鳴き交わす

 

辻 和人

 
 

断じてこれ
泣き声じゃない
あぐっ、ンんげっ、うンっくゅあっ
ええーうっ、いぇあっ、だぁっ
っぬっ、ぇあ
朝寝から醒めてオムツ替えてミルク飲んだから
目は落ち着いてる
けど口せわしなく
開いたり閉じたり
あんげっ、コミヤミヤ攻めれば
うんぐっ、こかずとん応える
仰向けになったまま
互いの方に顔向けもしない
手足微動だにせず
口だけ開いたり閉じたり
ンくっ、えあっえあっ
何言ってるの?
意味なんかないよね?
声が出るようになったから試してみたくなっただけ?
いやいや
明らかに応答してるぞ
応答してるってことは
相手を意識してるってこと
コミヤミヤがばぶーっ、ばぶっ
とくれば
こかずとんがおぎゅーっ、おぎゅっ
断じてこれ
鳴き声だ
鳴き交わしてる
コミヤミヤの鳴き声の中にはこかずとんが
こかずとんの鳴き声の中にはコミヤミヤが
仰向けになったまま
2羽の小鳥
意味はないけど意味はある
2羽のせわしなく動く嘴から飛び出す
言葉の赤ちゃんみたいな奴
それにしても何て多彩な鳴き声
ぎゅきゅぐくぅ
おぅーくっ、くぅくっ
いつかこの複雑な響きも
枝切られて葉削がれて
「日本語」の響きに押し込められてしまうんだろうな
それまで存分に聞いておこう
泣いてるんじゃない
鳴き交わす

 

 

 

現れについて 11

 

狩野雅之

 
 


20181029-DSCF5502-6
FUJIFILM X-E3, FUJINON XF18-55mm F2.8-4 R LM OIS
 

Description

 

意識はつねにすでに何ものかについての意識である

わたしとはわたしについてのこの意識である

全き偶然性によって何ものかがわたしに現れることは無い

見る意志のないところに像は結ばない

 
Masayuki Kano
 

 

 

この口

 

廿楽順治

 
 

手を洗わないでめしを喰っています

わたしは誰かと聞くな
この口に入ったものは真理

喰ったあとの声がおそろしいので
落ちたパンもたべる
その信仰は見あげたものである

父母のしつけは忘れた
死んだのはよくおぼえているが
生きたことは思い出せない

だから手を洗わない
理由は音をたてない

この口からでるものは
きたない影

 

 

 

佐々木小太郎古稀記念口述・村島渚編記「身の上ばなし」その4

「祖父佐々木小太郎伝」第4話 株が当たった話
文責 佐々木 眞
 

佐々木 眞

 
 

 

大正3年、欧州戦争が勃発して糸値暴落し、郡是製紙会社は払込資本金十四億円余に対して、三十億余円の大損をした。「郡是はつぶれる」という噂が高く、二十円株が四、五円の安値に落ちた。

波多野翁に満幅の崇敬と信頼を払い、大の郡是ビイキだった私は情けなくてたまらなかった。波多野さんほどの人のやる仕事がつぶれるような気づかいはない。今悪くてもきっと立ち直ると私は確信し、金があればあの際限もなくさがっていく株を片っ端から買って、郡是を救いたい。波多野さんを助けたいと思ったが、まだ借金地獄にあえいでいる私に、株を買うような金なんて一文だってありはしない。

その頃、蚕業講習所拡張のため、そばにある私の所有地、三畝歩あまりの桑園を売ってくれと教師の西村太洲君から話があった。

その時私は、ようやく差し押さえをといてもらうだけの返済は果たしていたが、まだ残りの借金が山ほどあって、この桑園も二重三重の抵当に入っていたから、西村君に「売るにしてもこの借金払いをしてからでなくてはいけないし、そんなことをしたところで、私の手に入る金よりも債権者に払わねばならん金の方が多いにちがいないから、余裕のない今の私にはとてもできない」というと、西村君は、「そこはうまくやるつもりだから、まかしてくれ」という。

しばらくすると西村君がやってきて、「万事うまくいって、これだけ余った」といって、五十四円という少なからぬ金を、私に呉れたのである。まるで夢のような話で、何だかタダからお釣りをもらったような気がした。

この天から降ったような金で、私はドン底まで下がり切って捨て値になっている郡是株を買いあさった。百姓は株がきらいで、タダにならぬ間にと誰も彼も売り急いでいた。
私は綾部付近から和木、下原の方へ行って買った。買った株はすぐ抵当に入れて金を借り、その金でまた買い買いした。高木銀行がよく便宜を図ってくれた。
大正四年になると、郡是は窮余の策として六十億円に増資し、優先株を発行したが、その優先株が非常に有利な条件がついていたにもかかわらず、すっかり嫌われて、払い込みの十二円五十銭ならいくらでも買えた。

その頃私は、蚕具の催青器を発明し、続いてオタフク懐炉を発明して実用新案をとり、これは波多野さんに推奨されて大成館(蚕種製造会社、郡是の別働隊)から発売され、私はその宣伝のために各地を回った。

そのついでに私は、三丹地方ばかりではなく、その頃分工場や乾繭場が新設されて、郡是の新株式の特に多い津山、木津などへ行って、優先株を買いあさった。津山では武蔵野という一流旅館を本陣とし、いきなり女中に百円のチップを渡し、紀の国屋文左衛門の故智?に倣って、実は新聞紙が中身の札束包みを主人に預け、その主人の紹介で津山製紙会社の重役をしている田中、倉見という地元に信用のある人物を頼んで、地方の株主が売りたがっている優先株を、当時地方値は払い込み以下であったが、すべて払い込み額十二円五十銭で買うことにし、両氏は熱心に活動してくれて、買うて買うて買いまくったものだ。

一方、蚕具の方も専門技術者に好評を博し、郡長から町村長への紹介状を貰って売って回ったのだから、これもよく売れた。

戦局が進むにつれて、世界の金が米国に集まり、米国の好景気を反映して、糸況も日を追って好転し、郡是株もメキメキあがった。津山ではまだ十二円五十銭で楽に買えるのに、綾部ではすでに二十円もするようになり、毎日綾部から電報で相場をいってくるのを見て、「今日は一億円儲かった」と思った日が、三日も四日もあった。

蚕具の方は、後に大成館が会計の不始末で破産同様になり、私は旅費を出してもらったくらいのことで、売上から貰うはずの割り前は一文も貰えなんだが、そんなことは何でもなく、片手間仕事の株買いで大もうけをして、昨日の貧乏から一躍して、小型ながら株成金と地元の人から謳われるようになった。

郡是は翌五年には百億円近い大儲けをして、一挙に頽勢を挽回し、五月には優先株を抹消し、資本金二百億円となり、将来の大飛躍が約束され、株価はグングンあがった。まったく波多野さんの手腕と徳望の然からしむるところ、私の予想はちがわなんだ。

大正五年三月の郡是株主名簿を見ると、三千余の株主中、私は第二十五位の大株主になっていた! といっても持ち株はわずか七拾八であるが、この時の郡是は、まだ何鹿郡以外には出ていない時で、私以上の二十四人の株主といえば、波多野さんをはじめ葉室一統の人々、その他地方にソウソウたる素封家揃い! 私などとは提灯と釣鐘以上に何もかも段違いの人たちばかりだったのである。

昨日まで借金取になやまされて、日本一の貧乏人だと思っていた身で、「いったいこんなことでいいのか」と私は迷った。そこでさっそく波多野さんのところにお礼かたがた相談に行った。(この一条は「波多野鶴吉翁伝記」にも載せられている。以下これを引用する。)

……すると翁は、ありあわせの紙に宥座の器を描き、「この器は平生は傾いておる。水を注いで半ばに達すれば、正しく真直ぐになる。なお注いで一杯にすれば、覆ってしまう。君も自分の財産との釣り合いを考えて、ほどほどに株を持っとれば好い。私などはしょうことなしに今度はたくさんの株を持たされて、払い込みの準備などあるわけでなく、全く困っている。君もいつ払い込みがあっても構わぬ程度の株を持っとるのでなくてはいけない」といわれた。

なお宥座の器のことは荀子宥座篇にあり、魯の恒公の廟にあるもので、孔子がこれについて教えを垂れている。ただし翁は、その愛読せる「二宮翁夜話」にこの記事あるに拠ったものであろう。

この時翁は、右の宥座の器の訓に次いで、「積極と消極」ということについて教えられた。この言葉は当時一般の人にはまだ耳うとい、いわば知識人に使われていた新語といったようなもので、翁はこの新語解説にことよせて、私に処世の要諦を説いたのである。

「積極」については、「自分に確信があったら、冒険と思われるようなことでも、勇気を奮ってドンドンやれ!」と説かれたものだ。この時私の持っていた七拾八株は主として在来の旧株ばかりで、少数の優先株が交っていた程度だったが、この頃はすでに郡是はつぶれない、きっとよくなる、という確信と、私の財力にも多少の余裕が出てきた関係から、引き続き優先株買いに狂奔することができたのである。

それがためには随分剣の刃を渡るような冒険もやったものだ。津山の武蔵野旅館に泊まった時も、最初百円のチップと偽装札束を預けていちおう大尽風を吹かせてみたものの、着替えの時、旅館が蒔絵の美しい衣装箱に入れて出したのは、黄八丈のドテラにコリコリした縮緬の兵児帯、私の脱いだのは袖口の切れかけた袷にヨレヨレの木綿の帯! それを女中が丁寧に畳んで衣装箱に納める時には、私は冷や汗が出た。

そんなことから偽装札束のトリックがばれはしないかと、毎日気が気でならなかった。時々金庫から偽装札束包みを出してもらって、大きくしたり、小さくしたりして預け替えた。

金のやりくりには格別苦心したもので、店で使っていた二三人の若者を、津山、綾部間を往復させて株の売り買い、その他金策を機敏にやらせたもので、丹波紀文はついに化けの皮を現さずに最後までやりおおせて、まず存分に儲けたものだ。

それもこれも若さのさせたことではあるが、一は私の波多野ビイキ、郡是ビイキのさせたわざ、なお波多野翁積極の教えに刺激され、元気づけられたことも多く、やはりこの時も何ものかが乗り移っていたような気がする。

こんなわけで私は、案外早く貧乏あずりから脱することができて世間が明るくなり、私自身にも元気が出、青年仲間からも立てられて、その頃選挙の取り締まりが苛酷で、町の高倉平兵衛氏などが選挙違反で検挙された時、義憤に燃えて私が急先鋒になり、年長者で声望のある医師吉川五六氏を会長とし、町内青年の幹部を糾合して大いに官憲の横暴を鳴らし、間もなく今度は郡是応援の町民大会を開き、これには大島実太郎氏のごとき名士も同調し、波多野翁も演壇に立って声涙共に下る感謝の演説をされたもので、これが優先株の引き受けを容易にして、郡是の危機を救う上に役立ったものである。

これが二日会の発端となり、この二日会は今日も続いて市民の健全かつ有力なる世論機関となっている。数奇な運命に弄ばれ、しばしば逆境に苛まれつつも、まんざらすくんでばかりもいず、私は私なりに青年時代にふさわしい血の気の多い思い出もある。

私の貧乏あずりは、父が隠岐へ逃げた大正元年と翌二年とが最もひどく、三年を境目に下駄屋の方がだんだん順調にいきだして、だいぶん楽になり、四年、五年と大いに株で儲けて株成金といわれるまでになったのである。

父については次節で述べるが、大正元年に隠岐へ逃げて四年越して五年には失敗して家へ帰ってきた。この父に対して、私はまだ十分打ち解けることはできなかったけれど、父の代に重なった大変な借金ももはやきれいに返してしまったし、最初差し押さえの封印を解いて貰う時には、随分無理を言ってまけてもらった借金もあるので、そうした向きへは後から改めて挨拶し、どちらへ向いてもアタマのあがらんようなところはなく、帰ってきた父としても肩身の狭い思いをせずに済むように、世話になった人には、十分の上にも十分の感謝をし、親戚、知友、隣近所の人たちにも、私たちのよろこびをともに喜んでもらおうと思い切った大祝いをした。

まず一石の餅を一週間かかって搗き、その頃の銘酒「正宗」と「福娘」の樽を二挺買い込み、親族故旧、隣保朋友を交々招き、毎日芸者三四人をあげて、一週間の盛宴を開いた。株券や銀行の預金帳を三宝に載せ、「これだけが私の財産です」とみんなに公然と披露した。

私は、決してこんなことを、見栄や自慢でやったのではない。いわんや、さんざん苦しめられた債権者や困った時何の助けもしてくれなかった親類にあてつけでしたのでもない。あの時すげなくされたことは、皆私にとって薬だった。

父の道楽が、私を貧窮のどん底に陥れたことも、同じく私への良薬だった。甘やかされずに神の試練を満喫させられたからこそ、私も発奮し、神も助け給うたのである。
かく思う時、今は何もかも感謝であり、その感謝の微衷を表すだけのことをしたのである。

この時芸者を大勢呼んだものだから、私は急に芸者にもてるようになり、付きまとわれだした。私は三十三でまだ若かったし、ウカウカするとこの誘惑に陥って、父の二の舞をやりはしないかと、我ながら心配になった。

宴会に出たり、人を呼んだり呼ばれたり、押しかけ客もあったりして、酒を用いる機会が非常に多くなって、時間と金銭の浪費がおそろしくなった。かねて何事も波多野翁を目標とし、翁に倣っていけば間違いないと信じていた私は、翁の信仰するキリスト教に心を惹かれていた。

翁の受洗したのは、今の私と同じ三十三の年だった。私もここで入信して、シッカリと身を固めようと思い、教会通いを始めた。私は「波多野翁から洗礼を受けたい」と無理をいっていたが、大正七年二月二十三日、翁は突如として脳溢血で急逝されたので、その直後の三月十日、私は丹陽教会牧師、内田正氏から洗礼を受けた。

いわば悪魔よけにキリスト教に入ったといえば、いえないこともない。世間からもそう見られたようだが、思えば十二才の時母の眼病を観音様に祈った時から、苦しい時の神頼みに、稲荷様、金毘羅様、座摩神社、北向きのえびす様と、種々雑多の神様、仏様を祈ったものだが、いずれもそれぞれ奇跡的の感応を受け、「祈らば容れられる」という私の幼稚なおすがり信仰が、波多野翁崇拝と結びついて、私をキリスト教に行かせたのであって、結局「行くべき時、行くべきところに行きついた!」のである。

これこそ神の御摂理である。今の私は、信ずることによって、いかなる苦痛困難も、必ずみな喜びと感謝に代えて下さる神の御恵みを思い、ますます信仰より信仰へと努めはげみ、取るに足らないこの身ながら、聊かにても神の御栄光を顕わすことに精進して、神と人への奉仕に努力している。

 

 

 

微睡

 

原田淳子

 
 

 

陽が差す午後に おひる寝をした

小春日和の 日曜日の午後

木の葉をうかべて
揺らぐ遠い湖

とりこぼされた光を眺めながら
道は流された

冬は窓のむこう

きみが尻尾をふったら
12月の背中がみえた

手か足か
夢かもわからないうちに
時は扉を決定してゆく

ぼくはまだ
オリオンをみていない