Claudio Parentela
猫の気持ちは わからないという人
猫の気持ちは よくわかるという人
ボクは猫だけど ボクの気持ちは
わかるようで わからない
それはどうでもいいでしょ
ボクは生まれてこのかた 猫だから
ボクのルームメイトはレインボー
なにが楽しいのか 虹の絵と歌ばかり
恋人もいないのに 恋の歌ばかり
レインボーの気持ちは よくわからない
それはどうでもいいでしょ
ボクは生まれてこのかた 猫だから
農夫トンピナチョが 豊作のもろこしをロバに積み
千年伝えの 聖アルバンの森で
ヤブに隠れて シッコロしてると
いにしえ絶滅したとされる マヤの聖獣トビハネマヤネズミが
怒り狂って トンピナチョめがけて 跳びかかってきたのだ
「聖獣のオレさまに シッコロかけるなんて このウンチョロたれが!」
「なにいうだ!シッコロかけても ウンチョロはたれてねえだ!」
語るに落ちるとはこのこと
てんやわんや アホらしい その後の委細は省きます
(知りたい方には耳打ちします)
トビハネマヤネズミの正体は ウソかマコトか
組んずほぐれつ ほぐれつ組んず
聖アルバンの神々さえも 笑って見守るばかり
太陽なんか 膝をかかえて おねむの時間
もろこし積んだロバさえ トボトボ帰路につき
いつまでやるんだ トンピナチョ
「やってられねえ!」
トビハネマヤネズミは 我にかえって
聖アルバンの闇の彼方へ 消え去ったということだ
ヒメネスの「プラテーロとわたし」の舞台
アンダルシアのモゲールを訪ねたことがある
ポルトガルに近い ウェルバ駅からヒッチハイク
丘の上に白い宝石と 謳われた町並みがみえ
さっそく ひげたっぷりの爺さんと ロバがお出迎え
ヒメネスは快癒の日々を ここモゲールで
ロバのプラテーロとともに過ごし
詩人のことばで「プラテーロとわたし」を書いた
夢よりも 昔になってしまった
眩く光る広場から 花咲く小路を幾つも抜けて
日がな一日シエスタのような村
古い葡萄酒の酒蔵で一杯やってると
寡黙なプラテーロがウインクする
村はずれのモンテ・マヨールの丘に行った
ヒメネスとプラテーロがよく歩いた道だ
ふくろうのホーホーと啼く声を聞いた
丘をめぐって ホーホー探したが 姿は見えなかった
村の広場にもどって来ると
三角屋根の ソシラヌ移動遊園地が立っていた
塗りの剥げた さびしい回転木馬
オモチャのような観覧車が 空回りしていた
遠くから ほらホーホーという声が 聞こえてきた
そうだな もう酔うしかなかった
ホーホー ホーホー
✶ ファン・ラモン・ヒメネス作『プラテーロとわたし』理論社・初版1965年
伊藤武好、伊藤百合子訳 理論社版の長新太の挿絵がたまらなかった。
作品背景の写真はアンダルシアのフリヒリアナという町。
半島の舞姫がつま先あげて 肩で長短(チャンダン)
思い出したように ときめきの心躍りを
踊りましたね ありがとう
哀しみは 腰をおとして たひらかに
水の上から音もなく 舞いたつ
羽衣は 白いチョゴリのことだった
鹿の角生やした姉さんが
涙こらえて 頬染めている
どこから来たのか オアシスの仔象
長い鼻 ふりふり ダイジョブ ダイジョブ
✶ 長短(チャンダン) 韓国舞踊特有の調子のとり方。原マスミは「ハゴロモ」という曲で 「チョゴリよ チョゴリ わたしのハゴロモ」と歌っている。イ・チャンドンの映画「オアシス」には、壁のポスターの仔象が、ソウルの安アパートの部屋に出現する美しいシーンがある。
========================================
開廊時間:11:30am〜7:00pm(日曜日休廊 土曜日5:00pm迄)
〒107-0061 東京都港区北青山2-10-26
(地下鉄外苑前駅徒歩5分)
tel : 03-3402-9849
fax : 03-3423-8622
e-mail : galleryhousemaya@gmail.com
========================================
ここのところ絶句している。
ほとんど、
絶句している。
朝には窓を開けて西の山を見ている。
昨日の朝も、
窓を開けて西の山を見ていた。
絶句している。
6月の終わりに桑原正彦の死の知らせを聞いてから何も手につかない。
桑原とはこの疫病が終わったら神田の鶴亀でまた飲もうと思っていた。飲もうと約束もしていた。
もうあのはにかんで笑う桑原と会って話すことができない。
絶句している。
昨日の朝も、
窓を開けて西の山を見ていた。
それから松下育男さんの詩「遠賀川」と「六郷川」という詩を読んだ。
それらの詩は「コーヒーに砂糖は入れない」という今年18年ぶりに出版された松下育男さんの新しい詩集に入っていた。
それらの詩をわたしは既に読んでいてどこかわたしの川底のようなところに沈んでいたのだろう。
松下さんの詩は川底のような場所から語られた声だったろう。
そして、
窓の遠くに見えていた青緑の西の山に滝が流れ落ちるのが見えた。
幻影だった。
松下さんの詩を読んだことによる幻影だったのだと思う。
空0多摩川は下流になると六郷川と名を変えた
空0私が育ったのは六郷川のほとり
空0川は私たちの生活のすみずみを流れていた
空0日本人のふりをしていたが
空0私たちは実のところ川の人だった *
そう、松下育男さんは「六郷川」という詩で書いている。
わたしも川のほとり、雄物川という川の近くで生まれて育った。
子どものころ、
ただ、川を見に行くことがあった。
釣りをする人たちを後ろから見ていた。
夏休みには川で遊んでいた。
川に潜って川底を泳ぐ魚たちを横から見ていた。
川の人は魚の言葉がわかる人たちだろう。
声を出して話さないが魚たちにも言葉があるだろう。
西の山に真っ直ぐに落下する白い滝を見てわかったような気になった。
水は上から下に落ちるのだ。
それで川になる。
川は流れて海になる。
それからいつか海は空にひらかれる。
当たり前のことだ。そんなことが腑に落ちた気がした。
今日は日曜日だった。
雨の音がした。
朝から雨が降っていた。
西の山は灰色に霞んで頂は白い雲に隠れていた。
午後に雨はあがった。
姉から秋田こまちの新米が届いた。
高橋アキの弾く「Cheep Imitation」を聴いていた。
「Cheep Imitation」はサティの「ソクラテス」を題材としてジョン・ケージによって作曲されたという。
それはケージがサティに捧げた音たちだったろう。
そこに言葉はなかった。
そこに小さな光が見えた。
呆れてものも言えないが言わないわけにはいかないと思えてきた。
作画解説 さとう三千魚
* 松下育男 新詩集「コーヒーに砂糖は入れない」(思潮社)から引用させていただきました
10月18日から青山ギャラリーハウスMayaにて久しぶりの個展「ソシラヌ広場―アンモナイトの見た夢―」を予定しています。半立体のテラコッタを平面作品にコラージュした作品が中心となります。作品画像に短詩を添えた作品集を発行するため、現在、編集作業中です。今回の「浜風文庫」にはその中から、4点をプレミアム公開?させていただきます。さとう三千魚さん、いつもながら、ご好意ありがとうございます。作品写真撮影は上山知代子さんにお願いしました。
人生最良の日々と言っておきます
エレファンとウーサ
日の暮れるまでひたすら遊ぶ
夏のなごり やかましいな 蟬のレクイエム
コドモでも飲める 林檎のブランデー
祝杯いただきます 二杯まで
歌は空の深みに いつしか消えて
たそがれの合図は カササギの声
コドモだもの 酔えば裸になるだけさ
いっとう 飛び切りの時間
胸にひそめて さてどこに帰ろうか
✶ イヴ・ロベールの映画「わんぱく戦争」で、
小さな子供が林檎のブランデーを2杯飲んで酔っ払っていた。
赤と黄いろはお好みの色
コドモそっくり 3人さらって
ソシラヌ広場にやって来た
そこは ミハテヌ移動遊園地
赤と黄いろのガラクタ遊具
客もまばらな 閑散閑古
トロい木馬はガタピシ揺れて
気ままに停まる午後3時
遊び疲れて コドモはどこへ?
どこかで 大人になるのでしょう
ソシラヌ広場で ソラシド ウタフ
アンモナイトの見た夢は
赤と黄いろの ミハテヌ遊園地
ユカタン半島 マヤ遺跡
ウシュマル近郊 ソシラヌ村の三兄弟
ひとりは トラクァチェロ
気はやさしくて 忘れん坊のお人好し
隣の村のクロサギさんから カモにされ
ひとりは リベロテス
奔放な性格で 落ち着きないが
時に村長 時に芸人 酔っ払って時々失踪
ひとりは マルクェラス
コドモの頃から モノシリ博士 本の虫
樹上の人で 人付き合いは苦手のご様子
ユカタン半島 マヤ遺跡
ウシュマル近郊 ソシラヌ村の三兄弟
喜びも哀しみも みんな化石になっちまった
キミの手のひらに アンモナイトが棲んで
キミの足元に 仔象のエレファンがいて
キミの口もとには 可能性のエクボがあって
ここはアノソノ ソシラヌ広場
正午過ぎたら 蛇口ひねって水を飲む
異国の人に こんにちはと言えるかな
その人がやさしい顔したネパール人で
”ナマステ” って返してきたら
ネパールでは “こそばゆい” ってどう言いますかって
その人の目をみて しっかり言えるかな
✶ ネパール語で、こそばゆい=くすぐったいはGudagudī グダグジだそうです。
========================================
2021年10/18(月)〜10/30(土) 日曜休廊
11:30〜19:00 (土曜は17:00まで)
ギャラリーハウスMAYA
東京都港区北青山2-10-26 (地下鉄外苑前駅徒歩5分)
tel 03-3402-9849
========================================
ここのところ絶句している。
ほとんど、
絶句している。
ここのところ、
部屋で、
ジャズばかり聴いている。
ALBERT AYLER.
THELONIOUS MONK.
MAL WALDRON.
LES McCANN.
JUTTA HIPP.
CLIFFORD BROWN.
BUD POWELL.
JOHN COLTRANE.
今日は敗戦の日、雨の日曜日だった。
前線が停滞し西日本各地に豪雨をもたらしている。
絶句している。
6月の終わりに桑原正彦の死の知らせを聞いてから何も手につかない。
犬のモコと散歩している。
車で海を見に行く。
ジャズを部屋で聴いている。
女が刻んだサラダを馬のように食べている。
東京五輪は終わったという。
東京の感染は「制御不能」なのだという。
「医療 機能不全」
「自分で身を守る段階」
という見出しが新聞に立っている。
遠い昔のことのように思えるが現在の日本のことなのだ。
この日本という泥舟の船頭たちは操縦を誤まっているように思える。
敗戦を終戦と言い繕い高度成長という神話に酔い失われた20年を通過して時間は随分と過ぎてしまった。
この泥舟の船頭たちはもう一度、新自由主義グローバリズムの先に高度成長の夢をオリンピックでみようとしたのだったろう。
東日本大震災からの復興を世界に示すというビジョンは、
いつコロナに打ち勝つというビジョンに取り替えられたのだったか。
あきれて物も言えない。
夕方、クルマのプレーヤーに宇多田ヒカルをコピーした。
女とクルマで港町を流した。
宇多田ヒカルの「誰かの願いが叶うころ」を繰り返し聴いてクルマを流した。
曇り空の下に灰色の海は広がっていた。
海は空の色を映す。
雲の隙間から光が海面に射していた。
海は河口からの濁流でまだらに茶色く濁っていた。
「誰かの願いが叶うころ、あの子が泣いているよ」* と宇多田ヒカルは歌っていた。
「もう一度、あなたを抱きしめたい、できるだけ、そっと」* と、
歌っていた。
そこに小さな光が見えた。
呆れてものも言えないが言わないわけにはいかない。
作画解説 さとう三千魚
* 宇多田ヒカル「誰かの願いが叶うころ」から引用させていただきました
ここのところ絶句している。
ほとんど、
絶句している。
あきれて物も言えない。
夕方に、
モコと散歩して近所の黒白のノラに会う。
挨拶する。
工場の倉庫のパレットの上で、
鬱陶しそうにノラはこちらを見ている。
この暑いのに暑苦しいおじさんと家犬のチビが来たわいと思っているのだろう。
この男には夕方に犬と散歩して黒白のノラと会うのがほとんど唯一の楽しみになってしまった。
地上では東京五輪がお祭り騒ぎのようだ。
TVのチャンネルを変えてもどこもオリンピックの映像が流れている。
ニュースもこの前まではコロナ映像が多かったがいまはオリンピックが主役になってしまった。
真剣な選手の皆さんに申し訳ないですが、
オリンピックをこれほどくだらないと思ったことはなかった。
オリンピックのプレゼンテーションの際にこの国の首相がマリオになった時もくだらないと思ったが、
今回の開会式の映像も途中でTVの電源を切った。
これがクールジャパンなのか。
呆れる。
物が言えない。
東日本大震災からの復興を世界に示すというビジョンは、
コロナに打ち勝つというビジョンに取り替えられたのだったか。
日本の被災地の人々の本当の姿が発信されているわけでもないし被災地の復興の現在が発信されているわけでもない。
日本はウイルスに打ち勝ってもいない。
嘘だった。
愚劣だった。
腐った意味を盛りだくさんに盛っていた。
女性蔑視発言でオリンピック組織委員会の会長を辞任した森元総理大臣を「名誉最高顧問」にするということが、
組織委員会と政府の間で水面下に進んでいるのだという。
日本はもう終わっているのだろうか?
日本の子どもたちはこの腐った政治家や大人たちをどのように見るだろうか?
体操の内村航選手が鉄棒から落下する映像とその後のインタビューの映像を朝のTVニュースで見た。
美しかった。
自分に失望しながらこの世界の地上に佇っているひとりの男がそこにいた。
そこに小さな光が見えた。
今日も、
夕方には犬のモコと散歩した。
近所の黒白のノラとあった。
ノラはこちらを鬱陶しそうに睨んだがわたし笑ってノラに挨拶した。
呆れてものも言えないが言わないわけにはいかない。
作画解説 さとう三千魚