海、尾道の

 

薦田 愛

 

 

地図と映画でしか知らない町へ行く
初めての
私にとって 母にとっても
尾道
海にのぞむ町
純子さんに連絡してみようと母

シルバーウィーク直前の平日は雨
通勤電車にキャリーをひいて乗り込む
日比谷線山手線
飛行機ではなく新幹線で
雨雲は新神戸あたりでちぎれた
たぶん
坂の多い町だから歩きやすい靴がいいよね
車にも自転車にも乗らない母と私だから
駅に近いホテルに泊まろう
町と海を見おろす
高台の宿にも惹かれるけれど
ロープウェイに乗ればいいよね

午後一時半
桟橋の上のホテルで待っているよと母は
洋裁学校の同級生・純子さんに電話
新幹線のデッキは音がひどくて聞こえないから
続きはメールでねと言って切ったと
福山から山陽本線
東尾道駅を過ぎると海が近くなる
一時半
フロントでキャリーを預け
長いテラスを歩いてくるあれは
純子さん
白いシャツの襟を立て
黒を利かせたいでたちがおしゃれ
ギンガムチェックのシャツの母も傘寿には見えないし
洋裁学校出身だけあって二人とも
着こなしはなかなかのもの
久しぶり、元気そう、と小さく交わす
洋食ランチを注文すると
話は同級生たちのこと
純子さんの娘さんたちお孫さんたちのこと
十年くらい前に東京で同級生が集まっていたけれど
こんなふうに訪ねるのは初めてだものね
孫の話ができなくて寂しかろうと
母に同情するのはこんな時
聞いてみたことはないけれど

どこに行く? ええと千光寺だっけ
千光寺、ロープウェイ乗ってみる?
いいね
先に立つ純子さん
歩きまわれる靴で出かけてきたけれど
秋の午後は長くない
見晴らしのいいところに行ければ十分だよねと
母と私は目と目で納得
山陽本線に沿って東へ走るバス
長江口で降りて
鳥居の脇を進むとロープウェイ駅
座席が少ない車内で母は立ち
デジカメを取り出す
神社を見おろし
三重塔だの誰かの住まう屋根だの緑の密集だのを飛び越し
振り向けばとうに
ひらけていた足下この山の木立の向こう
尾道水道そして向島因島たぶん生口島
手前は黒々とその奥は重なって少し明るみ
目を凝らすともうひとつ淡い島影
携帯のカメラ機能を調整するうち
ああ
着いてしまった

晴れていたらねぇ、もっと遠くまで
見えるんだけどと純子さん
尾道に四十年あまり
もともとは和歌山そして洋裁学校は高松
海の町から海の町へ
海沿いのボードウォーク娘さんとベンチで
お弁当を広げることもあるのだと
パンがおいしいと言って
さっき案内してくれた店のいい香り
風のなか母子ならんで
サンドイッチにコーヒー
ドックや灯台行き交う船を見ながら
食べてみたくなる

洋裁学校に通いながら
ねぇ、ダンスを習いに行ってたのよね
何度もきいているのに改めてきく
踊る楽しさに目覚めたこころは
親の昔話に興味がつのる
純子さんはチャチャチャやジルバ、サンバが得意
私はスローなワルツやブルースが好き
難しかったけどタンゴもね
テンポの速いのは苦手
そんなことない お母さん活発だったわよと
純子さんはいたずらっぽい
お小遣いなんてもらってないのに
よく通ってたわよねと母
それなら前にきいたことがある
教科書代や教材費が要ると言って
もらってたんだと
憶えていないなあと今は
でも忘れていないこと 忘れるはずがないこと
たーくん、と呼ばれていた
父に出会った時のこと
同級生のみゆきさんが連れてきた
幼なじみと言って
大学生だった父のひとこと
ダンスなんかする女の子はきらいだと
それでやめてしまうのだ母はダンスを
出会ったばかりのひとが
そんなふうに言ったからと
みんなどんなに驚いたろう
からかわれたりしないはずがない

携帯もパソコンもない時代の
その先の物語を純子さんはたぶん
私よりよほど詳しく知っているのだけれど
父の口からきくことはもうできない
ママの清楚なところがいいと
言っていたひとと母とは銀婚式を迎えられなかった
三十三回忌も終えたのよと母
そんなに経つのねと純子さん

アーケードの商店街を抜け
旅行鞄の傍らしゃがむ芙美子の「放浪記」の碑を撮って
お茶をしながら秋は暮れてゆく
東京に来る時は声かけてね
行けるかしら 何言ってるのと
ほんの少し湿っぽく
でも一度来たからまた来られるよねと励まし
はるばる来てくれてありがとう気をつけてね
つきあってくれてありがとうと手を振り合う
二人に戻って桟橋の上のホテル
そう
旅は始まったばかり
明日
私たちは海を渡るバスに乗る
父の郷里へ向かうのだ

 

 

 

Les Petits Riens ~三十五年もひと昔

蝶人五風十雨録第5回「九月三十日」の巻

 

佐々木 眞

 

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1981年9月30日 水曜 くもり
長男の運動会のために会社を休む。障がい児なれど学友に混じってさほど目立たず見事に溶け込んでいる様子に感嘆。50メートル走も完走。先生に感謝。

1982年9月30日 木曜
キャプテンシステムへの入力、大半が終了。電通の羽賀氏、大奮闘。“なまけものウエア”のアイデアが浮かびくる。

1983年9月30日 金曜 小雨
TCC授賞式。新見氏およびホンダの茨木氏を識る。「宣伝会議」の講師を依頼される。

1984年9月30日 日曜 はれ
妻は福祉まつりバザーなれど余は自宅にて仕事&リラックス。

1985年9月30日 月曜
渚画廊で藤本泰子展、ムパタのような作風なり。映画「キリングフィールド」みる。

1986年9月30日 火曜 はれ
麻布フィンランド大使館脇のスマッシュに日高氏を訪ね、式田氏と共にJ.バーキン来日時のイベント企画を練る。夜第3回ネクストアパレル研究会にてポストDCを論ず。出席者16名。

1987年9月30日 水曜 くもり 寒
ジャン・ルノワールの「演技指導」、「ピクニック」「牝犬」をみる。素晴らしい。これに比べれば夜のオーストラリア映画「普通の女」はうわっつらだけの作品なり。

1988年9月30日 金曜
INの来年度のテレビCMについて池田ノブオ、電通と打ち合わせ。イラストを変更し曲はブルーハーツの「キスしてほしい」。小学館「マフィン」創刊。「女性自身」は天皇写真逆ネガ使用で発売中止。「サンデー毎日」は天皇死亡事故で責任者更迭さる。

1989年9月30日 土曜 くもり
連載中の「ル・クール」誌11月号の原稿を書く。

1990年9月30日 日曜 台風
台風20号来襲し、家の裏の崖より濁流流れ落ちる。夜6時、遂に床下浸水、一家総出1時間がかりで汲みだす。日朝国交回復の動きあり。

1991年9月30日 月曜 小雨
はてさて余はこれからどうすればいいのだろう。アフリカで頭がいっぱいの小黒氏からはつれない返事。されどディスクガレージの市川氏は親切なり。同社の蓮沼選手とあれこれ話す。

1992年9月30日 水曜 くもり
永代にてINブランドのショップ打ち合わせ。

1993年9月30日 木曜 東京はれ 広島くもり
新装なった羽田をANA12時発、雨の広島空港に到着。郊外のアルパーク天満屋、駅前のキリンヤをみて、夕方姫路の安ビジネスホテルに泊る。新幹線にて相生付近を走行中約5分間狭心症の発作起こりしが、懐中のニトロ2錠飲みて事なきを得たり。

1994年9月30日 金曜 はれ
風強く空気生温し。朝永代のIN店長会にて、スタッフを叱咤激励す。上野へ行きてアンデスのシカン発掘展で逆立ちで埋葬されし王をみる。はじめて国立科学館を訪れ、ゼロ戦や縄文時代の母子の死体、南極犬ジロ、忠犬ハチ公の剥製に接したり。

1995年9月30日 土曜 はれ
放送出版にてアパレル産業の昨今についてレクチャーしたが、うまくいかなかった。池田社長、渡辺氏などと会食し、3万円頂戴す。渋谷にてフォーレ室内楽4枚組買う。ヤクルトが優勝す。

1996年9月30日 月曜 雨
本日で9月も終わり、恐るべき10月がやってくる。昼はニットウイークの亡霊、夜は妹の電話に悩まされる。

1997年9月30日 火曜 晴れ
会社を休みて上野の冷泉家至宝展をみるが、大したことなし。藝大大浦食堂で昼食。これも大したことなし。横浜桜木町に行き、県立博物館(元の横浜正金銀行)にて藤沢遊行寺蔵の一遍上人絵巻をみる。

1998年9月30日 金曜 曇り時々小雨
次男無事に上海から帰国す。杭州、蘇州、寧波にも行ったらしい。余は川崎さいか屋、新宿小田急を訪ねたり。長男は明日も休むという。

1999年9月30日 木曜 晴れ 暑し
電通の古川取締役を訪ねる。外から仕事をもらわず社内から業務委託契約を貰いなさい。そのほうが迷惑にならない、と助言される。東海村で原子炉事故。中日優勝す。

2000年9月30日 土曜 曇り時々小雨
ムクの散歩を兼ねて、ガマの穂を取りに行く。次男は熊野へ旅行しているとか。図書館へ行ったが休み。御成小、二小で運動会。

2001年9月30日 日曜 曇りのち雨
従弟の卓、亮泊る。みなで朝ごはん。それから2人は、次男と一緒に近所のおばあちゃんチの蜂の巣を退治し、お昼はパスタをたいらげてから南浦和に帰り、次男は綾瀬に戻っていきました。

2002年9月30日 月曜 終日雨なり
講義の準備をする。小泉内閣の改造人事で竹中が金融庁兼務となる。不良債権への資本注入反対論者の柳澤も入閣したがどうなるか。イチロー打率4位。雨中カナカナが鳴いている。

2003年9月30日 火曜 はれ
新宿で文化講義、1日3コマで疲労困憊。大船で途中下車して茶色の靴3100円、ユニクロでパンツ1900円買う。

2004年9月30日 木曜 晴れ 暑し
台風一過。東京工芸大へ行く。大リーグ、イチローあと2本、松井30号。

2005年9月30日 金曜 はれ
松井22号。次男と太刀洗い散歩。アブラゼミ鳴く。美術館にて篠原有司男展。グロテスクな生命力漲る。長男は源平池の蓮をじっと見つめる。

2006年9月30日 土曜 くもり
まだアブラとミンミンが鳴いている。夜、月下美人が2つ咲いた。

2007年9月30日 日曜 雨
昨日から急に気温が下がり、11月頃のそれである。日本人フリー記者が殺された。

2008年9月30日 火曜 雨
米国における企業救済法が拒否され、史上最大の株安。余波は全世界へ。4年振りに浄明寺の歯医者へ行く。欠けた歯を継ぎ、歯石を磨いて4300円。少し高いのではないか。

2009年9月30日 水曜 小雨
妻と栄プールで泳ぐ。ユニクロで長男のジャージを買う。噛むと歯が痛い。サモアの首都パゴパゴでM8.2の地震あり。

2010年9月30日 木曜 雨
妻と横浜石川町へ行き、次男のアトリエを訪ねる。中華街の聘珍樓で5千円のフルコースを食す。楽しきこと限りなし。

2011年9月30日 金曜 晴れたり曇ったり
駅前の東急ストアや傘屋で買い物をする。文芸社より依頼あり。

2012年9月30日 日曜 大風
夜半にかけて台風17号名古屋に上陸し、本土を北上す。

2013年9月30日 月曜 晴れたり曇ったり
妻は前歯を治療している。皮膚が猛烈にかゆいそうだ。可哀想なり。

2014年9月30日 火曜 快晴
改装工事9割方終る。なかなかしゃれた感じに仕上がった。数日前に元社会党の土井たか子氏子死去。85歳なりき。

2015年9月30日 水曜 晴
朝、なおも油蝉が鳴いていた。妻と庭の草を取る。安倍蚤糞、NYで「一本でもニンジン、三本足す三本は合計六本の矢」なる阿呆莫迦音頭を唄って安保理国入りをアピール。懲りない男なり。「ロジャーズ」の左スピーカーが故障したので同じく英国製のKEFに取り替えようとするうちに日が暮れた。

 

気違ひが出刃包丁を持ち長月尽 蝶人

 

 

 

彗星パルティ―タ

 

今井義行

 

 

詩を書いているとき わたしはおおきな鷲になり
樹々にとまり 街々をわたり 見つめました
ああ、あれが愛知県の半田市だ 暁子の棲む知多半島のなかばにある海の街

暁子はTOYOTAの関連工場で部品を検品しているが
多忙すぎて湘南海岸に棲むママにはあまり連絡しない

オペラグラスでながめた空のなかにはオレンジの月があったはずだが
わたしはわたしで 月光のなかに銀河空港を造り
そこに─── ひそやかな憩いの場を描いた

CDプレーヤーに嘗て買ったアルトサックスの音盤をセットしてみた

『彗星パルティ―タ』 それは わたしが詳しくない
ジャズの故・阿部薫氏の遺したアルバムのタイトルである
阿部氏のフリーは鼠花火のようにどこへ飛ぶのかわからず
彼は「詩なんて、遅すぎる」と罵りました
そうかしら? 彼は はやくに死んだけれど
わたしは ながく生きて 詩を書きたいなあ・・・・・・・・・

≪嗚呼、こどもにあえぬ アル中おんな ミユキが ないているよお≫

夜間診療の帰り道 ひとで溢れた繁華街でめがねをはずすと
すべての街燈が打ち上げ花火に思えたものでした
なにかの 祝祭かしら・・・・・
そうして パパの形見の懐中時計を間近に引き寄せて
深夜の総武線に乗ったりしました

わたしは パパがきらいだった
よちよちあるきのころから わたしに
≪この世に出してもらえたことをありがたくおもえ≫
と 刷り込み その一方で
とても 小心者であった あの男が

パパの辞世のことばは
「家族っていいなあ/生まれてこなければよかった」
という 相反するものだった
けれど わたしは
ときには パパが 東海道線に興味をしめした
ちいさなわたしに気づいて
湘南電車沿線につれていってくれたことや
わたしが 電車に「さようなら」といったこと
わたしと いもうとの暁子に
「にほんとせかいのむかしばなしとしんわ」を
よみきかせてくれたことなどを薄く憶いだしたりもした

明け方から早朝に移る真夏の空に流線のような彗星パルティ―タ
が明滅している あれは何のフリー

わたしは湯のみで白湯を呑みからだを浮き雲にかえた───
そのように ちいさな風穴があけられて
コミック雑誌の巻末のカラーページを見ていたら
水木しげる氏の 絵画エッセイのようなものが載っていた
最初の1ページ 作者であろう「わたし」が
妻とともに 調布の野川に散歩でもいこう
ということになり 「ああ、カワセミがいる
それにしてもみんな高そうなカメラで撮っているんだナ」と呟いた

3・4ページ・・・・
見開きいっぱいに 野川の全景が描かれている
わたしは 調布に住んだことがあったけれど
これほどに うつくしい完璧な真夏の樹々を見たことはなかった

スマホ 高級デジカメ 絵筆
Googleの社員は自分の足で世界中を歩きまわっているらしい
まあるい EARTH RING それは
地上戦と 電子戦のいきかう戦場なんだな いまもなお

木曜日の午後、院長ミーティングに初めて参加した日
それは双方向性のフリーミーティングだということだったので
わたしは 自己紹介をかねてこのような話をしてみた
「わたしは病気で会社を辞め その後は退職金と精神障害者年金を切り崩して
暮らしているのですが 詩を書くこととは生きること
そして───
ことばに対して官能的、に接していくということで
わたしのしごととは詩人です わたしは、死ぬまで詩人です」
そう喋ったあと誰からも質問はなかったので患者にとって詩ってそういうものかと思った
そして こころやからだが疲れるので 茣蓙でごろごろしていたら
臨床心理士の倉澤さんが「あの、今井さん ちょっといいですか」と尋ねてきた
「詩人ていうものは いつから詩人になるんですか
わたしは詩が好きで中学生の頃からずっと詩を読んだり書いたりしていたんです
詩人になりたいと願っても どこからが始点かわからなくて
結局 臨床心理士になりました」
倉澤さんのまなざしはめがねごしにきらきらとかがやいている

≪嗚呼、こどもにあえぬ アル中おんな ミユキが ないているよお≫

「倉澤さん、詩人は詩人になろうと願ったときに詩人になるのだと思うんですよ」
「わたし 中学校の国語の授業で『夕焼け』という詩に感動したんですが
国語の教師が この詩は作り話なんだよといったもので驚愕したんです」
その詩は 国民の多くに愛されている あれだった

夕焼け 吉野弘

いつものことだが
電車は満員だった。
そして
いつものことだが
若者と娘が腰をおろし
としよりが立っていた。
うつむいていた娘が立って
としよりに席をゆずった。
そそくさととしよりが坐った。
礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。 
娘は坐った。
別のとしよりが娘の前に
横あいから押されてきた。
娘はうつむいた。
しかし
又立って
席を
そのとしよりにゆずった。
としよりは次の駅で礼を言って降りた。
娘は坐った。
二度あることは と言う通り
別のとしよりが娘の前に
押し出された。
可哀想に
娘はうつむいて
そして今度は席を立たなかった。
次の駅も
次の駅も
下唇をキュッと噛んで
身体をこわばらせて—–。
僕は電車を降りた。
固くなってうつむいて
娘はどこまで行ったろう。
やさしい心の持主は
いつでもどこでも
われにもあらず受難者となる。
何故って
やさしい心の持主は
他人のつらさを自分のつらさのように
感じるから。
やさしい心に責められながら
娘はどこまでゆけるだろう。
下唇を噛んで
つらい気持で
美しい夕焼けも見ないで。

(そつなくかいて、ゆるされるのは、『世間知ラズ』の、谷川さんのみじゃないか・・・・・・?)

「どの詩も 全部が全部作り話じゃないと思いますよ
きっかけになるできごとがあって そこに詩人の想像力が加わって
そうして虚構としてひろがっていって成り立つんだと思いますが」
「今度 わたしが書いた詩を読んでくれますか わたしは詩人になりたいんです」
「倉澤さんはまだ若いし いまからでもぜんぜん遅くないですよー
臨床心理士として 毎日多くの患者さんと接しているわけですから
わたしからみたら詩の題材の宝庫でうらやましいくらいなんですけど───」

古いフランスパンのように表面がぽろぽろ剥がれる上履きで
わたしはクリニックのなかのリハビリルームを歩いた

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

わたしは パパがきらいだった
よちよちあるきのころから わたしに
≪この世に出してもらえたことをありがたくおもえ≫
と 刷り込み その一方で
とても 小心者であった あの男が

パパの辞世のことばは
「家族っていいなあ/生まれてこなければよかった」
という 相反するものだった

1987年から2015年まで わたしはずっと詩だけを書いてきました
小説ではだめだった 音楽にも映画にも飽きてきた

そのなかで 思わず かいた わたしの詩は
最終的には 虚構の いいえ
実から虚 実への織物 個人史のつもりです

いいえ 個人史、 なのです

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

詩・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・なのですよ
この次には無責任に
横須賀に生まれてみたい

親は無く
友は無く

カレンダーは無く

路は無く
壁は無く

駅は無く

光は無く
闇は無く

噂は有る

そのような街で一生を棒に振るの

予め
目標なんて
一粒も無い
予め
甲斐なんて
一滴も無い
予め
外等見ない

そのような街で一生を棒に振るの

横須賀に生まれてみたいね

朝は無く
夜は無く

トレーラーは無く

風は無く
雲は無く

鳥は無く
蝶は無く

泥は有る

空は無く
石は無く
砂は無く
・・・・・・・

そんな街に

阿部薫氏の「詩なんて、遅すぎる」とは29歳の口から出た皮肉だったでしょう
アルトサックスはソプラノサックスより彼の体感に合っただけだったのだと思う

明け方から早朝に移る真夏の空に流線のような彗星パルティ―タ
が明滅していた あれは何のフリー

後日わたしがまた茣蓙でごろごろしていたら
倉澤さんが「あの、今井さん ちょっといいですか」とまた尋ねてきた
「これ、わたしが高校生の頃に書いた詩なんですけど・・・・・」
すこし黄ばんだプリント用紙に記されていたのはこのような詩

雨の日に火曜日になったわたし
Kの詩篇 No.9

冷たくなっていた白米のひとつぶが割れて
そこから間歇泉の雨がふきだす
火曜日に変ったわたしは暖かく濡れながら
空を仰いでいる

時にはばらばらに成りかけた心を合わせて
あたらしいひとつぶになりたいと
木目調のドアのレバーを回して進むと

木目調の木目の緩やかな流れに添うように
緩やかな砂利道が在ったのだ
緩やかな砂利道に添うように
もうすぐ咲きそうな白木蓮の蕾が直立し

服役していた訳でもないのに安堵をして
野原に座る 火曜日に変ったわたし
こどもおとなのようにわたしは爪を噛んで
要らなくなった爪の薄皮を剥がす
そのときに また──

緑地から間歇泉の雨がふきだす
火曜日に変ったわたしは暖かく濡れながら
空を仰いでいる

しあわせになりたいと想ったことはない
(傲慢なのだろうか、わたしは・・・・)
というのは 周りに嘆くひとが多過ぎた
最低限に暮らせていければそれでいいと

ただ 火曜日に変ったわたしは嬉しいのだ
この場所では どんな友に逢えるのだろう
月曜日に変った友 水曜日に変った友・・・・
木曜日に変った友 金曜日に変った友・・・・
土曜日に変った友 日曜日に変った友・・・・

それぞれにかわすことばの体温を知りたい
火曜日に変ったわたしは高熱なのだろうか
いまのところ わたしのこころは涼やかで
周りの光景のほうが眩しく高温のようだが

(倉澤さん、どこから それを まなんできました?)

あなたの詩は、彼方へ届くか
わたしの詩は、彼方へ届くか

≪嗚呼、こどもにあえぬ アル中おんな ミユキが ないているよお≫

「こういうの毎日 書き溜めていたんですが」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「わたしは きれいな嘘がすきだったんでしょうか
それから こういう詩もです」

器械体操
Kの詩篇 No.12

機械体操ではなく器械体操なのだったと
錦絵の秋に想いだした
暮れ方になればライトアップされた床で
一枚の葉が舞い続ける
廻りながら捩れながら
一枚の葉は処女だった
機械体操なら装置なのでスイッチが要る
器械体操なら品位なので陶然と成るのみ
痴態とはならない一葉
機械体操ではなく器械体操なのだったと
沙羅の秋に想いだして
機械体操ではなく器械体操なのだった・・・

(倉澤さん、どこから それを まなんできました?)

「わたしは きれいな嘘がすきだったんでしょうか」

「わたしは きれいな嘘がすきだったんでしょうか」
そんな倉澤さんの問いには こたえず
わたしは 薬局に寄り 早い夕飯を
駅ビルの 安いイタリアンレストランでとり
それから まっすぐにアパートに帰って
横たわっていたら 夕暮れは夜に変わり
早い夜は 深い夜へと 変わっていった
わたしは 睡眠薬を飲み ベッドですとんと眠りに落ちて
あっというまに夢を通りぬけながら・・・・・
夢のなかでも詩を書いていて空を仰いだ
明け方から早朝に移る真夏の空に流線のような彗星パルティ―タ
が明滅していた あれは何のフリー

詩人って、なんだろう
『わたしの「詩人」の定義は、(今井さんの場合 限定かもね) 詩のかみさまと契約を結んでいるひと、です。かみさまに「自分を捧げるから、どうぞ詩の言葉を書かせてください」と祈って、その祈りが受け入れられた人。』 
そのような お手紙を サトミさんから いただきました
とても うれしかったけれど わたしってなにものなのだろう

≪嗚呼、こどもにあえぬ アル中おんな ミユキが ないているよお≫