アヌンナキ無きアナーキズムの彼方へ

 

工藤冬里

 
 

売国奴が国を支配しているという右翼の主張は
国家の廃絶と(過渡的)権力を同時に夢想した俺たち(ルビをトロツキストと振ってみてもいい)の自己否定を万能感で割った時間認識に端を発しているが
AIの犬(ルビをaiboと振ってみてもいい)たるプーチンにクオリアを入れる際
上記二つの路線の上に更に’愛国心’を加えなければならず
普通ならば立ち尽くす犬の意思決定の
バグを狙って攻撃させると
穴吹工務店社史編纂委員会編「アヌンナキ無きアナーキズムの彼方へ」には書かれている。
生命が存在していない時代は無かった
なぜなら我々は光によって光を見るからである
観察者の存在を伝えないことによって動くものたちは楽屋で休んでいるが
それらはネオコン・リベラリズムとリベラル・リベラリズムと反リベラリズムという三つのもので切断されている
さらにそれらは神対人、人対人、神対神、という三層を成している。
そうして俺たちは数時間毎に世界にルビを振り続けるのだ

 

 

 

#poetry #rock musician

二つの銀の喇叭は遠くまで届く

 

工藤冬里

 
 

二つの銀の喇叭は遠くまで届く
音を震わせると出発する
二人のアイラーに挟まれた背骨と腹

今わたしに終わりが来ている
トリアージ
わたしの番が来た

わたしと同じくらい額を固くして
わたしが後で理解するパフォーマンスを行う
破城​槌
親が子を食べ子が親を食べる

わたしの番が来た
わたしの葬式用の花輪は出て行った

 

 

 

#poetry #rock musician

プリーズ騒がないでくれ

 

工藤冬里

 
 

継続的変態により前を向き続けることが
いつまでも必要なのであれば春は特に
裏返った体の蝦蟇口の
大判小判に周章てる蛸を宥める
これらは鬱陶アルケイオン
中動態的蟲動態的変態μεταμορφοῦσθεを継続しつづけさせられながらしているのをさせているのをしていて
プリーズ騒がないでくれ

 

 

 

#poetry #rock musician

Foggy Notion

 

工藤冬里

 
 

隣接する時間しか存在していないように、隣接する空間しか存在していない。すなわち、twitterを見ていない時twitterは存在していない。ログインすると、<フォロワーたち>が急いで舞台衣装に着替えて出てくるのだ。それは光子のふるまいによる。
そのようにして遠いものが近くになり、近くのものが生(ゾーエー)から遠ざかるのだ。
量子的なふるまいは人のテクネーではない。万能感に基づいた陰謀論が間違っているのはそのためなのだ。
その​言葉​は​あなた​の​近く,あなた​の​口​と​心​に​ある(rom10:8)

 

 

 

#poetry #rock musician

雀蜂の巣穴から聞こえてきた

 

工藤冬里

 
 

いつまで私は思い悩み、毎日悲しみに暮れなければならないのか
商店たち
白い商店たち
それは自分で解決できる問題ですか
どうしたら良いだろうか
風がどどぅと楸(ひさぎ)の白に
桐のように伸びる 赤目柏の暖色LEDの白空に
穏やかさを保つための錨を持つ
おだやかさをたもつためにいかりをもつて可笑しい
一切心配してはいけないという意味ではないわ
紀元前六世紀以前の人々は不完全ながらまだ風の感じ方はまともだった
一七世紀以前の音楽は無抵抗ながら光熱の感じ方がまだまともだった
ピタゴラス由来のプラトンとバッハが商店たちをマイナスの領域に追いやった
以来おだやかさをたもつためのいかりをもった転校生は一人もいない

 

 

 

#poetry #rock musician

カンヌ出品のためのアプリケーション・フォーム

 

工藤冬里

 
 

title: Archive

target: コロナ下で自宅待機させられているすべての人類

synopsis: 監督自身の、何代かに亙る携帯電話~スマホに保存されていた今世紀初めからのデジタル画像。

usage: ガラ携からスマホへの移行に伴って画質も変化していく。画像がほぼ年代順に並んでいるだけなので、どこから見ても、飛ばしても良い。ゴダールの「ソシアリスム」のトレーラーをややゆっくりさせたようなものである。一時間半に及ぶ単調な画像の羅列の後、エンドロールに主題歌「アルシーヴ」が挿入される。
 
remarks: 映画よりも現実の方が劇的であることは近年特に顕著に感じられるようになってきた。ゆえに我々が、作られた映画を見る必要は年々減じてきているように思われる。そのような状況下で、自宅待機の人々の関心は「自分史」に向かい、それはデジタル画像のアルシーブ化を意味するだろう。家族の監視の状態で行われる画像の取捨選択の作業には、ジャック・デリダの言う<法>が介入する。この映画の鑑賞とは、その捨てられた写真たちによる「アルシーブの亡霊」を観るということなのだ。映像は個人史のアルシーブ作業とインターネット上の”陰謀論”ニュースだけになるだろう。これが映画史の終わりである。

 

 

 

#poetry #rock musician

荻窪Goodman1984-1986を編集する園田佐登志

 

工藤冬里

 
 

付録でもんだいなのは、このアルシーヴ化のなかの、アルコン的、(言い換えれば公文書管理的)部分、つまり、前デジタル期におけるテクストを集め分類する、その権威主体が裂開しているということである。そこから立ち上るゆうれいが同じものではないということが、アルシーブ化に<法>が介入する鮮やかさに濁りを与えているのである。パラレル通信に限って言えば、園田は動機を問題にし、小山はポストモダン下のその時点で出来る範囲の観照を行い、大里はただ音楽を聴いている。ヨブの三人の友のように彼らは正しく、そしてヨブは居ない。

 

 

 

#poetry #rock musician

陽春白雪

 

工藤冬里

 
 

例えば春に、遠くの雪山をスマホで撮ると、頭で考えているより小さくてがっかりすることがありませんか? 遠近法を無視したり変えたりするのが絵画史であったと言えます。例えばソ連の素朴画家の「わが息子」という絵は息子が山より大きいし、松山の三津浜駅の「三津浜図」は遠く富士山まで俯瞰していて、これらの遠近法は地球が平面であるのと同じくらい正しい。
さて祖父の描いた戦前のモンパルナスです。彼の場合、遠近法はそのままに、強調したい丘のみを物理的に他より厚塗り(二センチくらい)するわけです。ですから絵というよりもはや立体に近い。ルオーは絵の具を削り落としてはまた塗るという作業を繰り返したそうですが、祖父の場合はケントリッジか石田尚志かというくらい途中経過も全て残しながら層を堆積させていったのです。それが僕の最近の、ボイスメモをGarageBandで重ねた「練習!パフォーマンス」という声の作品の情報処理の不器用さとふと似ていると思ったのです。

 

 

 

 

#poetry #rock musician