ままごと

 

塔島ひろみ

 
 

おかあさんになりたかった
植木鉢がひっくり返り
錆びた物干し台が打ち捨てられ
雑草が茫々に生い茂り
タイルや空き缶が散乱するその空地で
わたしは おかあさんになりたかった
おかあさんは忙しく空地のあちこちを飛び回り 雑草を引っこ抜き 貝殻を掘り出し 落ちていたガラクタを空き箱に集め あれこれ想像をめぐらし 工夫をこらし
野菜を手際よくトントン刻み
土に白砂をかぶせ花びらを散らしたナントカごはんと
カラフルなゴミがいっぱい浮いたドロドロシチューを
客(私と、あと誰か)にふるまい
自分も食べながら感想を求めた
私たちはそれぞれポジティブな感想を口にする
おかあさんは食器の片付けもそこそこにお風呂をわかし
洗濯をして 宿題を見て 布団をしくので
私はお客さんから子どもになって
お父さんや ちょっとボケたおばあちゃんにもなったけど
いつまで待っても
おかあさんにはなれなかった
おかあさんになりたかった
その空地で
気持ちよい風が吹くその空地で
おかあさんだけが生きていた
輝いていた
絶対者だった
おかあさんになりたかった
大きなぬいぐるみを引っぱりだすと
なだれるようにいろんなものが落ちてきた
コンクリートにぶつかり跳ね返る
ラケット、バーベキューコンロ、ビーチサンダル
物置に詰め込んできた思い出が
ガレージにゴミのように散乱し
白髪頭のおかあさんが途方に暮れる
おかあさんになりたかった
それは私のおかあさんではなかったし
えみちゃんのおかあさんでもまきちゃんのおかあさんでもたぶんなかった
だれのおかあさんだったのか
汗が噴き出る
金づちで三輪車を殴りつける
バキッと音がして車輪がとぶ
おかあさんは威勢よく かつ丁寧に思い出を解体する
暑くて暑くて
でもおかあさんだから
だれも助けてくれないから
空地は湿っていて石のイスに座るとお尻が濡れた
すぐ前は貨物線の土手で 時々貨物列車が通る
長い長い列車 いつまでも終わらない
ノリ面に白い花がたくさんゆれて
音がして 空がゆがみ わたしはおかあさんがつくるごはんを待ちながら
壊れかけた空を鳥がツーと横切っていくのを眺めていた

ガレージは夕方までにはきれいになった
かけらひとつ残っていない
おかあさんは 汗をふきながらお相撲を見ている
絶対者だから 金色に輝いて
テレビの前に君臨する

 
 

(7月某日、奥中区道踏切近くで)

 

 

 

カレー

 

塔島ひろみ

 
 

キツネはレモン石鹸だった
深夜
貨物列車で運ばれて
諏訪橋を渡ったところで
お腹がすいた
においが漂ってきたからだ
なんとも言えない はじめてのそのにおいに
からだじゅうがピクピクし 
お腹がすいてたまらなくなったから
キツネになった
列車から飛び降りると そこは川原で
タヌキがいる!
親子でじゃれあって 遊んでいる
においは向こう岸からだ
川に飛び込む
月のない夜 川はどこまでも黒く 
水はなま温かく キツネを包む
ザッツ、ザッツと 水をかく音だけが耳に響き
岸に着く ムササビと イヌワシと ヒョウと
カッパと ドブネズミが
寝転がって星を見ていた
そこはニセモノの町だった
キツネはにおいのもとを目指して土手を下りる
ぼうっと 白い薄明かりが漏れている一軒の家
隙間から覗くと ドロボウが大きなお鍋でカレーを煮ている
ぐつぐつ ぐつぐつ 茶色いどろどろが
ボコッ ボコッと出っ張ったり 引っ込んだり
暑くて ドロボウは汗をかいて 時々タオルで顔を拭いて
キツネのお腹がグウッ と鳴った
いらっしゃい、よく来たね
キツネはドロボウの子どもになった

ドロボウは夜が明けるとヒトになり
キッチンカーにカレーを積んで売りに出る
キツネは少女になりお客さんの応対をする
おいしいカレー 毎日違う味のカレー ドロボウカレーに
レモンスパイスが加わった
世界のどこにもないカレー 世界で一番おいしいカレー
川原で寝そべっていた動物たちが買いに来る
みんなヒトに化けてお金を持って
夜、川原においで とタヌキがキツネに耳打ちした
ニセモノが集結する川原においで
夜の川原 ススキが群生する湿った場所で
キツネは思い切り走ったり笑ったり つかまえたり転げたり 時々川に飛び込んで
くたくたになった
キツネ! キツネ! ここだよ! ここだよ!
ニセモノたちがからかって笑う 
そのあいだにドロボウはカレーを仕込む

ガタン、ガタン
深夜 貨物列車が橋を渡る
レモン石鹸の箱を積んでいる
川原に来ないキツネを迎えにタヌキが行くと
ドロボウの家は灯りがなく 鍵がしまり
キッチンカーが放置され
カレーのにおいがしなかった
キツネ! キツネ!
タヌキが呼ぶ
ドロボウがつかまった! ドロボウがつかまった!
ニセモノたちは泣きながら呼ぶ
空に向かって 助けを求めて
キツネを呼ぶ
キツネ! キツネ! ここだよ! ここだよ!

ニセモノの町に雨が降る
来る日も来る日も 降り続く
水かさが増し 河川敷は浸水し ニセモノたちは下流へと流れる
恨めしそうに 仰向けに 黒い黒い空を見ながら 流される
カッパのお腹がグゥと鳴った
ネズミのお腹がクーと鳴った
タヌキのお腹がゴーと鳴った
においが漂ってきたからだ
おいしいにおい カレーのにおい
レモンカレーのにおいがする!
あそこからだ!
近づいて来る貨物列車を ムササビが差した

ガタンゴトン 貨物列車が 今にもあふれそうな川沿いを進む
おいしいにおいを
レモンスパイスのカレーのにおいをまき散らして
海へ 海へと 走っていく
ニセモノたちはそれを追うように流れていった

 
 

(6月某日、高砂諏訪橋たもとで)

 

 

 

9丁目

 

塔島ひろみ

 
 

川が海に向かって流れている
貨物列車が荷物を積んで北へ走る
川と線路に挟まれて
9丁目は動かないでそこにあった
ずっと前からそこにあった
公園も店もない 家だけが
日々の暮らしだけがそこにあり
ヒトが自転車を洗っている
土に 名前のない草が茂り 名前のない花が咲き
ネコがいる
大きな目で 前足をギュッと握って
甲の毛は汚れ 
木のように動かない
何をつかんでいるのか
甲を引っ掻いても開かない
血が流れる
土に染み込む 
ヒトが自転車を洗い終わる
外階段をのぼり 自転車を2階のベランダに干している
空に向かって干している
9丁目に来た
橋を渡って9丁目に来た
足を引きずって9丁目に来た
何も持たずに 誰にも言わずに
9丁目に来た
ヒトが ヒトと 話している
私の知らない言葉で
鳥の言葉で
羽はないのに
鳥の言葉で話している
風が吹く
片足を使えないネコが 木のようにそよぐ
名前のない草花たちも 風にそよぐ
貨物列車がまた走っていく
その音を聞いた
前足は爪が伸びて
ここまで歩いて 泥だらけで
その前足を静かに握ると
歩けなくなった
虫の一匹もキャッチできない
9丁目で
名前のない花のそばの地面の上で
見えない何かを抱きながらすわりこみ
北へ運ばれていくモノたちの音を
私は聞いた

 
 

(5月某日、奥戸9丁目で)

 

 

 

金魚

 

塔島ひろみ

 
 

日の当たらないアパートの6畳間で細面の女が内職をしている
白い管の両端をジャキン、ジャキンと小さなハサミで切りおとし
次々水槽に放り込む
不良品を作る仕事
だと女は言った
水槽で不良品たちは不格好に丸まって
金魚になった

その空地は
誰のものでもなく家と家、高い塀に囲まれて道から見えない
雑草が生い茂る地面がこんもり塚状になっているのは
その下に不良品がどっさり埋まっているからで彼らは誰にも見つからず掘り返されることもなく
その暗く湿った空地で生き延び密かにに交配を重ねながら土地に根付き
竹になった
周囲をツユクサやマメ科の雑草がおおい彼らを守った

時が経って人は死んだ
壊すため、滅びるために人が作ったさまざまなモノの残骸があちこちに残り
もうそれを片づける人はいない
化学物質、放射能、かつて人が「奥戸」と呼んだ一帯は水に浸かり
カラスもテントウムシもいなくなったが
竹が
所有され損なった空地で育った不良品の末裔が
黒い水面から顔を出し 風に揺れる
誰にも見られず 役に立たないまま
風に揺れる
そのそばで白い金魚がにょろにょろ動いた

 
 

(4月某日、奥戸3丁目「塚」前で)

 

 

 

団地

 

塔島ひろみ

 
 

洗濯物が一斉に干された
雨の予報が出ていたけどこんなに晴れて春の陽気で
シャツやブラウス、帽子に靴下、カバー類
強い南風に歌うようにはためいている
団地の壁は肌色だ
ちふれ33番の肌色だ
ひび割れと落書き
シミ ほくろ 皮疹跡の醜いまだら
毎日 塗り重ねて
塗り重ねて 塗り重ねて
わたしはおばあさんになりました
冷蔵庫に霜がたまっていきます
換気扇に油がたまっていきます
ベランダにかたつむりの死骸がたまっていきます
ちふれ33番 オークル系 自然な肌色
その「自然」を
不自然で汚い顔の皮に塗りたくって出かけます
リュックをしょって 南風にさらされて
吹き溜まりは枯葉と 得体のしれない燃えないゴミ
牛や馬の骨が埋まっていると書いてあった
大昔の人間が使った家畜の骨だと書いてあった
団地はその上に平然と立つ
はげても はげても 塗り足して 
ペンキを滴らせて 立っている
あくまでも肌色で 剥がしても肌色で
掘っても 打ちのめしても 肌色だ
裸のようだ

早く部屋が開かないかなあと待っている
早く死なないかなあと待っている
早くくずれないかなあと待っている
団地になりたい
誰もいないのに洗濯物が干してある
みんな死んだのに開いた牛乳パックが干してある
団地になりたい

フギャーと赤ん坊の泣き声がする
階段を
レジ袋を提げたおやじがのぼっていく
郵便受けを開けて ハガキを手に取る
ハガキを読んでいる
ハガキを読みながら ずうっと読みながら
ゆっくりゆっくり 
どこまでもどこまでもどこまでもどこまでも
階段を上がる
フギャーと赤ん坊の泣き声がする
肌色の割れ目から子どもが生まれた
あちこちの割れ目からこぼれるように 
子どもが生まれた
泣いている 泣いている 泣いている

とても静かだ

 
 

(3月某日、奥戸二丁目アパートで)

 

 

 

工場

 

塔島ひろみ

 
 

工場はいらないものになった
巨大なベルトコンベアも煙突も働く人も働く人が住む社宅もいらなくなり
ラインが止まり人が去った
建物と機械だけ残った
かつてこの会社に莫大な富をもたらし
そして物理的にもとてつもなく大きいそれらは
滅却されなければならなかった
重機を積んだ10トントラックが押し寄せ 壊し始めた
機械が機械を破壊している
すごい音だ
人間が作った機械が 人間が作った機械を破壊している
ものすごい音だ
恐ろしい音だ
おぞましい音だ
悲しい音だ
団地の4階通路からはそれが見える
寝ても覚めても窓の外に立ちはだかり続けた巨大工場が
恐竜のような重機にいとも簡単にやっつけられ
ぐしゃぐしゃにつぶされていくさまが見える
エレベーターが着いた
年寄りが押し車を押しながらゆっくり通路を歩いて
430 そう書いてあるドアの前で止まり鍵を開けて入っていった
向かいの荒れ地で行われている暴虐にまるで目もくれず入っていった
中でコトン、コトンと静かな音がする
まるで冷蔵庫の野菜のように
年寄りが430に収まっている
431も 432も 433も 444も
429も 428も 427も 426も 静かだった
電気がついている部屋とついていない部屋があった
食器用洗剤の形が見える部屋があった
傘が外に立てかけてある部屋があった
窓にひびが入っている部屋があった
冷蔵庫の野菜のように静かだった

団地の中庭は椿が咲き乱れ 落ちた花房がかたまって
血だまりのようになっている
歯が落ちていた
少し茶色がかった人間の 大人の 
こんなところにあっても役に立たない
強くても立派でもフランクフルトも板チョコも人差し指もかみくだけない歯が
椿の赤い花びらの下で静かに春を待っている
轟音がして地面が揺れる
歯も揺れる

リモコンを押すとさっきまで得意げにしゃべっていた華やかな女が
グ とさえ発する暇も苦しむ間もなく
別れも告げず瓦礫も残さず
煙のように消えてしまった
もうどこにもいない

ダンプカーが屍をヘドロのように積んで走り去った

 
 

(2月某日 森永東京工場跡地前で)

 

 

 

やぶ

 

塔島ひろみ

 
 

やぶには怖いものが棲んでいる
タヌキ という人
こじき という人
おばけ という人
私は
「インベーダーの秘密基地かも」
といってみた
かみ終わったガムをそこに捨てた
空缶や石ころを投げたりした
ガサゴソ 音がして
やぶが揺れて
声みたいな声じゃないみたいなのが 聞こえてきた
春には小さな黄色い花が咲き乱れた

鬼を殺して埋めた塚
いらないものはそこに捨てて
やばいものはそこに隠して
邪魔なものはそこに追いたて
やぶは鬼の棲みかとなり
葉が落ちた黒い木々の間で角が揺れる
私の犯罪を捨てた場所
掘り返してはだめな場所

きれいに整地された一丁目公園
サッカーをしている
黄色い花は咲かなくなった
探している
隠れる場所を探している
パパに向かってボールを蹴りながら
一生懸命探している
パパも探している ボールがそれて飛んでいく
しゃがんでいた私の頭にあたり、私はぬっと立ちあがる
子どもがおびえた

もうここに鬼はいない
もっと怖い人間がいるだけ

バウムクーヘン
その地層のような固まりを
薄く剥がしながら食べるのが好き
残酷に 薄く剥がしながら
食べるのが好き

 
 

(1月某日、奥戸一丁目鬼塚公園で)

 

 

 

 

塔島ひろみ

 
 

さまざまな願い事がそこでは叶う
寂しさや悲しみが癒される
家にいたくない 学校や会社に行きたくない人の 逃げ場ともなる
お腹も心も満たされる
今日も大勢の人で賑わうハンバーガー屋に
笑い声が充満する
油の匂いが充満する
肉を焼く匂いが充満する

神社は道を一本隔てた向かいにあった
川を背に構える暗い社殿 その前にわたしは 夏も冬も朝も夜も直立し
両腕で巨大なしめ縄を掲げ持つ
空中高くにどっしりと座すしめ縄はこの神社の顔で 悪魔を払う意味がある
町を守るために
この好きでもない町を守るために
わたしは今日も北風に打たれながら直立する
ハンバーガー屋にお株を取られ 神さまは暇で しめ縄はたいてい眠っていた
平和な町
神より偉いハンバーガー屋から 悲鳴に似た子どもの笑い声が響いてくる
しめ縄より強いハンバーガー屋から 真っ赤なバイクがサンタを乗せてミサイルのように発進する
身構えるが こっちには来ない どうせ来ない
誰も来ない
冬空に高々と聳える悪魔の看板
北風が強い
寒い、寒い、と車から出た人がハンバーガー屋に次々駆け込む
寒い、寒い、とさびしくて お腹がすいた神さまも すき間だらけの社殿から出て店に駆け込む
追いかける北風 その鼻先でドアが閉まる
杭に犬がつながれていた
社殿の正面で 私は巨大なしめ縄を掲げている
鉄の腕で 空高く 重量挙げのように掲げている
それは 悪魔を町に入れないために
北風が来た
行き場を失った北風が ハンバーガー屋の赤と緑と黄色で塗られた屋根を飛び越え 勢いを増して 神社に来た
風と一緒にカモメの一群が飛んできて 神社の裏の川の方へと飛び去っていく
ギャーギャーと汚い声で鳴いている
境内の砂が巻き上がり 立ちつくす私の 腿を汚す
北風は悲しい顔をしていた
犬が外につながれていた
肉を焼くにおいが漂ってきた
風に乗って肉が焼けるおいしそうな匂いが漂ってきた

近くで火事があった
北風が 建てつけの悪い窓のすき間から入り火をあおり 
あっという間に小さな工場が全焼した
神さまはハンバーガー屋の3階の窓から
火を 燃えて行く工場を 他の客や店員といっしょに眺めていた
肉が焼けるにおいが漂ってきた
風が来た
両足に力を入れたが
その風は疲れて 弱く 小さく 消え入りそうで 
しめ縄も気づかないまま私の股をそうっと抜け
神社の軒下に入り込んだ
小さな虫や なまけものや ネコや 捨てられた陶器の破片が
風を迎えた
風は優しい顔になった
うらやましくてならなかった

 
 

(奥戸2丁目 神社前で)

 

 

 

2階

 

塔島ひろみ

 
 

2階には名前がない人が住んでいる
河川敷で忙しくなにかついばんでいるカモの群れが
一斉に飛び立ちすぐ横の川に落下した
と思ったらもう今は 晩秋の水上をずっと前からそうしていたかのように穏やかに
見事な列をなして泳いでいる
土手にあがり 坂をくだり中学校先で坂をのぼり
おしろい花が咲くこんもりした貨物列車の踏切を渡る
ネジ工場の脇道から犬の散歩の一団がやってくる
その道はやめて迂回する
暗渠に出る 遊歩道の切れ間の事故現場にまだ新しい 白と黄色の花が飾られ
その先のゴミ置き場では 無造作に置かれたカラス除けの網の下で
若い男が倒れるように眠っている 
保育園の横を斜めに 都営団地までまっすぐ
緑のテントだけ残る廃業したコーヒー屋 その隣りに小さな青果店
玉ねぎを皿に並べている
5個ずつ 緑色の皿に下に4個、上に1個
200円 という札が出ている
そんなに売れるわけないのに
次々にいくつもいくつも玉ねぎを並べる
顔をあげてこちらを見てきたので視線を逸らし
となりの惣菜屋の先を右に折れ
くねくねした細道を進んでいく
門にオレンジ色のポストがかかり「●●」と大家の名前が書かれている
2階には外階段で行く 2階にもまたポストがある
そのポストには名前がない
廃品回収のチラシがはみ出していた
誰からも呼ばれることがない人がここに住む
名乗ることが決してない人、どこにも記載されない人がここに住む
手すりに 陽があたるいい場所に座布団が2枚干してある えんじ色のカバーがかかりカバーにはフクロウの絵がプリントされている
茶色い木製のドアをノックする
ドアが開き 私は名前のない人の部屋へ消える
しばらくしてまたドアが開き 手すりの座布団がササと取り込まれドアが閉まる

日が暮れて大家は洗濯物を取り込んで雨戸を閉めた
座布団がなくなっていることに気づく
2階には名前がない人が住んでいる
茶色いドアをノックするとドアが開いた 大家は部屋の中へすべりこむ

2階は遅くなっても灯りがつかず
夜の空気の中でしんと静まり返っていた
1階から声が聞こえる 付け放しのテレビの長四角の画面に映った女性が
目を潤ませながらなにかを訴えている
飲み残しのお茶の前で ネズミたちが聞いていて
それからネズミも2階へ行った

2階はときどき 夜の川のさざ波のようにカサカサと揺れた
そこでなにが起きているかは 誰も知らない

 
 

(11月某日 鎌倉1丁目で)

 

 

 

かっぱ

 

塔島ひろみ

 
 

仰向けに寝転ぶと空が動く
ときどきヒヨドリが横切っていく
眠くなる 晴天の川の上で目をつぶる
満潮の水はゆっくり河童の体を上流へと運ぶ
いっしょに木切れとかペットボトル、パンの袋も流れている
ピシャンと音がして目を開ける
ボラたちのジャンプ 河童は体を元に戻し泳ぎ始める
岸や土手を歩いてるヒト、ジョギングするヒトを横目に
流れの力を借りてグングン スイスイ
あっという間に10キロほども上流のそこに河童は着いた
川と同じ色の体が 注意深く柵を乗り越え岸に上がる
秘密の場所に隠している服を着て ヒトに化ける
ヒトに会うため
ヒト社会で汚れ、傷つくために

夜中
そんなわけで傷と汚れにまみれたよたよたの河童が 岸に戻った
服を脱ぎ 靴を脱ぎ 水に入る 油汚れも 血も 合成化学物質も たちどころに夜の川に洗われて
河童はそれらが溶け混じった濁った水の中で生気を取り戻し 颯爽と泳ぐ

河童を踏んだ
土手下の草道 わたしのくたびれたパンプスが
顔の辺りを思い切り踏んだ ぐしゃりといやな感覚があった
寝ていた河童はひっくり返り 苦しそうに咳をして
それから ゆっくり起き上がると 川へ消えた
夕暮れの薄闇の中へ消えていった
大きな 月があった
貨物列車が川を跨ぐ鉄橋をガタンゴトン大きな音を立てて走っていく
暗い川の中で 河童は生きているのか 死んだのか
プカンプカンと 透明のゴミらしきものが浮かんでいた
河童もこの月を見ているだろうか

路地の突きあたりの小さな金属加工所で 顔のつぶれた男が黙々と機械を操作している
ガッチャン、ガッチャン、大きな音が絶え間なく続く
それにかぶせて 表の道で学校帰りの子どもたちの騒がしい声
男は機械を動かしながら 目を細める

10月の空はあっという間に暮れ渡った
大きな月があった
河童の子どもが泳いでいる
音もなく 気持ちよく 
川と同じ色なので 私には見えない
何も見えない

岸には脱ぎ捨てられた子どもの衣服があった
よく見ると いくつもいくつも 大人の服も いっぱい いっぱい そこにも ここにも

川は静かにさざめいていた
私は汚れた岸に汚れた服を着て立っている
大きな月があった
月は なにを見ているだろうか

 
 

(10月某日、新中川で)