サン=ジェルマン伯爵でございます、はい。

 

駿河昌樹

 
 

国民とやらを
市民とやらを
庶民とやらを
これからいよいよ
楽しく眺めさせていただこうと思う

自分で採った種子を蒔けない法律もできたことだし
水道は民営化されて8倍も10倍も料金が引き上げられるようだし
労働時間の規定は完全に取り除かれて酷使したい放題になるのだし
老人や身障者や他の社会的弱者の切り捨て政策は進展目覚ましいし
原発事故の県ではガンの発生がウナギ登りでも誤魔化されているし
各地の原子炉の維持や廃炉には天文学的な支出が続いていくのだし
腹汚い既得権益連中が凝集して富を吸う戦前帝國化が進んでいるし

わからないのも
見て見ぬふりも
何もしないのも

国民とやらの
市民とやらの
庶民とやらの
やっぱり自業自得なので

これからいよいよ
楽しく眺めさせていただこうと思う

…と書く
あたしはだれ?
と問いが来るかもしれないから
言っておくけど

サン=ジェルマン伯爵でございます、はい。

 

 

 

青春の光と影

 

今井義行

 

アコーディオンカーテンの隙間から
隣りの低いビルの屋根を見ると
塵紙等の 細かいものが落ちていた

そのような 単なる、木曜日。

「午後のプログラムです」

作業療法士さんによる
作業療法 *が はじまる

*障がいのある人に対して、生活していくために必要な動作や社会に
適応するための能力の回復をめざし、治療を行う。その治療手段の1
つとして様々な作業や手工芸を用いる事が特徴。──ネットより引用

 
その部屋のばらも底をついて
4つのグループに分けられた机の上には
黒いペン 鉛筆 色鉛筆 消しゴムと 参加者分、
約20枚の 白い画用紙が置かれていた

精神障害者認定されてから もう何年になることだろうか
わたしは 55歳になって
「断酒」をテーマにした「ゆるキャラ」造りに取りかかろうと
いうのだ

隣りに座っているのは 42歳の
丸刈りのMアァっつぁんで 彼の声音は
「二階堂(麦焼酎)の瓶なら 描けるかもしんないけど
俺には なんにも降りてこないィィィ・・・・・・・」と
仔ヒツジのように身をよじらせるのだった

そのような、木曜日 の
夜明けには ジョニ・ミッチェルの〈 Both Sides Now 〉を ヘッドフォンで聴いてきた


〈 Both Sides Now 〉

* 青春の光と影 *
全米チャートに身をそむけて一旦
は引退したジョニ・ミッチェルは
2000年にポピュラー音楽界に復帰
したのだった──。
そのときには、シンガーソングラ
イターの姿ではなく、1ヴォーカリ
ストとして現れた。
〈 Both Sides Now 〉は、
多くの人たちの中の青春の一曲で
あったけれど、その時からセルフ
カヴァーを遙かに超えた、100年は
聴かれ続けられるだろうものへと
普遍化を遂げたのに違いない・・・・

 
売れることのなかった名演だった わたしはジョニの、自らの名前ではなく
表現を 死後へと力業で定着させていくというやり方に
それが最良のやり方かどうかはともかく
何処かで肯定し、憧憬も抱いた
わたしはまだ、これからも詩を書くが これまでの自らの表現も
お金を貯めていつか1冊のアンソロジーにまとめて残していきたいという
思いを 抱いたのだった……

参加者は男女混淆で 入退院を繰り返しているものも
数度目の休職中のものも見事に家庭崩壊してしまっているものも・・・・・・・
わたしのように希死念慮に憑かれてしまっているものもいるのだが

わたしたちに「〇〇〇依存症」「〇〇〇性障害」「〇〇〇症候群」などと
勝手に名前を付けてしまう行為は止めてくれないか?

制限時間一杯になって それぞれに描かれた「断酒のゆるキャラ」は
写真として取り込まれて 皆でスライドショーを見ることとなった
作業療法士さんは「わ、いろいろな ゆるキャラ!」と言った
例えば帽子を被った「無ッシュ」、とても長い鼻を持つ「呑まん象」、手の震えが止まらない「離脱クン」などなど、わたしはと言えばアゴだけが肝臓の形のゆるキャラ界の硬派
「高倉カン」という具合だった

賑やかなその中に細くて消えそうな鉛筆線だけで描かれた「七ちゃん」という
キャラクターが混じっていた 絵のわきにやはり鉛筆線で「二階堂のビン持って
深夜 ネグリジェ姿で徘徊を繰り返してまあす」と走り書きされていた
画用紙を 腕で隠すようにして描いていた
Mアァっつぁんから 出てきたものだった

ほかの誰もが 用意された道具を使って
「鉛筆で下書きを描く→黒のペンで下書きをなぞる→黒の枠組みの中を
色鉛筆で丹念に塗る」という工程をたどって絵を仕上げていたのだったが
Mアァっつぁんだけはそうでは無かった

「七って、何だい」
「そんなもん 俺が知るかよ」

机の上に道具は置かれていたものの 作業療法士さんは描く方法について
何の説明もしていなかったことにはじめて気づかされることになった
Mアァっつぁん以外の参加者は
誰もが 「ぬりえ」に専念していたということだ・・・・・・・

単なる、木曜日に。

その日の作業療法士さんの作業療法の意図が何処にあるのか判らなかった
けれども、わたしはとても驚いてしまって
隣りに座っている Mアァっつぁんの横顔に向かって
「Mアァっつぁんの絵・・・・・・・凄いな、凄いな、」と繰り返していたのだったが
Mアァっつぁんは 「皆、ウマイっつすよねえェェェ・・・・・・・」と
仔ヒツジのように 身をよじるばかりなのだった

「Mアァっつぁんの絵凄いな、凄いな、」
「今井サン・・・・・・・。どうせサァ、俺の絵を見くだしているんだろうようゥゥゥ
俺が人間の屑なの、スクリーン見れば、一目瞭然、じゃねえかようゥゥゥ!!」

Mアァっつぁんは 、 「ふざけんじゃねえようゥゥゥ!!」と呟いた
「あんな絵、今井サン・・・・・・・。
詩人のテメェに くれてやるようゥゥゥ!!
パソコンの隣りにでも貼っとけ バカヤロウゥゥゥゥゥゥ」

 

 

 

わたしの大好きな叔母

 

みわ はるか

 
 

わたしの叔母は40代半ばで人生に幕を閉じた。
女性特有の悪性腫瘍、心の病、そういうもろもろを抱えて遠い空へ旅立った。
叔母は絵に書いたようないい人で、わたしはそんな叔母が大好きだった。
お墓に掘られた叔母の享年があまりにも若い数字なのでそれを見るといつも悲しくなる。
丁寧に丁寧に水をかける、できるだけ明るい花を供える、草を取る。
今のわたしにできることはこれくらいなんだと思うと涙が頬をつたう。
会いたい、ただもう一度でいいから会いたい。
いつも思う。

生まれは兵庫県尼崎市。
関西弁はきついと思われがちだが叔母の言葉は温かみがあった。
長身で肌が白く、長い栗色の髪の毛をきれいに整えていた。
瞳は大きく口元はいつも微笑んでいた。
来るもの拒まずという感じで誰に対しても優しかった。
当時大阪に叔母夫婦が住んでいたころ、わたしはまだ小学生だった。
子供に恵まれなかったためわたしのことを大層かわいがってくれて、色んなところへ連れて行ってくれた。
海遊館、ひらかたパーク、太陽の塔、通天閣、難波、梅田・・・・。
記憶はおぼろけだけれど嫌な思い出はなかったように記憶している。
後で聞いた話だけれど、大阪から少し遠くに住んでいたわたしが来ることを何週間も前から心待ちにしていてくれたようだ。
いつもにこにこ笑顔を絶やさなかった叔母は輝いて見えた。

わたしの知る叔母は専業主婦だった。
以前就職していた会社での人間関係に悩んだ時期があったとだいぶ後になってから聞いた。
人がいい叔母はそんな環境におそらくどうしても耐えられなかったのだと思う。
心はしぼみ、前へ進めなくなってしまったのではないかと思う。
退社後もその時の後遺症は残ってしまい心は完全には元気にならなかった。
わたしはみじんもそんなことを感じたことがなかったので、この話を聞いたときは心底驚いた。
きっと毎日何物でもない何かに苦しんでいたんだと思う。

病気が見つかったのはそんな時でもあった。
わたしは叔父からどうか時々でいいからメールの相手をしてあげてほしいと頼まれた。
仕事が忙しかった叔父が帰宅が遅く、叔母はいつも一人だったからだ。
小学生だったわたしは深く考えることなく了承した。
学校であったこと、給食のこと、クラブ活動のこと、つらつらと書きたいことを記した。
叔母からの返信は早かった。
それもいつもかわいいグリーティングカードで送られてきた。
わたしはそれを見るのが楽しみだったし、開く前はどきどきわくわくしていた。
けれど、しばらくすると少しメールのやりとりがめんどうに思えてきた。
友達ともめいっぱい遊びたい盛りだったし、クラブ活動もわりと忙しかった。
だんだんと返信が遅くなり途絶えていった。
叔母が亡くなったと聞いたのはそれから数か月後のことだった。
ものすごく驚いた。
葬儀や告別式はそんな意に反してあっという間に終わってしまった。
大人たちは深刻そうに深夜まで話していたし、ただ事ではないことはわたしにもわかった。
わたしは自分がメールの返信をさぼったことをものすごく後悔した。
メールの中身はいつもキラキラした文だった。
そんな思い詰めていたなんて全然知らなかった。
皮肉にも、最後の叔母からのメールを見ようとしたのだけれど、どうしてもパスワードが思い出せなかった。
大人になった今も叔母からの最後のメールは何だったのだろうと考える時がある。
こんなにも後悔したことは今までなかったし、これからもこれを超えるようなことは滅多にない気がする。

大人になった今、似たようなことがあった。
ある知人に数年間誤解をしていて、たまにするメールも絵文字なしだったりと淡白な文章を送り続けていた。
あるきっかけがあって、最近電話をする機会がありその誤解がするっと解けた瞬間があった。
その人はいつも丁寧なかわいい絵文字をつけてメッセージを送ってくれていたのに・・・・。
また後悔した。
メールだけではどうしても相手の表情や気持ちが読み取れないときがある。
たまには声を聞いたり、会ったりしなければいけない。
そんなふうに感じた。

もうすぐお盆が来る。
今年も叔母に会いに行こうと思う。

 

 

 

 

塔島ひろみ

 
 

エレベータの鏡に
4匹の豚が映っている
3匹は白く、一つは黒い。黒いのには紐がついている

リハビリ室ではリハビリテーションが盛んだった

車いすから降ろされ、
支えを失って倒れる私を
2人が支えながらマットに寝かせ
残りの1人がその隙に車いすの重さを計る

マットの隣では80歳ぐらいのおとうさんがうつ伏せで
機能回復に取り組んでいる
その隣りでは20歳ぐらいの若者が鉄亜鈴を使って何かしていた

跳び箱とサッカーボールが置いてあった
マイクとタンバリンが置いてあった
トンカチと肉切り包丁が置いてあった

回復する機能のない私にそんな道具は無用であるが
他の豚と平等に私には重さがあり、今日の目的は体重計測なのである

誰かが紐を引っ張った
3人がかりで車いすに戻された私は、車いすごと秤に乗る
体重が出る

任務が終わり、緊張が解けた

私の足が動きだした
(もはや意味のない麻痺した足は、ときどきこうやって勝手に動く)
おーおー、バタバタと動いている
股が上下に波打ち、靴が音を立てて床にあたった

(私はかつて、バンドのドラマーだったのである)

リハビリ室に私の靴音が響き渡った
みんな社会復帰運動を一時停止し、私のすさまじい足の動きを眺めている

白豚たちが私の足を銃撃し
うつぶせていた80代の老人は素早く起き上がって私の頭めがけて砲丸を投げた
ぐいと紐が引かれ、私は大きく傾いて倒れた

ブーブーブー
唇から自然にメロディーが漏れ
私の音楽は止まらない

倒れながら、私の足は痙攣を続けて
紐を引っ張る

部屋中の豚たちが一斉にカスタネットを打ち鳴らした
指揮者は私だ

 
 

(2018年6月19日 東大附属病院リハビリ室で)