長田典子『ふづくら幻影』読書メモ

 

長尾高弘

 
 

 

『ふづくら幻影』は、作者が幼少時に暮らし、人造のダム湖である津久井湖の底に沈んだ旧神奈川県津久井郡中野町不津倉にまつわる詩作品を集めた詩集である。以下は、個々の作品の感想。まだ詩集を読まれていない方は、先に詩集を読んだ方がよいかもしれない。

「祈り」。「涙」という縦の動きが「水位」という言葉で横に広がる「湖面」という境界となり、その下に沈んだ祖先との間に長い距離ができる。この場合、水は必然的に冷たいものになるだろう。最後の「永遠に結露する」が見事。

「夏の終わり」。湖が渇れて地上に現れたかつての村の絵が二度描かれる。おじおばが若かった頃はまだどこがどこだったかわかるが、「新しく家族となった男」と数十年後に来たときにはもうどこがどこだかわからない。湖底というふだん見えないものが見えたときに数十年という時間が重層化される。「男」という言葉がちょっと冷たく感じられて気になる。

「上を向いて歩こう」。「幼すぎた私の涙」の5行と坂本九の歌で工場にいた家族、親戚、奉公人の思いを描いている。天井が夜空になって星が輝くことから、決して辛い涙ばかりではないのだろう。

「バャリースのオレンヂジュース」。働く人々の褻の日々を描いたあとで晴れの日が描かれる。ふたつの詩で高度経済成長期の空気をよく伝えていると思う(私も長田さんよりさらに幼いながらその時代を生きたので、ぼんやり思い出すものがある)。

「セドリックとダイナマイト」。タイトルのふたつはセットであることが明かされる。でも、補償金はまだ入っていないのだ。このセドリックの種明かしの1行が初読のときから印象に残った。火消しの場面は、この詩集では書かれていない家族の運命の伏線になっているようだ。最後から2番目の連はひょっとするとなくてもよかったのかもしれない。

「しらんぷり」。「大きな魚」が効いている。日常と非日常。外から来た人の死が明らかになったところで繰り返される「いつも通り」も効いている。最後の連を読むと、遠くから見ると光っているのに近づくとただの石になってしまう川の石の連が自然の恐ろしさの伏線になっていたのかと気づく。

「蛍」。50年前は私が住んでいた柏市でも行くべきところに行けば蛍が見られた。20代の頃、越後湯沢で見たのが最後だなあ、と蛍がいた頃のことを思い出す。すごい技を持っているおじさんというのも、ごくわずかになっただろう。その時代を知っている者には、時代が変わったことがよく伝わってくる。

「水のひと」。過去には夢ではなく現実だったはずの野辺送りの行列が夢のように美しく描かれている。とりどりの色とひらひら、ゆらゆらといった畳語(ひとびとというのもある)がそのような効果を盛り上げていると思う。最後の「商店街のある町で/溺れたひともいるそうです」の2行が、村を失ったことの後悔を問わず語りに示していてうまいと思う。

「お祭り」。過去の村の生活を美化しているだけではなく、男の子は神輿をかつげるのに女の子はかつがせてもらえないというジェンダーの問題を告発口調ではなくそっと示している。「黒曜石」は、「ツリーハウス」や「空は細長く」でも何食わぬ顔をして再登場する。

「かーん、かーん、キラキラ」。ジェンダーでは差別される側だったが、民族では差別している側に立っている。食べもののなかに砂が混ざり込んでいたときのような苦さがある。でも、この作品が入っていることによって、この詩集が描く村の生活は深みが増したと思う。

「川は流れる」。これを読んで改めて地図を見た。相模川の源流が山中湖にあることを初めて知った。川をせき止めて作った湖の詩集に川の源流の話は欠かせないだろう。最後の「めだかに遊んでもらっていたのも気づかずに/川がお母さんのようだったのも気づかずに」の2行が効いている。

「ツリーハウス」。村が湖底に沈んだあとの再訪の詩であり、「夏の終わり」と対応している。このふたつの詩の間に過去の村の絵が入っている。「蛍」からの3作が、開発と無関係だった頃の村の生活を活写していて、それが詩集のちょうど中央あたりになっており、時間をU字形にたどっている。山羊の黒曜石と「わたし」のうんこの対比が面白い。

「午前四時」。亡くなったご両親が夢に現れる。浜風文庫で故郷を離れたあとのお父上との激しい対立関係についての作品をすでに読んでいるので、「もう借金取りに追いかけられるのはいやだからね/こんどこそ儲かるといいね」という2行をいずれまとめられるだろうその詩集の予告編のように受け取ってしまった。でも、ここでは「もっともっと たくさん/いろんな ありがとうを 言わなくちゃ」といった行に救われる。

「黄浦江」。メアンダーはmeanderで蛇行という意味の英語。前作『ニューヨーク・ディグ・ダグ』を思い出させる。国境を越えて蛇行という共通点を持つ中国の川と外国の人が登場することによって詩集の風通しがよくなっている。

「空は細長く」。今という時間から過去を振り返っている。スサノオが退治したヤマタノオロチなるものもおそらく川であり、彼は治水の力によって権力を獲得したのだろう、というようなことを思い出す。詩集内の位置からも、湖の底に沈んだ川沿いの村へのレクイエムのような響きを感じる。

「巡礼」。ユーラシア大陸の西の果てで東の果ての故郷を思う。時間も戦国から現代までをたどり、「セシウム」が効いている。スケールが大きくて、詩集の締めくくりの詩にふさわしい。

途中で少々文句もつけてしまったが、時代と人が見事に描かれていて、構成がよく練られているすばらしい詩集だと思う。最後にもうひとつ文句を言ってしまうと、製紐工場の最後を見たかった。それは次の詩集で明らかにされるのかもしれないけど。

 

 

 

不確かさを確かめる

中村登詩集『笑うカモノハシ』(さんが出版 1987年)を読む

 

辻 和人

 
 

 

第3詩集となる『笑うカモノハシ』は前の2冊に比べてぐっと言葉の運びに飛躍が少なくなり、意味が辿りやすいものになっている。同時に論理の筋道や構成がずっと複雑になっている。比喩を使って物事を象徴的に示すのではなく、時空をじっくり造形することで詩が展開されていく。『水剥ぎ』の頃には、一見解き難く見える暗喩が現実の一場面一場面を鋭く名指していた。3年後の『プラスチックハンガー』では非現実的なイメージを遊戯的に軽やかに展開する中、ふとした瞬間に生身の現実の吐露に立ち戻るという仕方で、虚構と現実の間を越境する面白さを打ち出す書き方だった。『笑うカモノハシ』では、物語を散文的な言葉遣いでかっちり展開させ、その物語を、思惟する作者の姿の比喩として使っている。
ここで中村登の生活の変化というものを考えてみたい。鈴木志郎康がまとめたウェブページ「古川ぼたる詩・句集」によると、中村登は1951年に生まれ、和光大学を卒業後、大学の仲間と印刷所を始めたそうである。1974年に結婚し、1979年に東洋インキ製造株式会社に入社とある。和光大学は当時左翼運動の盛んな大学だったので、中村登もその影響を受けたかもしれない。普通の就職を避けて起業したがうまくいかず失業。結婚し子供ができ、若くして一家の大黒柱になった中村登は結局、就職することになる。『水剥ぎ』における過激な暗喩は、不安定な生活への激しい不安が直接反映されていると考えられる。性にまつわる詩が多いのも若さ故ということであろう。『プラスチックハンガー』の詩は、会社勤めに慣れ、子供たちはまだ幼いながらも手がかからなくなってきて、心に余裕ができた頃に書かれている。言葉の運びに遊びが多くなっているのはそうした心境のせいもあるだろう。そして『笑うカモノハシ』では、30代半ばに差し掛かり、ぼんやり見えてきた老いや死について想いを巡らせ、世の中を俯瞰して見ようとする態度が見られる。まだ十分若いが青年期を過ぎ、自分を取り巻くものについて客観的に考えてみようという感じだろうか。こうしてみると、中村登が環境や生理的な変化に即応し、作風を変化させていることがわかる。

思考の詩と言っても、詩的な修飾によって思索を綴っていくのではなく、「笑うかも」とトボけながら、その時々の思考の姿を肉感的に描いていくのである。
まずは冒頭の詩「あとがきはこんなかっこいいことを書いてみたかった」を全行書き写してみよう。

 

空0現実とは気分
空0
空0波動の連続体であるという
空0大胆な仮説が
空0自分の欲望
空0から
空0見えた世界を呼びとどめる

空0呼びとどめ
空0どちらに行けば極楽
空0でしょう
空0どちらさまも天国どちらさまも地獄世界は
空0あなたの思った通りになる
空0思った通り
空0風のように、鳥のように、花のように、苦しみにも
空0千の色彩、千の
空0顔がある

空0千の色彩、千の顔が
空0「いたかったかい」
空0馬鹿げた質問だが
空0わたしには他に
空0話しようがなかった。

(『日本語のカタログ』『メジャーとしての日本文化』『メメント・モリ』映画『路(みち)』のパンフレット『ジョン・レノン対火星人』より全て引用)

 

()の注釈から、全体が複数のテキストからのコラージュで成り立っていることがわかる。他の中村登作品には見られない「かっこいい」言葉が並んでおり、そしてそのことをタイトルで示している。言葉についての言葉、つまり「メタ詩」だが、照れながらも彼の関心事を率直に語っているようである。現実は「気分/の/波動の連続体」、主体のその時々の気分が現実を決定する、天国も地獄も気分次第、現象は千変万化するがそれも主体の気分を反映したもので、それ以上は話しようがない、大意としてはこんな感じだろうか。ここで中村登は、万物は常に流転するといった哲学を語っているのでなく、自分という存在の頼りなさ、不確かさについて語っている。世界に触れるのは自身の感覚と身体を介してしかできない、それは自分という存在の頼りなさや不確かさを実感することと同じ……。この感慨は「扉の把手の金属の内側に/閉じこもってしまいたい でも/閉じこめられてしまえば/出たいと思う」(「便所に夕陽が射す」より)と書いた『水剥ぎ』の頃から登場していたが、この詩集では「不確かさを確かめる」ことをメインテーマに据えている。

「自重」は互いに関連のない4つのシーンを集めた詩である。その4連目。

 

空0声を聞いて
空0声の刺激に
空0鼓動をかくし
空0ドアにかくれてトイレで
空0手淫、
空0勃起しはじめるものの
空0わけのわからなさ、男根というものが
空0わけのわからないものになって三年経ち四過ぎ
空0なにもかも
空0なにも知らないというままで
空0わたしは
空0この男のなかから
空0消えうせることになってしまうのか

 

トイレに籠って自慰をする、普通の男性の生理的な行動と言えるだろうが、そんな自分の行為を作者は「わけのわからないもの」と位置づけている。子作りを終え、微かに性欲の衰えも自覚されている。自慰行為をするといっても以前ほど行為に没頭できなくなり、妙にシラけた気分になってしまう。30代にもなればそういう覚えは珍しくないし、普通は仕方のないこととして流してしまう。が、中村登はそれを注視し、自分を「この男」に置き換え、更にそこから消え失せる想像をする手間をかける。何らかの結論が出たわけではなく、非生産的極まりない想像だ。しかし、「不確かさを確かめる」ことに憑かれた中村登はそれをやらないわけにはいかない。

不確かなもの、曖昧なもの、あやふやなもの、を追求するという点で徹底しているのが「夢のあとさき」である。

 

空0さっきまで草か木になるんじゃないかって
空0思っていたと中村がいうと
空0へェーいいわね花になるなんて思えたのは
空0十七八の娘の頃だけだったわ
空0という森原さんが
空0この間たまたま清水さんと
空0向い合わせになってね
空0清水さんはねこう頭の上に
空0いっぱい骨があるんですって

 

詩人同士と思われる仲間たちとワイワイお喋りするところから始まる。どうやら話題は死んだらどうなるか(!)という物騒なもの。しかし、話のノリは軽い。こんな調子でだらだらと会話が続いた後、会合が終わり、話者は妻と待ち合わせの場所に行こうとして道に迷ってしまう。

 

空0池袋では出口がいつもわからなくなる
空0待ち合わせたスポーツ館の方へ行く出口がどれなのか
空0わからなくなっていつもちがう方へ出て
空0いちど出てからこっちじゃないかと探して
空0引き返してから反対側へ出てでないと行けない
空0カミさんと池袋に行ったことがないから
空0カミさんと池袋に行く中村は
空0きっと
空0なじられる

 

詩の後半はこのようにまただらだらと、待ち合わせの場所に辿り着けない(結局電話をして迎えに来てもらう)愚痴のようなものを綴る。この「だらだら」は意図的なものであり、口調としては弛緩しても詩の言葉としては緊張感がある。だらだらした時間も確実に生きている時間の一部であり、後から見ればだらだらしているが、直面したその時その時は抜き差しならぬ現実そのものである。中村登はそうした時間の質感の不思議さを、自分の身に即して書き留めようとしている。

「胸が雲を」は家族の間に流れる空気の機微を描いている。個であり群でもある、という当たり前と言えば当たり前の関係を、わざと突き放し、「不思議なもの」として眺めている。

 

空0ボクとカミさんはそれぞれ
空0立ったり座ったり横に曲がったりして
空0たまに止まっていると
空0ここがどこなのか見失うことができる
空0自分が誰なのか見失うことができる
空0常々独身に戻って
空0気ままに人生をやりなおしたいと思っている
空0ボクが
空0「別れようか?」
空0「あなたがそうしたいと思ってんならわたしはいつだってOKよ」
空0いとも簡単に答える
空0そんな簡単に別れて後悔しないのか?
空0もっと深刻に理由(わけ)を探したらどうだ!
空0「どうして別れたいの?」
空0「だってあなたが先に別れようか? っていったんじゃあない」

 

互いに信頼し合っているからこその微笑ましい会話だが、夫婦と言えども個と個なのだから、どちらかが強く望めば別れることは実際に可能なのだ。冗談であっても口に出してしまうと複雑な想いが残る。そこに、「もっていたオモチャを/遊び相手にくれてしまった/子供」が戻って来る。子供がいると家族という形が安定して見えることは見えるが、

 

空0オモチャをなくしてしまったボクたち三人の子供の胸の中
空0自転するものがある

 

父親と母親と子供ではなく、子供と子供と子供がいる、と言い換える。別々に生まれ、別々に死ぬ、頼りない個が集まっているだけなのだ。三人とも、「ここ」とか「誰」とかを「見失うことができる」のである。中村登の築いた家庭は強い愛情の絆で結ばれているが、それでも個である限り、物理的にいつか離れ離れになることを免れることはできない。

そして「チンダル現象」は、物理としての現実を俯瞰した視点で問題にした詩である。

 

空0子供たちがチンダル現象だ、といっている。

空0宇宙の写真をみたことがある、とてつもない宇宙の、その写真のなかでは、太陽さえも、

空0チリかホコリのようなものだ、った。

空0窓から射しこんできた光の、なか、微小な粒子が、ゆらいで、舞い、うっとりと、光の河

空0が、にごっている、あの天体の写真のよう。

 

チンダル現象とは、光が粒子にぶつかって散らばった時に見える光の通路のことで、木漏れ日などがそうだ。この詩は一行ごとに空行が挿入されており、チンダル現象の光の進路を摸しているように見える。世界の成り立たせる原理について、以前の詩には見られなかったような抽象的な思索を繰り広げていくが、それで終わらず、自身の存在について想いを巡らせていく。詩の中ほどに「生物が、海から、あがってきた」ことを「無残な記憶」とした上で次のような見解を述べるのだ。

 

空0それは、わたしたちが、このネコや、このヒトである、そのことが、すでに、
空0そのことで、力の抑圧なのだった。

 

本来水の中にいるのが自然だったのかもしれない生物にとって、陸にあがって生活するということ自体が抑圧ということ。これは作者の実感からきたものだろう。平穏な毎日の中に何かしらの抑圧を感じる。社会のせい、人間関係のせい、という以前に、自分の力では如何ともし難いもっと根源的な原因があるのではないか。詩の最終行は「チリか、ホコリにすぎない、微小な球体の表面では、信じ、なければ、開かれない、無数の扉が虚構のことに、思えてくる」と、測り難い自然の営みへの畏れが語られる。

「水の中」でも、世界の理についての見解が披露される。

 

「 子供にせがまれてつかまえたその川の子魚を飼っている。水槽に入れて、エサをやった後はしばらく眺めている。と、魚と目が合ってしまう。魚は川の中にいればひとの顔を正面から見ることなんてことはないだろうにと思ったその時、魚がぼくとは全く違う別の世界の生き物であることに、あらためて気がついた。魚は水中の生き物だ。そしてぼくは水中では生きていけない生き物だ。 」

 

魚の目から見た自分の姿。本来ならあり得ないはずの出会いの形。中村登はここで自分という存在を自然界の秩序の中で相対化してみせる。水槽で魚を飼うという、自然の秩序を乱す行為によって逆に秩序の形が見え、そこから自分の存在の特異性が見えてくるのである。
俯瞰した視点で自分の存在とは何かを問えば、一個の生命体であるというところに行き着くが、生命体には寿命があり、その儚さが意識に上らざるを得ない。

「水浴」は、子供が生まれたばかりの子猫を拾ってきたことの顛末を、句読点を抜いた散文体で描いた詩。子猫は弱っていたがスポイトで与えた牛乳を次第に吸うようになっていく。

 

「 よしよしとしばらく腹のふくらみをなでよしよしと頭をなでていると抱いている手にしっとりと暖かいものが流れ出し次にはポロッと米粒くらいの黄色いウンコをするのでぬれタオルで尻をふいてやり目のあたりをたぶん親猫が舌でそうするだろうように指でさすってやっていると予定していた海水浴に行く日も近づいてきているしこのままネコの子を置いて出かけるわけにもいかないしもう行かないものと決めている七日目の晩右目が半分ほど開き左目がわずかに割れたように開き牛乳をあたため用意している間中も抱いている手のひらをなめ 」

 

子猫が死の淵から生還していく様子が細かな描写でもって描かれる。最後は「湯ぶねに水を張り行水よろしく水を浴び体重計にそっと頭を下げて下腹をわしづかんであと三キロ三キロと股間を見おろすむこうからとっ、とっ、とっ、とっ、とっ、とくるものに目のまえがくらむ」と、子猫が元気になった様子を示す。楽しみにしていた海水浴をあきらめ子猫の介護に尽くす家族の暖かさに胸を打たれるが、より印象的なのは、生き物が死と隣接していることを念頭に置いた作者の描写の仕方だろう。目の前の生き物が死んでしまうかもしれないというびくびくした気持ち。子猫が元気になって良かったという事実よりも、生は死を内包している、その観念を浮かび上がらせるために、せっせと細かな描写を積み重ねているように見える。

生命の在り方への関心が個体差という点に向かうこともあれば、

 

空0うちにもどって
空0娘、一九七四年二月十二日生。
空0その娘の母、一九四九年二月四日生。
空0十二才の足と
空0三十七才の足と
空0見くらべて
空0十二才の足の方が大きくて平べったい
空0歩いた道のちがいが
空0足に出ていて
空0三十七才のは
空0ころがってた石ころ
空0つかんだままの
空0甲が張ってて小さくて
空白空白空白空白(「やり残しの夏休み自由課題」より)

 

生命の連関について、神秘的なスケールで考えてみたりもする。

空0きのうまでは見ていて見ることがなかった
空0ないところに咲いた花が
空0死んだ祖先の魂ではないのか
空白空白空白空白(「花の先」より)

空0樹木のような意識は、個体を通って、個体を離れてもなおつながっているような
空0意識は、目には見えないけれども、ある日、花が咲いたように、思いもよらないところに、
空0パッと開かれるのを、どこかに感じているから、花に呼ばれるように花見をしにいく。
空白空白空白空白(「花の眺め」より)

 

これらの詩は、自分という個体がこの世のどのような秩序の中で位置づけられているかについて想いを巡らすものである。そして、そうしたテーマを自分の頭の中の出来事として完結させるのでなく、身近な人とのつきあいを通して展開した作品もある。

 

「 トーストでなくてふつうのパン、ウインナ、目玉焼、トマト、三杯砂糖を入れた紅茶を三杯、それだけを食べて、頭をとかす、ウンチをする、それから八時半頃、歩いて野田さんは出社する、朝はセカセカするのがキライだから、まわりはほとんど商店街だ、 」
空白空白空白空白(「八百年」より)

 

野田さんは会社の同僚のようだ。出社から退社までの様子を、事実だけを列挙し、感情を廃したとりつくしまのない調子で淡々と描写していくが、最後の2行で見事に「詩」にする。

 

「 月ようから金ようまで、野田さんは、こうして、もう、八百年は経ってしまっている感じがする、八百年か、と野田さんは言った。 」
空白空白空白空白(「八百年」より)

 

家と仕事場を往復する単調な毎日を、「八百年」という言葉が、非日常的な響きのするものに変えていく。実際は「八百年」というのは雑談の中で冗談のつもりで出た言葉なのだろう。しかし、句読点のない、読点だけでフレーズを切る無機的なリズムの中では、「八百年」は平凡な毎日がそのまま虚無に通じていくかのようだ。

 

「 陽射しが、すこし、弱くなって、Tシャツ、ビーチサンダル、で、すごせる、野田さんは、朝、おそくおきて、奥さんの、尚子さんが、家のことをすませたら、林試の森に、出かける、オニギリ十二、三個、麦茶、オモチャで、出かける、オニギリはだから、玉子くらいの大きさで、林試の森は、目黒と品川の境、近くに、フランク永井の邸宅があったり、 」
空白空白空白空白(「ピクニック」より)

 

「八百年」と同様の調子で始まるこの詩だが、中ほどから印象的な展開が始まる。

 

「 太陽の光が、差しこんで、チリにあたって、濃くなって、ちょうど、写真のなかの、星雲のようで、野田さんは、無数の、チリの、チリのひとつの、うえに、なにかの、はずみで、ピクニックに来てしまった、朝の、光の、波打際で、光を追い越させている、と、尚子さんも、秋一郎くんも、生きている写真だ、あっというまに、なつかしくなって、 」
空白空白空白空白(「ピクニック」より)

 

陽が差し込んだのをきっかけに、家族の楽しいイベントが一転して物理現象に還元され、更に神秘体験のような状態に入ってそのままエスカレートしていく。

 

「 木立の緑が、光って、カメラ、野田さんは、もう、自分が、カメラになってしまって、いる、光が、濃くなって、そこが、じんじん、じんじん、チリのようなものを、吸い込んで、吹き出して、ものすごいスピードで、止まっている。 」
空白空白空白空白(「ピクニック」より)

「ものすごいスピード」で「止まる」とはどういうことか。今「生きている」のに「写真」で「なつかしくなる」とはどういうことか。普通、人は、ピクニックをする時は日常生活の論理で考え行動し、宇宙の原理について考える時は、日常を脇に置いた、科学的ないし哲学的な構えを取る。それらをつなげては考えない。だが、ピクニックも宇宙の現象の一つであることに間違いない。中村登は「詩の領域」を設定し、平穏な日常の風景が神秘体験と化す離れ業をやってのけるのである。

「密猟レポート」は、こうした超越的なアイディアを、ナンセンスなストーリーを通して綴った詩である。

 

空0今夜、Nさんらとクルマで
空0東北自動車道をとばし、
空0野鳥を密猟しに山に入ります。
空0夜を高速で飛ばすのは
空0まったく神秘な気分です。
空0ひかりのふぶくなか
空0なつかしい地面をただようのです。

 

ふざけた口調で、ホラ話であることを読者に明らかにする。このまま間の延びた調子で密猟の様子で語っていくが、後半、話は不意に脱線する。

 

空0先日のわたしは
空0酒を飲みながら
空0友人の家の水槽に
空0変なことを口ばしっていました。
空0ゆらゆらと水槽で泳いでいる
空0金魚を見ているうち
空0ふっと
空0太陽もウジ虫も
空0区別がつかなくなっていました。

 

そして突然、次のような取ってつけたようなエンディングを迎える。

 

空0わたしたち4人は銃をもっていなかったため
空0熊にやられて死んでしまいました
空0わたしたち4人が死んでも自分たちがここに
空0ほんとうは何をしにきたのかわかりませんでした。
空0わたしたち4人が死んでも自分たちが
空0この地上にほんとうは何をしにきたのかわかりませんでした。

 

仲間と鳥の密猟に行き、ふと意識が飛んで別のことを考え、最後は熊に食べられて死んでしまい、その死について自問するが答えが見つからない……。ナンセンスなホラ話の形を取っているが、この詩は人の一生を戯画化したものだろう。例えば地球を通りがかった宇宙人から見れば、地球人の一生などこんな感じなのではないだろうか。何のために生きているかは遂にわからないが、自分を取り巻く世界の不思議について問わずにはいられない。忙しい暮らしの合間にふっとできた、ユルフワな哲学の時間のイメージ化である。

中村登と一緒に同人誌をやっていたこともある同年代の詩人さとう三千魚にも、類似した傾向の作品がある。

 

空0で、
空0朝には
空0女とワタシの寝息が室内にひろがっています。
空0朝の光が、
空0室内いっぱい寝息とともに吐き出された女とワタシの、感情の粒子
空0に、斜めにぶつかり、キラキラ、光っています、室内いっぱいひろ
空0がった女の、感情の粒子とワタシの感情の粒子もまた、ぶつかり、
空0朝の空間に光っています。
空白空白空白空白(「ラップ」より)

 

平凡な日常の一コマをあくまで日常的な軽い口調で、宇宙の中で起こる物理現象に還元する、そしてその測り知れなさに戦慄する。中村登と共通する部分を持っていると言える。しかし、さとう三千魚の詩の言葉がその測り知れなさに向かって高く飛翔していくのに対し、中村登の詩は地べたに降りていく。さとう三千魚の詩においては、「女」や「ワタシ」は人間としての実体を離れ、高度に記号化されて「粒子」として昇華される。だが中村登の詩は、どんなに抽象的な方向に頭が向いていても、最後は身体を介した、ざらざらした暮らしの手触りに戻っていくのである。妻も、子も、猫も、同僚も、記号化され尽くされることはなく、個別の生き物として存在する。広大な宇宙の隅っこにしがみついている、温もりある生き物としての不透明感を維持しているのである。その核にいるのはもちろん中村登自身であり、自らの矮小さへの自覚が、世界の不確かさを確かめようとする態度に顕れているのである。

詩集の末尾に置かれた「にぎやかな性器」は、不確かな世界の中で共生し、命を紡いでいく生きとし生けるものへの賛歌である。中村登自身ももちろんその一員だ。それでは、全行を引用して本稿を閉じることにしよう。

 

空0にぎやかな鳥の鳴き声
空0にぎやかな蚊のむれ
空0にぎやかな葉むら
空0にぎやかな性器

空0なぜわたしはにぎやかな鳥の鳴き声なのか知らない
空0なぜわたしはにぎやかな蚊のむれなのか知らない
空0なぜわたしはにぎやかな葉むらなのか知らない
空0なぜわたしはにぎやかな性器なのか知らない

空0鳥はなぜ知らないわたしがにぎやかである
空0蚊はなぜ知らないわたしがにぎやかである
空0葉むらはなぜ知らないわたしがにぎやかである
空0性器はなぜ知らないわたしがにぎやかである

空0ふあっきれいにぎやかな鳥の鳴き声
空0ふあっきれいにぎやかな蚊のむれ
空0ふあっきれいにぎやかな葉むら
空0ふあっきれいにぎやかな性器

空0鳥のにぎやかな鳴き声の性器はまたうつくしい
空0蚊のにぎやかなむれる性器はまたうつくしい
空0葉むらのにぎやかなむれる性器はまたうつくしい
空0にぎやかな性器はまたうつくしい

 

 

 

夢素描 17

 

西島一洋

 
 

富岡荘物語 その2

 

夏の夜。深夜、午前二時頃だった。

5キロほど離れたところにある銭湯の帰り。自転車だった。パトカーに追い回され、富岡荘の路地に逃げ込んだ。別に何も悪いことをやってはいないので、「その自転車止まりなさい」というパトカーからの声を完全無視、逃げ切ったか…と一瞬思った。

しかし、警官数人はパトカーからかけ降り、狭い路地にドタドタと入って来た。警官達はしつこく、狭い暗い階段を駆け上がり、僕の部屋の前までくっついて来た。富岡荘二階の5号室が僕の部屋だ。警官達は何か言っていたが、僕は一切無視を通した。僕が鍵を開けると、警官達はバツが悪そうに目を見合わせ立ち止まったが、謝りもせずのそのそと帰って行った。

実言うと、この時、若干、警官を挑発していた。たまたま遭遇したパトカーを見て、わざと一気に自転車のスピードを上げたのだ。自宅の富岡荘のすぐそばだったこともある。このところ、職務質問ばかり何度も受けて辟易していた。ほんとうに面倒臭いとその都度思っていた。

また今回、挑発行為に及んだのは、度重なる職務質問の少し前に、理不尽な警官と口争いだが喧嘩したことがあったので、潜在意識として、警官に対する不信感が募っていたからであろう。

それは、深夜、銭湯に向かう時に警官に呼び止められた時のことである。深夜二時までやっている銭湯、ただ、急がないと閉まってしまう時刻だった。

僕はその当時、朝10時から夕刻6時までは松坂屋というデパートの電気売り場の店員として働いていて、その後ほぼ連続で、夕刻6時過ぎから深夜1時くらいまで大統領というキャバレーでボーイとして働いていた。

毎日、長時間汗だくで働いているので、風呂には入りたい。風呂が唯一の心身復活の場である。アパート富岡荘には風呂は無い。つまり銭湯に行くのが必須でもあった。

ただ、近くの銭湯は、12時過ぎには閉まってしまう。5キロほど離れたところにある銭湯は午前2時までやっている。仕事を終えてからでも間に合う。でも、ギリギリなのだ。

その銭湯に自転車で向かう深夜、同じく自転車の警官に呼び止められた。銭湯が閉まる時間ギリギリなので、職務質問に付き合っている時間は無い。ということで、とにかく銭湯まで一緒に来て、僕が風呂から出て来るまで待ってくれ、と伝えたが、意に解さない。押し問答で、とうとう喧嘩になった。結局、あの日銭湯に行けたかどうか、記憶に無い。記憶にあるのは、あの警官の言い草。「俺は今警官だが、もとヤクザだった。」ということで、なんか脅しを感じたこと、それに、こんなことに時間を費やして風呂に入ることもできなくなることに、僕は完全に腹を立て、「許せん」ということで、殴りはしなかったが殴る寸前までいった。結局は、仲直りして、握手までしたが、おそらく、銭湯の閉店時間には間に合わなかったと思う。

ということで、このところ、警官に対して、不信感というか、形一片で、融通が効かんという、なんとも理不尽さを実感していたので、先の、警官挑発に至った次第である。

で、この富岡荘の、狭い暗い急な階段のすぐ上には、和式便所が二つ。木のドアで、いわゆる鍵は無く、内側から小さな真鍮製のフックをかける。

で、この便所から派生する、排泄の夢の記憶を辿ってみようと思い、警官云々を前書きにした。

排泄の夢の記憶は、次回にしよう。

 

 

 

書けば、形になる。 02

── もしかしたら「邦楽」の良い ものは1部に過ぎないのではないか?

 

今井義行

 
 

プロローグ

前回の「洋楽エッセイ」に続いて、「邦楽エッセイ」を書いてみる事にした。しかし、前回「洋楽エッセイ」を書いてみて驚いたのは、浜風文庫の読者は、大衆音楽を殆ど聴かないのではという事だった。これはとても意外な事だった・・・しかし、クイーンやカーペンターズやビートルズくらいは、さすがに知っているはずだとも思った。わたしは、その時、詩人というのは、俗っぽいものには背を向けてしまうのかもしれないと感じた。エッセイで扱う対象は必ずしも「詩」でなくてもいいはずだ。これが「クラシック」だったら、少しは反応があったのかもしれない。それは、純音楽だからだ・・・けれど、わたしは、凝りもせず「邦楽エッセイ」を書いてみる事にした。とはいえ、わたしは、実は「邦楽」の方は、あまり聴いてはこなかった。そのため「洋楽」よりも遥かに知識を持ってはいない。しかし、なるべくネットで調べて書く事はやりたくないので、「洋楽編」よりも短くなってしまうかもしれないけれども、あくまで自分の言葉で、取り組んでみる事にした。



(取り上げたアーティストは、ほぼ、順不同。またわたしの記憶によるエッセイである為、誤りがあるかもしれない。)

 

● フリッパーズ・ギターについて。

活動期間は1987年 – 1991年。初めは、5人編成からなるグループだったのだが、その後、小山田圭吾と小沢健二の2人組ユニットとなり、「渋谷系」と呼ばれる洒落た音楽を次々に世に送り出し、席巻を巻き起こした。
わたしは、フリッパーズ・ギターの大ファンで、CDは、リリースされる度にすべて買い集めた。小山田圭吾と小沢健二は、ともに和光学園の出身でとても仲が良かったようだ。
わたしは、その頃既に詩を書いていて、1963年生まれのわたしは、1968年生まれの彼らに、猛烈なジェラシーを感じていた。わたしは詩作に夢中だったけれども、実は音楽も演ってみたかったのだ。フリッパーズ・ギターの3枚目にしてラスト・アルバムとなった「ヘッド博士の世界塔」は、頭がクラクラするほど、サンプリングを多用した大傑作だった。
フリッパーズ・ギターは「ダブル・ノックアウト・コーポレーション」名義で、他のアーティストにも、よく楽曲を提供していた。
・・・ところが、その後、彼らはあっけなく、解散してしまった。しかもツアーの真っ最中の事だった。解散の理由は、「音楽的な意見の相違」などではなくて、楽曲を提供していた、元おニャン子クラブの「渡辺満里奈」の奪い合いだったという。本当に、何処か、笑えてしまうところのあるユニットだった・・・

 

● 小山田圭吾について。

今回の東京オリンピックのテーマ曲を担当する予定だった、小山田圭吾。20数年前の、身障者のクラス・メイトへの、壮絶なイジメが発覚して大炎上となり、結局、小山田圭吾はテーマ曲に関わる仕事を辞任する事となった。このイジメにまつわる事は、ヤフー・ニュースなどのコメント欄で本当に多数の書き込みがあって、小山田圭吾は、FAXとSNS上だけで謝罪し、小山田圭吾の所属事務所もまた形ばかりの謝罪をした。そういう経緯の後、オリンピックの主催者側も、大慌てで対応せざるおえなくなったという出来事は、まだ皆んなの記憶に新しいところだろう。

確かに20数年前の音楽雑誌のインタビューで、そのイジメについて、自慢気にベラベラ喋りまくっていた小山田圭吾は自業自得と言われても仕方がないだろう。20数年前の雑誌のカルチャーはそういうものだったという指摘もあるが、わたしはそうは思わない。
いま現在も、全国の何処かで、そのような「(身障者が対象となるような事をはじめとした)相手が死なない程度なら何をやっても良い」という悪質なイジメは行われているはずで、わたしも学生時代からそのようなイジメの現場はたくさん見てきた。そしていまわたしが思うのは、イジメられた側にとって、その体験とは大変な苦痛な事であり、その傷は生涯消えるものではないという点に於いて、小山田圭吾が音楽界から干されてしまいつつあるのは当然の成り行きだとは思う。しかし、クラスでのイジメの場では、報復を怖れたりして完全に傍観者となってしまう夥しい生徒たちもいるはずで、その事もとても大きな罪なのではないかとわたしは思うのだ。そして、わたしもまた、イジメが行われているそのような現場での、確かに傍観者の1人となっていた。このイジメについての問題は、もっと時間をかけて考えられなければならない事ではないだろうか?
ヤフー・コメント欄でわたしはこのような記事を見つけた。「小山田圭吾は、末期ガン患者の方が闘病している病棟で、真夜中に演奏して苦しんで呻き声を出すのを聞いて楽しんでいた」というものだ。こうなってくると小山田圭吾は、イジメの常習犯というよりも「変質者」に近いところがあるのかもしれない。
けれども、テレビにもよく出ている漫画家の蛭子さんは、ヒトの葬式に出席する度に、どうしてもゲラゲラ笑う事を止められないという。そのような蛭子さんが非難されず、小山田圭吾が非難されるというのは、キャラクターの違いという事なのだろうか?そこのところは、分からない。

ところで、この場では小山田圭吾の創る音楽について語らなければならない。わたしは、フリッパーズ・ギター解散後の小山田圭吾のCDは、最初のアルバムから、途中までは買っていた。最初の内は、それは完全に「ポップ・ミュージック」だったのだが、だんだん聴き進めていく内に小山田圭吾が関心を持って創作していくものは「ポップ・ミュージック」から、ブライアン・イーノが創る音楽のような「アンビエント・ミュージック」へと移行していくという事がだんだん分かってきた。わたしは、「アンビエント・ミュージック」にはあまり興味がなかったので、小山田圭吾の音楽は、次第に聴かなくなっていった。けれども、その音楽の方向性によって、小山田圭吾の音楽は、世界でも、知られるようにもなっていったのだった・・・そうして、小山田圭吾は、東京オリンピックのテーマ曲を担当する事になったのだった。


 

● 小沢健二について。

今度は、フリッパーズ・ギターのもう1人のメンバー、「オザケン」の愛称でよく知られている小沢健二について語る事にしよう。
先ず、わたしは、小沢健二の大ファンだ。ソロ・デビューから現在に至るまで、そのファン心は、一切変わってはいない。東大文学部卒業、指揮者・小沢征爾の甥というような育ちの良さがあるにせよ、そんな事はどうでもよく、小沢健二は、日本のポップ・ミュージック界に於ける、天才クリエイターである。ああ、オザケンは、なんて素晴らしいのだろう!!

1993年にリリースされた、セカンド・アルバム「ライフ」は、名曲満載である。「今夜はブキーバック」「ラブリー」をはじめ、捨て曲一切ナシ!!歌声の不安定さ(音痴)がよく指摘されるが、そんな事はどうでもよかった。とにかく、小沢健二は魅力的な声をしている。「フリッパーズ・ギター」時代にはまだ感じられる事のなかった、歌詞、メロディの秀逸さは、2021年になった現在でも、まったく色褪せる事は無い!!王子様キャラで、紅白歌合戦にも、2年連続で出演してしまった。
ところが、1995年だったか、1996年だったか、突然、日本から姿を消し、ファンをとても驚かせたが、近年、19年振りに50歳を超えた小沢健二はまたソロ活動を再開させて、これもまたファンならず日本のポップ・ミュージック界に大きな驚きを与えた。19年振りのシングル曲は、内容はかつてのように飛び切りにポップなものだったが、その曲のタイトルは、何と「流動体について」という、小沢健二にしかできない、まったく嫌味の無い、文学性に富んだものだった。歌声の不安定さ、声の良さは、実に健在!!わたしの心は、歓喜でいっぱいになってしまった・・・!!

ニュー・アルバムもリリースして、その内容でも、天才振りを存分に発揮。気まぐれな小沢健二は、これからも音楽活動を続けていくのか、それともまた、かつてのように突然ファンの前から姿を消してしまうのか?それが予測のできないところが、また素晴らしい!!と、わたしは思っている。
ああ、「オザケン」、アナタはわたしにとって、いつまでも変わる事のない、永遠の天才アーティストである・・・!!


 

● B’Zについて。

B’Zは秀でたルックス・歌唱力を持つ稲葉さんと卓越したギターの演奏力を持つ松本さんから成る、男性ロック・ユニットで、30年前のデビューから50歳代後半になった現在に至るまで、リリースする曲、リリースする曲、そのすべてを途切れる事なく大ヒットさせてきた、稀有なアーティストである事は、誰もが認めるところだろう。
B’Zは、実に巧いアーティストなのだが、彼らの創る音楽は、アメリカのベテラン・ロック・バンド「エアロ・スミス」をお手本にしている事は、誰の耳にも、明らかだった・・・

いつだったか、タモリが司会をする「ミュージック・ステーション」という番組にB’Zが出演して、そして、特別ゲストとして、本家の「エアロ・スミス」も来日・出演して、番組内で、順番に、パフォーマンスを披露する事となった。確かにB’Zは実力派のユニットなのだが、本家「エアロ・スミス」のパフォーマンスがあまりにも素晴らし過ぎたので、完全にB’Zのパフォーマンスは、影が薄くなってしまった・・・その事は、おそらく、その日の「ミュージック・ステーション」を観ていただろう誰もが気づいていたに違いないのだが、B’Zだけが気づいていない、というとても可哀そうな事態になってしまっていたのだった・・・
後日、わたしの女ともだちから電話が掛かってきて、「ねえねえ、この前のミュージック・ステーション観た?B’Zとエアロ・スミスが一緒に出た日!」「ああ、観てたよ」「わたし、よく本家のエアロ・スミスを目の前にして、自分たちも巧いと勘違いして、演奏できるものだと思ったら、こっちの方が、恥ずかしくなっちゃって、どうしようもなかったわよ!!」「ああ、確かに、そうだったよねえ・・・」

そのようなわけで、日本を代表するロック・ユニット、B’Zは、全国に、大恥を晒す事になってしまったのだった・・・

 

● YOSHIKIについて。

わたしは、ベテランロック・バンド「X JAPAN」のリーダー、YOSHIKIの事が、とても好きである。先ずは、50歳代半ばだというのに、とっても美しいがゆえに。どうしてあんなに美しさが保たれているのかは分からない。けれど、本人はインタビューに答えてこう言っている。「実は、僕は、影では、血の滲むような努力をしているんですよ」ああ、そうだろうなあ・・・と、わたしは納得したものだった。
・・・ところで「X JAPAN」の元々のバンド名は単なる「X」だった。それが、バンドが世界進出を目指すようになってから、バンド名は「X JAPAN」に改名された。しかし、世界を目指すからと言って新しいバンド名が「X JAPAN」とは、何とも単純過ぎるというか、アタマが悪そうというか、わたしはそのような気もちを押さえられなかった。でもそんな事、どうでも良いじゃないか、と、わたしは思ってしまうのだった。なぜなら、YOSHIKIがとっても美しいがゆえに。
「X JAPAN」は、メジャー・デビューしてから、わずか3枚しかオリジナル・アルバムをリリースしていない。3枚目のアルバム「DAHLIA」をリリースしてから、既に30年近くが経っている。けれど、YOSHIKIはインタビューに答えてこう言っている。「アルバムは、もう殆ど出来上がっているんです。でも、最後のパートで、どうしても納得がいかない箇所もあって・・・」多くのファンは、もうしびれを切らしているというのに。完璧主義過ぎなのか、それとも今や音楽の聴かれ方が、CDからダウンロードの時代になってしまったからなのか。今のところ、YOSHIKIは、明言をしてはいないようだ。でもそんな事、どうでも良いじゃないか、と、わたしは思ってしまうのだった。なぜなら、YOSHIKIがとっても美しいがゆえに。
さて、この場は「音楽についてのエッセイ・邦楽編」であるから、「X JAPAN」YOSHIKIの音楽的な特徴について、語っていかなければならない。YOSHIKIは、ピアノとドラムを演奏する事が出来る。けれども、わたしは楽器を演奏する事が出来ないのでYOSHIKIのピアノとドラムが巧いのかどうなのか、あまり判断できないのだけれども、YOSHIKIの演奏力は、何となく「普通」なのではないか、と感じてもいる。ピアノの方は優雅に弾いているが、もしかしたら「ヤマハ音楽教室大人クラス」程度なのではないかという気もする。ドラムの方は、一所懸命叩いているのは分かるのだが、演奏しきって、ステージに倒れ込み、失神する姿などは、失神しているフリをしているのではないかと勘ぐってしまう。しかし、わたしにとっては、そのような事は、どうでもよく思えるのだった。なぜなら、YOSHIKIがとっても美しいがゆえに・・・
なお余談になるけれども、ロサンゼルス在住のYOSHIKIは、とても流暢な英会話が出来るとも聞く。しかし、その英語力も、もしかしたら日本のECC音楽学院で駅前留学をして学んだのではないかという疑惑をわたしは持っている。しかし、わたしにとっては、そのような事は、どうでもよく思えるのだった。なぜなら、YOSHIKIがとっても美しいがゆえに・・・


 

● YMOについて。

いまでは世界中の殆どの音楽ファンが知っていると思われる、日本発の「テクノ・ポップ」のパイオニア、YMO。そのメンバーは、細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏という充分にキャリアのある3人組である。かなり豪華なメンバーから成っていると言えよう。
しかし、わたしは、わたしが高校生の頃に流行った、初期のYMOのアルバムは、殆ど好きではない。有名な「ライディーン」や「テクノポリス」などの曲は、メロディーが陳腐過ぎて、発表当時から、かなりどうしようもないものではないかと思っていた。
わたしは、YMOのアルバムでは、そのキャリアの後期に於いて、優れたものが立て続けにリリースされたと思っている。「浮気な僕ら」「BGM」最後のアルバムとなった「テクノデリック」は、いずれも秀作ばかりである。
さて、YMOのメンバー、3人組の内、誰が最も才能があるのかについては、わたしが高校生の頃からかなり話題になっていた。やはり、日本の音楽シーンを1960年代後半からずっと牽引してきた細野晴臣ではないか、というのが、殆どの人たちの予想ではあった。しかし、メンバーの内、最も地味に感じられた、高橋幸宏が、実はYMOサウンドの要だったのではないか、というのが、最近のわたしの考えである。
アルバム「浮気な僕ら」は、YMOにとって、初めての歌モノ・アルバムで先行シングル「君に胸キュン」がヒットして、「歌のベストテン」に出演したりもした。またNHKの何かのキャンペーンに使われた「以信電信」は、わたしにとって、どこかビートルズ・サウンドを彷彿とさせるもので高橋幸宏は、ドラムが巧いだけにとどまらす、歌声もとても素晴らしいもので、本当に優れたアーティストだなと思った。
その高橋幸宏は、近年、脳腫瘍を患って、手術をして、その後、無事に回復をして「TAKEFIVE」というバンドを新しく結成した。高橋幸宏がリーダーのアルバムが近々リリースされる予定だったのだが、そのメンバーの中に、小山田圭吾が入っていたために、結局、発売中止になってしまった。何とも残念な話である・・・

 

● 坂本龍一について。

いまでは「世界のサカモト」として知られるようになったYMOのメンバーの1人、坂本龍一ではあるが、わたしは、坂本龍一の才能については、かなり疑いを持っている。
坂本龍一は、映画「ラスト・エンペラー」のテーマ曲を担当して、それが認められ、アカデミー賞最優秀作曲賞を受賞する事に至ったわけである。そして、その事によって、「世界のサカモト」と称されるようになったわけなのだが、アカデミー賞最優秀音楽賞受賞の最大の理由は、映画「ラスト・エンペラー」のテーマ曲がとてもオリエンタルな作風であったからだと、わたしは思っている。
では、坂本龍一の最高の作品は何かというと坂本龍一がソロ名義で創作した「千のナイフ」と大島渚監督の映画作品で担当した「戦場のメリークリスマス」のテーマ曲、この2つだけだと考えている。
わたしは、かつて、坂本龍一が担当したすべての映画音楽を収録したベスト・アルバムのCDを購入した事があるのだが、何と驚いた事に、他の曲は、本当に、今1つ、今2つであったという出来事に・・・とても愕然としたという記憶を、今でも忘れる事ができない。
「世界のサカモト」と呼ばれ、押しも押されぬアーティストとして知られる事となった坂本龍一ではあるが、本人は、その事について、どのように感じているのだろうか・・・
東京芸術大学でクラシック音楽を学んだ坂本龍一、YMOでは「教授」の愛称で親しまれた坂本龍一ではあるが、だからといって、必ずしも優秀な音楽家にはなるわけではないという事を、わたしは知ってしまったような気がしてならないのである・・・

 

● MISIAについて。

このエッセイの中で、1人も女性アーティストを取り上げていないので、せめて1人くらいは取り上げておこうと思い立った。ところが取り上げてみたい女性アーティストがなかなか思い浮かばない・・・松田聖子、中森明菜、安室奈美恵などがちょっと頭をよぎったが、彼女たちについては、散々テレビで観てはきたものの、エッセイに書くほどの知識を持ち合わせてはいない。また松任谷由実、中島みゆきなどのシンガー・ソングライターについても、有名な人たちであるにも関わらず、殆ど聴いてきてはいなかった。

そこで、最近、「紅白歌合戦」の大トリを務め、日本中を感動させ、また、最近では、東京オリンピックでの国歌を斉唱した事などで、かなり露出の多くなってきたMISIAについてなら、多少なら書けるかな、と思って、取り上げてみる事にした。
MISIAは、1998年のデビューで、その女性ヴォーカリストとしてのキャリアは、既に20年を超えている。その頃デビューした女性ヴォーカリストは、ディーバと称され、かなりのアーティストがいたと思うのだが、わたしは、殆ど覚えていない。MISIAについては、名前が変わっていたので、かすかに覚えている程度である。それから現在に至るまでの間に、テレビ・ドラマの主題歌を担当して、その曲が大ヒットしたくらいならば覚えてはいる。
今では、巧いヴォーカリストは、男性ならば、玉置浩二、女性ではMISIAという聴かれ方が定着しているようだ。わたしは、昨年の「紅白歌合戦」で大トリを務めたときのMISIAの歌唱を聴いたが、その少し前にテレビ番組の収録中に落馬をして背骨を傷め、その出来事を押して出演したときのMISIAの歌声を聴いたが、かなり圧巻ではあった。しかし、それは洋楽に長く親しんできたわたしにとっては「日本では巧いヴォーカリスト」としてしか評価する事はできない、と感じてしまった・・・それくらい、海外の、特にアメリカでの女性ヴォーカリストの層は厚く、故・ホイットニー・ヒューストン、マライア・キャリーなど名前を挙げればキリはない。この差は、MISIAには申し訳ないが、ヴォーカリストとしての喉の構造が違うとしか説明はできないと思う。けれども、MISIAが日本を代表する女性ヴォーカリストとして長く活動をしていく事は、おそらく間違いはないだろう。余談になるけれども、MISIAは、動物愛護活動を長く続いているとも聞いている。


 

● 北島三郎について。

日本が世界に誇るソウル・ミュージック「演歌」についても書いてみたいのだけれど、日本人なのに、わたしはこのジャンルについてもめっぽう弱い・・・「演歌」は、日本の民謡から発展して、大衆音楽に発展したくらいの事しか知識がない・・・

けれど「サブちゃん」こと「北島三郎」についてなら、少しは何か書けるのではいかと思ったので、ここでは北島三郎について書いてみたいと思う。
北島三郎は、1958年にデビューして、その後、演歌一筋、日本を代表するヴォーカリストとして現在に至っている。そのヴォーカリストとしての実力は、玉置浩二の比ではなく、アメリカの・故フランク・シナトラと肩を並べるほどであると、わたしは思っている。
活動歴半世紀以上、紅白歌合戦への連続出場は連続50回という記録を持ち、その50回目を区切りに、紅白歌合戦からは身を引くという事となり、50回目を目指してあちこちに手を回し、紅白歌合戦への出場を目論んでいた、和田アキ子とは本当に精神性のレベルが違い過ぎるとしか言いようがない。日本のカーネギー・ホールとも言える「新宿コマ劇場」での座長としての貫禄あるステージ活動もまた、圧倒的であるとしか言いようがない、と聞く。家が八王子にある北島三郎に憧れて、若い歌手たちが頻繁に弟子入りに訪れるという事も、当然の事だと言えるだろう。
ところで、北島三郎の代表曲の1つで、若い層にも充分知られている「与作」という曲は、「与作は木を切る ヘイヘイホー」というフレーズが印象的な大変な名曲だと思われるが、「与作とは、一体、誰なのか?なぜ、そんなに夢中になって木を切っているのか?」・・・が、明かされていないのが、謎めいていて、本当に素晴らしいと言えよう。まさにレジェンドとしての仕事を全うしているとしか言いようがない。
北島三郎は、現在84歳。昨年の紅白歌合戦では、特別席が用意され、4時間以上もの歌手たちの歌唱にひたすら耳を傾けていたが、最後にウッチャンから、紅白歌合戦についての感想を求められて、このように述べたのだった。「いやあ、わたしは本当に感動をしました。わたしは、半世紀以上、歌手をやってきたわけだけれども、時代は移り変わって、ジャンルなどには関わらず、素晴らしい歌手たちが、これからの音楽界を引っ張っていくのだなあ、とつくづく思って、感無量になりました」と言い切って、その姿を観たわたしは、北島三郎に対して「国民栄誉賞」を贈っても良いのではないかと強く、思ったのだった。政府の政治家たちの耳は、一体どういう構造をしているのかと、激しい怒りが湧いてきたほどであった。
日本が誇る音楽界のレジェンド、北島三郎には、ぜひ長生きをしていただいて、その歌声を皆んなに届けてほしいものだと、わたしは強く願ったのだった・・・


 

● 岡林信康について。

わたしが、日本のフォーク・ソングを熱心に聴くようになったのは、高校1年生のときの事だった。最初に大ファンになったのは、吉田拓郎であった。インディーズ・レーベル、「エレック・レコード」から、メジャー・レーベル「CBSソニー」へと移籍してからは、フォークの神様と呼ばれ、リリースするアルバムのどれもが大ヒットして、その人気は、大変なものだった。
しかし、その後、吉田拓郎、井上陽水、小室等、泉谷しげるの4人が立ち上げた新レーベル「フォーライフ・レコード」の社長になってからは、吉田拓郎の音楽家としての才能は、どんどん枯渇したと感じたわたしは、だんだんフォーク・ソングからは離れていってしまった・・・
・・・さて、前置きが長くなってしまったけれども、わたしにとっての第2次フォーク・ソング・ブームが始まったのは、2年ほど前からで、誰のファンになったかというと、吉田拓郎の先行世代で1968年にデビューした、最初のフォーク・ソングの神様と言われた、岡林信康である。
岡林信康の実家は、京都の教会で、父親はその教会の牧師だった。そういう事もあって、岡林信康は、同志社大学の神学部に進学したのだが、その後、牧師の父親との確執のため、家出をして、姿を消してしまった。岡林信康は、職業を転々として、アコースティック・ギターを持つようになり、1968年にフォーク・ソング歌手として、デビューする事となった。そして、山谷の労働者の暮らしぶりを歌った、あまりにも有名な「山谷ブルース」、部落問題をテーマにして歌った「チューリップのアップリケ」「手紙」などの曲を次々に発表して、一躍、時の人となったのだった。
1969年に開かれた「全日本フォーク・ジャンボリー」で、岡林信康は早くも、アコースティック・ギターからエレキ・ギターに持ち替え、フォーク・ソングのファンからの罵声を浴びつつ、ステージに立ち、「私たちの望むものは」「自由への長い旅」などのプロテスト・ソングを披露した。その時のバック・バンドの顔ぶれは、ベース・ギター細野晴臣、エレキ・ギター高中正義、鈴木茂、ドラムス松本隆、キーボード矢野誠(矢野顕子の元夫)という顔ぶれで、後の「はっぴぃえんど」の主要な顔ぶれとなるミュージシャンが3人も含まれていたというのは、凄い事である。この事からも、岡林信康の目利きぶりが、はっきりと分かると言えよう。ちなみに「はっぴぃえんど」は、初めての日本語のロック・バンドとして、今だに語り継がれているけれども、わたしは、そうは思っていない。初めての日本語のロック・バンドは、グループ・サウンズ「スパイダース」であり、「スパイダース」に続く「タイガース」や「テンプターズ」「ゴールデン・カップス」だと、わたしは捉えている。
岡林信康は現在、74歳で、今だにフォークの神様として活動を続けており、昨年23年ぶりのニュー・アルバムをリリースして、大きな話題となった。

岡林信康は、ライヴでのユーモアに富んだMCでも知られているのだが、Facebookでの「岡林信康・オフィシャルサ・サイト」の新しい記事には、次のような事が掲載されていた。

【近況報告⑥】

「散歩中の岡林信康さんが、神社の狛犬(こまいぬ)にかまれるという事件が起こった。フォークの神様と呼ばれた岡林さんを神社の神に仕える狛犬が「商売ガタキ」だと思っての犯行だと思われるが、単なる傷害事件か、それとも複雑な宗教論争に発展するような事件なのか、警察では慎重に捜査を進めている。
(イヌアッチケーニュース)」
2021年8月12日
岡林信康

岡林信康のユーモアは、ここでも健在で、岡林信康のライヴに1度は足を運んでみたいと思っているわたしは、岡林信康には、90歳くらいまで生きていただいて、現役「フォークの神様」として、歌い続けてほしいものだと願っているのだった。

 

● 小室哲哉について。

今では、過小評価、或るいは過去の人として扱われているようなところのある、小室哲哉ではあるが、小室哲哉は、J─POP史上最高の天才である。なぜわたしが、そう思うのかというと、1986年の渡辺美里の大ヒット曲「My Revolution」の作曲家であるという、この1点に尽きる。こんな名曲、そうそう、誰にでも創れるものではない。
1980年代の、TM NETWORK(小室哲哉、宇都宮隆、木根尚登の3人で構成される日本の音楽ユニット。このユニットにも、「GET WILD」という名曲がある)での活動を経て、プロデューサーとしても頭角をどんどん表していった小室哲哉だが、デビューしても鳴かずとまずだったアイドル歌手、安室奈美恵や華原朋美の才能に気づき、一流のアイドルとして成長させていった能力は、本当に大きいものだった。ただ小室哲哉のプロデュースから早めに手を引いた安室奈美恵に対して、小室哲哉と恋愛関係になり、すっかり寄り添って、結局、小室哲哉に捨てられて、自殺未遂をした後に、情緒不安定になり、どんどん人気が凋落していった華原朋美は、とても気の毒な事になってしまった。今では40歳代後半となり、一般人と結婚して、育児をしながら、ヒット曲はもう出ないが、今でもテレビで昔と変わらぬ歌唱をしている華原朋美を観ると、「がんばれ、トモちゃん!!」と応援してしまうのは、おそらく、わたしだけではないだろう。
さて、華原朋美を切り捨てた後、卓越したキーボード奏者の自分自身とヴォーカリストのケイコ、ラッパーのマーク・パンサーと組んで、1995年から1996年にかけて、J─ポップ界に小室哲哉をリーダーとしたグループ、globeを結成して、日本のJ─POP界に一大ムーブメントを巻き起こした事は、多くの人の記憶に残っている事だろう。
しかし、小室哲哉は、美輪明宏の言う「人生は、プラス・マイナスの法則で出来ている。人生をすっかり謳歌した人には大きな凋落が待っており、結局は、プラス・マイナス・ゼロなのである」という事を見事に体現してしまった・・・妻のケイコは脳梗塞で倒れ、自分自身は著作権関係の問題で逮捕され、財産を失い、とうとう還暦を前にして、音楽界から引退する事となってしまった・・・
そのような小室哲哉ではあるが、やはり彼の音楽家としての才能は、今でも色褪せる
事はなく、globeの残した数々のヒット曲には、必ず、再評価を得る時代が訪れる事であろうという、わたしの予想は、確実に当たると信じている。頑張れ、小室哲哉!!

 

* わたしはいま58歳で、10年経てば70歳近くになってしまうという事に、最近気がついた。日本人の寿命が長くなったとはいえ、70歳ちょっとで亡くなってしまう人たちは、かなり多い。10年経ってしまうのなんて、あっと言う間の事である。
* わたしは、30年以上詩は書き続けてきたけれども、散文の方は常に苦手意識があって、殆ど書いてこなかったという経緯があり「いま、書かなくて、一体いつ書くのだ」という気もちになり、遅ればせながらようやく散文を書き始めた、というわけなのである。これから先、エッセイだけではなく、たくさんの論考を書いていきたいと考えている。

 

2021年 8月16日 今井義行

 

 

 

あきれて物も言えない 26

 

ピコ・大東洋ミランドラ

 
 


作画 ピコ・大東洋ミランドラ画伯

 
 

東京五輪は閉幕した。「 自分で身を守る段階 」になった。

 

ここのところ絶句している。

ほとんど、
絶句している。

ここのところ、
部屋で、
ジャズばかり聴いている。

ALBERT AYLER.

THELONIOUS MONK.

MAL WALDRON.

LES McCANN.

JUTTA HIPP.

CLIFFORD BROWN.

BUD POWELL.

JOHN COLTRANE.

今日は敗戦の日、雨の日曜日だった。
前線が停滞し西日本各地に豪雨をもたらしている。

絶句している。
6月の終わりに桑原正彦の死の知らせを聞いてから何も手につかない。

 

犬のモコと散歩している。
車で海を見に行く。
ジャズを部屋で聴いている。
女が刻んだサラダを馬のように食べている。

東京五輪は終わったという。
東京の感染は「制御不能」なのだという。

「医療 機能不全」
「自分で身を守る段階」
という見出しが新聞に立っている。

遠い昔のことのように思えるが現在の日本のことなのだ。

この日本という泥舟の船頭たちは操縦を誤まっているように思える。
敗戦を終戦と言い繕い高度成長という神話に酔い失われた20年を通過して時間は随分と過ぎてしまった。
この泥舟の船頭たちはもう一度、新自由主義グローバリズムの先に高度成長の夢をオリンピックでみようとしたのだったろう。

東日本大震災からの復興を世界に示すというビジョンは、
いつコロナに打ち勝つというビジョンに取り替えられたのだったか。

あきれて物も言えない。

夕方、クルマのプレーヤーに宇多田ヒカルをコピーした。
女とクルマで港町を流した。
宇多田ヒカルの「誰かの願いが叶うころ」を繰り返し聴いてクルマを流した。

曇り空の下に灰色の海は広がっていた。
海は空の色を映す。
雲の隙間から光が海面に射していた。
海は河口からの濁流でまだらに茶色く濁っていた。

「誰かの願いが叶うころ、あの子が泣いているよ」* と宇多田ヒカルは歌っていた。
「もう一度、あなたを抱きしめたい、できるだけ、そっと」* と、

歌っていた。

 

そこに小さな光が見えた。
呆れてものも言えないが言わないわけにはいかない。

 
 

作画解説 さとう三千魚

 
 

* 宇多田ヒカル「誰かの願いが叶うころ」から引用させていただきました

 

 

 

ダムに沈んだ古里を奪還する詩の力
長田典子詩集「ふづくら幻影」を読んで

 

佐々木 眞

 
 

 

2019年の衝撃の意欲作「ニューヨーク・ディグ・ダグ」に間をおかずに登場した本作は、とりあえずは、作者の失われた古里の思い出と、幼き日への郷愁の物語である。

 

私たちの郷里は、この半世紀の間の社会変化の大波のおかげで、地理上は同じ緯度経度にあっても、いずこもすっかり姿かたちを変えてしまった。 

 

「あとがき」に拠れば、作者が生まれ、27世帯の人々と共に身を寄せ合うようにして暮していた神奈川県相模原市(旧津久井郡不津倉)の旧居は、1965年に完成した城山ダムによって湖の底に沈んでしまったという。

 

作者の家は、ダムの底に沈んだ。ことわざにある通りに、「桑田変じて海」となってしまったのである。

 

そして作者が、ダムに沈んだ懐かしい故郷の家族や、四季折々の山川草木の美しさや、幼き日の遊び仲間たちに思いを致すとき、それがいつの間にか、歌になる。詩になる。

 

その故郷喪失の歌は、もちろん「盲目の泉」に指輪を落としたメリザンドの歌のように悲しい旋律で歌われてはいるのだが、よーく耳を傾けてみると、ただ物哀しいだけではない。

 

みずうみの中に閉じ込められた宝石のような怜瓏、スノードームの中で万華鏡のように繰り広げられる精霊や天使たちの愉快な踊りまでもが、耳の奥の方で、微かに鳴り響いているような気がするのである。

 

私は、作者はこの詩集の中で、ひとたびは喪失した古里を限りなく優しく抱きしめ、卓抜な記憶と想像の力、とりわけオノマトペの推力を駆動し、古今東西の童話や童謡を自在に踏まえながら、その古里に似てはいるものの、もう少し新鮮な変異を遂げた、「ユニバーサルな心の故郷」を、もういちど零から再創造しようという稀有の試みに挑んでいるのではないかと、ふと思った。

 

おわりに些事ながら、最近私の息子が「津久井やまゆり園」と障害者問題を考える個展を開催していて、その中にその近縁の相模川を描いた大きな油彩画があったので、その偶然に驚きながら本書を読ませていただいたことを付記しておきたい。

 

 

 

また旅だより 36

 

尾仲浩二

 
 

酷暑とオリンピックとコロナの東京からそっと抜け出して
山奥の温泉宿に新しい写真集の編集をやりに行った。
滝に面した一軒宿で車がなければどこにも出かけられない。
いわゆる缶詰状態なので、作業はとても捗った。
毎晩ひとりで宿の豪華な夕食を食べるのはつまらないし
節約もあって朝食だけのコースにした。
なので夜のつまみも缶詰の五日間。

2021年8月6日 長野県茅野にて

 

 

 

 

あきれて物も言えない 25

 

ピコ・大東洋ミランドラ

 
 


作画 ピコ・大東洋ミランドラ画伯

 
 

東京五輪が開幕した。絶句した。呆れた。物が言えない。

 

ここのところ絶句している。

ほとんど、
絶句している。

あきれて物も言えない。

夕方に、
モコと散歩して近所の黒白のノラに会う。

挨拶する。

工場の倉庫のパレットの上で、
鬱陶しそうにノラはこちらを見ている。

この暑いのに暑苦しいおじさんと家犬のチビが来たわいと思っているのだろう。
この男には夕方に犬と散歩して黒白のノラと会うのがほとんど唯一の楽しみになってしまった。
地上では東京五輪がお祭り騒ぎのようだ。
TVのチャンネルを変えてもどこもオリンピックの映像が流れている。
ニュースもこの前まではコロナ映像が多かったがいまはオリンピックが主役になってしまった。

真剣な選手の皆さんに申し訳ないですが、
オリンピックをこれほどくだらないと思ったことはなかった。
オリンピックのプレゼンテーションの際にこの国の首相がマリオになった時もくだらないと思ったが、
今回の開会式の映像も途中でTVの電源を切った。

これがクールジャパンなのか。
呆れる。
物が言えない。

東日本大震災からの復興を世界に示すというビジョンは、
コロナに打ち勝つというビジョンに取り替えられたのだったか。
日本の被災地の人々の本当の姿が発信されているわけでもないし被災地の復興の現在が発信されているわけでもない。
日本はウイルスに打ち勝ってもいない。

嘘だった。
愚劣だった。
腐った意味を盛りだくさんに盛っていた。

女性蔑視発言でオリンピック組織委員会の会長を辞任した森元総理大臣を「名誉最高顧問」にするということが、
組織委員会と政府の間で水面下に進んでいるのだという。

日本はもう終わっているのだろうか?
日本の子どもたちはこの腐った政治家や大人たちをどのように見るだろうか?

体操の内村航選手が鉄棒から落下する映像とその後のインタビューの映像を朝のTVニュースで見た。
美しかった。
自分に失望しながらこの世界の地上に佇っているひとりの男がそこにいた。

そこに小さな光が見えた。

今日も、
夕方には犬のモコと散歩した。

近所の黒白のノラとあった。
ノラはこちらを鬱陶しそうに睨んだがわたし笑ってノラに挨拶した。

 

呆れてものも言えないが言わないわけにはいかない。

 
 

作画解説 さとう三千魚

 

 

 

夢素描 16

 

西島一洋

 
 

部屋

 

十九歳から五年ほど、木造モルタルアパートの二階に住んでいた。六畳一部屋で、西側の窓の突き出しが、洗面台というか流し台というか、ガスコンロも置ける台になっている。一畳ほどの押し入れもある。南側にも窓がある。陽当たりは良い。一ヶ月の家賃は確か七千円だった。

南の窓の下は、飯田街道で、車だけでなく人の通りも多い。窓の正面はアイスキャンディー屋だ。売ってはいるが、主に菓子屋向けのアイスキャンディー製造所だ。そして、そこは三叉路でもあり、名古屋の市バスの停留所が往復で四つもある。つまり、窓下はバス停、とても交通の便が良いということだ。

部屋の真下の一階は饅頭屋だったが、息子の代になって途中で洋菓子店になった。洋菓子店になった時はびっくりした。通っていた美術研究所から夜に帰ると、南の窓がオレンジ色のテントで覆われている。スチールの骨組みに張った本格的なビニールテントである。もちろん、洋菓子店の店名のロゴも描いてある。朝になると、悲惨だった。部屋の中がオレンジ色なのだ。もちろんすぐに取り外してもらった。

西側の窓の下は路地というか狭い通路になっている。この通路の奥には、別棟のやはり木造モルタルのアパートがある。ここも人の出入りは多い。この路地を挟んで三階建ての鉄筋コンクリートの建物がある。美容院だ。一階が駐車場で、二階が美容室になっていて、三階は店の主人と家族、それから住み込みの若い女性従業員数人が住んでいる。西の窓と美容室の窓とは対面で、僕の部屋からは美容室の中がすっかり見えた。

深夜のある時、覗くつもりでもなく、ふと見ると、若い女性従業員が淡い黄色のネグリジェ姿で鏡に向かって髪を研いでいる。しかも、衣服に落ちた毛を払おうとしたのか、裾をまくし上げ、下半身が露わになった。僕は慌てて、部屋の電球を消した。

東隣の男性の部屋からは深夜、麻雀の音がする。北隣の女性の部屋からは男女のまぐあいの声がする。そして、床下からの洋菓子店のバニラの匂いが部屋を充満している。

ベッドは自作だった。1センチ厚のベニア板で造った。とこ下は、収納スペースだった。寝れれば良いので、市販のベットより幅はぐんと狭い。そのかわりと言ってはなんだが長さは充分にある。このベッドの上に敷く布団は、古い布団をはさみでジョキジョキ切って、縫って繕った。可動式の簡単な手すりもつけ、ベットから落ちないように工夫もした。

このベッドはそのまま飛ぶこともできた。寝たまま、宙空に浮かび、飛び交うことができた。

寝っ転がった状態で、足元の向こうが、ドアだ。このドアには、小さなガラスがはまっている。20センチ✖️30センチくらいの縦型長方形。すりガラスではないけれど、ギザギザのガラス。このガラスには、女性を僕が描いた肖像が貼ってあった。その女性とは現在の妻である。

どっと、今に跳ぶ。

寝っ転がって、目を瞑る。
そうして、あの部屋の、あの、空間感を、イメージしてみる。
そうすると、あの、出窓の台所も、ドアの向こうの黒光りした短い廊下も、ボロボロとあちこちが落ちてくる土壁も、南側窓下の群衆の強烈な労働歌も、畳、そういえば、鏡、自画像を描くために壁に取り付けた大きな鏡板、1メートル✖️2メートルくらい、大枚をはたいて買った、西側の窓が部屋の内側に突然倒れた、ガスコンロに長いホースをつけて、部屋の中央で焼肉中、びっくり、布団の下に、一万円札を何枚も並べてはさんで、ちり紙交換で、最初の月は二十万円、次の月は三十万円、古新聞紙、1キロ三十円した時だった、それにしても、バニラの匂いはきついなあ、麻雀の音も一声かけてくれればいいのに、あーうるさい、うるさい、まぐあいの声はしょうがない、それにしても、こっから、飛べるのかしらん、よし、飛ぼう、で、というか、このベッドだと、簡単に宙空に浮かぶ、そして、天空に、スイ、スイーッと、…。

そんなところかな。

入子状という言葉の意味を知らない。
知ろうとも思わない。

奥に、もう一つの部屋があって、その部屋はやけに広い。
というか、その部屋の向こうに、さらにもう一つ部屋があって、その部屋は押し入れのように狭いし、ベニア板でかこまれていて、極めて殺風景なのだが、そこに寄り添うことにする。

なぜか、暖かい。
ただ、光はない。

 

 

 

書けば、形になる。

── わたしを育ててくれた洋楽への短い考察

 

今井義行

 
 

プロローグ

詩は、それまでの、或いは現在の、作者の体験から生まれてくるものだと思うけれど、そして、それは概ね作者の読書体験であることが多いように思うけれど。わたしも或る程度は読書体験はしてきたものの、わたしは読書がどうにも苦手なので、その内容は殆ど忘れてしまった。

それでは、わたしが何から影響を受けてきたのかというと小学生から現在に至るまでの、洋楽鑑賞だと思う。ただし、わたしは洋楽鑑賞マニアではないので、有名なミュージシャンについてしか語ることはできない。それでも、「書けば、形になる。」と信じてエッセイとして、書き残しておくことにした。(登場するミュージシャンの名前は順不同。また、わたしの記憶に基づいた記述であるため、間違いがあるかもしれない。)

 

● ローリング・ストーンズについて。

言わずと知れたビートルズと並ぶイギリス出身のバンド。だけれど、ブルース・ベースの曲が、あまりにもキャッチーでないため高校生まで、その良さが殆ど分からなかった。

ところがなぜか大学生になってから、そのグニャグニャしたグルーヴに、すっかり飲み込まれてしまった。

アルバムは1960年代末からの「レット・イット・ブリード」から1976年の「女たち」までは名盤続きで、1枚に絞り込むなどできない。

ちなみに有名な「スタート・ミー・アップ」を含む1980年の「刺青の男」は、過去に録音した曲の寄せ集めであるため、かなり大味で名盤とは言えない。

ところで、ギタリストにミック・テイラーが在籍していた時代が、ローリング・ストーンズの最盛期だったことはよく言われることだ。ミック・テイラーが脱退した後、誰が後任になるかについてジェフ・ベックという噂が出た。ジェフ・ベックを見かける度に「吐きそうになる」と言っていたキース・リチャーズの発言からして、さすがにそれはないだろうと思ってはいたが、まあ無事に後任ギタリストは人柄も穏やかだと言われるロン・ウッドに収まった。ロン・ウッドならバンド内の不和も和らげられるだろうから最適だと思った。

ところでバンドの最年長のチャーリー・ワッツは常々「ローリング・ストーンズは会社のようなもの。わたしはローリング・ストーンズの社員なんだよ。」と言っていた。そのチャーリー・ワッツがミック・ジャガーを激しく殴りつけたことがあるという。ミック・ジャガーがチャーリー・ワッツに向かって「俺のドラマー。」と言ったからだ。チャーリー・ワッツはミック・ジャガーの傲慢に向かって「2度とわたしのことを、俺のドラマーなんて呼ぶな。呼んだらタダじゃおかない!」と叫んだのだ。

もう10年に1度くらいしかオリジナル・アルバムをリリースしなくなってしまったローリング・ストーンズだけれど、現在ニュー・アルバムを制作中だと聞く。ローリング・ストーンズは、どこまで転がり続けるのだろう?わたしは、ローリング・ストーンズは解散などせずに、自然消滅していくような気がしている・・・。

 

● マイケル・ジャクソンについて。



マイケル・ジャクソンは、ソロ・アーティストして、群を抜いて大成功を治めたミュージシャンであると思う。わたしは、マイケル・ジャクソンが、本当に好きである。

1970年代後半に、「オズの魔法使い」が原作で、黒人キャストだけで制作された「ウィズ」というミュージカル映画があり、音楽監督はクインシー・ジョーンズだった。主役のドロシー役は、ちょっと歳の行き過ぎたダイアナ・ロスで、そして、かかし役がその頃10代後半だったマイケル・ジャクソンだった。

映画は、ブリキマンやライオンやかかしたちが踊りながら去っていく場面で終わるのだが、マイケル・ジャクソンが演じるかかしのダンスだけが突出していて驚かされたものだ。

多くの人たちが、クインシー・ジョーンズがマイケル・ジャクソンを見出したと思っているようだが、実際はその逆で、ソロ・アーティストとして低迷していたマイケル・ジャクソンが、クインシー・ジョーンズに「僕の音楽プロデューサーになってくれないか?」と持ちかけたのが、事の始まりだ。そこには、マイケル・ジャクソンの目利きぶりが、早くも、顕著によく現れている。

その後は、誰もが知っての通り、クインシー・ジョーンズがプロデュースした「オフ・ザ・ウォール」「スリラー」「バッド」という大ヒット・アルバムが続くが、わたしは、そのどれもが嫌いである。殊に世界で5000万枚を売り上げ、今でも売れ続けているという「スリラー」は、とても嫌いだ。

「スリラー」が大ヒットした1984年当時は、MTVが台頭してきた時代であり、視覚的に誰もがマイケル・ジャクソンを観られるようになっていた。マイケル・ジャクソンのパフォーマンスが神がかっていた事もあるが、また黒人アーティストとして初めて白人アーティストのエドワード・ヴァン・ヘイレンやポール・マッカートニーを起用した事もあるが、とにかく歌詞が幼稚過ぎた。それが5000万枚ものセールスを挙げたというのは、子どもから高齢者までが楽しめる音造りと内容だったからではないだろうか?

わたしがマイケル・ジャクソンを本当に天才だと思ったのは、マイケル・ジャクソンがクインシー・ジョーンズの手を離れて制作した「デンジャラス」からである。このアルバムでは、もの凄くお金をかけて錚々たるサウンド・クリエイターを掻き集めて制作された作品である事は明白だったが、そして並のミュージシャンだったならば、彼らの操り人形となってしまうところだが、マイケル・ジャクソンの場合は例外的にそのような事は超越していた。このアルバムでは、錚々たるサウンド・クリエイターと天才マイケル・ジャクソンとがぶつかり合う奇跡的な作品となっていた。

そして「デンジャラス・ツアー」の出来がまた素晴らし過ぎるものだった。人類にでき得る最高のものを創出したと言える。
ところで、マイケル・ジャクソンは、見れば明白だと言うのに、何故「自分は、整形などしてはいない」と否定し続けたのだろうか?人間誰しも老化していくというのにそれに徹底的に抗ったという事なのだろうか?天才のする行為は本当に不可解という他ないが、マイケル・ジャクソンの顔が段々と崩れていくのには揶揄されても仕方のないようなところもあった。
マイケル・ジャクソンが50歳を迎えたとき、マイケル・ジャクソンはロンドンのアリーナでコンサートをすると記者会見をして、「THIS IS IT!!(やるぞ!!)」と大きな意欲を見せた。ところが、その後、マイケル・ジャクソンは急逝してしまい、ロンドンでのアリーナ・コンサートは、無くなってしまった・・・マイケル・ジャクソンのこの死には諸説あるようだけれども、わたしは「暗殺」だと思っている。マイケル・ジャクソンを生かしておいてはならないという巨大な謎の勢力が、確かに存在していたに違いないと思うのだ。


 

●クイーンについて。

クイーンは、フレディ・マーキュリーのエイズによる45歳という若き死を以って神格化されたバンドだという評価が固まっているようだが、本当にそうなのだろうか?クイーンは確かに巧いバンドなのだが、リアル・タイムで中学生の頃からクイーンのアルバムを聴き続けていた者には、どうにも違和感がある。

クイーンの人気は日本から火がついたもので、クイーンのメンバーも大の日本びいきであり、またメンバーのルックスも良かったので、とにかく女子中学生の間で爆発的にアイドルとして人気が出た。当時のアイドル・ロック・バンドを中心に発行されていたミュージック・ライフの人気ランクでは常にクイーンの各メンバーが首位を独走していたのを覚えている。それ故、男子のロック・ファンからは、クイーンを聴いている奴らは情けないという事になってしまいわたしと妹は、密かにクイーンを聴いていた・・・

クイーンのアルバムでは、あまりにも有名な「ボヘミアン・ラプソディ」を含むサード・アルバム「オペラ座の夜」が最高傑作と言われているようだが、それにはあまり異論はないのだけれど「オペラ座の夜」は多彩な種類の音楽から成り立っているためロック・アルバムとしての最高傑作を挙げるとすれば、ヒット曲「キラー・クイーン」を含む、セカンド・アルバムの「シアー・ハート・アタック」ではないかと思う。このアルバムでは、ブライアン・メイのギター、ロジャー・テイラーのドラムス、ジョン・ディーコンのベース、フレディ・マーキュリーのヴォーカル、その全てが絡み合って、見事なロック・アルバムになっていると思う。
フレディ・マーキュリーの45歳でのエイズによる早逝は、「早すぎる才能の死を悼む。」という論調、或るいは「可哀そう。」という論調も含まれていたと思うが、わたしは、前者の論調には同意するものの「可哀そう」という見方には、大変な違和感を覚えてしまう。
わたしは、フレディ・マーキュリーの人生の選択肢には、2つあったように思われる。1つ目は「ファンのためにも、ヴォーカリストとして末永く歌い続ける。」という事、もう1つは「性的嗜好として個人的な男色家としての人生を愉しみ切る。」という事。フレディ・マーキュリーは後者を選択したという事だ。セーフ・セックスなど一切心がけず、あくまでナマでの性行為に没頭し、エイズに感染したという事は、アナル・セックスを好み、精液を直腸に注ぎ込まれる事に至福の喜びを感じたという事で、そのセックスには微塵の後悔などなかっただろう。わたしは、この事についてはフレディ・マーキュリーに拍手を送りたい気もちだ。

わたしが社会人になった1986年は、アメリカからエイズが上陸した年で、「せっかくこれからセックスを愉しもうと思っていたのに、すっかり水を差されてしまった。」という落胆でいっぱいだった。この事は、つまり自分で自分の命を守ろうとする事であり、数十年経って、今やコロナ禍で世界は大騒ぎ。わたしには、表現活動を続けていきたいという願いがあるにしても、マスク着用、手指のアルコール消毒、手洗い、うがいの励行・・・というように、未だ自分の命を守るために、ちまちまと努力しているわけである。必要な事なのかもしれないが、何だか情けない人生を送ってきてしまったような気も何処かに持っているような気もする・・・

フレディ・マーキュリーは、ヴォーカリストとしても素晴らしかったと思うけれど、自分の人生を例え短命でもきっちり謳歌したという点で、尊敬に値すると、わたしは思うのだ。


 

● カーペンターズについて。


わたしが小学校4年生のときに、自分のお小遣いで初めて買った洋楽のレコードが、カーペンターズの「シング」だった。本当は「イエスタデイ・ワンス・モア」のシングルが欲しかったのだけれど、売り切れだった。1973年当時の日本は、空前のカーペンターズ・ブームで湧いていて、武道館での来日公演のチケットの申し込みはビートルズを超えたと大きな話題になっていた事をよく覚えている。もちろん本国アメリカでもヨーロッパ各国でもカーペンターズは大人気だった。

カーペンターズは、作曲家バート・バカラックの流れを汲むアーティストで、1969年のデビュー以来、プロデューサー兼アレンジャーの兄リチャード・カーペンターとヴォーカルの妹のカレン・カーペンターと共にハーモニーの美しいカーペンターズ・サウンドを造形していき、セカンド・アルバムに収録されていた「遥かなる影」のビルボード・チャート1位をきっかけに、アルバムのリリースを重ねていくごとにそのサウンドは洗練されていき、多忙なツアーの合間に制作されたとはとても思えないアルバム「ナウ・アンド・ゼン」でそのサウンドと人気は頂点を極めた。何よりアルト・ヴォイスが大変に魅力的で英語の教材にもなったというカレン・カーペンターのヴォーカルの魅力がカーペンターズ・サウンドの中核を成していたのは確かだが、リチャード・カーペンターのカレン・カーペンターのヴォーカリストとしての才能を活かし切るプロデューサー兼アレンジャーの仕事振りも実に的確なものだった。あまりにも有名な「イエスタデイ・ワンス・モア」が弱冠20歳のカレン・カーペンターの歌唱力で発表された事には今でも驚きを禁じを無い。

リチャード・カーペンターは常々カーペンターズ・サウンドとは「タイムリー・アンド・タイムレスにある」のだと語っていたのだが、その意味は、後にファンが知る事となった・・・
ポップ・グループが避ける事のできない人気の少しづつの凋落も、アルバム「ナウ・アンド・ゼン」の発表後、3年振りにリリースされた「ホライゾン」あたりから明確になっていった。このアルバムからは明るい曲調の「プリーズ・ミスター・ポストマン」がシングル・カットされ、見事にビルボード・チャートの1位に輝き、そのポップ・サウンドとしての出来栄えは実に素晴らしかったものの、それまでのカーペンターズの魅力が、片思いの女性の心情を切々と歌い上げる事の魅力が中核を成していたにも関わらず「プリーズ・ミスター・ポストマン」は万人狙いとも言えるファミリー・レストラン的なヒット曲として成功してしまったため、その後が続かなくなり、人気の凋落が始まってしまった。そして、若すぎるカレン・カーペンターの拒食症による1983年の32歳での若すぎる死は、カーペンターズ・サウンドの終わりを告げるには、あまりにも凄惨過ぎた。

後に日本で制作されたテレビ・ドラマ「未成年」では、カーペンターズの「青春の輝き」という曲が主題歌として用いられ、テレビ局には「カーペンターズのニュー・アルバムはいつ発売されるですか?」「カーペンターズの来日公演は、いつ行われるのですか?」という問合せが殺到して、カーペンターズのベスト・アルバムは瞬く間にオリコン・チャートを駆け上がり、200万枚もの売り上げを記録して、社会現象にまでなってしまった。アメリカのビルボード・チャートではこの曲は25位でとどまっていてヒット曲にはならなかったのだが、この曲の日本での成功により、「青春の輝き」は、日本では「イエスタデイ・ワンス・モア」を超えるものとなった。
ここに、リチャード・カーペンターが公言していた、カーペンターズ・サウンドとは「タイムリー・アンド・タイムレスにある」という言葉が証明される事となった。未だに、少なくとも日本に於いては、カーペンターズの代表曲は「青春の輝き」であるとされ、いつまでも聴き継がれている。

 

● ビー・ジーズについて。


ビー・ジーズは1970年に日本で公開され、大ヒットとなった映画「小さな恋のメロディ」で用いられた「メロディ・フェア」や「若葉のころ」によって、白人ポップ・グループとして認識されていると思うのだが、その本質は白人ソウル・グループとしての才能にあると思う。やはり「小さな恋のメロディ」で用いられた「トゥ・ラヴ・サムバディ」という曲は、元々飛行機事故で亡くなってしまったオーティス・レディングに向けて制作されたものだったと言う。
その後、人気の浮き沈みを乗り越えながら、やはり大ヒットした映画「サタディ・ナイト・フィーバー」の音楽を全面的に担当して、ファルセット・ボイスを駆使した独特のヴォーカル・スタイルで世界的にディスコ・ミュージックのブームを巻き起こす事となったわけだが、このときの音楽プロデューサーがアレサ・フランクリンの名盤「スピリット・イン・ザ・ダーク」を手掛けたアリフ・マーディンであった事は重要な事だ。

ビー・ジーズが1970後半にヒット曲を立て続けに発表した頃、そのファルセット・ヴォイスには賛否両論あったようだが、わたしはその後に登場する事となる若き日のプリンスの最初期のアルバムに見られたファルセット・ヴォイスにその影響が顕著に現れていると考えている。

また、ビー・ジーズは黒人アーティストへの楽曲提供も盛んに行なっており、ダイアナ・ロスに提供された曲も、ディオンヌ・ワーウィックに提供された曲も、軒並み大ヒットを記録していた。
わたしは、ビー・ジーズの横浜アリーナに於ける来日公演を聴きに行ったが、初期のヒット曲からディスコ・ミュージック時代までの曲が立て続けに披露され、その1連の流れが全く違和感を感じさせなかった事に、やはりビー・ジーズは、白人ソウル・グループなのだという思いを確信した事を覚えている。

その後、ディスコ・サウンド・ブームの終焉とともに、また3人のメンバーの内、2人のメンバーが亡くなってしまった事により、ビー・ジーズは自然消滅した形になっているようだが、ビー・ジーズが世に送り出した楽曲の数々は、記録として残っているばかりではなく、人々の記憶に残るものとなっているように思う。


 

●ボブ・ディランについて。

ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞した事は、まだ記憶に新しいところだが、ボブ・ディラン自身は受賞式には出席せず、代わりにパティ・スミスが受賞式に出席して、見事にボブ・ディランの「激しい雨が降る」を歌い上げ、人々に感銘を与えた事は記録に残る事だと思う。ボブ・ディランもパティ・スミスも、ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞には、ノーベル賞の話題作りだと気づいていたと思うのだが、パティ・スミスの受賞式への出席は、ボブ・ディランへのリスペクトそのものだったと言える。その頃、当のボブ・ディランは、劣化した声で「ネバーエンディング・ツアー」なるものを続けていたようで、アメリカの何処にいるのかもわからず、連絡がつかなかったようで、老境に達しながら「何をやっているんだ。」という具合で、気まぐれというか、何処か可愛らしいというか(笑)、実にしょうもない男ではある・・・

ボブ・ディランは、フォーク・ソングの先駆け、ウディ・ガスリーの影響を受けて、プロテスト・ソング「風に吹かれて」や「時代は変わる」などを発表して、フォークソング・ファンに熱狂的に迎えられたが、その後、歌の巧いモダン・フォーク・グループ、ピーター・ポール・アンド・マリーにより、それらの曲のメロディ・ラインがとても美しい事が認知され、ヒット曲にもなった。
1960年代半ば、ボブ・ディランがアコースティック・ギターからエレキ・ギターに持ち変えて活動を始めたとき、かねてからのフォークソング・ファンからは激しい罵声を浴びる事となったのだが、そんなときにリリースされた「ライク・ア・ローリング・ストーン」という6分近い曲は、全米で広く受け止められ、ボブ・ディランにとって、初のビルボード・チャートの1位を記録する事になったのだった。

フォークソング・シンガーがアコースティック・ギターからエレキ・ギターに持ち変え、フォークソング・ファンから罵声を浴びるという現象は日本にも飛び火して、岡林信康や吉田拓郎がそのような体験をしたわけだが、吉田拓郎の「結婚しようよ」が大ヒットしてしまった事により、「ライク・ア・ローリング・ストーン」が受け容れられたように日本のフォーク・シンガーたちも一般に受け容れられる事になったのだった。

1978年にボブ・ディランが初の来日公演を行なったとき、演奏スタイルを次々に変えてしまうボブ・ディランは、派手なラスベガス・ショーのスタイルで演奏して、聴衆を戸惑わせた。そのとき聴衆の1人としてボブ・ディランの演奏に接した美空ひばりからは「岡林信康の方が遥かに良い」と言われる事ともなったのだった。その発言には、美空ひばりが岡林信康から2曲の作品を提供されていた事も関係していたといういきさつもあるのではないかとも思われる。

ボブ・ディランの活動の全盛期はビートルズをも嫉妬させたという、1960年代末のアルバム「ブロンド・オン・ブロンド」から1975年のアルバム「欲望」までとされ、殊に「血の轍」は最高傑作とされているようで、わたしはその事に何の異論はないけれども、わたしにとっての愛聴盤は地味なカントリー・アルバム「ナッシュビル・スカイライン」で、1曲目のカントリー界の大御所ジョニー・キャッシュとの掛け合いによる曲も何の遜色もなく、見事なものとなっている。
デビューから現在に至るまで、ボブ・ディランのフォロワーは後を絶たないが、当のボブ・ディランは「ネバーエンディング・ツアー」で、今頃、アメリカの何処にいるのだろうか・・・?

 

●デヴィッド・ボウイについて。

2016年に(もう、そんなに経つのか)デヴィッド・ボウイが亡くなって、レディ・ガガが先頭に立って、追悼集会を行なったり、遺作となったアルバム「ブラック・スター」がビルボード・チャートの1位になったりしたときも、わたしはデヴィッド・ボウイの長年のファンだったにも関わらず、あまり大きくは心が動かなかった。

10年ほどアルバムのリリースがなかったので、どうしたのか、と思ってはいたけれども「地球に落ちてきた男」とまで言われていたデヴィッド・ボウイでさえ、癌で69歳で亡くなってしまうのだな・・・とは漠然と思った。
リリースされたアルバムは殆ど買い揃え、デヴィッド・ボウイの生涯を辿ってきたわたしは、デヴィッド・ボウイから多くの事を学んできたように思う。
知っている人は多いと思うが、1972年に、「ジキー・スター・ダスト」というキャラクターを自らに与えてイギリスのグラム・ロックを牽引したデヴィッド・ボウイ。顔に独創的なメイクを施し、山本寛斎デザインの衣装に身を包み、そのパフォーマンスは多くのオーディエンスを虜にした。何よりもとにかく「1番初めに挑戦してみる。」というアーティストとしての姿勢に魅了された。

デヴィッド・ボウイは、そのような派手なパフォーマンスをしながらも、インタビューでは次のように答えている。「わたしは、ボブ・ディランのようなアーティストを目指している。あくまでアルバム・アーティストとして在り続けて、時々シングルのヒット曲を出すような・・・。」
実際デヴィッド・ボウイは、「アラディン・セイン」「ダイアモンドの犬」などとキャラクターを変え続けて、アルバムの名盤を本国イギリスを中心にリリースし、精力的にツアーを展開しながら、時々シングルのヒット曲を出すという姿勢を貫いた。

そんなデヴィッド・ボウイではあったが、尖鋭的なアルバムを発表したのは、アルバムの制作場所をベルリンに移したり、アメリカに移したり、また本国イギリスに移したりしながらアルバムを発表した1979年のアルバム「スケアリー・モンスターズ」までに限られている。

その後、デヴィッド・ボウイは1983年制作の大島渚が監督した映画「戦場のメリークリスマス」に出演して、坂本龍一や北野武と共演したが、坂本龍一が映画音楽作曲家としてアカデミー賞を受賞したり、北野武が芸人から映画監督にも活動の場を広げていった事を考えると、デヴィッド・ボウイの俳優としての活動は凡庸であったと言わざるを得ない。
デヴィッド・ボウイは、再び活動の拠点をアメリカに移し、ヒット・アルバムの仕事人とまで言われたナイル・ロジャースのプロデュースのもと、「レッツ・ダンス」というダンス・アルバムをリリースして、そのアルバムはアメリカを中心に大ヒットしたが、その事は、アメリカでは、ダンサブルなアルバムでしか成功しないという事を証明してしまい、その後のアルバムはその2番煎じとなっていってしまい、尖鋭的であったデヴィッド・ボウイのサウンド造りの活動は、他のアーティストのダンサブルな音造りの後追いの形となってしまい、その事はおそらくデヴィッド・ボウイの死まで続いていったと思われる。
1度手を染めてしまったもので1度成功を得てしまうと、もう後戻りはできないという事をわたしは学んだ。
だからこそ、わたしは2016年にデヴィッド・ボウイが亡くなって、レディ・ガガが先頭に立って、追悼集会を行なったり、遺作となったアルバム「ブラック・スター」がビルボード・チャートの1位になったりしたときも、わたしはデヴィッド・ボウイの長年のファンだったにも関わらず、あまり大きくは心が動かなかったのである。

 

● ビートルズについて。


20世紀に最もその名を世界中に知らしめた、偉大なるロック・バンド、ビートルズの活躍振りに、異論を唱える人はまずいないだろう。リリースされたシングルは全て大ヒット、リリースされたアルバムは全て大ヒット。解散してから50年以上も経つというのに、デジタル・リマスターされた過去のアルバムその全てが今だにビルボード・チャートの上位を占めてしまう事などに於いても、このようなバンドはビートルズをおいて他に例がない。
また、10年に満たないその活動期間に於いて、リリースされるアルバムごとに、リスナーを毎回驚かすような進化が顕著だったという事も本当に大きな要素であるだろう。

そんなビートルズではあるのだけれども、わたしは、ビートルズに対しては、好きでも嫌いでもない。名曲の数々を世に送り出したビートルズに対して、わたしがそのような感情を抱く1つの理由は、単純にそれらの曲に対してのわたしの趣味嗜好によるところが大きいと思う。

とはいえ例外的に、「イエスタデイ」「ペーパー・バック・ライター」「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」「レット・イット・ビー」などは、あるのだけれども・・・

名曲の数々を世に送り出したビートルズに対して、わたしが好きでも嫌いでもないという感情を抱くもう1つの理由は、ビートルズが、そのキャリアに於いて、途中でライヴ活動を辞めてしまい、スタジオ・ワークにすっかり移行していってしまったという点にある。その環境の中で数々の傑作アルバムが制作されていったという事は分かるのだが、ビートルズが何故そのような選択をしていったかの理由については、彼らのファンではないわたしには分からない。

ローリング・ストーンズの大ファンであるわたしにとって、ローリング・ストーンズを好きなその最大の理由の1つは、ローリング・ストーンズがライヴ活動を重要視して、ロックの持つ昂揚感やスリリングさを非常に体現していた事にある。その点に於いて、わたしは、ビートルズに対して、何だか物足りさを感じてしまうのだ。
ビートルズがリリースしたアルバムの中でも、20世紀ポピュラー・ミュージックの金字塔と称される「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」については、各楽曲の質の高さ、各楽曲が緻密に制作されていった事などについて、十分に理解できるのだけれども、とにかく聴いていて、閉塞感が半端でなく、何だか窒息してしまいそうな感覚に、わたしは見舞われてしまうのだ。
このアルバムに影響されて、ローリング・ストーンズが「サタニック・マジェスティーズ」というアルバムを制作して、その出来栄えはなかなか良かったにも関わらず、「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」の出来栄えには遠く及ばなかった事、ビーチ・ボーイズの天才ブライアン・ウィルソンがスタジオに籠もって「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のようなアルバムを制作しようとしたあまり、精神疾患に罹患してしまった事などを考えると、いかに「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」というアルバムが秀でたものである事は分かるのだけれども・・・
また、ビートルズのおびただしい名曲の数々が、ポール・マッカートニーとジョン・レノンの競合によって、緊張感高く制作された事も、非常にビートルズの稀な成功にとって関わっている事だろう。
ビートルズが解散してからのポール・マッカートニーとジョン・レノンのソロ活動にについても見るべきところは多くあるけれども、ビートルズ時代の稀な成功には遠く及ばない。
またビートルズ解散の理由について、オノ・ヨーコがビートルズの活動に割って入ったという事もしばしば指摘されるところだが、ビートルズのファンにとっては、オノ・ヨーコの存在は本当に邪魔で仕方なかった事も想像にかたくないのだが、わたしには、オノ・ヨーコは前衛アーティストとして見るべきところがとても多い人物だと感じられる。
いずれにしても、ビートルズが20世紀に最もその名を世界中に知らしめた、偉大なるロック・バンドである事には変わりはないと、わたしは思っている。

 

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書けば、形になる。書かなければ、思っているだけで終わってしまう。そのような気もちで、わたしは、このエッセイを書いた。