幸いなるかな

 

佐々木 眞

 
 

コウ君が笑うと、世界が輝く。
ケン君が笑うと、世界が揺れる。

私が笑うと、突然、世界が歪む。
そこで、ミエコさんが笑うと、世界が溶ける。

ああ、幸いなるかな、
まだ笑うことができる者たちよ。

幸いは、微笑みの中にある。
そのとき世界は、われらのものだ。

 

 

 

みんな むかぁしむかしの人に

 

駿河昌樹

 
 

市原悦子が亡くなって
思い出したのは
もっとはやく
8年も前に死んだエレーヌが
マンガ日本昔ばなしをやる時間になると
ノートを手にしてテレビの前にすわり
いろいろな日本語表現を
せっせと
メモし続けていたこと
むかし話を語る時の日本語が
彼女にはおもしろくて
市原悦子や常田富士男の口調を
そのまま真似して
外国人であるじぶんの
日本語を広げようとしていたこと

そんなことを思いながら
そういえば
常田富士男は元気だろうかと
ちょっと調べたら
2018年の7月18日に
彼も亡くなっていた
脳内出血で
81歳で

みんな
むかぁしむかしの
人に
みずから
なっていくところ…

 

 

 

トッポ・ジージョは

 

駿河昌樹

 
 

むかしのものが
いろいろ
ほじくり返され
なんでも担ぎ出されて
懐かしがられたり
あらためて
面白がられたりするのに
トッポ・ジージョは
あんまり
出てこないんだナ
ブースカでさえ
ちょっと
リバイバルっぽいのに
トッポ・ジージョは
忘れられる感じ
なんだナ

 

 

 

くり返されるオレンジという出来事 2

 

芦田みゆき

 
 

「うまくむけないよ」

 

Qはオレンジに突き立てた爪を、ゆっくりとはずす。

 

手のひらを伝った果汁は、手首から肘へと流れていく。
Qはまだ固いオレンジの表皮に唇をつける。

 

雨がもっと降ればいい。

 

固く閉めきった湿度の高い部屋に、オレンジの香りが充満し、あたしは息苦しい。
もっともっと、あたしの内部を洗い流すように、降りつづけばいいのに。

 

あたしはQから乱暴にオレンジを奪い取る。
破れた表皮から溢れだすオレンジを舌で吸い上げ、おもいきり囓りついた。

 

内部が露出する。
あたしの乳房がオレンジの水玉に染まった。

 

 

 

 

みわ はるか

 
 

きれいなものを見た。
ものすごく久しぶりに美しいものを見た。

美容院の帰りに本屋に寄った。
以前より友人から薦められていた本を探すためだ。
わたしの要領が悪いのか、その本はなかなか見つからなかった。
書店員の人はみんな忙しそうに動き回っていたので話しかけるのが憚られたが尋ねることにした。
その少女は高校生くらいだろうか。
既定だと思われる白のブラウスに黒のパンツ、その上から緑色のエプロンをつけていた。
しゃがみこんで段ボールからたくさんの本を出し入れしていた。
黒い長いつやつやした髪をポニーテールできちんと束ねた後姿は清楚な印象だった。
「すいません、○○さんの本がどうしても見つからなくて。探してもらいたいのですが。」
わたしは遠慮がちに声をかけた。
すぐにくるっとわたしの方を振り返った少女はまっすぐにわたしの目を見て、
「はい、お探しいたします。少々お待ちいただけますか?」
はっきりとした口調で、嫌なそぶりも全く見せず快く引き受けてくれた。
その時見た彼女の瞳は本当に本当に美しかった。
こんな目をした人を最後に見たのはどれくらい前だろう。
思い出せなかった。
一生懸命な目だった。
わたしの力になろうとしてくれた心からの瞳だった。
黒くくりっとしていてきらきらしたどこか透き通るようなそんな印象だった。
立ち上がった彼女は思いのほか背が高くすたすたすたと歩きだした。
白のブラウスはきちんとアイロンがかけてあるのだろう。
清潔感があった。
さすが書店員さんである。
ものすごく早くその本は見つかった。
「お待たせしました。お探しの本はこの辺りになります。」
はにかんだ笑顔で案内してくれた。
笑うと人の目は欠けた月のようになるけれど、それはそれで可愛らしかった。
任務を終えた彼女はまたすたすたすたと仕事に戻って行った。
なんて気分のいい瞬間になったことだろう。
寒い雪の降る外出先から家に帰って、温かい紅茶を飲んだ時のような気分だった。

色んな瞳がある。
幸せな瞳、威圧感のある瞳、敵視している瞳、攻撃的な瞳、めんどくさそうな瞳、絶望している瞳。
目は口ほどに物を言うと言うけれど本当だなと感じる。

また彼女のような美しい瞳を持った人に出会いたいなと思う。
自分もそうなれるようになれたらなとも思う。

雪がちらちらと舞っていたそんな昼下がりの話。

 

 

 

おむすび

 

塔島ひろみ

 
 

インターチェンジの脇を通る暗い道に停車した、白いワゴン車の運転席で
76才の男がおむすびを食べている
塩味のきいた 白い米の甘みを味わいながら
丁寧に覆われたラップフィルムを、食べる分だけ剥がしながら
男はときどき舌を鳴らし、おむすびを食べる
手作りのおむすびは小さな梅干しが入っているきりで、海苔も巻いていなかった
冷えていたが、温んだ掌の味がした
食べ終わると男は窓を開けた
真冬の寒風が車内に吹き込む
窓から顔を出して、プッと種を外に飛ばすと
種は道に沿って茫々と広がる枯れた畑にコロンと落ちた
すぐ横を走る高速道路から 切れることなく車の音が聞こえているが
この道も、畑も、人気がなく、地面には黄土色に湿ったキャベツの皮が張りつき
ところどころに雑草が芽吹く
よく見かけるこの雑草の名を 男は知らなかった
男はおむすびの味を無意識に頭の奥で反芻しながら手をタオルで拭き
ラップを小さくまとめてフロントガラスの下に置いた
そして左手で、次に右手で
膝に載せた日本刀の感触を確かめる
刀はずっしりと重く、冷たく、圧倒的で、ゆるぎなかった
しっかりと柄をつかみ、
76才の、身寄りのない男は、これからこの日本刀で、人を殺す
そしてそのあと自分も死ぬ
司法解剖された男の胃袋にはよく噛み砕かれた飯粒があり、
現場付近に乗り捨てられた車には
小さなラップが残っていた
彼の最後の食事となるこのおむすびを誰がにぎり、
丁寧につつんだものなのか、
それは至って謎なのだったが、
捜査に無用の謎であり、追究されることはなかったから
誰も知らない
永遠に知らない
畑に顔を出した雑草の名前を彼が知らなかったように
私も、あなたも 知らない
この男の、名すら知らない。

 

(2019.1.26 東名高速横浜町田IC付近で)

 

 

 

しじみ と りんご

 

村岡由梨

 
 

およそ一年前の夜、夫が突然保護してきた猫に
“しじみ”という名前をつけたのは私だった。
「クレヨン王国の赤トンボ」という本に出てくる
トンボの名前“ふじみ(不死身)”にちなんだ名前。
十年以上昔に、可愛がっていた犬を亡くした私は、
もう二度と、そんな辛くて悲しい思いをしたくなかった。

小さくて、やせっぽちのメスのサバトラ。
前のキバが片方無くて、尻尾の先が折れている。
とても臆病なのに、大胆なところもあって、
一見すると、子猫のようにも年寄り猫のようにも見える。
一言で言うと“ちんちくりん”。
獣医さんの
「よほどのことが無いと、こんな風に歯は折れません」という言葉や、
いつも何かに怯えている様子を見て、
しじみには何かとても辛い過去があるんだな、ということは
私たち家族にもわかった。

それから1年余り。
しじみはすっかり私の人生を変えてしまった。

朝、目を覚ますと、しじみはいつも私のそばにいて、
「ごはん」なのか「なでて」なのか
多分その両方なんだろうけれども、
グリーンの目をまん丸にして期待に満ちた様子で見ているものだから、
とりあえず、私は、しじみの白くてやわらかい胸毛からお腹の毛を
優しく撫でてあげるのです。
それが、あまりにも温かくてやわらかくて、
私は時々、「ああ、しじみの赤ちゃんになって、しじみのお腹に抱かれたいなあ」
とまで思ってしまう。

おかあさんしじみのお腹に抱かれて、
小さくて何だか心もとない、心臓の音に耳を澄ます。
「腫瘍がほら、心臓にすっかりへばりついてる」
「いつ亡くなってもおかしくありませんね」
ふっ…と夜中に不安で目が覚める。それでも、
夫がしじみを家に連れて帰ってくれて本当に良かった、
しじみには、もう二度と、寒い思いや、ひもじい思いをさせたくないなあ、と思う。
そんな毎日だ。

大きくて真っ赤なりんごを母からもらって帰ってきて、
しじみの横に置いて、写真を撮った。
しじみとりんごの静物画ごっこ。
黒目が、丸くて大きい時は、かわいいね。
細い時は、美人さんだね。
しじみ と りんご。
しじみの体の中で、小さな心臓が真っ赤に命を燃やしている。

死なないで、しじみ。
これ以上大切なものを失いたくない。
ただそれだけなのに、なぜ
小さな赤い心臓も、グリーンの目も、白くてやわらかな胸毛も、
いつか燃えて灰になってしまう。
後に残るのは、始めたばかりの拙い詩だけだ。

それでも、私が言葉を書き留めたいのは、
決して忘れたくない光景が、
今、ここにあるから。
もう二度と触れることが出来ない悲しみでどうしようもなくなった時、
私は何度もこの詩を読み返すんだろう、と思う。