lonely ひとりぼっちの

早朝の空港に姪を迎えにいきました

モノレールに乗って
海の傍をすべるようにいきました

姪たちと高層ビルにあるアートセンターで
チャーリーたちと会いました

頭の大きなチャーリーは
子どもたちの悲しみを抱えていました

小さな瞳が
光っていました

 

 

painting(絵の具で描いた)絵

深夜の街を歩いた

ゆらゆらゆらゆら歩いていた

ゆらゆらゆらゆら消えていった

花束を胸に持った
少女の絵が部屋にかけてあります

桑原正彦の絵です

かつて女のヒトを好きになったことがあります
かつて女のヒトに花束をあげたことがあります

 

 

finger 指

人差し指が痺れている

もう
ずいぶん前から痺れている

頸椎の軟骨が
神経に触っているのだと医者からきいた

冬の
寒い日に

インベンション11が弾きたいな

ユージさんみたいに透明な音で弾きたいな

痺れる指で弾きたい
冬の寒い日に弾きたい

 

 

violin バイオリン

今朝はヒロセさんの猫シャツで散歩した
モコと散歩した

尻尾のような雲が空に浮かんでいた

荒井くんや桑原くんやぼたるさん
閑さん

ぼくの友人にはアーティストが多い

かれらの作品が雲みたいに
なればいいな

今夜はマリア・コゾルポヴァを聴いてます

 

 

round 丸い

今日は
里山にある料理屋でご飯を食べました

義母の誕生祝いだった

義母はよろこんでくれた
ご飯を御馳走できることが嬉しかった

帰って
居間のソファーに眠りました

わたしとモコと丸くなって眠りました

義母はいつも
わたしのことをミッちゃんと呼びます

 

 

嘘のような

 

根石吉久

 

たごさくえーご宣言
たごさくえーご宣言

 
免許証を調べたら、昭和43年5月30日に二輪免許を取っている。ネットで昭和43年を調べたら1968年だが、月日が誕生日以前だから16歳の時だ。高校の山岳部に入っていたので、山道具を買う金を作るためにバイクで新聞配達を始めたことを思い出した。一年ほど無免許で配達していたら、親父が心配して免許をとれと言った。そうか、あの頃の俺は朝を知っていたのか、と思う。もう何十年も昼頃に起きているので、朝を知らない体になってしまっている。
無免許で乗っていたのはバイクだけで、昭和60年7月23日に普通免許を取っている。今の免許証に「中型」と印字されているのがそれだろう。昭和60年は1985年で、計算機で計算すると33歳の時だ。免許を取った直後に、ロンドンに行ったことをなぜか一緒に覚えている。ロンドンには 一ヶ月半いただけだが、帰ってきてすぐ車に乗り始めたのなら、33歳の時だし、もう少し時間がたってからなら34歳の時だろう。すぐ乗り始めたか どうかを覚えていない。

そうか、「たごさくえーご宣言」を調べればいい。書類の山を引っかき回して「たごさくえーご宣言」をみつけ、奥付を見たら1986年2月20日に発行されている。それでいくと、ロンドンにいたのは1985年の夏だ。
「たごさくえーご宣言」は、ロンドン滞在のために用意されたお金が少し余ったので、ロンドンにいる間に書いておいたメモみたいなものを見なが ら、当時発売されたばかりのワープロ専用機を使って版下を作り、知り合いの印刷屋さんに頼んで冊子にしてもらったものだ。「田子作英語宣言」のつ もりでつけたタイトルだったが、「たごさく、えー、御宣言」だと読んだ人がいた。「えー」というのは、御宣言をするにあたって、偉ぶって、咳払い なんかをしながらの「えー」だろう。そんなつもりじゃなかったのだぞよ。

ロンドンに行くことになったのは、自分の意思からではなかった。借家の隣のサダオサンが、ある日「飲みに来い」と私に言った。酒を飲み始めたら、サダオサンがロンドンへ行けと私に言ったのだ。いや正確にはロンドンへ、ではなく、「俺の息子に英語を教えているやつがアメリカにもイギリス にも行ったことがないようじゃいけない。だから行って来い。どっちでもいいからとにかく行って来い」とサダオサンは言った。「じゃあ、イギリスが いいかな」と迷ってから私は言った。「金は俺が集めてやる」とサダオサンが言った。「行くのなら、全額を塾生の父兄に負担してもらうのではなく、半分は自分の金で行きたい」と私は言い、サダオサンは承知してくれた。
その後、サダオサンは塾生の親に手紙を書いてくれ、親達に集まってもらい、「素読舎のオッシャンに外国に行かせたいので、いくらでもいいので無 理のないように少しずつお金を出してもらえないか」という話をしてくれた。お金はサダオサンから、まとめて受け取ったので、誰がどれだけ出してく れたかなどの内訳はわからない。後から推測したのだが、あの時、サダオサンはかなりの部分を一人で負担してくれたのではなかったか。サダオサン一人が「金は俺が出してやる」と言えば、私が負担に感じると思って、塾生の親たちに声をかけてくれ、みんなが出し合ったようにしてくれたのではな かったか。サダオサンは何も言わなかったし、私もお礼の他は何も言わなかった。今でも内訳は知らない。

サダオサンは私をオッシャンと呼んだ。長野のこのあたりでは、オッシャンは、中年の男を呼ぶときの呼び方で、およそ三十を過ぎたあたりの男に使 うことが多い。早くても、二十代後半くらいにならないとオッシャンと呼ばれることはない。それまではアンシャンであり、それ未満ならコドモあるい はガキだ。
私は二十代後半でオッシャンと呼ばれた。今では大人の生徒の方が多いくらいだが、英語塾をやり始めた頃の生徒は中学生ばかりで、彼らからすれ ば、二十代だろうが十分に歳は離れており、私は十分にオッシャンだったのだ。
オッシャンはたいてい年上の男を呼ぶのに使うが、サダオサンは私より10歳以上も年上だった。サダオサンは自分の息子(コウスケ)が私を呼ぶ呼 び方を真似て、私をオッシャンと呼び、可愛がってくれた。
塾をやっていた部屋の入口に下駄箱がなく、塾生の靴が脱ぎ散らかしてあるのを見た時、サダオサンは下駄箱を買ってやると言ったが、そういうとき に私はかたくなに固辞した。その気性を知っているので、ロンドン行きに際しては、塾生の親たちに声をかけて、みんなが出し合った金の形を作ってくれたのではないだろうか。サダオサンは口は悪かったが、なぜか私を可愛がってくれた。

書きだした時、免許証を見て免許取得の年を調べたのは、近頃、軽トラの中が喫茶室だということを書こうとして、そういえば俺はいつから車に乗っているのだろうと思ったからだった。免許を取った直後くらいにロンドンに行ったような記憶があるので、「たごさくえーご宣言」の発行年月日を調 べ、中身をちょっと読んだら、サダオサンを思い出したのだ。

ミッドナイト・プレスが出してくれた「根石吉久の暮らしの手帳」にサダオサンが出てくるので、少し引用する。と書いて、「買いなさいと私は言っ た」というタイトルのやつを全部引用しちまうかと思った。サダオサンは、このエッセイでは、初めの方に出てくる「近所の旦那さん」だ。

買いなさいと私は言った

車に乗り始めてから七年になる。その間に五台に乗った。思えば屑屋のような七年だった。しょっぱかった。
最初の軽自動車は八千円だった。これは非常にでこぼこしていたが、よく走った。
次の普通車は友達からもらった。穴だらけで、錆びていた。八丈島を走ってた車で、潮風にやられていた。穴にガムテープを貼って、ペンキを塗っていたら、近所の旦那さんが来た。車を見るなり、だめだあ、と言った。こんなものだめだあ、こんなものに何したってだめだあ、腐ってるじゃねえ か、と旦那さんは言うのだった。
車に乗っている人にはなんとなく、いくつかの派がある。ヨンク派とか、ス
ピード派とかいうのがなんとなくある。ヨンク派には、さらにドロミチ派 とシティ派があり、スピード派にはオンゾウシ派やボーソー派がある。私はデコボコ派とガムテープ派をひとりでやってきた。
次のニッサンキャラバンもデコボコ派だった。よく悪路で砂をほじってタイヤを空回りさせた。それを私は蹴とばした。キャラバンを蹴とばす悲しさ は、私をついにヨンク派にしたと思う。
だから次はジープだった。これもまたよく錆びていた。川原の石ころだらけのところを走り回る。顎ががくがくする。子供がすごいと声をあげる。
私は言った。「これがジープだ」
子供が言った。「これがジープか」
泥にはまってカメノコになり、抜けられなくなったことがあった。子供が言った。「もう乗らない」路肩が崩れて車体が千曲川本流の上に傾いたことがあった。奥様が言った。
「もう乗らない」
ヨンク派もひとりでやらなくてはならないらしかった。
ヨンクを過信してはならないのである。沼にずぶずぶともぐりこんだり、仰向けになって空に腹を見せている場合は、四輪駆動車はしっかりと駆動のかかった四輪で空回りするようである。
去年、奥様が勤めに出るためにアルトを買った。これは駄目だった。通勤の途中で止まってしまうのだ。奥様はこんなのはいやだと言った。それに、 スパイクタイヤが禁止になるから、乗り換えるならヨンクがいいと言った。
奥様は土佐の生まれなので、信州の雪道を非常にこわがる。雪道で少しくらい車がお尻を振って走っても、うふん、少し色っぽいかしらと思っていれ ばいいのだが、奥様は少しでもお尻を振るのはいやだと言うのである。そんなことはとんでもないことだと言うのである。ヨンクがいい、ヨンクなら大 丈夫と奥様は言った。四輪駆動の車なら雪道も滑らないとどこかで聞いてきたものらしかった。
私の顔がほころびそうになる。顔の筋肉をたてなおして私は言う。ヨンクだってつるつるのところでブレーキを踏めば滑るぜ。
え、嘘!と、奥様が言う。四輪駆動の車は絶対に滑らないと思っていたらしい。滑るんなら、ヨンクを買っても仕方がないかと奥様が迷った。いやい や待て待て、早合点してはいけない。そりゃあヨンクでも滑るとはいうものの、二輪駆動とは断然違う。発進の空回りはないし、尻の振り方も小さい。 雪の坂道発進にはうんと強いのだ。通勤の万葉橋の土手は、信号の手前が坂道ではないか。
しかも川風が吹いて道がかちんかちんに凍るところだ。ヨンクか、そうだ、ヨンクがいいだろう。ヨンクの軽ならジムニーだな、うんうん、と私は言った。実は四駆の軽で、乗用車タイプがいくらでもあるが、ヨ ンクの軽を買うなら何が何でもジムニーがよいのである。それはもう誰に聞いたところで、私に聞いてみればジムニーである。私に聞きなさい。
大切な奥様が出勤にお使いになるヨンクである。ちゃんとしたヨンクでなければいけない。そして今度はしょっぱい車でなくて、程度のいいのを買うことがよいのである。そうではないだろうか。その通りである。
またしても中古車ではあるが、ターボ付きで八十万円のがみつかった。これまでの五台分を合計しても、まだ三十万円もおつりのくる額だ。奥様の半 年分の給料である。しかし奥様は勤めて十ヵ月になる。買ってよいのである。買うべきだ。買いなさいと私は言った。
そして、ジムニーが来た。
ターボがはたらくと、軽とは思えない。坂に強い。小さいから細い林道や農道へどんどんはいって行ける。こういう車を朝と夕方だけ通勤に走らせる だけではやはりよくない。ジムニーの軽くワイルドなフットワークをきちんと評価してあげなければいけない。悪路走行の能力を認めてあげなければい けない。だから夜には私がお借りする。
うふふふとエンジンが回る。むふふふとターボが回る。乗り心地は乗用車というわけにはいかない。しかしちゃんとしたヨンクだからそれは仕方がな いことである。
うがががが、跳ねる、跳ねる。
(midnight press 11. 1992.5.31)

ジムニーは三台乗ったが、どうやら最初に買ったジムニーがこの80万円のものだったらしい。私が最初にツーサイクルのジムニーに乗り、妻に フォーサイクルのジムニーを奨めたのだと思っていたが、記憶違いらしい。このエッセイにはツーサイクルのジムニーは出てこない。妻が買ったジムニーについては、サダオサンも「こんなもの何したって駄目だあ」とは言わなかった。待てよ。サダオサンが亡くなってから、もう何年になるのだ?
あの頃は、まだサダオサンも元気でいたというふうに覚えているのだが、コウスケに今度確認してみなければならない。免許証で免許取得の年月日を調べたり、「たごさくえーご宣言」の発行年月日を調べたりしているうちに、サダオサンの面影が切れ切れに浮かび、その胴間声を思い出していた。

軽トラのことを書こうと思い、「軽トラが喫茶室」というタイトルを最初に考えたのだが、まるで違うことを書いてしまった。もう締め切りを過ぎてしまったので、軽トラのことはまた今度ということにさせてもらう。
サダオサンはずいぶん前に亡くなった。今の私はサダオサンが亡くなった歳より上になるのだろうか、今でも下なのだろうか。やっぱり亡くなったんだなと、今はようやく納得している。私は人が亡くなったことを納得するのに時間がかかる。そのことに気付いたのは、私が中学1年の時に祖母が亡く なったときだった。頭は「バアヤンは死んだ」と知っているのだが、気持ちが納得しなくて、バアヤンはまだその辺にいるような気がしていた。それが 続いた。
最近のことで言えば、奥村真さんの死と中村登さんの死だ。奥村さんの方は納得しかけてきた感じだが、中村さんのことはまだ納得できていない。昨日だったか、中村さんは死んだのかと、軽トラを運転しながら思っていた。「季刊パンティ」の同人で、生き残っているのが私だけだということになるのが、どうも嘘のような気がしてならない。