michio sato について

つり人です。 休みの日にはひとりで海にボートで浮かんでいます。 魚はたまに釣れますが、 糸を垂らしているのはもっとわけのわからないものを探しているのです。 ほぼ毎日、さとう三千魚の詩と毎月15日にゲストの作品を掲載します。

マリア・ジョアン・ピリス 他

加藤 閑

 

写真 2014-03-17 0 02 15

 

(一)
このあいだサントリーホールでマリア・ジョアン・ピリスのピアノを聴いた。(3月7日)
この日のプログラムは、シューベルトの「4つの即興曲」D.899、ドビュッシーの「ピアノのために」休憩をはさんで、シューベルト最後のピアノ・ソナタ第21番変ロ長調D.960、アンコールは、シューマンの「予言の鳥」(森の情景から)というもの。
ピリスは、1991年にドイツ・グラモフォンから出たモーツァルトのヴァイオリン・ソナタ集で注目を集めた。それまでにもモーツァルト弾きとしてそれなりの評価はあったようだけれど、わたしはこのディスクではじめて聴いた。モーツァルトのヴァイオリン・ソナタというと、昔からグリュミオーとハスキルの盤が有名で、わたしもレコードの頃からそれを聴いていた。だが、ピリスがオーギュスタン・デュメイと組んで録音した新しいディスクは、清新なうえに気品を備えた演奏で世界的に大変好評だった。以後、この二人はヴァイオリン・ソナタの名曲を次々に録音する。ブラームスはこのデュオの代表盤の一つとなったし、グリーグは演奏のイメージを一新した。ベートーヴェンの全集も出た。チェロのジャン・ワンを加えてトリオの演奏も発表した。相前後して、ショパンの夜想曲全集やシューベルトの即興曲などソロの録音も出たが、いずれも記憶に残る演奏だった。
その後、ここ何年かはいっときほど積極的にピリスを聴かなかったように思う。ピリスに限らず、常に新譜に目を凝らすような関心の持ち方をしなくなってきた。ピリスの演奏で比較的最近買ったのは5年ほど前に出た2枚組のショパンアルバムくらい。おそらく彼女の新譜のリリースも一時ほどではないのだろう。
たまたま新聞で、シューベルトのピアノ・ソナタ第21番を中心としたピアノ・リサイタルの広告を見て、急に聴きたくなった。この曲、ピリスはかなり前にエラートに録音していたが、わたしにはそれほど印象に残るものではなかった。しかし、今回は再録音してのコンサート、しかも新しいディスクは聴いていないので、楽しみにして会場に向かった。
結果は、期待を裏切らないものだった。ドビュッシーは苦手なので何とも言えないけれど、シューベルトは即興曲もソナタも曲のよさを充分に引き出した気持ちの良い演奏だった。演奏家には、曲の趣向や持ち味を生かして最良の演奏をしようという人と、曲趣よりも自分の音楽観や演奏スタイルを優先する人とがあるように思うが、ピリスはどちらかというと前者のタイプ。そのピリスが、即興曲のCDを明らかに後者のタイプと思われるリヒテルに献呈している。
ピリスの『即興曲集』は1998年2枚組で発売された。シューベルトのこの曲は、それぞれ4曲のD899、D935が1枚にカップリングされることが多いが、ピリスはD915「アレグレット」とD946「3つのピアノ曲」(遺作)を加えて2枚にして発表した。(D946はあまり演奏されないけれどなかなか聴き応えのある曲) そうした曲の選択、構成だけでなく、タイトルの付け方やブックレットの内容までピリスの意向が強く反映していると思われる。
このCDには「Le Voyage Magnifique」(素晴らしい旅)というタイトルがあり、表紙を開くとリヒテルへの献辞がある。ピリスはこのディスクを、死んで間もないスヴャトスラフ・リヒテルに捧げているのだ。そして右のページには「私は旅人である」というリヒテル自身の言葉が添えられている。さらにページを繰ると、フランスの作家イヴ・シモンの小説「すばらしい旅人」の引用が断章のように綴られている。
意図的につくられているとは思うが、どれほどの明確な意図があったかはわからない。人生は旅であり、音楽を生きる人も旅人なのだ。あのリヒテルも自分を旅人と言っているし、自分が奏でる音楽も、演奏する自分やそれを聴く聴衆を旅へと誘う力を持っている……。リヒテルとピリスの「旅」は微妙に違う。リヒテルは自分の音楽活動を含めた精神のありようを、さすらう旅人のようだと言っているのだろう。対してピリスは、そのリヒテルや自分にはできない「旅」への憧憬を表そうとしているように思える。
リヒテルはWandererという言葉を使っている。するとやはり、シューベルトのD760「さすらい人幻想曲」(Wandererfantasie)を思い出さざるを得ないし、他ならぬリヒテルの演奏が耳にひびいてくる。ただし、ピリスがそういうことを意識していたかどうかはわからない。
当然ながら、ピリスの弾く「ピアノ・ソナタ第21番」はリヒテルの演奏とはまったく違う。リヒテルの、第一楽章のゆったりしたテンポには、胸の底に降りていくような陰鬱さがつきまとう。それがこの音楽にある凄みを与えている。ピリスにはそうした凄みはない。そのかわり、もっと情感に満ちた日常の充足がある。ここで日常と言ったのは、暗い面も明るい面も(あるいは悲しみも喜びも)人の営みの範囲のなかにあるという意味。自分が依然よりもそうした演奏を好むようになっていると思うし、ピリスのこの日の演奏にはそれゆえの強さも備わってきたという実感があった。

(二)
音楽というのは、他のものに代え難い喜びをもたらすものだと思うけれど、反面人間の精神を支配し、変節させる大きな力を持っている。先日車のラジオからベートーヴェンの第5交響曲ハ短調作品67が流れてきた。ちょうど始まったばかりで、第一楽章の誰もが知っている主題が聞こえた。
いまさら書くことでもないけれど、ベートーヴェンの音楽は聴く者をぐいぐいと引きずり込むような構成になっていて、われわれを否応なく音楽のなかに連れて行く。それに抗うことは難しい。旋律もリズムも揺るぎない力で心身を捕え、最初は違和感を覚えていた者も、やがては音楽に浸る法悦のなかに落ち込んでいくようだ。
途中で車を止めたので、このときの指揮者やオーケストラが誰だったかはわからない。しかし、わたしは1947年5月25日、ティタニアパラストで行われたフルトヴェングラー復帰公演を思い出した。曲はエグモント序曲、交響曲第6番、第5番というオールベートーヴェンプログラム。ナチス協力の嫌疑で演奏活動を禁じられたフルトヴェングラーが、ようやく許されて公演ができるようになった最初のコンサートだった。
聴衆は熱狂的な拍手でこの指揮者を迎えた。拍手、拍手。手が痛くなるほどの拍手を続けるその日の聴衆のなかには、必ずやヒトラーの演説に拍手した人間がいたに違いない。彼らは、いまやナチスを憎む民衆の一人として、音楽を愛する一人としてここに来ている。自分に対する疑いもなく今日の音楽の感動に打ち震えている。熱狂とは何と恐ろしいものかと心底思ってしまう。しかしそれは他ならぬ自分自身かもしれないのだ。
わたしもこの日のライブ録音を何度も聴いた。感動的な素晴らしい演奏だと繰り返し思った。だが感動、エモーションとはいったい何なのだろう。「わたし」を変えてしまうほどの感動、わたしの精神を揺すぶり、わたしの言葉を奪ってしまう感動。
感動に身を任せることの陶酔感はえも言われぬものだ。そしてそれがときには人を前進させる原動力になることもよくわかる。しかしわたしは恐ろしい。この恐怖はどこから来るのだろう。
第5交響曲(いみじくもそれは後世の人のつけた『運命』の名で呼ばれる)の持っている力が恐ろしいのではなく、それを聴いて我を忘れるかもしれない自分を恐れているように思えてならない。人間には多かれ少なかれみなそういう要素があると思うから怖ろしい。

(三)
ちょうどいま(3月16日午後10時15分)、テレビで水戸室内管弦楽団のコンサートの録画を放送している。ベートーヴェンの第4交響曲変ロ長調作品60。指揮をする小澤征爾は歳をとったため、一つの楽章が終わるたびに椅子に腰かけてほんの少しだが休憩をとる。音がなっている間は溌剌とした音楽とそれを指揮する小澤征爾があるのだが、腰をおろす彼の姿が映し出されると一人の抜け殻のような老人の姿となる。演奏は決して悪くない。もう80歳近いのだろうけど、音楽の呼吸は若々しいし彼特有のはなやぎがある。
この公演は、今年1月の水戸室内楽団の定期のはずで、その前の曲(メンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」)は中年の女性が指揮をした。ナタリー・シュトウッツマンである。メゾ・ソプラノの歌手として一時さかんにコンサートを行ない、オペラにも出演し、たくさんのCDを出していたが、現在は指揮もするらしい。彼女も、シューマンの歌曲集を出していたころは、素晴らしくチャーミングで美しい女性だったが、指揮をする横顔は頬が窪み皺が刻まれている。ベートーヴェンが終わって、今は彼女の昨年のコンサートの模様が映されていて、シューマンの「詩人の恋」が流れている。歌は素敵だし、中年とはいえ歌詞に寄り添う表情は魅力的だ。しかし、15年前のジャケットの写真を知っていると、時の残酷さを思わずにいられない。
クラシックのレコードやCDはたいてい演奏家の顔写真が使われる。音楽ファンは気に入った演奏家の録音を長い期間にわたって聴くことが多いので、演奏家の老いてゆく姿を見続けることになる。白髪を刈り込んだ皺だらけのポリーニの顔なんか見たくなかったのに、こればかりは仕方がないことだ。
今回のピリスのコンサートのポスターを見たときも同じことを感じた。DENONでモーツァルトのソナタの最初の録音を出していたころの、ボーイッシュな少女のような彼女から、あまりにも遠くにきてしまったようだ。もちろん音楽家に、年齢とともに変わる容姿のことをあげつらうのは馬鹿げたこと。老いを云々するなら、まずわたし自身が鏡の前に立つべきだった。
今年も春がやってきた。昔は秋が好きだったのに、歳をとるに連れて春がいいと思うようになった。まわりにもそういう人が多い。じきに桜も咲く。そして、また芭蕉の句を口にする。

さまざまの事おもひ出す桜かな

 

 

 

 

sure 確信して 確かな

今朝
新幹線の窓から光る海原を見た

帰ったら
庭の白木蓮の花がひらいていた

沈丁花の小さな花も咲いて
匂っていた

晴れた空のしたに
海は青くひろがり風は渡っていった

カモメたちは
ならんでゆったりと空に浮かんでいた

確かなことは風のようだ

 

 

birth 誕生

朝の
裏山の

ほそい暗い道の
先の

ちいさなほこらの傍に
泉はあった

そこに灰色の山椒魚たちはいた

数珠の卵は
連なっていた

そこに記憶の起源もあるだろう

水に濡れて連なるものたちのなかに
透明な儚い根を這わす

さよならといって
生まれてきた

 

 

danger 危険

春の
海だった

春の海でだった
小舟でひとり沖にでた

平らな海に
そよ風は吹いてた

それがとつぜん嵐になった

波のうえに
ほんとに木の葉だった

ペラは波の上に空転した
エンジンは止まった

もうだめなんだなと思ったんだ

ゆっくりと
景色を見たんだ

 

 

 

pretty かわいらしい きれいな

庭に
沈丁花の花が咲いた

白木蓮の蕾もひらいて
咲いた

休日に子どもたちの撮った写真展に
いきました

被災地を撮った写真でした

景色のなかに姉や弟や妹や
母や父や友だちの笑顔がありました

いといヒトたちを
抱きしめたいと思いました

 

 

leaf 葉

昨日
白木蓮の花が咲いた

のびた枝の先の蕾から
小さな白い花をすこし開いた

白木蓮は花が散ったあとに
丸い葉をひろげる

緑の丸い葉をたくさんひろげて
実を膨らませる

白木蓮のいのちは
繰り返している

白木蓮は繰り返している
今を生きることを繰り返している

 

 

 

音の羽 @140307

萩原健次郎

 

 

撮影:萩原健次郎

 

杭打ち、打ち、また打ち、
文字を描いた、人、指で傷をつけた人
それを、鑿で削った人、
言葉に、霊ら魂やらを添わした人
それらが、減り込む。
減算、なにかを知らせるための熱の減産。

老いていくことが、身の芯から抜かれて
わたしにも、軸があるのに、そのあわわの
そのあわわの、なにか、の、の、
から埋められる。

顔色を引かれ、
赤く腫れた、器物が引かれ、
笹が、引かれ
縄が引かれ、
鳥居が引かれ、
神のような、棚の上にあるものも
間引かれて、

空だけになった、赤ちゃんが泣いている。

青空の赤ちゃん。

タレに浸して、杭打ち。

おとわ、か。

昔、高貴であった、紀念の詳細も、
杭打ち、
地誌の暴きは、糊付け。

割烹着を着た、おとなしい人が
「紀念の、写真を、撮りましょうね」
と言って、そこに消えた。

まるい穴の中に、消去された。
まるで、シー・ジーだ。

大根のように、

まるまるの、正円の蕪のように
地面が、ただ、純白に、地底まで抜けている。

石の書の下まで、掘っていく。
すると
水だけがあふれて、
轟々と吹き上がり

文字の書かれていない、石の顏だけがあらわれた。

なあんにも、
埋まっていない。

(連作のうち)