空谷の跫音~イタリア弦楽四重奏団の空耳アワー

音楽の慰め 第5回

 
 

佐々木 眞

 
 

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イタリア弦楽四重奏団のモーツァルトの「ハイドン・カルテット」を70年代の旅先で耳にしたときは、最初の一音で陶然となって、なぜだか涙が出て仕方がありませんでした。

ああ、これがモーツァルトだ。これが弦楽四重奏だ。これが弦のほんたうの響きだ。
と確信できて、それは同じ頃に聞いたクーベリックのマーラーと同様にかけがえのない音楽体験となったのでした。

その後同じ曲をいろんな機会にいろんな団体で聴いたが、みな駄目でした。
大好きな東京カルテットも駄目でした。鉄人アルバン・ベルクも、てんでお呼びでなかった。

それから幾星霜、いまではとっくの昔に解散したこの四重奏団がかつてフィリップス、デッカ、DGに入れたCD37枚の録音を順番に、それこそ粛々と聴いていくなかに、K387のその曲がありました。

「春」という副題がつけられたそのト長調4分の4拍子のその曲の、冒頭のAllegro vivace assaiを久しぶりに耳にした私でしたが、どこか違うのです。

それはまぎれもないイタリア弦楽四重奏団の演奏ではありましたが、あの日、あの時、あのホールに朗々と鳴り響いた、あの奥深い音ではなかったのです。

それから私は急いでCDを停めて、そのほかのモーツァルトやベートーヴェンやシューベルトなどがぎっしり詰め込まれている黄色いボックスにそっと仕舞いこみました。

半世紀近い大昔の、あのかけがえのない音楽と懐かしい思い出が、もうそれ以上傷つけられないように。

 

 

 

夢は第2の人生である 第39回

西暦2016年如月蝶人酔生夢死幾百夜

 

佐々木 眞

 

 

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米ソ冷戦下の時代にアメリカンのホテルに泊まったソ連の子供たちは、黒人のフロント係に、ソ連のホテルに泊まったアメリカの子供たちは、イワンの馬鹿のようなフロント係にそれぞれ懐いて、とても満足して帰国したそうだ。2/1

国連にロシアと日本が大枚の寄付をしたという噂を耳にして、「その嘘ほんまかいな」と思いながら電車に乗ると、電車の中刷りに「たけしがやって来る」と書いてあったので、「たけしなんかより、さんまのほうがずっとがいいな」と私は思っていた。2/2

ジャイアント馬場を化け物のようにしたような怪物が、チーフとサブの2人をさんざんな目に遭わせたあと、屋上の洗面所で上着を脱いで水を飲んだりしているのを見つけたので、私はぐったりしている2人にそのことを伝え、3人で復讐しようと図った。2/3

洗面所の外で待ち伏せしていたら、お化け馬場がやってきたので、3人で立ち向かい、2人が大きな体を押さえている間に、私が股間に何度も猛烈キックを加えると、さしもの怪物もたまりかねて、8階の階段の上からまっさかさまに転がり落ちた。2/3

これは夢の中だから大丈夫だな、と思って頭にシャワーをかけたが、案の定濡れなかった。2/4

僕の腹と腰には、びっしりとパイプ爆弾が巻かれている。僕のお師匠さんがいう。「あいつは悪魔だ。悪魔はこの世から取り除かねばならない。あいつを殺せば、世の中はたちまち平和になるだろう。そして君は永久に神から賛美されるだろう」2/4

とても面白そうな夢を見たので、真夜中にその内容をメモしたはずだが、朝起きてみたら手帳には何も書かれていなかった。2/5

時間が押していたので、「ではこの執行部案でよろしいでしょうか?」と尋ねると、バラバラという拍手のはざまから2、3本の手が上がったので、私は失敗したことに気付いた。「ではこの執行部案を拍手でご承認ください」と言うべきだったのだ。2/5

早く彼奴を潰さなきゃ、と思ってキック、キックでぶっ潰してやった。2/6

新幹線の先頭の2人しか入れない空間に、無理矢理5人で乗り込んだ。2/6

痩せたデビッド・ボウイそっくりの軍人が遥々私を訪ねてきたので、家の外へ出ると、ボウイは、いきなり私の口を吸いながら、その勢いで、私の肉を全部吸いこんでしまった。2/7

逃亡中に新しいケトルを5個買って、それで茶を飲もうとした首領は、「まず煮沸した熱湯でケトルを消毒してから、湯を捨て、もういちど煮沸した熱湯に、茶を入れろ」と手下に指示した。2/7

道路の真ん中を、中身が空気だけのかりそめの人々が大勢歩いていたが、私もまったく同じような、かりそめの人だった。2/9

官憲は、私たちを逮捕しようと待ち構えていたが、私らは別に悪いことをした覚えはさらさらないので、平然とその場に居直り、彼奴らにつけいる隙を与えなかった。2/9

橋本と名乗ったその男は、激しく降る雨の中を、ずぶぬれになって踊り狂っていた。2/10

「君はよく戦った。もうそれくらいでいいだろう。武器を捨ててそこから出てこい」という聞き覚えのある上官の声がしたので、私はたった一人で閉じこもっていた塹壕から、のっそりと、まぶしい光の中へ出た。2/11

雨宮氏は、彼が大切にしていたルイ14世風の、華麗にして重厚なデザイン画を、ことごとく売り払って出家した。2/12

「君のパンツが、また濡れてる。お気の毒だね」と慰めたら、そいつは「そんなこと、お前の知ったことか」といきなり逆上したので、ついかっとなった私は、彼奴を殴り殺してしまった。2/13

プロのカメラマンが、私のその「万感の思い」というやつを撮影したいというので、私は大いに戸惑っていた。2/14

或る男が、銀の取っ手を世界最高速度で製造することに成功したというので、その町工場ではささやかなお祝いをした。2/15

この男は大物なので、当局はしばらくは拘束せず放置していたのだが、洞窟の中で生活を共にするうちに、私はその人物の重厚な存在感に圧倒されるようになっていた。2/16

半ズボン姿の息子と、山際に建つ高層マンションの階段を自転車を転がしながら、上へ上へと登っていくと、てっぺんで行き止まりになった。ここで引き返そうと、車輪を戻そうとしたとき、いきなり息子が、ひらりと身をひるがえして空に飛び出し、地表にどすんと叩きつけられたので、驚いて見守っていると、しばらくして元気に立ち上がったので、やれやれと胸を撫で下ろした。2/17

その男は、みなから嫌われていたので、こそこそと立ち去っていこうとすると、みんなは口を揃えて、「せっせっせえーのよいよいよい。バルバロイ、バルバロイ、あいつは変態バルバロイ!」と大声で歌いだした。2/18

その歌は、「あいつは人からお金を借りても、決して返さない。その癖ションベンしてると早く出せ、早く出せと催促する変な奴。バルバロイ、バルバロイ、あいつは変態バルバロイ!」というような内容だった。2/18

夜、小便をしようと講談社の編集部に立ち寄り、いつもの便器の前に立ってズボンを下ろそうとしたら、いつのまにか隣に知らない男が立っていて、「やあ軽薄短小君、君はなにをしごいてこれからなにをしようというの」と歌い出したので、私は出なくなってしまった。2/19

するといつのまにか紛れ込んでいた女子が、「そういうあんたこそ、女の前で裸になったら、なにもできないくせに、偉そうなことを抜かすな。ボケナス」と罵ったので、くだんの男はすごすごと便所を出ていった。2/19

それから私は、広大なキャンパスの中で途方に暮れていた。昔一度大学に合格していたにもかかわらず、事務所で手続きするのが面倒臭くなって、そのまま郷里に戻ってしまったことがあったが、今度こそちゃんと入学しようと心に決めて、朝から歩きまわっているのである。

しかしなんという人間の多さか。人波に酔って疲労困憊した田舎者の私は、しばらくベンチで寝転んでいたが、急に空腹を覚えたので、よろよろと立ちあがって、学生食堂に行ってランチを食べようと思った。

あらかた喰い物は無くなっていたが、食堂のおやじさんが親切な人で、「ランチは終わったけど、残り物なら出してやろう」と言ってくれたので、ほっと一息ついた。するとおやじが、「ところであんた、これからどこへ行くの?」と私に尋ねた。

「医学部の大学院で入学手続きをするんだ」と答えたら、「なら飯どころじゃない、すぐに行かないとヤバイ」と脅かすので、一口も出来ないまま再びキャンパスに飛び出す。人に聞き聞き走りまわって、ようやく大学院の事務所に辿りついた。

ところが事務所のおばはんは、「手続きはもう終了したけれど、午後4時半からパーテーがあるから、そこへ行って学部長に頼めばなんとかしてくれるかもしれないよ」という。「場所はどこだ?」と聞いたが、「それは分からない」という。喉は乾くし、腹は減るし、頭はクラクラするので、もう諦めて下宿へ帰ろうかと思ったのだが、田舎の両親のことを思ってもう一度がんばろうと思った。2/19

勤務しているお笑い会社で、初めて映画をつくることになり、参考にするためにみんなで大阪のアチャラカ物をみた。会長がみんなの感想を聞きたいというのだが、誰もなにも言わないので、私が「作るとすれば、非上方的で洗練されたユーモアのある映画ですな」といったら、「そんならお前が監督をやれ」といわれた。2/20

わが社の会社案内カタログがやっと完成したというので、手に取って開いてみたが、はじめのほうに4/6という数字が印刷してあるだけで、中身は真っ白だったので、社員は呆然としてペラペラページを繰っていた。2/21

寿司屋で野菜寿司を注文したら、店主が「今日はなにもないから、お前さんの右足を折ってくれないか」というので、折って差し出したら、それを美味しい天ぷらにしてくれた。2/22

世界中が困窮したので、我が国でもそれに準じて貧富の差が著しくなってきて、両階級は事あるごとに大殺戮を繰り返し、格差どころか人口そのものが激減してきたので、万やむを得ずお互いに妥協して、背中合わせにくっつきあうようになってきた。2/23

貧者たちは、冨者が所有するあらゆるビルや住宅の内部に勝手に侵入するようになり、野球場やサッカー場、とりわけ企業の会議室で終日ごろごろするようになったので、冨者のビジネスマンは、彼らの隙間を縫って打ち合わせするほかなかった。2/23

朝の4時頃に私の声が聴こえた、とリョウちゃんがいう。「そんなはずはない、その時間は私は眠っていたよ」というと、「かわかわの耕ちゃん!」と叫んでいたという。どうやら寝言が電波で鎌倉から浦和まで飛んで行ったらしい。2/24

ジコチュウで不規則発言を繰り返していた歌手が、ついにイオニアレストを退社したので、社長も社員もほっとした。2/25

修学旅行の夜にホテルのトイレに行くと、小便器があまりにも高い位置についているので、チンポコが届かない。ふと便器の下を見ると、点点と血糊がついており、人間だか鳥獣だかよく分からない目玉や肉片も散らばっている。2/27

これは駄目だ。小便どころではない。早く自分の部屋に帰ろうとするのだが、ホテルの廊下は真っ暗闇で、どこにあるのかも分からない。2/27

桐野と2人で巨大なクマと戦っている。最初は私が黒クマで、桐野が白クマだったが、いつのまにか相手が入れ換わり、私が鍬を白クマの頭にぶちあてると、真っ赤な鮮血が迸り、脳天の白い骨が見えたので、私は急に白クマが可哀想になった。2/28

 

 

 

*「夢百夜」の過去の脱落分を補遺します。

西暦2014年弥生蝶人酔生夢死幾百夜

 

引越しをした。現地につくと段ボールから出された荷物が全部家の前に並んでいる。驚いた。机も椅子も本もピアノもお皿もまるでその空き地が居住空間であるかのように配列されているので、パソコンに向かって日記を書いていると、雨が降って来た。3/30

島崎藤村の身内の何回忌だというので、その生地を訪れた私だったが、そこは山奥の薄が茫々としげる草原の真ん中の一軒屋で、まわりには誰も住んでいなかった。平屋の八畳間には大きなテーブルだけがどかんと置かれていた。3/29

黒光りがする頑丈な古材のテーブルには、私の右に見事な白髪の島崎藤村、まん前には壮年の森鴎外、左にはまだ若さが残る夏目漱石が座っていたが、彼らの顔は逆光でよく見えない。藤村の手には子供の作文か悪戯描きのような紙片があった。3/29

「君は何駅で降りたのかい」と尋ねると、鷗外が「某駅だ」と答えた。それぞれ違う駅からここへ来たらしい。すると藤村が、「なるほど漱石君は一つ先の駅を降りてまず墓参りをしてからここへやって来たというわけだ。そういうコースがあるとは私も思いつかなかったな」といって愉快そうに笑うのだった。3/29

その町の寄り合い所には、意見を異にして敵対する2つのグループ全員が、手に手に武器を携えて結集していた。はじめのうちは荒あらしい言葉の応酬だったが、誰かが誰かを殴ったのを皮切りに、たちまち白刃がきらめき、弾丸が飛び交う阿鼻叫喚の巷と化した。3/29

集英社やマガジンハウスの編集者が集まって、なにやら懸命に企画案をプレゼンしているのだが、おびに短したすきに長し、で行き詰った私たちは、テーブルを離れて午後のコーヒーを飲みにいった。3/26

後楽園ホールで開催される「ばちかぶり」の雲古ライヴに行こうと、彼女と一緒に水道橋の改札口を出ようとしたら、三角形の頂点にあたる場所に、黒メガネをかけたチンピラが立ちはだかって通せんぼうをするので、一発でノシてやった。3/25

西武グループの御曹司のはずなのに、テレビや週刊誌でしか知らない立派な顔をした堤一族が勢ぞろいした大会議の中で、私は蒼ざめた顔付きで黙り込んでいるしかなかった。3/24

大震災のために横倒しになった路線バスが、公園の中に倒れ込んでいたので、カルテットのメンバーである私たち4人は、その内部の狭い空間を活用して、練習したりミニコンサートを開いたりしているのだった。3/23

地下鉄に乗ろうと下降していくと、道はまるで大蛇の巣穴のようにどんどん大きくなり、また丸くなって地下へ地下へと降りてゆく。不安に駆られた私は携帯を掛けたが通じず、仕方なくほぼ垂直に落ち込む真っ暗な道を落ちていった。3/22

ある会社に飛び込み営業を掛けて、出てきた若い女性社員の下着を脱がせて、その場でなにしようとしていたら、アメリカ人のおっさんが「スミマセンガ」と道を聞くので、彼女とつがったまま廊下に出て、「あっちだよ」と教えると、「サンキュウ」といって立ち去った。3/22

医学生の私は、男性の死者たちのペニスを解剖して、そこに刻まれている彼らの末期の言葉、すなわち「金言」を書きとめ、遺族に教えると共に私の博士論文の糧としていた。3/22

私は歌舞伎のチケットを買いに来たのだが、大きなビルヂングのどのフロアに売り場があるのか分からず、エレベーターが止まるたびに外へ出ようとするのだが、すぐに扉が閉まってしまい、結局買うことが出来なかった。3/21

善行を施す度にその人の評価は高まり、彼が住んでいる石川島を見下ろす超高層マンションの彼の住処は上へ上へとあがってゆき、とうとう最上階のペントハウスに到達したのだが、今では避雷針の直下の小屋に住んでいる。3/21

敵鑑からの集中砲火を浴びて、30数発の砲弾に見舞われながらも、私が搭乗している戦艦は、無数の損傷を蒙りつつも奇跡的に運行に支障はなく、毎時20ノットで疾走しているのだった。3/20

ファシストたちが罪なき市民をほうりこんでいる収容所の中で、私は普段の習慣を改めることができず、取締官の目を盗んで、夜な夜なぐうたら日記をパソコンにアップしているのだった。3/20

小中高大学と、何も勉強らしいことをしないで卒業し、会社に入っても同じような状態で呆然と過ごしていたが、そこを追い出されてからは、少し勉強を始めたけれども、それがとんでもなく遅すぎたのだった。3/19

自殺未遂の青年に、少年の私が「どうして死のうと思ったの?」と尋ねたら「いずれ君にも分かるさ」と答えたが、まもなく死んでしまった。やがて私が彼と同じ年になった時、私も自殺してしまったのだが、その時になって、初めて彼の言葉の意味が分かった。3/18

午後6時ごろになってようやく電気が来たので、店の照明を調整したり、電気仕掛けのPOPを動かしたり、BGMを掛けたりすることが出来るようになった。3/17

肝心の商品がよくないうえに販売網に破綻が生じているというのに、宣伝広告を強化すればこの危機を突破できると説くM部長の頑固な能天気を嫌って、私たちは全員で休暇を取ってピクニックに行った。3/16

震災による停電がようやく回復してきたので、それまで天井を向いていたショップの照明の向きを変えて真下にしたら、売り場の雰囲気が明るく楽しいものへと一変した。3/15

夜遅くまで残業をしていて腹が減った。中野坂上の駅前広場のようなところの店でなにが出来ると聞いたら、カレーライスとランチの炒め直ししかダメだというので屋台のラーメンを探すことにした。3/14

大名行列の先頭を歩いていた侍が、突然大刀を抜きはなって、後続の武士たちを斬りつけながら、中央の駕籠に向かって殺到してくる姿が目に入った。3/13

今日明日のオケの演奏曲目が、ハイドンとモザールの後期交響曲をそれぞれ3曲だというのに、指揮者は現れず、なんのリハーサルもないので、私たちはだんだん不安に駆られてきた。3/12

その若い女性は英国大使館の窓口担当だったが、彼女が黙って右側の席に座ると、左の席から窓の外に出てくる英国国旗が、まるで音声付のロボットのように、英国の観光案内を始めるのだった。3/11

朝日新聞の歌壇に自作の短歌が掲載されているかどうかを確かめようと、作品を書き込んだパネルを持った私は、往来を通行する人々に見境なしに尋ねたのだが、みんな怯えた表情で逃げ出すのだった。3/10

去年は17歳、今年は同じイタリア人だが20歳の女性と弧島でひと夏を過ごすことになった私だが、他にすることもないので、朝から晩まで幾たび性交に及んでも、ついにそれを最後まで貫くことができないのだった。3/9

東京ドームでファッションショーがあり、イケダノブオと一緒に見物していると、隣の席の男が「ちょっとやってみませんか」と言って、リトマス試験紙のようなものを持ってきて私の胸に張ると、「あなたガンですね」と宣告したので、愕然とした。3/7

なんでもさる引取り屋が息子を引き取ってくれることになったので、準備万端を整えて業者が来るのを待っている間に、彼は何杯も何杯もカレーライスをお代わりするのだった。3/6

鈴木、杉本の2人のリーダーに導かれた我らのチームは、勝抜きゲームに勝利した。なんでも御馳走してやるというので、今では貴重品となったウナギのかば焼きに舌鼓をうっていると、いつのまにか奇麗どころが膝の上に乗っているのだった。3/5

次から次へと山海珍味が目の前に並んだが、私の胃腸は最新のハイテク技術でこんとろーるされていたので、どんどん退治していった。3/4

中学校の中川という女性音楽教師の下宿に招かれた国語教師の私は、彼女がショパンの「小犬のワルツ」を弾いている背後から抱き締めて、その張り切ったお椀形の両の乳房をゆるゆると揉みしだいた。3/3

雪は次第に解けはじめていたが、まだ人間ピラミッドは確固とした形態を維持していたので、私はその一角に潜り込んで次の大震災に備えることにした。3/2

私は貧しくてお金がないので、さる富豪の家の前の道路の下にある地下室に住まわせてもらっていたが、そこは日の光こそ差さないが、広くて静かで、なかなか快適な環境だった。3/1

 

西暦2014年卯月蝶人酔生夢死幾百夜

 

テレビ局に入社した私は、上司の命令で全国津津浦浦を経巡ってその土地に生きる人々の暮らしぶりを紹介する番組を作り続けていたのだが、東京本社の人間は、もはやそんな私のことなど忘れ果てたらしく、何年経っても音沙汰無しだった。4/30

暴力団の武装勢力と対峙していた僕たちは、だいぶ消耗していたが、ふだんはあんなに柔和な高山公平くんが激しくアジっているのを聞くと、「よーし、ひとふんばりしてみようじゃないか」と、腹の底から勇気が湧きおこってくるのだった。4/28

久しぶりに会社の広報誌を見たら、全然聞いたこともない連中が、会社とも世の中とも関係のない不可解な記事や対談やアホ莫迦な感想を吐き散らしているので、担当の前田さんにその訳を聞いたら、「上司が狂ってしまったからどうしようもないの」と言って項垂れた。4/27

広告のコンセプトも全体のデザインもコピーの書体と級数までもが決定しているというのに、肝心要のキャッチフレーズがまだ出来上がっていないので、関係者全員がコピーライターである私の方を見詰めているのだが、まったくのノーアイデアなのだった。4/26

彼らの物づくりのレベルはかなりいい加減で、個性も創意工夫も感じられなかったが、そのときは私はあえて駄目だしをせず、鷹揚に若いスタッフの労をねぎらった。4/25

私たちが所属していた自由市民軍は、みなおいぼればかりだったので勝手気儘にふるまったために、正規軍の連中は眉をひそめていたのだが、いざ戦闘となると楽しみながら戦い、しかも強いのだった。4/24

ボロボロの飛行艇を修理しなければならない。たくさんの硬貨を入れて大量のコンクリートを機に注入すると、いっぺんに崩壊する危険があるので、わたしは100円玉をちびちび投入しながら、愛機を慎重に修理していった。4/23

昨日診察してもらった病院が地震で倒壊したというので、知人の安否を確かめにいったところ、運悪くまたしても崩落が起こって瓦礫の山に呑みこまれてしまったのだが、そんな私を助けだしてくれたのは昔の恋人だった。4/21

イケダノブオが「パリに持ってゆきたいのでいい映画を推薦してください」と頼むのでいろんな映画を見まくったがない。知り合いの若い女性がある中国映画を推薦するのでこれにしようかと思ったが、それは彼女を思いのままに操っているリーチンチンの仕掛けと分かった。4/20

フォノグラムの尾木さんが、いきなり悪魔の歌を歌い始めたので驚いていると、誰かが「あの人は最近悪魔に心臓を抜かれてしまったので、ああやって本物のオペラ歌手を目指しているんですよ」と教えてくれた。4/20

商品企画室のA子と打ち合わせしていたら、彼女の上司の山口君がいきなりA子と企画室のなかの噂話をはじめた。しばらく我慢していたが延々とやっているので、「おいおい、君たち失礼じゃないか。こっちが打ち合わせしていたんぜ」と文句を言ったが、2人とも知らん顔だ。4/19

横町に面した家の奥の部屋には、着物をきてサルカニ合戦のお面をかぶった若い女が、左端でぶらぶらしながら、じっと往来を見詰めている。部屋には小さな裸電球がついているだけで、1つの家具もなかった。4/18

「私は広告を出す代わりに、売れない画家の絵を買っているんですよ」と、その右翼の総会屋は小学館のロビーで豪快に笑うのだった。4/17

吉兆の残飯を毎日食べて飢えをしのいでいた松田君は、遂に奴隷の身を脱して自由の天地に羽ばたいたのだった。4/17

リュクサンブール駅前のカフェに入ったら、昨日スイスで会ったばかりのゴダールがコーヒーを飲みながら独語の原書でギョエテを読んでいたので「ムッシューゴダール、昨日は大変お世話になりました」と挨拶すると、突然奇妙な東洋人に名前を呼ばれた彼は、一瞬怯えた顔つきになりながらも、ぎこちない笑みを浮かべた。4/16

死ぬべき日を迎えていた私の前に、突然蓮池君が蹌踉とした姿で現れて、「広葉の」という大著を世に出したので、これを読んで感想を述べてから死んでくれ、と嘆願且つ強要するものだから、とうとうその日は死ぬることができなかった。4/16

事故死した若林君のバラバラの死体は、4つの茶色い断片になって保存されていたのだが、それらがひとつずつ白昼の下に引き出され、バチンバチンと組みたてられていくと、若林君はたちまち生者となって蘇った。4/15

巴里に滞在していたら、息子の知り合いだという触れ込みで、全然知らない3人の若者が、入れ替わり立ち替わり私の部屋を訪ねてくるのだった。4/14

1985年に私の新居が出来たが、それは1本の巨大な楠を斧で切り倒し、鑿で刻んで作られた手造りの家だった。4/14

南蛮から鉄砲が渡来した種子島に、西洋服の第1号も渡来していたというので、それを見物に行ったら、船着き場の浜辺にお洒落な白いケープが置かれている。記念に持ち帰ろうとしたら、某アパレルメーカーが既に買い取った後だった。4/13

マーラーの交響曲第5番のすべての音符を、広大な正方形の舛の外に押し出すゲームの最終勝利者は、奴隷から解放されるというので、私たちは闘技場の中を必死に駆けずり回った。4/14

30坪ばかりの狭い敷地に、我が家のS型と隣の藤井家のF型の2つの住宅ユニットが相次いで到着したのだが、お互い勝手に組み立てを開始したので、もはやなにがどこやら収拾がつかない大騒動になってしまった。4/12

「原ジョージ」という名義でアメリカ企業の株券を持っていたら、どういう風の吹きまわしか無茶苦茶に値上がりして億万長者になってしまったので、大阪支店の仲間たちがお祝いしてくれることになった。4/11

超有名役者が出演するというので人気沸騰の歌舞伎公演のチケットを買おうと、私は夜も寝ないでパソコンの前に座り込み、ネット販売の時間がやってくるのを待っているのだった。4/11

アメリカでアメリカ車を買おうとしていたら、セールスマンが「まずクレジットカードを自分に預けろ」というので「冗談じゃない、お前はいったいどういう奴なんだ」と押し問答しているうちに、朝になった。4/10

自転車で保谷ヶ谷まで行こうとしたのだが、横浜駅の近所の小汚い一角で、路はおろか方角すら分からなくなってしまった。仕方なく自動販売機に自転車を寄せかけていたら、子供たちがやってきて、「ジュースを買うからどけてくれ」と騒ぐのだった。4/9

佐藤愛子さんが愛猫の青木愛子を亡くして涙にくれているので、「猫じゃなくて犬ですけどうちの愛犬ムクを霊界から呼び出してお貸ししましょうか?」と提案したのだが、にべもなく却下された。4/9

偉大なるお笑い芸人が亡くなったというので、朝から晩までテレビは追悼番組をやっているのだが、誰ひとり「笑っていいとも」とは言わなかった。4/8

NHKのアホ莫迦会長が、「朝9時半に君が代を斉唱しない者は全員解雇する」と宣言したので、これに対抗すべく、わが社の会長は「会社でいつもソーラン節を踊っていない者は、即解雇する」と宣言した。4/8

イタリア語なんて全然分からないのに、ヴェルディのオペラの字幕製作を依頼された私は、公演が終了するとただちに収録映像を再生し始めたが、そこへ指揮者が飛び込んできて、「腹が減ったから飯を食いに行こう」と手を引っ張るのだった。4/7

ABそれぞれ50人からなるチームが、完全原始人生活に挑んだのだが、3か月後に現地を訪れてみると、両チームともほとんど生き残った者はいなかった。4/6

リゾートホテルの労働者たちは、大幅賃上げを要求して無期限ストライキに突入していたのだが、仲間割れが起こって殴り合いも始まってしまったので、団結がぐずぐずに崩れ去り、お決まりの敗北を喫してしまったのだった。4/5

道路混雑を規制する会議に出たのだが、会議がポンポコ狸踊りを始めてしまったので、とうてい結論など出やしないのだった。4/5

「こんなに広告の出校があるんだから、パブも宜しくね」と誰かがリクエストしたら、婦人画報の戸川さんは「ハハハハ、また冗談ばっかり」と例によって豪快に笑い飛ばすのだった。4/5

全身黒ずくめのそのオバハンと、ちょっとしたことから言いあいになってしまった。会合が始まって司会者が挨拶しているというのに、そのオバハンが後ろを振り向きながら、また私の悪口を言いだしたので、私も応酬を開始すると会場は騒然となった。4/4

どこかの寄り合いでおいらは連れの席を取っていたのだが、あとからやって来たヤクザが「そこは俺の席だ」と難癖をつけやがったので、最初はしたでに出ていたおいらも、すぐに切れてしまって、彼奴をあっというまにボコボコにのしてやった。4/3

図書館に行ったが、平日の真昼間だというのに、誰もいない。仕方なく「誰かいませんか?」と大声を出すと、暗い奥の方から割烹着をきたおばさんが出てきたので「お茶を下さい」と頼んだらハイと答えたきり、いつまで経っても姿を現さない。4/2

軍事演習という名目で隣国のアパリティアに進駐したわが軍団は、ここで進撃をとどめるべしという慎重論と、さらにアンゴラ国まで東進すべしという積極論が激しく対立したために、進軍を停止せざるをえなかった。4/1

 

 

 

生き急いでいる人間だから、真夜中に死者と仕事をすることだってあるさ。

 

佐々木 眞

 

 

総務課の川口課長から電話があって「ちょっと話がある。今すぐ行くから」というので、部下の酒井君と待機していると、来期の経費計画をすぐに出せという。

「おらっちはよう、安倍蚤糞は失敗すると読んでいるけどよお、株式の投資が莫迦当たりしたんでよう、売り上げも利益も全然駄目だけど、経費だけは削らなくてもいけそうだと、社長が言うんだよ」

「だからあんたの課も、大至急予算計画を出してほしいんだ」という不景気な中にも景気の良い話なので、私が「そんなら念願の新規ブランドの立ち上げが織り込めそうだ。酒井君と相談して一発どでかい計画をぶち上げてみましょうか」

といいながら、目の前の川口さんの顔を見ると、顔と目鼻の輪郭がどんどん霞んできている。

「おうそうよ、どうせ会社の金なんだからバンバン使いまくってくれよ」という声だけが聞こえてきたので、私はハタと気づいて、
「でも川口さん、あなたはもう10年、いや20年近く前に亡くなっていますよね。そんな人がどうして来年の予算を担当しているんですか?」と尋ねると、

「いやあそういう小難しい話はよお、おらっちもよく分かんないんだけどさ、まあいいじゃん。あんまり堅く考えないで、柔軟に対応してよ、柔軟にさ」
と相変わらず昔風の横浜訛りの元気な声だけが聞こえてくる。

「そんなこと言われてもなあ、酒井君」と後輩の顔を見ると、彼もまたなぜだか目鼻立ちが急激にぼうっとしてきているので驚いたが、じっと見つめているうちに、彼はおととしの今頃、入浴中に急死していたことを思い出した。

生き急いでいる人間だから、真夜中に死者と仕事をすることだってあるさ。

 

 

 

もっとも高い塔の歌~聖カルロス・クライバーの音楽

音楽の慰め 第4回

 

佐々木 眞

 

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20世紀を代表する天才(天才的にあらず真の天才なりき)指揮者、カルロス・クライバー(1930年-2004年)が亡くなって、この7月で12年になります。

先日彼の数少ない独グラモフォン録音をあつめた12枚組のCDを改めて聞いてみたのですが、さしたる感興を覚えなかったのはどうしてでしょうか。ライヴにおけるあの光彩陸離たる輝きをもういちどこの手に取り戻すためには、CDより映像作品のほうがいいのかもしれません。

ということで、思い立って3本のビデオを鑑賞してみました。うち2本はドキュメンタリー、1本はライヴ収録の演奏です。

まずは「ロスト・トゥー・ザ・ワールド」。これは惜しまれつつ瞑目した史上最高の指揮者の一人の生涯の軌跡を、関係者の証言で辿った音楽ドキュメンタリーです。
証言者のなかには、バイエルンのオペラ劇場での凡庸な同僚、ウォルフガング・サバリッシュなども登場し、ちょっと辛口のコメントを吐いたりしていますが、それでも彼は余りにも神経質なクライバーを終始擁護し、激励した親切な人でした。

指揮者のリッカルド・ムーティやミヒャエル・ギーレン、演出家のオットー・シェンクなどの証言者の大半が、彼を「神が地上に遣わした音楽の天使」などと大仰に褒め称えていますが、それがあながち誇大な表現であるとも言い切れない奇跡的な演奏を、実際に彼は1986年の人見講堂におけるベートーヴェンの交響曲第7番の第4楽章などで繰り広げたのでした。

そしてその真価は、このドキュメンタリーの通奏低音のようにして流れている、80年代のバイロイト音楽祭におけるワグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」のリハーサル映像において、鮮烈に刻印されています。

とりわけ終曲の「愛の死」のクライマックスを、視聴してみてください。
誰もが頭が空っぽになり、肌に粟が生じてくるようなエクスタシーの現前は、いかにもこの不世出の指揮者の独壇場で、このような芸術の高みに登った音楽家は古来そう多くはなかっただろう、と思わせるような素晴らしさです。

このような演奏を可能にしたのは、彼の頭の中で鳴る音楽の独創性と、それを現実の音に置き換えていく彼の練習の際の「言葉の力」であることは明白で、リハーサルで彼が繰りだす卓抜な比喩の誘導によってオーケストラの音楽がどんどん変わっていくありさまを、私たちはこのドキュメンタリーにおいても再確認することができます。

しかしそれは、いつもうまくいくとは限らない。
ウィーン・フィルとベートーヴェンの交響曲第4番のリハーサルを行っているとき、「この箇所はテレーズ、テレーズと歌ってください」という彼の指示を、第2バイオリンの心ない奏者たちは、「いやマリー、マリーでいいのでは」などとあざ笑い、あえて無視しようとします。

すると激高したクライバーは、懸命に引き留めるコンサートマスターのゲルハルト・ヘッツェル(1992年の夏にザルツブルクで登山中に墜落死した私の大好きなヴァイオリニスト)の手を振り払って、そのまま空港に直行してミュンヘンに帰ってしまいます。(彼は、毎日帰りの飛行機の予約を入れていたそうです。)

といった按配で、これはクライバーのファンならずとも見どころ満載のドキュメンタリーといえましょう。

原題は「I am lost to the world」で、これはマーラーのリュッケルト歌曲集の中の「私はこの世に忘れられ」からの引用と思われますが、音楽にあまりにも高い完成度を求めたために、もはや普通の演奏に甘んじることができず、急速に指揮台から遠ざかっていった晩年の天才指揮者の孤独を象徴するようなタイトルではあります。

*

次はもうひとつの原題は「Traces to Nowhere」、邦題では「目的地なきシュプール」という名のドキュメンタリーで、2010年にクライバー生誕80周年を記念してオーストリアで製作されました。エリック・シュルツという人が演出して、やはり不世出の天才指揮者の軌跡を辿っています。

出演はブリギッテ・ファスベンダー、ミヒャエル・ギーレン、オットー・シェンク、マンフレート・ホーニク、プラシド・ドミンゴ、アレクサンダー・ヴェルナーなどの指揮者や歌手や演出家、評伝作家のほかに、南ドイツ放響のフルートやピッコロ奏者、メイクの女性までがクライバーを懐かしく偲んでいます。

そうして、これまでいっさいマスコミに顔を出さなかった彼の実姉ヴェロニカ・クライバーが特別出演して「死ぬまで彼は寂しい男の子でした」と語るとき、天界と人界をサーカスの綱渡りのように渡りながら去っていった男の後ろ姿に、一筋の微光が差すようでした。

ここでも素晴らしいのは、南ドイツ放響との喜歌劇「こうもり」のリハーサル風景で、楽員に対して音楽のために全身全霊を捧げることを求め、バトンを天に向け、「まだ見ぬ音を勝ち取るために戦ってください」、「8分音符にニコチンを浸してください」などと訴える、若き日のクライバーの姿が胸を打ちます。

やがて守旧派の奏者を心服させたマエストロは、歌いに歌い、いまや音楽と音楽家は完全にひとつに溶けあって、この世ならぬ至上の時、法悦の時へと参入していくのですが、さてこれまでいったい他のどの指揮者が、このような音楽の奇跡を成し遂げたというのでしょうか。

無数のオペラと交響曲、管弦楽曲とオペレッタを自家薬籠中に収めていたにもかかわらず、父を尊敬するあまり、エーリッヒが録音したか、あるいは楽譜を残していた曲以外は演奏しようとしなかった息子クライバー。その父エーリッヒを超える技術と感性を持っていたにもかかわらず、常に父に引け目を感じていたクライバー。

父と並ぶ完璧さを求めようとするあまり、とうとう演奏が無限の苦行と化してしまったこの悲劇の天才は、愛する妻スタンカが眠るスロベニアへと、死への逃避を敢行したのでした。

*

最後は1991年のウイーン・フィル演奏会のライヴ映像です。

これはモーツァルトのハ長調K.425(通称リンツ)とブラームスのニ長調Op.73の2つの交響曲が楽友協会ホールで演奏されたもので、1993年にレーザーディスクで発売されましたが、現在はDⅤDになっています。

リンツの第1楽章ではクライバーの動きが緩慢であまりやる気がなく、見ているほうが心配になりますが、第2、第3楽章になると徐々にエンジンがかかります。

この曲は弦と管が同じ旋律を交互に繰り返す箇所が多いのですが、マエストロはその都度当事者にこのメロディをよく聴くように指示しているのが印象的で、両翼にヴァイオリンを配置した楽器編成が、その楽想と演奏の効果を高め、第三楽章ハ長調四分の三拍子のメヌエットを聴いていると、さながら天国にあるような心地です。

クライバーのモーツァルト録音は、この曲のほかに変ロ長調K.319の録音がありますが、おそらく生前に完璧にレパートリーに入れていたはずの主要交響曲とオペラを聴けなかったことは、残念無念の一語に尽きます。

さてプログラム後半のブラームスになると、我らが主人公の顔つきも一変し、彼の全盛時代を彷彿とさせるそのダイナミックな指揮振りに圧倒されます。

しかし第一楽章アレグロ・ノン・トロッポ、第二楽章アダージョ・ノン・トロッポ、第三楽章アレグレット・グラチオーソまでは、金管楽器の咆哮などはいっさい聴かれず、例えば第三楽章でチェロのピッチカートに乗ってオーボエが独奏する箇所など、さきほどのハ長調K.425(リンツ)と同様の管と弦の協奏、掛け合いがオケの腕の見せ所となりますが、クライバーの指揮は、この両者に対する強弱のコントラストのつけかたがとてもデリケイトなのです。

他の凡庸な指揮者、例えば小澤征爾が同じウィーン・フィルを指揮した同じ2番シンフォニーの同じ箇所では、楽譜の四分の四拍子を四分の二拍子くらいの前のめりで慌ただしく振っているために、ブラームスの音楽の緊密な内部構造、その極度に内省的なハーモニーの美しさなどは、急行列車に黙殺された礫岩のように置いてけぼりにされてしまいます。

「そんなに急いでどこ行くの?」という外面的な勢いだけの内容空疎なブラームスに堕すのですが、緩徐楽章のピアニッシモの超絶的な美しさをここまで深掘りしてみせたマエストロは、クライバー以外にはチェリビダッケあるのみ。フルトベングラーも、クレンペラーも、カラヤンも、バーンスタインも、これほど恐るべきニ長調は演奏できませんでした。

しかしさしものウィーン・フィルも、最終楽章のアレグロ・コン・スピリートに突入すると、すでに疲労困憊の極に達しており、獅子奮迅のクライバーが鬼神も啼けとばかりにコーダの絶叫を命じても、笛吹けど踊らずのポンポコリンの狸たち!

ああついに世界一、二を争うトップオーケストラも、天才指揮者の脳裏で鳴り響いている前人未踏のブラームスの大歓喜を音化できず、無情にも終局を迎えるのでした。

ですからこのブラームスの演奏は、彼らが「実際に音にできた音楽」によってではなく、むしろ「演奏しようとして果たせなかった未聞の音、不可能の音楽の暗示」によって偉大とされるべき演奏と評すべきなのでしょう。

 

地上では行き場失いしクライバー眠れよわれらの記憶の底に 蝶人

 

 

 

家族の肖像~「親子の対話」その7

 

佐々木 眞

 

 

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「お母さん、ぼく、さいたま市好きですお」
「そう、それは良かったね」
「さいたま市は、浦和、大宮、与野市からできたんだよ」
「そうなの?よく知ってるね」

「お父さん、京王線、京浜東北線に似ていたよ」
「へえ、そうだった」
「そうですよ」

「お父さん、「再び」は再放送の再でしょ?」
「そうだよ」

「お父さん、無理しちゃだめでしょ」
「そうだよ」
「お父さん、無理の無って無いの無でしょ?」
「そうだよ」
「僕、無理しなかったよ」
「そうかい」
「無理よ、無理よ、無理よ」

「お父さん、小田急の回数券買った?」
「買ったよ。今日藤沢まで行って11枚買ってきたよ」
「wwwwww」

「お父さん、みなさんの英語は?」
「レディーズ・アンド・ジェントルメンだよ」
「みなさん、みなさん」

「おとうさん大弱りってなに?」
「とても困ってしまうことだよ」
「大弱り、大弱り」

「お母さん、コレステロールてなに?」
「血液の中のあぶらのことよ」
「コレステロール、コレステロール」

「お父さん、ちょっと待ってねの英語は?」
「ウエイト・ア・モーメントだよ」
「ちょっと待ってね」

「ぼく、明日ふきのとう舎から帰ってきますよ! 帰ってきますよ!」
「耕君、ほんとうはファミリーナ宮下行きたくないの?」
「行きたくないお」

「ぼく「トイレの紙そんなに使うな」って言われちゃった」
「そうなんだ」
「「耕さんダメ」っていわれちゃったの」
「それでファミリーナ行かないの?」
「そうだお」

「お母さん、戦争ってなに?」
「国と国とが戦うことよ」
「戦争嫌ですねえ」

「お母さん、崖好きですお」
「ガケ?」
「崖、高いですお」

「お母さん、ぼく常用漢字いっぱい書きますよ」
「いっぱい書いてね」

「お母さん、哀愁って悲しいことでしょう?」
「そうよ」
「あいしゅう、あいしゅう」

「お母さん、侮辱ってなに?」
「馬鹿にすることよ」
「侮辱、嫌ですねえ」

「林さんの心臓止まったの?」
「そうよ」
「心臓止まるの、嫌ですねえ」

「お父さん、ワイドドア凄いよね」
「どこのワイドドア?」
「小田急だよ」

「お母さん、志ってなに?」
「思いよ」
「こころざし、こころざし」

「お父さん、分かりませんの英語は?」
「あいどんとのお」
「分かりません、分かりません」

「お父さん、入るときはお邪魔します、失礼しますでしょ?」
「そうだよ」
「失礼します」

「お母さん、火元責任者ってなに?」
「火の管理をするひとよ」

「お母さん、マナーモードってなに?」
「電車の中でうるさいくしないようにすることよ」
「マナーモード、マナーモード」

「マナーモードってなに?」
「携帯が聞こえないようにするのよ」
「耕君、マナーモードをやめる?」
「いやだお」

「お母さん、心配の配ってくばること?」
「そうかあ、心をくばることが心配するってことなんだ」
「そう、そうですお」

「お母さん、麻薬ってなに?」
「痛い時のお薬よ」
「伊藤蘭が「麻薬なら私のところにあるわ」って言ってたよ」
「へええ、そうなの」

「こうぞうさん、先生だったでしょ?」
「そうよ」
「体調崩したのはこうぞうさんでしょう?」
「そうよ」

「横須賀ってぼうえい大学があるとこでしょう?」
「そうよ」

「お父さん、いとこの英語は?」
「カズンだよ」
「いとこ、いとこ、いとこ」

「お父さん、さらには、ってなに?」
「もっと、だよ」
「さらに、さらに、さらに」

「お父さん、陰は山陰線のかげだよね?」
「そうだよ」

「お父さん、残酷ってひどいことでしょ?」
「そうだよ。良く知ってるね」
「ざんこく、ざんこく、ざんこく」

「お父さん、意地っ張りって、頑固なことでしょう?」
「そうだよ」

「お父さん、約束の英語はなに?」
「プロミスだよ」
「僕、約束守るよ」

「お母さん、デートてなに?」
「待ち合わせて人と会うことよ」
「ぼく、デート好きだよ」

「お父さん、正面てなに?」
「wwww」

「お父さん、要らないの英語は?」
「ノット・ネセサリーかな」
「要らない、要らない」

「お母さん、圧死ってぺっちゃんこになることでしょ?」
「えっ、どうしてそんなこと知ってるの?」
「圧死、圧死、圧死」

「お母さん、早くいらっしゃいって、早く来なさいのこと?」
「そうよ」

「お母さん、つまらないってなに?」
「面白くないことよ。耕君、つまらないの?」
「つまらない、つまらない、つまらない」

「お父さん、支えるって助けること、でしょ?」
「そうだよ。耕君、誰を支えますか?」
「ぼく、お母さん支えますよ」

「お母さん、おっかさん、てなに?」
「おかあさんのことよ」
「おっかさん、おっかさん」

「お母さん、バクダンってなに?」
「バクダンはねえ、バーンていうやつよ」
「バクダン、嫌ですねえ」

 

 

 

水無月の歌

Voice Of Yoshimasu~吉増剛造の語りによる「我が詩的自伝」を読んで

 

佐々木 眞

 

 

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これは詩人吉増剛造が物語る、いわゆるひとつの波乱万丈の人生と、その創造の秘密であるが、近頃これくらい面白い読みものもあまりないだろう。

それは本書の折り返しで、当年とって77歳の文化功労者が、かのアインシュタインの真似をしてアッカンベーをしてみせる写真を見れば、一目瞭然だろう。

あなたが、「素手で焔をつかみとれ!」という気恥ずかしい副題をつけられたこの本を読み始めても、あなたの期待は裏切られないだろう。だろう、だろう。

そこには、この人物が、それぞれのエポックを代表するような、錚々たる人物と次々に遭遇しながら、切磋琢磨し、おのれの人生と芸術を築き上げて、今日の大をなしてゆく事の次第が、初めは処女の如く、終わりは龍虎の如き勢いで、鼻息も荒々しく、縷々陳述されているのである。であるん。

彼の藝術的受容のキーポイントになっているのは、どうやら「声」らしい。

声、Voice、ヴォイス、ヨーゼフ・ヴォイス、Voice Of Yoshimasu

例えば太宰治や柿本人麻呂や芭蕉、アレン・ギンズバーグの詩歌や散文には、エルヴィス・プレスリーやボブ・ディランに通じる生々しい声があって、これが心の奥底にまっすぐに届く、というのは、私のような門外漢でもたやすく追体験できる。

声、Voice、ヴォイス、ヨーゼフ・ヴォイス、Voice Of Yoshimasu

そのドーンとやって来る声=「内臓言語」は、彼が大きな影響を受けたと語っている聖句やエミリー・ディキンソンの詩、キェルケゴールの言葉、そして一休宗純の書にもどこか通じている、父母未生以前の原初的で普遍的な炎、のようなものなのだろう。

そして彼はこの炎を自分のものにするために、心身を常に「非常時」に置き、原初的で普遍的な歌や声や踊りを宣揚するだけでなく、愛妻マリリア選手由来の“即席シャーマン”となって、それらに限りなく憑依するばかりか、夫子自身がそれらの発火源(詩魂の火の玉!)になろうと悪戦苦闘しているようだ。

したがって彼にとっての詩的活動とは、幾たびも、また幾たびも詩魂の火の玉となって、この宇宙の創造主に体当たりせんとする特攻機のZigZag&螺旋運動、詩的テロルそのものであり、人はその軌跡を「作品」と称しているに過ぎない。
この間の事情をば、不肖わたくしめの詩で翻訳するなら、

『見よ東海の空あけて 旭日高く輝けばァ、
今日も我らがGozo選手は単機Zero戦を駆って、紺碧の空の果て、言語も枯れる真空地
帯の極北を目指し、離陸していくゥ。

かつてニーチェが「人間とは乗り越えられるべき何かである」(佐々木中訳)と定義したように。

かつて「ゔぁれりー」が、「風立ちぬいざ生きめやもォ」と歌いながら「えらんゔぃたーる」の彼方へと飛翔したように。

そしてまた、かつてセーレン・オービエ・キェルケゴールが喝破した「反復とは繰り返しではなく、瞬間毎に生き直すことである」を実践するがごとくに』

ということになろうか。だろうか。そうだろうか。

それでは、肝心の吉増剛造の詩の値打はどうなのかと問われたら、私は「あれらは出口なお刀自ではなく、出口王仁三郎が代筆した「大本神諭」のようなもので、その価値を論じてもあまり意味はない」と答えるだろう。だろう。

それよりも「詩人は、すべからく詩作の内部で生きるほかはない。爾余は“半死にの余生”ということになるが、それもさして悪いものではない」というのが、私の吉増剛造観である。であーる。

余談ながら本書を読んでいちばん感嘆したのは、著者が多摩美で「詩論」講座を受け持ったときに、ホテルに泊まり込んで200名のレポートを全部読んで、一人ひとりに全部違う出題をしたというエピソードであった。

こういう離れ業は、学生と教育への愛と興味と誠実さがなければ、やりたくてもなかなか出来ないものである。

声、Voice、ヴォイス、ヨーゼフ・ヴォイス、Voice Of Yoshimasu

 

 

 

Les Petits Riens ~三十六年もひと昔

蝶人五風十雨録第13回「五月三十日」の巻

 

佐々木 眞

 
 

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1981年5月30日 土曜
宮澤清六氏から頂戴した宮澤賢治の「貝の火」を読む。

1982年5月30日 日曜
藤沢にて第9回自閉症連続講演会を開催し盛会なりき。東大の太田昌孝先生を講師に招き、聴衆約200名。併せて神奈川県域総会も開催する。

1983年5月30日 月曜 快晴
サミット閉幕す。Addenda演出を野田氏に決める。次男が仲間と燕の巣を叩き落としたので妻、担任の小林先生謝る。子の弱さが問題なり。

1984年5月30日 水曜 くもり
六本木のスタジオAbiでAddendaテレビCM建設会社編を撮影。深夜、宣伝会議の答案の添削をする。

1985年5月30日 木曜 はれ あつい
池袋サンシャインにて「チェーンストアフェア85」をみる。この頃三半規管がおかしい。地軸がずれる。

1986年5月30日 金曜 雨
新橋TCCで「モロン」をみる。SFカルトお笑い映画なり。ぴあにて「インディアン・キャバレー」をみる。インド女流監督によるドキュメンタリー映画なり。

1987年5月30日 土曜 くもり
会社休んで次男の授業参観。教師は高見順の「われは草なり」を題材に詩学講義を行ったが、こんなの子供には無理だろう。

1988年5月30日 月曜 はれ
エミリオ・エステベスの「WITHDOM」、エリック・ロメール「喜劇と諺シリーズ」の「友達の恋人」。いかにもありそうな話をいかにもありそうに描き出す才人ロメールならではの佳作なり。

1989年5月30日 火曜 にわか雨
3日続けてのにわか雨、そして雷雨。早くも夏か。デパートは消費税のあおりで売上が落ち込む。博報堂はじめて来社。余、身体弱りつつあり。企画の仕事に悩む。

1990年5月30日 水曜
「フンクイの少年」。侯孝賢の初期の自伝的映画なり。夜イケダノブオ氏の御馳走になる。

1991年5月30日 木曜 晴
会社休む。長崎雲仙は溶岩流で人々が逃げ惑っている。「弁明」「クリトーン」などでソクラテス最後の日々を読み感銘を受ける。新会社ディレク発足。

1992年5月30日 土曜 くもり後雨
会社休む。長男は材木座の散髪屋で髪を刈ってもらう。この家にも自閉症の同級生がいる。

1993年5月30日 日曜 ふったりくもったり
朝、長男の定期券を駅まで買いに行く。「杜詩」とシューベルトのCD2枚買う。雨上がりにムクと太刀洗まで散歩。父母が散歩のついでに我が家にやって来る。鎌倉古寺地図を見る。

1994年5月30日 月曜 雨のち晴
久しぶりに会社へ行く。佐野ちゃんは実家に帰ってぐずぐずしていたら、母親に怒られたそうだ。小坂、清水はギャラアップしたが、俺は去年と同じだ。妻は長男の要請で、遥々高野山の麓の本屋まで行く。ただそれだけでまた鎌倉まで遥々戻ってくるのである。

1995年5月30日 火曜 くもり
大阪出張。帰りに奈良に寄って国立博物館の日本仏教美術名宝展を見る。空海、最澄、聖徳太子の真筆、平家写経、吉祥天女像など素晴らしき限りなり。ついでに東大寺大仏、二月堂、三月堂をみて夜10時半帰宅す。

1996年5月30日 木曜 くもり
雨の予報なれど雨降らず。会社休みで静養す。今週長男はゆりの木ホームにステイする。ムクと太刀洗散歩。父具合悪く義姉吐く。義妹宅でもめる。

1997年5月30日 金曜 晴
会社に妻と次男より電話あり。次男のカメラ、マニュアルに出来るか否かの問い合わせなり。

1998年5月30日 土曜 陰 湿度高し
昨夜妹より身の上相談あり。失業率4・1%と過去最高。米国並みなり。パキスタンが再度核実験を行う。

1999年5月30日 日曜 快晴
素晴らしき5月の好天なり。次男がスパゲティを作ってくれる。いつものタラコではなく新作也。妻と長男「ゆうあいピック」より日焼けして帰宅。ムクのダニを50匹ほど取って瓶に入れたり。

2000年5月30日 月曜 晴 暑い!
午前、六本木シノヤマ事務所の傍の渡辺君の会社を訪ねる。webサイトの仕事をしているとか。午後、集英社にメンズノンノの石井さんを訪ねる。ロードショウ誌の田中洋子副編集長を紹介してもらう。

2001年5月30日 水曜 雨ときどきくもり
ムクと散歩。テングチョウ、ジャコウアゲハ、アオスジアゲハを見る。小柳、内田氏より電話。内田氏にレイアウト依頼す。本日より文芸社にとりかかる。講談社オブラからファックス届く。

2002年5月30日 木曜 はれ
鎌倉早見学園で講義。女の子休みで学生1人のみ。妻と海岸近くのレストランでフランス料理を食べる。もう海で泳いでいる人がいた。歯痛と戦いながら、文芸社リライト終了す。

2003年5月30日 金曜 はれ
文化講義第8回目。商業施設について喋ったが、途中で時間になった。新橋アシェット婦人画報社に鴨沢さんを訪ねる。元気そうなり。「夕映えの道」をみる。

2004年5月30日 日曜 はれ あつし
文芸社やる。原田さんに原稿のデジタル化を依頼す。妻、長男と熊野神社まで歩いたが、蒸し暑くさながら夏日のごとし。

2005年5月30日 月曜 雨
文化講義。EUは25カ国なのに23しかないと指摘され、赤面す。ルーマニアとブルガリアが抜けていた。双子山親方(元貴乃花)ガンで死ぬ。55歳なりき。

2006年5月30日 火曜 腫れたり曇ったり
工芸大、藤沢に住む映像科の女の子が駆けこんできたが、橋本氏にバトンタッチして帰る。日本、ドイツとの練習試合で引き分ける。今村昌平死す、79歳。

2007年5月30日 水曜 雨
南長崎のカウンタックに青池夫妻、母、妻と次男のグループ展を見にゆく。2点の写真が1枚8.5万。買ってやってもよいのだが、買わずに帰る。

2008年5月30日 金曜 くもり
工芸大、若干名。疲れた。7月29日から休みが取れないと知り、妻怒る。

2009年5月30日 土曜 くもり時々雨
妻と一緒にNHKの共同アンテナのちらしを配って歩く。積立金から3万円払い戻すという。

2010年5月30日 日曜 くもり
沖縄普天間基地問題で署名を拒否した福島大臣を罷免した民主党連立政権から、社民党が離脱。文芸社アップ。

2011年5月30日 月曜 雨のちくもり
文化講義2連発。

2012年5月30日 水曜 雨ときどきくもり
午前中に湿生花園を訪ね、4時に箱根から帰宅す。

2013年5月30日 木曜 くもり時々小雨
妻と大和へ行き、ニトリでベッド、無印で机と椅子を買い、6月9日に入所施設に納品してもらうことにした。

2014年5月30日 金曜 はれ
文芸社アップ。すぐに次の依頼ありしが、労賃あまりにも安すぎるので断る。

2015年5月30日 土曜 快晴
太刀洗で例年のごとく大量のルリシジミ発生。白いサラシナショウマの花もあちこちで咲いている。

2016年5月30日 月曜
今宵も森戸橋でヘイケボタル乱舞す。
月初シューマンの歌曲を思いながら「美しい5月」という詩を書いたのだが、安倍蚤糞の御蔭で「醜い5月」となり果てた。
この男はみずからが能天気に実行した経済政策が破綻し、なんの成果も上がらないので、それをなんとか責任転嫁しようとして、なんとサミットで「世界経済はリーマンショック前と同じくらい危機にある」などと異常な脳内妄想を公言して他国の首脳から気狂い扱いされたのみならず、3本の矢がみな折れて消費税アップの公約すら果たせないという醜態を演じている。
あまつさえ「謝罪なんかしなくてもいいからともかく来て下さい」と拝み倒してオバマ大統領の広島訪問を実現したことを、まるで鬼の首でも取ったように大騒ぎして、沖縄の邦人女性殺害の責任追及や日米行政協定の見直しなど、すっかり忘れ果てているようだ。
彼奴は「二匹目のどぜう」よろしく7月に選挙に打って出るようだが、こんな子供だましの手品に騙されるほど愚かな民草ではないことを思い知らされるに違いない。

 

陰謀は悉く破れ皐月尽 蝶人