佐々木 眞
不二
それゆけポエム
ぼくらを、一陣のそよ風に乗せて
それゆけポエム
喜びも悲しみも、まるごと包んで
それゆけポエム
あの青い空、白い雲の果てまでも
ぼくが歩く
ぼくが走る
すると、そのあとがポエムになる
ぼくが笑う
ぼくが泣く
それがポエムなんだ
ぼくが叫ぶ
カワカワノムク、カワカワノコウチャン、ケンチャン、ミエコサン
それがポエムさ
ぼくが食べる
ぼくがウンコする
それがポエムやねん
ぼくはポエムだ
ポエムはぼくだ
それゆけポエム
大胆に大胆に、どこどこまでも進んで行け
それゆけポエム
この星の人々が、見たことも無い、遠い遠い所まで
それゆけポエム
悠久の天地を、いついつまでもさすらいながら
―2020年1月15日は私にとって特別な日となった。長らく療養中の鈴木志郎康さんが、およそ1年半ぶりに詩を発表されたからだ。「詩」と題されたとても短い詩だが、その最後に「それゆけ、ポエム。」というリフレインがあって、寝床に縛り付けられてはいない自分が、かえってとても励まされたような気がしたのである。この拙い詩は、そんな高揚した気分の「落とし前」として生まれました。
第1景
俺様は宇宙から来た植松だ。
こいつはしゃべれるのか?
「しゃべれません」
こんな野郎生きている価値がない。
第2景
あいつは殺さないとな。
「しゃべれます」
しゃべれないじゃん。
「しゃべれます、しゃべれます、みんなしゃべれます」
ん。しゃべれないじゃん。
こいつら生きていてもしょうがない。
第3景
俺様は宇宙から来た植松だ。
「やめてください。どうしてこんなことするの」
こいつら生きていてもしょうがない。
第4景
『聖おにいさん、もしあなたにしゃべれない子供がいたら、それでも殺しますか?』
―この詩の会話は「津久井やまゆり事件」公判についての報道記事から引用し、第4景は中村光「聖☆おにいんさん」を参考にしました。
モーセはヨルダン川の向こう、東側に3つの町を取り分けた。
それは以前から憎んでいたのでもないのに、
誤って隣人を殺した者をそこに逃がすためである。
そのような者は、
そのいずれかの町に逃れて、
生き延びることができる。*
さあ行こう!
いつかどこかで、どんなにかして、人を殺した覚えのあるものは、
乳と蜜の流れる、うましこの町、逃れの町へ。
見よ、人よ。野の鳥よ。滑川のウナゴロウよ。
この国は、地球は、もう終わりだ。
この国に生きる人も、自然も社会も、もう終わってしまった。
なにもかもが行き詰まり、万策尽きたにもかかわらず、
それを最初に口に出すのが恐ろしいので、
「万事休す!」と告白しない。
さあ行こう!
悪と汚れに塗れ、腐敗し堕落しきったこの国を限りなく疎ましく思うものは、
黄金も武器も無い、この永世中立の郷へ
ふと辺りを見回せば、幼馴染のノブイッチャンも、ヒトハルチャンも、
タカヤマコウヘイ君も、タカギのケンチャンも、
ヒョウタンでナマズを、のんびり釣っているではないか。
さあ行こう!
いつかどこかで、どんなにかして、人を殺した覚えのあるものは、
乳と蜜の流れる、うましこの町、逃れの町へ。
*旧約聖書「申命記」4章41-42節。2018年聖書協会共同訳による。
私は公園の隅っこにある砂場の砂の上に、小さな旗を立てた。
青い色をしたその旗は、ハタハタハタハタ、しばらく風に鳴っていた。
それが、まるで私が生きているあかしであるかのように。
夕方、私がまた公園を訪れると、あの小さな旗は、まだそこに立っていた。
あの綺麗な青は暗くて見えないが、
まるで私の墓標のように、少し傾いて。
ふと思い立って、
ときどき砂の上に小さな旗を立てること。
それが、私のささやかな祝祭だ。