ムラビンスキーのチャイコフスキー交響曲第5番

音楽の慰め 第12回

 
 

佐々木 眞

 
 

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昔むかし、今から半世紀近く前のこと、東京は原宿の千駄ヶ谷小学校の近所にあった会社で、私はリーマン生活を送っていました。
会社の小路を隔てた向かいには「ヴィラ・ビアンカ」という名の7階建てのモダンなマンションがありました。

ここは日本で最初のデザイナーズ・マンションといわれ、かつては今は亡きイラストレーターの安西水丸選手が住んでいたそうです。地下1階には中華料理屋があって、しばらくすると、そこが桑原茂一選手が経営する、かの有名なライヴハウス「ピテカトロプス」に代わるのですが、今日はその話ではなく、1階にあった中古オーディオ屋さんのお噺です。

確か「オーディオ・ユニオン」という名前のそのお店には、かなり高額の中古品のアンプやプレーヤーやスピーカーが並んでいて、当時オーデイオに夢中になっていた私は、会社の昼休みや放課後にちょくちょく顔を出し、すぐに仲良くなったお店の主任のシミズ選手に頼んで、毎日のように試聴させてもらっていたのでした。

私は、つとに名高い米国の名スピーカー「JBLの4343」、そして流行作家の五味康祐選手が絶讃していた英国製の最高級スピーカー、「タンノイ・オートグラフ」の妙なる美音に耳を傾け、「ああ安月給の自分が、こんな高嶺の花を手に入れる日が、いつか来るだろうか、いや絶対に訪れないだろう」と思いつつも、連日の「オーディオ・ユニオン」詣を欠かしませんでした。

ある日の夕方のこと、私は大学時代の同級生の門君と、このお店で待ち合わせをしました。門君は、某大学のオケのハイドンの交響曲の演奏会で、「チェロを弾きながらうたた寝していた」という伝説のある人で、私はそんな偉大な豪傑から、クラシック音楽の手引を受けたのでした。

さてくだんの門君がやって来たので、一緒に店内を物色しながら歩いていると、シミズ選手が「ササキさん、いい出物がありますよ。騙されたと思って、ちょっと聞いてみませんか」と言葉巧みに誘います。
「これから新宿の厚生年金会館でゲンナジ・ロジェストベンスキー指揮のモスクワ放送交響楽団のコンサートがあるから、ちょっとだけだよ」というと、すぐさまシミズ選手が、物置から割合小ぶりの英国製スピーカーを取り出してきました。もちろん中古品です。

「ご存じかもしれませんが、これが「KEF104ab」というイギリスのBBC放送局お墨付きのモニタースピーカーです。曲は何にしますか。なんでもいいですか。お急ぎでしょうから第4楽章だけおかけしましょうね」
といって、テクニクス製のプレーヤーに乗せたレコードが、ムラビンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団が演奏するチャイコフスキーの交響曲第5番でした。

これは1960年にウイーンに楽旅に出た彼らが、1960年 9月14, 15日にウィーンのムジークフェラインで収録したものですが、さすが毎年ニューイヤーコンサートが行われている名ホールでの録音だけあって、時代を感じさせない鮮明さで定評があったのです。

そして肝心の演奏はといえば、この曲を偏愛して何度も何度も録音を重ねた全盛時代のムラビンスキーとレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団が、燃えに燃えた、空前絶後の怒涛の名演奏を繰り広げている名盤中の名盤なのです。

そんなことは、門君も私もよーく分かっているのですが、驚くべきはその貴重な音源をものの見事に劇的に音化している、この、見た目は貧相な2本のスピーカーです。
低音もブンブン唸っているが、殊に中高音の鳴りっぷりが素晴らしい。ムラビンスキーと当時のソ連ナンバーワンのレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団と名機「KEF104ab」が、完全に三位一体となって、歌いに歌いまくっている。

有名な「運命の動機」が高らかに奏され、ホルンとトランペットが豪快に応答しながら終曲に殺到するコーダでは、文字通り、血沸き肉が踊る思いで、演奏が終ると、私と門君は、思わず「ブラボー!」を何度も叫んで「KEF104ab」選手に向かって盛大な拍手を贈っていました。

それまでのどんな生演奏でも味わったことのない感動、そしてこの直後、新宿厚生年金会館でゲンナジ・ロジェストベンスキー指揮のモスクワ放送交響楽団が聞かせてくれた、チャイコフスキーの交響曲第4番のこけおどしの阿呆莫迦演奏を遥かに凌ぐ真率な感動を、この英国製の「地味にスゴイ!」中古スピーカーは、生まれて初めて私に体験させてくれたのでした。

 

 

空白空白空白空白空白空白空白空白空空白空白空白空白空白空白空白空白空大興奮のまま、来月に続く

 

 

 

夢は第2の人生である 第46回

西暦2016年長月蝶人酔生夢死幾百夜

 
 

佐々木 眞

 
 

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私は司会者から「たかがゴミだが最後にひと泡ふかせるゴミ」という注釈つきで紹介された。見ると壇上にゴミのぬいぐるみが置いてあったので、それを頭からかぶって「主とは一人称単数なり」という短詩を朗読した。9/1

自分で言うのもなんだが、その頃の私は写真家としての絶頂期で、どんな被写体であろうが、レンズを向けるやいなや、前人未到空前絶後の物凄い映像が撮れるのであった。9/2

友人の軽井沢の別荘でくつろいでいたら、突然安倍蚤糞のお気に入りで、AKBを売り出して大儲けしている作詞家がやって来て、挨拶もせずにニタニタ笑うので、けたくそ悪くなって引き揚げた。9/4

宮廷から招かれた昼食会は、なぜだか当世風のバイキング方式だったが、盛装した老人たちは、遥か遠方に三々五々配置された食卓の上の食べ物を、皿に取ることができず、大層困惑していた。9/5

丑三つ時に、猛烈に左の奥歯が痛くなった。これはもう我慢が出来ない。朝になったら岸本歯科に電話して、すぐに治療してもらおうと思ったのだが、朝になると軽快しているので、あの夢は本当だったのか、それとも嘘だったのか、奥歯を触りながら考えているところ。9/6

今から何十年も前、この山奥の駅で、大勢のサーカス団の人々が死んだという。9/7

「その美形を抱きに来たんだろう。早く見番に行って指名しろよ」と廻りの連中はしきりにそそのかすのだが、私は、なぜかその女が怖いので、ためらっている。9/8

社長が「今季のテーマはビッグシルエットだ」と命じているのに、最末端の新入りの彼女だけは、ミニばかりデザインしていたので、とうとう馘首されてしまった。9/11

いくら呼んでも、恋の呼び出しに応えられなかった。9/12

この節は、できるだけ寡黙に徹して、馬脚を現さないように努めるのに精いっぱいだった。9/12

中韓両国との外交折衝を担当する私は、虫歯と難交渉で疲労困憊したので、急遽帰国して横須賀の岸本歯科に立ち寄り、その後小田原の元老に経過を報告しにいった。9/13

昼食の時間になったので一膳飯屋に入ると、1階は超満員なので、2階へ行こうと階段を登ろうとしたが、そこもおしくら饅頭の状態である。ここで妻と待ち合わせをしている私は、はたと困った。9/14

帰宅する途中で、パーティがあることに気付いた。出版社が年2回開催していて、豪華な食いものやお土産がついてくるので、会場のホテルに行こうと思ったが、その近くのコンサートホールで、死んだはずのパバロッティが1曲歌うというので、私の心は揺れた。9/15

「伊勢丹は80年代に戻っています」という広告コピーが出来たので、早速真木準に見せようと思ったが、彼はもう泉下の人となっているので、私は誰に相談していいのか分からなかった。9/16

私は、長州藩の侍だった。いま池田屋に戻れば、新撰組に殺されてしまう。行かなければ、命は助かる。はてさてどうしたものか、といつまでも東大路の道端に佇んでいた。9/16

細長いビルで開催された日本美術展の作品を、階上から順番に見物し終えると、もうどこへも行きたくなかったので、私は1階の展示スペースの真ん中で昼食をとった。9/17

散歩に行くと、日本人と日本人、日本人と外国人、外国人と外国人というさまざまな組み合わせではあったが、みなあられもないすがたで、道端で無我夢中で番っていた。9/18

私が景品として貰った2千万円を贈ると、彼女は「有難うございます。これでようやっとお家を作ることができます」というて、深々とお辞儀をした。9/19

仲間と観光地を歩いているうちに、私だけが遅れてしまったので、追い付こうと懸命に歩いているうちに、道がまくれ上がるようにしてどんどん立ち上がり、急勾配の坂道から壁になってしまったので、私は途方に暮れた。9/19

なんとかいう有名なグルメの達人の甘味チエックが、ぺろりと入った。私はいよいよ食べられてしまうのか。9/20

私は、ブレーメンで何も買わなかったことを悔やんだ。夜な夜な悔んだが、どうしようもなかった。9/20

そのレストランの3階から、勢いよく2階のベランダに滑り降りたのだが、私はまるで仰向けになった海亀のようにもがいていたら、電通の古川選手たちが嘲笑った。9/21

樋口さんちの隣の小路を降りてゆくと、深い谷間になって、そこを森林鉄道が走っていた。あれは確か九州へ行くはずだと思って、さらに谷間をどんどん下って行くのだが、いつまで経っても辿りつかない。9/21

中央公論社の営業の田中君は、私を無理矢理バスに乗せたのだが、生憎超満員だったので身動きできない。こんな状態で到底3時間も我慢できないのでバスから降りると、田中君は「困ります。社長に怒られるのでなんとか乗って下さい」と訴えるのだった。9/22

河の中にWが手招きしているので、見ると、AとBと女がいた。「どうした、早く上がってこいよ」というと、Wは首を振る。私は、Wは女の前ではいつもとがらせているので、そこから身動きできなのだろう、と想像した。9/24

そこで私は、もうWにそれ以上呼びかけるのをやめてしまったが、急激に体力を失ってしまったWは、下流の方へどんどん流されていった。9/24

東京支店では、型どおりのしんねりむっつり型の展示だったが、大阪支店では、私は空飛ぶマネキンに変身させられ、部屋から部屋へとムササビのように飛びまわり、最後は韃靼人のように踊らされた。9/25

ショーのおまけつきの展示会が終って、帰ろうとしたら、高木さんが、手招きするのでついていくと、中島君の部屋が大改造され、2人のモデルが遊んでいた。これでは東京に帰れそうもない。9/25

息子と歯医者へ行ったが、2人とも予約がないので断られてしまったので、泣く泣くお手手をつないで引き返したのだが、いつの間にか息子は行方不明になってしまった。9/26

一度もゴミ出しをしなかった隣の人が、久しぶりに運び出したのだが、その分量たるやあまりにも物凄くて、ゴミ置き場はたちまち見えなくなってしまった。9/28

ホテルで美人コンテストが開催され、A嬢がグランプリに選ばれた。私は個人的にB嬢がすさわしいのではないかと思っていたので、異議を唱えようとしたが、時既に遅く、夕方皆でてんぷらを食べて別れた。9/29

不気味な死神に追われて、女が私に助けを求めてきたので、匿ってやったが、死神が「早く始末してしまえ」となおも迫ってくるので、私も困り果てたが、家に帰ってみると、女は巨大なイカやタコを全身に巻き付けて、息を引き取っていた。9/30

 

 

 

夢は第2の人生である 第45回

西暦2016年葉月蝶人酔生夢死幾百夜

 

佐々木 眞

 
 

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政権党の横暴を向こうに回して、かよわい女一匹がプッチーニのオペラ「西部の娘」のミニーのように立向かう、という構図に興奮した多くの選挙民たちは、誰かが「こいつはゴリゴリの右翼でファシストだよ」と囁いても、誰一人聞き入れようとはしなかった。8/1

ナス1キロを販売するには1週間分のナス料理のレシピを無償で提供しなければ駄目なんだということを、私はコストコで学んだ。8/1

僕はじつに巧みに全身鉄で出来た敵兵を撃ち殺していたのだが、その決定的瞬間をテレビが中継してくれないので頭に来ていた。8/2

この駅はいつも電車が混雑する上に、乗客が振り回されてよく死人が出るので、十分に注意しなければならない。8/3

わしはバンダル王を2度まで破り、国境線の向こう側に放逐したのだが、彼奴はそのたびに王座に戻ってまたしてもわしの王国に挑んできたので、3度目には首を斬ろうと決意していたにもかかわらずそれをしなかったので、それがわしの命取りになったのじゃ。8/5

短いホットパンツをはいた女がしゃがんでいるので妙に気になった私は、思わず腰を浮かして立ちあがったが、それ以上何もしなかった。後で彼女はこの港町一番の美女だと聞いた私は、もっと積極的にアプローチすればよかったと後悔した。8/6

どんな詩でも、無料でそれなりの詩集にしてくれるというサービスをある出版社が始めたところ、注文が殺到したのはいいけれど、残念なことに、すぐに倒産してしまった。8/7

ばせをの如き俳諧師が我が辞世の句をたちどころに消してみせるというので、「やってみろ」というたら、「枯れ枝にカラスのとまりけり」という句のカラスに水をかけて消してしまった。8/7

去年このホテルで知り合った長尾さんと佐藤さんが、今年も同じ女性を同伴していることに気付いた。長尾さんは女優の卵、佐藤さんは和服が似合う粋筋の美女だったが、2人は私の傍に居る北欧の長身のモデルに気づいて驚愕したようだった。8/8

懇意にしているフランス料理屋の主人が、どうも客の入りがおもわしくない、という。料理などの改善点について尋ねられたが、このせつはフレンチよりイタリアンだから仕方ない、とは言いかねた。8/10

真夜中に蚊に刺されて目を覚ますと、突然アメリカ人の若い女性兵士が寝室に入って来て蚊を叩き殺し、刺された私の手足にキンカンを塗ってから、ウインクして窓の外へと去っていった。8/11

カタログ撮影で南のA島に行くことになり、慌ただしく準備していたら、ナベショーがしゃしゃり出てきて、「B島のほうがいい」というので、かつて両方の島に遠征したことのある私が、その理由を滔々と述べたら、尻尾を巻いて消えてしまった。8/12

環境問題活動家のAさんが、乱暴者に襲われたというので、僕等は急いで病院に駆けつけた。その場に居合わせた電通の岩橋さんの話では、Aさんは釘を打った棒で全身を乱打された、という。8/13

結婚式に招待されたのだが、こびとにはこびと用の椅子と料理が供されたので、さすが塚田家と舌を巻かされた。8/14

私が預かっている女性のうちの、3名までは、すでに傷ついていた。8/15

四条梅小路から自転車で夜道を走っていると、大学の建物が見えた。この学校の一般教養学科の単位がまだいくつか残っているので、まだ卒業できない。早く下宿へ帰って勉強しよう。8/15

「立ち論」という題名らしからぬタイトルでなにか書いとくれ。あんたなら立て板に水だろう、と友達からそそのかされたんで、とりあえず台所に立ってみたが、なんの考えも思い浮かばないので、あっさり投げ出してしまった。8/16

そいつは、ともかく全身がいわば抜き身をひっ下げたように、ぬううとそそり立っていて、余りにも不気味だったから、みなに懼れられたが、そのようにそそりたつことが、真剣白刃取りのように過剰な負担になっていたらしく、若くしてあっさり死んでしまった。8/16

全盛時代のイケダノブオはんは、ポップでシュールなスーパーカジュアルな洋服を発明しては、お店に並べて人気を博してはったけど、いつのまにかブームが廃れて、日本全国何百とあった売り場は、大阪ミナミのすがれた百貨店だけになってしもうた。8/18

しかも今ではその店でも、洋服はもう販売されていない。しかし店長が、「かまへん、かまへん、スーパーカジュアルなウエアの代わりに、スーパーカジュアルなフードを売ったらええがな。ここは食品売り場のとなりやさかい、誰にも分からへんよ」と好意的なので、鍋焼きうどんを売らせてもらっている。8/18

私は、どうしても給料だけでは食べていけなかったので、往年の大女優吉野花子の付き人を志願して、アルバイトに励んだ。彼女は最初は迷惑そうだったが、だんだん協力してくれるようになったので、私の晩年は、それほど悲惨にならずに済んだ。8/19

講談社の新男性誌が創刊され、編集長の原田氏から原稿を依頼されたので、しばらくしてから送稿したところ、「すんまへん、ダブルブッキングで他のライターに書かせてしまいましたあ」というメールが来たので、頭に来て、彼の上司の常務に文句を言うたら、速攻原田選手は解任されちまった。8/20

有名デザイナーのアシスタントをしているヒラヤマ嬢は、毎日赤いポストの貯金箱に硬貨を入れていたが、それがなんと2800円になったと喜んでいる。「何に使うの?」と尋ねたら、「男に誘われていざと云う時」と、頬を赤らめて答えた。8/22

別館でうち合わせしていると、銀ラメのロングドレスを着たワタナベナオミが、「巴里のスギハラさんから電話です」という。出ると「ササキさん、平凡パンチの20ページをサービスしますがどうですか」と、いつものようにまくしたてるので、思わず笑ってしまった。8/24

私は編集者なのだが、いくら思案してもいい企画がてんで出ない。それでも苦心惨憺して野坂昭如の自伝を提案したら、「きみい、あの人はもう故人だよ。そんなことも知らないのか」と罵倒された。その故人に書かせるというのが、私の企画だったのだが。8/26

没企画ばかり出していた編集者の私は、とうとう会社を首になり、まもなく死んで棺桶の中に入ったのだが、なんとそこには、生前ついに出せなかった私の詩集が置かれていた。8/27

惑星間移動ロケット競技で、金賞を貰ったのはうれしかったが、歳月人を待たず、その時すでに私は、100歳になんなんとしていた。8/28

夏の終わりにマラソンをしている時、どういう訳か蚊が襲ってくるので、道端でキンチョーの蚊取り線香をじゃんじゃん燃やしていたら、放火犯と間違えられて、警察に逮捕されちまった。8/29

私らは特攻に出る前に、京都名産の千枚漬けを全身にふりかけ、ねばねばした液体や昆布を擦りこんだ。こうしておけば敵機に撃墜されない、と上官がいうのである。8/30

夏のジャンボ宝籤の抽選で、なんと塩飽寿司なる貴重品が当たった。おそるおそる口にしたが、今まで食べた物の中で最高の味だった。8/31

 

 

以下に「夢百夜」の未掲載分を追加します。

夢は第2の人生である 第28回

西暦2015年弥生蝶人酔生夢死幾百夜

 

時代はますます閉塞し、すべての人民は投獄された。われわれは牢に入れられたまま労働し、生活することになったのだが、権力者たちの圧政と暴力によって完膚なきまでに打ちのめされ、もはや抵抗する気力すら喪っていたために、奴隷のようにいいなりになっていた。3/1

銀座通りのど真ん中で、黄金いろのウンチが湯気を立てていた。3/2

「こんな格差社会だから、最底辺に生きる人を対象にした、親兄弟4人でせんべい布団1枚に寝るような木賃宿を開きなさい」と、隣の玉ちゃんがせっかく勧めてくれたというのに、断ってしまった。地底人の俺たちには、そんな道しか残されていなかったのに。3/3

ロスに旅行した時、3分で万物が合体する奇跡を伝授された私は、そのテーブルにいた5名をたちまちアマルガムのように接着してしまったので、おおいに怨まれた。3/4

僕が駅への階段を降りていたのに、彼奴は「車で送ってやる」と云うてきかない。

最近発見された「佐々木眞侯維新好色日記」は面白い。数多くの同名の別人物をめぐる凸凹譚もくわしく載せられているからだ。3/5

「君は私たちの子ではない。アフリカの奴隷商人がマラケシ島で売っていた父なし児なんだ」と告げると、息子は「そんなはずはありません。私はお父さんとお母さんの子供です」と言いながら、ラアラアと泣くのだった。3/6

「これを新しい会社のロゴマークにすればいいじゃないか」と云いながら、私はどこかのデザイナーが作った奇妙な図像を示すと、広報の前田さんは小首を傾げた。3/6

久しぶりに北鎌倉まで散歩に行って疲れたので、横須賀線で帰ろうとしたのだが、何台待っても来る電車が中国や韓国やモンゴルの人たちで超満員なので、仕方なくあきらめて、また歩いて家まで戻った。3/7

無名の国の無名の村で開催される「なんちゃらフェス」に招待された私は、「なんちゃら航空」機で現地に到着したのだが、小学生のころ郷里の「なんちゃら病院」で手術した左肩が激しく痛んでしまい、とうとう1曲も演奏できずに引き返した。3/8

あたいは大丈夫だよ、もう中国語の芝居のセリフは全部頭に入ってる。でも心配なのは、いま連日公演している日本語の芝居のセリフに、その中国語のセリフが紛れ込まないかということなの。3/8

ヨーカ堂で販売していたワンポイントウエアの商標が使えなくなったので、「ワンポイントウエアからキーポイントウエアへ」という企画書をでっちあげ、鍵のマークのワンポイントウエアを提案したら、意外なことにすんなり受け入れられた。3/8

憲法改定の国民投票の会場に行くと、「改定にイエス」と書かれた自動販売機のような投票機械と、「ノー」と書かれた機械の2種類が並んでいたが、裏に回ってよく観察すると、電線がつながっているのは「イエス」の方だけだった。3/9

「彼女なら銀座の山本ネクタイで働いているはずだよ」という友人の情報を頼りに、その店を訪ねてみると、店長が「先月末に辞めてロスへ行ったよ」と教えてくれた。3/10

広瀬さんチの土地を、地元のヤクザがぶんどろうとしていたので、おいらはそれを止めさせようとしたのだが、だんだんヤクザに対抗するのがしんどくなってきたので、とうとう逃げ出したが、その結果、健さんに対する尊敬の念が一気に高まった。3/11

私が熟睡していると、すぐそばで物凄いイビキが聞こえたので、たちまち目が覚めてあたりを見回したが、誰もいない。イビキの主は、おそらく私だったのだろう。3/11

反乱軍に捕らわれ、鋭い刃に全身を串刺しにされて死んだメソポタミアの王は、彼に逆らった3つの蛮族を呪いながら死んだが、3人の蛮族の長も、王と同じやり方で虐殺された。3/12

私は長い間この街に来たことがなかったが、ふとこの街の大学をまだ卒業していなかったことに気付いた。急いで教務へ行くと、「3つの教科のレポートと卒論を提出すれば、証書を授与する」というので、しばらく当地に滞在して、長年の懸案を果たすことにした。3/12

いよいよレポートすべき国文学講座が始まる日、キャンパスの入り口で「こっち、こっち」と私に手招きする人がいるので、近寄ってよく見ると、今中さんだった。3/13

どうして彼がこんな所にいるのか分からなかったが、今中さんは、「早く、早く。急がないと授業が始まってしまうぞ」と、私の手を取るようにして、坂の隣を上昇しているエスカレーターに乗り移った。

ところが、そのエスカレーターが鈍速なので、焦った2人が3段跳びの駆け足で飛躍してると、到達まぢかなエスカレーターがちょんぎれて、私たちは、まるでだらりの帯のようになった階段の先端に、両手でぶら下がって、ひとの助けを呼ばなければならなかった。

ようやくキャンパスの構内に辿りついたが、今中さんは「今日の授業は最後に漢字の書き取りテストがあるから、どうしてもその参考書が必要だ。僕が一っ走り書店に行って買ってくるから、君はここで待ってて呉れ給え」と云う。

それきり今中さんは、いつまで経っても戻ってこないので、しびれを切らして焦りまくった私は、傍を通りかかった学生に教室の場所を聞くなり、全速力で走りだした。教室に着くと、大勢の人が立錐の余地なく詰めかけて、授業どころの騒ぎではない。

私の目の前には、仏文5年生の怒りのチビ太や、イヤミや、蝶の好きな多田さん、グラン佐々木、それに六つ子なども勢ぞろいしていて、徒党を組んで階段教室を下りながら、全員が黒づくめの犬になってしまって、「なんだ坂、こんな坂」と大声で歌いながら踊り狂うている。

ワン ワン ワン
Wang Wang Wang
ワワン ワワン ワンワンワン

おめえは、なにを舐めてんだ
あんたのお尻を、舐めてんだ
くすぐったいから、やめてけれ

なんだ坂、こんな坂
ワンワン、キャンキャン ワンワンワン
おいらは犬だ あたいは犬だ

秋田犬、津軽犬、岩手犬
阿波犬、越後柴、樺太犬
なんだ犬、こんな犬

紀州犬、高安犬、薩摩犬
四国犬、屋久島犬、縄文犬
お前は、単なる犬に過ぎない

森林狼犬、仙台犬、大東犬
秩父犬、珍島犬、土佐闘犬
そうさ、おいらはただの犬

羽衣之柴、肥後狼犬、豊山犬
前田犬、北海道犬、豆柴犬
犬は犬でも、国産犬

雪甲斐犬、琉球犬、鷹版犬
三河犬、甲斐犬重慶犬、日向犬
そうさ、あたいはMade in Japan

なんだ坂、こんな坂
ワンワン、キャンキャン ワンワンワン
おいらは犬だ あたいは犬だ

すると別の学生の一隊が、「これからは国産ドッグファイトからグローバル・キャット・ファイトの時代じゃあ!」と叫んで、ドラえもんやのび太と一緒に真っ白な衣裳に身を包んで「猫じゃ猫じゃ」と歌いながら、講堂の舞台の上で踊りはじめた。

ミャオ ミャオ ミャオ
Myaw Myaw Myaw
ニャ、ニャ、ニャン ニャン

おめえはなにを舐めてんだ
あんたのお尻を舐めてんだ
くすぐったいからやめてけれ

なんだ坂、こんな坂
ニャー ニャー ニャニャン、ミャー ミャー、ミャー
おいらは猫だ あたいは猫だ

ぶち猫、三毛猫、どらの猫
白猫、黒猫、ヒマラヤン
なんだ猫、こんな猫

さび猫、とらねこ、バーミーズ
赤とら、サバとら、純白猫
お前は、単なる猫に過ぎない

赤猫、灰色猫、斑猫
アビシニアン、オリエンタル、バナナブラウン、
そうさ、おいらはただの猫

ペルシャ、ベンガル、ターキシュ
メインクーン、ロシアンブルー、チェシャ猫
猫は猫でも国際品

キジトラ、トビ三毛、縞三毛
マンクス、ボンベイ、コンラート
そうさ、あたいはMade in the World

なんだ坂、こんな坂
ニャー ニャー ニャニャン、ミャー ミャー、ミャー
おいらは猫だ あたいは猫だ

あまりにも革命的な3次元デザイン短歌が次々に生まれてゆくので、私を拉致した入れ墨の大好きなパオパオ族の酋長も驚きあきれて、部族メンバーの全員一致で釈放されることになった。3/13

会社が経営危機に立ち至ったので、経営者が大幅なリストラを行うと宣言した。全員に残留テストを実施して点数の低い若い社員から順番に馘首するというのだが、私はもうなにもかもが厭になって、自分から退職してしまった。3/14

もはや万事休すだ。最後の戦いに敗れたら潔く死んでいくしかない、と深く心に刻んでいたはずなのに、いざ実際に敗れてしまうと、腹など切らず、草葉の陰に身を隠してでも、おめおめと生き延びていきたい、という思いが募るのだった。3/15

隣の家のおばさんが、また近所をうろついている。彼女は歩きながら、お得意のお仏蘭西語を、般若心経のように高唱するので、すぐに所在が知れるのだ。3/16

こないだ青木君がレッド・ツェッペリンのコンサートの切符を呉れたのだが、今日またやって来て「あの切符を返してくれ」と云うので、涙を呑んで返した。3/16

顔だけは相変わらず猪八戒そっくりの安倍蚤糞だったが、その醜い能面の下に、いつの間にやら別の怪人が入り込んでいるのだった。3/16

講談社のKさんは、鯛のおすましが出てくると「私はね、来月号はカブトムシの形をしたCDを読者にプレゼントしたいんだ。これくらいの大きさのね」と云いながら、吸い物の中に指を突っ込んだので、茫然としていると、上司のSさんが「いい加減にしろ」と怒鳴った。3/17

長年にわたって、生真面目な教員生活を続けていた私だったが、ある日魅力的な人妻に一目ぼれをしてしまい、それからどんどん深入りをしていったのだが、このままではお互いに不幸なことになる、と思っていったん別れたのだが、しばらくすると、またズルズルべったりになってしまった。3/18

我われは行軍する際に、上の歯でチチチと舌打ちしたら前進、下の歯で同じようにしたら後退する、という取り決めをしたのだが、その違いがうまく伝わらなかったので、その作戦は失敗に終わった。3/19

ようやく築地までやって来たので、寿司屋でランチをつまんでいると、隣のおやじが「バブルの頃は、ここでシャンパンを8本も空けたんだけどなあ」と焼酎を飲みながらぼやくのを聞いているうちに、嫌気がさして新宿に行くのをやめた。3/19

いくら有名になったり、大金持ちになったり、権力の絶頂に立ったとしても、無理して体を壊して病に冒されてしまえば、そんなものは屁のツッパリにすらならない。そろそろあんたの生き方を変えたらどうだね、と私はナベショウに説いた。3/20

アフリカの新興国とはいえ、複数の国の大使を兼任するのは難しい。それでも私は、しょっちゅう問題を起こしている隣接する2国を、毎日のように行ったり来たりして、ヘトヘトになっていた。3/20

「さあいよいよ戦争だ、これで思う存分人殺しができるぞ」と、二人の若者が期待に胸を膨らませながら、陛下恩賜の三八銃をピカピカに磨いていたのだが、突然、地面が大きく揺れて亀裂が生じ、二人は、そのまま地底深く呑みこまれてしまった。3/21

俄か成金になった私は、友人から「東京湾の埋め立て地を買わないか」といわれたので、早速現地へ行ってみると、見渡す限り泥水が続く敷地が広がっていた。そのうち便意を催したが、最寄りのバラックまで数キロあると聞かされたので悶絶してしまった。3/22

なんたら芸大の人気教授の客寄せ講演「人類の深くて狭い穴について考える」が始まった。サクラで駆り出されていた私は、「ヨオ、大統領!」と叫んで、陰ながら応援していたのだが、案の定開講5分で女子大生の大半が退席して、閑古鳥が何匹も鳴いていた。3/23

最高級の牛肉をグルメする会に出たら、シェフが「ここは肩肉、これは腹肉」などと解説しているはしから、肉全体が次々に復元され、とうとう一頭の巨大な闘牛が誕生した。3/24

社長が「新ブランドの売り出しに最適の媒体計画を大至急作ってくれ」というので、あれこれ考えているのだが、どの媒体を使えばいいのかてんで分からないので、電通の社員が持っている媒体手帳がどこかに落ちていないか、と自転車に乗って探しに出かけた。3/25

突然壇上に押し上げられた私は、なにを言っていいのかてんで分からず、かろうじて「吾輩のこんにちあるは、ひとえに大恩ある○○先生のおかげでありましてえ」と、なんちゃら社交辞典にあるような言葉を口にしたが、その後が続かず、絶句してしまった。3/26

聖戦十字軍を代表する戦士として、アラブ随一の女戦士と決闘を挑んだ私は、無残にもあっと言う間に武器を奪われて敗北し、屈辱と不名誉のどん底に沈んだのみならず、彼女の奴隷にされてしまった。3/27

夕方、外で涼んでいると、誰かが庭から勝手に俺の家の中に入ってくるので、「なんだなんだ、おめえは誰だ」と誰何すると、「私はあなたと同姓同名なので、ここへやってきました」という。3/28

そいつはプロの殺し屋で、何度も俺に肉薄して来たが、あと一歩と言うところで難を逃れてきた。しかし今日はまずい。いかにもまずい。ポケットに手を突っ込んだが、いつものピストルはなく、一羽の鳩しか出てこなかった。3/29

ずっと若いころエイズに罹ったが、体に良いという井戸水を張った水槽に毎朝全身を浸していると、不思議なことに快癒してしまった。その後私はNYで新進アーティストとして成功し、金も名誉も手に入れたので、「もう思い残すことはない。いつ死んでもいい」と思って、水槽を壊してしまった。3/29

新興住宅街にあるギャラリーを出て、夜の盛り場を彷徨っていると、ベネチアのカーニヴァルで見た顔を白く塗った女たちが、長い列を作って私を待ち構えていたので、その真ん中を通って、屋敷の入口に通じる階段を登ってゆくと、真っ暗な部屋があった。「おおい、誰かいないか?」と尋ねたが、返事はない。誰もいなかった。3/29

私が奥菜恵似の女と仲良くしているのを知った吉高由里子似の女が、「デートしよ」といって私を植物園に誘ったので、2人で植物園に行ったあとで動物園に行ったら、猿どもが白昼公然と性交しまくっていたので「こんな不愉快な所はやめて、もっと愉快な場所へ行こう」と2人でラブホへ行った。3/30

本社から越中島の営業部に異動になったが、営業なんかやったことがなく、名刺すら持っていないので、得意先へ行っても、上司や同僚の背後に隠れてしまう私を見て、みんな呆れ果てていた。

そんなある日、東映から健さんがやって来て、なんとか組の親分役としてわが社の営業を手伝ってくれるというので、興奮した私は1本の包丁を買って来て、晒しに巻いてスーツの中に忍ばせていた。

ある日、みんなで雁首揃えて地方へ出張に行ったら、先を歩いていた健さんが、誰かと喧嘩になったので、すっ飛んで行って、そいつのでかっ腹を正宗の包丁でブスリとやったら、上司が「よくやった。これで邪魔者は消えたから、この地区の売り上げは倍増だ」と大喜びした。3/30

上等兵の一再ならぬ執拗な苛めに耐えながら、「所詮は、これがおいらの人世だったんだ」と思いつつ、黙って歩き続けていると、いつの間にか元居た地点に戻っていた。3/31

前回のロケット到着の際にはおよそ数キロの誤差があったが、今回は私が特製のグローブでキャッチしたので、どんピシャリだった。3/31

 

 

夢は第2の人生である 第29回

西暦2015年卯月蝶人酔生夢死幾百夜

 

前線で戦う兵士たちは全員ワイヤレススピーカーを装着していたので、強力な敵軍に遭遇して奮闘苦戦する現場の状況が、ここ司令塔でも手に取るように分かったが、彼らはけっして「天皇陛下万歳」とか「お母さん!」とか無駄な言葉は口にせず、次々に無言で玉砕していった。4/1

カーマイケル氏は、日本軍占領下の南洋諸島で諜報活動に従事していたそうだが、それがいかに危険で困難を極めた命懸けの業務であったかについて、我が軍に捕えられてからも縷々語り続けるのであった。4/2

久しぶりに展覧会に行ったら、畳10帖敷きくらいの大きさの絵が会場狭しとぶら下がっていたが、不思議なことに私らは、その絵を貫いて歩くことができた。聞けば画用紙に描かれた原画を、最新の4D技術を用いてプロジェクターで投影しているという。4/3

奇妙な人形が現れでたので、そいつをクリックすると「4年間だうもありがたう」と言いながら、深々とお辞儀をして消え去った。4/4

夕方になったが、まだ試合は続いた。12回裏2死満塁。すっかり日が落ち、暗くなった球場で私が放ったライナーは、左翼手のグラブを掠めてなおも空高く舞いあがり、やがて見えなくなった。4/5

W氏にぱったり出くわした。この人は、日本一の広告会社に勤務していたとき、クライアントの営業を担当していたが、なにか不祥事を起こして首になり、傘下の小さな会社に飛ばされたはずだが、ちょっと挨拶しただけで、逃げるように去って行った。4/6

当社のキャンペーン「ライフ・イズ・ビューチフル」が、世界各国のみならず国連の年間共同キャンペンとして採用された、という速報を知った私は、早速社長に報告しようと社内を探し回ったのだが、「1か月前から行方不明になっている」と専務が言うので、唖然としてしまった。4/7

すでに私を含めて2人のカンフーが雇われていたが、ステージ全体がおよそ30mもあり、演者1人が3.5mを動くとすれば、少なくともあと6人の少林寺拳法の名手が必要だった。4/8

私たちは平君の案内で、泉佐野の辺りをのんびり歩いていたのだが、突然、平君が「われ何処に行かん!」と叫んで、大阪支店に向かっていっさんに走り去ってしまったので、クマゼミたちが大声で鳴き喚いた。

それから路に迷ってしまった私たちは、ようやく大阪平野を見渡す峠への獣道を発見して小躍りしたのだが、麓へ下ってゆく路のいたるところに、夥しい黄金いろの雲古がてんこ盛りになっているので、それらを踏まずに歩くのはとても難しかった。4/9

やがて私たちは小汚い大学に辿りついたが、その大学に勤務していたさる外国人非常勤講師は、「おいらはそんな就活指導なんか絶対にやんないぞ。そんなギャラなんかもらってないもんね」と、不平たらたらでキャンパスをのし歩いていた。4/9

異常な金融緩和政策ゆえに、銀行ではどんどん金を貸してくれるのだが、ベンチャービジネスに対しては、例外なく渋い顔をするので、IT企業の若手経営者たちは、美貌で知られているネット銀行の女性CEOに多額の貢物をして、数千万円の融資を受けていた。4/10

彼らは情報交換と称して、その美人CEOが経営し、支配人も兼任している銀座の超高級クラブに、夜な夜な出入りをしていた。その毎月の飲食費ときたら、借金の利子の数十倍に上っていたのだが、そんなことなど忘れたように、毎晩セッセセッセと通いつめていたのだった。4/10

私は水の中の映画館で、2本の映画をみた。1本は馬を殺す映画で、もう1本はありきたりのボーイ・ミーツ・ガール物だったが、スクリーンと座席の間に色とりどりのたくさんの魚が泳いでいるので、くわしい内容は最後まで分からなかった。4/11

松下表具屋の店先を覗き込むと、橋本画伯と表具師の間にいる青白い幽霊のような男が、2人の両肩に手を置いているのが見えたが、この謎の人物は、後ろにぶら下がっている橋本画伯の日本画の中から抜け出してきた若侍だった。4/11

火星社書店でエロ本の立ち読みをしていると、口の中がザワザワする。鏡の前で口を開いてよく調べてみると、大臼歯の詰め物が取れた痕から、1本の鮮やかな緑色の若葉が伸びていたので、私は口を大きく開けたまま暮らそうと決めた。4/11

どんどん記憶が失われてゆく。よほど困ったときには、庭に備え付けてある碾臼に頭を擦りつけながら、ごんごん碾いていると、いつの間にか忘れ去られていたわが親しき思い出が、ハラハラと踊り出てくるのであった。4/12

なぜか村の祭りの余興の審査委員長に指名された私が、12組の演目の中から、かねて思いを寄せていた娘のひな踊りを最優秀賞に選ぶと、村人の大多数が異議を唱え、あまつさえ投石を始めたので、身の危険を感じた私は、娘の手を引いて海辺に走った。

渚にもやってあった小舟に飛び乗って海を漕ぎ出すと、村人たちも2艘の船で後を追ってくる。懸命に櫂を操ったが、さして遠くに行かないうちに追いつかれ、私たちは奇怪なお面を被った村人たちの櫂で散々打たれ、血まみれになって海に投げ出されてしまった。4/12

この野球チームには、1軍と2軍の間に「かみつき屋」と称される連中がいて、試合中も練習中もたえず真剣勝負を挑んでくるので、我われ1軍の選手も、一瞬たりとも息が抜けなかった。4/13

その港には、巨大な張りぼての女たちが三々五々憩うていた。その顔を良く見ると、目や鼻や眉毛はなく、その代わりにカスリーンとかジェーンとかキティとか女性の名前が両目の辺りに大書してあった。ここはなんと台風の基地だったのだ。4/14

彼女と遠距離恋愛をしていたのだが、交通費が莫迦にならないので、超廉価の携帯を買うて来て、なんちゃらかんちゃら話していたら、「これから上京するので、そのまま繋ぎっぱなしにしておいてね」と彼女が言うてきた。4/15

その収容所では1日2回食事が給されたが、弱った病人や老人は、それさえ食べきれず、みんなが食堂から引き上げたあとも、毎回1人や2人は食卓にうつ伏せになったままの者がいた。彼らは、私たち料理人の手で迅速に処理された。4/16

俺が捕虜をわざと逃がしてやったことを、相棒はひどく気にしていたが、俺は「その責任は全部おいらが取るから、お前は心配するな」と何度も言い聞かせた。俺はすでに覚悟を決めていたのだ。4/17

あれから3年、今夜は故郷の町の温泉祭りだ。ムショから出たばかりの俺は、裾までからげた両脚を温水が流れる小川に浸しながら、3年前に俺をチクッて監獄に送った密告野郎がやってくるのを、今か今かと待ち構えていた。4/17

同窓会というものに初めて出かけてみたが、私が誰かも分からないようだし、出席者の名前を聞いても誰ひとり見分けることができないので、焦っているうちに彼らの顔がとろけ出して、まっしろけののっぺらぼうになってゆく。4/19

早朝、長身の若い娘がわが家のポストに何かを入れて立ち去ったので、2階から降りて調べてみると、写植の紙焼きでした。その日の午後、私が筋違橋の辺を歩いていると、その娘が桜映社という看板の写植屋で働いている姿が見えました。4/20

軽く助走してから、ホップ、ステップ、ジャンプの三段跳びをやってみた。すると私の体は、まるでツバメのように軽々と宙に浮き、しばらくは着地しなかったので焦ったが、いったいいつの間にこんな軽業を身につけたのか、と我ながら訝しく思った。4/21

脳の具合が悪くなって入院していた私は、治療のために良いとされるフルメタルジャケットを着せられたたまま、主治医の診察を受けるために、深夜の病院の廊下に並んでいたのだが、その長い長い列は、いつまで経っても縮まらないのだった。4/21

その病院では、だんだん水不足が深刻になってきたが、神明社の階段の下を歩いてきた者だけが、水道のコックを捻ると1杯の水が出ることが分かったので、この参道も、朝から真夜中まで押すな押すなの大行列だった。4/21

けれども、容態が悪化して身動きできなくなってしまった私が、山口君と茂原さんに頼んでコップ2杯の水を枕元に持ってきてもらった直後に、誰が神明社詣でをしても、もはや水道からは一滴の水も出なくなってしまった。4/21

今回の試験は、1平方キロもある広大な原っぱで行われることになった。原っぱのあちらこちらに置いてある回答箱の中に、氏名と番号を書いた問題用紙を入れるのだが、問題の数はあまりに多く、原っぱはあまりにも広大なので、私たちはたちまち汗まみれになってしまった。4/21

7万円のプレーヤーと10万円のアンプで、ジャズやクラシックのLPをかけて、会社の全部のフロアに大音量で流していると、いろいろ文句をいう奴が出て来たので、叩きのめしてやりました。ざまあみろ。4/22

栗の木の林に入ると、大きなカブトムシがちょうど目の高さに止まっていたので、私はこれを耕くんに取らせようか、健ちゃんに取らせようか、それとも卓ちゃんに取らせようか、あるいは亮ちゃんに取らせようか、または陽子ちゃんに取らせようか、ひろくんに取らせようかと、迷いに迷った。4/22

そこへ辿りつくためには、どうしてもこの急な坂を登りつめなければならないのだが、坂道のいたるところに、悪臭を放つ糞尿やら、泥や、雑多な塵が堆く積み重なっているので、私は蝸牛の歩幅ほども前進できない。4/23

「バブルの時に、僕のような者にもちょっとしたお金が入ったので、渋谷の坂の下の地下を走っている道を1本買って、「渋谷日不見」と名付けたんだけど、こないだ渋谷の地下街で迷子になったときに、そのことを思い出したんだ」

「んで、渋谷も大規模再開発で繁盛しているようだから、この道をシブヤヒミズと改名して、僕の専門の音楽CDや、楽譜や、ふぁっちょんや雑貨や飲食などを精選した地下名品街をつくったらいいんじゃないかと思うんだけど、どうかしら?」と、坂本教授が聴きとり難い声で呟いた。4/24

四方八方から打ちだされるひょろひょろミサイルを、毛むくじゃらの両の腕を水車のように振り回しながら、ひとつのこらず叩き落としてやった。なにを隠そう、私はキングコングだ。4/24

どんな気に入らんことがあったのか知らんけーのお、女衆が家の司に刃向かって、全員で首を吊って死んでしまおうとしたらしかが、いざとなると、蛮勇の振るいどころがのうなってしもうたとみえて、けっく泣く泣く元の鞘に戻ったげな。4/26

誰かがすぐ傍で生々しい呼吸をしているので、ハッと飛び起きたら音が消えた。それはどうやら私の呼吸音だったようだ。4/27

夕方そろそろ雨戸を閉めようかと思っていたら、応接間のガラス戸が開かれていて、白い顔がこちらを覗いていたので驚いた。しばらくすると、その顔の持ち主は姿を消したが、どうやら長男と同じ障がいを持つ娘らしい。4/27

教授から中世の宗教曲「ハルレ・ミサ」曲の歌詞を朗読せよ、と命じられた私は、急いで自分のテキストや楽譜を調べたが、どこにもないので、隣の女子学生から借りた教科書を見ながら、らあらあラテン語を呟きはじめたら、教授が「もういい」と制止したけれど、大声で叫び続けた。4/27

この公団での私の仕事は、はっきりいってほとんどなかったので、私は朝9時に出勤すると直ちに自宅にとんぼ返りして、朝寝してから再び出勤し、公団の食堂でランチを食ってから、公園のベンチでたっぷり昼寝して、かっきり午後5時に帰路につくのであった。4/28

てんでお金がないものだから、私は第一詩集「赤と黒のサンバ」を自分のパソコンで編集・印刷して、道行く人に配ろうとしたが、通りすがりの一人のインディアン、もとい、赤黒い顔をした先住民だけが、恭しく一礼をして受け取ってくれた。4/29

巨大な体躯を誇るそのビッグピープルの内部には、無数の賢いリトルピープルが住んでいて、阿呆な大家が莫迦げたことを仕出かさないように、日夜監視しているのだった。4/29

しょんべんをしたくなったので、ある大学に忍び込んだら、古くて狭くて暗い教育学部であった。トイレが見つからなかったので1階に降りると、若々しい女子大生が嬌声をあげて戯れていたので、「もはや自分の青春は終わったのだ」と言い聞かせていると、「お前は胆汁質だな」という野太い声が聴こえた。4/30

 

 

 

初めて買ったレコード

音楽の慰め 第11回

 

佐々木 眞
 
 

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久しぶりに書棚を整理していたら、古いレコードが出てきました。

確かこれは私が1970年代の初めに、横浜の弘明寺の小さな楽器店で初めて買ったクラシックのレコードです。

当時フィリップスというレーベルの廉価版に「フォンタナ」という1枚1000円のシリーズがあり、私はその中から旧ソ連のピアニスト、スヴャストラフ・リヒテルが演奏するバッハとモーツァルトのピアノ協奏曲を選んだのでした。

オーケストラは、バッハはソビエト国立交響楽団、モーツァルトはソビエト国立フィルハーモニー管弦楽団、指揮はいずれも旧東ドイツ出身のクルト・ザンデルリンクという人でした。

生まれて初めて買ったLPを大事に抱え、急な坂を登り下りして。墓地を前にした狭いアパートに辿りつき、これも買ったばかりのステレオ・セットとのプレーヤーの上にレコードを乗せ、バッハのピアノ協奏曲第1番BWV1052を聞いた時の驚きは、いまも忘れることはできません。

この曲は、冒頭からいきなりピアノとオーケストラが全力で疾走するのですが、その悲愴な響きは私の心をまるごと鷲摑みにして、地獄に道連れにしていくようでした。

ああ、これがクラシックというもんか。なんて暗くて重々しいんだ。夢も希望もない音楽だなあ。でもこれは今の俺の気持ちにぴったりだなあ。

そう思いながらレコードをひっくり返して、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番を聞くと、これがまた陰々滅滅たる序奏です。ようやくピアノが入って来ても、私の疲れた心はますます重苦しくなる。

なるほど「降れば土砂降り」がクラシックなのか。聞けば聴くほど悲しい憂鬱な気持ちになるなあ。でもでも、これは今の俺の気持ちにぴったりだなあ、と思えました。

いまでこそ分かりますが、偶然とはいえこの2曲は同じ二短調の曲でしたから、「元気はつらつ、さあいくぞ!」という活発で陽気な世界とは正反対の、死にたくなるような悲愴で厳粛な気分に満ち満ちていたのです。

当時私は2歳になった長男の脳に不治の障がいがあると知ってかなり落ち込んでいましたから、これはそんな退嬰的な気分にまさにぴったりのレコードだったに違いありません。

 

空白空白空白窓を開ければ墓場が見える。二短調協奏曲は死の歌ならずや? 蝶人

 

 

 

親愛なる友人へ

 

みわ はるか

 

 

親愛なる友人へ。

大学の入学式のあとの授業説明会があった講堂で初めて会ったときからもうすぐ丸8年がたつね。
たまたま座った席で隣にいたのはあなただった。
お互いきっと少し強ばったぎこちない顔をしてたんじゃなかったかな。
それからは卒業まで一緒に過ごしたよね。
ぐるぐると思い出すとなんだかあっという間だったなと感じるよ。

背丈や体型がわたしと同じくらいだったあなたとはなんだかすっと友達になれた。
初めの印象通り素直でどちらかというと控えめでだけれどもちゃんと芯があるそんな人。
か弱い印象のあなたが練習量の多い運動サークルに入ると聞いたときは驚いたけれど最後までやりとおしたあなたは本当に素晴らしい。
購買のあのお弁当が美味しかったなとぽつりとわたしが言った次の日、そのお弁当を食べてるあなたを見たときにはなんて純粋なんだと感じたよ。甘いものが好きだったね。わたしは苦手だったからそういうお店に一緒に行けなくてごめん。食の好みは結構合わなかったね。でもまた一緒に大学の食堂で各々好きなもの頼んでランチしたいね。授業中はよくうとうとしてたね。だけどきちんと単位をとっていくあなたが不思議だった。きっと家でちゃんと予習や復習をやってたんだろうなと今は思うよ。興味のない授業からは早々と退散したわたしと違ってちゃんと最後まで授業に出てたよね。ただ朝が弱かったあなたに変わって代筆してあげたこと絶対忘れないでね。通いだったわたしを台風や雪の日には泊めてくれてありがとう。きれいに清潔に整頓された部屋は女の子らしくていい香りがしたな。苦しかった卒業研究はお互い励まし合ったね。わたしのぶつぶつと言う不満や文句を嫌な顔せずにうんうんと聞いてくれたこといつまでも覚えてるよ。無事に卒業して初めて二人で卒業旅行で海外に行ったね。暑さに耐えながら香辛料のきいた食べ物食べたり、大きな動物園に行ったり、夜景の綺麗なところでお茶したり、最高の締め括りになったんじゃないかなと思っているよ。少し離れたところどうしで就職したわたしたちは大学卒業後はなかなか会えなくなったね。だけどたまに近況を報告したり、誕生日にはメッセージを送りあったりといつまでも繋がっていられることがこのうえなく嬉しいよ。ずっとずっと続くよね!?
そう思ってるのがわたしだけだったら少し悲しいけれど…笑

そして、今、きっと一番大切な人と人生を共にすることを決めたあなたに、ささやかだけどシンプルだけどこの言葉を心からおくります。

結婚、おめでとう。

 

 

 

生き延びるための音楽

音楽の慰め 第10回

 

佐々木 眞

 

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古代ギリシアの吟遊詩人ヘシオドスは、大昔は「金」の時代だったけれど、次は「銀」の時代、「青銅」の時代、それから「英雄」の時代を経て「鉄」の時代がやってくると予言したそうです。

この節はテレビをみても、新聞を読んでも暗いニュースばかりで、お先真っ暗。もはや夢も希望もなくなって、生きているのが厭になるような「暗黒」時代に突入したような気がします。

そんなサムイ今日この頃ですが、みなさんはどんな音楽を聴いておられますか?

心身共に落ち込んだとき、私が聴く音楽は決まっています。
まずはピエール・モントゥー指揮ロンドン交響楽団が演奏する、ベートーヴェン選手の交響曲第4番第1楽章の出だしのところ。

次はお馴染み中島みゆき選手の「ファイト」。

最後は友部正人選手の「一本道」。

この3曲があれば、どんなひどい時代でも、なんとかかんとか生きていくことができそうです。
死なない限りは。

1)https://www.youtube.com/watch?v=F7vB1Eh1tMs
2)https://www.youtube.com/watch?v=MhiW_svhD28
3)https://www.youtube.com/watch?v=HrBTZvO7E8k

 

 

 

夢は第2の人生である 第44回

西暦2016年文月蝶人酔生夢死幾百夜

 

佐々木 眞

 
 

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地下鉄から地上に出て、私が駅前広場で空気を入れて大きく膨らませる巨大レストランを作っていると、まわりには同業者たちが次々に色もデザインも異なる風船食堂を立ち上げているのだった。7/1

私がロシア兵に「待て」といおうとして、そのロシア語を思いだそうとしている間に、ロシア兵は発砲したので、私はその場にどうと倒れた。7/1

古い録音テープが出て来たので聞いてみると、かの天才クライーバーよりも凄いベートーヴェンの7番の演奏であった。これはいったい誰の指揮か?。私自身は4番と8番しか振ったことはない。7/2

私たちは、思い思いに好きな女優を連れてねぶた祭りを見に行ったが、友達がどんな連れと一緒なのかが気になって、ねぶたの鑑賞どころではなかった。7/2

長年の夢がかなって、とうとう大金持ちになったのだが、後で考えるといかにも下らないことにばかり湯水のように金を使っているわたくしなのであった。7/3

パーティで知り合った、なんてことのない、しかしちょっと可愛い女の子に誘われた私は、いかんいかんと思いつつ、ずるずると深間に嵌り込んでしまった。7/3

アルバイトで高校の理科の先生を頼まれ、理科は不得意なので固辞したのだが、「完璧なアンチョコがあるから大丈夫」と請け合われたので、やることにした。今日は生物の授業に使うために、小川にドジョウを取りに行ったのだが、不気味な口をした獰猛な肉食の魚しかいなかった。7/4

むかし別れた腐れ縁の女と再会したら、ドイツの軍人の妻になっていた。なんでもロスで日本人の夫と離婚したあとで、いわゆるひとつの心の間隙に割り込んできたのだという。よくある話だ。7/4

私の料亭のおおおかみのところに若い子分がやってきて、今月からみかじめ料を取るというから、「いったい誰がお前んとこの台所のダシを作ってやったのか、もう忘れたんか。はよ帰って、親分によういううとけ」といって追い返した。7/5

小西屋に集英社のメンズノンノの山本大介とその仲間たちを招待したら、その噂を聞きつけた京阪神の親戚のひとたちが、「ほんなんやったら、うちらあも御馳走になりたいわあ」というて、綾部に大集合したので、大弱りに弱ってしまった。7/6

会社で仕事をしていると、総会屋の大男が、「やあこんちは、今日はわしらの大先生をお連れしました」というので、振り向くと、死んだはずの右翼の大物の児玉を先頭に、見るからに人相の悪いヤクザが1ダースほど私を睨んでいたので、いっぺんで肝が冷えた。7/6

A子さんの写真に、イイネをクリックしようとしたら、「A子さんは美人だね」や「A子さんはオシャレだね」や「A子さんは大金持ちだね」にクリックしてからでないと、そこまで辿りつけないことが分かった。7/7

PCに出てきた「音楽」という言葉にマウスで触れると、すぐに曲名や作曲者名の欄に飛び、そのどれかにタッチすると、スピーカーもないのにいきなり音楽が嵐のように鳴り響いた。7/7

先行する車の尻の臭いを嗅ぐようにぴったり後をつけてくる妙な車があったので、私が「停まれ」と念ずると、その場で釘づけになった。7/8

私が発明した特殊な枕で眠ると、眠りながらお経を読んだり、対立する2人をなだめすかしたり、蚊取り線香を取り替えたりすることができます。7/8

私たち3人は、オリンピックに備えて特別訓練に明け暮れていたが、毎日賞味期限の過ぎた「インアウタントラーメン」ばかり喰わされている間に、いつのまにか賞味期限が過ぎてしまった。7/9

こんにちはみなさん。僕、ここで挨拶するように誰かに頼まれたのでここへやってきましたが、ここでどういう挨拶をしたらいいのか分からないので困っています。きっと困ると思ったので「萬金丹」をもってきましたので、とりあえずこれを飲んでから、様子を見てみたいと存じます。7/9

井出君は突如キャンペーン大好き人間に大変身し、売り場回りの際にバッハのイタリア協奏曲をBGMに掛けさせて、いきなり裸踊りをやってのけた。7/10

「この映画をみて我が国に行ける政治的経済的社会的長所と短所を映像を添付しながら説明しなさい」という課題が出されたので、学生たちは懸命に映像を取り込み、それを各シーンごとに再分割して番号を振り、いつでも必要なデータが取り出せるように加工しているのだった。7/11

バイカル湖を訪ねて、リニューアルされた引き揚げ船の興安丸に乗りこんだら、昔の懐かしの女と再会した。なんでも最近夫と別れて、LAからここへやってきたという。船室に連れ込んで欲情を解放してから、「今度はいつどこで?」と尋ねたら「いつかあの世で」という答えが返ってきた。7/12

夢の中で私は「1月侍」だったが、大きく成長して「10月侍」となった。7/13

小黒選手に率いられた我ら風来坊ライター集団は、某国の新しい工業団地に潜入して、その住民たちを虱潰しに夜討ち朝駆けで取材して回った。7/14

どんどん病が重くなっていくので、名医と評判の黒田先生を紹介されて某大病院を訪ねたら、50人くらいの黒服の男たちが、机に頭を伏せてグウグウ寝ているので、「黒田先生はいらっしゃいますか」と声を掛けたら、男たちはいきなり気をつけの姿勢を取って、「フワーーイ」と返事した。7/14

私は彼女が泊まっているホテルの部屋をつきとめ、おびえきった彼女とやりたいことを全部やりながら朝まで過ごした。7/15

日替わりで会社の受付嬢が会社のいろいろな施設に変ってゆくので、じっと見ていると大観覧車のように目が回って仕方がない。7/17

最近開かれた日本建築学界2016年総会は、吉田吉雄の温泉プロジェクトに特別賞を与えようとしたのだが、選考委員会がもめにもめて流会してしまったので、私と妻は峠の秘境の温泉に入ったのだが、妻がなかなか出てこないので心配だ。それに夕方になって雨が降り始めた。7/19

私は党大会の直前に山東省の委員の資格をはく奪されたので、山奥の郷里に戻って炭焼き職人になって一生を終った。7/21

客の中には富裕層から貧民層まで、さまざまなタイプが混在していたが、私はそれらすべての階層にヒットするセールス方法を開発することに成功したのだった。7/23

今日私の親友の娘の結婚式があるので、ホテルをチェックアウトしようとしたら、中国からの観光客がいっぱいなのでいらつく。その時になって私は、私の礼服を別のホテルに置いてあることをふと思い出した。昨夜結婚式の前祝いだと称して、どこかのレストランで友人たちとドンチャン騒ぎをしたのだが、そのあと別のホテルに泊まってしまったようなのだ。7/24

さっき、これでお別れと思って、白くて長いドレスを着た女とソナチネを演奏した後、映画の試写会に行ったのだが、よく見たらさっきのヴァイオリンをまだ右手に持ったままだったので帰ろうとしたのだが、「ちょっと待って、いま幻の大スターに紹介しますから」といわれたので待っているのだが。7/25

大阪の肉加工業に従事している親戚の子供から電話で相談があって、東京に出て別の仕事をしたいという。さてどうしたものか。7/26

私は携帯も、ましてやスマホも持たずに長く働いていたのだが、会社の偉いさんが「ちょっと相談したいことがあるので、役員室まで来てくれ」というので、だんだん不安になってきた。7/26

私は家の金庫にあった1万円をこっそり取り出して、自分の好きなものを買っていたのだが、すぐにそれがばれてしまったので「やはりこういうことをすれば、こういうことになるよな」と思いながら、祖父の前で神妙に頭を下げて詫びを乞うていた。7/27

部長と課長に連れられて某所へ行った。急に2人の姿が見えなくなったので、慌てて探すとランチをとっているので、私もその隣に座ると、本格的なコース料理が出てきた。美味いうまいと食べていると、向かい側に高峰秀子とアナウンサーの磯村氏が座っているので、これはどういう集まりなのかと思った。7/28

A課長がA分校からB分校へ異動になったのは、日本人のシェフがいてうまい料理にありつけると考えたからだったが、着任早々白クマに食べられてしまったので、それは見果てぬ夢に終わった。7/28

千載一遇、一発逆転の最後のチャンスに失敗した私は、とうとう一文無しになって、自己破産を宣告して、山奥に閉塞した。7/29

共産党の書記長は、政治活動のかたわらアマチュアオケの指揮をするのが趣味だったが、とつぜんウイーンフィルから定期演奏会への出演を頼まれて、困惑しているそうだ。7/30

前回もそうだったが、この中華レストランはサービスが悪い上に、注文をしているうちにどんどんメニューがなくなり、結局頼んだものがなに一つ出てこないので、頭に来た私は「もう二度とこんな店なんか来ないぞ!」と叫んだ。7/31

 

 

*以下に「夢百夜」の未掲載分を追加します。

 

西暦2015年睦月蝶人酔生夢死幾百夜

 
 
地域巡回員の私は、その名の通りのルートセールスに従事していたが、いつまでたっても「ルートセールス」というネーミングの語感にうっとりしているだけで、日本全国どこへ行っても自分がなにをすればいいのか分からないのだった。1/1

ライヴァル会社の製品が、わが社のにそっくりだったので、よく調べてみたら、いつのまにかわが社の腕ききデザイナーが、引き抜かれていたせいだった。1/2

飯田タロウが連れて行ってくれたレストランで赤海老を食べていると、誰かが「森の中で」を歌っていたので、「シューマンだ」というと、その歌手が「明日は朝が早いからもう出ましょう」と私の手を取ったので、2人でレストランを出ると、飯田タロウが追いかけてきて、「お前の分も払っといてやったから、いちおう念のためにここへ電話して確認しといてくれ」と言って、レストランの電話番号を書いたメモを渡した。1/3

大勢の群衆が同じ方向に歩いて行くので、なんとなく後を追ってゆくと、道が行き止まりになっていたので、全員がUターンをして、ぞろぞろ引き返してくるのだった。1/3

私がボルチモア・タイムズに載った匿名記事から探り当てたその秘密探偵は、凄腕だった。1/3

今宵もバットマンになって夜空を自由に飛び回っているのだが、バットマンはやっぱりコウモリではなくて人間なので、糸を繰り出したり、ひっかけたりしなければ飛べないはずだが、私はそのやり方を知らないので、面倒くさくなって飛ぶのをやめた。1/4

私はこのキンバリーという砂漠の町に夫婦でやって来て、ダイアモンドを掘っているのだが、いくら掘っても金目の物はなにも見つからない。しかし、お金も帰りの切符もないので、ただ闇雲に掘り進むほかはなかった。1/4

わしらはコンビを組んで、地方の球団をドサ回りしていた。相方の若者がベーブルース張りの強打者で、俺はそのマネージャー兼ピンチランナーだったが、今日もその「若者が満塁ホーマーをかっとばしたおかげで大勝利した」と地方紙の夕刊に特報が出ている。1/5

ちなみに私の素早く二塁手のタッチをかいくぐる盗塁は、自分でいうのもなんだが見事なもので、“暁の瞬足王”という称号を頂戴していたのだが、その韋駄天快足ぶりを妬む男が盛んに私を誹謗中傷するので、盗塁する振りをして胴体を真っ二つにスパイクしてやった。1/6

私は諸国一見の放浪者だったが、野原で捨てられて泣いていた女の赤ちゃんを拾って育てた。食うや食わずの毎日だったが、彼女はすくすくと育って、いつのまにか美しい少女になっていた。

降っても照っても、いつも私は彼女と一緒だった。同じ道を歩き、同じ風景を眺め、同じ木の実や魚を食べていた。夜が来れば粗末な覆いの下で抱き合って眠った。寝顔をよくみると堀北真希に似ていた。

雪や嵐の夜などはあまりにも寒くて淋しいので、私らはただ抱き合うだけでなく、口づけをしたり、体中を舐めまわしたり、いつのまにかお互いの性器を挿入して激しく動かしていたりした。

ある日のこと、峠のてっぺんで私がいまきた道を振りかえると、彼女の姿はどこにもなかった。私はその日一日じゅうあちこちを探し回ったのだが、とうとう彼女を見つけることはできなかった。

それから何十年も経って、諸国をたった一人で放浪していた私が、いつか堀北真希に似た少女が行方不明になった峠の麓にたどり着き、大きなタブの樹の下で眠っていると、真夜中に誰かが私の上にのしかかってきた。1/5

リゾートクラブでの休暇は楽しかった。夜な夜なスカラムーチョとかペンギンクラブなどのナイトクラブに出かけて、お気楽なヴォードビリアンショーを見物していると、オーナーからトロピカルドリンクの差し入れがあり、その桃色と青が混ざった液体を一杯口にしただけで体が蛸のように蕩けてしまうのだった。1/6

私は毎日観光地を大八車で案内している車屋だった。その日の客はうら若い女だったが、なぜか両脚を大きく広げて座っており、どうもノーパンらしい。何回後ろを振り返ってもその挑発的なポーズを崩さないので、竹林の奥で突き刺すと、その度に叫び声をあげた。1/6

いよいよ明日から撮影が始まるという日の前日、アランドロンが「近くに良い病院がないか、ネスパ?」と聞くので、綾部中央病院を薦めた。翌日私が「アロー、どうだった?」と尋ねると、彼は一言「トレヴィアン」と答えた。1/7

戦時マラソン法が制定され、私はスポーツ担当相として法律の施行にあたった。レース結果はあらかじめ決められているので、選手は勝手に他の選手を抜いたり抜かれてはならないというのであるが、これを現場で実行しようとすると、多大の困難が伴うのだった。1/9

私はその巨大コンツェルンの総合紹介カタログの作成を依頼されたので、グループの会長やCEOや各部門の責任者と面会して、根掘り葉掘り取材を続けたのだが、結局このグローバルビジネスがいかなる目的でいかなる事業を行っているのかは、いつまで経っても分からなかった。1/9

黄色い戦争が始まり、特定秘密法案がどんどん拡大解釈されるようになったために、昔「おいしい生活」とか「お尻だって洗ってほしい」などというあほらしいコピーを書いていた男たちも次々に逮捕されたので、アルバイトで研究社の辞典のコピーを作っていた私は戦々恐々としていた。1/10

突如姿を現した化け物は、「おい、早くおいらを殺してお前の手柄にしろ」と言った。1/11

私はその傲慢な女のことで頭に来ていたので、茶色い電車を両脇に抱えて国電に乗り込み、阪急梅田駅のプラットホームに投げ出すと、2回、3回と大きくバウンドした電車は、うまく線路に乗っかった。1/11

頭の中に+にも×にも似た2つの大きな図形が、かわるがわるクローズアップされるので、全然眠れない。1/12

覆面パトカーに追われた私たちは、全力疾走で逃げ出したが、とうとう追いつかれそうになったので、高速道路のコンクリート舗装の中にある蛸壺のような穴の下に潜り込んで隠れた。1/12

やっぱり白い夕顔のような顔で淋しく頬笑んでいるね。君はほんとうにあのYなの? 君はいまどこに住んでいるの? 君のお父さんは、お母さん、妹さんは元気なの? 君はまだ生きているの?1/14

「専務は、神も畏れぬ大罪を犯していますよ」と社長に告げ口したら、社長はニヤリと不気味な笑みを漏らした。1/14

新大戦で指揮官からの特命を帯びて大陸で一人旅を続けていた私は、ある日母からの葉書を受け取ったが、それには「お前は大水で流されて溺れそうになるが、心配するな。乾燥地に辿りついて、九死に一生を得るであろう」と書かれていた。1/16

その葉書には、さらに「お前の命を狙っている悪い奴がいるから、くれぐれも気をつけよ」と不吉な警告が記されていたので、ふと窓を見ると、黒い3つの影がこちらをうかがっている。これがその刺客だ。俺はきっとこいつらに殺されるに違いない、と思うと、今までに経験したことのない恐怖が湧き起こって、私は「ワアア!」と絶叫していた。1/16

原発の汚染がますます進行して大気を汚し続けたために、人々は次々に死んでいった。そこで悪賢い政府は、死を前にした彼らが暴発して一揆を起こさないようにするために、みさかいなしに国民栄誉賞を贈ることに決めた。1/17

夜中に妙なる音楽が聞こえたので、よく聞こうと耳を澄ませると、1台のオートバイが夜霧の第2国道を疾走しているのだった。

「よーく見るんだ。あんたがやるべきことは、あんたの手に全部書いてある」という声が聞こえたので、腕を捲くると右手の指先がホタルのように光っていて、指の下には細かな数字が羅列されていた。1/19

世界中の天地創造の神話を研究していた私は、空前絶後の物語を新たに創生しようと試みたが、頭に浮かぶのは陳腐な落し噺ばかりだった。1/20

私の名前をいくらネットで検索しても「砂の緑色のアリジゴク」という記事しか現われないので、仕方なく砂壺の奥底に潜んでいるのだが、いくら待ってもなにも落ちてこないのだった。1/20

テレビ局に入った私の最初の仕事は、処女のパリジェンヌを探せというものだったので、北から南まで全国を駆けずり回ったのだが、どこにもいない。ようやく巡り合ったのは高野山の宿舎だった。1/20

1969年に同期入社したウジアオイさんが、昔とまったく変わらない小鹿のバンビのような姿で現れて、「私が停留所で待っていたら、変なおじさんが「暑いですね、暑いですね」と話しかけたの」と言うので、私はおや、これは昔どこかで聞いた話だぞと思った。1/22

それで私が「ウジさん、もしかしてそのオヤジ「どこか涼しいところへ行きませんか?」って言わなかった?」と尋ねると、小鹿のバンビは驚いて「それをどうしてご存じなの?」と目をクリクリさせた。

「僕の知り合いの岡本さんという一人で広告代理店をやっている人がいてね、こないだ三越で買い物をしているオバサンをそうやってひっかけて、ラブホテルに連れ込んだそうだよ」と言うと、ウジアオイはこれ以上ない冷たい目で僕を見てから、消え去った。1/22

いたるところで大蛇が大繁殖している。これは早く退避しないと大変なことになるぞ、と私は思った。

森の中で雨宮氏に出会った。時代は60年代だったから、世の中も人々も伸び伸びとしていていつの間にやらくだけたパーティが始まったのだが、妙齢のさる女性と話しているうちに、もしかするとこの人は自分の同級生ではないかという気がしてきた。

しかしそれを尋ねるタイミングを失っている間に、若い女性が割り込んできて「私、短大の授業を担当することになったら、シラバスを作れって言われたんですけど、それって何ですか?」と訊くので「白いバスのことだよ」と答えると、妙齢女がチラと私を見た。1/24

町内を歩いていたら、私が会社で面接して採用したO女が大きな洋館に入っていく姿を見た。そのとき彼女は1日に2回しか食事ができない貧しい家庭で育ったといっていたが、実際は町内で一番金持ちの男の一人娘だった。1/25

アメリカ土産に買った安物の中古ジーンズをはいて裏ハラを歩いていたら、見るからに業界人のような奴らや、入れ墨をいっぱい入れた若者が寄って来て、「これはどこでいくらで買ったの?」とか、「5万円で譲ってほしい」とぬかすので、驚いて逃げ出した。1/26

帝国との熾烈な闘争は果てしなく続き、スターウオーズの世界はいつしか現実のものになっていた。いつの間にか遥か遠くの宇宙の彼方にやって来た私が、いくらレーダーで探索しても、懐かしい地球はもはやどこにも見つからなかった。1/27

子供たちを連れて夜道を逃げてくると、怪鳥の卵が落ちていた。1人の少女がそれを拾い上げようとすると、怪鳥の親鳥のオスが彼女の頭を激しく突いたので、少女はその場で昏倒した。すると横合いから巨大なネコが出てきて、いきなり怪鳥を喰ってしまった。1/27

お昼になったのでいつもの定食屋に行くと、オカミさんが「今日も特別にうなぎにしといたからね」と言いながら、けたくその悪いウインクをしたので、私は急に食欲が失せてしまった。1/27

かつて一世風靡していた幻冬舎を凌ぐ超人気出版社が誕生したというので、こっそり視察に行ったら、見城氏にそっくりの社長が、モデル兼売れっこ作家と差向いになって、彼女の太股の間に目をやりながら、なにやら親しげに打ち合わせしていたので、羨ましくなった。1/30

私は全軍を率いて進撃しようとするアガメムノンの前に飛び出して、「これから君たちはどこへ行くの? なんだか不吉な占いの相が出ているよ」と教えてやったら、ホメロスがあわてて飛んできて、「それなら俺が詳しく説明してやるから、彼らをそのまま行かせろ」というのだった。1/31

展示会の最中に頭の悪い営業が、「こんなサンプルを作りやがって、こんなんで商売できるか」と毒づいたので困っていると、社長が出てきて「君、このサンプルのどこが良くないのか具体的に言ってみなさい」というと、シュンとなって消えてしまった。1/31

今井さんたちと東京湾に咲く不思議な花を見ようと遊覧バスで乗り込んだら、たちまち大きな渦の中に巻き込まれて、気がつくと巨大な蛸壺の中に私一人でしゃがみこんでいるのだった。1/31

 

 

西暦2015年如月蝶人酔生夢死幾百夜

 

「をが句愛もラテジナび詩ごで安画ずづレナベデグアジも短匹ら、具女駄ぺ土地うぞ殿鴈てれぴとだんき独輪階じ上舌で、聴わ人選鬱欒きららぺち雲虫郎舎が電畜以欄たですうぬ。だち、あり典膣、具みざて」2/1

(承前)私が自分のパソコンで打って印刷したパンフレットの文章は、私以外の人間には解読できないという不可解な理由で、私は長年勤務していた茂原印刷を解雇されました。さて、この文章、読めるかな。2/1

外付けHDDが壊れてしまったので困っていたら、誰か親切な男が、「大丈夫だよ、ほら、内蔵されていたソフトを全部取り出してあげたからね」と云いつつ、長い天秤棒を振り回しながら、茶色をしたそれらを地べたに丁寧に並べた。2/2

「今日は2月3日の節分なので、神様が天からマナを降らしてくださいました」と言いながら、耕君たちにケーキをあげた。2/3

ブリザード吹きすさぶ団結小屋で一晩中ガタガタ震えながら、私は改めて冬山登山は危険だと痛感していた。しかしそれでもなぜ多くの中高年の人々は、冬山に登ろうとするのか?と考え続けていた私に、天啓がひらめいた。人は死ぬために冬山にやってくるのだ。2/2

「緑が必要だ。5月の青空に強烈に映える若草のような緑が! だから私は、そのまだ見ぬ緑を求めて、全国津々浦々の山野をロケハンしているのだ!」と、その監督は叫んだ。2/3

私たち親子がその温泉場に素っ裸で入っていくと、真っ白な大蛇の親子が待ち構えていて、真っ赤な舌をチラチラさせるので、恐怖のあまり私と耕君は、ひしと抱き合った。2/4

或る人が、「○○と人質の命のどちらかを選べと迫られたら、必ず○○を選べ」と云い切ったのは、どんなに人質の体がバラバラにされていても、後から必ず修復できる自信があっ
たからだろうが、首のない人間をどうやって元に戻すことができるのだろう、と私は訝った。2/4

僕らはお国のために役立つ善いことをしたご褒美に、全国を遊覧する無軌道不定期臨時列車を1カ月自由に乗り回す許しを得たのだが、どこへ行こうとしても定期運行の列車が間断なく走り回っているので、危なくてなかなかその隙間を走れないのだった。2/5

フマ君が呉れたペットボトルの水を飲むと、その中に入っていた虫が口の中に入ったのでペッペと吐きだしたが、これは単なる虫ではなく吸血蛭で、彼の家にはたくさん繁殖しているというのであった。2/6

三越の岡田が、自家の銘菓栗饅頭を抛り投げたので、ドタマにきた私が、彼奴に摑みかかろうとしたら、神戸のモロゾフおじさんが、梶川与惣兵衛のように懸命に阻止するのだった。2/6

土地測量の結果、3人の土地所有者のうちの一人である切通氏の所有スペースが無くなっ
てしまったので、氏は残る2人を激しく怨んだ。2/7

ベルリン映画祭の初日にメイン会場で上映を待っていたのだが、待てど暮らせど始まらない。そのうちに超満員だったはずの会場がガラガラになり、私はたった一人で取り残されてしまった。2/8

撮影が終わって草原でランチをしていると、北欧生まれの透きとおった肌をした若い女優が、どういう風の吹きまわしか艶然と微笑みながら、その柔らかいからだを押しつけてきた。こういうことは人世では稀有なことなので、絶対に機を逃してはならない。

私が彼女の手を引きながら、鬱蒼と茂った大樹の黒い木陰に身を隠し、大急ぎで抱擁し、接吻し、乳房を愛撫しているうちに、彼女は急速にその気になってきたというのに、私のアソコはまたしても我関せず焉で、物の役に立ちそうもない。嗚呼!2/9

もうすぐ芝居の本番が始まるので、私はさっきから何回も自分の台詞を大声でしゃべったり、全身を屈伸させたりして、一瞬もじっとしていなかったが、それはそうすれば緊張がほぐれると思っていたからだ。2/10

急激に没落しつつあるユニットMASOPのために起死回生の新作を書け、と依頼された私は、七日八夜七転八倒した挙句、四畳半の押し入れの中から出てきた旧曲「みんな、みんな、ありがとう」を恐る恐る発表した。2/10

私がひそかに盗み出したカタログを彼女に渡すと、彼女はとても気に入って「5日間貸してほしいの」とねだる。1日、2日ならともかく、それ以上はとても無理だと断ったのだが、「どうしても貸してほしい」と、彼女はあくまでもねばるのだった。2/11

朝誰かから電話が来て「飛行機は今日成田から出るやつに乗るんだよ」と云われたが、何時のどこ行きの便かも分からず、チケットはおろかパスポートもないので、いったいどうしていいのか分からない。2/12

旅行に行く学生には、学校からその費用が全額支給されるのだが、国内外各地の行き先によって値段が違う。だから僕たちは、北極や南極などできるだけ遠方の海外旅行を選ぶことにしていた。2/12

旅行に持って行くBGMに何を選ぼうかとさんざん迷った挙句、「バナナボート」か「ビデBIO」のどちらかにしようと思ってヨーコに尋ねたら、即座に「ビデBIO」にしなさいと言うので、どうしていつも彼女のいいなりになってしまうのかと思いつつ、私は喜んで彼女に従った。2/12

中国の有名デパートに台湾の友人と一緒に買い物に出かけたら、その友人がどんどん値切り始めた。いつまでたっても値切るばかりでなにも買わないので、業を煮やした店長がやってきて、「いい加減にしてくれ」と怒鳴って、僕らはとうとう追い出されてしまった。2/13

敵のサロチュウ軍とわれらハクコ軍が一蝕即発の事態を迎えていたので、某国が仲介に立って国連監視団の派遣を要請したのだが、その間情勢はますます緊迫し、ふと外を見回すと、私と吉田が乗った戦車を両軍がずらりと取り囲んでいた。2/14

錦織の私は、テニスの試合を前にしていろいろ慣れないことをして疲労困憊していたので、肝心の本番では実力を発揮できず、無様な姿で敗北してしまった。2/15

ふと気付くと、何匹ものカツオが三雙の船の上に降り注いでいたので、私は網を海に入れる作業をただちに中止して、空から落ちてくるカツオを捕まえることに全力を集中するように指示した。2/15

ここアンデスの山奥深くに埋められていた茶色い金属の板が偶然発見され、これが地球各地の古代世界で共通して使われていた「カロン」という単位の重量原器であることが分かった。1カロンはだいたい1キロに相当するようだ。2/16

商標課からこの営業部へ配転になった男は、「わが社の製品につけられているすべての商標がもぐりであるから、1日も早く販売を中止してほしい」と会議のたびに訴えたが、誰も耳を傾ける者はいなかった。2/16

私が働いている外資系企業には、政治的チョンボで首になった渡辺氏や、英語やフランス語はペラペラだが日本語が全然出来ない帰国子女などのユニークな社員が大勢いたが、なぜかうちの耕君もそのメンツに加わっていて、3時になると好物のキャラメルアイスを美味しそうに舐めるのだった。2/17

お隣のMサンちに、いつの間にこんな可愛い子供が生まれていたのだろう。大きなかまぼ
こ板に乗せられたその子の首には、目も、鼻も、口も、ちゃんとついているのだった。2/18

ある企業の新任ADとして招かれた私は、先輩ADと事あるごとに対立競合していたが、企業CMの製作では2人とも社長にギャフンと言わされた。彼は「小異を乗り越えて大同につく」という手法で、大成功したのだ。2/19

先輩はその企業製品の機能性を、私はデザイン性を強調するプランを提示したのだが、したたかな社長は、「会社は機能やデザインより、やっぱり人だね」と云って、創業を共にした90代の3人のOGを引っ張り出して福知山音頭を踊らせたのだった。2/19

今世紀最大と称せられる天才男と天才少年が一堂に会したので、大きな話題になった。まず天才男が「お前は誰だ?」と聞いたら、天才少年は「糞ったれ!」と応じたので、世界中のメディアが「糞とは何か?」「誰とはたれか?」と大騒ぎになった。2/20

まず前菜を、次いでカレーライスを喰い、最後にコーヒーを飲みほしてから外野の守備についていると、突如大空の高みからボールが落ちて来たので、思わず両手を伸ばすとグローブにすっぽり収まったので、観客席は「ナイスキャッチ!」と大騒ぎだった。2/21

対立する両勢力が泥沼の戦いを繰り広げているので、とうとう本邦最大のヤクザの大親分が仲裁に乗り出してケジメをつけることになったのだが、裏世界でケジメをつけることが出来るのはヤクザしかいないからこそ彼らは廃れないのだ、と改めて思い知った。2/22

そこで私はこの際新たにケジメカメラマンになって、世界中で対立抗争する勢力がケジメをつける現場へ駆けつけ、その証拠写真を撮ろうと思いついたのだった。ケジメカメラマン! どうだ、新しいだろう。2/22

すると山口百恵や桜田淳子、西田佐知子、ちあきなおみなどもう2度と歌わないと思われていた歌手たちの一期一会のコンサートが開催されるというので、日比谷公会堂へ駆けつけると、長嶋茂雄という人が悪くない方の足で私の突進を阻止したのである。2/22

私は腰と辞をうんと低くして「長嶋さん、申し訳ありませんが、あなたの長く伸びたこの足を引っこめてくれませんか」と頼んだのだが、世紀の打撃の天才児は知らん顔して、あろうことか今度は悪いほうの足まで投げ出す。2/22

頭にきた私が、「長嶋さん、いやさ長嶋。なんてことをするんだ。これでは百恵の写真が撮れないじゃないか。おいらはこれまであんたの大ファンだったけど、今日限り生涯敵に回るぜ」と凄んでいると、王や金田選手が出てきて「シゲさん、ええ加減にしろや」と云うてくれたので、長嶋茂雄はやっと両脚を引っこめた。2/22

折悪しく春一番が吹いて一睡も出来なかったので、私は夢と眠り、眠りと夢の間を区切る鉄板を大量生産し、その2つの間に建ち上げるのに大わらわだった。2/23

開演5分前になったのに、誰ひとり聴衆がいないので、私はだんだん不安になった。このT先生の大講演会は、私が企画し入場券を売りだしたから、このままでは経済的に破滅してしまう。

開演時間がやってくると先生は、無人の会場に向かって「ザウルスというてもフジザウルス、ウツボザウルス、エレクトロザウルスなどなどいろいろな種類のが別々の山で美味しい水を飲みながら楽しく暮らしているんだ」と云って、ワハハハと豪快に笑った。2/23

M社に投稿した短歌が入選したので喜んでいたら、似たような短歌をA社にも投稿していたことに気がついて、大慌てしているうちに朝になった。2/24

ガス屋さんがやってきて配管工事をしてくれたのだが、待てよ、昨日大工さんは、「ガスの配管はとっくに終わっているから何もしなくても大丈夫ですよ」といっていたことを思い出した。はて、どっちが本当なのだろう?2/24

悪ガキどもがうちの耕君をいじめていたので、私は彼とワルツを踊る振りをしながら様子を見ていた。すると、そのうちの一人が突然襲いかかろうとしたので、私は耕君を巨大な振り子のようにいったん遠くに飛ばしておいて、ガツンと彼奴にぶつけた。2/25

すると、私の手を離れた耕君は、その悪ガキもろとも物凄い勢いで、よもつひら坂を転がり落ちていった。周章狼狽した私は、急いで真っ暗な坂道を駆け下りて愛する息子を探そうとしたのだが、坂下から広がる黄泉の国は真っ暗で何も見えなかった。2/25

彼女はラテン、ギリシア、英独仏露語を自在に操るカリストと聞いていたので、もしかすると日本語もできるのではないかと思って、私は学食でコーヒーを飲んでいる彼女に「やあ、こんにちは」と話しかけたのだが、まるで「女のキリスト」のように微かに頬笑んだだけだった。2/27

はじめはいつもと同じ坂道と見えたのに、登れども登れども、いっこうに行程がはかどらない。それでも我慢して急峻な坂を登攀しているうちに、翻然と悟った。いつの間にか私の体がいつもの三分の一くらいに縮んでしまっているのである。2/28

「世界何でもギフト本舗」の高橋という人からメールが舞い込んできて、全世界の恵まれない人々のために貴殿の短歌を寄付してくれないか、という申し出があったのだが、それはいったいどういう意味なのか分からず、私は途方に暮れていた。2/28

 

 

 

グレン・グールドと朝比奈隆

音楽の慰め 第9回

 

佐々木 眞

 
 

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グレン・グールド( 1932 – 1982)は、画期的なバッハの演奏で知られるカナダの名ピアニスト、朝比奈隆(1908- 2001)はブルックナーの演奏で知られた我が国で最も偉大な指揮者です。

2人は残念ながらすでに故人ですが、朝比奈隆氏が1974年にグールドの「ベートーヴェン・ピアノ協奏曲全集」の4枚組LPのために書かれたライナーノートを読むと、生前この2人は、少なくとも1度は共演したことがあるようです。

このライナーノートの版権は、朝比奈氏のご遺族と当時のCBSソニーにあるのでしょうが、その文章が彼の音楽と同様、あまりにも素晴らしいので皆さまにご紹介したいと存じます。願わくは無許可転載を許されよ。 (以下はその引用です)

「今から15年以上も前、ベルリンのフィルハーモニー演奏会に現れたカナダ生まれのピアニスト、グレン・グールドは、たちまち楽界の注目を集めた。彼の演奏にはいささかも名手的華麗さはなく、豪壮なダイナミズムもなかった。レパートリーは小さい範囲に限られ、バッハ、スカルラッティ、モーツアルトからヴェ-トーヴェンの初期まで。しかしこの青白いひ弱な青年の奏でるピアノの異常な魅力は、滲み通るように人々の心を捉えた。

私が初めて彼を知ったのは、その頃1958年11月、ローマのサンタチェチリア・オーケストラの定期演奏だった。彼が希望した曲目は、ヴェートーヴェンの第2協奏曲だった。この変ロ長調の協奏曲は、通常オーケストラの音楽家にとっても、指揮者にとっても、また独奏者自身にとっても、色々な意味であまり好まれる作品とはいえない。即ち、他の4つの協奏曲に見られる壮大さもなく、技巧的な聞かせどころというようなものもない。オーケストラの総譜は比較的平板で、効果的ともいえない。しかも演奏そのものは決して容易ではないからである。

果たしてサンタチェチリアの楽員たちも、なぜ他のものを選ばなかったかとか、弦の人数をもっと減らそうかと、あまり気乗りのしない態度は明らかだった。しかも、協奏曲のために予定されていた前日の午後の練習の定刻になっても、独奏者のグールドは一向に姿を見せない。気の短いイタリア人気質で、どうしたとか、電話をかけてみろとか、騒然としているところへ、事務局から体の加減が悪いので今日は出かけられないとマネージャーのカムス夫人から電話があったと連絡してきた。

私はただちに練習を中止、翌朝の総練習の初めに通し稽古だけをすることに決定、音楽家たちは損をしたような得をしたような表情で、肩をすくめながら帰っていった。

さて翌11月19日、イタリアの空は青く澄み、ローマの秋は明るい日差しの中に快く暖かい。午前10時、聖天使城の舞台にはピアノが据えられ、配置の楽員が席につき、私は指揮台に上がって、オーケストラの立礼を受けたが、独奏者の姿は見えない。

ソリストを見なかったかと尋ねても誰もが知らないという。いささか中腹になって来た私は、「ミスター、グールド」と大きな声で呼んでみた。すると「イエス・サー」と小さな声がして、コントラバスの間から厚いオーバーの上から毛糸のマフラーをぐるぐる巻きにした、青白い顔をした小柄な青年が出てきた。

オーケストラに軽いざわめきが起こる。その青年はゆっくり弱々しい微笑を浮かべながら、一言「グールド」といって、右手を差し出した。「お早よう、気分はいいですか」と答えて振ったその手は、幼い少女のそれのようにほっそりとしなやかで、濡れたようにつめたかった。

その手を引きもせず、昨日は一日中ほとんど食事もとれなかったし、夜も眠れなかった。寒くて仕方がないから、オーバーを着たまま弾くことを許してもらいたい、ゴムの湯たんぽを2つも持って来たがまだ寒いなどと、つぶやくような小声である。

上衣を脱いでシャツの袖まであげている者も居るオーケストラと顔を見合わせつつ練習は始められた。私は意識して少し早めのテンポをとって提示部のアレグロを進めた。名にし負うサンタチェチリアの弦が快く響く。見ると彼はオーバーの襟を立て、背をまるくしてポケットに両手を差し込んで深くうつむいたままである。

一抹不安の視線が集中する。やがてオーケストラは結尾のフォルティッシモに入り、力強く変ロの和音で終止した。

正しく8分休止のあと、スタインウエイが軽やかに鳴り、次のトゥッティまで12小節の短いソロ楽句が、樋を伝う水のようにさらりと流れた。

それはまことに息をのむような瞬間であった。思わず座り直したヴァイオリンもあれば、オーボエのトマシーニ教授は2番奏者と鋭い視線をかわした。長大な、時には冗長であるとさえいわれる第1楽章が、カデンツアをも含めて、張りつめた絹糸のように、しかし羽毛のように軽やかに走る。フォルテも強くは響かない。しかし弱奏も強奏も、ことにこの楽章に多い左右の16分音符の走句が、完全に形の揃った真珠の糸が無限に手繰られるように、繊細に、明瞭に、しかも微妙なニュアンスの変化をもって走り、流れた。

それは時間の静止した一瞬のようでもあった。二つの強奏主和音が響くのと、すさまじい「イタリアのブラウォ!」の叫びとは、殆んど同時だった。彼は困ったような笑いをかくして、「手がつめたくてどうも」と、またオーバーの内へ両手を差し込むのだった。

その夜の演奏会の聴衆も、翌朝の各新聞の批評も、驚嘆と賞賛をかくそうとはしなかった。私にとっても、オーケストラにとっても、快い緊張と、音楽的満足の三〇分だった。その前後、今日までに欧州各地で協演したチエルカスキー、フォルデスまたはニキタ・マガロフのような高名な大ピアニストたちとはまったく異質の、別の世界に住むこの若い独奏者の印象は、私にとってもまことに強烈だった。」

 

ラシャを着たる猫背の男手を延べてスタインウエイをいまかき鳴らす 蝶人

 

 

 

夢は第2の人生である 第43回 

西暦2016年水無月蝶人酔生夢死幾百夜

 

佐々木 眞

 
 

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幻の歌舞伎の蘇演で私は主役を演じていたが、公演が進むにつれて毎晩異なる死者がどんどん甦ってくるという副産物があって楽しみだったが、今夜は舞台に超珍しい黒い蛾が飛んで来たので新種発見を確信した私は、舞台はそっちのけでそれを追いかけた。6/1

以前から私はどうも前世で一人殺しているような気がしていたのだが、前々世でもすでに一人を殺しているようなので戦慄した。6/2

僕はその狭い空間に彼女が入ってきたとき、僕にどうされてもいいと思っていたことを分かっていたが、なぜかその権利を行使する気にはなれなかった。6/3

10人の乙女の真ん中の雄蕊のところにいると、五月蠅くて煩くて敵わなかったが、私はなるほどこれが百花斉放百家争鳴というやつかと腑に落ちた。6/4

遠藤君が九州支店でトランプ販売を命じられて途方に暮れているというので、とっておきのアイデアをメモしておいたら、なんと社長の八木がこっそり盗みだしてしまったようだ。6/4

まだきわめて少数のファンしかいないマイナーなパンクバンドなのに、とち狂ったマネージャーが、ぬあんと武道館を押さえてしまったのだが、私らは、ほとんど無人のだだっぴろい会場で、やけくその演奏を続けていた。6/5

苦節半世紀、ついに反重力無軌道玉乗りマシーンが完成した。これにまたがると重力に逆らって自由自在に玉乗りが出来るので、世界中のサーカス団から引き合いが殺到し、開発者の私は嬉しい悲鳴を上げていた。6/6

よく見ると田のクロの部分に、巨大なお萩が並んでいた。我われは知らんぷりをして田のクロを何回もぐるぐる回っていたのだが、たまりかねた誰かが喰らいつくと、みなそれに倣ったが、私は泥だらけのお萩を口にする勇気がなかったので、黙ってその光景を眺めていた。6/7

若くして新社長になった安倍に会見を申し込んだ私は、大阪の居酒屋に招かれた。そこで私は、さてどうやって彼奴を料理してやろうかと思案しながら、公衆便所の入り口に似た地下に降りてゆく入口を潜った。6/8

ミレーヌ・ドモンジョは、死んだ蝶のような目で、私を見つめた。6/9

さとうさんに連れられて東中野に行くと、メリーゴーランドがぐるぐる回っていた。輪っかの上下2段の上には、ビールやワインや酒類が、下にはコップなどの容器が収納されていた。下戸の私が湯呑を取り出そうとしていると、さとうさんは「これからは毎晩東中野ですが宜しいですか」と叫んだ。6/10

サッカーの大事な試合に出場している。1点取って先行していたが、たちまち同点に追い付かれてしまい、チームには動揺が広がった。僕らは、往年の名選手たちの精霊を競技場の上空に呼び出して勝利を祈願したら、終了間際に待望の勝ち越し点が入った。6/12

国法を犯したとかいう重大な罪で、すでに課長は割腹自殺を遂げ、部下の桐野もそのあとを追ったので、私も自分を無きものにしたほうがよいのではないかと思うのだが、いったい全体、どうしてそんなことをしなければならないのか、てんで呑みこめないのだ。6/13

恐ろしく透明な海の中には、いままで見たこともない美しい海藻の間を、見たこともない美しい魚の大群がすいすい泳いでいた。そのおばあさんは、「どうやすごいやろ。こんな立派な海藻や魚は、世界中でここにしかないんやで」と私に向かって自慢した。6/14

田中君は「ここは最高だよ!」と自慢しながら、私を青山の裏通りの隠れレストランに案内してくれたのだが、そのコンソメスープの不味さには閉口した。6/15

久しぶりに自分の足を使って歩いてみると、たのしくてうれしくて、涙がこぼれるような思いで山を下った。6/16

その作家の唯一の貴重な作品集全一巻をむかし読んだことをすっかり忘れていた私だったが、いままたそれを読みだしてもちんぷんかんぷんなので、たまたまそこに寝そべっていたその作家に問いただしたのだが、それでもさっぱり意味が分からない。6/17

私はいつの間にか孝壽君になってベッドに横たわっていると、看護婦がいきなり鼻の奥にプラスティックの細い棒を突っ込んで掻きまわしたので、驚きと激痛でのた打ち回ったのだが、彼女は平然としていた。6/18

山に遊びに行って樹と樹をつなぐブランコに乗り、「せいの!」で漕ぎだして真ん中でドッキングしたら、お互いに猿のように興奮してやみつきとなり、いつ果てることなく何度も何度も交合したのだった。6/19

私が何十何も前から記録していた夢日記を朗読してくれ、と頼まれたので、ゆるやかに回転する回り灯篭の前に立って、そこに投影される草書体の文字を、おぼつかなげに読みあげた。6/20

私はその物をずっと追っかけていたのだが、そのうちに、だんだんその物に背後から追われているような気持ちになってきた。6/21

僕らはやっとの思いでその理想的な会場を借りることが出来て、さあいよいよ明日から展覧会だと張り切っているのだが、スタッフが全員素人のボランティアばかりなので、まるで準備がはかどらず、焦りに焦っていた。6/23

敵に刺されて瀕死の重傷を負いながら、ようやっと御城下にスンダ餅を運び入れることに成功した忍者は、難儀な任務を終えた安堵感からウトウトしていた。6/24

青年がハーレイ・ダビッドソンに乗って登場すると、そのまわりを無数の赤毛の狗たちが取り囲み、ブンブンという排気音に合わせてワンワンと啼き叫んだ。6/24

それにしても、もうすぐ蒲田のはずなのに、道が真っ暗で、何も見えない。6/25

中野町のおばさんから借りた本を返そうと思って、遮二無二に自転車を飛ばすのだが、なかなか着かない。地下道を出て階段を登り、広場に出ると、大勢の人々でいっぱいだった。6/25

私が本番に備えてベートーヴェンの「第9」を練習していると、見知らぬ若者が燕尾服に着替えている。「君はここに何をしに来たんだ」と尋ねると、「今日の演奏会の後半がベートーヴェンの8番なので、私は前半に2番を振れといわれました」と答えたので、私は驚いた。6/26

プレス費は商品貸出関連だけの支出のはずなのに、マスゾエ嬢は、お菓子や化粧品や本代や旅行費や、要するになんでもかんでも自分が欲しいと思う物をジャカスカ購入しはじめたので、みな唖然とした。6/27

軍の本体は1キロ先だというので、午後11時になってから闇の中を懸命に後を追ったのだが、いつまでたっても追い付かない。その差はどんどん開いていくようなので、私は焦った。6/27

地中海のリゾート地を歩いていたら、見知らぬ誰かが「別荘にいらっしゃい」と招待してくれたので、そこを訪れたのだが、生憎主人が不在で、黒人の大男が、「ここにあるものは何でも持ってけ」と押しつけるので困ってしまった。6/28

野盗の襲撃をかろうじて逃げのびたものの、家も財産も丸焼けになって無一物の哀れな私たちだったが、親切な村人たちに励まされ、もういちどゼロから再出発しようと決意した。6/29

この南の島では、とにかく鳥が人をまったく懼れない。私が左右の手で、雀に似た金色の小鳥を捕まえると、小さいのが、大きい奴の口の中の小さな虫を上手にくちばしでつまみだして、美味しそうに食べるのだった。6/29

 
 

 

*以下に「夢百夜」の未掲載分を追加します。

 

西暦2014年霜月蝶人酔生夢死幾百夜

 
 

アムステルダム港からルテシア号に乗り込んだカラヤンは、NYに到着したらシベリウスの交響曲4番と5番、それに交響詩フィンランディアを振るつもりでいたが、まさか自分が亡命することになるとは夢にも思っていなかった。11/1

研修会の講師が演説している。
「さあ、君たち。ここで最新型の3Dシステムが導入されているので、君たちが望むものなら、たとえそれが原発でも原子力潜水艦でもたちどころに出来上がるのだ。それはこの私が太鼓判を押すから安心したまえ」
「問題は、まず何を製造するのかを君自身が決めることだ。それが決まれば、問題はそれをいかに作るかという問題に進むことができる。素材については鉱物系、動物系、植物系、無組織系の4種類を用意しているからどれでも君のお好み次第だ」
やがてあるメンバーの製品が溶鉱炉の真上に吊るされた。
よく見るとそれは彼自身の精巧なダミーであった。ダミーは下から吹き上げる摂氏何万度ものまばゆい光と高熱に包まれ、アッという間に紅蓮の炎をあげて燃え尽きた。11/2

私がワルキューレの女騎士にちょいと顎で合図すると、彼女はただちに銀色に輝く巨大な槍を投げつけ、古今東西の膨大な書籍を宙空に浮かべた。そして彼女が槍を左右に煌めかせるたびに、忽ち書籍は時代別や地域別に並び変えられ、人類の文化史の編集に大きく貢献するのだった。11/3

去年の夏に亡くなった酒井君が、覚えめでたい前課長の前で今季の媒体計画を説明している。とくに四国地方に注力してローカルバス媒体を使った広告宣伝に力を入れたいと例の口調で熱っぽく説くのだった。11/4

突然誰かにピストルで撃たれた。当初肉体への侵入度は3.5であったが、ドクターⅩが緊急手術してくれた結果、2.5まで下がった。これで脳の切開手術はせずにすむ。11/4

手が紙で切れ血が止まらなくなったので病院へ行くと、そこに穴が開いてどんどん大きく深くなってゆく。覗きこむと穴の内部にびっしりくっ付いた微細な黄色い卵から、見たこともない奇妙な魚が次々に孵化して、琵琶湖ほどに拡大した湖を泳ぎ回っているのだった。11/5

私のオケで公演前のゲネプロをやっていたら、時々雑音が紛れ込んでアンサンブルが乱れるので、どうしたことかと眼を光らせていたら、突然の豚のように太った醜いヴィオラ奏者が、「ごめんなさい、私が悪いのです。退団させてください」と泣きだした。聞けば昨夜夫婦喧嘩をして演奏どころではないというのである。11/6

私は戦時中は今井和也という人が社長をしている小さな広告会社に勤め、来る日も来る日も出征広告を作っていた。私が文章を書き半川君がデザインするのであるが、ある日常にPEDを携えて英語を勉強していた旧知の大辻四郎という人が召集されたので、この辞書の写真を掲載したところ、私はすぐに特高に逮捕された。
今井社長をはじめ橋本清一、村雲太郎などの諸先輩が築地署に掛けあってくれたが、特高は私の思想的背景を激しい拷問付きで日夜追及した。
が、もともとなんの思想も持たないノータリンでパープリンンの私だったから、小林多喜二を虐殺したばかりの殺人鬼も2週間で放免したのだった。11/7

私は戦場でまみえた雑兵太兵衛を相手に、城壁を3たびも4たびもぐるぐる回りながら鋤を振り回してとうとう斃した。すると今度は雑兵次郎衛門が出てきたので、次郎衛門を相手に城壁を3たびも4たびもぐるぐる回りながら、鋤を振り回してとうとう斃した。すると今度は雑兵三郎衛門が出てきたので…… 11/8

韓国に仕事で来ていたので、ホテルで朝食をとってから白いローブをまとったまま表通りに出ると、軍隊が警備している。私は午後1時に韓国の原宿と呼ばれている明洞で小林陽子と待ち合わせていたので、どんどん歩いて行ったが、戒厳令が敷かれている街には誰一人いなかった。11/8

久しぶりに北嶋君と芝居を観た後で、彼の自宅で飯でも食おうということになって、2人でスーパーで買い物をしてから歩道橋を歩いていたら、向こうから本町4丁目の足立茶碗店の足立君がやって来て、「ほらよ、これが「熊野の天然水」だ。遠慮せずに持ってけよ」といって、北嶋君にビニール袋を渡した。

北嶋君は、「僕は君が誰だか知らないし、知らない人から物をもらってはいけないとカントも語っているから、要らない」と断ったのだが、足立君があまりにもしつこく「持っていけ、持っていけ」とヤクザのように強要するので、さすがの北嶋君も根負けしてその重いビニール袋を受け取った。

両手に花ならぬ食料品をいっぱいぶらさげ、大汗かいて北嶋君の家にたどり着き、一歩玄関の中に入ると、驚いた。
玄関も、リビングも、キッチンも、寝室も、書斎も、トイレや浴室の中まで「熊野の天然水」で一杯なのだ。

1LDKに立錐の余地なく立ち並ぶ500mlのペットボトルの大群は、モダンアートのインスタレーションのようでもあり、巨人の胃袋の内壁にびっしりとへばりついたポリープの森のようでもあった。おまけに北嶋君のビニール袋の中には「熊野の天然水」しか入っていない。

「北嶋君、これはいったいどうしたわけだ」と尋ねると、カントの読みすぎで青ざめた顔付きの哲学青年は、上がり框にどっかりと腰をおろして、事の次第を語ってくれた。
「実はさっきの足立君は僕と同じこのマンションに住んでいるんだが、中上健次の水呑み婆が出てくる小説を読んでから、水呑み教の虜になってしまったんだ」

「その小説では熊野の聖水を飲むと体毒をきれいにしてくれるという妄想に取りつかれた連中が出てくるんだが、これに一発でいかれてしまった足立君は、毎晩僕の部屋にやって来て「熊野の天然水」の押し売りをするようになってしまった」

「ああ、仕事だって大変なのに、家に帰れば足立君が聖なる水をガブガブ飲めば健康になって幸せが訪れるという。飲んでも飲んでも下痢をするばかり。これからいったいどうなるんだろう。僕は人世に疲れ果てたよ」と嘆くのだが、私はなんと慰めてよいのか分からなかった。11/8

アメリカ大使館に、ベロニカ嬢が来日した。私が飲み屋で友人のフランキーに「もしキャロラインに事故があったら、次期駐日大使はベロニカちゃんで決まりだね」と話しかけると、彼は突然真っ青になって「JFK is No.1! Caroline is No.1!」と叫んで泣きだした。11/9

今度の課長は、本来部下に任せるべき仕事もぜんぶ自分でやってしまう人物なので、やりにくくて仕方がない。「大量に発生したユスリカにどう対応すべきかは、俺に任せろ」と宣言したままなにもしないので、頭にきた私は、火炎放射機で抹殺してやった。11/10

その大劇場に入ると、数年前に開催された超マイナーなインディペンデント映画祭で上映されるはずだった「古い谷の記録」や「アクラ」などの35ミリフイルムが、あちこちの座席の上に長い帯のように抛り出されたままになっていた。おそらく誰かの妨害が入ったのだ。11/11

南米のばあさんの屋台からガヴァを買おうとして邦貨300円相当のコインを渡したはずだったが、ばあさんは受け取っていないという。しばらく押し問答しているうちに、「まてよ、これはおいらの耄碌と勘違いだった」と思い直して300円払うと、喜んだばあさんはいきなり右手を出してきたので、私もその手を取ってぐっと握り返した。11/11

宇宙蛇がおのれの尻尾を銜えてどんどん呑みこんでいくのをじっと見つめていたのだが、どんどん胴体が消えていって、そのうち全部無くなってしまった。11/12

私は「いいね!」と書き込まれた私の投稿記事が、パソコンの画面の真ん中で突然ぜんぶ消えてゆくのを、茫然と眺めていた。11/13

今なら敵の間隙を衝いて、アジスアベバの司令本部も、大審院も、軍事顧問の魔法使いも、撃滅することができる千載一遇のチャンスだというのに、わが反乱軍の無能な指導者たちは、いつまでも腕組みをしたまま、立ち上がろうとはしなかった。11/13

NYの山本君がコムデギャルソンから新ブランドを出すというので、絶海の孤島で開催されたショーを見に行った。服はいまいちだったがバッグ、シューズ、雑貨の出来が良かったと感想を伝えると、「これから村の老漁師を訪ねて習字と下駄の鼻緒すげを習いに行くので、ここでお別れします」といった。11/14

川で遊んでいたら、ゴッゴオという物凄い音が聞こえたので、村人たちと一緒に急いで裏山の頂上まで登ったら、いままさに村全体が津波に呑みこまれてゆくところだった。11/15

裏駅の近くに永滝氏の住居兼用の壮麗な屋敷が聳えていたが、氏はその「3階にある展示会場が来訪者に分かりずらい」といって、いつまでもくよくよ心配していた。11/15

真夜中に庭の離れに電気が点いていたので、覗いてみると、母が「心配しなくても大丈夫だよ。昔の友達がやって来たのでお父さんと一緒にもてなしているところだよ」というのであった。11/16

あたしのことを好きな男がいると子供たちから聞いたので、それはいったい誰だろうと思いながらあたしが公民館の外までやってくると、蛍があちこちで輝き始めていた。11/16

「○○とするにはあらずしてそは○○なり」という和歌を作った。これは上出来、この歌こそはわが生涯の大傑作ならむ、と確信していたのだが、時が経つうちに、その○○がなんであったのかをすっかり忘れ果ててしまった。11/17

急に学生時代の呑気な気分が蘇って、部屋の向こうで寝ている友人に鉄の球を投げてやろうと思いついたが、友人は2階ではなく1階に寝ているのを思い出した。すると見知らぬ人から「真夜中にネンネグーしているところに、鉄球なんか投げないでくれよ」というメールが入った。11/17

わが会計事務所では、沿線の駅ごとに1名から数名の担当者を派遣していたが、普段は閑散としている綾部駅で突然殺人事件が発生して、多数の乗客が押し寄せたために、1人だけの係員は朝からてんてこ舞いだった。11/18

機動隊に追われてお茶ノ水のビルジングのてっぺんによじ登った私は、次々に別の建物に飛び移りながら追及をかわし、無人の日大の運動場に飛び降りた。11/18

山崎方代さんがいる八幡宮の前の鎌倉飯店で中華丼を食べていると、いきなりドンブリが宙に浮き、料理屋の外に飛び出した。私のだけでなく、方代さんや他の客のドンブリも列をなして段葛を南下し、由比ヶ浜めがけて飛んでいった。今頃は相模湾を飛行しているだろう。11/19

私は自分の下手くそな詩を朗読しながら、身振り手振りで表情をつけようと努力しましたが、まるで最近アルツハイマーが進んだおばあちゃんのように思うにまかせません。のみならず肝心の詩の朗読すらおぼつかなくなってしまい、すっかり自信を喪失してしまいました。11/19

テントの中にクスクスやカナカナを連れ込んで、背後から貫いた浅ましい姿を赤外線カメラで盗撮されていたために、私は検察局に呼び出されて1階級降格になってしまった。11/20

家光公から「最近領海に出没する海賊船を拿捕せよ」と命じられたので、本邦最大の戦艦と屈強な漁師百名の下賜を願い出て、南の海に乗り出した。夜陰に乗じて敵船百艘の周囲を百名の漁師が荒縄で縛り、私が操縦する巨大戦艦が先頭に立って海賊もろとも全船を長崎の港まで牽引すると、公は大層喜んで「望みの物は何でも取らそう」とのたもうた。11/21

尾根チャンと海外出張して「良い写真を2カット撮ってこい」といわれたので、まずパリでモデルのからみを、ついでアルジェリアで乾いた風景写真を撮ったが、圧倒的に後者の出来栄えがよかった。11/22

名古屋近鉄の電器売り場で、キャンバスを立ててスケッチを描き始まると、忽ち人だかりができた。私は「あら、これはダリよ」「これはゴッホよ」と持て囃す女たちと、どんどんデートの約束を取りつけながら、売り場主任と大型テレビの商談を始め、どんどん値切っていった。11/23

やがてA子とデートの約束をとりつけ、50インチの液晶テレビを40万円で買う商談が成立したところで、私はキャンバスをかたずけ、サインをしてから彼女と新幹線の駅に急いだ。11/23

某新聞社に勤務する友人が、彼が担当者である歌壇の選歌会と、同じく彼が担当する本年度年間最優秀スポーツマン選考会のメンバーを、同じ部屋に同じ日時に召集したたために、それぞれの作業が大混乱したために、長嶋茂雄や岡井隆などの有名人が怒り狂って友人に詰め寄った。11/24

2人で地下道を何十分も歩いてから、ようやくシティタウンの前に出たところで、彼女が私に絡みついてきたので、さあ困ったぞ、どうしようと悩んでいると、その近辺の若者たちがこちらに近づいてきた。11/25

繊研新聞の広告を見ていたら、誰かの小説の読書感想文が出ていた。よく見るとそれは3Dの立体広告になっていて紙面から立ち上がっているのだった。11/25

私はイトレルを演じたチャプリンの映画からヒントを得て、常に7人の美女をデスクの周囲に侍らせておいて、たまたまそうしたくなったときには、そのうちの誰かをつかまえて、内なる欲望を発散させるのだった。11/25

会いたい会いたいと希っていた昔の思い人と連絡がついた私は、再会の喜びに殆ど有頂天になっていたが、午後4時に落ち合う約束をしていたレストランに行くと、それは切り立った岩山のてっぺんに聳え立っていた。11/27

レストランは無人で、誰もいない。客も給仕もいないし、いくら待っても彼女は来ない。それでも私は辛抱強く椅子に腰かけていると、厨房のほうで物音がしたかと思うと、恐ろしい顔つきをした屈強な男たちが突然現れて、私を取り囲んだ。11/27

白い蝶が飛んで来たので、寒冷紗の網を一閃し、得たりやおうと捉えてみると、それは巨大なウスバシロチョウだった。私がその部厚い胸を圧して息の根を止めようとすると、それは全裸の堀北真希に変身し、「お願いです、なんでもしますからわたしを殺さないで」と哀願するのだった。11/28

いつのまに内戦が始まったのか知らないが、横須賀線から眺めた逗子では死人は見かけなかったのに、鎌倉駅の下馬四つ角では、黄色く焼け焦げた肢体が折り重なって、見るも無残な様相を呈していた。11/28

雄大な山脈を背景にした映像に「山は常に動いている」というナレーションを乗せたアリゾナ州のCMに、「山登りをするときにはガラガラ蛇に気をつけよう」という注意事項を付け加えてほしいという依頼があったのだが、阿呆馬鹿デザイナーが、山を蛇のとぐろ型に修正したために、放映中止になってしまった。11/29

卓ちゃんたちと待ち合わせした料理屋は、どうやら風呂屋だったらしく、部屋の中は、浴衣などが乱雑に脱ぎ捨てられていて、浴槽からは嬌声が聞こえてくるので、気分を害した一人は「俺はもう帰る」と言ってどこかへ行ってしまった。11/30

 
 
 

西暦2014年師走蝶人酔生夢死幾百夜

 
 

久しぶりに北嶋君と会って、街中をぶらぶら歩きながら私が、「やっぱり10代の女性と100歳の男性がいちばんかっこいいね」とつぶやくと、北嶋君は、「じつはぼくもそう思っていたんだ」と頷いた。12/1

会社を出て家路を急いでいた私は、露地のどこかで外套がひっかかってしまったので悪戦苦闘していると、私の家の中にいる誰かがその姿をじっと見つめている。ようやくひっかりが取れた私が家の中に入ると、見知らぬ美少女が「よござんしたね」と言うのだった。12/2

業績悪化で荒蕪地に移転してきた会社は、鉄板を針金で囲んだバラックのような建物で、前田さんの獰猛な犬どもが、ワンワン吠えながらあたりをうろつきまわる。それでも私は、愛犬ムクをひしと胸に抱きながら、仕事を続けていた。12/2

私が急いで呑み下した聖句は、私の腹の中をあちこち揺れ動きながら、青白く光り輝いていたが、時々口から飛び出しそうになるので、母はハラハラしながら見守っていた。12/3

増田君のところに会社から1000万円も振り込まれていたので、大道君は非常に心配して、「これはどういう素姓の金なんだ」と、しつこく尋ねるのだった。12/3

パーティー会場に暴漢が乱入して、剣を振り回したために、何人かの若い坊さんの両手が斬り落とされてしまいました。12/5

私は緑の牧場の羊を次々に殺していったのだが、その羊はじつは凶悪な殺人犯の偽りの姿だった。12/6

東国の王も、今では相当落ちぶれてはいたが、敵に追われた私が逃亡する前夜には、最後の晩餐だといって、懐に入れて大切にしていた手作りのパスタを御馳走してくれた。12/7

私は常に2つのユニット、2つのツールから組み立てられていた。20万円と10万円の2つの札束のような。12/7

友人の発表会に出席しようと、地下街の通路を急いでいたら、いつのまにか清水トモ子が私にぴったり寄り添って「あのお課長、わたし会社を辞めますのでよろしくお願いします」と言うので、驚いて立ち止り、じっくり話をしようと思ったら「ちょっとトイレ」というなり姿を消してしまった。12/8

キャンパスの中をぶらぶら歩いていたら、死んだ酒井君が畳んだ椅子を持ってきて「これに腰かけると楽ちんですよ」という。まもなくここで「アラビアのロレンス」を野外上映するというのだが、彼と一緒に座っていると、突如にわか雨が降ってきた。12/8

清さんの会社に若い女子が5人も6人もやってきたという話を聞いて、一度覗いてみようと思っていたが、その機会がなく時が経つうちに、仕事にあぶれてしまったので、もう恥も外聞もなく泣きついたら、すぐに雇ってくれた。

しかし男性の社員は俺とサトウだけなので、どうにも照れくさくて仕事にならず、新橋へ行って陽のあるうちから酒をくらっていたら、サトウが怒り狂ってやってきたので、なだめすかして別の店で呑みなおすことにした。

ところがその飲み屋の石の階段に左足を置いたところ、足の周りに小さい赤いカニがうじゃうじゃと蠢いているので驚いた。「これは超珍しい種類のカニだから、全部捕まえよう。お前も手伝ってくれ」とサトウに頼んだら、「ダメヨ、ダメダメ」と断られてしまった。12/9

松井は、「低い球は右に押し出すように打たないと、打率が上がらないんです」と言いながらそのやり方を実演してくれたので、私はそれにヒントを得て「右斬り作戦」を決行した結果、クーデターは見事に成功したのだった。12/10

それがどういう内容だか分からないのだが、私は致命的な失敗をしてしまったらしい。私自身にも、会社にも、大勢の人々にも多大な迷惑と損害を与える失敗らしいのだが、当の本人である私はどうしていいのか全然分からないのだった。12/11

ここは僕たち孤児を収容する施設です。今日はウィーンからライナー・キュッヒルというはげ頭のおじさんがやって来て、僕らのためにヴァイオリンを演奏してくれることになったのですが、駆け足でやってきたので、椅子に躓いてひっくり返ってしまいました。12/12

「さあここからはサハラ砂漠だよ」という声が聞こえたので、頭を上げて前方を見ると、遥か彼方まで砂山が広がっているのだった。12/13

海に飛び込み、彼女の家は青の洞門の下にあったはずだと思いながらどんどん潜っていくと、岩で造られた部屋が2つあったので、左の方に進んでいくと、彼女にそっくりの女性が私を手招きするので、そのまま抱擁してベッドで事に及ぼうとした。

ところが、やはり私のあそこはぐんにゃりとしたまんまで期待にこたえられず、「どうにもこうにも」と嘆いていると、いつの間にか別の女性がやって来て、「母と私を間違えるなんて」と怒り狂っているので、私はまたしても「どうにもこうにも」と呟くのみだった。12/13

母と投票所を訪れたら、選挙管理事務所の立会人の2人が母に暴言を吐いたので、思わずカッとなって殴りかかったら、そいつらの体は、じつは鎌倉青年団が大正時代に造った鎌倉石の石碑で、眼だけがギョロギョロ動いているのだった。12/14

自慢ではないが、私のモノは素晴らしい性能を備えているらしく、ひとたび交わった女性は病みつきになるらしい。そんな噂をどこから聞きつけたのか、一面識もない女性たちが、毎朝門前市をなして、全裸で佇んでいるのだった。12/15

その可憐な美少女に密かに好意を抱いていた私だったが、彼女にどう思われているのか自信がなかった。そこへあるカメラマンが猛烈にアタックしはじめたが、彼女は徹底的に無視したので、嬉しくなった私は、カメラマンに蒸しタオルを掛けて抹殺してやった。12/16

「蜂起の時は、こうやって敵に向かって傲然と顔を上げて、戦場に突き進むんや。みんながあんたを見てるんや。討たれることを恐れてはならんのじゃ」という声がした。12/17

地下の奥深くにある迷宮の中で、私はよく締め切りを忘れた。いろんなエレベーターやエスカレーターを次々に乗り換えないと目的地にたどり着かないので、ただそれだけでいたずらに時が流れてしまうのである。12/18

やっと山登り組合のコンセンサスが統一されたらしく、「世界百名山」の広告がたくさん出るようになった。12/18

編集長から8ページもらったので、私は新橋の「新・橋」にある新聞社を舞台に活動する男女の仕事や哀歓を、枚方の菊人形のような立体模型で表現し、横浜行きの電車が停まるプラットホームで、その掉尾を飾った。12/19

私に気がある外国人の女を、彼女の希望通りに階段の上でひんむいてやると、女は泣いて喜んでいた。するとそれを見た日本人の女が、「この女、なんてザマなの」と罵ったので、私は彼女もひんむいてやった。12/21

ある日、アフリカの熱砂の町ハラルにいる私たち邦人が全員集合して、最近の国際情勢やビジネスについて論じ合っていた。突如武装した黒い兵士が乱入して銃をぶっぱなして散会を命じたので、みな蜘蛛の子を散らすように大急ぎで逃げ出したが、取り残された1人の半裸の男が倒れて口から泡を吹いている。助け起こそうと近寄ってみるとアルチュール・ランボオだった。12/23

私は一晩中自分の夢をキャンバスに描くのに忙しかったが、いちばん難しかったのは、夢の内容と表象の相関関係だった。12/24

新しいテレビ番組の企画書を書いているのだが、書いても書いてもそれが文字にならないので、私は非常に焦った。12/25

共同テーブルにつくや否や、弾丸列車に関する出席者の問題意識はただちに共有されたので、私が機関銃に銃弾をガチャリと装填するや否や、祖父小太郎が登壇して「では、ただ今から弾丸列車を発車させる」と宣言した。12/26

この前の大火の時に撮った写真を缶詰にしておいたら、いつの間にか腐ってしまっていたので、最近の火事の写真に差し替えた。12/28

波がとどろきわたる大河だったのに、一瞬にして大蛇がとぐろを巻くようにうねりながら粘土に変化し、やがて紅茶色の土になってしまった。12/28

3時半から授業が始まるので、校舎めざして野原を歩いて行くと、若き日のオードリー・ヘプバーンにちょっと似た少女が頬笑みかけたので、挨拶を交わすうちに、なんだかえもいわれぬ懐かしさを覚えて、どんどん好きになってしまった。

近くのカフェに入ってどうということもない話をしていると、ヘプバーンが入って来た客を避けるような素振りをするので、「どうかしたの?」と尋ねたが、「別になんでもないの」と答えるばかりだ。

そのうちに時が速やかに流れたので、「僕は3時半から授業があるから、そろそろ行かなきゃ」と立ち上がると、ヘプバーンは「あら、この前と同じことをおっしゃるのね」と言うので、確かにこれと同じことが以前に起こったことを思い出した。12/28

電通と博報堂に頼んで別荘を作ってもらったら、「これはあなたの家ではなく生活の党の人の家だ」といわれてしまったので、いたく当惑しているわたし。12/29

俺とナカシマが寝そべりながら仕事の話をしていると、突然人妻らしき妖艶な女性が、ナカシマのお腹の上に乗っかって来て、「ナカシマさーん、あたしと結婚してよ」と、猫撫で声で甘えた。

するとナカシマは「バカヤロ、俺は3人も嫁はんがおるんじゃ。4人目の嫁はんなんかいらん、いらん」と断ったら、妖艶女は「いやん、いやん、嫁にしてよ」と激しく身悶えしたので、ナカシマは黙りこんでしまったが、恐らくボッキしていたのだろう。12/29

それから会社に行ったが、その妖艶女がまた現れて、今度は私の作品を見せてくれとせがむので、「しょうがないなあ」といいながら一緒にエレベーターに乗って喫茶店へ行くと、狭い店内にむちゃくちゃに大勢の若者が、裸同然の恰好で座り込んでいる。

作品を見せてやろうと妖艶女を探したのだが、いつのまにか姿を消してしまったので、もう誰でもよくなって、たまたま通りかかったアオキ嬢に見せたが「よく分からないわ」という。

喫茶店にはスクリーンに映画が上映されていて、ヨコヤマリエとヨコオタダノリが新宿の紀伊国屋でからんでいるのを、口をあけて眺めていた。私が「もうじきヨコヤマリエが万引きするよ」とアオキ嬢に囁くと、いつの間にか傍に立っていた妖艶女が、「そうじゃなくてヨコオタダノリが万引きするのよ」と訂正するのだった。12/29

BSCS社の依頼で講演をして各地を巡回していたが、あるときこの会社は、衛星放送関連の業種とは無関係な金融ファンドと知って愕然とした。12/30

この歳になっても試験を受ける羽目になってしまったが、厭で厭で仕方がないので、終始投げやりな態度で面接を受けていると、昔の自分が思い出されてなおさら落ち込むのだった。12/31

 

 

 

旅日記

 

みわ はるか

 
 

先日、小学校の同級生2人とともに旅行に行った。目的地は淡路島と姫路。電車と新幹線、高速バスを乗り継いで行った。

明石海峡大橋は大きかった。想像以上に大きかった。海からの高さも高く、落ちたらきっと助からないだろうと思ったら少しだけぞっとした。淡路島は快晴だった。渦潮を見るためのフェリー乗り場にはちょっとしたお土産屋さんがあった。いたるところに玉ねぎを使ったお菓子やスープなどがたくさん並んでいた。玉ねぎが有名だとは聞いていたけれどこんなにも推しているのには驚いた。時間になったのでフェリーに乗った。潮のにおいが鼻につんときた。海は青いというより鮮やかなグリーンだった。渦潮は吸い込まれるような美しさと迫力があった。海風は気持ちよかった。

古民家を改装したような民宿に泊まった。女将さんはとても親切な人だった。隣との壁は薄かった。大学のサークルらしきメンバーが泊まっていたようだった。とても騒がしかった。お酒を飲んだ。たくさん、久しぶりに飲んだ。3人だけが知る昔話は秘密の共有のようで嬉しかった。わたしたちはもうわたしたちだけで旅行に行ける年になった。お酒を飲めるようになった年もずいぶん前に通り越した。もうこんなに楽しくゲラゲラ笑いながら過ごす、この3人の夜はきっと来ないだろう。結婚する人がいるだろう、転勤で遠方にいく人がいるだろう、色んな制約がたちはだかるだろう。お互いそれをわかっていたから、ずっとこの日が続けばいいと思ったはずだ。

翌日は生憎の雨だった。各々好きな色の傘をさした。小学生のときは黄色の傘でないとだめだったことを思い出した。あの時は後ろから見たらみんな同じに見えたっけな。
姫路城はやっぱり白かった。天守閣に登るのに1時間もかかったけれど、けっしてお城に興味があるわけではないけれど、確かな感動を味わった。だから世界遺産なんだなぁ~と感じた。

帰りの新幹線はあっけなく地元の最寄り駅に着いた。別れの時間だった。貴重なこの時間をかみしめながら手をふって別れた。また行こうねとは誰も言わなかった。それがなかなか難しいことをお互い分かっていたし、社交辞令を言うような間柄ではなかったから。それが逆に清々しかった。

雨がいつのまにかやんでいた。雨水で少し重くなった傘をぷらぷら揺らしながら帰路に着いた。