去年11月26日、27日 無罪之俘
去年の11月26日、27日 無実の囚われ人

 

Sanmu CHEN / 陳式森

 
 

更。寒冷的月份來臨。
在準備春節的時段審訊
山水的底層,殯葬肺腑
看骨格透明的磁場,山巒無知。
密碼中昇起燃燒的地圖;
盲目的蝙蝠掠過被遺忘的彈孔,
老虎的各種椅子、桌子,
改造我們的寬忍,
追問失憶的友朋⋯⋯訊號消失。
去年的11月,去年的白紙。
你們喊呀!沉痛的親屬們
死者冰冷的夜階磚,排列通道。
夜深了,便湧起灰……

你是水,但
你必須飲水,夜
鐵定黑,你黑如白紙!飲水
淚珠就墜毁。

你們是不曾被飲到的河水
負載着失敗,灌溉黑樂譜。
此刻街上已無人等待,
無人號喊,
而寒夜微茫,不可言傳
廣場黑著臉,找不到一點星火。
亡魂們又一次猶豫不決。

我記得你,你是飲水的水。

僅此致敬彭立發先生。記住李康夢、吳正楠、烏衣、洋流、阿墨、秦梓奕……寒夜抱薪的孩子們。

 
2023年1月11日西貢雨中

 
    .
 

更。寒冷的月份來臨。
 もっと。寒い月がやってくる。
在準備春節的時段審訊
 春節時分の取り調べに備えて
山水的底層,殯葬肺腑
 山河の深みに、胸の内を葬ってしまえば
看骨格透明的磁場,山巒無知。
 骨格を透視するX線でも、山懐には関知しえない。
密碼中昇起燃燒的地圖;
 合い言葉の中に燃える地図が舞い上り;
盲目的蝙蝠掠過被遺忘的彈孔,
 盲目のコウモリが忘れ去られた弾痕を掠め去り、
老虎的各種椅子、桌子和櫈
 虎たちの様々な椅子、机そして長椅子が
造就我們的寬忍,
 我々の忍耐を作りあげる。
追問失憶的友朋⋯⋯訊號消失。
 記憶を亡くした友に問いかけようとしても・・・消息は失せた。
去年的11月,去年的白紙。
 去年の11月、去年の白紙。
你們喊呀!沉痛的親屬們
 君たちは叫べ! 打ちひしがれた親族たちよ
死者冰冷的夜街磚,排列通道。
 死者は凍った夜の街の指道標のように、通路に並べられた。
夜深了便湧起灰……
 夜は更けて灰がまき起こる・・・

你是水,但
 君は水だ、だが
你必須飲水,夜
 君は水を飲まねばならぬ、夜は
鐵定黑,你黑如白紙!飲水
 確かに黒々として、君は白紙のように黒い! 水を飲めば
淚珠就墜毁。
 涙はこぼれ落ちる。

你們是不曾被飲到的河水
 君たちは飲まれる川の水であったことはなく
負載着失敗,灌溉著黑樂譜。
 失敗を背負って、黒い楽譜に水を撒いている。
此刻街上已無人等待,
 この刻限にはもう街角に待ち受ける者とてなく、
無人號喊,
 叫び声を上げる者はおらず、
而寒夜微茫,不可言傳
 そして夜は寒く寄る辺なく、言葉を伝えるすべもない
廣場黑著臉,找不到一點星火。
 広場はその顔を暗くして、かすかな明かりも見当たらない。
亡魂們又一次猶豫不決。
 亡霊たちはまたもや遅疑逡巡する。

我記得你,你是飲水的水。
 私は君を覚えている。君は水を飲む水だ。

僅此致敬彭立發先生。記住李康夢、吳正楠、烏衣、洋流、阿墨、秦梓奕……寒夜抱薪的孩子們。
 かくしてここに敬意を彭立発先生にささげる。李康夢、呉正楠、烏衣、洋流、阿墨、秦梓奕ら……人々のため寒夜に薪を抱いた若者たちのことを覚えておこう。

 
2023年1月11日西貢雨中
 2023年1月11日 サイクンの雨中で

 
 

日本語訳:ぐるーぷ・とりつ

 
 

 

 

 

接続詞で繋いでみる

 

工藤冬里

 
 

Aber
FMで82年特集とか
泡立つほどにまさに敵だな
理由は倫理的なものではなく技術的なもので
要するに音程や音色の選択が音楽に追いついてないからだ
そういう点でわりと憂国というか恥ずかしいんだおれは
Aber
地区、音乐与实践region, music, and practice」というタイトルがいい
https://www.instagram.com/p/Cmy5_DjNz0V/?igshid=YmMyMTA2M2Y%3D
Aber
4は地的な完全数と言われているが東西南北のことではない
それは1+1+1=4であるような次元の話なのだ
例えば3人家族という三角錐は4面を持つ
フラーが言うように、ものごとは4によってはじめて稼働するのだ
Aber
フレディグリーンて石渡が好きだったな
Aber
アーメン
とは
暴き出す
ということ
Aber
ヒロシです
一日一日が正月です
ヒロシです
毎年毎年が忌中です
口が裂けても明けましてを云わず、賀状の返事も出さないのでこれで勘弁

拾ったペンで髪を撫で上げた人に毎日が正月ですヒロシと返事して安らかに墓に入ると言わしめながらネコに殺される
名を覚えられないまま再建された天神に登る石段に人骨を焼く煙が全てのイントネーションを裏切って
針が振り切れる

Aber
一瞬でニカさんと渋谷さんと分かる凄いな
「離れていくなんて臆病です
の発声が良い
「幸せはつるべおとし
のデュエット部分 とか
「さっきはごめんなさい
の傲慢と謙遜の針の振れ
オザケンはあんまり
でもライザみたい
とかいってるうちにサキちゃんちに着いた
Aber
https://youtu.be/6mjbQW1Yt0E
昔鈴木君や山岸君がすのすの言い合っていた頃僕の雪ですの?を浩一郎がえらく評価して雪の倉に納める勢いでいやちょっと待てこれは凄い雪でしょスノーでしょとぶつぶつ、急に思い出した。
生きていたらえ、マイケルスノーは死んだんdeathの?と言うことになるが、今度は受けない気がするなんとなく
Aber
今日は公園に誰も居なくていつもみたいにわあわあしてる図書館車動画を挙げられなくて子供が来なくなった良寛みたいな気分だ
Aber
竈馬を食べた輩のブログに「うまい」とあり馬だけに、と思う
Aber
音楽にはもう動向なんてない
去年のベスト10とか得意気に人の音楽を選ぶより自分の身辺整理の方が先だろう
知り合いの生き死にの所作に目が行くぐらいだ
竈馬は光には反応しない
息を吹きかけると飛び上がる
Aber
夢が自由というのは障害物を出す自由であって
そういう意味で言うと自由民主党というのは自由に膿を撒き散らすことの出来る夢のような党である
夢のようなとは緩むということで
歯軋りしながら緩めるという曲芸であり
大道芸より難儀なことを毎夜
主たる民の身体は行っているのである

 

 

 

#poetry #rock musician

「生きざま」という言葉

 

駿河昌樹

 
 

   粗野で下卑たものが、
   高貴で優雅なものに俗世の生きかたを教える世の中が、
   やがて訪れるのだろうか…

          ロード・ダンセイニ『魔法使いの弟子』 *

 
 

人の生きかたのことを
この頃
テレビなどで「生きざま」と言っているのを聞く
平気でそう言っている

ちょっと
違うのではないか?
と思う

辞書などを見ると
「生きざま」に
さほど問題のある意味があるわけでもないことが
多い

大辞林には
「生きていくにあたってのありさま」
「生き方のようす」などとある
ずいぶん
ニュートラルである

デジタル大辞泉には
「『死に様』からの連想でできた語とされる」
とされ
「その人が生きていく態度・ありさま。生き方」
とある
「死に様」からの連想
という
ちょっと凄いことが出てきているが
意味自体は
ニュートラルに説いている

明鏡国語辞典には
「特徴ある人生観や人間性などで
 他を圧倒する、強烈な生き方」
とあり
やはり
「『死にざま』の類推から生まれた語」とも
注意書きがある
「他を圧倒する、強烈な生き方」
と説明していて
ふつうの人に使うのは
どうかね?
と考える根拠を
ちょこっと
示している

広辞苑(第六版)の場合には
〈「死に様」の類推から生まれた語〉と
注意書きされてから
「自分の過ごして来たぶざまな生き方。
 転じて、人の生き方」
とある

これだよ
これ
このニュアンス

世代や年齢によるのだろうか?
中年を越えた耳には
どうも
広辞苑の説くようなニュアンスで使われていたのを
多く見聞きしてきた気がする

「オレの生きざまを見てくれ!」
「あいつの生きざまを決して忘れねえぞ!」
などというセリフが
荒くれ者たちを描いた映画やドラマには
いくらもあったような気がする

まともな生き方からは
ずいぶん外れたりもしているが
すごく頑張って生きてきた
並大抵ではない生き方をしてきた
そんな場合に
自分自身で言うか
深い絆のある仲間に対して言うか
そんな場合の言葉が
「生きざま」だったような気がする

なるほど
なにかしらの取り柄があったり
才能があったり
有名だったりはしても
人畜無害な
ふつうにテレビにゲストとして呼べるような人には
「生きざま」という言葉は
かつてなら
使わなかったし
使えなかったような気がする

だいたい
「生きざま」の「ざ」という濁音が
汚いでしょ?

そんなことも
すっかり
感じとられなくなってしまったのかなァ

『魔法使いの弟子』で
ロード・ダンセイニが嘆いたごとく…

「粗野で下卑たものが、
 高貴で優雅なものに俗世の生きかたを教える世の中が、
 やがて訪れるのだろうか…」*

 
 

* Lord Dunsany(Edward John Moreton Drax Plunkett, 18th Baron of Dunsany)

The Charwoman’s Shadow (1926)