昨日
深夜に
新丸子の自販機の前に
立っていた
そこに
自販機たちは
いた
内側から白い
光を発して
そこにいた
この光の向こうに
コトバは
無いコトバは
あるのか
白い光は
そのヒトだった
笑っていた
佇っていた
昨日
深夜に
新丸子の自販機の前に
立っていた
そこに
自販機たちは
いた
内側から白い
光を発して
そこにいた
この光の向こうに
コトバは
無いコトバは
あるのか
白い光は
そのヒトだった
笑っていた
佇っていた
ないの
だろ
もう
なにもないのだろ
唇の
なかに
コトバは
ない
のだろ
渡り
横切って
いった
過ぎていった
そのヒトは
白い雲となって浮かんでいた
ポカンと
青空に浮かんで
いた
ハクセキレイが二羽
渡っていった
横切っていった
今朝
スープをつくりました
ごぼうと
じゃがいもと
わかめと
こんぶと
ウインナと
入れて
スープをつくりました
塩を
ひとつまみ入れました
どれも
与えられたもの
ひとりで
スープを飲みました
エアコンが
カタカタと鳴っていました
雨の日の
午後にめざめる
休日の
午後にめざめる
雨の日の
休日の
午後に
眠たいモコを抱く
モコとピーちゃんで遊ぶ
夕方に
海辺のプールで500m泳いだ
それから
外に出て
暗い空と長い堤防をみていた
堤防の先に
光が灯っていた
ひたすら旅して、これ以上やってもつまらないな、飽きたなって事になって、そのまま悪意を置いて、帰ってこれれば、家族とか仕事とか作って幸せになっていたかもしれない。ていうか、私以外の旅仲間のおおよそは幸せになった。しかし、私は悪意を捨てきれず、なんせ一応、とても大きな悪意が、こんな綺麗な形で残っているのは、奇跡に近く、価値もあったので、まだ捨てずに取っておこうとした。それを懐にいれ現実に帰ってきたものの、その悪意を現実の方で爆発させたくなった。ただの街角で悪意を捨てるでも、置くでもなく、稀少価値があり純度や解像度が高く、他人に見てほしくて、ついつい計画的に悪意を放り投げた。
旅仲間はというと、惑星の中華街を出て谷底と川を渡った先くらいまでの、退廃した市民を対象とした市民ホールで、弧を描いて徘徊する黒い陽炎のあとを追い続け、弧を描く運動に参加する人になったり。勿論、旅仲間はオーディションを待っている迄の時間の訓練のようだが、実際のところ時計がないので、オーディションまで、あと何分というのを知らないでいる。でも旅仲間の時間の使い方には目を見張るものがあり、ホールの事務所で、この世界の元々の住人だと思われる事務スタッフの横のデスクに座り、ランチをとっていたりする。その時、陽炎は、旅仲間の弁当を見てたりする。それほど、ぱっと見、仲が良いが成立している。
弧を描く旅仲間は、最終オーディションまで来たので、明確な目標と情熱を持ちはじめた。其処にとどまった。
実際のところ、その先を知る前に私達は歩きはじめたので、弧を描く旅仲間の事を、一生、最終オーディション手前で弧を描く、永遠のランナーのようにして、私達はその旅仲間から、記憶するように別れた。
私達は、と言っても、私には、私、私、私、くらいに私の個人活動へ移りつつあったように思えた。距離感ができてきていて、惑星の道の草を触ったり、触らなかったりの判断と精度が恐ろしくあがっているように見えた。なにしろ、私は最後尾を歩いていたので見えるようにして見ていた、のだろう。
思い描くように触れ、思い過ぎたように触れなかった旅仲間の後ろ姿と手の両翼っぷりは、完全に悪意たっぷりに、悪意を蓄積していた。癒されていたとは逆の、伝染してるだった。
私達は中華街に戻り、階段の隅の方で、少なくとも四方のうちの半分は壁に覆われている、いかにもの代表的な階段の隅だった。そこで、思い悩み、歩き疲れただの、どうせ一緒だの、見ても見なくてもどっちでもいいだの、人間と風景がおかしいだの、そもそもの他人を他人からはじめるのが面倒だだの。だだっ広い大地の中の、狭い建築物の中の壁にもたれ、見た事が正確であるかのように、正確な、がっかりを披露していた。
遠くなった。
遠くなっちゃったんですね。
道で人がこちらに向かって、
歩いて来て擦れちがったというのに、
その人が遠くにいるっていう、
一枚のガラスに隔てられているっていう、
水族館の水槽の中を見ているように、
遠くなっちゃったんですね。
ずーっと家の中にいて、
偶に外に出て、
電動車椅子に座って、
道を進んでいくと、
向こうの方に歩いて行く人、
向かって来てすれ違う人、
みんな遠いんですよ。
車椅子に座って道を行くと、
わたしは変わってしまうんですかね。
視座が変わちゃったんですね。
視座が低くなって、
大人の腰の辺りの、
幼い子供の目線で、
電動車椅子を運転してると、
立って歩いているときなら、
目につかない人たちの姿が見えてしまう。
けれどもそれが遠いんだなあ。
見えてしまうってことで遠いんだな。
見えてしまうっていう遠さ。
赤いダウンコートに黒い長靴のお嬢さん、
レジ袋を手にぶら下げて寒そうに歩いていく初老の男、
レジ袋と鞄を両手に持って着ぶくれたお母さん、
見えるけれど遠い。
見えてしまうから遠い。
遠おーい。
オーイ。
あっ、はあー。
昼食で雑煮の餅を食べたら、
餅の中に金属。
あっ、餅に異物混入かっと思ったら、
自分の歯に被せてあった金属がぽっこり取れちゃったんですね。
で、早速電話して予約外で、
西原の寺坂歯科医院に、
電動車椅子で麻理と行って直して貰ったんです。
帰りに小田急のガードを潜って、
車の滑り止めでごろごろする上原銀座の坂道を、
悲鳴をあげる電動車椅子で身体を揺すられ、
登って行くと、
いつも血圧降下剤などの処方箋を貰う小林医院の前を過ぎれば、
最近開店したスーパーマルエツ前の、
麻理のママ友がおかみさんの酒井とうふ店。
豆腐屋さん頑張ってねと、
突き当たりを右に曲がって、
信号が赤にならないうちに渡りきろうと、
電動車椅子の速度を目一杯に上げて、
道幅が広い井の頭通りを横切ると、
商店がどんどん住宅に建て変わちゃってる
上原中通り商店街です。
ついでだからと、
麻理が、
薬局パパスで猫のおっしこ用の砂を買って、
その大きな袋を抱えて、
わたしは電動車椅子を西に向かって
冷たい風を受けて走らせる。
赤いダウンコートに黒い長靴のお嬢さんが、
目の前の近くを遠く歩いて来る。
遠おーいな。
レジ袋を手にぶら下げて寒そうに歩いていく初老の男が、
やはり目の前の近くを遠く歩いて来る。
遠おーい。
そしてレジ袋と鞄を両手に持つ着ぶくれたお母さんまでが、
目の前の近くを遠く歩いて行くんですよ。
遠おーくなった。
中通り商店街を行く人たちがみんな、
みんな。
遠おーくなっちゃった。
上原小学校の前まで来たところで、
冬の雲間から出た西日の鋭い陽射しに、
わたしは、
両眼を射抜かれてしまいました。
遠おーくなった。
オーイ。
オーイ。
あっ、はあー。
家に帰って、
ふっと思ったんですが、
なんか、
この國の世間が遠くなっていく感じなんですね。
オレって、
日本人だ。
東京の下町の亀戸で生まれて、
日本語で育って、
日本語で詩を書いているわけだけど、
毎朝3時間掛けて
新聞の活字を読んで、
昼からベッドで
テレビの画面を見ていると、
安倍首相も、岡田代表も、
国会で議論してる議員さんたちや、
水谷豊も沢口靖子も
刑事ドラマで活躍する俳優さんや、
ビートたけしも林修も
スタジオで騒いでいる芸能人たちが、
遠いんだよね。
その日本が遠く感じるんだ。
活字で登場する連中、
映像で登場する連中、
なんて遠いんだ。
でも、
遠いけれど読まないではいられない。
遠いけれど見ないではいられない。
いまさらながら、
ゲッ、ゲッ、ゲッのゲッ。
権威権力機構ってのが、
有名人ってのが、
言うまでもなく遠いんですよ。
遠いけど、
彼らがいなけりゃ寂しいんじゃないの。
新聞がなけりゃ、
テレビがなけりゃ、
ほんと、さびしい。
遠おーい。
けど、
電動車椅子杖老人に取っちゃ、
仕様が無い、
けど、
けど、
しようがないね。
けど、
しょうがねえや。
詩用が無えや。
親父ギャグだ。
ゲッ。
あっ、はあー。
ところが、
だけどもだ、
ねえ、
一緒に暮らしてる麻理
という存在は、
ぐーんと近くなった。
今日も、
あん饅と肉饅が一つずつ入った
二つの皿を、
はい、こっちがあなたのぶんよ、
とみかんが光るテーブルに置いた
麻理はぐーんと近くなった。
抱きしめやしないけど、
ぐーんと近くなった。
近い人が人がいてよかったなあ。
わたしより先に死なないでくれ。
いや、わたしの方が麻理を
最後まで看取るんだ。
でも、
でも、
その後の心の、
心底からの寂しさをどうするんだ。
通院するのに付き添ってくれる人がいなくなったら、
どうするのかいな。
あっ、はあー。
今日は、
二〇一五年二月二十日。
歯医者に行ってから、
早くも、
ひと月が経ってしまった。
あっ、はあー。
馬鹿みたいに、
あっ、はあー。
悲しさを汗のように振りはらって
ジョンのように微笑みながら歌いたい
もっともらしいネガティブさに囲まれて
自分が信じられなくなるときには
C→F→G→Amのコードを弾きつづけよう
老人になって雲のように押し流されながら
世界のベランダを見ている
老人たちのかたまりになって
一人ひとり風に引きちぎられながら
お前たちの意味のない人生を
ふいごのような合わせた息で
吹き飛ばしてやる
神様が空気をつかんで破くみたいに
何もなかった場所に世界をひらく
ときには暴力的に
境界線上にいた人びとも引き裂いて
心たちのすみかをつくる
友だちと三人で逆立ちして
世界を持ち上げる
春風にヘソをなぶらせて
昨日
四谷の駅で
壁を見た
壁には
水の沁みて
流れた
跡があった
お茶の水の駅では
クレーン車が佇っていた
アマリリスの
花が
萎れているのを
facebookで見た
ありのままを見よといった
地上には
人々がいた
雨が降っていた
本を
ひらいた
ぺらりと
ひらいた
でんきの本も
ぺらりとひらきたいと言った
でんきのカメラで
きみの笑顔を
モコの寝顔も
水のなかの他者の記憶も
瘤鯛の夢も
でんきのカメラで撮る
原子力発電所と
ブロッコリーも
風が強い
風が強かった
同時に注文したんだけど、
断裁機だけはちょっと遅れた。
それでもスキャナーは使ってみたい。
まあ、それが人情だよね。
そこで切らずに読み取れるもの、
ということで、年賀状を読み取ってみた。
裏表を同時に読み取ってくれるし、
紙が重なって入っていくということはまずない。
一枚ずつ次々に吸い込んでいって、
それがまともな画像になっている。
とにかくすごいスピード。
フラットスキャナーで一枚ずつ取り込んでいたのが
馬鹿みたいに思える。
買うまでは知らなかったけど、
スキャナーは画像ファイルではなく、
PDFという形式の電子ブックを直接作ってくれる。
大量の画像ファイルを作って、
それを電子ブックにまとめるわけではないのだ。
(そうすることもできるけど、する理由がない)
だから電子ブックは思ったよりも簡単に作れることがわかった。
しかも、できあがった電子ブックでは、
年賀状の裏と表を同時に見られる。
間違っても紙のままではできないことだ。
なかなかいいじゃないか。
*
年賀状は三年分読み取った。
読み取っていないものはまだ何年分もある。
でも、やっぱり本をやってみたい。
断裁機が来ていないので大々的にはできないけど、
ゴムマットとカッター、スケールはある。
ちょうどいいんじゃないかと思うものはあった。
『フライデー』の増刊、「福島第一原発「放射能の恐怖」全記録」というやつ。
本棚に立っていられないので、
今は積み上がっている本の山の下の方に埋もれている。
ときどきは見てみたいと思うけど、
紙のままだとちょっと不便な感じがする。
それに、カッターで切れる程度に薄いし、
綴じ目まで写真が広がっているので、
断裁機ではちょっと切れない。
断裁機だとかならず捨てる部分が出るので、
写真がずたずたになってしまう。
そういうわけで本の山の下の方から
「福島第一原発「放射能の恐怖」全記録」
を引っ張り出して、
雑誌を綴じている留め金を外した。
ゴムマットの上に紙の束を置き、
スケールを当てて、
折れ目のところをカッターで何度も切った。
思ったよりも早く二つに分かれた。
バラバラになったので、
たとえば手に持っているときに落としたら大変だ。
前後がわからなくなってしまう。
ページにノンブルが付いていて本当によかった。
紙の束を揃えてスキャナーにセットする。
年賀状よりもくたっとしていて、
波打ってもいる紙だが、
スキャナーは一枚ずつ吸い込んでいった。
*
できあがったPDFは、でも何か少し変だった。
元の紙の雑誌と比べて、何かが足りない感じがする。
写真ページを見て、理由がわかった。
もともとの雑誌では、一枚の写真が見開き二ページになっていたのだ。
一枚の写真を半分ずつしか見られないのなら、
電子本なんてダメだろう。
で、ちょっとネットで調べてみたら見開き二ページで表示できることがわかった。
個別の電子ブックごとに設定することもできるし、
電子ブックリーダー全体ですべての電子ブックを対象として設定することもできる。
で、やってみると確かに見開き二ページで表示された。
左に偶数ページ、右に奇数ページが並んでいる。
写真は見開きの左端から右端に続いている。
うーむ。
電子ブックを作るAdobe Acrobatはアメリカ製だから、
横書きの本に合わせて左綴じのつもりで見開きを作っている。
しかし、縦書きの本は右綴じでなければならない。
で、またちょっとネットで調べて右綴じにする方法を見つけた。
「文書のプロパティ」の「詳細設定」の「読み上げオプション」というところで
「綴じ方」を「左」から「右」にすればいい。
でも「読み上げオプション」なんて言われてもねえ。
自力ではわからなかったわけだ。
これで見開きページが正しく並ぶようになった。
目が覚めるようだ。
見開きの写真には迫力がある。
と言っても写っているのは、3・11のあとの津波に破壊された福島の海岸線だから、
きれいに見えるようになったとはしゃいでいては、被災した人たちに申し訳ないな、
と思った。
*
以前から、PDFはスクロールすべきものではないとは思っていた。
翻訳の仕事では、画面左半分に原書PDFを開いて、
右半分で訳文を書いてきたのだ。
それ以前は紙の原書を見ながら画面に訳文を打ち込んでいたけど、
本は簡単にバタンと閉じるし、視線を大きく動かさなければならない。
かならずしも満足してはいなかった。
試しに編集部が本といっしょに渡してくれたPDFを使ってみたら、
PDFの一ページには紙の本の一ページと同じだけの情報が載っているし、
紙の本を使っていたときの不都合はないし、
意外と便利だなと思った。
そのうち、紙はなくていいのでPDFをくださいとまで言うようになった。
最初はPDFもスクロールしていたけど、
PDFのページには余白があり、
ページとページの間には二つ分の余白が入るわけだから、
ページをまたぐ部分はあまり読みやすいものではない。
それで、いつも一ページ全体が表示されるモードを使うようになった。
矢印キーを押すと、スクロールせずに次のページ、前のページがぱっぱと表示さ
れる。
ページがふらふら動かないところがいい。
しかも、このモードはツールバーのアイコンをぽちっとするだけで設定できる。
見開き表示にはそういうボタンはないのだ。
もっとも、
私が翻訳するような本では見開き表示の図面などというものはなかったので、
一ページ全体が表示されれば満足できていた。
見開き表示のことなど知りもしなかった。
しかし、大きな写真で見開き表示の効果を知ってしまうと、
文字だけのページでも見開きにするとなんとなく安心する。
それは、紙の本と同じだけの情報が目に入るからなのかもしれない。
本を読んでいる大部分のとき、
注視しているのは一文字かその前後の数文字だけなのかもしれないけど、
少し前に戻って話を確かめたり、
次の見出しの位置を覗いてみたりすることもときどきはある。
そういったことがスムースにできないと、
読みづらいと感じてしまうのだろう。
要するに紙の本と比較して足りない部分があれば、
電子ブックなんていらないということになるのだ。
*
断裁機はそれから一週間ほどしてやっと到着した。
Amazonの紹介ページに十八キロあると書かれていただけのことはあって、
宅配の人に渡されたらやたらと重い。
ごめんなさい、重いの運ばせちゃって。
重いだけでなく、ばかばかしく大きい。
窓際の本棚の横になんとかスペースを見つけて設置した。
最初に切る本は、ヘシオドスの『神統記』の文庫本と決めてあった。
特に深い理由があるわけではない。
単に間違えて買って二冊持っているから、失敗してもやり直せるというだけ。
この機械は、刃の先が台に留められていてそこが支点となり、
刃の反対側についている持ち手を下げると、
てこの原理で小さな力でも紙の束がすっぱり切れる、
という仕組み。
だから、本の綴じ目から数ミリのところに刃が当たるようにして、
ページの端っこの印刷されていない部分を切り取るわけだ。
しかし、一冊目はちょっと失敗してしまった。
四角いものの右端を切り取る形になっていて、
本を左と上から押さえ込んで動かないようにして切るのだけど、
上からの押さえ込みが緩かったらしい。
ちょっとずれてしまった。
しかし、使えないページができるほどずれたわけではなかったので、
そのままスキャナーに送り込んだ。
五分もたたないうちに全部読み取って、
電子本らしきものができあがった。
実際、この断裁機は優れもので、
本の固定さえしっかりやれば、
一瞬のうちに本がただの紙の束になる。
気持ちよくて癖になる。
これをやらないと一日がなにか物足りない。
大げさなようだけど、
生活がそんなリズムになってしまった。