7月の歌

 

佐々木 眞

 

 

「なでしこジャパン」は、残念だった。
ウィンブルドンの錦織も、残念だった。
青木も、イチローも、松坂も、残念だった。
残念、残念、残念だった。

新幹線自殺は、残念だった。
岩手の中学生自殺は、残念だった。
「少年A」は残念だった。
残念、残念、残念だった。

新国立競技場は、残念だった。
安藤忠男は、残念だった。
石原慎太郎の時から、残念だった。
残念、残念、残念だった。

「マグリット展」は残念だった。
「田能村竹田展」は残念だった。
「ファミリーナ宮下」面談も、残念だった。
残念、残念、残念だった。

台湾栗鼠は、残念だった。
白鼻芯は、残念だった。
画眉鳥も、残念だった。
残念、残念、残念だった。

戦艦大和は、残念だった。
戦艦武蔵も、残念だった。
タイタニックも、残念だった。
残念、残念、残念だった。

浅沼稲次郎は、残念だった。
ジョン・F・ケネディは、残念だった。
マルチン・ルーサー・キングも、残念だった。
残念、残念、残念だった。

安保闘争は、残念だった。
早大学費学館闘争は、残念だった。
連合赤軍派リンチ事件は、残念だった。
残念、残念、残念だった。

民主党は、残念だった。
鳩山首相は、残念だった。
菅、野田、小沢も、残念だった。
残念、残念、残念だった。

自民大勝は、残念だった。
公明党も、残念だった。
維新も、橋下も、残念だった。
残念、残念、残念だった。

思えば岸信介が、残念だった。
佐藤栄作も、残念だった。
とりわけ安倍晋三は、残念だった。
残念、残念、残念だった。

特定秘密保護法は、残念だった。
集団自衛権閣議決定は、残念だった。
安保法案上程は、残念だった。
残念、残念、残念だった。

戦後日本は、残念だった。
平和憲法は、残念だった。
俺たち自身が、残念だった。
残念、残念、残念だった。

ギリシアも、EUも、残念だった。
米・中・韓・露も、残念だった。
世界中、なにもかにもが、残念だった。
残念、残念、残念だった。

 

 

 

@150708音の羽  詩の余白に 6 

 

萩原健次郎

 

 

赤山 池

 

なにかの果実が熟れていく。熟れていくとそれが腐っていく過程や枯れていく過程と同じになる。芽吹く、枝葉が伸びる、花が咲く。これも滅の道筋のひとつとなる。そんなことを思ってもしょうがない。
池の鯉に餌を与える。獣たちの侵入を防ぐために針金を池面に張り巡らす。ああこういうささいな仕事も、滅のための行いなのだと、バケツを持って細道を戻りながら、ぶつぶつと呟いて帰ってきた。

あっ、それは、モミの実ですよ。
―なんだかかわいいですね。鈴をいっぱいつけてるみたいで。

参道を行くお参りの客が、庭師の私に語りかけてくる。
あれは、どう考えても、かわいいなんてものじゃない。ぽとぽとと地上に見境なしに降るように落ちてくるのを、せっせと掃除をしてまわっているのは、わたしなのですから。

やっかいなんですよ。カラスがいたずらで落とすんです。
―遊びごころみたいなものですか。
よくわからないけど、カラスにとっては愉快なんでしょかねえ。

部屋に戻って、寝床に入っていると、この部屋中に充満している、果実酒や薬草酒の熟れた匂いに、寝床ごと浸される。この匂いには慣れているのに、なぜか寝入る直前の瞬間に、匂いの混濁が解けて、植物それぞれの発する固有のなにかが鮮明に見えてくる。
清い蒸留酒に溶かされた、生の、滅の澱み。
「そういう、直情の」と、
わけのわからない独り言をつぶやいて枕元の、モミの実をまさぐった。ぽろぽろと、鈴みたいな実が畳のあちこちに散らばっていく。
「なるほど、カラスの愉快は、こんな情景までも想像していたか」と思いながら、なぜだか心得た。
蒲団も、カラスの笑い声も、池の鯉も、それを狙う獣たちも、
寺域の草木も、それらがみな眠りながら、静かに静かに熟れていく。

果実酒は、あと数日で美味くなる。

 

 

 

 

みわ はるか

 

 

青銅色の風鈴がベランダの物干しざおに吊らされていい音色を届けてくれる。
少し重い響きがいい。
ゆらゆらとゆれるかんじがいい。
風がない中じっと暑さに耐えるかのような姿もまたいい。

からんころん、からんころん、からんころ~ん。
いくつもの下駄が楽しそうにアスファルトの道を行き交う。
浴衣姿の女性はやはり美しい。
まっすぐな道に隙間がないくらいにたたずむ屋台。
中身よりも包んでいる袋のキャラクターにつられて買ってしまう綿あめ、食卓によくあるのにチョコレートでコーティングしただけで魅力を感じてしまうチョコバナナ、金魚 すくい、水風船、その日の夜だけ光るアクセサリー・・・・・・・。
フィナーレの打ち上げ花火。
水面に映る反射した花火はよりいい。
見ているだけでもうきうきするそんな夏祭り。

すっと伸びた茎のてっぺんに大きな花弁を何枚もつけて元気よく咲くひまわり。
太陽の光を存分に浴びてのびのびと育った最終産物。
本当に濃い黄色はこのことなんだろうなと思う。
みつばちがとまる。
みつばちが立ち去る。
また他のみつばちが遊びに来る。
みんなから愛されるそんな花。

これでもかというくらいの金切り声で鳴き続ける。
その命は1週間しかないという。
土の中には何年もいるという のに。
なんだか切ない。
生きるということを身をもって教えてくれているような気がする。
蝉。

じりじりと照りつける太陽。
それを遮る麦わら帽子。
ぽたぽたと落ちる汗。
それをふきとる手。
薄着になる季節。
小麦色の肌。

そんな夏はもう目の前だ。

 

 

 

supper 夕食

 

神田で

刺身の
盛り合わせを

頼んだのだったか

それから
ホッケの塩焼きを頼んだのだったか

しょっぱかった
ホッケは

しょっぱかったな

それで曽根さんとのんだ
朝までのんだ

帰りは
銀座線で帰ったのだった

明治神宮前を通ったが
銀座線にはない

 

 

 

such そのような

 

今朝も
広瀬 勉さんの

ブロック塀の写真を見た

ブロックは
守るために積まれたろう

ブロック塀をヒトは

積んだろう

ことばも
積まれることがある

守るために

佇むヒトは
ことばを積まないだろう

佇むヒトは持たないだろう
無いことばを積む

 

 

 

光、長崎の

 

薦田 愛

 

 

ごめんねぇ本当は五島列島に行きたいのに
島といっても港からフェリーで二十分そこそこ
伊王島の高台から海に向かう馬込教会は
六月の日差しに眩しい白

久しぶりに
苦手な飛行機に乗る決心をしたのだもの
早起きして高速船で一時間半
渡ってみてもよかったよね
福江島の堂崎教会堂だとか
言葉にすれば決まって
母は打ち消す
そんなことないよ、初めて来たんだもの
そんなに遠くまで行かなくたって
見たいところ、見るところはたくさん

昨日は傘を広げたり畳んだり
初めての長崎
電気軌道を降り坂がちの町へ
まずどこへ? と問えばためらいもなく
大浦天主堂と母
だから だから
いっきに階段を駆けのぼりたいのに
つめかけた人の分厚い列
国宝なんだね
くぐもる声
いつか誰かの灰まじりの涙に濡れたまま
乾きききらない外壁の翳り
新調したゴアテックスの短靴で踏むことを強いられる
信仰はもたないけれど
高みから滴る彩りのちからに抗えない
平たく言えば
ステンドグラスに惹かれ
いのりと呼ぶには足りない思いをかかえて
えいっと踏み出し飛行機に乗り込んだ
母は
すっとデジカメをおろす
堂内へ
梅雨空の光染め分ける
とどかない窓へ
やっと

木の床から屋根裏へ
目を走らせるより早く
立つ身体を濡らす濁りのない色いろ
青赤そして緑と黄いろ
許し慰めすべてを受け容れる場所
いえ
そんなしつらえも持たず
禁じられた二百五十年をくぐりぬけた信者
明治初め
打ち明けられた側はそれを「発見」と呼び
信者がいることを「奇跡」と言ったのね
「発見」なんて受け身ではなくて
みずから「ここにいます」と
囁きとはいえ
声を挙げたというのに

そう
声が
母をここに連れてきた
カウンターテナー上杉清仁さん
その人となりと艶やかな声を知って
教会でうたわれる旧い歌の
豊かな声のちからにふれて
ふるえる母の心を染めた
ステンドグラス
木造のこんな天主堂で
歌が聴けたらね
上杉さんの
どんなふうにゆきわたるのだろう
ドイツやスイスや
あちこちの教会でも歌ってきたひとだもの

「ここにいます」
囁く信者に
驚いた司祭の住まいや羅典神学校が
緑にふちどられ傍らにある
天主堂のうちがわは胸におさめるしかないけれど
開け放された窓の外にも
ステンドグラスの色はこぼれているから
にじむ雨のあと鎧戸の窓の開け放されたありさまを写す
堂をこぼれる冷気と色とりどりが写る

坂から坂へ
グラバー園の紫陽花は雨気を含んでいたけれど
邸宅をめぐるうち
港を見おろす庭はすっかり乾いていて
喉が渇いた
お腹もすいたよと
昼どきを逃してお茶とカステラ
眼鏡橋も出島も気になるけれど
洋館好きの母と私としては
写していい窓も階段も
通りすぎるのが惜しくて
部屋から部屋へ幾度も
行きつ戻りつ

爆心地も平和公園にも行かなかった
代わりに伊王島
軍艦島の手前なんだね
ここも一時は炭鉱だったんだ

信者「発見」の明治ではなく
昭和初めに建てられたという馬込教会は
バス停の真上
上ってものぼってもまた階段で
母の足もとが気になる
大丈夫? ときいて
大丈夫ではなくても上ってしまう
母だから
きかない
少し離れて上る
陰のない海べりの高台すっくと白く
日曜のまひる
礼拝のあとだろうか
歌も祈りの声もない
ただ窓から
青や黄いろの光が降って

ふりかえってまた
デジカメを向け携帯を向ける
階段まで白い
汗をぬぐう
納屋だろうか
通りかかったその時
神父さん、と
神父さん
信者のひとのとりわけ多いという島で
教会の下の道
しんぷさん
女のひとの声に
応える気配
なんねとでもいうような
畑へゆくところでもあるような
日に焼けたひとの姿
波は目の下に寄せ
バスの時間はまだ先
潮のにおいまで照らすような
まぶしい
ああ
私たちはここまで光を観にきたのだ

 

 

 

留学生

 

爽生ハム

 

 

ふざけたしりあいの子孫が
たわいない言われよう
子や孫じゃだめみたい
形の崩れたグミみたい

ハズレのない豊かさの
はしくれで
はかない教育からにげて
命じる壊乱
そして
埠頭を墨でなぞる

いわくつきの絵のとおり

鮫に喰われ
発光もなく
はじめたのは子作り
当分めかしこむこともない
二年後には
ふざけた子孫はいないだろうと
楽しみに蓋をする

痺れるふかいかんが
潮のようだから
蓋がすべって手が泣ける

埠頭の先が固まる

起伏に子孫がひっかかる
輪郭に住まう
そこは安堵のおまけのような峠

潮くさい髪と胴体に
紙エプロンをまく
潮と墨が
六本木っぽく光る
胴体が整形されて
稀に紙エプロンに肉汁がとぶ
この染みが人に見つかると

たわいない言われよう
信じるものを見つけろとの命令
信じるものは特に必要ない
それくらい豊かだよと
はねかえす

 

 

 

光の疵 その目を閉じてふたたび開くこと

 

芦田みゆき

 

 

2008年新宿。
あたしはカメラをもって地下道に座り込んでいる。

 

Exif_JPEG_PICTURE

 

あたしはもう何年も身近な人以外にあっていなかった。
カメラを持てば、
カメラを持ってシャッターを切ることでだったら、
外側に触れることができるかもしれない。

 

Exif_JPEG_PICTURE

 

Exif_JPEG_PICTURE

 

この年、あたしは小さなカメラを買った。

 

Exif_JPEG_PICTURE

 

地下道の隅に座りこみ、
カメラのモニターをのぞき込む。
たくさんの足が通り過ぎていく。
そうやってあたしは、
歩行を取り戻した。

 

Exif_JPEG_PICTURE

 

瞬きをするように、
シャッターを切る。

 

Exif_JPEG_PICTURE

 

新宿の皮フは破れそうに震えていた。

 

Exif_JPEG_PICTURE

 

Exif_JPEG_PICTURE

 

Exif_JPEG_PICTURE

 

 

 

 

 

みわ はるか

 
 

青銅色の風鈴がベランダの物干しざおに吊らされていい音色を届けてくれる。
少し重い響きがいい。
ゆらゆらとゆれるかんじがいい。
風がない中じっと暑さに耐えるかのような姿もまたいい。

からんころん、からんころん、からんころ~ん。
いくつもの下駄が楽しそうにアスファルトの道を行き交う。
浴衣姿の女性はやはり美しい。
まっすぐな道に隙間がないくらいにたたずむ屋台。
中身よりも包んでいる袋のキャラクターにつられて買ってしまう綿あめ、食卓によくあるのにチョコレートでコーティングしただけで魅力を感じてしまうチョコバナナ、金魚すくい、水風船、その日の夜だけ光るアクセサリー・・・・・・・。
フィナーレの打ち上げ花火。
水面に映る反射した花火はよりいい。
見ているだけでもうきうきするそんな夏祭り。

すっと伸びた茎のてっぺんに大きな花弁を何枚もつけて元気よく咲くひまわり。
太陽の光を存分に浴びてのびのびと育った最終産物。
本当に濃い黄色はこのことなんだろうなと思う。
みつばちがとまる。
みつばちが立ち去る。
また他のみつばちが遊びに来る。
みんなから愛されるそんな花。

これでもかというくらいの金切り声で鳴き続ける。
その命は1週間しかないという。
土の中には何年もいるというのに。
なんだか切ない。
生きるということを身をもって教えてくれているような気がする。
蝉。

じりじりと照りつける太陽。
それを遮る麦わら帽子。
ぽたぽたと落ちる汗。
それをふきとる手。
薄着になる季節。
小麦色の肌。

そんな夏はもう目の前だ

 

 

 

国立新美術館で「マグリット展」をみて

 

佐々木 眞

 

 

 

君も知るように、「巨人の時代」には「飢餓」と「呪い」と「禁じられた書物」が欠かせない。

これこそが「永遠の明証」と「終りなき認識」の「生命線」なのだから。

「哲学者のランプ」が「自由の入り口で」照らすのは「弁証法礼賛」の「前兆」だ。

「空気の平原」で「絶対の探求」を目指す「人間嫌いたち」は、「禁じられた世界」へと「炎の帰還」を果たすだろう。

ごらん、「精神の自由」と「真理の探究」を求める「狂気について夢想する男」によって、自称「スノッブたちの行進」が「再開」された。

さあ我われもすみやかに旅立って、「精神界」の「赤いモデル」を目指そうではないか。

「ガラスの鍵」を使って密かに「王様の美術館」に忍び込み、「幕の宮殿」に飾られている「イレーヌ・アモワールの肖像」から「礼節の教え」を盗み取ろうではないか。

 

 

おや、そうこうする間に、いつのまにか「火の時代」が始まったようだ。

「恋人たちの散歩道」を待ち伏せしている「不穏な天気」と「風の装い」をよくごらん。

「誓言」をもって「白紙委任状」を「テーブルにつく男」に渡した「大家族」は、もはや「上流社会」の「同族意識」など抛り投げてしまい、「神々の怒り」と「自然の脅威」の前に恐れおののいているようだ。

今では「世紀の伝説」と化した「エルノシア」では、ハムレットの代わりに「不思議の国のアリス」が「観光案内人」となって、「心のまなざし」と「美しい言葉」で「心臓への一撃」をお見舞いしている。

「アルン・ハイムの地所」を流離う「巡礼者」たちは、「手の力」で「稲妻」を呼び集め、「ある聖人の回想」が物語られる瞬間を心待ちにしているようだ。

しかし、「彼は語らない」。

「水浴の女」たちが、いつのまにか「困難な航海」に出かけたからだ。

 

 

さあ友よ、今日は「ゴルコンダ」の「大潮」の日だ。

みなが待ち望んだ「ヘーゲルの休日」だ。

「空の島」にはいかなる「概念」もその「影」すらなく、「傑作あるいは地平線の神秘」という「イメージの忠実さ」、あるいは「イメージへの裏切り」という名の「即自的イメージ」だけが、「ハゲタカの公園」で鳩のように大空にはばたいている。

「一夜の博物館」には、「心臓の代わりに薔薇を持つ女」という名の「女盗賊」が、「博学な樹」に攀じ登って、「完全なる調和」を夢見ている。

さあ「町の鍵」を深く差し入れて、今こそ「美しい虜」を思うさま「凌辱」しようではないか!

「光の帝国Ⅱ」に滞在中の「シェヘラザード」と懇ろになって、「微笑」と「媚薬」で彩られた、終りなき「会話術」と「ことばの用法」を教わろう!

「青春の泉」から「絶対の声」をくみ上げ、果てしなき「愛のワルツ」を踊ろう!

けれども「観念」せよ、汝ら老い先短い者たちよ。

お前たちは、「ヨーゼフ・ファン・デル・エルスト男爵と娘の肖像」からは「応用弁証法」を、

「宝石」と「夜会服」を身に纏った「無知な妖精」からは、「レディ・メイドの真実」の「喜劇の精神」を学ばなければならない。

昼なお暗い「オルメイヤーの阿房宮」の「座敷席」で、一輪の「深淵の花」を見るまでに。

 

 

注 この詩は、2015年3月25日から6月29日まで東京国立新美術館で開催されたルネ・マグリットの展覧会に出品されたほぼすべての作品の題名を用いてつくられた。括弧の中の言葉がそれである。