鈴木志郎康
〈プアプア詩〉における詩と詩人 02

〈プアプア〉の人格化と詩形式の崩壊に伴う表象の変化
 

瀧口遼真

明治大学文学部文学科日本文学専攻

 
 

1―3 〈プアプア詩〉の作品構造と私小説性

 
1―3―1 問題意識―― 「誤解」への嫌悪感と開かれた詩

 
 第三節では、第二章以降の考察の前提として、〈プアプア詩〉の私小説性について分析する。飯島耕一や上野昂志が指摘している通り、鈴木は〈プアプア詩〉で作家自身の私性( 日常生活や欲望) を表出させることに強く執着しており、これが特異な作品構造に繋がっている。
 そもそも鈴木は〈プアプア詩〉という作品構造を確立させるにあたって、どのような問題意識を持っていたのだろうか。『罐製同棲又は陥穽への逃走』に収録されているエッセイ「極私的分析的覚え書」では、大きく二つの問題意識が示されている。一つが「誤解」への嫌悪感、もう一つが開かれた詩への志向である。
 まず、「誤解」への嫌悪感について鈴木の持論を引用したい

 
 「私は詩を書き、詩と私との間にはある距離が生じる。そしてその距離が全く無視されるか、又極めて小さなものと受けとられるのを私はひどく恐しく思う。( 略) 私はこの詩集におさめられたひとつひとつの詩がどのようにでも理解されるということを絶対に拒みたい。私は各人の孤立と生活の寸断の上に安逸をきめ込んだ態度から生れる、あの理解の恣意性を断じて許したくない。言葉が使われたということは必ずそこに何らかの現実が存在する。そして現実が常に固有なものであれば、ほしいままに言葉を理解するということは、この現実の黙殺に外ならない。」viii

 
 ここで鈴木が述べている「距離」とは、作品内の表現が作家のどのような経緯・意図によって生じたかということである。仮にその表現が内発的・感情的なものであった場合、そこには一般的な意味とは異なる、作家が独自に付与した意味が含まれることとなる。作家と作品の間にある距離感を正しく読み取ることが、すなわち正確に作品を鑑賞するということになるだろう。しかし、実際に読者が正確に作品を理解することはほとんど不可能である。読者は作者と意識を共有しているわけではないため、テクストの内容や事前知識をもとに各自で作品を解釈することとなる。その結果、作家と読者の間にはテクストの意味を巡って断絶が生じ、読者は言葉の表層的な意味のみ理解するか、もしくは各々で勝手に作家と作品との関係を想像し解釈をするしかなくなる。これこそが「各人の孤立と生活の寸断」の結果生じる「理解の恣意性」なのであり、鈴木は恣意的な理解や解釈によって作品内の私性が無視・誤解されることを極端に嫌悪している。こうした嫌悪感を払拭する手段として、まず想像されるのは、作品自体を一切他者に公開せず、作品を完全な形で理解できる人間、すなわち作者自身の中だけで消費するというものであるが、鈴木は敢えてこの方法を取らず、詩を他者に向かって開かれたものとすることに強いこだわりを示している。この「開かれた詩への志向」の根源には、彼が学生時代に詩を通して他者との関係を構築しようとしていたことが影響している。鈴木は「極私的分析的覚え書」で、学生時代に仲間や少女たちに自作の詩を見せることで、人間関係の回復を試みていたことを告白している。彼にとって詩とは私的な創作行為であり、他者に自作の詩が受け入れられることはそのまま鈴木自身も受け入れられることを意味していた。こうした考えは、大学時代に安保闘争の集団から一人脱落し「抹殺されてしまうのではないか」という恐怖感に苛まれた経験を機に一層強まっていき、自己保存的な価値体系から脱出するための開かれた詩および詩形式を鈴木は模索していくことになる。

 
 「私はここ( 引用者注:自己保存的な価値体系や自己否定的な態度) から脱却しなくてはならない。詩はその出口となり得るだろうか。私は詩作する際に、自分の個別性を言葉の中に極度につめ込む仕方を取っていたというのも、この自己保存的な欲求から出ていたものに違いない。そしてその個人的欲求の満足に終ってしまうものであれば、私のより本質的な力である表現、つまり他人との真の交流には至らないであろう。そこではその本質的な力は抑圧されて、私は不安、危惧、更にいえば恐怖をいだいて、孤立した生活を続けなくてはならないだろう。詩はその出口となり得るだろうか。」ix
 

 他人に対して開かれていながらも、読者の意味解釈によって作家の私性が損なわれることのないような詩形式が、当時の鈴木志郎康の詩作における問題意識であり、課題解決のために鈴木が考案したのが後述する〈プアプア詩〉という特異な詩形式であった。

 
1―3―2 〈プアプア詩〉の構造

 
 〈プアプア詩〉とは、作家の私性を損なわない形で他者に公開する詩である。その詩形式について、「極私的分析的覚え書」で鈴木自身が述べた方法論をもとに確認しておこう。

 
 「私の生活の形態を決定しているのは、賃金を得るために働き、この得た賃金の全部を完全に消費しているということである。しかもこの生活の中で私個人の自発性は働く方に発揮されることは殆んどなく、もっぱら消費する方に発揮される。( 略) 言葉を消費する。これは私たちの文明の大きな特徴かも知れない。といっても、事柄を単純に考えるべきではない。それは何らかの欲望をにせに満たすものではあるが、私はこの「にせの充足」をとらえて、欲望の存在を明らかにしようとする。つまり、私の場合は、自ら言葉に封をすると同時にその封を切ってしまうように消費するのだ。この過程が私の詩作行為だと考えられないだろうか。言葉に封をするということは、言葉に一般的な意味が流入するのを止めてしまうことなのだ。「私小説的プアプア」の第一行目がこれである。プアプアとはつまり、言葉の処女膜なのだ。そして、この一行から始まる一連の詩はこの処女膜を破ろうとする私の挑みかかる行為そのものといえるだろう。私は私自身の生活を形成している実体を言葉にかえて、プアプアに突きさす。その行為が次次に私に言葉を要求して、私は言葉を費して行くことになると同時に、私自身を暴き出すことにもなるのだ。」x

 
 まず鈴木は、作者である自身の私性を消費行動の中に見出だしている。これは読書や喫茶のような商品・貨幣の消費に留まらず、詩作の際にどのような語彙を詩語とするかといった、言葉の消費も含まれるものとする。モノの消費も言葉の消費も、巨大な母数の中から選択し使用する際に個人の自発性が発揮されるからである。また鈴木は、言葉を消費すること自体が欲望の充足なのではなく、何らかの欲望を「にせに満たすもの」であるとする。つまり言葉を消費する以前に作者は何らかの事柄に欲望を抱いており、その欲望を満たすことが不可能であるために代替行為として言葉を消費するのである。鈴木の場合、その欲望は彼自身の日常生活から生じたものである。
 だが、単に言葉を詩語にして消費するのみでは、読者は作者が何の欲望の代替として詩語を用いているのか知ることができないため、両者の間で言葉の意味解釈に齟齬が生じる。そこで鈴木は、〈封を切る〉というプロセスを創作の中に組み込む。詩語の中に封じ込まれている、本来追求されるべき欲望を、彼は詩語と並列して書き記そうとする。この処理によって、読者は詩語とそこに封じられた作者の欲望や欲望の出所である日常生活も読むことが可能となるため、読者は作者と同じ方向で詩を鑑賞できるようになるのである。その過程は引用部分のように、性行為の際に男性器が処女膜を貫通して女性器に侵入する様子に喩えられている。
 この詩形式やプロセスが実際の〈プアプア詩〉でどのように具現化されているのか、第一作「私小説的プアプア」を例に考察したい。

 
 
 遂にプアプアが私の方に向って来る
 私はオーロラに包まれている
 私は純粋ももいろに射精する
 プアプアちゃん行っちゃいや、ああ私の天使
 それなのに教授は腕をひっつかんで大英博物館へ連れて行ったのだ( 註3)
 ( 略)
 註3 広島テレビ、七月三日午後八時外国製テレビ映画「泥棒貴族」より

             (「私小説的プアプア」)
 
 
 例えば、作中に「プアプアちゃん行っちゃいや、ああ私の天使」というフレーズが登場する。このフレーズ自体はひとつの詩語なのだが、直後に「それなのに教授は腕をひっつかんで大英博物館へ連れて行ったのだ」という詩句も並列して書かれている。これはアメリカ映画『泥棒貴族』のワンシーンで、エッセイ「プアプアに始まる」によれば、鈴木志郎康は一九六五年七月三日午後八時に自宅で同映画を鑑賞していたxi 。つまり鈴木はこの映画の少女が教授に連れ去られる場面を視聴した際に、自分と親しい少女が連れ去られる場面を空想した。その後詩を書く際にその空想を詩語に変えたのだが、同時に彼の空想的欲望の元となった映画のシーンを並列して記述するとともに、註釈で『泥棒貴族』を視聴したことも付記したのである。要するに鈴木は以下のようなプロセスでこの場面を書いたことになる。

①作者の鈴木志郎康自身の実体験:『泥棒貴族』を鑑賞し、欲望を抱く
②欲望を詩語に変えて「にせの充足」を達成する:「プアプアちゃん行っちゃいや―― 」
③詩語に含まれる欲望や実体験を併記する:「それなのに教授は―― 」および「註3」

 ②で言葉を消費することによって私性を発現させるとともに、③で欲望の内容とその出所①を読者に公開し、解釈のずれを埋めるのが〈プアプア詩〉の形式である。つまりこの詩形式では、言葉を消費する際と実体験を記述する際の二回に渡って私性が発揮されていることになる。鈴木はこの方法論を確立した上で「私小説的プアプア」を始めとする一連の詩群を創作していくことになるのだが、作品を追うごとに本来の形式から脱線していき、最終的には〈プアプア詩〉は崩壊を迎える。詩形式の変遷については、第三章で詳しく述べていく。

 
 

1―3―3 〈プアプア詩〉の私小説性ーープアプアを媒介とする実体験の虚構化

 
 〈プアプア詩〉を分析する前提として、その私小説性について確認をする必要があるだろう。前項で〈プアプア詩〉が作者自身の実体験を踏まえたものであることを述べた。しかし、テクストで描写される語り手の「私」および彼を取り巻く出来事は、鈴木志郎康が自身の実生活を一度破壊し再構成したものであることに留意しなければならない。〈プアプア詩〉とはノンフィクションではなく、事実を元にしたフィクション「私小説」なのである。鈴木自身、後年のエッセイで「『私小説』とは文芸評論などで使われることばで、作者の身のまわりに起ったことを素材にして書かれた小説のことをいうのである。従って、ここではそういう自分の身のまわりに起ったことを『虚構』として書くということをことわっているわけである」と解説しているxii 。
 〈プアプア詩〉で行われている現実の虚構化は、〈プアプア〉( 一部の作品では〈キキ〉も同様の役割を果たしている) という言葉を媒介として成立している。〈プアプア〉は鈴木や多くの同時代評で指摘されているように、オノマトペ的な言葉として用いられており言葉自体に意味はない。NHKのニュース取材の際に、取材先の中学校の女子生徒が歌っている際の口唇運動が着想元とされているxiii 。作中では、鈴木が実生活で抱いた性的欲望、そしてその対象者は〈プアプア〉に代替されて表出される。「プアプア」というナンセンスな音韻言語を用いることで、並べて配置される実体験や欲望に基づく描写をユーモラスで無秩序な虚構的空間に内包させようとしているのである。〈プアプア〉とは、鈴木の性的欲望や欲望の対象を詩語に変換すると同時に、鈴木の実体験を詩空間の中に内包させ虚構化させる詩的装置であると言えよう
 ここまで〈プアプア詩〉が虚構的な私小説として成立していることを説明してきたが、その中でも特に作者・鈴木志郎康との距離が近いと推測できる表現がいくつか存在している。それは、作中で語り手の「私」が詩や詩作について言及している箇所である。
 「私」は鈴木志郎康と同じく広島市に住んでいる男性として設定されている。詩作を趣味としている点でも鈴木と共通しており、彼の発言は〈プアプア詩〉の執筆・発表時期に鈴木がエッセイ等で述べている詩論と重なる部分が多い。第二章以降では、この「私」の発言に着目し、同時期の鈴木の著作と対応させながら、作者の詩に対する価値観が〈プアプア詩〉の中でどのように反映されているのかを分析する。

 
 
注釈

 v 笠原伸夫『虚構と情念:評論集』( 国文社、一九七二年九月) 、294ページ
 vi 飯島耕一『詩について』( 思潮社、一九六八年一月) 、77、78ページ
 vii 『現代詩手帖』二十二巻八号( 思潮社、一九七九年八月) 、123ページ
 viii 鈴木志郎康『罐製同棲又は陥穽への逃走』( 季節社、一九六七年三月) 、94、98ページ
 ix 同右、一一二ページ
 x 同右、一二六、一二八ページ

 
論文提出年月日:2026年1月14日