shoe くつ

昨日は
神田で飲みました

通り沿いの
二人席でおとうさんが飲んでいました

おとうさんは
一人で飲んでいました

おとうさんは
泣いていました

いない誰かと飲んで
話していました

わたしの幽霊も近くにいるでしょうか

くつをはいて
いるのでしょうか

 

 

hero 英雄

昨日は
広瀬さんのBar鳥渡でのんだ

トム・ウェイツと
ちあきなおみが唄っていた

四つのお願いきいてと
唄っていた

そこに
英雄はいなかった

囁くように
語るヒトたちがいた

壁にはうなだれた
犬の写真が掛けてあった

チェンマイで
広瀬さんが撮った写真だった

 

 

become なる

雲を
みていた

ポカンと白い雲をみていた

波をみていた

キラキラ
ひかっていた

なることは
わかることなのかな

わけいっても
あなたにはなれなかった

だから
悲しい

雲が白く浮かんでいた

空で
わらっていたな

あなたがわらっていた

 

 

repeat くり返す

休日には
海辺をモコと散歩します

部屋に帰って
窓から西の山をみます

悠治さんの
ピアノを聴きます

夕方には
モコと近所を散歩します

それから
窓から西の山をみます

波は
光っていたな

キラキラ光っていたな

どの波も
おなじ波ではなかった

 

 

「アイ・ウェイウェイ スタイル」について

 

 

写真 2014-04-20 9 31 19

 

牧陽一さんが編集・翻訳した『アイ・ウェイウェイ スタイル』(勉誠出版)を読んだ。
副題に「現代中国の不良(ヒーロー)」とある。

帯には「現代中国のポッップアイコンであり、民主化・公民運動の旗手であるアイ・ウェイウェイ。つねに軽やかで型にはまらず真摯かつ奇抜なアイデアで世界をあっと言わせるこの男は、中国当局の要注意人物であり、若者たちのヒーローである。」
と書かれている。

表紙には髪の毛を短髪にカットして髭を伸ばしデジタルカメラを片手で突き出して正面を見据えているアイ・ウェイウェイの写真が使われている。

彼は北京オリンピックで有名となった北京国家体育場「鳥の巣」スタジアムをヘルツォーク&ムーロンとともに設計するが政府のプロパガンダに利用されたとして開会式など北京オリンピック関連の催しなどへ参加を拒否し、また開会式の演出をした映画監督のスピルバーグや張芸謀らを中国政府に協力したとして批判したという。

彼は中国のアーティストであり、中国の民主化、公民運動の代表的な存在だという。

文化大革命時代には、近代中国の代表的な詩人であった父とともに下放され、新疆ウィグル自治区などで公衆便所の掃除などの強制労働をさせられる父のもとで社会から蔑視される家庭に育ったという。それから北京電影学院に入学、星画会に参加、ニューヨークのパーソン・オブ・デザインなどで学び、詩人ギンズバーグらと交流したのだという。

ニューヨークでは、ダダ、マルセル・デュシャン、アンディ・ウォーホルなどの影響を受けたのだろう。ワールド・トレード・センター前で撮影された1985年の厳力とならんだ全裸の写真は、若くチャーミングにみえる。

この本を読んでいくと、この作家の生まれてから現在までの見たもの体験したものがこの作家の作品に正直に反映されていると思う。おそらく新疆ウィグル自治区や北京、ニューヨークでは過酷な体験をしたに違いない。また、過酷な体験の中の人々をこの作家は見てきたに違いない。苛烈で過酷な現実のなかでは信じてよいものと信じてはいけないものが混沌としている。その混沌のなかから真実を見つけ出してこの作家は生き延びてきたのだと思う。

それは表紙のこの作家の写真を見れば解る。

髪の毛を短髪にカットして髭を伸ばしデジタルカメラを片手で突き出して正面を見据えている。ファインダーは覗いていない。デジタルカメラを武器であるかのように片手で突き出して、裸眼でこちらを見据えている。

たしかに現代の不良であろう。

だがこの不良は中国現代アートと民主化運動に最初から参加し、2011年の逮捕拘留にいたる作品と行動を展開していった。「まともな事を言い、まともな行動を取れば反政府と見なされ、逮捕される」という中国共産党の「極権主義」を自ずから暴いてみせたのだという。

わたしは『アイ・ウェイウェイ スタイル』というこの本を読んで、この作家は「スタイル」ではなく「思考」がすべてだと思った。

唐突だが、アイ・ウェイウェイは、詩人であり、「利休」だと思った。
直感でそう思った。

以下、この本のなかから一部を引用します。

写真について (牧陽一 訳)

写真は狡猾で危険な媒体であり、意味であり、どこまでもある希望の盛大なる宴会であり、超えることのできない絶望の陥穽である。写真は最終的には真実を記録し表現することはできない。写真は現れた真実性で真実を押し開き、現実を私たちからさらに遠くへつれていく。

東洋人は審美的態度において別の可能性に傾いている。彼らはこれまで人の芸術活動が認識の手段だと考えたことがない。あるいはこの命題にはさして興味がなくて、認識過程自体の方法、認識の方法を表現することが認識の最終的な本質だと思っている。この本質は心の中では世界がどのようなものかということであって、いわゆる外界の真実はずっと心理的で情緒的で、不確定で、削り出すことができない、唯心唯我的だ。そうであるならば、自己に対する認識、自己の内心の体験への認知はいっそう困難で面白いのではないだろうか?

写真 (牧陽一 訳)

写真が技術と記録の原始的状態から離脱する時、写真はただ瞬間の状態から事実の可能性へと転換する。この転換が写真を人の活動にさせ、別の意味を含有させ、それは存在のみとなる。生きているのは疑いのない事実にすぎず、つくることはこの事実と真実の関係のないまた別の事実であり、両者は奇跡の発生を期待している。それは意義にたいする新たな質疑の提出である。写真は仲介物として、生活と感知活動を、絶えず見知らぬ世界でのあがきの中へと推しこんでいく。

ここで語られていることがこのアイ・ウェイウェイという作家の真実であると思う。

アートは「意義にたいする新たな質疑の提出」なのだ。
アートはこの世のどこにでも誰にでもみつけられる困難な「奇跡」だろう。

このことは「利休」の実践とおなじだとわたしには思われたのだ。

「思考」のリアリティに、真実があり、アートがあるのだ。
コトバで言い難いが、そこに生と死の体験が加担しているのだ。

アイ・ウェイウェイの作品には、われわれの生があり死があるのだ。
作品の表面で微細に生と死が振動しているのだ。

アイ・ウェイウェイはインタビューのなかで以下のような発言をしています。
以下、この本のなかから一部を引用します。

2011年3月 インタビュアー:Art Press(坂本ちづみ 訳)

生活の中心は表現に対する渇望だ。芸術の独特な所は、その形式、色調、風格すべてが天賦の才能であることにあり、それは守らなければならない。芸術の創作にはいろいろな方法があるが、真実の生活の条件を特に心を留め、その中に自分の身をおかなくてはいけない。もし必要であれば憤怒を表現すべきだ。芸術は日常の生活を表現するが、生活自体「私は誰か」と私に告げることがさらに重要だ。私はいかなる時もこの一点を理解している。おそらくこれが私と他のアーティストの最大の相違点だろう。多くの人は表現する前に、すでに自分がどのような人になりたいかを決めている。しかし私は違う。実際の行動を通してしか、私はいったい誰なのか、どこから来たのか、どこに向かうのかわからないのだ。

アメリカに行って、パーソンズ・スクール・オブ・デザインに入った。でもおそらく私の尋常でない経歴のためだろう、そこでの理性主義的制約に適応するのが難しかった。70年代末から21世紀の最初まで、ほぼ30年の時間をかけて、やっと自分がいったい何を必要とし、何をしたいのかがやっとわかるようになった。その時期、私はほとんど創作していない。心の底ではすでに芸術を放棄していた。アーティストになる夢を捨てていた。実は重要で、面白い事だが、そう思うことで私はとても楽になった。

私はもともと政治とプライベート、個人の日記を区別していない。そういう厳格な区別は私には向いていない。私はそういう人間だ。目にしたいものを見るし、したいことをする。とても単純だ。私は私とこの世界のおかれている環境とをこう定義しているーーーー風、空気、太陽。私の生命は一個の統一体であり、それを分割することはできない。

独裁者が何を一番恐れているかを発見した。彼らは自由なコミュニケーションを恐れ、異なる意見と観点を死ぬほど恐れている。自己表現は犯罪だとみなす。唯一自己表現だけはコントロールする方法がないからだ。私は監獄で時間と空間の極限状態を経験し、そこで理解した。私のようなアーティストの存在が彼らにとってどんなに危険か。そして彼らが私に活動させない原因もわかった。

彼らはいったい何を恐れているのか?監獄で、こういう問題がずっと私の脳裏からはなれなかった。個人の自由を勝手に踏みにじり、人命を軽視するという基盤の上に、いかに今の政権が築き上げられているかを理解した。

私の父は二十歳で監獄に入れられ、二十年下放させられていた。一人の詩人として、父はかつて栄誉と賞賛があった。しかし父も国家の敵とみなされ、非常な苦痛をなめた。父は自分の声望を利用して少しでも利益を得る事に反対していた。父は死ぬ前、私達に「シンプルに生活するのだ。その他の事は忘れなさい」と言って励ましてくれました。父の経験がそういう結論を出させた。私の考えとはかなり違う。私は名声を利用して抑圧されている人のために声をあげてもいいと思う。しかし名声を利用してその他のものと引き換えにしようというのは恥ずべきことだと思う。若者が情報を得る事を阻止することによって、若者の幸せを奪うなら、私は傍観しているわけにはいかない。人々が知識を得るのを阻止し、若者の生命を枯らせる。これは犯罪行為であり、その行為を阻止しない人は共犯者だ。

 

ながい引用になってしまいました。

牧陽一さんが編集・翻訳した『アイ・ウェイウェイ スタイル』(勉誠出版)という本をここ2週間ほど鞄のなかにいれて持ち歩いて、電車の中や喫茶店や自分の部屋や、いろいろな時間と場所で読み継いでみて、この本は私にとって大切の本となった。

ここには「アイ・ウェイウェイ」という作家の存在の奇跡がありました。

アイ・ウェイウェイ 本人は自分の事を「特別優れたよい人間でもなく、いくらか面白いことをする髭を生やしたデブに過ぎない」と語っている。

 

 

 

都内の花見ドライブはあたしの青春回顧ドライブに変わっちまった。

鈴木志郎康

 

親友の戸田桂太さんから電話があった。
都内の桜の名所を巡る花見ドライブに行かないか、っていう。
足腰不自由のわたしを花見に誘ってくれたというわけ。
戸田桂太さんは親友だ。
呼び捨てでいいや、
戸田は
早大時代に『ナジャ』をフランス語で輪読した一人、
その後同じNHKで同僚のカメラマンになって、
そこで二人でこっそり、
過激を装った匿名映画批評誌『眼光戦線』を作って遊び、
歩きながら編集する散歩誌『徒歩新聞』を作って遊び、
それから「日刊ナンダイ」なんかのパロディ新聞を作って遊んだ
得難い相棒だった。
ここんところ暫く行き来が少なくなっていたけど、
去年ドライブに誘ってにくれて、
その他の事情もあって話が弾んだ。
親しみが復活してきたんだ。
戸田桂太は親友だ、
なんていうと、彼は照れるだろうな。
この関係が花見ドライブの気分を作ったんだ。
戸田桂太のことを詩に書けるなんて
なんか、嬉しい。
思ってもみなかったことだよ。

さて、4月2日の午後、
プジョー207(PEUGEOT207)が
あたしの家の前に来た。
戸田桂太の車だ。
あたしは前の座席の戸田の隣に、
戸田夫人の紀子さんと志郎康夫人の麻理が後ろに乗った。
さあ、出発だ。
待てよ、今日は暖かいから上着を脱ぐ、
ってことで、またドアを開けて半身を乗り出し、
麻理の手伝いでやっと脱ぐ。
利かない身体で一苦労、年取るって嫌だね。
シートベルトを締めるのも一苦労。

先ずは井の頭通りに出て代々木公園を横切る。
車の左に桜が満開。
右にはNHK放送センターの建物。
あたしらは昔あそこに勤めていたんだ。
五階の食堂の転勤噂のだべりが懐かしい。
と、もう原宿駅前。
若者の行列と人出でごった返してる。
昔は静かな住宅街だった。
変わっちまったねえ、まるっきり違う街だよ。
変わっちまった。
あたしの頭の中では時間が巻き返えし始める。
変わっちまった表参道から青山通りへ左折して、
暫く行って、右折して青山墓地の
桜並木に車は進んだ。
さくら吹雪の中を車は進む。
後ろの席のノンちゃんと麻理が声を上げる。
綺麗ねえ、
綺麗だ。
あたしはこの青山墓地の桜並木は今にして初めてだった。
東京に七十年住んでてこんなところがあるなんて知らなかった。
知らなかったといやー、
青山墓地を出て潜った乃木坂トンネルも
七十八歳で生まれて初めてくぐったんだね。
今にして初めてっていうところもあるんだ。
いや、今日のドライブが今にして初めてじゃんか。

トンネルを出れば乃木神社前、
ここらあたりは学生時代によく散歩した。
カナダ大使館脇の公園から昔のTBSの裏に出る道だ。
建物で見えなくなった丘の稜線を歩くという道だった。
TBSの前の通りに出て一軒きりの古本屋を覗いて、
赤坂見附から地下鉄で新宿に出るというのが散歩コースだった。
昔のTBSのあの建物はもう無く、
高層ビルになっちまってすっかり変わってしまった。
変わっちまった、変わっちまった。
この辺りで変わらないのは、
外堀通りと赤坂離宮と東宮御所。
昔、ベルサイユ宮殿を真似た赤坂離宮の左翼に国会図書館があってさ、
フランスかぶれの浪人生だったあたしは、
受験勉強をするという口実で毎日通って、
バルザックの小説を読みふけった。
『ゴリオ爺さん』に『従妹ベット』、
中身はすっかり忘れてしまいましたが、
ブルジョアと対決する純情と情熱が心に残った。
毎朝144席の一般閲覧室の椅子を確保するために、
四谷駅から赤坂離宮の玄関まで走ったものだったよ。
大理石の赤坂離宮の便所は珍しくて凄かったね。
ドアを押して入ると2メートルほどの奥の
二段のひな壇の上に便器があるのだ。
ひな壇の上では落ちついてできるものではなかったね。

あたしの呟きを載せて戸田のプジョー207は
四谷駅を右折して半蔵門を左折して、
イギリス大使館の満開のソメイヨシノを横に見て、
千鳥ヶ淵へと右折した。
この辺りは変わっていないなあ。
千鳥ヶ淵の山桜に、
戸田桂太は山桜が好きだと言った。
戸田の蝶を育てて羽化させる知性からして、
桜音痴のあたしは戸田の山桜に納得する。
お堀端から大手町、新装の東京駅の前を通過して、
小伝馬町馬喰町と白い花咲くこぶし並木の江戸通りを、
おもちゃや花火の問屋街の浅草橋に向った。

実は先日お彼岸に亀戸の実家に行くとき、
タクシーでお茶の水から蔵前通りに出る道を間違えちゃってさ、
あたしゃ、東京育ちの自信が揺らいだのだった。
オレも変わっちまったのか。
変わっちまったのよ。
隅田川を厩橋で渡って清澄通りを左折して、
清澄通りと浅草通りに挟まれた三角地帯の家並みに入る。
このあたりにあった天ぷら「ひさご」こそ、
高校で同人誌「ふらここ」をやった親友だった北澤の家だ。
横網町の日大一高の帰りに都電で彼の家に行き、
ほとんど一日おきに浅草六区街の映画館に足を伸ばし、
「ひさご」のお客の映画館の呼び込みのおじさんに、
毎回毎回只で映画を見せて貰った。
浅草日本館の暗闇で十七歳は三益愛子の母ものに涙した。
映画館通いの闇の中でオレはちょっと変わったってこと。
あれから何十年ぶりですよ。もう「ひさご」が何処か分からない。
あたしは車の四角い箱から出ることもなかった。
家並みはすっかり変わっちまってた。

戸田が運転するプジョー207は信号待ちの車列に割り込んで、
高速道路の下を隅田公園に向かう。
ウンコビルと呼ばれるアサヒビールの建物の脇を過ぎて、
東武線の高架トンネルをくぐると隅田公園の中だ。
この辺りも変わっちまったねえ。
変わっちまった。
川っぷちの桜並木を大勢の人が歩いている。
あそこに行って、
隅田川の川風を受けて桜の下を歩かなければ、
ここで花見をしたとは言えないんだろうな。
ちょっと残念。車はもう言問団子の前を通って、
向島の家並みに入った。
右に行って左に行ってまた右に行って。
東京スカイツリーの真下に出た。
そこで、あたしがテレビで見た運河の両岸の満開の桜並木、
あれは北十間川だったんじゃないかと先ずは押上駅を目指す。
ところがわたしは左折すべきを右折と言ってしまって、
業平橋を渡ってしまい、間違えた。
また、間違えた。
子どもの頃、歩いたり都電に乗ったりのこの道を間違えるなんて、
あたしとしてはあってはいけないことなんだ。
引き返すのに左折左折とまた橋を渡って四つ目通りを目指した。
その四つ目通りも家並みの姿を忘れちゃってて、
標識を見なければ確かめられない。
東京スカイツリー下の押上駅付近は変わり果ててる。
変わっちまったねえ。
変わっちまった。
わたしの記憶の街はもう存在しない。
何だ、あたしが育った東京はもう無いじゃん。
今の東京はあたしには初めての街ってことだ。
北十間川には満開の桜並木は無かった。
存在って、こんなにも不確か。

此処まで来たら、桜は無いけど、
あたしが生まれ育った亀戸に行こう。
浅草通りを真っ直ぐに走れば今はない昔の都電柳島車庫前を過ぎて、
明治通りの副神橋だ。
そこを右に曲がれば
高校生の頃、神主さんと万葉集を読んだ香取神社の横を通って、
十三間通りの商店街だ。
三菱銀行を過ぎて天盛堂レコード店、モスバーガーの隣りの
ドラッグストア・マツモトキヨシが元は「鈴木せともの店」!!
現在は、マツモトキヨシの二階に兄夫婦は住んでいて、
「鈴木せともの店」はもう無い。
せともの店は親父が戦後開いた店なんだ。
明治には江戸郊外の亀戸にはまだ田んぼがあって、
親父はその米作り農家の長男で若い頃は米を作った。
田んぼが町工場に変わって工員たちの家が建ち並び、
親父は花作り農家から炭屋になって、
提灯行列から大東亜戦争に突入して、焼夷弾が降りしきる戦災で、
太い大黒柱のあるあの家はB29に焼き払われた。
そしてそして焼け跡の十三間通りで敗戦の翌年せともの屋になった。
お堅い鈴木さんにはぴったりの商売というわけ。
「五円(ご縁)があったらまた来てね」とにっこりする親父さん。
戦前からコンクリートで舗装された十三間通り。
子どもの頃には蝋石で陣地を描いて陣取りをやったのよ。
自動車なんか時々しか通らなかったからね。
でも、朝鮮戦争の時には習志野の演習場に行く米軍の戦車が、
毎晩、轟音で走り抜けた。
ああ、十三間通り。
街も変わっちまったけど、
オレも変わったよ。
今のこの時、親友戸田のプジョー207に乗ってる。
この十三間通り、日曜日には
歩行者天国で家族連れが車道をお闊歩している。

あたしがそんな思いに浸っているうちに、
プジョー207は実家の前を通り過ぎ亀戸駅のガードをくぐって、
もう千葉街道に出ている。
千葉街道は京葉道路、両国橋を渡って靖国通り。
錦糸町の元江東楽天地の脇を通り過ぎると、
昔の都電錦糸堀の車庫跡は丸井のビルになっていた。
うわー、変わっちまったね。
変わっちまった。
芥川龍之介や堀辰雄が卒業した府立三中は今は両国高校。
その両国高校前を過ぎて江東橋を渡れば緑町だ。
高校時代の大雪の日に国電が止まっちゃって、
横網町の日大一高から雪が積もった緑町を歩いて帰ったことがあった。
そして両国、昔の国技館跡は今はシアターカイという劇場だ。
此処には教授だった多摩美の卒業公演で毎年来ていた。
両国橋を渡るのはこれで今年は二度目だよ。
三十年も渡ったことがなかったのに、今年はこれで二度目だよ。
再び韓国製ワンピースが安く売られている江戸通りに出て東京駅へ。
この五月には『ペチャブル詩人』の丸山豊記念現代詩賞の授賞式に、
電動車椅子で新幹線に乗って九州に行くから、
麻理が車椅子待合室を確かめに行った。
その間、車から降りて、
ベックスコーヒーショップ丸の内北口店で、
戸田と紀子さんとあたしはしばらく休憩。
そこで、オフィス勤めの人たちを間近に見たのは、
あたしには、何とも言えないリアリティだった。
そう、何とも言えないリアリティだった。

東京駅からは皇居に向かって進んで、
右折して宮城前広場の手入れが行き届いた松を眺めて、
白山通りに出ると左の歩道にフォーマルな服装の
女子大生が数人たむろしていた。入学式だったんだ。
共立女子大といえば昔よく演劇の公演を見た共立講堂だ。
フランコフォリのあたしはその共立講堂かその隣の一橋講堂かで、
劇団四季のジャン・アヌイ作の『アンチゴーヌ』を見て興奮した。
これだとばかりに、雨の日に、
石神井の浅利慶太氏の家を訪ねて劇団に入りたいと言ったのだ。
それにしても浅利さんはよく会ってくたよな。
しかし、君は先ずは大学に入って勉強すべきだと断られた。
窓の外に降る雨を覚えている。
プジョー207は白山通りを北に進む。
神保町の交差点を越えて西神田だ。
二十一歳のわたしにとって西神田は予備校の研数。
浪人三年、今度落ちたら働けと親に言われて、
後がないと悦子さんとのデートもしないでしゃかりきのしゃかりき。
秋口にはビリに近かった国語の点が
年末にはトップクラスに入って何とか早稲田の文学部に入れた。
水道橋駅のガードを潜って後楽園を左折する。
そして飯田橋、此処で降りて都電に乗って早稲田に通った。
通う都電であたしは確かに変わったのだ。

プジョー207は神楽坂下から
外堀通りの満開の桜を左に四谷に向かって走って行く。
此処の桜はJR中央線の窓から見た方が絵になる。
とは言っても、あたしゃこの五年余り電車に乗ったことがない。
またまた四谷駅から迎賓館と東宮御所の脇を過ぎて、
権田原から明治神宮外苑に入り日本青年館を右に曲がる。
ざわつく記憶が残る1960年代、
日本青年館では吊され揺れる大きな真鍮板と交わって踊る
土方巽のダンスパフォーマンスに驚いちゃった。
仙寿院の墓の下をくぐって原宿に向かうこの道は、
あたしが脊椎手術で入院の慶應義塾大学病院に通ってもう何十回も、
タクシーの運転手さんに「外苑西通りをビクターのスタジオを
左に曲がって」と告げた道路だ。
この五月には前立腺癌の治療で泌尿器科に行くのでまた此処を通る。
そしてまた原宿、若者たちでごった返す原宿。
駅前のそば屋はもう無くなったのか。
女の子男の子の行列で見えない。
変わっちまったねえ。
変わっちまった。
明治神宮を右に代々木公園を抜けて山手通りに出る。
そして麻理が見たいと言った東大駒場キャンパスの
桜を裏門越しに見て上原のあたしんちに戻った。
戸田桂太が運転するプジョー207は、
現実の東京の市街をめぐり走ったが、
あたしゃあ脳内の存在しない市街をめぐり走ってたってわけ。
戸田桂太よ、ありがとう。
オレも変わっちまってさ、
今じゃ、老い耄れ詩人になっちゃった。
年を取って今を取りこぼして生きてるって、
やだね。
どんどん詩を書こう。
それにしても、長い詩になった。
こんな長い詩を書いたのは初めてだよ。

 

 

 

plate 皿

今朝
スープは昆布だしにしました

ジャガイモと
青梗菜と干し椎茸とウインナと

昆布と荒塩と
胡麻油をすこし入れてみました

湯槽からでて
テーブルに平らな皿を置きました

白い皿をみていました
白い皿をみていました

皿の上の無いものをみていました

 

 

五嶋みどり

加藤 閑

 

写真 2014-04-16 0 47 06

 

何年か前に、五嶋みどりがバッハの無伴奏のCDを出した。ソナタの2番(BWV1003)1曲だけだったけれど、それまでバッハの録音がなかったので結構話題になった。その後、みどりは2012年に全国の教会や寺院で無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティータを弾くツアーを行なったことを最近知った。いつかは全曲盤が出るかもしれないが、多分本人はそういうことにあまり積極的ではないのだろう。(実際、知名度に比べて彼女のディスコグラフィーはあまりにも寂しい。)
みどりの無伴奏はゆったりしている。何かを強く訴えるというのではなく、自分の中の音楽をできるだけ自然に音にして行きたいというような演奏だ。バッハの無伴奏と言えばシェリングを思い出すが、あのバッハ演奏の規範となるような隙のない演奏とはまったく違う印象を受ける。これはみどりに限ったことではなく、ヒラリー・ハーンや庄司紗矢香など、最近の女性のバッハの演奏は、ずいぶん風通しの良い自由なものになってきた。

そのうえ、五嶋みどりのバッハは、本人にそういう意図があるのかどうかはわからないけれども、聴く人を慰藉する音楽になっている。そしておそらくは彼女自身をも慰藉しているのではないかと思わせる演奏だ。鬱病や拒食症で苦しんだ時代があったようだが、あるいはそういうことも影響しているのかもしれない。
日本人はなぜか自国の演奏家に辛い。同じように国際的に活躍している者を比べたとき、根拠もなく日本人演奏家を低く見る。それなのに、海外で評価された者を高く買わないというおかしな風潮もある。しかし五嶋みどりはまぎれもなく現代世界最高のヴァイオリニストの一人である。

たとえば、みどり10代のときに録音された、パガニーニの「24のカプリース」全曲はいまでもこの作品の最高の録音だと思う。随所にみなぎる音楽性は比類がない。超絶技巧を要求される無伴奏曲だが、バッハの無伴奏に比べると、精神性や芸術的価値に劣るというのが定説だろう。しかし、五嶋みどりで聴く限りそういう印象はまったくない。冷たい刃物を思わせるような音の線。パールマンにはこういうところはない。ヴァイオリンの録音を聴いて背筋が寒くなったのは後にも先にもこのディスクだけだった。シェリングのバッハにも比肩しうる録音だと思っている。