あきれて物も言えない 29

 

ピコ・大東洋ミランドラ

 
 


作画 ピコ・大東洋ミランドラ画伯

 
 

ひかりだね、と言った

 

高橋悠治のサティピアノ曲集「諧謔の時代より」のCD * を聴いて、
詩を書きはじめている。

詩をふたつ、
曲名からタイトルを引用して書いて浜風文庫に公開してみた。

「内なる声」
「犬儒派の牧歌」

高橋悠治のサティのピアノ曲集はソクラテスと共に若い時から聴いてきた。
“ピアノ曲集 01″ は1976年に、”ピアノ曲集 02” は1979年に日本コロムビアの第一スタジオで録音されている。

若い時から高橋悠治の弾くサティにもケージにも惹かれてきた。
理由がわからないが惹かれるということは恋愛みたいなものかもしれない。
恋愛はいつか壊れることもあるだろうけれど高橋悠治の弾くサティもケージも壊れることはなかった。
だから、サティもケージも恋愛とは比べられないだろう。

 

朝になった。
今朝も朝になった。

言語矛盾だが、
今朝も朝になった、そう思える。

窓を開けて西の山を見ている。
灰色の空の下に青緑の西の山が大きく見える。
今朝も西の山はいる。

佇んで、
いる。

詩の言葉もそのようにして佇むだろう。

人と人のコミュニケーションの道具のように言葉は使われることがあり「コミュニケーション力」という言葉を聞くことがあるが、
詩の言葉はその対極にあるものかもしれない。
詩の言葉は言葉の伝達が終わった後の”絶句”からはじまるようにわたしには思えます。
言葉が絶句して佇むところに詩は生まれるように思えます。

 

いつだったか、
新丸子の夜の東急ストアの明るい光の中でわたし電話を受けました。

画家の桑原正彦からの電話でした。
近況を話しているうちに桑原正彦は自身の絵について「ひかりだね」と言ったのでした。
わたしも「ああ、そうね」と言ったのだと思います。
そのことがいまでも何度も思い出されます。

その言葉に桑原正彦という存在が佇んでいました。
その言葉に桑原正彦が佇んでいるといまのわたしにははっきりと思えます。

 

そして桑原正彦は遠く逝ってしまいました。
わたしは桑原正彦の絵をいくつか持っています。
いまはリビングに3つ、この部屋に一つ、桑原正彦の絵を掛けています。
押入れにもいくつかの桑原正彦の絵がしまってあります。

いま桑原正彦の絵がわたしとともにあることがわたしには希望となっています。

 

この世界には呆れてものも言えないことがあることをわたしたちは知っています。
呆れてものも言えないのですが胸のなかに沈んでいる思いもありますし言わないわけにはいかないことも確かにあるのだとわたしには思えてきました。

 
 

作画解説 さとう三千魚

 
 

* 高橋悠治のCD「サティ・ピアノ曲集 02 諧謔の時代より」

 

 

 

あきれて物も言えない 28

 

ピコ・大東洋ミランドラ

 
 


作画 ピコ・大東洋ミランドラ画伯

 
 

Cheep Imitation

 

ここのところ、
高橋アキがピアノを弾いているCDで「Cheep Imitation」* を聴いています。

「Cheep Imitation」とは、
“安っぽい模造品”という意味だそうです。

昨夜も聴きました。
いまも聴いています。

 

今日は、
日曜日、

よく晴れた秋日和です。

音楽のおかげか、
すこししあわせな気持ちです。

我が家の金木犀に黄色い花が咲きはじめました。
清々しい香りの花です。

朝には、
道端の陽だまりにオキザリスのピンクの花たちが風に揺れていました。

もう午後ですが、
まだ陽はあたたかく窓辺から射し込みます。

静かです。
小鳥の声も聴こえてきます。

「Cheep Imitation」は、ジョン・ケージによって作曲された曲です。

高橋アキがピアノを弾いている「Cheep Imitation」は、
高橋アキのピアノソロで「Cheep Imitation」が弾かれて、
その後にモートン・フェルドマンが編曲し高橋アキに捧げられたピアノとフルートとグロッケンシュピール(鉄琴)のための「Cheep Imitation」の演奏があります。

「Cheep Imitation」は、
サティの「ソクラテス」を題材としてジョン・ケージによって作曲されました。

サティの「ソクラテス」をわたしは若い頃から、聴いてきました。
デルヴォー指揮でパリ管弦楽団、ソプラノのマディ・メスプレがパイドン役として歌っていました。

「Cheep Imitation」はケージがサティに捧げた音楽です。
その曲をモートン・フェルドマンが編曲して高橋アキに捧げたのです。

 

そこに小さな光が見えます。
そこに幸せがあるでしょう。

「Cheep Imitation」は、”この世界”へのとてもやわらかい”捧げ物”と言って良いと思います。

 

この世界には呆れてものも言えないことがあることをわたしたちは知っています。
呆れてものも言えないのですが言わないわけにはいかないとわたし思えてきました。

 
 

作画解説 さとう三千魚

 
 

* 高橋アキのCD「高橋アキ プレイズ ケージ × フェルドマン via サティ」(カメラータ・トウキョウ)

 

 

 

ソシラヌ広場ーアンモナイトの見た夢 Ⅱ

 

南 椌椌

 
 

10月18日から青山ギャラリーハウスMAYAにて個展『ソシラヌ広場―アンモナイトの見た夢』を開催いたします。
個展に合わせて刊行の同名作品集より4点を「浜風文庫」に公開いたします。

 


 

猫とレインボー

 
猫の気持ちは わからないという人
猫の気持ちは よくわかるという人
ボクは猫だけど ボクの気持ちは
わかるようで わからない
それはどうでもいいでしょ
ボクは生まれてこのかた 猫だから

ボクのルームメイトはレインボー
なにが楽しいのか 虹の絵と歌ばかり
恋人もいないのに 恋の歌ばかり
レインボーの気持ちは よくわからない
それはどうでもいいでしょ
ボクは生まれてこのかた 猫だから

 
 


 

トンピナチョのはなし

 
農夫トンピナチョが 豊作のもろこしをロバに積み
千年伝えの 聖アルバンの森で  
ヤブに隠れて シッコロしてると
いにしえ絶滅したとされる マヤの聖獣トビハネマヤネズミが
怒り狂って トンピナチョめがけて 跳びかかってきたのだ
「聖獣のオレさまに シッコロかけるなんて このウンチョロたれが!」
「なにいうだ!シッコロかけても ウンチョロはたれてねえだ!」

  語るに落ちるとはこのこと
  てんやわんや アホらしい その後の委細は省きます

  (知りたい方には耳打ちします)

トビハネマヤネズミの正体は ウソかマコトか
組んずほぐれつ ほぐれつ組んず
聖アルバンの神々さえも 笑って見守るばかり
太陽なんか 膝をかかえて おねむの時間
もろこし積んだロバさえ トボトボ帰路につき
いつまでやるんだ トンピナチョ
「やってられねえ!」
トビハネマヤネズミは 我にかえって
聖アルバンの闇の彼方へ 消え去ったということだ

 
 


 

プラテーロの思い出

 
ヒメネスの「プラテーロとわたし」の舞台
アンダルシアのモゲールを訪ねたことがある
ポルトガルに近い ウェルバ駅からヒッチハイク
丘の上に白い宝石と 謳われた町並みがみえ
さっそく ひげたっぷりの爺さんと ロバがお出迎え

ヒメネスは快癒の日々を ここモゲールで
ロバのプラテーロとともに過ごし
詩人のことばで「プラテーロとわたし」を書いた

夢よりも 昔になってしまった
眩く光る広場から 花咲く小路を幾つも抜けて
日がな一日シエスタのような村
古い葡萄酒の酒蔵で一杯やってると
寡黙なプラテーロがウインクする

村はずれのモンテ・マヨールの丘に行った
ヒメネスとプラテーロがよく歩いた道だ
ふくろうのホーホーと啼く声を聞いた
丘をめぐって ホーホー探したが 姿は見えなかった

村の広場にもどって来ると
三角屋根の ソシラヌ移動遊園地が立っていた
塗りの剥げた さびしい回転木馬
オモチャのような観覧車が 空回りしていた

遠くから ほらホーホーという声が 聞こえてきた
そうだな もう酔うしかなかった
ホーホー ホーホー
        
 ✶ ファン・ラモン・ヒメネス作『プラテーロとわたし』理論社・初版1965年
  伊藤武好、伊藤百合子訳 理論社版の長新太の挿絵がたまらなかった。
  作品背景の写真はアンダルシアのフリヒリアナという町。

 
 


 

ハゴロモ

 
半島の舞姫がつま先あげて 肩で長短(チャンダン)
思い出したように ときめきの心躍りを
踊りましたね ありがとう
哀しみは 腰をおとして たひらかに
水の上から音もなく 舞いたつ
羽衣は 白いチョゴリのことだった
鹿の角生やした姉さんが
涙こらえて 頬染めている
どこから来たのか オアシスの仔象
長い鼻 ふりふり ダイジョブ ダイジョブ

✶ 長短(チャンダン) 韓国舞踊特有の調子のとり方。原マスミは「ハゴロモ」という曲で 「チョゴリよ チョゴリ わたしのハゴロモ」と歌っている。イ・チャンドンの映画「オアシス」には、壁のポスターの仔象が、ソウルの安アパートの部屋に出現する美しいシーンがある。

 
 

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2021年10/18(月)〜10/30(土)

南 椌椌 個展「ソシラヌ広場―アンモナイトの見た夢」

開廊時間:11:30am〜7:00pm(日曜日休廊 土曜日5:00pm迄)

〒107-0061 東京都港区北青山2-10-26
(地下鉄外苑前駅徒歩5分)
tel : 03-3402-9849
fax : 03-3423-8622


e-mail : galleryhousemaya@gmail.com


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あきれて物も言えない 27

 

ピコ・大東洋ミランドラ

 
 


作画 ピコ・大東洋ミランドラ画伯

 
 

滝が落下していた

 

ここのところ絶句している。

ほとんど、
絶句している。

朝には窓を開けて西の山を見ている。

昨日の朝も、
窓を開けて西の山を見ていた。

絶句している。
6月の終わりに桑原正彦の死の知らせを聞いてから何も手につかない。

桑原とはこの疫病が終わったら神田の鶴亀でまた飲もうと思っていた。飲もうと約束もしていた。
もうあのはにかんで笑う桑原と会って話すことができない。

絶句している。

昨日の朝も、
窓を開けて西の山を見ていた。

それから松下育男さんの詩「遠賀川」と「六郷川」という詩を読んだ。
それらの詩は「コーヒーに砂糖は入れない」という今年18年ぶりに出版された松下育男さんの新しい詩集に入っていた。

それらの詩をわたしは既に読んでいてどこかわたしの川底のようなところに沈んでいたのだろう。
松下さんの詩は川底のような場所から語られた声だったろう。

そして、
窓の遠くに見えていた青緑の西の山に滝が流れ落ちるのが見えた。

幻影だった。
松下さんの詩を読んだことによる幻影だったのだと思う。

 
 

空0多摩川は下流になると六郷川と名を変えた

空0私が育ったのは六郷川のほとり

空0川は私たちの生活のすみずみを流れていた

空0日本人のふりをしていたが
空0私たちは実のところ川の人だった *

 
 

そう、松下育男さんは「六郷川」という詩で書いている。

わたしも川のほとり、雄物川という川の近くで生まれて育った。

子どものころ、
ただ、川を見に行くことがあった。
釣りをする人たちを後ろから見ていた。
夏休みには川で遊んでいた。
川に潜って川底を泳ぐ魚たちを横から見ていた。
川の人は魚の言葉がわかる人たちだろう。
声を出して話さないが魚たちにも言葉があるだろう。

西の山に真っ直ぐに落下する白い滝を見てわかったような気になった。

水は上から下に落ちるのだ。
それで川になる。
川は流れて海になる。
それからいつか海は空にひらかれる。

当たり前のことだ。そんなことが腑に落ちた気がした。

 

今日は日曜日だった。
雨の音がした。
朝から雨が降っていた。
西の山は灰色に霞んで頂は白い雲に隠れていた。

午後に雨はあがった。
姉から秋田こまちの新米が届いた。

高橋アキの弾く「Cheep Imitation」を聴いていた。
「Cheep Imitation」はサティの「ソクラテス」を題材としてジョン・ケージによって作曲されたという。
それはケージがサティに捧げた音たちだったろう。

 

そこに言葉はなかった。
そこに小さな光が見えた。

呆れてものも言えないが言わないわけにはいかないと思えてきた。

 
 

作画解説 さとう三千魚

 
 

* 松下育男 新詩集「コーヒーに砂糖は入れない」(思潮社)から引用させていただきました

 

 

 

南 椌椌 個展
「ソシラヌ広場―アンモナイトの見た夢」

 

南 椌椌

 
 

10月18日から青山ギャラリーハウスMayaにて久しぶりの個展「ソシラヌ広場―アンモナイトの見た夢―」を予定しています。半立体のテラコッタを平面作品にコラージュした作品が中心となります。作品画像に短詩を添えた作品集を発行するため、現在、編集作業中です。今回の「浜風文庫」にはその中から、4点をプレミアム公開?させていただきます。さとう三千魚さん、いつもながら、ご好意ありがとうございます。作品写真撮影は上山知代子さんにお願いしました。

 

ソシラヌ広場―アンモナイトの見た夢―より

 


 

林檎のブランデー

 
人生最良の日々と言っておきます
エレファンとウーサ
日の暮れるまでひたすら遊ぶ
夏のなごり やかましいな 蟬のレクイエム
コドモでも飲める 林檎のブランデー
祝杯いただきます 二杯まで

歌は空の深みに いつしか消えて
たそがれの合図は カササギの声 
コドモだもの 酔えば裸になるだけさ
いっとう 飛び切りの時間
胸にひそめて さてどこに帰ろうか

✶ イヴ・ロベールの映画「わんぱく戦争」で、
小さな子供が林檎のブランデーを2杯飲んで酔っ払っていた。

 


 

ミハテヌ遊園地

 
赤と黄いろはお好みの色
コドモそっくり 3人さらって
ソシラヌ広場にやって来た

そこは ミハテヌ移動遊園地
赤と黄いろのガラクタ遊具
客もまばらな 閑散閑古

トロい木馬はガタピシ揺れて
気ままに停まる午後3時
遊び疲れて コドモはどこへ?
どこかで 大人になるのでしょう

ソシラヌ広場で ソラシド ウタフ
アンモナイトの見た夢は
赤と黄いろの ミハテヌ遊園地

 


 

ソシラヌ村の三兄弟

 
ユカタン半島 マヤ遺跡
ウシュマル近郊 ソシラヌ村の三兄弟

ひとりは トラクァチェロ
気はやさしくて 忘れん坊のお人好し
隣の村のクロサギさんから カモにされ

ひとりは リベロテス
奔放な性格で 落ち着きないが
時に村長 時に芸人 酔っ払って時々失踪

ひとりは マルクェラス
コドモの頃から モノシリ博士 本の虫
樹上の人で 人付き合いは苦手のご様子

ユカタン半島 マヤ遺跡
ウシュマル近郊 ソシラヌ村の三兄弟
喜びも哀しみも みんな化石になっちまった

 


 

こそばゆいとき

 
キミの手のひらに アンモナイトが棲んで
キミの足元に 仔象のエレファンがいて
キミの口もとには 可能性のエクボがあって
ここはアノソノ ソシラヌ広場

正午過ぎたら 蛇口ひねって水を飲む
異国の人に こんにちはと言えるかな
その人がやさしい顔したネパール人で
”ナマステ” って返してきたら
ネパールでは “こそばゆい” ってどう言いますかって
その人の目をみて しっかり言えるかな

✶ ネパール語で、こそばゆい=くすぐったいはGudagudī グダグジだそうです。

 
 
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南 椌椌 個展

「ソシラヌ広場―アンモナイトの見た夢」

2021年10/18(月)〜10/30(土) 日曜休廊
11:30〜19:00 (土曜は17:00まで)
ギャラリーハウスMAYA
東京都港区北青山2-10-26 (地下鉄外苑前駅徒歩5分)
tel 03-3402-9849

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理解するには時間が必要

 

一条美由紀

 
 


私は神である
神は誰からも求められず、誰をも求めない。
神はまた何も求めず、あるものをただ消費し、
食い散らかす。

 


私から吐き出る言葉を食べてみて、、、甘いから。
私の視線を聞いてみて、、、闇だから。

 


長すぎる待ち時間
同じことを繰り返す未来を持っている

 

 

 

あきれて物も言えない 26

 

ピコ・大東洋ミランドラ

 
 


作画 ピコ・大東洋ミランドラ画伯

 
 

東京五輪は閉幕した。「 自分で身を守る段階 」になった。

 

ここのところ絶句している。

ほとんど、
絶句している。

ここのところ、
部屋で、
ジャズばかり聴いている。

ALBERT AYLER.

THELONIOUS MONK.

MAL WALDRON.

LES McCANN.

JUTTA HIPP.

CLIFFORD BROWN.

BUD POWELL.

JOHN COLTRANE.

今日は敗戦の日、雨の日曜日だった。
前線が停滞し西日本各地に豪雨をもたらしている。

絶句している。
6月の終わりに桑原正彦の死の知らせを聞いてから何も手につかない。

 

犬のモコと散歩している。
車で海を見に行く。
ジャズを部屋で聴いている。
女が刻んだサラダを馬のように食べている。

東京五輪は終わったという。
東京の感染は「制御不能」なのだという。

「医療 機能不全」
「自分で身を守る段階」
という見出しが新聞に立っている。

遠い昔のことのように思えるが現在の日本のことなのだ。

この日本という泥舟の船頭たちは操縦を誤まっているように思える。
敗戦を終戦と言い繕い高度成長という神話に酔い失われた20年を通過して時間は随分と過ぎてしまった。
この泥舟の船頭たちはもう一度、新自由主義グローバリズムの先に高度成長の夢をオリンピックでみようとしたのだったろう。

東日本大震災からの復興を世界に示すというビジョンは、
いつコロナに打ち勝つというビジョンに取り替えられたのだったか。

あきれて物も言えない。

夕方、クルマのプレーヤーに宇多田ヒカルをコピーした。
女とクルマで港町を流した。
宇多田ヒカルの「誰かの願いが叶うころ」を繰り返し聴いてクルマを流した。

曇り空の下に灰色の海は広がっていた。
海は空の色を映す。
雲の隙間から光が海面に射していた。
海は河口からの濁流でまだらに茶色く濁っていた。

「誰かの願いが叶うころ、あの子が泣いているよ」* と宇多田ヒカルは歌っていた。
「もう一度、あなたを抱きしめたい、できるだけ、そっと」* と、

歌っていた。

 

そこに小さな光が見えた。
呆れてものも言えないが言わないわけにはいかない。

 
 

作画解説 さとう三千魚

 
 

* 宇多田ヒカル「誰かの願いが叶うころ」から引用させていただきました