昨日
四谷の駅で
壁を見た
壁には
水の沁みて
流れた
跡があった
お茶の水の駅では
クレーン車が佇っていた
アマリリスの
花が
萎れているのを
facebookで見た
ありのままを見よといった
地上には
人々がいた
雨が降っていた
昨日
四谷の駅で
壁を見た
壁には
水の沁みて
流れた
跡があった
お茶の水の駅では
クレーン車が佇っていた
アマリリスの
花が
萎れているのを
facebookで見た
ありのままを見よといった
地上には
人々がいた
雨が降っていた
本を
ひらいた
ぺらりと
ひらいた
でんきの本も
ぺらりとひらきたいと言った
でんきのカメラで
きみの笑顔を
モコの寝顔も
水のなかの他者の記憶も
瘤鯛の夢も
でんきのカメラで撮る
原子力発電所と
ブロッコリーも
風が強い
風が強かった
同時に注文したんだけど、
断裁機だけはちょっと遅れた。
それでもスキャナーは使ってみたい。
まあ、それが人情だよね。
そこで切らずに読み取れるもの、
ということで、年賀状を読み取ってみた。
裏表を同時に読み取ってくれるし、
紙が重なって入っていくということはまずない。
一枚ずつ次々に吸い込んでいって、
それがまともな画像になっている。
とにかくすごいスピード。
フラットスキャナーで一枚ずつ取り込んでいたのが
馬鹿みたいに思える。
買うまでは知らなかったけど、
スキャナーは画像ファイルではなく、
PDFという形式の電子ブックを直接作ってくれる。
大量の画像ファイルを作って、
それを電子ブックにまとめるわけではないのだ。
(そうすることもできるけど、する理由がない)
だから電子ブックは思ったよりも簡単に作れることがわかった。
しかも、できあがった電子ブックでは、
年賀状の裏と表を同時に見られる。
間違っても紙のままではできないことだ。
なかなかいいじゃないか。
*
年賀状は三年分読み取った。
読み取っていないものはまだ何年分もある。
でも、やっぱり本をやってみたい。
断裁機が来ていないので大々的にはできないけど、
ゴムマットとカッター、スケールはある。
ちょうどいいんじゃないかと思うものはあった。
『フライデー』の増刊、「福島第一原発「放射能の恐怖」全記録」というやつ。
本棚に立っていられないので、
今は積み上がっている本の山の下の方に埋もれている。
ときどきは見てみたいと思うけど、
紙のままだとちょっと不便な感じがする。
それに、カッターで切れる程度に薄いし、
綴じ目まで写真が広がっているので、
断裁機ではちょっと切れない。
断裁機だとかならず捨てる部分が出るので、
写真がずたずたになってしまう。
そういうわけで本の山の下の方から
「福島第一原発「放射能の恐怖」全記録」
を引っ張り出して、
雑誌を綴じている留め金を外した。
ゴムマットの上に紙の束を置き、
スケールを当てて、
折れ目のところをカッターで何度も切った。
思ったよりも早く二つに分かれた。
バラバラになったので、
たとえば手に持っているときに落としたら大変だ。
前後がわからなくなってしまう。
ページにノンブルが付いていて本当によかった。
紙の束を揃えてスキャナーにセットする。
年賀状よりもくたっとしていて、
波打ってもいる紙だが、
スキャナーは一枚ずつ吸い込んでいった。
*
できあがったPDFは、でも何か少し変だった。
元の紙の雑誌と比べて、何かが足りない感じがする。
写真ページを見て、理由がわかった。
もともとの雑誌では、一枚の写真が見開き二ページになっていたのだ。
一枚の写真を半分ずつしか見られないのなら、
電子本なんてダメだろう。
で、ちょっとネットで調べてみたら見開き二ページで表示できることがわかった。
個別の電子ブックごとに設定することもできるし、
電子ブックリーダー全体ですべての電子ブックを対象として設定することもできる。
で、やってみると確かに見開き二ページで表示された。
左に偶数ページ、右に奇数ページが並んでいる。
写真は見開きの左端から右端に続いている。
うーむ。
電子ブックを作るAdobe Acrobatはアメリカ製だから、
横書きの本に合わせて左綴じのつもりで見開きを作っている。
しかし、縦書きの本は右綴じでなければならない。
で、またちょっとネットで調べて右綴じにする方法を見つけた。
「文書のプロパティ」の「詳細設定」の「読み上げオプション」というところで
「綴じ方」を「左」から「右」にすればいい。
でも「読み上げオプション」なんて言われてもねえ。
自力ではわからなかったわけだ。
これで見開きページが正しく並ぶようになった。
目が覚めるようだ。
見開きの写真には迫力がある。
と言っても写っているのは、3・11のあとの津波に破壊された福島の海岸線だから、
きれいに見えるようになったとはしゃいでいては、被災した人たちに申し訳ないな、
と思った。
*
以前から、PDFはスクロールすべきものではないとは思っていた。
翻訳の仕事では、画面左半分に原書PDFを開いて、
右半分で訳文を書いてきたのだ。
それ以前は紙の原書を見ながら画面に訳文を打ち込んでいたけど、
本は簡単にバタンと閉じるし、視線を大きく動かさなければならない。
かならずしも満足してはいなかった。
試しに編集部が本といっしょに渡してくれたPDFを使ってみたら、
PDFの一ページには紙の本の一ページと同じだけの情報が載っているし、
紙の本を使っていたときの不都合はないし、
意外と便利だなと思った。
そのうち、紙はなくていいのでPDFをくださいとまで言うようになった。
最初はPDFもスクロールしていたけど、
PDFのページには余白があり、
ページとページの間には二つ分の余白が入るわけだから、
ページをまたぐ部分はあまり読みやすいものではない。
それで、いつも一ページ全体が表示されるモードを使うようになった。
矢印キーを押すと、スクロールせずに次のページ、前のページがぱっぱと表示さ
れる。
ページがふらふら動かないところがいい。
しかも、このモードはツールバーのアイコンをぽちっとするだけで設定できる。
見開き表示にはそういうボタンはないのだ。
もっとも、
私が翻訳するような本では見開き表示の図面などというものはなかったので、
一ページ全体が表示されれば満足できていた。
見開き表示のことなど知りもしなかった。
しかし、大きな写真で見開き表示の効果を知ってしまうと、
文字だけのページでも見開きにするとなんとなく安心する。
それは、紙の本と同じだけの情報が目に入るからなのかもしれない。
本を読んでいる大部分のとき、
注視しているのは一文字かその前後の数文字だけなのかもしれないけど、
少し前に戻って話を確かめたり、
次の見出しの位置を覗いてみたりすることもときどきはある。
そういったことがスムースにできないと、
読みづらいと感じてしまうのだろう。
要するに紙の本と比較して足りない部分があれば、
電子ブックなんていらないということになるのだ。
*
断裁機はそれから一週間ほどしてやっと到着した。
Amazonの紹介ページに十八キロあると書かれていただけのことはあって、
宅配の人に渡されたらやたらと重い。
ごめんなさい、重いの運ばせちゃって。
重いだけでなく、ばかばかしく大きい。
窓際の本棚の横になんとかスペースを見つけて設置した。
最初に切る本は、ヘシオドスの『神統記』の文庫本と決めてあった。
特に深い理由があるわけではない。
単に間違えて買って二冊持っているから、失敗してもやり直せるというだけ。
この機械は、刃の先が台に留められていてそこが支点となり、
刃の反対側についている持ち手を下げると、
てこの原理で小さな力でも紙の束がすっぱり切れる、
という仕組み。
だから、本の綴じ目から数ミリのところに刃が当たるようにして、
ページの端っこの印刷されていない部分を切り取るわけだ。
しかし、一冊目はちょっと失敗してしまった。
四角いものの右端を切り取る形になっていて、
本を左と上から押さえ込んで動かないようにして切るのだけど、
上からの押さえ込みが緩かったらしい。
ちょっとずれてしまった。
しかし、使えないページができるほどずれたわけではなかったので、
そのままスキャナーに送り込んだ。
五分もたたないうちに全部読み取って、
電子本らしきものができあがった。
実際、この断裁機は優れもので、
本の固定さえしっかりやれば、
一瞬のうちに本がただの紙の束になる。
気持ちよくて癖になる。
これをやらないと一日がなにか物足りない。
大げさなようだけど、
生活がそんなリズムになってしまった。
海辺を
あるいた
漁港で巨大な船をみた
舳先が丸く突き出ていて
瘤鯛のようだ
たくさんの魚を捕り
積み込むのだろう
それから
海辺のプールで泳いだ
魚になって
ゆっくりと泳ぐ
もぐる
水に
親和する
水の中に入ってゆく
遠い
他者の記憶だ
ダム湖に 住みつく研究者
浮いている主義の人
揺れる針の旋律を望み
脚がつかないように欠如を求め
病院へ 欠かさず 通う
雲がよどんでく
広告が街にばら撒かれ、東の方から、、、、雲がしおれてく
病院の帰り道に
いつもの、 ように
この街の公園は
郵便番号ごと消えた
過ぎる風を気にしてか
またとない散骨がグレンチェックの毛布に巻かれていた
「忘れてしまう あの番号を」
と、祖父は言う
「大丈夫 送れるよ」
と、私は言う
爽やかに行方をくらまし、祖父は麻痺した子供になる
プレパラートを爪で持つと、めりこむ透明は子供を覆った
「大丈夫」って
言うんじゃなかった
愛らしいけど 針に違いない
この街は容器だから
私も祖父も…
ホットスポットで、SF片手に
インベーダーゲームをしていた
公園が消えると
容器に水をはれる
水面下と
人の
思考が交わる
嬉しい悲鳴と新しい悲鳴
たぶん
この新しい悲鳴の方は
祖父には届かない
共鳴に近い
またとなく破損した、音階だから
ペーパームーン
に賄賂をおくる
人格化したから
なにもよりも 先に、祈るよ
「祖父を麻痺させたのも私じゃないか?」
また公園、
広告のコピーは、
脳裏に焼きつく 管理が媚びりつく
漏れてしまう
染みてしまう ペーパームーン
雲がくれ 動揺の戦慄
人格障害かもしれないが
必ず祈るよ
祖父と私は
順番が逆だったかもしれない
「お陰様で 自由になり、先程
退院したばっかりでして」
耳を、外気にめりこませ
冬の猿のように会話を
捜しはじめる
純喫茶 式 回廊 で、音階をすすり すすり スリルで
すする そして、ここは街
2015年 過激派によるテロが頻発しているなか
ニューヨークで出会ったムスリムのピザ屋はどうしているだろうか
2011年のクリスマスイヴ
マンハッタンのお気に入りのピザ屋に
いつも通り夕食を買いに行った
店で働く人は全員浅黒い肌の人たち
南米出身なのかと思った
いかにも出稼ぎ風で 家族で経営しているのがわかった
そこのピザはどれもとびきり美味しくて
掲載されたワシントンポストの記事が自慢げにレジの横に貼ってあった
「クリスマスイヴなのに祝わないのか?」と聞かれて
「ブディストだから今日は何もしない」と咄嗟に答えた
「わたしたちも祝わないの」と言って
店の人たちはみんな急に笑顔になり愛想がよくなった
思いがけずパンを3個もおまけしてくれた
「それはひどいものだった……」
2001年9・11直後のムスリムの人々への差別について
語学学校の教室で
白人の教師が吐き捨てるように言ったのを思い出した
その後 ピザ屋に行くたびに大歓迎されて
必ずパンをたくさんおまけしてくれた
丸くて小さくて噛むと歯が折れそうに硬くて
なんていうパンなんだろう
聞いておけばよかった
サンタコン※の日は サンタクロースに仮装した若者たちで混み合う店内で
人々を写真に写すのに夢中になって
肝心のピザを店に忘れてしまった
慌てて戻るとピザが冷えないように
箱に入れたまま窯の上に置いて温めておいてくれた
そしてやっぱり丸いパンのおまけがたくさん
ニューヨークでは
たくさんの人がやさしくしてくれた
だけど彼らのやさしさは特に胸に沁みた
笑顔のなかに強さが宿っていた
クリスマスイヴにお祝いをしないと知って
少なくとも酷い差別をしない人だと認めてくれたのだった
店に最後に行ってからすでに2年が過ぎてしまった
テロの恐怖が世界を震撼させているなかで
ピザ屋の家族はどうしているだろうか
次にニューヨークに行ったら
いちばんにあの店に行こう
とびきり美味しいピザを頼もう
歯が折れそうに硬い丸いパンを食べよう
それからゆっくり再会のハグをしよう
握手をしよう
※サンタコン…クリスマスを控えた週末(1週間~10日程前)に毎年開催される。その日はサンタクロースに仮装して街に繰り出し朝からバーやレストランで楽しく飲んで食べようというイヴェント。クリスマスの前夜祭のようなもの。現在世界40か国300都市に波及しているという。
おめでとう
ぼたるさん
あなたの誕生日を
facebookから教えられた
誕生日をしらなかった
今朝
浜辺で
コッペパンをちぎって
カモメにあげた
この世の空を飛んでいた
まっすぐに見ていた
ぼたるさん
ことばもそこにいく
そこへいく
沼津をでて
富士を
過ぎた
ホームライナーは
明日は英語のレッスンがある
じつは根石さんを
落胆させた
逆戻りを自分に禁じてください
そこがゆるいと
300年から500年かかります
そう
いわれている
ヒトを
落胆させて
落胆している
獣の足跡を追う仕事をしていると、自分の中に蠢く律動に対して正直になる。
猿の背に発信器を装着する。山の端から、麓を滑空するように動いている動線をたどる。
付近の農家から、作物を荒らす被害がでていて、その苦情にこたえるかたちで、私のような職業が成り立っている。
滑空するように蠢いているかと思えば、まる一日、まったく移動しないときもある。疲れているのか、死んでいるのか、あるいはそこに獣たちの食物があるのか、想像をしてみるが、深く考えない。
発信器は、一頭に付ければいい。獣たちの首領が、大家族を引き連れているから。
鹿の場合は、番が多い。雄と雌。どちらか一方が老いていることがよくある。
猿の群れとこの鹿の番が、ひとところで動線が交差するときが稀にある。双方ともに、動きが留まらないところをみると、諍いの類はほとんどないように思える。
この私に、発信器を付ければどうだろうか。獣たちの動線を探る、変わった職業の、人間の動線。
ふだんは、麓を巡回し、山並みを見つめている。肉眼では、獣たちは樹木に隠れてその姿を確認することはできない。ただ、私には、緑色のLEDで浮かび上がる細い線の絵図が見える。見えるのは、それだけ。
いつも無音。煩わしいことに、頭の中では、奇妙な不協和音ばかりが重なる弦楽の音楽が流れている。
あるとき、首領猿の動線が、数日にわたってまったく止まってしまうことがある。
その地点を確認し、藪の中へ入っていく。至近距離に近づいても、まったく動こうとする気配は確認できない。その時点で、歩を早める。死んでいるのだ。
この私に、発信器を付けていればどうだろうかとまた想像してみた。動いてる緑色の電子線は、猿ではなく生きている私だけなのだ。
私の生は、だれに発しているのだろか。
電子の信号は、私と言う身体が、土中に溶けてしまったとしても、発することをやめないだろう。
獣たちも、私もこの山並みの宙空に交差する、破線を生きている。
毎日、山を眺め歩いていて、私は獣たちの声を聞いたことがない。
ただ、軋む弦音の擦りきれる悲鳴のただ中にいる。
きょう、私は空模様のわずかな変化に気づかなかった。
修学院山の、重なり合う常緑の墨色に、霙がまっすぐの白線を描いていた。
今日
四ツ谷駅の草叢を
見た
水道橋の
水面
それから
お茶の水の病院を
ホームから見上げた
思い浮かぶのは
佇つヒトたちだけだ
佇って
いた
佇つヒトたちがいた
見えないだろう
走る人には
草叢や水面や
病院は
見えないだろう