人とそのお椀 extra

 

山岡さ希子

 
 

 

この作品には番号はない。額装された1枚。

数字とその感情について。

「描いた人」、「所有する人」という「2」がここにある。作品のシリーズは、当初28枚シリーズで描かれた。それは、お遍路などで数えられている7の4倍として。だが、それは1997年のことで、1997年の展示の際に、失ったり、破れたりしたので、今は22枚。実物としては存在しないコンセプトとしての28、は残る。
2018年、所有する人は、その中から11枚を選んだ。そして、その次の月から、所有する人のwebsiteで、ひと月に1枚ずつ絵が紹介され、そこに、絵を描いた人の110文字の文章が載せられることとなった。

しばらくして、作品を飾るために、1つの額を制作しようということになった。描いた人は、手元に残ったそのシリーズの中から1枚を選び、額装した。描いた人は、その1枚を、所有する人へのサプライズギフトにしようと考えた。仕上がって、それは所有する人に送られた。所有する人は喜んだ。そしてその1枚は、所有する人の元で、めでたく12枚目になるのだと、描いた人は思っていた。ところが、所有する人は、額装は希望していたが、その1枚には戸惑っていた。

そして、所有者は、それは12枚目ではないと言う。12枚目、という考えは存在せず、11で完結だと。11枚の絵に11の文を組み合わせるという、所有する人のコンセプトがあったのだ。そのことに、描いた人は気がついていなかった。それで、もう1枚、調子良く送ってしまった。
宙ぶらりんになった1枚の絵。所有場所は移ったけれど、その作品のコンセプトは、描いた人のもとに差し戻された。

そして、そもそもの28枚の絵には、文を付けるというコンセプトはなかったのだから、描いた人の手元に残った10枚の絵がそうであるように、このextraにも、文はいらない。つまり、論理的には、絵と文の紹介は11回で終わって良い、ということになる。

だが、描いた人は、この絵が不憫に思えた。絵が、「描いた人」「所有する人」両者の目論見のズレの「板挟み」とは、ジョークと言えばジョーク。絵は、額の中で、ガラスと板の間にぴちっと挟まっている。しかし、意外に、嬉しそうにしている。

代案として、「絵」とその文は、なんにしろ、紹介はするということになった。そんな経緯で、この、これまでの字数110の決まりを捨てた、体裁のない、だらりとした悪文が、ぶらりと、ずるりと書かれたというわけだ。詩人に送るには、全く相応しくない。

せめて、手足を伸ばして、くつろぐ。

 

 

 

凍蝶に 春の陽ヒラリ 舞い射して

 

一条美由紀

 
 


いい子を装う笑みはデフォルト設定
無防備に見せることが可愛がられるコツ
目的の本当の意味はわからない

仮面を何枚も付けた他人と手を繋いで
同じ列車に乗りたいな
そうしたら傷つかない
そうしたら明日は見なくていい

霞のかかった土地に到着し
美味しい何かを食べたいの
誰かがおかしなことを言ったら
みんなで笑うの 
楽しいだけの毎日、そんな幸せが欲しいの

 


最近、余計なものが付いている
他人に1個あげたら、2個になって帰ってきた
今は、こいつらが私を余計だと言ってくる

 


遥か遠くに生まれ この地を愛した
誰かを愛し 誰かを傷つけ そしてすべて許された
漂い 一つになり あなたを待ってる

 

 

 

あきれて物も言えない 08

 

ピコ・大東洋ミランドラ

 
 


作画 ピコ・大東洋ミランドラ画伯

 
 

やらなければならないことを置いて

 

ここのところ滅入っている。

そんなことを書くと幸せな方々の気分を悪くさせてしまうようで、
申し訳ない気分です。

どうして気が滅入るのだろう。

人には言えないような理由はいくつかあるのだがこの滅入ってくるという気分は、
わたしの平常心なのかもしれないとも思う。

この男、あまり面白くない奴なんですよね。

一昨日は、
やらなければならない事を置いて犬のモコと海を見にいった。

今日は、
やらなければならない事を置いて、
モコと居間のソファーで横になっている。

洗濯をする。

部屋の掃除をする。

トイレも綺麗する。

草をむしる。

玄関の絵を掛けかえる。

野菜と肉の煮物を作る。

水曜文庫に遊びに行き本を買ってしまう。

モコと散歩する。

そんなことでやらなければならないことから逃避している。

一昨年だったか、
東京からここに引っ越してきたが、
本の山をやっと二階の部屋に押し込んだのが去年だった。

それで下の部屋の襖が開かなくなったと女に小言をもらった。

だいたい、
本というものを売ることも捨てることもできない。

それでも本は買ってきてしまう。

本や詩集を送っていただいても、
なかなか読みすすむことができない。

お礼状も書かなければならないができていないものがたくさんある。
申し訳なく思っている。

だんだんと気が滅入ってきて身動きができなくなってしまう。
やらなけれならないことを置いている。

やらなければならないことは、
誰かと約束したことではないがやらなければならないと自分で自分に約束したことなのだった。

挨拶とか礼とかがある。
やらなけれならないことを置いているとやがて淋しい心細い場所にいることになる。

そんなことを考えているとよけいに気が滅入ってくる。

今朝も、
早く起きて、義母の仏壇に、お水とお茶とご飯をあげて線香をたてた。
それからモコと仏壇に手をあわせた。
義母のこと、母のこと、義兄のこと、
女とモコのこと、子どもたちのこと、秋田の姉と兄のこと、志郎康さんのこと、友人たちのこと、などなど、
みんなのことを祈った。

それから味噌汁を作った。

女の弁当とサラダも作った。
朝ごはんを食べた。
洗濯機を動かした。
洗濯物を干した。
浜風文庫にひさしぶりの志郎康さんの詩をアップした。
それでいまこれを書いている。

いまは、やらなければならないことを置いて、全部、置いて、詩を書きたいですね。
詩といっても詩とは別れて詩ではない詩を書きたいですね。

その後で、モコと浜辺に行きたいな。

あきれて物も言えません。
あきれて物も言えません。

 

作画解説 さとう三千魚

 

 

 

人とそのお椀 11

 

山岡さ希子

 
 

 

お椀を前方 床に置き その中を 右手人差し指で 突っ張るように 指差す 他の指は硬く丸めている 左腕 脇をしめ 肘を曲げ 親指が長く 斜め上外 天を指す 他の指はやはり硬く丸めている 
中腰 両膝を付き 踵は上むき バランス悪く 足は太く 体は前傾 頭はやや傾げ

 
 
 

雪折れの 響きや透きて 過疎の村

 

一条美由紀

 
 


背中に翼はなく、風に乗る声もない
だが、土に還る約束はある

 


3歩あるき、そして転べ。
5歩走ったら、居眠りしろ。

 


夕日が身体に染み込むと、記憶は穏やかになる。
いつも座っていたソファにあなたの影が見える。
私は承諾を求め、あなたは無言で答える。

 

 

 

あきれて物も言えない 07

 

ピコ・大東洋ミランドラ

 
 


作画 ピコ・大東洋ミランドラ画伯

 
 

去年の今日、だった

 

義母が入院したのは、去年の今日だった。
もう、一年が過ぎてしまった。

心不全と腎臓の機能低下のため義母の足は象の足のように浮腫んでしまっていた。
それで入院して強い薬を使って浮腫を抑えることになったのだった。
入院してすぐに薬を投入すると浮腫は驚くほど解消されたのだったがあの日、義母の意識は混濁してしまった。

大病院の五階の病室のベッドには虚ろな表情の義母がいた。

それから一ヶ月間、義母は入院した。
毎日、女とわたしは病院に見舞った。
混濁した意識は、まだらに回復して、家に帰りたがる義母を、
担当医に相談して在宅医療の医師、介護施設と連携してから、退院させた。
退院時に担当医から余命は約一ヶ月と言われた。

退院の日、義母を車に乗せて、すぐに家には帰らずに、
病院から出て、港町の風光のなかをドライブして、浜辺まで行き、義母に海を見せた。
最後のドライブだった。

空は、よく晴れていて、海は、キラキラ、光っていた。

退院した義母には、いちごやメロン、マグロ、牛肉や、和菓子など、好きなものを食べさせた。
美味しそうに、義母は、たくさん、食べてくれた。
犬のモコも、義母の帰りを喜んでベッドにあがって義母の顔を舐めていた。

しかし、担当医の言った通り、心臓はもたなかった。
義母は退院して一ヶ月で逝った。
もうすぐ、一年になる。

 

話は変わるが、
悲報だった。

12月4日、
アフガニスタンで活動している中村哲医師が銃撃されたというニュースだった。

翌日の新聞で中村哲医師が亡くなったことを知った。
アフガニスタン東部ジャララバードで12月4日朝、銃撃され、死亡した。

中村哲医師の活動については、かつてNHKのドキュメンタリーを見て知っていた。
ドキュメンタリーでは中村哲医師がアフガニスタンでユンボを運転して現地の人々と灌漑用水路建設に従事している映像を見た。
医師とは思えない姿だった。
映像の中で「100の診療所よりも1本の用水路」ということを語っていた。
現地に居て現地の人々の惨状を知り尽くして語った言葉だろう。
砂漠に水があれば、清潔になり、病気を予防し、食うものも作れるから、
アフガニスタンの人々には何よりも井戸と用水路が必要なのだということだったろう。
畑で食うものさえ作れれば、男たちがタリバーンやイスラム国の傭兵として金を稼がなくて済むということだったろう。

その中村哲医師が、運転手や警備員5人とともに銃撃され殺されてしまった。

タリバーンの幹部は事件後に犯行を否定する声明を出したのだという。
中村哲医師を殺害してアフガニスタンの人々にはどのようなメリットがあるというのだろう。
ジャララバードでは4日夜に中村哲医師の追悼集会が開かれたのだと12月5日朝日新聞の夕刊には書かれている。

「中村さんは懸命に働き、砂漠を天国の庭のように変えてくれた」
「あなたはアフガン人として生き、アフガン人として死んだ」

現地NGOメンバーたちの言葉だ。

人はいつか死ぬだろう。
誰にも平等に死はやってくるだろう。
身近な人々、友人、見知らぬ人、われわれ自身に、死は、訪れるだろう。

アフガニスタンで銃弾に倒れた中村哲医師のような人もいれば、
金髪の米国大統領の傍でニヤニヤしているこの国の首相は、日本ではお仲間を集めてお花見をしているわけなのだ。

この国で、よくも暴動が起こらないものだと思う。
この国の若者たちはおとなしく飼いならされた羊のようだ。
深く深く絶望しているのだろうか?

この世界を分断は覆いつつある。

あきれて物も言えません。
あきれて物も言えません。

 

作画解説 さとう三千魚

 

 

 

人とそのお椀 10

 

山岡さ希子

 
 

 

頭上に器を乗せ 両手でしっかり支えている さらに 正座を少し崩し 体をひねって 右後ろの方を見ている 優雅で自然に見えるが 奇妙だ 頭に容器などを載せるのは それがある程度 重く そして 運ぶため しかし そのつもりはない 
絵画か写真向けのポーズかも

 
 
 

朽ち船に 揺れて見上げる 冬銀河

 

一条美由紀

 
 


大事なことを伝えようとすればするほど言葉は軽くなっていく
そしてウソは上手く言わないと叱られる

 


ここは私の隠れ場所
波の如く引いたり満ちたりする意識の中で
同じ言葉を持つ誰かを待っている。

 


破壊と創造はガラクタな僕たちができること

 

 

 

あきれて物も言えない 06

 

ピコ・大東洋ミランドラ

 
 


作画 ピコ・大東洋ミランドラ画伯

 
 

竿を出してみた

 

先週の金曜日だったか、
竿を出してみた。

竿を出すのは、二年ぶりくらいだろうか?

以前に通った海浜公園の下にある釣場で竿を出してみたんだ。
ここでは黒鯛を釣ったことがある。
メジナもたくさん釣った。
大きなボラも釣れたことがあった。
ボラは釣れると横に走って引きが楽しいが釣場が荒れるので釣仲間には嫌がられてしまう。やっとタモですくいあげても直ぐにリリースする。

この釣場では、以前、ひとりの漁師のじいさんが釣りをしているのを見かけた。

じいさんは、いつも、グレーの作業服とズボン、グレーの作業帽子で無精髭を生やしていた。
釣り人は道具にこだわる人が多くいる。
とんでもなく高価な竿や道具だったりする。
でも、そのじいさんは延べ竿一本で、タモも持たずに、撒餌もしなかった。
自作の浮子を浮かべ、餌は練餌だけで、メジナを狙っていた。
たくさん釣れるわけでもなく、シンプルな仕掛けだけで、メジナを狙っていた。

まわりにはメジナを釣ろうと釣り人たちが撒餌を散々に撒いて釣りをしているのだ。
その隣りでそんな単純な仕掛けでメジナが釣れるわけがないのだ。
だけど、そのじいさんは、いつも、そんな仕掛けで、メジナを狙っていたんだ。

いつだったか、
じいさんは赤灯台の突堤で釣りをしていて海に落ちて死んだと、
他の釣り人から聞いた。

じいさんはもう釣りをしていないのだ。

さて、そんなことを思い出しながら、竿を出してみたのだ。
じいさんの真似をして、浮子と練餌だけで狙ってみた。
金曜日に竿を出すというのは、
人がいない時に狙った方が撒餌もなく魚も空腹になっていて釣れると思えるからだ。
金曜日の午前に釣りをしている者はほとんどいない。

しかし、海は荒れている。
波は荒く、浮子が上下して、釣りにならない。
ほんとは海中で餌を安定させなきゃいけない。
餌が波の上下で不自然に動いたら魚だって食ってくれないだろう。

荒れた海を見ながら何度か竿を出してみる。
浮子がどんどん波に流されてしまう。
浮子が波間に揺れるのを楽しみながら目で追うのは味わいがある。
波は一つとして同じではなくその波の中を浮子が流されていくのを見るのは楽しい。
やはり今日は釣れないと思う。
それでも竿を出すのは楽しい。
そこに海があり、波があり、テトラポットがあり、その中に、風に晒されて名前のない釣り人がいる。

今朝の新聞で、大阪豊中市のアパートで、孤独死した独居老人の記事を読んだ。
その老人は奄美群島の加計呂麻島の出身で、金の卵として集団就職で関西にやってきたのだという。
はじめに船会社で船員になり、それから阪急梅田駅近くのパチンコ店で住み込みで働き、店が潰れたあと、土木仕事で転々としたそうだ。
60年代後半は大阪万博に向けた工事の仕事があったのだったろう。
万博が終わった後には、釜ヶ崎などには吹き溜まりのように労働者たちが流れ着いたのだろう。

このように孤独死して死後2日以上経過して発見された独居老人は2011年には2万7千人いたのだと民間調査機関の数値を新聞記事は示していた。

戦後、石炭から石油へのエネルギー転換があり、大阪万博があり、急速な工業化があり、原発推進もあった。
国策だった。
官僚がこしらえた政策だった。
その国策の流れの中に日本があった。
日本の都市も、農村も、漁村もあった。
その国策の中に、金の卵たちや出稼ぎ労働者たち、炭鉱労働者たち、満州引揚者たち、在日の人たちもいて、農村の崩壊と離農があり、水俣があり、原発推進も、安保闘争も、三里塚闘争も、あったのだろう。

いま、日本の明治以降を振り返る時に、はっきりと見えることがある。
大きな国策という流れの中で最底辺の者たちが最後の最後まで利用されて使い捨てられているということだ。
いまや外国人労働者たちもその最底辺に組み込まれようとしているわけだろう。
国策という流れはいまも変わっていないと思える。
アベノミクスという強者たちに都合の良い政策が国策として進められているように思える。

もう一度、海を見ていた。
荒れた海の波間に浮子は激しく上下して漂っていた。

あきれて物も言えません。
あきれて物も言えません。

 

作画解説 さとう三千魚

 

 

 

人とそのお椀 09

 

山岡さ希子

 
 

 

捧げ持つ 大きく深めのお椀 両手で しっかり支えている 指が太い  
椀のなかのものは暖かい酒のように見える 指をしっかり当てて胸に近づけて暖を取っているようだから そして 飲むつもり 
膝をつき 中腰 足は揃え 踵と足の裏は体の後ろで 空に向いている