michio sato について

つり人です。 休みの日にはひとりで海にボートで浮かんでいます。 魚はたまに釣れますが、 糸を垂らしているのはもっとわけのわからないものを探しているのです。 ほぼ毎日、さとう三千魚の詩と毎月15日にゲストの作品を掲載します。

接続詞で繋いでみる

 

工藤冬里

 
 

Aber
FMで82年特集とか
泡立つほどにまさに敵だな
理由は倫理的なものではなく技術的なもので
要するに音程や音色の選択が音楽に追いついてないからだ
そういう点でわりと憂国というか恥ずかしいんだおれは
Aber
地区、音乐与实践region, music, and practice」というタイトルがいい
https://www.instagram.com/p/Cmy5_DjNz0V/?igshid=YmMyMTA2M2Y%3D
Aber
4は地的な完全数と言われているが東西南北のことではない
それは1+1+1=4であるような次元の話なのだ
例えば3人家族という三角錐は4面を持つ
フラーが言うように、ものごとは4によってはじめて稼働するのだ
Aber
フレディグリーンて石渡が好きだったな
Aber
アーメン
とは
暴き出す
ということ
Aber
ヒロシです
一日一日が正月です
ヒロシです
毎年毎年が忌中です
口が裂けても明けましてを云わず、賀状の返事も出さないのでこれで勘弁

拾ったペンで髪を撫で上げた人に毎日が正月ですヒロシと返事して安らかに墓に入ると言わしめながらネコに殺される
名を覚えられないまま再建された天神に登る石段に人骨を焼く煙が全てのイントネーションを裏切って
針が振り切れる

Aber
一瞬でニカさんと渋谷さんと分かる凄いな
「離れていくなんて臆病です
の発声が良い
「幸せはつるべおとし
のデュエット部分 とか
「さっきはごめんなさい
の傲慢と謙遜の針の振れ
オザケンはあんまり
でもライザみたい
とかいってるうちにサキちゃんちに着いた
Aber
https://youtu.be/6mjbQW1Yt0E
昔鈴木君や山岸君がすのすの言い合っていた頃僕の雪ですの?を浩一郎がえらく評価して雪の倉に納める勢いでいやちょっと待てこれは凄い雪でしょスノーでしょとぶつぶつ、急に思い出した。
生きていたらえ、マイケルスノーは死んだんdeathの?と言うことになるが、今度は受けない気がするなんとなく
Aber
今日は公園に誰も居なくていつもみたいにわあわあしてる図書館車動画を挙げられなくて子供が来なくなった良寛みたいな気分だ
Aber
竈馬を食べた輩のブログに「うまい」とあり馬だけに、と思う
Aber
音楽にはもう動向なんてない
去年のベスト10とか得意気に人の音楽を選ぶより自分の身辺整理の方が先だろう
知り合いの生き死にの所作に目が行くぐらいだ
竈馬は光には反応しない
息を吹きかけると飛び上がる
Aber
夢が自由というのは障害物を出す自由であって
そういう意味で言うと自由民主党というのは自由に膿を撒き散らすことの出来る夢のような党である
夢のようなとは緩むということで
歯軋りしながら緩めるという曲芸であり
大道芸より難儀なことを毎夜
主たる民の身体は行っているのである

 

 

 

#poetry #rock musician

「生きざま」という言葉

 

駿河昌樹

 
 

   粗野で下卑たものが、
   高貴で優雅なものに俗世の生きかたを教える世の中が、
   やがて訪れるのだろうか…

          ロード・ダンセイニ『魔法使いの弟子』 *

 
 

人の生きかたのことを
この頃
テレビなどで「生きざま」と言っているのを聞く
平気でそう言っている

ちょっと
違うのではないか?
と思う

辞書などを見ると
「生きざま」に
さほど問題のある意味があるわけでもないことが
多い

大辞林には
「生きていくにあたってのありさま」
「生き方のようす」などとある
ずいぶん
ニュートラルである

デジタル大辞泉には
「『死に様』からの連想でできた語とされる」
とされ
「その人が生きていく態度・ありさま。生き方」
とある
「死に様」からの連想
という
ちょっと凄いことが出てきているが
意味自体は
ニュートラルに説いている

明鏡国語辞典には
「特徴ある人生観や人間性などで
 他を圧倒する、強烈な生き方」
とあり
やはり
「『死にざま』の類推から生まれた語」とも
注意書きがある
「他を圧倒する、強烈な生き方」
と説明していて
ふつうの人に使うのは
どうかね?
と考える根拠を
ちょこっと
示している

広辞苑(第六版)の場合には
〈「死に様」の類推から生まれた語〉と
注意書きされてから
「自分の過ごして来たぶざまな生き方。
 転じて、人の生き方」
とある

これだよ
これ
このニュアンス

世代や年齢によるのだろうか?
中年を越えた耳には
どうも
広辞苑の説くようなニュアンスで使われていたのを
多く見聞きしてきた気がする

「オレの生きざまを見てくれ!」
「あいつの生きざまを決して忘れねえぞ!」
などというセリフが
荒くれ者たちを描いた映画やドラマには
いくらもあったような気がする

まともな生き方からは
ずいぶん外れたりもしているが
すごく頑張って生きてきた
並大抵ではない生き方をしてきた
そんな場合に
自分自身で言うか
深い絆のある仲間に対して言うか
そんな場合の言葉が
「生きざま」だったような気がする

なるほど
なにかしらの取り柄があったり
才能があったり
有名だったりはしても
人畜無害な
ふつうにテレビにゲストとして呼べるような人には
「生きざま」という言葉は
かつてなら
使わなかったし
使えなかったような気がする

だいたい
「生きざま」の「ざ」という濁音が
汚いでしょ?

そんなことも
すっかり
感じとられなくなってしまったのかなァ

『魔法使いの弟子』で
ロード・ダンセイニが嘆いたごとく…

「粗野で下卑たものが、
 高貴で優雅なものに俗世の生きかたを教える世の中が、
 やがて訪れるのだろうか…」*

 
 

* Lord Dunsany(Edward John Moreton Drax Plunkett, 18th Baron of Dunsany)

The Charwoman’s Shadow (1926)

 

 

 

 

塔島ひろみ

 
 

さまざまな願い事がそこでは叶う
寂しさや悲しみが癒される
家にいたくない 学校や会社に行きたくない人の 逃げ場ともなる
お腹も心も満たされる
今日も大勢の人で賑わうハンバーガー屋に
笑い声が充満する
油の匂いが充満する
肉を焼く匂いが充満する

神社は道を一本隔てた向かいにあった
川を背に構える暗い社殿 その前にわたしは 夏も冬も朝も夜も直立し
両腕で巨大なしめ縄を掲げ持つ
空中高くにどっしりと座すしめ縄はこの神社の顔で 悪魔を払う意味がある
町を守るために
この好きでもない町を守るために
わたしは今日も北風に打たれながら直立する
ハンバーガー屋にお株を取られ 神さまは暇で しめ縄はたいてい眠っていた
平和な町
神より偉いハンバーガー屋から 悲鳴に似た子どもの笑い声が響いてくる
しめ縄より強いハンバーガー屋から 真っ赤なバイクがサンタを乗せてミサイルのように発進する
身構えるが こっちには来ない どうせ来ない
誰も来ない
冬空に高々と聳える悪魔の看板
北風が強い
寒い、寒い、と車から出た人がハンバーガー屋に次々駆け込む
寒い、寒い、とさびしくて お腹がすいた神さまも すき間だらけの社殿から出て店に駆け込む
追いかける北風 その鼻先でドアが閉まる
杭に犬がつながれていた
社殿の正面で 私は巨大なしめ縄を掲げている
鉄の腕で 空高く 重量挙げのように掲げている
それは 悪魔を町に入れないために
北風が来た
行き場を失った北風が ハンバーガー屋の赤と緑と黄色で塗られた屋根を飛び越え 勢いを増して 神社に来た
風と一緒にカモメの一群が飛んできて 神社の裏の川の方へと飛び去っていく
ギャーギャーと汚い声で鳴いている
境内の砂が巻き上がり 立ちつくす私の 腿を汚す
北風は悲しい顔をしていた
犬が外につながれていた
肉を焼くにおいが漂ってきた
風に乗って肉が焼けるおいしそうな匂いが漂ってきた

近くで火事があった
北風が 建てつけの悪い窓のすき間から入り火をあおり 
あっという間に小さな工場が全焼した
神さまはハンバーガー屋の3階の窓から
火を 燃えて行く工場を 他の客や店員といっしょに眺めていた
肉が焼けるにおいが漂ってきた
風が来た
両足に力を入れたが
その風は疲れて 弱く 小さく 消え入りそうで 
しめ縄も気づかないまま私の股をそうっと抜け
神社の軒下に入り込んだ
小さな虫や なまけものや ネコや 捨てられた陶器の破片が
風を迎えた
風は優しい顔になった
うらやましくてならなかった

 
 

(奥戸2丁目 神社前で)

 

 

 

電車の中で眠る

 

工藤冬里

 
 

夜になると石灰化する頚骨が鳴り始める
羽に埋もれ寒さの下を潜ろうとする
指の付け根のように谷は山に食い込む
藤色とライトグリーンは永絶には似合わない筈だ
賢い人も愚かな人も、人の記憶にいつまでも残ることはない
月日がたつと誰もが忘れ去られる
住んでいた場所でも忘れ去られる
電車の中で眠る
森の中ではない
先回りの死者として電車の中で眠る
内回りも外回りもなく泥になっている
深爪のように

 

 

 

#poetry #rock musician