michio sato について

つり人です。 休みの日にはひとりで海にボートで浮かんでいます。 魚はたまに釣れますが、 糸を垂らしているのはもっとわけのわからないものを探しているのです。 ほぼ毎日、さとう三千魚の詩と毎月15日にゲストの作品を掲載します。

結界

 

松田朋春

 
 

嫌われ者がいなくなった
ゴミ出しを咎めて袋をあけ玄関まで戻しにきた
犬がうるさいと騒ぎ
施設で遊ぶ子どもがうるさいと文句を言い
まちに注意書きが増えて
嫌われ者の家には監視カメラが幾つもついて
塀に上にはピカピカの防犯金具が並んだ

嫌われ者がいなくなる
と噂が流れて
喜びを感じた
たくさんの人が
犬が
施設の従業員が
雲が晴れたように
ほんとに

会ったことはなかった
理不尽さが周囲に
強い輪郭を張っていた
芯にあったのは
憎しみなのか
何への?

伊豆に越していった
いつか来る喜びの日は
あっけなくやってきて
家ごとの取り壊しがはじまって
新しい建売が建つ
新入りさんはとてもいい人にみえるだろう
嫌われものが作った
結界のことはすぐに忘れ去られるだろう
近所の公園で首を吊った
独居老人のアパートが
きれいなレントハウスに変わった時のように

株のデイトレーダーらしい
挨拶もなく見送る人もなく
まちの人に失敗を願われて

ひとりで住む新しい土地で
結界はまたゆっくりと
立ち上がるのだろうか

 

 

 

當傍晚無聲地抹去星辰
夕暮れどき沈黙のうちに星々を消し去る

 

Sanmu CHEN / 陳式森

 
 

當傍晚無聲地抹去星辰,前世
塵土,起伏如波瀾
黑暗的文件如晦,裏面好黑
大地蟄伏,花朵猶豫

最難將息,寒冬骨架
從來世生出肋骨,種子沉痛
家譜灰燼;那就重讀灰燼,從此無名
此刻退色,你是唯一的音節。

就是不屈服的石頭
那些在流亡裡往返的孤魂
洗滌我們的盲文,奧德修斯!
來到盡頭我一無所見

 

 
 
當傍晚無聲地抹去星辰,前世
 夕暮れどき沈黙のうちに星々を消し去れば、前世の
塵土,起伏如波瀾
 土ぼこりは、大波のように高まり鎮まり
黑暗的文件如晦,裏面好黑
 暗黒の文書は読みようもなく、中身は真っ黒だ
大地蟄伏,花朵猶豫
 大地は寒気に沈みこんだまま、花はまだ開きかねている

最難將息,寒冬骨架
 いちばんの災いは終わろうとして、 寒い冬の骨組みに
從來世生出肋骨,種子沉痛
 来世からあばら骨が生え出しても、種子は悲痛のうちにある
家譜灰燼;那就重讀灰燼,從此無名
 系譜は燃えかすとなり、ならば燃えかすを読みなおそうとも、それからもう名前はない
此刻退色,你是唯一的音節。
 この時間は色あせて、きみがただ一つの音節だ。

就是不屈服的石頭
 これこそ不屈の岩石たる
那些在流亡裡往返的孤魂
 流亡のうちに行き来する寄るべなき彼らの魂は
洗滌我們的盲文,奧德修斯!
 我らの点字を洗い清めるのだが、オデュッセウスよ!
來到盡頭我一無所見
 しまいまでいっても私にはなにも見えないのだ

 
日本語訳:ぐるーぷ・とりつ

 

 

 

 

きびしいこらしめ *

 

さとう三千魚

 
 

雪が降るのだという
春は近いのか

あたたかい昼には
突発性の

難聴が
すこし

ゆるむようだ

そう
思える

今朝
サティを聴いてみた

他人の耳を持つことはできない
わたしの耳で聴いた

いま
きみを

みている

きみは恥ずかしそうに笑った

 

* 高橋悠治のCD「サティ・ピアノ曲集 02 諧謔の時代」”(犬のための)本当のだらだらとした前奏曲” より

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

立春大吉

 

工藤冬里

 
 

Una nación poderosa e innumerable ha invadido mi país

Los demás son superiores a ustedes

石原さんが都知事の頃、西東京で営業の仕事をしていましたがどうやら向いてなくて、どうやって生活したらいいのかまったく分かりませんでした。そういう時期に、都営にただで住まわせてもらってました。ありがとうございました。
私は最近まで都知事はずっと美濃部さんだと思ってましたからこういうふうにも言えると思います。東京は存在しない。いや、日本も存在しない。あるのは鈴木、スズキというような発音だけだ、だから東京ではなくて鈴木都だし五輪参加も鈴木国でいい。東京だと奥の細道が拡がり、鈴木はそれを狭めるのだ。
川の両岸には鈴木が生えている。2キロ歩かないうちに鈴木川河口くらい深くなる。鈴木の葉は若返りの茶にするので小判にも彫られた。鈴木弁を咄す人は代わりに煎餅を焼いた。鈴木には金山がなかったからである。

なにか潰れたと思ったら外では笑い袋のような鳴き声

Nadie tiene amor más grande que quien da su vida por sus amigos

沢庵カレーていいんじゃないの?ウコンだから
桜三里の心(しん)は手打ち麺で頑張っていて、二流でも三流でも六流でもない。が、一流ではない。
それはこの地方の鶏ガラの敗戦後の扱いに於ける先入主から来ている。この地方で唯一一流と言えたのは春光亭のみであった。
それは春光亭がヌーヴェル・キュイジーヌとしての和食史の文脈に位置付けられ、しかもフィールドとしての純ラーメン店群の只中で営業し得ていたからであった。
シロノトリコなどがいくら頑張っても、春光亭頓挫以降の愛媛のラーメン史は存在しない、とさえ言えるのだ。
その迷走を体現しているのがりょう花東温実験店であると言えよう。
それは甘苦い松山三井の呪縛と闘う日本酒業界にも言えることだ。
それらの退廃は、バップの超克に疲れたフュージョンや新建材の建売住宅群のように風土となって久しい。
どこに真の味覚が、音楽があるだろうか?それは各自が自分で創り出す以外にないのである。
そのような中にあって、真に大阪的とも言えるダイドードリンコが開発した「当社デミタスブラック史上最高峰のコク」と謳われるプレミアムデミタスは一流であり、山崎が書きに書いて最期に到達する掌編、のようなものがあるとすれば将にそのような味わいがある。

倉敷がビスケットを創るとこのようなものになるのか。
味覚面の情報を削ぎ落とすことによってのみ可能な、形と量に関わるデザインである。

Corramos con aguante la carrera que está puesta delante de nosotros

どんどん歳とって死んでゆくので
新台入替に並ぶ
皆200万くらい捨てていた
皿ヶ嶺から冷気が降りてきて
屏風の虎も飛び出る
鈍い金属の頬が
換気の必要に気付く頃には、頸骨は絵本のように磨耗して
きちんと飲まないと溺れてしまう
今は腰くらい
火挟の要らない森で
N極S極を探す

una vida tranquila y calmada

ヤマハとターナーがアーティスト支援の立場で一緒なら絵の具とデジタル音は同じ素材である。それは冷蔵庫や空気清浄機と結婚するようなものである。そうではなく、太陽を黒焼きにしなければならない。

椿山旧正月に来る賀状オリーブオイルが固まる寒さ

雪まるけ

抽象を目指していない具象は仏教的には業が深いというか過去を弄れてない。だから未来がない。組み直しの遠近法は建築家に与えられた特権だ。それが泥に沈もうともまずは描いてみることだ。

今図書館車に積んでいるのは晩年のこの三冊です。

https://twitter.com/library_nara/status/1489165204982095875?s=20&t=4lV1kauClFMnN8xifpsccA

今図書館車に積んでいるのは2017年の「芝公園六角堂跡」のみです。2019年の「瓦礫の死角」「掌篇歳時記 秋冬」は本館にあります。
https://twitter.com/kyodo_official/status/1489815762315677700?s=20&t=4lV1kauClFMnN8xifpsccA

「死ぬまで生きる 伊藤ひろみ」と書いたメモを持って来てくれましたが、それは「いつか死ぬ、それまで生きる わたしのお経 伊藤比呂美」でしょう。ズバリそうでしょう。

テキ屋にはつらい春だ

カイロの残りを風池に当てて低温火傷のような立春

立春大吉
映像美などというものが何の役にも立たない原の柩の列に倫理の雪
口を開けずに喋る両生類たちにゴムの継目
ぶら下がりぶら下がるカットソーは二種類の糸を織り交ぜたワールドリィの抜け殻
巣鴨も今は疎だろう弛んだ赤の勝敗
最初から覚える気のない動物の諦め切った發音
参道に出店は許されずテキ屋にはつらい春だ
カイロの残りを風池に当てて低温火傷のような立春
聖なる者は母を敬う鬼は線対象の過去と未来に立ち尽くす

Unifica mi corazón

 

 

 

#poetry #rock musician

ぼくはにほんごを知らない

 

駿河昌樹

 
 

 「ひとつの文体とは、
 自分自身の言語[自国語]において吃るようになることである。
 これは難しい。
 なぜなら、そのように吃ることの必然性がなければならないからだ。
 自らの発話において吃るのではなく、言語活動それ自身で吃るのである。
 自分自身の言語において外国人のようであること。逃走線を描くこと。
 私に最も強い印象を与える事例は、カフカ、ベケット、ゲラシム・ルカ、ゴダール
 である。」

 (『対話』、11)

  ジル・ドゥルーズ+クレール・パルネ『対話』

 
 

「書くことは正確な人間を作る」
という
小学校で
先生が強調した
フランシス・ベーコンのことばを
信じたわけでもないが

たぶん

ぼくは
ゼロから
にほんごを学ぼうとして
つとめて
ことばを記すようにしてみている

ぼくは
にほんごを知らないのだ
なんだか
よくわからない

しかるに
まわりのひとたちは
にほんごなんて
わかっているのが当たり前だというように
にほんごをじぶんたちは所有しているかのように
ぺらぺら
にほんごをしゃべっているし
さくさく
にほんごを書いている

こどもの頃から
それに
すごい違和感があった

にほんごは
なめくじのように
いつも
どこかどろどろしているし
ひとも来ない汚れた小さな神社の柱に
むかしに貼られたままの紙の
そらおそろしい字のように
きもちわるい

ぼくは
すこしでもどろどろしないように
きもちわるくならないように
にほんごに慣れよう
にほんごの裏の思いのようなものを見抜こう
と思って
にほんごを記してみている

そういえば
フランシス・ベーコンは
じつは
「読書は充実した人間を作る
 会話は気がきく人間を作る
 書くことは正確な人間を作る」
と書いたのだそうで
だったら
読書だけでいいかな

いまのぼくは思ったりする

本当は
充実vs気がきくvs正確
をこそ
ベーコンは問題にしたのだったかも
しれない

だいたい
小学校の先生が
ベーコンのことばを引用したのも
ノートのとりかたを
教えるときの
かっこ付けだったかもしれない

読書のすすめのときなら
「読書は充実した人間を作る」
のほうを
きっと
引用しただろう

学校の先生というものは
いつも
ご都合主義な
ものなのだから