通るトンネルを抜け階段を上がると 海が見えた

海を見る
波は高く荒れ 海は今日も
どこまでも広い

サーフボードを抱えて 若者が走る
笑い合う男女 ビーチマットに寝そべる上半身裸の強健な男

二人は浜辺に進まず 
舗装された海岸沿いの歩道に曲がる
ぼんやりした速度のまま
強風注意の看板前にかかったところではじめて
足を止める

家にリウマチの息子を置いてきた

発作が起きると大声で泣く
泣いて、泣いて、助けを求める
叫び、もだえる
息子は 言葉の遅れがあり
情緒障害があり
「混血」だった
この国で孤立する女を母とする子が
発達障害と リウマチを抱え
発作は激痛を伴い
4歳の全身を責め苛む
二人は息子を家に閉じ込め
海へ向かう

二人は空を見上げていた
「とんび」
男が指さして、鳥の名を言う
大きな羽を広げ 強風を楽しむかのように
トンビはおよそ10羽ほど、二人の頭上でゆったりと
気持ちよさそうに 旋回していた
男はポケットからスマホを取り出し、写真を撮った

その後二人は一度も立ち止まらず、次の横道で海から離れ、帰路についた
20分歩いて着いた海に
二人はたった4分だけいて
これからまた20分かけて家に戻り
息子へ向かう

静かな一本道を同じ速度でてくてくと
息子へ向かって歩いていく

 

(6月某日、鵠沼海岸で)