Les Petits Riens ~三十六年もひと昔

蝶人五風十雨録第10回「二月二十八日」の巻

 
 

佐々木 眞

 

 

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1981年2月28日 土曜
土曜日なのに会社がある。アパレル産業協議会のカリキュラムを作る。急死したボンド氏のピンチヒッターなり。

1982年2月28日 日曜
藤沢の神奈川県青少年会館にて自閉症児者親の会「やまびこ会」の臨時総会を開催。出席者15名。藤沢の大貫氏、両高橋氏が積極的なり。

1983年2月28日 月曜
なんとなく書類の整理などして、嵐の前の静けさか。

1984年2月28日 火曜 はれ
徐々に暖かくなる。次男が「キン肉マン」の漫画を図書券で買う。この頃絵を描くのが好きになってきたようだ。長男は学校へ行くのが厭だという。青木さんアデンダの雑誌広告でTCC新人賞を受賞。

1985年2月28日 木曜 雨 寒
長男は風邪でずっと学校を休む。今日は耳が痛くなって芋川耳鼻科へ行く。感心に耳と口は診せたが、鼻は駄目。東洋現像所にて0号試写。2種のうちAタイプに決める。夕方講談社HOTDOGの原田氏と会う。

1986年2月28日 金曜 ハレ
AD会議。下らぬ。夕方シオンのライヴ・イベント。渋谷のカプセルホテル泊。

1987年2月28日 土曜 はれ
会社休みて芋川耳鼻科へ。ウオークマン難聴で依然聴こえず。昼銀座三越にてシネマウイークのプレゼン。スターロンの「オーバー・ザ・トップ」みる。次男の奇跡の生還を祝して、家族4人デニーズにて会食す。

1988年2月28日 日曜 晴
成田12時20分着のはずがロンドン・ヒースロー空港の電気故障でまたもや延着。機体全とっ換えで成田には4時着。ともあれ無事帰国できて良かった。

1989年2月28日 火曜
浅野、小森氏を迎え東コレ打ち合わせ。テーマはスーパーザウルスなり。予算750万で大丈夫なりや。シャネルの現売ショー、1回1億円の売り上げなると。

1990年2月28日 水曜 はれ
久しぶりに晴れる。西部百貨店の新社長に水野氏。43歳なり。今井氏は当社の副社長になれず、定めしショックならむ。夜、真鍋太郎氏の個展に顔を出す。

1991年2月28日 木曜 寒
開戦から6週間、地上戦開始から100時間、湾岸戦争終結、ブッシュ大統領が勝利宣言。イラクは国連決議を受諾す。INショップが宇都宮東武にオープン。

1992年2月28日 金曜 はれ
IN店長会を休んでJクルーのパンフの見本作り。本当は「ボヴァリー夫人」をみたかったのだが。すべてが遅れているので焦る。

1993年2月28日 日曜 雨のち晴
午前11時、初めて覚園寺を訪ねる。なかなか風情のある寺なり。僧ありておよそ1時間いろいろ解説す。今から800年前に北条時宗が創建、700年前に足利尊氏が再建したそうで、天井に尊氏の文字があった。その後首塚、永福寺に回る。

1994年2月28日 月曜 はれ
だいぶあたたかくなてきた。少し体調が元に戻ったように感じる。

1995年2月28日 火曜 くもり
おととい貴之花が元フジTVアナウンサーの河野景子と婚約した。彼女には会ったことがある。永代に行き、井出と話す。見事な現状分析による鋭い企画書を書いていた。キムラヤにてさらに7枚のCDを買う。

1996年2月28日 水曜 はれ
DM、カタログ打ち合わせ。西銀座スタジオにて日隈、中野両君と7DaySビデオのダビング。次男ムサビに落ちるがめげず、逆に予を励ましてくれる。

1997年2月28日 金曜 晴
今日は完全に怠けるつもりで会社へ行った。昨日の鴨下さんの発言の波紋が職場に流れている。藤沢周平の「白き瓶」読了。長塚節の哀れな生涯。しかし余もまた然り。ルービンシュタインのブラームス協奏曲第1番のCDを買う。

1998年2月28日 土曜 はれのち雨
妻とムクと果樹園に行く。梅8分咲きか。されど匂わず。午後卓ちゃん来訪。5人でカレーを食べる。卓ちゃんワードをインストールしてくれる。

1999年2月28日 日曜 はれ
熱、夕方7度近くになる。風邪か、それともプレッシャーか。高知で脳死の人、心、肝、腎の三臓を差し出す。来週土曜のためのテキストを打つ。来週部長にならむとす。

2000年2月28日 月曜 晴
11時小学館梅沢氏。矢沢、小野氏を紹介してもらう。午後4時半、電通古川氏。東北、九州の仕事を紹介してくれるという。夜マガジンハウスの倉田氏に御馳走になる。宝島のレップにならないかと。余は知らずして瀬戸口氏に傲慢なりき。次男が藝大大学院合格。

2001年2月28日 水曜 くもり 風強し
「プレイボーイ」鈴木氏への企画書を作るが、プリンターにトラブルありて苦労す。妻は「やまびこ会」のOB会に出席。若手と別れようとして、かえって苦労している。可哀想なり。

2002年2月28日 木曜 くもり 暖
終日ワードをやるがなかなか終わらない。夜佐藤から℡ありて工藤さん宅にいるという。石原、有馬などの同級生と一緒だというので驚く。文芸社高橋氏に請求書送り、山口氏から「主婦の友」の分入金。

2003年2月28日 金曜 晴
お茶の水SPビル8階にメデイアレップの森社長を訪ねる。「テレビサライ」の編集長を紹介され、余の新提案をぶつけよと示唆される。青柳君の神保町の事務所を訪ね、夜、銀座資生堂のワードにて玄侑氏が美女に催眠術をかけるを目撃す。あやしの業なり。

2004年2月28日 土曜 くもり
昨夜次男帰宅し、申告書類を作る。私は長男と喧嘩したので、「もうお父さんと暮したくない」といわれる。今朝、長男次男と3人で熊野神社まで散歩。午後次男が帰ると寂しくなる。

2005年2月28日 月曜 はれ
のどをやられて熱あり。耳鼻科のカクさんで診てもらう。文芸社リライト第1次終了。明日追加原稿が来る。

2006年2月28日 火曜 陰 寒
中野の工芸大にてコピーライター志望の優秀な学生に会う。今日で2月終了につき、長男ふきのとう舎より帰宅す。民主党の阿呆莫迦永田議員が謝罪す。前原は代表選に出ず。

2007年2月28日 水曜 晴 暖
文芸社アップす。風呂沸かし器みてもらう。2100円也。熊野神社頂上でカトリックの尼さんに会う。中国バブルで全世界で株価が下落す。

2008年2月28日 木曜 晴 ○
工事順調、コンクリ打ちが終る。妻は渡辺さんたちと外出。長男の来週のホームステイがなんとかOKになる。ついに文芸社来る。30万円也。

2009年2月28日 土曜 陰
経済危機ますます深刻。太刀洗いにカエルの卵あり。

2010年2月28日 日曜 雨のち曇
冷たい雨の中、3人で生協へ行く。午後から晴れてきたり。チリでM8.8の大地震ありて津波予報出たり。

2011年2月28日 月曜 氷雨
物凄い寒さのなか、中目黒の「青山目黒ギャラリー」で開催中の次男の個展「still live」をみる。作品もよく、オーナーもとても良い人。青池夫妻と同道の先生にも会う。

2012年2月28日 火曜 くもり
昨日母もホームステイへ。余は文化で講義。

2013年2月28日 木曜 晴 暖
都美術館の「エル・グレコ展」と東博の「円空展」、さらに埼玉美術館まで足を伸ばして「ポール・デルボー展」をはしごする。

2014年2月28日 金曜 晴 ○
あたたかし。太刀洗い第一現場にてアカガエル産卵す。親カエルが良い声で鳴いていた。

2015年2月28日 土曜 曇
本日にていちおう十二所リニューアル終了。台所とバス等を直して530万強なりき。

2016年2月28日 日曜 はれ
太刀洗から朝夷奈峠へ行ったが、産卵しているのはやはり第一現場だけ。しかし大小2種類の卵があり、大きいのはヒキガエル、小さいのはアカガエルであろう。
今年は今月13日にアカガエルが産卵し、その後しばらくしてヒキガエルが続いたが、いずれも例年より数が少ない。毎年こうやってカエル君の繁殖に手を貸しているのだが、徐々に絶滅の道を辿りつつあるような予感がある。
アメリカ大統領の予備選が始まり、共和党のトランプが跳梁跋扈しているが、鬼面人を驚かせるこの男が、歯に衣着せぬ本当の本音をぶちまけているからだろう。
普通の人ならいくら移民嫌いでも「メキシコ国境に壁を作れ」などと言いたくても我慢して言えないし、言わないが、良識と廉恥心をかなぐり捨てたこの排外主義者は、民衆の俗心の代理人のつもりで平気で口にするから、拍手喝采を浴びるのである。
「文化のない本音人」は「文化のある建前人」によって敗北するのが文化文明の世の常識というものだが、このアメリカのイトレルは、本邦の猪八戒イトレルと同様、もしかすると、もしかするかもしれない。
共和党と民主党でトランプとサンダースという左右の極端派が進出し、クリントンのような中庸派を震撼させていることは、ある意味でEUや中東イスラム教徒国の内部分裂・抗争、この国の右翼独裁体制と軌を一にするもので、大統領選の結果次第では、万人が万人の敵となる恐怖の世界大動乱の幕が切って落とされるかもしれない。

 

 

友愛てふ言葉床しき藪椿 蝶人

 

 

 

夢は第2の人生である 第35回

西暦2015年神無月蝶人酔生夢死幾百夜

 
 

佐々木 眞

 

 

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極寒の僻地にあって九死に一生を得た私らは、ようやく郷里に帰還しようと寒村の小さな駅に辿りついたのだが、プラットフォームに立つと、アテルイという名の記された深紅の長い長い貨物列車が、轟音をあげて通り過ぎて行った。10/1

久しぶりに以前訪れたことのある野原の果ての廃墟にやって来た。今回はなぜだかイラストレーターの川村さんや画家の橋本さんなんかと一緒だったが、入口には「隠喩とアナスタシア」と書いてある。いったいどういう意味なんだろう。展覧会でもやってるのか?10/2

戦争が近付いてきたからか、急に井戸掘りを頼まれるようになり、その数なんと1万件に達した。焦った私は、知り合いの伝手やコネを総動員して、全国各地の職人をはじめ学生のアルバイトまでかき集め、朝から晩まで井戸を掘り続けている。10/2

山中でその子の死体を見つけたのは、数日前のことであった。どうしてこのようなものがこんなところにと思ったのだが、私は、そのことを誰にも言わなかった。10/3

しばらく経ってから、私はその場所を目指して山を登って行ったが、山道でイノシシや野兎や猿や熊たちと出会うたびに、私の顔も体も彼らの顔かたちが乗り移って、異様な風体へと変身していくのが分かった。10/3

妻が運転する車に乗って学校へ行ったら、「今日は私も授業があるのよ」というので、驚いて彼女の教室をのぞいてみたら、聴講する学生が鈴なりだったので、また驚いた。私の授業の聴講生ときたら、毎年10名すれすれなのに。10/4

こないだ通販で買ったCDを、同じ業者がさらに安く売っているのを発見して、「こんちくしょう、どうしてそんな酷いことをするンンだ。おいらがなけなしの金をはたいて、清水の舞台から飛び降りるつもりで買ったというのに」と、朝までいきまいていた。10/5

新製品のネーミングにうるさい社長だったので、「では英語やフランス語やイタリア語はやめて、古い日本語でいきましょう。「国定忠治は男でござる」というのはどうですか?」と冗談半分で提案してみると、「おお、いいね、いいね。どうしてもっと早くそれをいわないんだ。それ、それ、それでいこう!」と大喜びするのであった。10/7

「信望愛」のうちでもっとも大いなるものは愛である、とたしか新訳聖書に書いてあったような気がするのだが、信仰も愛もてんで持ち合わせのない私は、一筋の希望さえあれば、なんとか今日も生きていくことができそうに思えた。10/7

ふとしたことで知り合った2人の女性は、いずれも小説家だったが、てんで本が売れないというので、「千円引きでなら、私が買ってあげますよ」と口走ったら、その翌日、段ボールを満載したクロネコヤマトのトラックが玄関に停まった。10/8

広大な原っぱには巨大なテントが張られており、中ではフェリーニのサーカスを思わせる極彩色のファッションと、音楽と演劇を一体化した夢のようなライブイベントが繰り広げられていたので、私は歓声を上げながら、写真を撮りまくっていた。10/10

電話ボックスの中に入ると、なぜだかその中にも薄緑色の植物が生えていた。電話しながらそのやわらかな葉っぱを食べていると、大きなムク犬がボックスに入って来たので、こいつにも葉っぱを食べさせてやった。10/11

新聞社の「市場」についての調査にご協力ください、といって訪れた若い女性が、あまりにも魅力的なので、家に迎え入れて耳を傾けていると、結局は物販の売り込みの話なのであった。10/11

この節は度量衡の規格が次々に変わる。こないだは判子を作り直したばかりだというのに、今度は「持ち船の形式と容量を見直せ」というお達しが出たので、結局造り直さざるを得ないだろうな。10/12

埋立地に出来た見本市会場の件で、若い女性の部下と一緒に現地の担当者を訪ねた。1ヶ月後にその商談が纏まった頃、担当者と部下の連名で、結婚式の招待状が届いた。つまり彼らは、ひと月で2つの商談をまとめたわけだ。10/13

一念発起、酒も女も絶ってひたすら店頭で販売の音頭を取ってみたものの、声を張り上げれば張り上げるだけお客は逃げ出していき、売り上げはさっぱりだった。10/14

3人で町を歩いていたら、チンピラ2人にからまれたので、うちのA子がさっと金的を蹴り上げると、その時は素早く退散したが、今度は私がいない間に、A子ともう一人の若者を誘拐したので、私は正宗のドスを腹に呑んで、敵の本拠地に奪回に向かった。10/15

中国の田舎の空港で降りたら、昔会社で常務だったナベショーという男が、免税店でどんくさいアメカジを売っていたので、懐かしくなってポロシャツを買おうとしたら、大きな鍋で炒め物を調理しながら、「お客さん、ここらへんは、商売さっぱりあきまへんわ」と、情けない声を出した。10/15

眠っている間に地震が襲ってきて、私が乗った地球というメリーゴーランドを揺り動かす。それはヒトコマごとに前進するのだが、ときおり揺り戻しがあって、また元に戻ったりするので、非常に恐ろしかった。10/16

やがて官憲がわが家を違法建築であると決めつけて、取り壊しにやって来たので、私は毒矢で武装し、今度こそ死ぬまで徹底抗戦しようと決意した。10/17

「遊動円木」とか「不労所得」とか「交響楽」という名前の鳥たちが、ひらひらふらふら飛びまわっていた。10/18

次期ノーベル文学賞の受賞が内定した谷崎潤一郎選手の命を狙う悪党がいるというので、私は、警視庁から派遣されて、彼の警護に当たっていた。10/19

「綺麗な呼吸大会」という不思議な大会に出場した私は、あらゆる瞬間において見事な呼吸をしている、という理由でグランプリをもらったが、受賞の意味がてんで分からなかったので、もらったトロフィーをその場に置いて退場した。10/20

今日もいつもと同じ散歩道を歩いた。歩きながらビシバシ写真を撮っていたが、「まてよ、これでは毎日同じ写真ばかりになってしまう。少しはフィルム代を節約しなきゃ」と思って、撮るのを止めてしまった。10/21

コンセプトは「我らの右手」だ。午後9時には子供たちを階下で寝かせ、大人たちだけの製品づくりが始まった。10/23

星まつりの夜に窓の外で2002年の2月に身罷った愛犬ムクが「WANGWANG!」と鳴いているので、外に出ると、衝突した車から飛び出した若い衆が、川の中で白眼を剥いて斃れていた。恐らく、もう死んでいるのだろう。

すると、すぐ近くで悲鳴が聞こえたので飛んで行くと、やはり同じ年頃の、祭りの法被を着た若い衆が、道の真ん中で白い泡を吹いて斃れていたので、驚いた。すぐに救急車を呼ぼうとしたのだが、生憎その番号を思い出せないので、携帯を握りしめて棒立ちしているわたくし。10/24

私らは、大木の枝の上に鳥の巣のような小さな小屋を作って、その中で生活していたが、なにしろ狭くて、ちょっと風が吹いてくると大きく揺れ動くので、不安で仕方なかった。10/26

今夜は豪華な肉料理をフルコースで食べるのだから、お昼は蕎麦にしておこう、と思うのだが、天ざるにしたらエビ天がお腹に残ってさしさわりがありそうなので、店の前でメニューを眺めながらいつまでも迷っていた。10/26

一緒に歌舞伎を見にいったデザイナーが、「あたしはもう仕事が嫌になった。こんな仕事を八十までやるのかしら」と呟いていたが、私は知らん顔していた。10/28

昔からお世話になっていたSURELADYというブランドを担当する佐々木さんを訪ねたら、大病を患っていて、もう長くなさそうだったが、相変わらず優しく頬笑んでいた。10/28

ボスの命令で会社に従業員家族を招くことになり、会場のあちこちに美しい花々を飾り付けたのだが、当日入場した人たちは、誰一人目を留めることもなかった。10/29

 

 

 

朝の歌

音楽の慰め 第1回

 
 

佐々木 眞

 

 

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空0これから時折、音楽にまつわる超個人的な思い出話、私の敬愛する詩人鈴木志郎康さんの素敵な用語を勝手に拝借しますと、「極私的」な話柄、を書き残してまいりたいと思います。

空0ひとくちに音楽と申しましても、おのずから私の下手の横好きのクラシックについてのあれやこれやになってしまいますが、その点はどうかご容赦願いたいと存じます。

空0まあ云うたらなんやけど、唐人の寝言、国内亡命者の口三味線、のようなもの、ですな。

空空空空空空空空空空空空0*

空0第一回のお題はとりあえず「朝の歌」にしてみました。
「朝の歌」といえば、まずはいまNHKの朝ドラでやっている「あさが来た」の主題歌でしょうか。

空0AKB48が歌う「365日の紙飛行機」は、副田高行さんのお洒落でシックなタイトルデザインとあいまって、「あたしなんざあ、もうとりたてて夢も希望もないけれど、今日もまた朝が来てしまった。でもとにかく全国的にアサー!なんやから、谷岡ヤスジみたいになんとか元気にぐあんばっていこうかなあ」という気持ちにさせてくれるようです。

空0AKB48は、皆さまがよくご存知のように、けっして歌が上手とはいえないやさぐれおねえちゃん集団なのですが、そのやさぐれ風の素人っぽさが、かえって日常の中の朝という時間の到来に、びっくらぽん、自然に寄り添っているような効果をもたらしているのかも知れませんね。

空0ところで「朝の歌」ということで思い出すのは、私の大好きな詩人、中原中也の大好きな詩「朝の歌」です。注1)

空空0天井に 朱きいろいで
空空空空空空戸の隙を 洩れ入る光、
空空0鄙びたる 軍樂の憶ひ
空空空空空空手にてなす なにごともなし。

空0という4行で始まるこのソネットは、

空空0ひろごりて たひらかの空、
空空空空空空土手づたひ きえてゆくかな
空空0うつくしき さまざまの夢。

空0という具合に嫋々たる余韻を残しつつ消えていくのですが、この最後の第4連の3行には、冒頭の代々木練兵場の軍樂の物憂い響きではなく、詩人の心の奥底でいつも鳴り響いていたうらがなしい滅びの歌が聞こえてくるようです。注2)

空0さて私事ながら、私の生家は丹波の下駄屋でしたので、町内の他の家の子供たちと比べて音楽的な環境に恵まれていたとはお世辞にもいえませんでしたが、なぜか祖父が熱心なプロテスタントであったために、小学生の時から強制的に教会に通わせられました。

空0私はそれが厭で厭でたまらず、その所為で却ってキリスト教に反発を覚えるようになり、現在に至るも無信仰無宗教の哀れな人間ですが、それでも教会で歌わせられる讃美歌の歌詞やオルガンの伴奏が、当時の田舎の少年の音楽心をまったく刺激しなかったと書けば嘘になるでしょう。

空0例えば讃美歌23番の「来る朝毎に朝日と共に」の出だしを聴くと、さきほどの中原中也の詩の冒頭にも似た、おごそかにして心温まる気持ちに包まれたものでした。注3)

空0後に成人した私が、LPレコードでモーツアルトのピアノ協奏曲第24番の第2楽章をはじめて聴いたとき、(それは確かクララ・ハスキルというルーマニア生まれの臈長けた女流ピアニストが、65歳で急死する直前に録音した曰くつきの演奏でしたが)、はしなくも思い出したのが、この讃美歌23番の奏楽でした。注4)

空0楽器もメロディも調性も異なってはいるものの、暗闇から突如一筋の光が地上に現われて、私のようにどうしようもなく愚かな人間にもかすかな希望を与えてくれる、無理に言葉にすると、天使が私を私を見つめながらゆるやかに翼をはばたかせているような、そんな有難い気持ちにしてくれた楽の音でありました。

 

空空空空空空空空空空空空0*

 

注1)中原中也の詩「朝の歌」は講談社文芸文庫吉田 煕生編「中原中也全詩歌集上巻」より引用。

注2)中原中也の芸術の記念碑的な出発点となったこのハイドンのピアノ曲を思わせる素晴らしい詩は、前掲書吉田 煕生の解説によれば、1926年(昭和元年)に初稿、1928年に定稿が完成し、諸井三郎の作曲で同年5月4日の音楽団体「スルヤ」第2回発表会で長井維理によって歌われた。なお本作が構想された当時、詩人の友人の下宿から陸軍練兵場(現在の代々木公園)の演習の「軍樂」が聞こえたことについては大岡昇平の証言がある。

注3)讃美歌23番(あるいは27番、あるいは210番)の「来る朝毎に朝日と共に」の第1番の歌詞は「来る朝毎に朝日と共に 神の光を心に受けて 愛の御旨を新たに悟る」。作詞は英国国教会司祭のジョン・キンブル、作詞は独教会音楽家のコンラート・コッヒャーと伝えられる。

注4)クララ・ハスキル独奏、イーゴリ・マルケヴィッチ指揮コンセール・ラムルー管弦楽団(2011年まで佐渡裕が首席指揮者を務めた)のモーツアルトのピアノ協奏曲24番は、録音は1960年と古いが、昔からフィリップス(最近デッカに買収された)の名曲の名演奏盤として夙に知られている。(20番も併録)

 

 

 

Les Petits Riens ~三十五年もひと昔

蝶人五風十雨録第9回「一月三十日」の巻

 

佐々木 眞

 

 

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1981年1月30日 金曜
夕方サンフランシスコ発JAL001便にて成田着。重い荷物をポーターに運ばせタクシーで鎌倉まで。やれやれと一安心。都合半月の海外旅行なりき。

1982年1月30日 土曜
土曜出勤。ルック雑誌広告。アデンダの大きなポスターをどうやってコピーしていいか分からない。

1983年1月30日 日曜 夜に雨
久しぶりに眠る。自閉症児親の会の会合をキャンセル。相模原の会員のみに電話連絡。たまには休まないと身体がもたない。息子たちと遊ぶ。

1984年1月30日 月曜 はれ
キリンビール訪問。だいたいそんなものよね。ベイヒルゴルフ企画で富士ゼロックスの小林陽太郎氏の出演許可をもらう。

1985年1月30日 水曜
朝パリEHPよりゴダールが撮影を完了したと連絡あり。アニエスbでf500買い物。夜駐在所のスタッフと会食。サル・プレイエルにてラベック姉妹のコンサート。

1986年1月30日 木曜 はれ
三陽商会長谷川氏、博報堂、関谷氏、小学館中川氏、島本氏。夜神谷氏と串花へ。

1987年1月30日 金曜 はれ あたたか
8時半日比谷スカラ座にてデ・ニーロの「ミッション」。86年のカンヌでグランプリだというがやや意外。G.I.Tにて日経矢田氏と「大コクトー展」の打ち合わせ。

1988年1月30日 土曜 はれ
ゆっくり起きてミラノへ発つ高市氏の自宅兼事務所に電話すれど終日繋がらず。「チャネラー」取材後小峰氏と飲む。松竹第2にてベルイマンの「シークレット・オブ・ウーマン」試写。女の生を重厚に描いた傑作。光と影が美しい。

1989年1月30日 月曜
プレス伊藤君と話す。努力家なり。IN秋冬構想会。

1990年1月30日 火曜 くもり
大阪支店にて11時から午後7時まで店長会議。山口課長と新任営業担当のお披露目。京高フェア打ち合わせ。私は「この日、この空、この私」「体と金と男」という話をしたがあんまり説経臭のする演説は良くない。夜神戸のグリーンホテル泊。

1991年1月30日 水曜
オレンジページ田坂さん来社。パスタ・パスタで昼食。「ゼロシティ」「アンポンで何が裁かれたか」をみる。

1992年1月30日 木曜
本日より米国出張。ボストンは古い英国の面影を残す町でJFKの生家や寄宿舎もあった。学生街のカジュアルなショップを見学。夜はウエルカムパーテーがあった。

1993年1月30日 土曜 はれ
会社休みてCD三昧。妻は味噌作りや心身の疲労困憊で臥せっている。

1994年1月30日 日曜 はれ
ボードレールの人生はわずか46年であった。次男東京造形大の1次合格。

1995年1月30日 月曜 晴
第1回の全員宣伝会議。だいぶ人が減った。文春の「マルコポーロ」がアウシュビッツにガス室はなかったという記事で廃刊決定。愚かなり。

1996年1月30日 火曜 はれ
1792年に再建されたべネツィアのラ・フェニーチエ劇場が失火のために全焼。残念なことなり。仏シラク大統領、核実験の終了を声明。

1997年1月30日 木曜 晴
去年より今年の方が仕事は楽になった。次男は自動車免許を取るための合宿に出かける。

1998年1月30日 金曜 曇
会社は出来るだけサボるようにしている。午後新橋TCCにてMIUMIUの出る映画を観た。横浜SSDにてアルゲリッチ、マイスキーのベートーヴェンのチエロソナタ集買う。ムク夜鳴きす。

1999年1月30日 土曜 晴れたり曇ったり 寒
会社休む。妻は余命2、3か月と宣告された鶴見さんに「手当て」しに行く。ムクと神社散歩。米バークシャー社から1万4千円の引き落とし請求書来る。

2000年1月30日 日曜 晴 暖4月のごとし ○
母と4人で宇田さんチ経由図書館。梅はどこかで咲いているに違いない。午後五反野マンションの広告コピーを書いているとようやくフリーになった気分が出てきて嬉しい。

2001年1月30日 火曜 晴 ○
不調。元気なし。妻やや回復すれどパソコン具合悪し。

2002年1月30日 水曜 晴
小泉首相が田中外相と野上次官を更迭。鈴木宗男は議運委員長を辞任。在任9ヶ月、ああいう奴でもいなくなると寂しいなあ。サライを買う。果たしてこれから仕事はあるのだろうか。

2003年1月30日 木曜 はれ
妻と義母、早朝より長野の親戚の葬儀に出かける。余、ようやく床上げ。ベルトリッチの「暗殺の森」みる。ドミニク・サンダは可哀想。トランティニアン良し。

2004年1月30日 金曜 晴 はれ
文化講義3連発。学生の新宿都庁レポートを読むとなかなか面白い。しかしコンテンポラリー講座は今日で最終回となった。困って執行さんに相談すると、織田学園というのを紹介しようといってくれる。まことに有難い恩人である。

2005年1月30日 日曜 はれ 暖
3人で 熊野神社へ行く。長男は岸本歯科で痛がったので、「痛かったら先生に痛いと言いなさい」というと「もう岸本歯科は行きません。チエ先生んちへ行きます」を連発。余波で箱根行きも中止となった。

2006年1月30日 月曜 晴
文化最後から2番目の授業。浪間先生は週3日で7コマ持っていて、今度アンコールワットへ行くそうだ。羨ましい。新橋キムラヤでグルダのベートーヴェン・ソナタ全集。大船ユニクロでジャケットとパンツを買う。5千円なり。

2007年1月30日 火曜 晴
布団干す。果樹園へ行き写真を撮る。文芸社の仕事が来ないので頭にくる。

2008年1月30日 水曜 晴 暖
妻は緑の会で北条時政邸へ行った。ずっとドイツ人が保存していたのに、次に買った日本人が売りに出したという。どこからも仕事の電話なし。

2009年1月30日 金曜 雨
終日雨降る。今日も文芸社は来なかった。やむを得ず山口氏の仕事を下請けでやることにす。孫請けなり。

2010年1月30日 土曜 晴
妻と太刀洗を散歩。お向かいのお嫁さんと会う。息子を中学校に入れるためにまた戻ってきたそうだ。疲れた顔なりき。

2011年1月30日 日曜 晴 初雪降れり
中央公民館の鎌響室内楽演奏会へ行ったが満員札止めのため帰宅し、CDを聴く。ハイドンの五度聴き終わり春の雪

2012年1月30日 月曜 晴れ
文化最終講義。これでたぶん学校は終りになるはず。

2013年1月30日 水曜 晴
妻と味噌を作る。午後ヤマダ電機、図書館。長男の携帯を解約す。安岡章太郎92歳で死す。

2014年1月30日 木曜 曇りのち小雨
ひさしぶりに栄プールで9往復す。25m×2×9=450mなり。妻は350m。

2015年1月30日 金曜 雨
関東は雪になりしが、鎌倉は降らず。

2016年1月30日 土曜 冷雨
「金目」の取り扱いを誤って辞職した甘利経済再生相の後任が、同じ「金目」発言で防災相を去った石原ジュニアとは、自民党も人材払底なり。日銀の窮余の一策「マイナス金利」導入をみても明らかにアベノミクスは破綻している。中国の景気後退と原油安で頼みの株式市況も動揺恆ならず、民草の誰ひとり景気が良くなったとは思っていないのである。内政の不安を北朝鮮のミサイルや中国の海洋攻勢を安保危機にすり替え、憲法破壊をもくろむ安倍政治に明るい未来への展望はないだろう。
ようやく冷雨が上がったようだ。
それにしても、私はいつになったら今井義行さんのような物凄い詩を書けるのだろう? いや、「今井義行さんのような」ではない。今井義行さんのように、自分らしい、自分でなければ書けない詩を、だ。

 

ハスキルのピアノに抱かれる冷雨哉 蝶人

 

 

 

Les Petits Riens ~三十五年もひと昔

蝶人五風十雨録第8回「十二月三十日」の巻

 
 

佐々木 眞

 
 

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1981年12月30日 水曜
妻は扁桃腺が腫れているがおせちづくりに忙しい。長男次男は少し風邪気味なり。

1982年12月30日 木曜
妻、風邪で倒れる。

1983年12月30日 金曜 小雪降る 寒い
夜、家郷より電話あり。祖母悪し。妹悪し。

1984年12月30日 日曜
家に居る。向かいの家より長男のピアノに対して苦情あり。妻憔悴す。直ちに戸塚の調音師を呼びて防音処置を施す。

1985年12月30日 月曜 はれ
家でごろごろ。こんなに暖かな晦日も珍しい。

1986年12月30日 火曜 はれ
依然として寝込む。本日VHSハイファイHQビデオ到着。サンヨー製13万5千円をヤマギワ藤田氏の斡旋にて7万六千五百円で現売してもらう。防衛費ついにGNPの1%を突破。

1987年12月30日 水曜 晴 暑
なにやら不気味な暖かさ。地震の予兆なるか。吉田拓郎の「アジアの片隅で」に感銘を覚える。今年みた映画は合計198本也。コロンビア本間氏の斡旋にてデンオンプレイヤーDCD1500、9万9千円を4万9千8百円にて購入。

1988年12月30日 金曜 晴
亮ちゃんが正月は来れぬかわりに今日来てくれる。一緒に「不思議なおうち」まで散歩し、紅葉とシダを採取す。お正月の飾りなり。LDにてクライバーの「こうもり」鑑賞するも歯の具合悪し。長谷川法相リクルート献金で辞任す。

1989年12月30日 土曜 はれ あたたか
少し家事を手伝う。ムクと次男とで熊野神社まで散歩。長男は依然風邪気味で5キロもやせた。「ル・クール」2月号の原稿書く。今年は良くない年だった。

1990年12月30日 日曜 はれ
妻は買い物。余はムクと散歩して昼寝してから「都市とファッション」についての依頼原稿を書く。

1991年12月30日 月曜 はれ
大船で妻のイヤリング、カセット、靴下、安永さんへのお返しの鳩サブレーなど買い、バースデイケーキの予約をする。小説少し書く。第3部に入る。

1992年12月30日 水曜 はれ
妻、長男と生協で買い物、大混雑。ワットマンにて長男のサンヨー製ラジカセ買う。1万8千900円也。熊楠の「十二支」、プラトンを読みすすむ。ムクと熊野神社まで散歩しているときに、NYのアルゴンキンホテルに最後のモヒカン族の亡霊が出るという小説のアイデアを得たが、ものにならず。

1993年12月30日 木曜 はれ
風邪治り、床上げしたが腰骨を痛めたので妻の運転で逗子の整体外科へ行く。次男は同窓会、長男は驚くべきことに一人で横浜伊勢佐木町へ行って帰ってきた!

1994年12月30日 金曜 くもり 寒
妻、長男とイトーヨーカ堂へ行き、形状記憶シャツ4枚(4万9千円を2割引き)、1万4千円のコートを買う。長男と昼寝。Y嬢のカード来る。ムクと散歩がてら泉水橋の斎藤電機まで8百円の延長コードを買いに行く。次男は遊びに行ってまだ帰宅せず。

1995年12月30日 土曜 はれ
少し風あり。午前ガラシ拭き。ムクと太刀洗いまで散歩。午後ムクの小屋の屋根を妻がラッカーで吹き付け。LDでプッチーニの「外套」をみて感動す。坂本さんのひろし君発作で大船駅にて倒れたり。「年取りてもしわれにこの悲劇ありせば、汝もっていかんとなす」と妻言いき。

1996年 12月30日 月曜 快晴
再びHMVにて6枚3千円のCD買う。残念ながら欲しかったベルクは売り切れなりき。妻と生協で買い物。ペルーの人質依然100名残れり。

1997年 12月30日 火曜 雨 寒
久しぶりに終日の雨也。早朝5時に次男帰宅。部屋は酒の匂い残れり。雨の合間に盲目のムクと太刀洗いへ散歩。トリュフォーの「日曜日が待ち遠しい」をみた。

1998年 12月30日 水曜 はれ
今日フトンを干すてふ天の香具山。ランボーの「エレガンス、サイエンス、バイオレンス」と昨夜見たL.ウオーレンなる黒人の夢に触発されて小説のコンテが出来た。

1999年 12月30日 木曜 曇
シーツが干されている。どうにも原稿が進まないのでいらだつ。家では妻と息子の余に対する評価は下落する一方なり。ユニオンでもち米と小豆、島森でアドレス帳買う。途次、滑川のほとりの桜が見事だった家が無惨に取り壊されていた。清川病院の隣で北条義時の住居跡が堀り出されているらしい。

2000年12月30日 土曜 くもり 寒
終日仕事部屋を掃除する。次男は仲間と養老の滝で忘年会で朝3時に帰り、10時から大木君宅でもちつき大会。入院中の森君は気の毒にもほとんど眼が見えないという。

2001年12月30日 日曜 はれたりくもったり
PCソフトをすべて記録し、妻のPCに移す。これでOSの大掃除が可能になった。メールにて年賀の挨拶もできるだろう。

2002年12月30日 月曜 くもり
今日も駅まで歩いたが、小町通りの藝林荘はやっていなかった。6万8千円の谷崎全集を買いたかったのだが。長谷の古書店で山田美妙の「大日本辞書」が出るかと尋ねたが出ないという。

2003年12月30日 火曜 晴
朝は妻長男義母と私の4人で生協で買い物。大賑わいなりき。午後は浄明寺の回天歯科にて神経を抜いたあとの手入れ。次回は来年の4日なり。次男は元旦に帰宅すると。

2004年12月30日 木曜 はれのちくもり
文芸社リライト終了。スマトラ沖津波被害者10万人超すという。うち日本人18名。奈良で幼児殺害犯人が捕まる。¥清子さん都庁黒田氏と婚約。次男がキャシュカード、免許証入りの財布を落とす。ばかたり。

2005年12月30日 金曜 はれ時々くもり
終日講義の準備。熊野神社から果樹園を廻って散歩する。長男依然として熱が出る。

2006年12月30日 土曜 はれ
昼前に親戚来たりて一緒に御餅つきの準備をする。イラクのフセイン大統領の死刑が執行された。

2007年12月30日 日曜 晴 風強し
1階と2階を掃除する。妻は車を掃除する。次男は帰宅せずに制作に励むらし。

2008年12月30日 火曜 はれ
妻と一緒にはじめて車の掃除をする。長男が昼寝の後で熊野神社に散歩に行くと言ったが、もう遅いからとやめさせた。

2009年12月30日 水曜 くもり
妻は朝から買い物、ガソリン、メンテと大忙し。倒れないでくれえ。3時半に長男と熊野神社へ行く。

2010年12月30日 木曜 曇
正月の代わりに親戚の人たちが十二所にやって来る。

2011年12月30日 金曜 晴
お隣のひっこし。車が2台やって来てあらかた荷物を運んで行った。なかなかお洒落なサーファー夫妻だったから、突然の転居はち残念。小坪の海の近所へ越すという。家族4人で熊野神社まで散歩したが、妻は太刀洗までで引き返したり。

2012年12月30日 日曜 雨
3人で生協までお正月の買い物に行きました。日経歌壇で震災地からやってきた芝犬次郎の歌が年間20作中の第2席に入る。穂村弘氏の選なり。君はどんな目に遭ったのと尋ねてもただ手を舐めるだけ被災地からの犬 蝶人

2013年12月30日 月曜 はれ
妻だけが大掃除で大活躍。余はブログで大活躍。熊野神社散歩。

2014年12月30日 火曜 晴れたり曇ったり
夜、次男帰宅す。

2015年12月30日 水曜 おおむね晴れ
昨夜の八重樫vsメンドサ選手のライトフライ級タイトルマッチは、双方が死力を尽くして殴り合うという文字通り血湧き肉躍る感動的な試合だった。昨年の大晦日に苦杯を浴びた八重樫が、一年の荒行と雌伏の後に約束通りチャンピオンベルト妻に贈った時には、思わず涙が出たが、健闘空しく敗れた若き元チャンピオンが、八重樫の子供や妻君にも祝意を表す健気な姿にも真のスポーツマンシップの発露を見る思いで、波乱多き2015年の掉尾を飾るにふさわしい名勝負に心の中が洗われ、「さあ、俺っちも頑張るぞ」と思いを新たにしたことだった。
涙といえば、今年はさとう三千魚さんが主宰する「浜風文庫」で、鈴木志郎康さんや今井義行さん、長田典子さんの詩を読んでいる時に、思わず熱いものがこみ上げてくる瞬間があった。有名になったあの「詩のボクシング」ではないが、詩はボクシングではないだろうか。
詩人が世の無常や自分自身の影と無我夢中で闘い続ける、そのほとんど絶望的な永久運動そのものが人々を感動させるのではないだろうか。来年は私も心から心へとなにか熱いものが伝わるような詩を、一篇でも書いてみたいと思ったことであった。

 

 

轟々と万物流転す極月尽 蝶人

 

 

 

夢は第2の人生である 第33回 

西暦2015年葉月蝶人酔生夢死幾百夜

 
 

佐々木 眞

 

 

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北野白梅町の親戚の黒い犬を散歩させていたら、そいつがいつのまにか居なくなってしまい、同じくらいの大きさの白い犬が私に尻尾を振っている。あわててあたりを探したら遥か向こうの川の中に黒犬が飛び込んだので、私は白犬を抱きかかえたまま駆けつけた。8/1

鉄の船の艦長は、「まもなく戦闘が始まるから6時まで寝とけ」と、子供たちに優しく声をかけた。8/2

会社の私の席にチビで小太りの男が座っている。電通の営業のTだ。業者が「課長はどちらにおられますか?」と尋ねると、「首になったそうだよ」と答えたりしているので、頭に来た私が、「お前という奴は!」と怒りをぶつけると、「ハハハ、冗談冗談」と笑ってごまかそうとするのだった。8/2

夜行で富山へ急行して駅周辺の重要施設を抑えた私は、黒部側からの進攻を未然に防ぐために立山駅を制圧しておいたが、これが反乱軍との最後の攻防において決定的な勝因になろうとは、そのときは夢にも思わなかった。8/3

戦前戦中を通じて「66羽の大白鳥と3人の莫迦大将」はこの国の一大人気見世物だったから、戦後もなんとかいけるだろうと思い、私たちは乾坤一擲の全国一巡興業に打って出た。8/4

ノンノの編集長が八幡宮で御神籤をひいたら「鶴は千年亀は萬年つるかめつるかめ」とだけ書いてあったので、人類が滅亡した萬年後にもノンノは発行されるという御託宣なのか、と思って喜ぼうとしたが、なぜか喜べなかった。8/5

ここで聴くモザールのピアノソナタの素晴らしさ! そして続いて演奏されたのは、まだ一度も聴いたことがない作曲家の作品だった。8/6

子細に観察してみると、そのブランドの色柄素材デザインは1年前のそれとほぼ同じで、ごく一部だけが微妙に変えられているのだった。8/6

有島武雄情死の報道を聞いたので、「よーし、オラッチも精をつけてぐあんばろう!」とおねえちゃんに餃子を頼んだが、「すみません、生憎皮がないので出来ません」と断られてしまった。8/7

英国ランカシャー地方の蝶の生態を研究しに現地を訪れたのだが、日本産の蝶とはまるで違う品種ばかりなので、びっくり仰天してしまった。8/7

アパレル販売部長の私がいつものように品番別売上高を検索すると、カタログで道端ジェシカが着ていたアッパッパアが断トツで首位だったが、それが南仏サントロペにおける強盗事件の影響によるものか否かは分からなかった。8/8

とうとう安倍戦争が始まった。彼奴は戦時中は国民の誕生祝いを禁じたのだが、もはや独裁者のいいなりになっている国民は、誰一人その法律にあえて逆らおうとはしなかった。8/9

「カール・ドライヤー」ブランドの洋服を素敵に着こなしたその少女の顔には、シスレーの点描画のドットのようなそばかすがちりばめられていたが、そよ風に吹かれた彼女の金髪が私の頬を気まぐれに撫ぜるたびに、私は彼女を絶対によそへやりたくない、という気持ちが募るのだった。8/9

島根鳥取の山奥にある何軒かの親戚を訪ねたら、いずれも山紫水明の地にあってこの国の理想的なリゾートではないかと思われたが、いくら扉を叩いても誰も出てこない。8/10

村上春樹を巡るミステリーツアーを企画した私が、青木さんと蓮池君を招待すると、「おお、これは、これは」などと言いつつ、2人とも大喜びで巨大なショウボートに乗り込んだ。8/11

突如依頼された翻訳の仕事だったが、その内容がチンプンカンプンでさっぱり分からず、途方に暮れていたら、見ず知らずの四方田という人から「もうそれは僕がやっておいたずら」というメールが舞い込んできたので驚いた。8/11

「若い恋する2人がこのまま別れてしまうのはあんまりだ」と、塩見牧師は丹陽教会に密かに2人を呼び寄せ、結婚式を挙げてから野に放った。8/12

これまでは国内撮影だった。今回初めて海外でカタログ撮影をすることになったのだが、飛行機の中にはいつもの製作スタッフの他に、販売員をはじめ食堂やお掃除のおばさん、保健師まで乗り込んで楽しそうにはしゃいでいるので、プロデューサーの私は頭をかかえた。8/13

「アブラカタブラ」ではないが、それさえ唱えておればいかなる戦いもトラブルも乗り切れるという重宝なマントラを神様から授かったというのに、眠りながらそれを唱え続けていたというのに……。8/14

道場には秘密の治療塔があり、そこではインキンタムシから四十肩五十肩、肩コリ、頭痛、右翼小児病の脳タリンまでありとあらゆる難病奇病を治してくれるのだが、人々はそれを救急車のようには多用せず、最重度の癌や自閉症などに限って使用していた。8/15

私が田舎のお年寄りに昨日新聞で読んだこぼれ話を尾ひれをつけて面白おかしく語って聞かせていると、さっきからそれを背中越しに聞いていたらしい今井さんが、「エヘン」と咳払いしたので、私は思わず赤面してしまった。8/16

「うるさい! 黙れガビチョウ」というコピーの広告を気に入って即決した私だったが、店長が「そんな広告を出せば中国人が爆買いしてくれなくなるぞ」というので、仕方なく「もっと小さな声で鳴け、ガビチョウ」に変更した。8/17

わが社に向かって歩いてくる女性が、みな若くて美しく、しかもみな顔にほくろがあることに気付いたが、あとで人事課長の内田に尋ねたら、「いやあ、その3つが今回の人材募集につけた社長の求人条件なんですよお」といって頭を掻いた。8/18

このバーのマスターと私が毎晩密談しているうちに、会社の経営方針や社内の人事や海外スタッフの異動などが決まっていくことが多くなっていったので、とうとう私はここに引越すことに決めた。8/19

世界作曲コンクールへの応募作が、ようやく完成した。締め切りぎりぎりで投稿を済ませてホッとしていると、親友がやって来て「ぜひ聴かせてくれ」というので、最新作おまんた音頭をピアノで演奏していると、顔色を変えて「それは僕のとまったく同じ曲じゃないか」と叫んだ。8/20

秋葉原から国電に乗ると、中尾ミエによく似た女性が、いかにもな横顔を見せてもっともらしいたたずまいで横座りしていたが、そこへピョンとやって来た巨大な野兎が、私の体に身を押しつけて窓の外へ投げ捨てようとするので、私は懸命にこらえていた。8/20

私が愛犬モバスルーと世界の山々を旅する映画「モバスルー」は、幸いにもそこそこヒットしたようでうれしい限りだが、次回はできれば美貌の女社長ともども出演したいものである。8/21

「それで、うちの広告はどこに入れてくれるんだい?」とフレンチ・ヴォーグの営業マンに尋ねると、彼は「ここです」と言いながら表2見開きを指差したので、私は「それならいいだろう」と納得した。8/22

にっくきイトレル猪八戒が、小説に続いて詩集の発刊を禁止したので、まだ一冊の詩集も出していない私は、恨みを呑んで泣く泣く地下に潜ったのだった。8/23

頭の中で蝉が鳴いているのか、窓の外で鳴いているのか、よく分からない。8/24

BSプレミアムの「アナザーストーリーズ運命の分岐点」で案内娘を務める真木よう子の能面冠者のような顔つきを眺めているうちに、はたと思い当たった。これは金井克子の「他人の関係」を真似しているんだ。8/24

私が初めて書いた小説を、ブルータスの小黒氏に見せたのだが、「いやあ、あの緑のインクには参りました」と言うばかり。没にした小説の代わりの原稿をお気に入りのライターに依頼している姿を見せつけられた私は、激しく落ち込んだ。

小黒選手が別れの言葉も告げずに立ち去ったあと、私はットボトボと歩いて原宿駅にやってくると、山手線を牽引する小さな機関車が止まっていたので、それに乗り込むとすでに何人かの先客がいた。誰が乗っても構わないようだ。

やがて機関車は、15両の客車をカブトムシのようにとがった角で押しながら、代々木駅に向かってゆるゆると発車したが、私の心は相変わらず憂鬱だった。8/25

「わが社では内定した学生には「いいね!」マーク、駄目だった学生には「もうちょっとぐあんばろう」マークを夜中にメールで送っているんです」と、人事課の内田がイヒヒ笑いをしながら教えてくれた。8/26

横浜港へ見送りに行くために西口の階段を懸命に乗り越えようとしたが、右肩に激痛が走って何度も崩れ落ちるし、敵に照準を定めて射殺したはずなのに、発射が数秒遅れて当たらない。体が急激にガタがきているのだ。8/27

友達がたった一人の男がSNSにかぶりついて、いくら読んでも意味不明の高論卓説を朝から晩まで24時間怒涛の勢いで撒き散らすと、その唯一の友が、いちいち「いいね!」をクリックして返すのだった。8/28

わが尊師は、それがいかに高価な衣服であろうとも、染め斑のある長衣に袖を通そうとはなさらなかった。8/28

隣の家の犬がワンワン吠えてあまりにもうるさいので、道端ジェシカと一緒に覗きこんでみたら、家族全員がワンワンファミリーになっていた。8/29

健君はまるでましらのように自在に大樹に登っては降りて、あっという間にどこか遠くへ行ってしまった。8/29

私は巨大な倉庫の上層まで聳える在庫の山の中から、「サブウエイMIⅩ」と「なんちゃらMIⅩ」、「かんちゃらMIⅩ」の3種の詰め合わせお菓子を買ったのだが、それぞれがあまりにも重いうえに、大きすぎてどこへも動かせないのだった。8/30

私が駅から会社に向かって歩いていると、営業部の女性が「あなたの部下のA子さんは、お昼になるのにまだ出社していないんですよ」とチクったので、「それはそうでしょう。彼女は昨日の夜からついさっきまで私と一緒だったんだから」と言うと、驚きのあまり絶句した。8/30

潜水艦に囚われていた婦女子を救助しようと小舟で接近した私は、なんとか彼らを脱出させることに成功したのだが、私自身を救出することができず、いつまでも潜水艦の排水溝にしがみついていた。8/31

 

 

 

Les Petits Riens ~三十五年もひと昔

蝶人五風十雨録第7回「十一月三十日」の巻

 

佐々木 眞

 

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1982年11月30日 火曜
子規を読む。後世に何事か残さざるべからずという気持ちになるね。神奈川県域自閉症児者親の会の運営について悩む。今朝台風で立ち往生す。

1983年11月30日 水曜
11時半、ポプメディア蛇川氏。OCCAの企画書を書く。

1984年11月30日 金曜 はれ
朝日有賀、放送出版伊藤、テイチク山口氏と渋谷クロコダイルで令たえ子ライヴ。イエイエガール選考会。

1985年11月30日 土曜 はれ
ゆっくり休む。パウル・クレー展みる。子供のようなデッサン。1940年没。

1986年11月30日 日曜 はれ
ジェーン・バーキンはキディランドでお買いもの。夜音響スタジオにてグリーグのペールギュントの「ソルヴェーグの歌」を管弦楽とピアノの両方で録る。久しぶりに自宅でくつろぎ「キネマ旬報」の原稿を書く。

1987年11月30日 月曜
電通にてINメディア打ち合わせ。「天国のバンサン」はキューバ革命を生き長らえた貴族一家の悲喜劇。獣の映画だ。ラテンの血を感じる。「メロ」はアラン・レネの大恋愛映画で泣かせる。六本木トリスタンで小学館パーティ。ポスト鈴木氏、ダイム中村、タッチ島本、GORO遠藤氏。

1988年11月30日 水曜 くもり後雨
やはり綾部は寒くて暗い。雨も降る。中島牧師主宰で午後7時から自宅でプロテスタントの十日祭挙行。阿部、高橋姉が亡き祖母の思い出を語ると、ふくいちのおばさんが頷いている。出席およそ五十名。昼、明田の甥御さんが東京からみえた。

1989年11月30日 木曜 快晴
LAにてテレビCMの撮影。

1990年11月30日 金曜 雨
台風27号来襲。珍しきことなり。東京店長会。「アタメ」はくだらぬスペイン映画。2万5千円のウールジャケット買う。

1991年11月30日 土曜 はれのちくもり
昨夜すごい歯痛。4時に抗生物質飲み、朝10時に木下歯科に電話して東京へ。レントゲン撮影の結果、歯そのものの痛みではないといわれる。

1992年11月30日 月曜
会社は嫌だ。電通、酒井、小坂でJ.C必販計画を考える。

1993年11月30日 火曜 くもり
在NYJ.C山本のレターを読むと嫌になる。こちらのトリックを見抜いてきたのだ。やはりつけは払わねばならぬか。おまけに松山出張の支払いが1万8千円以上になったので、前田さんに1万円借りた。気持ちは暗い。

1994年11月30日 水曜 はれ
昼明治神宮に詣で内苑を散策す。紅葉もう一歩。池に白鷺、鴨泳ぐ。午後スタッフ構想を上司に示す。

1995年11月30日 木曜 はれ
疲れつつ生き、疲れながら死んでいく。それが日本人の、私の生涯。あっという間に1年経った。

1996年11月30日 土曜 くもり
佐藤病院にて胃カメラを飲む。異常なし。メトのリングビデオみる。素晴らしい。

1997年11月30日 日曜 晴
昨夜嵐となる。義父死に瀕す。朝目白山医師診察。瞳孔開きっぱなしで腕ぶらぶらなり。呼べば少しく聴こえる模様。

1998年11月30日 月曜 くもりのち雨
室田氏がやって来て2千万2月払いにならんかという。伊藤忠の製作費を繰り延べるしかなし。夜久しぶりに雨。耕、今日からゆりの木で短期入所。

1999年11月30日 火曜 晴
三菱東京銀行にてフラン紙幣を1万5千円に両替し、門前仲町ドコモショップにて携帯ファミリー割引を申し込む。本日退職届の最終日なり。

2000年11月30日 木曜 はれ
久しぶりに吉祥寺の専門学校二葉にて世界状況論を2時間にわたってぶつと、案の定みなしらける。新橋でリング14枚組CDとシューベルトを買う。1枚200円也。

2001年11月30日 金曜 はれ
二葉年内最終講義。銀座資生堂ワードで岩合、海野両カメラマン談義。失業率5.4%、男子5.8%となる。

2002年11月30日 土曜 くもり
資生堂ワードのやり直し版を送信す。妻が「息が詰まる、もう死んでも構わない」という。可哀想なり。

2003年11月30日 日曜 小雨
卓、午前、健午後去る。妻疲労困憊。余、茅ヶ崎文化会館にて田園と火の鳥を聴く。

2004年11月30日 火曜 くもり
青砥橋の「青砥」にて義父の7周忌の会食。

2005年11月30日 水曜 はれ
文芸社の文字のデジタル化を親戚の宏さんにお願いするため、1日がかりで元原稿をファックスする。

2006年11月30日 木曜 くもり 寒 ○
文化の講義の準備をする。弟と妹に、長男が通っている施設のカレンダーを送る。母、妻と3人で太刀洗を散歩。

2007年11月30日 金曜 はれ
久しぶりの好天なり。長男を誘ったが路線図を書くといって断られたので、妻と2人で太刀洗を散歩。結局路線図は完成しなかった。

2008年11月30日 日曜 晴
風もなく好天。長男と熊野神社巡り。昨日行けなかった開墾地の笹の林を探検す。夜次男帰宅。絵は売れなかったそうだ。

2009年11月30日 月曜 くもり
文化で屋外広告について講義す。散髪する。

2010年11月30日 火曜 晴れたり曇ったり
映画などをみては、ブログに感想など書く。朝鮮半島の緊張は続いている。

2011年11月30日 水曜 晴れたり曇ったり
布団を干す。今日も文芸社の仕事は来なかった。

2012年11月30日 水曜 くもり
長男と3人で、短期入所の福田の里から帰る。耕は依然としてびっこをひいている。党首討論でアホ慎太郎が阿呆なことをほざいている。

2013年11月30日 土曜 はれ
たまには運動せねば、ということで久しぶりに熊野神社まで散歩する。今夜6時から次男の「一夜限りの似顔絵描き」パフォーマンスあり。

2014年11月30日 日曜 くもり
十二所に栄子さん来たりてホーミング桑名君と改修打ち合わせ。

2015年11月30日 月曜 くもり
浄明寺の郵便局でお金をおろし、藤沢で小田急の回数券とコーヒー豆を買い、大船駅で千円寿司を立ち食いして帰宅し、来年1月の弟の娘の結婚式に着ていく服を試着する。シャツとネクタイを新たに買わねばなるまい。水木しげる、心筋梗塞にて93歳で没す。おそらくわれも同じ病で死ぬべし。

 
 

奥歯痛が世界を圧し霜月尽 蝶人

 

 

 

夢は第2の人生である 第32回 

西暦2015年文月蝶人酔生夢死幾百夜

 

佐々木 眞

 

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「ここにあの毒持ち大蛇がいるからちょっと見てきてくれないか」「エッ、毒持ちですか?それはちょっと勘弁してくださいな」「いや、どうしてもあんたに見てきてもらいたいんだ。あいつをやっつけないかぎり俺たちの国に仕合わせは戻ってこないんだ」7/1

こらワタナベ、こらマエ。そんなに偉そうに俺に物を言うな。お前らと俺とはもうとっくの昔に赤の他人なんだ。赤の他人にお願いするときには、まず帽子を取り、「どうぞよろしくお願いいたします」と丁寧に頭を下げるんだ。分かったか、このボケなす。7/2

「南無南無社会保障」なるテレビ番組をみていたら、元気よく喋っていた出演者が突然何者かに撃ち殺されてしまった。きっと誰かが「潰した」のだ。7/3

酔っぱらった村雲太郎選手がテレビ番組に出てきて、「あのお60年代は、やっぱりそのおいろいろあったね」とか呟いていると、スタジオにいた若い男がいきなり立ち小便したので、村雲選手は「あ、こりゃまた失礼いたしやしたあ」と言いながら、自分もしょんべんした。7/3

久しぶりに横須賀線に乗ってみたが、駅の名前が分からない。1つの駅に3つくらいの異なった表示が出ている。仕方がないのでとりあえず目の前のに乗り込んでみたら、電車だったはずがいつの間にか船になったり、突如飛行機になって空を飛んだりするので驚いた。7/4

「わが社の最大の特徴は複合マーケティング体制にありまして、ターゲットを1つに絞らず、男と女、ヤングとシニア、和と洋、都会と田舎、静と動、光と影、神と仏のような2つの相反する要素を同時並行的に追及するよう努めております」と、その男は語った。7/4

家の隣が映画館なので、毎晩こっそり忍び込んで一番後ろの座席に座っていると、嵯峨三智子とか井上正夫の顔を見たが、今夜は株式課の川口さんだった。総会屋にお中元を渡してきた帰りだろう。川口さんは「久しぶりだね。奥さん元気?」と人懐っこい笑顔を浮かべたが、その顔は蒼白だった。7/5

退屈すると、我われは女子大の寮にストームをかけた。人魚のような半裸の女子が横たわっているベッドの上を、「ドドシシドッド」と駈け抜けると、彼女たちはうれしそうに歓声を上げるのだった。7/6

私たちは2人でどんどん沖合に出て、波の上でゆったりと寝そべっていたので、そこがいつ沈んでしまってもおかしくない不安定な海の上であることを、すっかり忘れていた。7/6

あまりにも多くの観光客が押し寄せるようになったので、当局はすべての道路を立ち入り禁止にしていたが、私は平安時代からの獣道や江戸時代の秘密の抜け道を知っていたので、自由自在に出入りすることができた。7/8

死んだサカイ君やまだ生きているだろうセキノたちと野球をしていた。セキノが「僕はボールが怖くてたまらないんです」と言ったので、私は「そうなの。僕はちっとも怖かないけどね」と応じたら、セキノは妙な顔をして私を見た。7/9

敵と戦うその戦士の武器は、2つの火器であったが、戦時ではなく平時にその火種を消そうとしても、けっして消えることはなかった。7/10

私がその鳥小屋に入っていくと、尻尾のむやみに長い尾長鳥をはじめ無数の鳥たちが、私の頭や両肩に止まろうとして、激しく争うのであった。7/10

中国人のお金持ちの結婚式に招待された私が、上海の式場にたどりついたら、物凄い爆竹の音が鳴り響き、白衣の花嫁が朱に染まって倒れている。どうやら爆竹ではなく爆弾が炸裂したようなので、皆我先に逃げ出した。7/11

「綾部にもオペラハウスが出来たそうだから、一度見に行こう」と前田選手が勧めるので、急いで駆け付けたのだが、ここは映画館の三丸劇場で、観客は一人もいない。いったいどこでオペラを上演しているのだろう、と激しく焦っているわたし。7/12

「お前は絶対にそのライフル銃で人を撃ったに違いない、さあどうだ白状しろ」と警官がいい募ったので、私は自分はすでに最愛の人を撃ち殺してしまったことに気づいて、激しく動揺したのだった。7/14

学校へ行って講義を聞いても、ろくでもない教師の詰らない噺ばかりなので、失望落胆した私は、もう一切の授業には出ず、学校の近くの雀荘に通いつめて、朝から晩まで賭けマージャンに興じていた。7/15

部長の私は、妻のフォーマルウエアの買い物を手伝うようにと課長に命じたのだが、彼は自分が勝手に選んだ商品を妻に届けたので、頭に来た私は、そいつを彼奴に突き返し、改めて妻とデパートへ一緒に行って彼女にふさわしいドレスを買ってやった。7/16

就活戦線は依然として熾烈であるが、この大学の俳句研究会の自由律メムバーはいつもいいところに就職しているという神話があって、ある学生が最終面接で「オットー(夫)と/呼ばれし日本人」という句を即興で詠んだのだが、あえなく落とされてしまった。7/17

若き日に伊豆の温泉を出るとき、宿の娘から手渡しされた「しきみ」の実を取り出して眺めるたびに、あの娘はどうして私にこれを呉れたのだろう、と謎は深まるのだった。7/18

犬と猫の詩を書いていたらチャウチャウとチャシュー猫が取っ組み合いの大喧嘩をはじめたので。せっかくの名編が台無しになってしまった。7/19

うちの奥さんが、崖の穴ぼこに潜んでいた五位鷺をうまくつかまえたので、ハラハラしながら見守っていた隣の奥さんと飼い猫たちが、拍手喝采した。7/19

「その緑色のプラナリアに早く水を掛けないと、死んでしまうぞ。死んだら、お前のデザインを創造する力は、枯れてしまうんだぞ!」と叫んだが、イタリアの富裕ブランドのデザイナーの耳には届かない。7/20

その悪党が、組織をちょっといじっただけで、うちの会社はめちゃくちゃになってしまった。7/20

人殺しをし合う戦争が怖くて怖くて、一目算に前線から逃れてきた私は、軍服や武器弾薬を駅の近くに隠したのだが、他に行くところもなくて軍営に戻った。7/21

私が東京五輪に反対していることを知りながら、隣のオバハンが私のパソコンに侵入してのっとり、「どうぞ私の家を潰して新国立競技場にしてください」というメッセージを拡散したので、私は怒りに震えた。7/22

私が猛烈な速さで夢をみ続けていると、「お客さん、もうちょっとゆっくりにしてもらえんかね、メモができんのでね」と、誰かが文句を云うた。7/24

リーバイスをはいたその男は、挨拶もせず、私を完全に無視して、あたりの女にちょっかいを出しはじめたので、私は「このバルバロイめ、俺の女に手を出したら容赦しないからな」と警告した。7/24

どういう風の吹きまわしかノーマ・カマリというブランドが復活したというので、私はさっちゃんと一緒にオンボロ車に乗って、全国巡業クアンペーンに旅立つ羽目になったのだった。7/25

ラジオ番組の下打ち合わせがあるというので、某局に出かけたらプロヂューサーとかディレクターとか出演者などがわんさと並んでいて、結局これがどういう番組で私は何をすればいいのか分からないままで帰宅した。7/25

安倍蚤糞の御蔭でさっぱり仕事が無くなってしまったので、仕方なく大学の就職課へ無職の息子と相談に行ったら、「親子で就活とは、こりゃ珍しい」と職員から珍獣扱いされ、写真を撮られたり、取材を受けたりしたので、ほうほうの態で引き揚げた。7/25

久しぶりに回転寿司屋に行ったら、寿司の代わりに懐かしい故郷の写真が次々に流れてくるので、手に取ろうとするのだが、ついと流れ去ってしまうのだった。7/26

NHKの海外放送局のサウンドロゴを作ってほしいというリクエストがあったので、三波春夫のオマンタ囃子を薦めたのだが、「局内で検討させてください」という返事があったきり、連絡がない。7/27

巴里に到着した夜に、クライバーが「薔薇の騎士」を振るというので、ガルニエ宮に駆けつけたのだが、私の目の前で当日キャンセル券が売れてしまい、私は泣く泣くホテルに引き返したのだった。7/28

暑い、暑い。こう暑くては脱水症になってしまう。うちの奥さんは「喉が渇いたと思った時に飲んだのでは、もう遅すぎるのよ」と警告するのだが、ではいったいつ水を飲めばいいんだろう。7/28

社員旅行のお昼に入った和食屋さんには、寿司、天ぷらからラーメン、餃子、精進料理までありとあらゆるメニューが取り揃えられており、しかも安価で美味しかったので、こういう店が家の近くにあったらなあと、私は羨ましく思った。7/28

私は、鳥になって撃たれたふりをしていたが、人々はいつまでたっても、それを私だとは気がつかなかった。7/30

お兄さんたちのテントでは大いに盛り上がっているのに、我われ子供は、やたら焼き肉を食べさせてくれるだけで、仲間には入れてくれない。お兄さんの意地悪!7/30

世界一周旅行の途中神戸に寄港したので、ワールドの展示会場を訪ねたら、旧知のデザイナーやバイヤーがまじまじと私を見つめるので、その視線の先を辿ると、私の半ズボンの半開きの社会の窓があった。7/31

NYのセントラルパークの中に「シェ・フィガロ」という安レストランがあって、ここを訪れると、フィガロよりもファルスタッフに似たビヤ樽ポルカに似た老僕が、私をぎゅぎゅっと抱きしめてから、安くて美味いフレンチを御馳走してくれるのだった。7/31

 

 

 

Les Petits Riens ~三十五年もひと昔

蝶人五風十雨録第6回「十月三十日」の巻

 

佐々木 眞

 

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1982年10月30日 土曜
午前中、裏庭の整理をする。日本シリーズ、4勝2敗で西武勝つ。

1983年10月30日 日曜 はれ 寒
みかん狩りなれど長男は行かぬと主張して行かぬ。妻は映画を何年振りかで観たり。小生はテレビCM用の音楽探し。

1984年10月30日 火曜 はれ
新ブランドの展開についてはノーアイデアなり。六本木WAVEにてSEDICの樋口氏に会う。

1985年10月30日 水曜 小雨
越中島に32課の杉山氏を訪ねる。

1986年10月30日 木曜 夜にわか雨
銀座ヨットハーバーにて放送出版企画のトラサルディ・パーティ。マガジンハウス石川次郎氏、ハイファッション小島さん、朝日新聞有賀氏など。

1987年10月30日 金曜 くもり
ケベック・シネマウイーク第1日。「冬の動物園」、一風変わった父と子の愛情物語。「パーソナルパワー」最低。「マリーは街へ行った」、娼婦サラと13歳の少女マソの友愛物語。秀作。「アンヌ・トリステール」レスビアン映画。本日、社長構想会。

1988年10月30日 日曜 はれ
妻落ち込む。次男また野球負ける。長男は外へ出たくないと云う。余、「指輪」のモノラル長時間CDを聴く。

1989年10月30日 月曜 晴れ
社内で新事業について打ち合わせ。通産省にて生活文化フォーラム準備委員会。「食空間」についての議論。日本雑誌協会にてSPUR編集長で同級生の山本大介の講演を聴く。

1990年10月30日 火曜 小雨
グルジア映画「希望の太鼓」。人事に後任を依頼す。

1991年10月30日 水曜 くもり
明星ビル8階にて企業CF是非論会議。すべてが虚しい。中東平和会談マドリッドにて始まる。

1992年10月30日 金曜 くもり
首の付け根と肩が凝って何をする気力もないが、永代にてIN店長会とショウの打ち合わせのあと「メンクラ」岡編集長のクレームを聞く。アラン・コルノーの仏映画「Tous les matins du monde」(めぐり逢う朝)をみる。

1993年10月30日 土曜 雨
次男、傘を持たずに学校へ行った。彼は成績が良くない。先生は「何も勉強しないでこの成績なら、やれば伸びる。1つでもいいから伸ばそう」というたそうだ。ジョン・フォードの「我が谷は緑なりき」をみる。

1994年10月30日 日曜 くもり
シンポジューウム2日目。宇治平等院、平泉毛越寺、鎌倉永福寺の中世園池庭園についての発表あり。大三輪氏曰く「八幡宮寺は礼拝、勝長寿院は滅罪、永福寺は御霊鎮魂の寺なり」と。また「永福寺の二階堂寺には釈迦如来が祀られていた」との仮説を出された。その後由比ヶ浜にてサーフィン見物。左足に潮を浴びる。

1995年10月30日 月曜 はれ
オウム解散を東京地裁が認定。この頃腰痛し。

1996年10月30日 水曜 はれ
始終体具合悪し。こんな会社にいると殺される。横浜でイダ・ヘンデルのバッハ2枚、クーベリックのシューマン、フラグスタート、ラベルの「子供と呪文」買う。

1997年10月30日 木曜 晴
午前、店長会。午後サンアド葛西氏に98年春の制作物のオリエン。来年の春には余はこの会社にいないだろう。

1998年10月30日 金曜 はれ
実際は会社の仕事は少なく、みなさぼっている。早くリストラせよ。渋谷でスパイク・リーのバスケット映画みる。妻、実家の木を切る。

1999年10月30日 土曜 晴
楽しく布団を干しながら、「フジヤマ」と「ゲイシャ」というタイトルで2つの掌篇小説を書こうと思う。昨夜次男帰宅したが体調が悪そう。大学院を控え心配なり。母は妻、ムクと太刀洗いに行き烏瓜を取る。

2000年10月30日 月曜 くもり
午前中文芸社にて取材。著者が手記を持参していたので大いに助かる。夜、飯田橋の同文社にて前田、斎藤、浜田氏と交歓。

2001年10月30日 火曜 くもり
長男、昨年に続きふきのとう舎バザーを欠席。余は終日講義録をつくるが、いずこよりも電話なく、猫のみ来たりてニャアという。盲目となりし愛犬ムクのご飯を食べるので、頭を叩いてやった。

2002年10月30日 水曜 はれ
修理工事3日目。今日は業者3名来りて書斎の横木を取り替え、てっぺんの赤さび落として下地を塗りたり。妻は横浜の病院にて定期健診。

2003年10月30日 木曜 はれ
やっと資生堂ワードの仕事を終える。疲れた。長男は小田急の事故で高座渋谷から桜が丘まで歩いたそうだ。ワットマンに出したチューナーとLDプレイヤーの修理が終了。

2004年10月30日 土曜 雨
妻は風邪をおして長男と横須賀の歯医者へいく。早く治れ! 仕事大台を越す。

2005年10月30日 日曜 くもり
妻とつまらぬことで喧嘩し、困ったことになる。メンソレがどこにあると怒った余が悪いのだ。1人で果樹園まで歩く。

2006年10月30日 月曜 くもり
文芸社に頼んで締め切りを1週間延ばしてもらう。

2007年10月30日 火曜 晴れたり曇ったり
文芸社第1稿アップ。午後久しぶりに果樹園へ。ノコンギクとアザミが咲いていた。

2008年10月30日 木曜 晴れたり曇ったり
数日前港で子供が裸で遊んでいた。数日前ツクツクホウシの死骸を見付けた。米大リーグ、レイズがフィリーズに敗れる。

2009年10月30日 金曜 晴
特に記すことなし。

2010年10月30日 土曜 雨
台風がやって来た!

2011年10月30日 日曜 晴
長男と西友で買い物をする。

2012年10月30日 火曜 晴れたり曇ったり
中原中也が亡くなった清川病院にて身体検査。忘れ物をして自転車で家まで戻って、また病院へ。耄碌したものなり。

2013年10月30日 水曜 晴
長男ようやく少し元気になる。余、清川病院に入院中の義母にランチを届ける。元巨人の川上哲治死す。93歳。

2014年10月30日 木曜 はれ
サッシ工事の価格交渉に入る。17万くらいで出来ると云う。

2015年10月30日 金曜 晴れたり曇ったり
朝元大慈寺、現カトリック修道院前の路地でフジバカマの蜜を吸うアサギマダラを発見。私が鎌倉に来て40年になるが、初めて見るアサギマダラなり。一刻も早く奥村晃作氏に伝えなければ。

 

幾山河越え去り来しや浅黄斑 蝶人

 

 

 

夢は第2の人生である 第31回 

西暦2015年水無月蝶人酔生夢死幾百夜

 

佐々木 眞

 

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私が勤務している会社は地道に米を販売する地味な会社なのに、社長がとつぜんとち狂って若者向けの2種類の新製品を発売し、それぞれにマスコットキャラクターをくっつけて売り込むのだと張り切っている。6/1

しかもその会社の社長は、私にはすでに愛妻があると知りながら、会社の同僚の若い女性を私にくっつけ、一日も早く結婚させようと様々な策謀を巡らせているのだった。6/1

バスの添乗員のおばさんが、さきほどからバスを待たせたままウロウロしているので訳を聞いたら「モメントを買いたいの」というので「モメントってなに?」と聞いたら「モメントいう名前のミネラルウオーターです」という。

「そんならこんなところでウロウロしていないで、最寄りの自販機かスーパーかコンビニへ行って早く買いなさい。あんたのお蔭でみんな迷惑しているんだよ」と言ったのだが、バスガイドのおばはんは、相変わらずそこらをウロウロしているのだった。6/2

正月3日神君家康公の天下太平を祈念して、俺たち6人の船乗りが波高き江戸湾に乗り出したが、無数の宝船があたりを埋め尽くし、足の踏み場もない大混雑じゃった。6/3

ごろつき政権になってからというものは、貧富の差はますます甚だしくなり、富裕層はもはや普通の日本語をやめて世界の富裕層にも通用するフユウ語、すなわち新たに改定されたネオエスペラント語を使用するようになった。6/4

絶大な人気を誇るその流行作家は、講演と読者サービスを行うことになっていた当日のイベントに無断で欠席したのみならず、それっきり私たちの前からぷっつりと姿を消してしまった。6/5

あの美貌の誉れ高き高等娼婦を、幕末明治の革命家たちが誰ひとりものにできなかったことが、その後のこの国の歴史のついに咲かなかった薔薇の蕾のごとき存在になってしまったことを、私だけが知っていた。6/6

葉山の御用邸の近くに住む画家に招かれて、彼のアトリエ兼別荘のあちこちに飾られた作品を見物した。ベランダに置かれた1枚では、金髪の少女がボートに乗って逆巻く海に向かって漕ぎだそうとしていたが、荒波に呑まれてたちまち見えなくなってしまったので、初めて絵ではないと分かった。6/7

空谷の跫音に驚いたのか、ケーブルカーは突如嵐のように前後左右に揺れ動きはじめたので、パニックに陥った私は、指に唾して窓に「HELP!」と書いたのだが、これでは外からは意味不明だと気づき、ではどう書けばいいのかと焦っていた。6/8

京橋駅の改札口で「斎藤さんは?」と尋ねると、切符もぎりの隣にいた人の良さそうな中年のひょろながい男が、「斎藤さんはまだですが、私を覚えていますか?」と答えたので、はていったい誰だろうと考えていると「20世紀フォックスの○○ですよ」と懐かしい声がするのだった。6/9

蒸気機関車が煙を吐きながらホームに滑り込んでくると、愛犬ムクはいきなりひらりとジャンプして、線路の向こうに消えてしまった。急いでその跡を追うと、ムクは国鉄と交差する私鉄の線路を疾走していたので、焦った私はタクシーを摑まえて追いかけた。6/10

今年の「デジタル版ゆく年くる年」の番組製作は「インディーズ青年組合」が担当することになったのだが、そのハイライトとなる歳時記カレンダーの正月号を見たら、31コマのすべてが高島易断の運勢本歴と同じ内容だったので驚いた。6/11

私が絹のように柔らかな寒冷紗で出来た捕虫網をサッと一閃すると、その中にワシントン条約で捕獲が禁止されている色とりどりの貴重な蝶や鳥や昆虫が、どっさり飛びこんできた。6/12

吉田吉雄という今年68歳になる無名のカメラマンに、24カットの写真撮影を依頼した無謀さを後悔し始めていた私だったが、彼が寄越した撮影済みのポジをルーペで覗いた途端、それがまったくの杞憂だったと分かった。6/13

村の長老が、郷土への燃えるような愛を築くために、若者たちのさらなる克己と献身を求めたので、私たちは性器を何度も扱いて俵の中に気を遣った。6/14

村祭りの自由走60キロの部で優勝したのはいいけれど、その御褒美に「村の女性の好きなひとりを一夜自由にしてもいい」と村長から言われて、長らく不能の身の私は、はてどうしたものかと大いにうろたえていた。6/15

どうやらふとしたことからもののはずみで人をあやめてしまったらしい。それなのにおらっちはしらぬかおのはんべいをきめこんでいるらしい。こまった、こまった。いやだ、いやだ。6/16

或る朝目覚めると広場は人で一杯だったが、よく見ると彼らの下半身は一輪車と化していて、「ギュギュギュ、ケチョ、ケチョ、ケチョ」という台湾リスの鳴き声のようなペダルを踏む異様な物音が鳴り響いていた。6/17

ぼろぼろの船に乗ってようやくこの小さな港まで辿りついた人々は、航海日誌に船の名前と船舶番号を記入すると、そのまま短い一生を終えてしまうのだった。6/18

「私たち真夜中に峠を越えてこの村にやって来たんですけど、蛍が星の数ほどきらきら輝いていたんですよ」と、その貧しい一家の人たちは興奮さめやらぬ口調で語るのだった。

伊藤忠ふぁっちょんシステムの新ブランド開発会議に♪ラリラリラーンと出席したら、むかしの会社や知り合いの業者の人たちが大勢並んでいて、私がなにかヒジョーニ重要な発言をするのではないかと期待するような表情で注視しているので困ってしまった。6/18

よれよれのまっ黒けの服を着たネズミ男が「♪ア、ちょっと待ってね、ア、ちょっと待ってね、ソウリのノウリはまっ黒け」と歌い始めると、その後から大勢の子どもたちが、「♪ア、ちょっと待ってね、ア、ちょっと待ってね、ソウリのノウリはまっ黒け」と楽しそうに歌いながら歩いていく。6/19

うちの社長が夜店で買ってきた「経営バイブル」というテープは、映画監督&俳優のクリント・イーストウッドが吹き込んでいるのだが、”Go ahead. Make my day.”ばかり連発するので、我われ社員の評判は芳しくなかった。6/20

デモは終わったが、ここはどこだ。チャイナタウンがあったのでNYか? いや巴里かも知れない。どっちでも構わないが、私は山手線の恵比寿辺りに行きたいので、電車もバスも走っていない入り組んだ路地から路地へとひたすら歩き続けたが、誰も見かけなかった。6/21

最近亡くなったその老人には、ざっと数えて103件の偉大な事績があったにもかかわらず、葬儀でそれに触れようとする者は誰一人居なかった。彼の残り少ない遺族ですら。6/22

私は京響指揮者の広上淳一になりきって、グリンカの「ルスランとリュドミラ」序曲を夢中で振っていたのだが、どう考えてもかのムラヴィンスキー老には及ばないまでも小澤征爾よりましだと思っていた。6/23

「しかし鯨のシャッポに宣伝ビラをとりつけることについては、このアメリカ人の契約書にはっきり記されているからいくら君が反対しても無駄なことだよ」と私は、もっさりした風貌の菅官房長官そっくりの男に告げた。6/23

確かにCD1枚当たり183円は安いけれど、チャイコフスキーの6枚組はもう既に買ってあるから、そのダブリを勘定に入れると少し割高になる。ではその結果一枚当たりいくらになるか計算しようとして、私は算盤を探し求めた。6/24

夏休みに隣の家に亡きクラウディオ・アバド一家がやって来て、庭でバーベキューなどを楽しんでいるようだが、アバド本人はかつてシカゴ交響楽団と入れたチャイコフスキーをじっと聴いている。もしかすると彼は、チャイコフスキーの再録音を考えているのではないだろうか。6/24

マッチを擦りながらこの有名な海峡にやって来たのだが、ドローン、ドローンと物凄い荒波が立ち騒いでいる。一度飛びこんだら浮いてくる者は誰もいないと聞かされた私は、マッチを擦りながらまた怯んだ。6/25

戦後最大の思想家と称される人物が、「ともかくリーマンを勤めおおせた人はそれだけで一大事を成し遂げた人である」とご託宣を下されるのを聞いた長屋の八っさんや熊さんが、「んなら、おいらだって一大事を成し遂げた人物だあね」と意気込んだ。6/26

宿舎前の花壇があった場所には、この軍団から出陣した若者たちの最後のメッセージが残されていたが、私の二人の息子のものもそこにあった。6/26

私の同僚の兵士がやはり同僚の女兵士と一般人多数を人質にして宿舎に立て篭もったので、私は上司からその解放を命じられたのだが、いったいどこから手をつけたらいいのだろう。6/27

右翼と左翼の超過激派が昼すぎから激論を交わし続けて3時になったので、いったい誰がお茶を入れるのだろうとハラハラしながら見守っていたら。竹取の翁がかぐや姫に命じてしずしずと茶碗を運ばせたので。胸をなでおろした。6/27

ずいぶん昔に退職したヨシダ君の作品が、かつての彼の席にまだ置かれていたが、それは「ひと」「とり」と題された小さな彫刻で、今日退職するヤマガタ君は「これを見ながら、何度も涙を流しました」と、私らに別れのスピーチをした。6/28

非常に重い障がいを持つ息子なので、彼がたまたま黄色い泥水の沼に呑みこまれてしまったときにも、このまま天国に召されたほうが彼の仕合わせではないかと思って、すぐには助けに行かなかったのだが、すぐに考えを改め、次の瞬間には全速力で現場に駆け付け、死に瀕した息子を抱き上げたのだった。6/29

ちかごろ叩き上げの大工の棟梁が、東大卒の若い絶世の美女と結婚したのだが、朝な夕なに有頂天になって舞い上がり、以前のように早起きできなくなって、とうとう仕事に支障が出るようになってしまった。6/29