Claudio Parentela
2013年に上野の東京国立博物館で開催された展覧会、
「飛騨の円空 千光寺とその周辺の足跡」特別展のカタログだ。
2013年、
まだ寒い1月だったか2月だったか、
たしか仕事を休んで見にいったのだったか。
東日本大震災から2年が過ぎようとしている頃だった。
円空は長鉈(ながなた)一本で木っ端に仏像を彫ったのだという。
飛騨高山だけでなく、東北や北海道までも歩いて行き、仏法を説き、仏像を彫ったのだという。
全国各地で生涯、12万体もの仏像を彫ったのだという。
オン バサラ タラマ キリク
オン バサラ タラマ キリク
オン バサラ タラマ キリク
円空は真言を唱えながら長鉈を振るったのだという。 *
両面宿儺坐像
金剛力士仁王立像、
菩薩、
観音、
釈迦如来、
弁財天、
不動明王、烏天狗、
柿本人麿、
それぞれの像がどれもぼんやりと微笑んでいて、やさしい。
しかも、微笑んでいるだけで、語ろうとはしていないようだ。
百姓や町人や山人、漁夫、流浪の人たち、
それら地上の人たちの幸を祈っているのだろう。
当時でも、絵描や歌人、音楽家は、支配階級の庇護のもと生きていたのだろうが、
円空や円空仏はどうだっただろうか?
百姓や町人、山人、漁夫、流浪の人たちなど底辺の人たちに円空は大切にされたのではないだろうかと、
その木像のお顔を見ていると思える。
円空仏の(十一面観音菩薩立像など)お顔や体の全面に木の木目が縦に現れてあり、そこには地平に対する垂直の願いであるようにも思えてくる。
金剛力士仁王立像吽形は、円空が生きた立木に梯子を掛けて彫ったものとされ、木の枝の付け根が虚(うろ)となっていて、
その虚が背中側になっていて、凄まじい生の現れと思えてくる。
円空の釈迦如来も阿弥陀如来も薬師如来も、みんな目を瞑っている。
半眼と言うのだろうか。
十一面観音菩薩立像は少女のようだ。
胸元で手を合わせて目を瞑り木目のなかで祈っている。
他者の幸を祈るカタチなのだろうと思える。
今朝の朝刊を見ると、
コロナウィルスが再び猛威を振るっているという。
第三波なのか。
冬を迎えて、欧州やアメリカ、日本でも、感染者が増え、重症患者の増加に伴い医療現場が逼迫しつつあるのだという。
東日本大震災の時もそうだったが、
コロナの現在も円空仏たちは目を瞑り祈っているだろうと思えてくる。
コロナでわかったことがある。
コロナの分断と移動の禁止でわかったことがある。
ヒトは他のヒトと肌を触れて生きてきたということだ。
ヒトは他のヒトと肌を触れて、息を交換し、体液と血を交換し、生き延びてきたのだったろう。
それらの交換がコロナウィルスの侵攻で禁止されてしまった。
ヒトは、詩や音楽や舞踏やアートは、やがてそこ、交換の場所に帰っていくだろう。
木目のなかに静まり、目を瞑り、円空の木っ端の仏像とともにわたしたちはこの世の疫病の退散を願わずにいられない。
地平には、まだたくさんの生きたヒトたちが残されている。
呆れてものが言えません。
ほとんど言葉がありません。
*「飛騨の円空 千光寺とその周辺の足跡」特別展カタログ掲載 千光寺住職 大下大圓氏のテキスト「祈念 〜木っ端に込めた鎮魂と救済〜」を参照しました。
作画解説 さとう三千魚
もうすぐ朝になるのだろう。
Philip Glassの”Dead Things”というピアノ曲を聴いている。
なんども聴いている。
死んだ物たち、
という曲。
死んだ物たちを思うのは、生きているヒトだろう。
生きているヒトは死んだ物たちを思い、語りかけるだろう。
そこに”橋”がある。
昨日の昼には、
静岡市に開店したHiBARI BOOKS & COFFEEという新刊書店に行き、
おいしいコーヒーを飲んだ。
それからお店の奥で開催されている多々良栄里さんの写真展「文と詩」を見た。
多々良栄里さんの写真にはヒトがいた。
そこにはヒトがいた。
懐かしいヒトたちだった。
懐かしいヒトたちの前で言葉は慎まなければならない。
懐かしいヒトたちは、わたしたちの中にいるヒトたちだろう。
わたしたちの肉体の、血となり、肉となり骨となったヒトたちだろう。
多々良栄里さんの写真には懐かしいヒトたちがいた。
その懐かしいヒトたちはこちらを無言で見つめていた。
昨日の朝日新聞の朝刊一面に「処理水 海洋放出へ調整」と見出しがあった。 *
副題に「関係閣僚会議で月内にも決定」とあった。
福島第一原発で溶け落ちた核燃料を冷やした汚染水を多核種除去装置(ALPS)で処理した処理済み汚染水が福島第一原発の敷地内のタンクにすでに120万トン溜まっていて2022年には満杯になるのだという。
その汚染水をもう一度、多核種除去装置(ALPS)で処理し、トリチウム以外の放射性物質の濃度を法令の基準値以下まで下げ、トリチウムは海水で薄めて海洋に放出するのだという。
安倍総理の政策を継承すると宣言した菅新総理は政策をスピーディに決定するのだというが、
新総理の「福島第一原発 汚染水処理」政策のスピーディを世界は認めないだろう。
わたしたちは経済優先で進められた世界の近代化の行き止まりにきているいるように思える。
この秋にわたしは新幹線で福島を通り故郷に帰省してきた。
わたしたちの肉体の、血となり、肉となり、骨となったヒトたちや物たちが、叫び声をあげているのが聴こえる。
わたしたちの世界は人間だけのものではなく、たくさんの動物や植物、微生物の生きる世界なのだったはずだ。
たくさんの動物や植物、微生物や死んだ物たち死んだヒトたちでわたしたちの身体は日々に生成されているはずだ。
核廃棄物の問題もコロナの問題も温暖化の問題も、人間を原因とした問題なのだ。
経済優先でスピーディに決定される新政策は人間だけでなく世界の動物や植物、微生物にも影響を与えるだろう。
それらがやがて全て、われわれ自身の生存に帰結するのだろう。
“Dead Things”というピアノ曲を聴いている。
懐かしいヒトたちの声を、いま、もう一度、耳を澄まして聴く時間を持ちたい。
この世界にとって取り返しのつかない事がこの日本から起こりつつあるように思える。呆れてものも言えないが、言わないわけにはいかない。
* 2020年10月17日 朝日新聞 朝刊
作画解説 さとう三千魚
もう朝なのかな。
西の山が青緑に空に浮かんでいる。
夜中に目覚めて、工藤冬里(Maher Shalal Hash Baz)の”L’Autre Cap”というCDを聴いていた。
“L’Autre Cap”
“その他の岬”ということなのかな。
このCDには工藤冬里がマヘル・シャラル・ハシュ・バズとしてアメリカのオリンピアのキャルヴィン・ジョンソン主宰のKレコーズのスタジオで2007年に録音した27曲が入っている。
“Suspended Season” “Portland Town” “Kamakura” “How Long Will You Forget Me?” “Misaki” “Eve, Mary, And Juliett” ” Moving Without Ark “などなど、
生々しく滴る生命の音がある。
その”Misaki”からは、中原中也の北の海が見えるのだろう。
北の海には灰色の浪ばかりが見えるだろう。
“Suspended Season”は”吊り下げられ延期された季節”とでもいうのだろうか?
2,000年以降の現在まで続く新自由主義グローバリズムが浸透しきった世界に生きるわたしたちの生に反響する叫びをこの曲は持っているだろう。
吊り下げられて人々は生きている。
そう、思える現在です。
そう思える現在が20年も続いていると思えます。
10月からは「GO TO トラベル」の東京発着が許可されるということです。
それは希望となるでしょうか?
われわれはわれわれの地獄に薄皮を掛けて見えないようにすることを希望と認めるでしょうか?
かつて「保育園落ちた、日本死ね!」という主婦の言葉がありました。
その言葉をブログに書き込んだ主婦もまたこの薄皮に覆われた世界を生きていることでしょう。
2020年9月16日に、菅内閣が発足しました。
秋田県南部出身の誠実な方だそうです。
安倍政権の政策を「継承」される方だそうです。
菅内閣発足直後の支持率が65%だそうです。
「行政改革」も「デジタル」もおそらくは日本を覆うための薄皮でありましょう。
もう朝になりました。
西の山が青緑に青空に浮かんでいます。
西の山は幻影のように青空に大きく浮かんでいます。
いまは、工藤冬里の “How Long Will You Forget Me?” という曲を聴いています。
あなたはどれくらいまでわたしを忘れているの?
工藤冬里の歌う声は痛切です。
それは幻影でしょうか?
あきれて物も言えません。
作画解説 さとう三千魚
Maher Shalal Hash Baz / L’autre Cap (2CD)
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