michio sato について

つり人です。 休みの日にはひとりで海にボートで浮かんでいます。 魚はたまに釣れますが、 糸を垂らしているのはもっとわけのわからないものを探しているのです。 ほぼ毎日、さとう三千魚の詩と毎月15日にゲストの作品を掲載します。

自由だと思い込んでおり

 

駿河昌樹

 
 

 
ここはなんと悲劇的な領域なんだろう
と少年は思った

下のこの領域にいる人々は囚人で
究極の悲劇は当人たちがそれを知らないということだ

自由になったことがないからこそ
自分たちが自由だと思い込んでおり
自由がどういう意味だか
理解していない

これは監獄なのに
それを推測できた人はほとんどいない

でもぼくは知っている

少年はつぶやいた

だってそのためにこそ
ぼくは
ここに来たのだから

壁を打ち破り
金属の門を引き倒し
それぞれの鎖を
引きちぎるために

脱穀をしている牛に
くつわをかけてはいけない

少年はトーラを思い出した

自由な生き物を収監しないこと
それを縛ってはいけない
きみたちの神たる主が
そう言っている
ぼくがそう言っている

人々は
自分がだれに仕えているか
知らない

これが
みんなの不幸の核心にある

まちがった奉仕
まちがったものに対する奉仕

まるで金属で毒されているかのように毒されているんだ

少年は思った

金属が人々を閉じ込め
そして
金属が血液にある

これは
金属の世界だ

歯車に駆動され
その機械は動き続けながら
苦悶と死を
まき散らし続ける……

みんな
あまりに死に慣れすぎて
まるで
死もまた自然だ
とでも
いうかのようだ

少年は気がついた

人々が園を知ってから
なんとも
長い時間が経ったものだ

園は
休む動物や花の場所

人々に
あの場所を再び見つけてあげられるのは
いつになるだろう? *

 
 

 
の記述の内容は
フィリップ・K・ディック『聖なる侵入』よりの
引用

それを
分かち書きにし
いくらか
自由詩形式に近づけた

ディックが後期に書いたものは
21世紀から22世紀の黙示録と目されるのに
ふさわしいことが
昨今ははっきりしてきている

 
 


 

あらずもがな
だが
引用行為をし
さらに
改変行為も加えたので
『引用の織物』の
宮川淳を
思い出しておきたくなった

「人間が意味を生産するのは無からではない。それはまさしくブリコラージュ、すでに本来の意味あるいは機能を与えられているものの引用からつねに余分の意味をつくり出すプラクシスなのだ。」
(宮川淳「引用について」)

 

 

* フィリップ・K・ディック『聖なる侵入』(山形浩生訳、ハヤカワ文庫、2015)の訳に多少変更を加えてある。

** 宮川淳 『引用の織物』(筑摩書房、1975)

 

 

 

花筏に乗る夜

 

一条美由紀

 
 


先住猫が死んだ時、寂しさのあまりすぐ新しい猫を迎えたかった。
でもマリアンネはまた野良猫からこのうちを選んでもらう方がいいと
1年余り猫のいない生活が続いた
果たしてある時、黒いソファの上に知らない猫が座っていた
しばらく様子を見て飼い主がいないと確認し、その猫はうちの飼い猫となった
近所の家の庭にいた金魚を全て掬い取り全滅させ、
ネズミや鳥をよくとってくる狩の名人だった
その猫は日本へ帰国するとき私のそばにいた
飛行機に乗り列車に乗り自動車に乗って埼玉に永住する
一緒に散歩せよと誘いにくると、私たちは必ず彼女の後ろを歩かなければならなかった
猫の歩みがのろくて少しでも前に出ようものならフーッ!と怒った
頭も良く、よくいたずらをして私たちを笑わせてくれる猫だった
今は生まれ変わってどこかでまた誰かを笑わせていたらいいな、と思う
人間は時々憎たらしいが、どうして動物はいつも愛らしいのだろう

 


瞬間瞬間の生き様が最後に開ける玉手箱の色を決めている

 


何億年前の夢を見る
自分は魚だった頃の夢
海がたったひとつ世界で
身体をくねらせて泳ぐ
泳ぐ
遺伝子の中を探ったら
自分たちの目的もわかるのだろうか

 

 

 

偶然という光風

 

藤生 すゆ葉

 
 

一、

予想の域を超えて 鈴の響きとともに
目の前に現れる

 

夜明けに始まる鳥のコーラス 
夕暮れに眠るマーガレット
綺麗な月に寄り添う澄んだ空

今という時を読み返す

 

あの日 印象的な舞台が在った

人と私 人とモノ
右 左 後ろ
自然と身体揺らし
リズム刻む 前へ

人と人と私 オレンジの空間
同じ街 となりの道を歩んできた
はじめましての 人と人

風が吹き 高揚する
光の合図で 笑いあう

虹の粒が弾けだし 拍手とともに色が満ちる

 
幾千もの点 幾千もの辻

これからへつなぐ
今というあたたかさ

創られた、
創り出した舞台

円い愛と

あなたと

 
 

二、

ある日のこと

ユニークな大先輩と
食事に行くことになった

彼の提案してくれたお店は

近くか遠く

選択を彼に委ねた

“遠く”へ行くことになり、タクシーを探した

通るタクシーはすべて乗車

こんな日もあるのかと思うくらい

 
しかし、彼がこちらを向いた瞬間

空車のタクシーが彼の背を通り過ぎた

この世は創られていると感じた

遠く後ろのほうから今を眺めているようだった

近くを選択し お店に入った

常連さんたちでにぎわっていた

歴史を感じる空間には

人の感情がコロコロ落ちていた
色とりどりの葉のようだ

お店の方に席をつくっていただき

常連さんのおとなりの席についた

彼と言葉を交わす
そして常連さんと言葉を交わす

いつの間にか3人の空間になっていた

言葉が交わされるほどに
彼と常連さんがどの時代も同じ空間にいたことが発覚する

半世紀以上たった今

やっと出会う

こんなにも早く、かもしれない

奇跡という偶然

今がこれからに願う
あたたかさ

ふわっと恩光が通り抜けたように感じた

橋が架かった

予期されていないように

今を創り出す

愛だった

 
 

三、

不思議な偶然がよく起こり、なぜそのようなことが起こるのか
辿っていたころだった
“偶然という顔をした必然”を他者を通して
垣間見るときがあった
お店を選ぶ、席につく、会話をする、
(先輩と会う前にも様々な偶然が重なるのだが)
これらの選択から起きた出会いという偶然は
なるべくして起こったようにしか
感じられなかった
次元を超えた働きがその状況をつくりだしているのであれば
なぜつくりだすのだろうか
自らが定めたストーリーなのだろうか

このような事象に遭遇すると少なからず人は
その“今”について立ち止まって考える
…ような気がする

 
あの時の光風は
きっと愛という前提のもとに生まれている
人間の意識内
人間の意識外魂内
偶然は愛の変容形、なのだろう

 

 

 

夜空 ***

 

無一物野郎の詩、乃至 無詩! 37     ryou 様へ

さとう三千魚

 
 

みあげて
しまう

いつも

見上げて
しまう

月や
木星や

金星が
いる

オリオンもいる

紫の
クレマチスが

夜空にいる
きみもいる

咲いている
夜空にいる

 

 

***memo.

2023年4月2日(日)、静岡駅北口地下広場で行ったひとりイベント、
「 無一物野郎の詩、乃至 無詩!」第十一回で作った37個めの詩です。

高橋悠治さんのインベンションとシンフォニアのピアノを聴きながら地上の木立と空を見ていました。

タイトル ”夜空”
好きな花 ”クレマチス、紫の”

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

稀人たちの止まり木で

 

小関千恵

 
 

彷徨うゆうれいだった
家を無くしたのか
またはそれを予てから持たないのか、
小さな止まり木を渡っている
そこで会う
この穴とは違う、未知の穴
この空洞とは別の象をした空洞
その空間こそ、きみの家と呼んでしまえるのかもしれない
故郷ように何度でも帰ってしまうその洞からの景色を
ほんの少し覗きあう
触れずに潜る途中で、そこから水が湧き出したなら
わたしは
その痛みを羨ましくも感じるのだった

暮らした家や故郷よりも、
郷愁を感じる絵や風景に出会ったりする
筆の動きが見えることが懐かしい
埋もれたいくらいに愛おしい
きっとただの運動だったところに生まれていた
「稀人たち」

わたしというゆうれいはいま、
過剰に伸びすぎた不毛な髪を天に掴まれぶら下がっているみたいだ
天だと感じているのは、雲かもしれない
ただ流動する小さな雲の何処かに引っかかっているだけかもしれない
宙吊りの脳を切り落とせないまま
地上から浮いた軀が揺れている
揺らしているのは
風か 心か
わたしを吊るした雲なのか
川、

きみから湧き出たあの水が川となって
足先に触れている日