ピカピカの薬缶の横っ腹に俺っちの姿が映ったっすよね。

 

鈴木志郎康

 

 

トイレの帰り、
ガスコンロに乗った薬缶の横腹に、
俺っちの上半身裸の体が映ってたっすね。
思わず、俺っち、思ってしまったっす。
物に人が映るって、
物に人の影が残るって、
爆心地から260m離れた住友銀行広島支店の
入り口の階段に座ってた人の影、(注1)
ピカドンが残した影、
五十年前に広島に住んでて、
俺っち、その影を見たっす。
いやああ、あらゆる事物に、
俺っちは、
姿を映して、
影を残して、
生きて来たんだって、
ことでっすっすっす。

5月27日の夕方、
オバマ大統領の広島訪問の中継を見たっす。
ヘリコプターで広島の空から降りて、
市内を自動車で移動して、
平和公園に着いて、
原爆資料館を見て、
慰霊碑に花輪を捧げて、
目をつぶって、
そして
「71年前、明るく、雲ひとつない晴れ渡った朝、
死が空から降り、
世界が変わってしまいました。」(注2)
大統領の演説が始まったっす。
俺っち、あれれ、
原子爆弾を落として、
広島市民に死をもたらしたのは、
米国のB29エノラゲイじゃなかったのかいなって、
ぐっときたっす。
小学校3年生で、
東京の江東地区で、
B29の焼い弾の絨毯爆撃の最中、
母親と逃げた俺っち、
叔父従兄弟従姉妹が焼死させられた俺っち、
死が降ってきたなんて、
そんなこと、
言われちゃ、
71年が過ぎたとはいえ、
謝れとは言わないが、
腑に落ちなっていっちゃ。
広島市民だって、
そうじゃないかなって。
ウウン、グッグ、
ウウン、グッグ。

オバマ大統領の演説は、
聞いてると、
被爆した人たちの立場に、
立つために広島に来たと言ってるっちゃ。
だから、死が降ってきたってこっちゃ。
文学的だっちゃ。
ウウン、グッグ。
「核攻撃の承認に使う機密装置を持った軍人を同行させて」(注3)
平和公園に、
核兵器の無い世界を追求する思いで、
来たっていうこっちゃ。
慰霊碑の石碑前面の言葉の、
「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」
この言葉の主語になるために、
「私の国のように核を保有する国々は、
恐怖の論理にとらわれず、
核兵器なき世界を追求する勇気を
持たなければなりません。」(注2)
と言うこっちゃ。
米国が持ってる数千発の核兵器を
即座には捨てられないんだなっちゃ。
思いとかけ離れてて、
結構、辛いのかもしれんっちゃ。
言葉だけで終わらせないでくれっちゃ。
ウウン、グッグ、
ウウン、グッグ。

原爆投下の映像に拍手し、(注4)
核攻撃の承認の機密装置を
傍らに、理想を語る
大統領という役職の
男の存在に、
あの目を瞑った顔のアップに、
俺っち、
ぐっときちゃったね。
ウウン、グッグ、
ウウン、グッグ。

俺っち、薬缶をピカピカに、
ピカピカに、
磨いたっす。
毎朝、紅茶を沸かしてる
ピカピカの
薬缶の横っ腹に、
キッチンに立ってる
俺っちの
姿が映ったっすっすっす。

 

 

(注1)広島原爆資料館の展示
http://www.pcf.city.hiroshima.jp/index.html
http://www.pcf.city.hiroshima.jp/outline/index.php?l=J&id=31

(注2)朝日新聞2016年5月28日朝刊

(注3)朝日新聞2016年5月31日朝刊

(注4)FB:小西 誠
2016年6月1日 11:42 ·
原爆投下の映像に拍手するオバマ、十字を切るプーチンーこれが、日本人(と被爆者)が「ヒロシマで歓迎」したとする、オバマの本当の姿だ!

戦争と原爆とプーチン氏とオバマ氏
おすすめ動画 戦争に行ったアメリカ兵の告発!「本当の敵はアメリカ国内にいた!」 (「戦争は儲かる!」by アメリカ)
https://www.youtube.com/watch?v=cR5zoW1W4ac

アメリカの権力がやらせていること。その権力者に洗脳された兵士達の言動。 そのアメリカのイエスマン、日本。

ノルマンディー上陸作戦記念式典。プーチンとオバマの違い …
http://richardkoshimizu.at.webry.info/201501/article_12.html

 

 

 

island 島

 

新丸子の

駅の

帰りの
夜道には

白い花が
咲いてる

ヒメジョオンの白い

花をみた
もう

ユリオプス・シルバーシングルの
黄色い花たちは

いない

白い花のまえに佇つ
白い花のまえに佇つ

島影のよう
俤のよう

ヒメジョオンの白い花のまえに佇つ

 

 

 

水無月の歌

Voice Of Yoshimasu~吉増剛造の語りによる「我が詩的自伝」を読んで

 

佐々木 眞

 

 

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これは詩人吉増剛造が物語る、いわゆるひとつの波乱万丈の人生と、その創造の秘密であるが、近頃これくらい面白い読みものもあまりないだろう。

それは本書の折り返しで、当年とって77歳の文化功労者が、かのアインシュタインの真似をしてアッカンベーをしてみせる写真を見れば、一目瞭然だろう。

あなたが、「素手で焔をつかみとれ!」という気恥ずかしい副題をつけられたこの本を読み始めても、あなたの期待は裏切られないだろう。だろう、だろう。

そこには、この人物が、それぞれのエポックを代表するような、錚々たる人物と次々に遭遇しながら、切磋琢磨し、おのれの人生と芸術を築き上げて、今日の大をなしてゆく事の次第が、初めは処女の如く、終わりは龍虎の如き勢いで、鼻息も荒々しく、縷々陳述されているのである。であるん。

彼の藝術的受容のキーポイントになっているのは、どうやら「声」らしい。

声、Voice、ヴォイス、ヨーゼフ・ヴォイス、Voice Of Yoshimasu

例えば太宰治や柿本人麻呂や芭蕉、アレン・ギンズバーグの詩歌や散文には、エルヴィス・プレスリーやボブ・ディランに通じる生々しい声があって、これが心の奥底にまっすぐに届く、というのは、私のような門外漢でもたやすく追体験できる。

声、Voice、ヴォイス、ヨーゼフ・ヴォイス、Voice Of Yoshimasu

そのドーンとやって来る声=「内臓言語」は、彼が大きな影響を受けたと語っている聖句やエミリー・ディキンソンの詩、キェルケゴールの言葉、そして一休宗純の書にもどこか通じている、父母未生以前の原初的で普遍的な炎、のようなものなのだろう。

そして彼はこの炎を自分のものにするために、心身を常に「非常時」に置き、原初的で普遍的な歌や声や踊りを宣揚するだけでなく、愛妻マリリア選手由来の“即席シャーマン”となって、それらに限りなく憑依するばかりか、夫子自身がそれらの発火源(詩魂の火の玉!)になろうと悪戦苦闘しているようだ。

したがって彼にとっての詩的活動とは、幾たびも、また幾たびも詩魂の火の玉となって、この宇宙の創造主に体当たりせんとする特攻機のZigZag&螺旋運動、詩的テロルそのものであり、人はその軌跡を「作品」と称しているに過ぎない。
この間の事情をば、不肖わたくしめの詩で翻訳するなら、

『見よ東海の空あけて 旭日高く輝けばァ、
今日も我らがGozo選手は単機Zero戦を駆って、紺碧の空の果て、言語も枯れる真空地
帯の極北を目指し、離陸していくゥ。

かつてニーチェが「人間とは乗り越えられるべき何かである」(佐々木中訳)と定義したように。

かつて「ゔぁれりー」が、「風立ちぬいざ生きめやもォ」と歌いながら「えらんゔぃたーる」の彼方へと飛翔したように。

そしてまた、かつてセーレン・オービエ・キェルケゴールが喝破した「反復とは繰り返しではなく、瞬間毎に生き直すことである」を実践するがごとくに』

ということになろうか。だろうか。そうだろうか。

それでは、肝心の吉増剛造の詩の値打はどうなのかと問われたら、私は「あれらは出口なお刀自ではなく、出口王仁三郎が代筆した「大本神諭」のようなもので、その価値を論じてもあまり意味はない」と答えるだろう。だろう。

それよりも「詩人は、すべからく詩作の内部で生きるほかはない。爾余は“半死にの余生”ということになるが、それもさして悪いものではない」というのが、私の吉増剛造観である。であーる。

余談ながら本書を読んでいちばん感嘆したのは、著者が多摩美で「詩論」講座を受け持ったときに、ホテルに泊まり込んで200名のレポートを全部読んで、一人ひとりに全部違う出題をしたというエピソードであった。

こういう離れ業は、学生と教育への愛と興味と誠実さがなければ、やりたくてもなかなか出来ないものである。

声、Voice、ヴォイス、ヨーゼフ・ヴォイス、Voice Of Yoshimasu