アサ
雨が降っていて
西の山は
白く
霞んでいて
空との境界が溶けていた
霞んでいく
風景のなかで奇妙なわたしが佇っていた
境界は溶けていた
わたしはわたしの幽霊だった
わたしは幽霊となって
境界のない風景のなかに佇っていた
アサ
雨が降っていて
西の山は
白く
霞んでいて
空との境界が溶けていた
霞んでいく
風景のなかで奇妙なわたしが佇っていた
境界は溶けていた
わたしはわたしの幽霊だった
わたしは幽霊となって
境界のない風景のなかに佇っていた
何度聴いたろうか
今朝から
マリア・ユーディナの
平均律クラヴィーア曲集 第1巻第22番を
何度聴いたろうか
十分ということが
ない
きみに
会うためには
十分ということはない
くり返しうち寄せてくる
波はくり返しうち寄せてくる
いつか
マナイタの
うえに
それは
ありました
ヒナタ
なのか
マナイタ
なのか
台所のマナイタの朝の光に輝やいていました
四角い光の塊となって
ヒナタなのか
マナイタなのか
朝の
ヒナタの
マナイタの
輝やいていました
輝やいていました
使える
ものがありません
利用する
ことができません
服を
ぬいで
素手と
なって
裸足で
歩いて
風にふかれて
飛ぶ燕たちをみあげていた
使われるものであることのうちに
息をはき
息をすい
息をはきました
雲がたって
燕たちがきれいな線をひいて飛ぶとき
あなたはそこにいて
みていた
すでに
あることのすべてをみていた
生きることがわたしのすべてですが
あなたの使命は
そこにいてささえること
そこにいて
あなたの妻と妻のすべてをささえること
山の
斜面の
小道を歩いていました
目覚めると
山の斜面の
暗い小道を歩いていました
ヤマユリが咲いていました
ヤマユリが匂っていました
わたしにはわかりませんでした
わたしにはわかるということがわかりませんでした
明け方に
雨はあがりました
ツバメたちは飛んでいます
昨日
薄い文字で書かれた手紙を添えて
白いタオルが届きました
わたしは電話しました
わたしはあなたの奥さんに電話をしました
奇麗な線をひいて
綺麗な線をひいてツバメたちは飛びます
悲しみに堪えられないならば
夕暮れに
浜辺にたってみてはどうでしょうか
悲しみは人称を失いました
人称は
失いました
だから
マリア・ユーディナを聴いています
だからマリア・ユーディナの平均律クラヴィーア曲集 第1巻22番を聴いています
西の
山に
日は沈みましたか
青緑の西の山に日は沈みましたか
夕暮れに
燕は
空を
飛んでいますか
悲しみは何処にいきますか
失った悲しみは何処にいきますか
浜辺に佇ち尽くすばかりです
わたしは浜辺に佇ち尽くすばかりです
燕は首をひねりながら鳴きます
燕は電線にとまって首をひねりながら鳴きます
燕たちは夕暮れに子どもたちのために忙しく空を飛んでいます
加藤 閑
なかなか一度では覚えられそうにない名前のピアニストだけれど、顔はすぐに覚えられる。美人だからだろうか。ピアニストに限らずこのごろの女流演奏家には美人が多い。天は惜しげもなく二物を与える。
2枚のソロ・アルバムが出ている。ショパンとリスト。ジャケットの写真は前者の方がいい。
大写しだし表情ももの憂げであまりピアニストらしくない。
この写真と、自分にとってはショパンの方に親しみがあるのを理由にショパンを買った。悪くないけれど、ラジオで聴いたときの方がインパクトがあった。
今年の3月、車の中のFMで初めて聴いた。ラジオをつけたときはちょうどショパンのスケルツォの1番と3番をやっていた。演奏会の録音なのだろうけれど、その紹介の部分は聞かなかった。
特に1番は息をのむ速さ。このひとは緩急の移り変わりを鮮やかに弾きこなす。指の早くまわることといったら、しかもそれを聴衆にひけらかすような、得意気なピアニストの表情まで見えるような演奏。リヒテルの「ソフィア・ライブ」でシューベルトの即興曲を聴いたときのことを思い出した。あのディスクではリヒテルもこれみよがしにピアノの音を切るように引いていた。「どうだ、上手いだろう」と言わんばかりに。
カティア・ブニアティシヴィリは1987年グルジアの生まれだから、まだ25、6歳の若さということになる。十代のころから活躍はしていたらしいけれど、ディスクデビューということを考えると、決して若くはない。どちらかというと成熟した女性のピアニストとして現われたという印象が強い。
CDで聴いてみると、スケルツォの1番も特別に演奏時間が短いというわけではない。それでも速さに圧倒されるように感じるのは、速いところとゆっくりしたところの差を際立たせるような演奏のせいだろうか。
1ヶ月ほど経って、また帰りの車でブニアティシヴィリの演奏を聴く機会に恵まれた。この日は昨年11月にサントリーホールで行なわれたクレーメルの室内楽演奏会の録音だったが、ピアノがカティア・ブニアティシヴィリというので聴いてみる気になった。プログラムは、フランクのピアノ三重奏曲(第一楽章のみ)、フランクのヴァイオリン・ソナタ、チャイコフスキーのピアノ三重奏曲「偉大な芸術家の思い出」というもの。このなかでは、有名なフランクのヴァイオリン・ソナタがもっともブニアティシヴィリの特徴が発揮されるだろうと思ったが、実際聴いてみるとその通りだった。特に第二楽章の冒頭など、リズムをためて実際以上の速度を感じさせる独特の弾き方が効果をあげている。
彼女のピアノを聴くと、いつも「命」について考えてしまうのはどうしてだろう。今年に入って、かつての同級生やいっしょに同人誌を出した仲間を3人続けて失った。だからわたし自身が「命」というものに敏感になっているのかもしれない。年をとってくると、それは生とか死とかとは少し違うものに思えてくる。もっと「存在」というものに近い、わたしをわたしたらしめている力のようなもの。それを女流ピアニストの演奏に見出したいと願っているのはわたし自身かもしれない。
ブニアティシヴィリのピアノを聴いていると、激しいピアニストの動きが見えるようだ。わたしは彼女の演奏を直接見たことはない。それなのに全身全霊で鍵盤に向かい、指どころか拳で、腕全体で、最後には自らの体を打ちつけるように演奏する様子がまざまざと見える。