さとう三千魚詩集『貨幣について』―外に出ろ

 

長尾高弘

 
 

さとう三千魚さんの『貨幣について』をまとめて読んで、叙事詩の一種のような感じがした。
「まとめて読んで」というのは、その前にバラで読んでいるからだ。彼の詩にはすごいリズムがあって、そのリズムだけで何も考えなくてもこれは詩だと思ってしまう。私はちょっとそこのところで壁にぶつかって先に入れてなかったような気がする。

彼の詩は、たぶんまずTwitterやFacebookで断片的に一部が現れ、ひとつのまとまりになったときに改めてTwitterやFacebookに発表され、ほぼ同時に彼が主宰しているネット詩誌の「浜風文庫」に掲載されるのだと思う。私はFacebookで直接かFacebookでの告知によって「浜風文庫」でかといった形で、この本のかなりの部分をすでに読んでいるはずだ(申し訳ないけど、しっかりと追いかけて全部読んでいたわけではなかった)。

そのようにバラで読んでいた『貨幣について』の諸篇(つまり、詩集で番号が付けられている2ページから4ページほどの塊)は、これからいつまでも続くんじゃないだろうかと思っていた前の詩集『浜辺にて』の諸篇が「浜風文庫」からすーっとフェードアウトしてから、当たり前のように、それまでと同じもののように登場していた。少なくとも、ぼんやりしていた私にはそう見えた。

ところが、まとめて読んでみると、『浜辺にて』と『貨幣について』はまったく違っていたのである。単純に言って、『浜辺にて』は一つひとつの塊の独立性が高かったのに対し、『貨幣について』は塊が時間とともに数珠つなぎにつながっている。実際には『浜辺にて』の諸篇もまったくバラバラだったのではなく、時間に沿って間歇的につながっていて複雑な織物をなしており、中身をランダムに並べ替えられるような本ではなかったが、『貨幣について』は、それこそ「貨幣」という言葉を芯として40篇がしっかりとつながっている。うかつにも、私はまとめて読んでみるまで、そのことに気付かなかったのである。

しかし、本当の意味でこの長篇詩の叙事性に気付いたのは、それからさらに何度か読んでからだと思う。もちろん、今でも全部に気付いているわけではないだろうが、少しずつわかるところが増えてきて面白くなってきているところだ。

最初は、「貨幣」というテーマが天から降ってきたかのような印象を与える「どこから/はじめるべきなのか//知らない//どこで終わるべきか/知らない」という5行で始まっている。01から04までは、参考書からの引用なども多く、お金についての観念的な思考で堂々巡りをしているように見える。

05からは、「わたし」が出てきて、生活のなかでのお金との関わりを記録するところから出直している。食事の代金やタクシー代の具体的な数字が生々しくて面白い。当たり前の日常のようでいて、さとう三千魚という個別性をはっきりと感じる。一方で、07、08の文化の日や12の写真展、14の猫との暮らしのエピソードなどで、お金の安定性(01、02の「すべてのものが売れるものになり/すべてのものが買えるものになる」という言明に現れているもの)にちょっとした動揺が起きる。16の休日出勤と差入れはさらに微妙な動揺である。

そして17でついに磯ヒヨドリやカモメを指して「彼らは貨幣を持たない/彼らは貨幣を持たない」という言葉を書きつける。このあたりから、話の展開が一気にスピーディになる。それまでもさんざん酒を飲んでいたさとう氏だが、18ではちょっと度を越してしまう。「新丸子に帰って/スープをあたためた//深夜に目覚めた//スープは焦げていた」というのだから、一歩間違ったら火事になっている。安定性からかなり外れてきた。

そして19では、この焦げたスープから、「貨幣も焦げるんだろう//貨幣も燃やせば燃えるんだろう//貨幣を燃やしたことがない/一度もない」という思考が生まれる。生活のなかで見たものから貨幣についての新しい思考がふつふつと湧いている。だんだん、詩の動きが激しくなっていくように感じるのは、ちょうど半分くらいたったこのあたりでそのような思考が生まれ始め、それ以降、そのような発見が次々に湧いてくるからだろう。何しろ、19の後半では、通過する貨物列車を見ながら、「貨幣は/通過するだろう//貨幣は通過する幻影だろう//消えない/幻影だ」と呟いており、矢継ぎ早に新たな思考が生まれているのだ。こういった思考は、比喩的思考、つまり詩的思考と言えるだろう。

やがて、彼はショウウィンドウの老姉妹(の人形?)を見て、「貨幣は/この老女たちを買うことができるのか?」と言い出す(21)。先ほども引用した冒頭の「すべてのものが…」とは大きな違いだ。そして、日野駅で見た雪を思い出し、「ヒトは/雪を買わないだろう」という確かな考えをつかむ(23)。さらに、ライヒの「Come Out」、つまり「外に出ろ」という曲から、「貨幣に/外はあるのか//世界は自己利益で回っている」という重要な言葉を引き出してくる。貨幣の世界は、生を捨象した堂々巡りだという認識に達したのだと思う。その「生」を「枯れた花」という死にゆくもので表すところが心憎いところだ。

彼の「貨幣」についての思考はここではっきりとした形をつかんだと言えるだろう。そしてなんと「三五年の生を売る/労働を売る」(36、37)生活から離脱し、老姉妹を見て帰った新丸子から引き上げてしまうのである。そして、熱海駅で倒れ、「ぐにゃぐにゃ揺れ」ながら、「世界」が「高速で回る」ところを見る。「脳は正常なのにエラーを起こすのだと医師はいった」(38、39)。これから本当の闘いが始まるというのだろうか。

叙事詩と言っても、これは英雄が活躍する物語ではない。確かに会社を辞めるのはひとりの人間にとって大きな事件だが、この物語はそれが中心になっているわけではない。ポイントは、『貨幣について』が決して『貨幣論』ではないところ、つまり、思考を生み出した焦げたスープや通過する貨物列車を捨象して、得られた思考だけを積み上げていくテキストではないところにあると思う(だから、貨幣についてのすべてを論じ切っていないと本書を評価するのは野暮なことだ)。時間が流れていて、ひとりの人間のなかでぼんやりとしたイメージでしかなかったものがさまざまなものを触媒として具体的な思想を生み出していく過程を描き出しているのである。たとえば、焦げたスープから燃えるお金をイメージして新たな思考をつかむのは、大げさかもしれないがひとつの事件だと思う。そのような事件の積み重ねが物語を形成している。しかも、事件の一つひとつが詩なのである。

しかし、それだけではまだ『貨幣について』の叙事性について言い足りないような気がする。
普通、叙事詩であれ、物語であれ、そういったものは、描かれる前に大体終わっているものだろう。最終的に書かれた細部までは事前に決まっていないだろうが、おおよその展開はあらかじめ作者の頭のなかに入っているはずだ。しかし、先ほども触れたように、冒頭で「どこから/はじめるべきなのか//知らない//どこで終わるべきか/知らない」と言っている本作は、ほぼノープランで始まったのではないかと思う。

ここでちょっとプライベートな話を挟むことをお許しいただきたい。この長篇詩が書かれる直前、2016年の夏にさとうさんに誘われて、西馬音内のお姉様のお宅にお邪魔して、日本三大盆踊りのひとつである西馬音内の盆踊りを見せていただいた。さとうさんとは、2015年の春に亡くなった渡辺洋さん(短かった闘病期間に生命を絞り出すような3篇の詩を「浜風文庫」に書かれた)の葬儀で初めてお会いし、棺を見送ったあとで『貨幣について』の版元である書肆山田の鈴木一民さん、詩人の樋口えみこさんと清澄白河の蕎麦屋さんで酒を酌み交わして故人を偲んだのだが、そのときにさとうさんが冥界から死者が帰ってきて踊る西馬音内盆踊りの人間臭さ(はっきり言えば猥雑性)について話してくれた。それは是非見てみたいと言っていたのが1年後には実現して、鈴木さんと私とで押しかけてしまったのだが、台風で開催が危ぶまれていた盆踊りを奇跡的に見ることができた夜、それぞれの蒲団に入って電気を消したあと、さとうさんから、定年まで会社に残らず、早期に退職するつもりだという話を聞いた。しかし、それは2、3年先にという話だったように記憶している。だから、その後彼が2017年の3月いっぱいで会社を辞めてしまうと言ったのを聞いて、正直なところちょっと驚いてしまった。

下衆の勘繰りだし、本人に否定されてしまえばそれまでだが、ひょっとして、『貨幣について』を書き始めて、「三五年の生を売る/労働を売る」生活の本質が見えてしまったために、そういう生活と早く決別しようという気持ちになったのではないだろうか。まして、熱海駅での昏倒事件は、本作を始めたときには予想もしていなかっただろう。貨幣についての思考によって昏倒するということではないのかもしれないが、あまりにもタイミングがよすぎる(友だちとしては心配だが)。『貨幣について』に書き記された言葉がさとうさんのライフを突き動かしているような気がする。ロミオとジュリエットも言葉が人生を狂わせる物語だが、本書はあらかじめ筋書きが決まっていたわけではないはずだから、言葉がヒトを動かすという意味ではロミオとジュリエットよりも迫真性が高い。ちなみに、『浜辺にて』は「浜風文庫」の初出からかなり手が入れられているが、『貨幣について』は中頃のごく一部が書き換えられているだけだ。

やっぱりこれは一種の叙事詩ではないだろうか。叙事詩だからどうということはないのだけれど。

 

 

 

歩く女 a woman walkin’

 

正山千夏

 
 

歩く歩く
歩いてないと狂ってしまうよこの街は
骨が地面に刺さる
その振動を心臓に刻み
腐るなにかを内包するあたしは

歩く歩く
トーキョーの街は流れる川のよう
うごめく街は人を飲み込む清濁あわせ呑む
引力にひかれる皮膚を
コートのように着込んだ女

歩く歩く
重力とあたしは恋におちる
足で地球の頬にキスをするんだ
骨が地面に刺さる
その振動をDNAに刻み
複製されゆく遺伝子のなれの果て

歩く歩く
内側と外側にひろがるジャングルを歩く
探し物はなんですか
まだ目がらんらんと輝いてる
それはちょうど暗闇の中
今生まれようとするたましいの
放つ光にそっくりだ

 

 

 

眠り休む秋の先に

 

ヒヨコブタ

 
 

今年の秋の銀杏は
まぶしくさみしくて目をそらした
息苦しさを感じる理由
悲しみの理由それぞれつかみ過ごしながら
どうしたものかと

もっと若かったときの話をするとき
思い出のなかの喜びを話しながら
性急な絶望を思い出す
あれほどのことは今はない
時間に限りがあるとよくよく感じる日々に
安心できぬままでも休むことを選ぶ

ああクリスマスだねと
心踊らないのは悲しいほうの思い出と現実か
それでも
わたしのこころの方向は
楽しみにしたいと
それを選びたいと願っているんだ
みもふたもないことばより
温もりを思い描けたならと
いつまでもすべてが続かないと知っている
善いことも悪いことも
それだけが眩しすぎぬ色づきなのか

 

 

 

ケモノの道理

 

辻 和人

 
 

憎悪の顔だ
憎悪の声だ

シャーッ

吹っ飛ぶ
吹っ飛ぶ
熱いぞ

シャーッ

レドが3日間の検査入院から帰ってくるのでお迎えに行く
キャリーからそろーりそろーり這い出たレド
ピョタッ、ピョコタ、歩き出す
冷蔵庫の上で半身を起こしたファミ
するするっと降りてきた
再会の挨拶でもするかと思ったら
シャーッ
おおっ、何て怖い顔だ
憎悪
憎悪
おっきく開いた口から牙剥き出し
逆八の字の目は刺さってくる程鋭い

吹っ飛ぶ
吹っ飛ぶ
熱いぞ

あーあー
たった3日離れてただけなのに

目をシパシパさせたレド
そろーりそろーり後ずさりしながら方向転換
日陰の椅子の上にちょこん
頭を伏せ丸まった
かっと睨みつけたファミ
しかしそれ以上追いかけることはしない
タタタッと冷蔵庫の上に昇る
お昼寝の続きだ
ふぅー
ひとまず平和は戻ったよ

実はさ
レドが初めてこの家に来た時もファミは威嚇したんだよ
こんなもんじゃなかった
ファミは執拗にレドを追いかけ回した
どこまでもどこまでも
それ、壺の後ろ
シャーッ
それ、掛け軸の裏
シャーッ
それ、ピアノの上
ヒゲが針金みたいに伸びきって
真っ白な牙と真っ赤な舌が開ききって
鋭い爪が尖りきって
シャーッ
憎悪の顔
憎悪の顔
怯え切ったレド
さささっ
さささっ
背中をつぼめ、だけど手足をしならせて
次の逃げ場所
またその次の逃げ場所
それでもファミは決して許さない
とうとう玄関の床の狭ぁーい隙間に籠城してしまったよ
対面大失敗
仲良くさせるのをあきらめて
ファミを居間に移し
夜中になってようやく出てきたレドを2階の小部屋に住まわせて
2カ月かけて馴れさせたんだ
ふぅー

元々ファミとレドは兄弟
祐天寺のアパートでかまってた頃は毎日一緒に遊んでた
でもレドがこの家にやって来たのはファミの半年後
この家はすっかりファミのものになってて
毎日隅から隅までパトロール
でもって
レドのことはすっかり忘れ果てて
見知らぬ白い奴が縄張りに侵入してきたって
思ったんだろうね
2カ月の間にレドはファミの耳の後ろを舐め舐めして
ご機嫌を取ることを覚えた
まあ、居させてやってもいいか
但し私の方が上
先に来たんだから
時々、擦れ違いざまに鼻づらを猫パンチされても
レドは悲しそうに縮こまるだけで抵抗しない
かくして
ファミとレドは並んで日向ぼっこするほどにもなった
なのに、たった3日

憎悪の顔だ
憎悪の声だ

シャーッ

吹っ飛ぶ
吹っ飛ぶ
熱いぞ

シャーッ

ああ、ファミ
お前はやっぱりケモノなんだね
チクショウなんだね
怪我した仲間が帰ってきたっていうのに
自分の方が上、自分の方が先に来た、この家は自分のもの
侵入してきた奴は
シャーッ
憎悪の顔だ
憎悪の声だ
服従させなきゃ気が済まない
同情なんてどうでもいい
心配なんてどうでもいい
熱く、熱く
吹っ飛ばしてやる

それでも今日のレドは
怖そうな表情こそするけれど
かつてのように隙間に籠ったりはしない
椅子の上で次第にリラックス
毛づくろいしてノビをして
後足に頭を乗っけてうつらうつら
やっぱり家はいいねえ
病院とは違うねえ
知ってる椅子っていいねえ
飼い主さんがいるっていいねえ
ファミちゃんだって、気が立ってるけど
まあ、いいねえ、いいねえ
ファミも昔みたいに追い回すってことまではしない
自分の方がエラいんだっわかってくれたみたいだし
許してやるか
冷蔵庫の上で、時々細目を開けては
椅子の上のレドを見やって
また目をつむる

たった3日間
されど3日間

2匹の権力関係を確認するのに役立った
ファミは許した
レドは受け入れた
憎悪の顔、憎悪の声は
だんだん遠くなっていく
さあて、もうお昼だしそろそろご飯の準備でもするか
猫缶は2匹平等に盛ってやろう
まだ仲良くってところまでいかないかもしれないけど
とりあえず並んで食欲を満たそうよ
とりあえず互いの匂いを嗅ぎ合おうよ
ケモノって、チクショウって
難しいねえ

 

 

 

Autumn 2018

 

狩野雅之

 
 


Autumn 2018  01
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FUJIFILM X-E3, FUJINON XF18-55mm F2.8-4 R LM OIS

 


Autumn 2018  02
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FUJIFILM X-E3, FUJINON XF18-55mm F2.8-4 R LM OIS

 


Autumn 2018  03
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Autumn 2018  04
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Autumn 2018  05
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FUJIFILM X-E3, FUJINON XF18-55mm F2.8-4 R LM OIS

 


Autumn 2018  06
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FUJIFILM X-E3, FUJINON XF18-55mm F2.8-4 R LM OIS

 

 

 

WE NEED THE GUITAR

 

神坏弥生

 
 

風が吹いている
鳥が鳴いている
右の掌を空に上げたなら
人差し指を立てて
指のアンテナで音波を掴む
僕たちが話しやすくするために
僕たちは、メロディを要する
我々に、ギターが必要だ
我々に、ギターが必要だ
我々が、ギターを弾いて
謳うように、話し
話すように謳い
時に黙るために、風が渡ってゆく
大地に、根を生やした樹々が
風によって枝を揺らし
木の葉たちの、しばしのざわめき
我々にギターが必要だ
我々にギターが必要だ
我々に音楽が必要だ
我々に音楽が必要だ
(願わくば、どうか我々に)LILICPOESYの星を

我々に歌が必要だ
まだまだ、まだまだギターが必要だ
まだまだ、まだまだ歌が必要だ
言葉をかき鳴らし、言葉をはじいて
大地を打ちつけるつもりでドラムを打ちながら
歩いてゆこう

言葉を空に放つつもりで、
空に映る初めの星の声を聴こうと
夜、夜空に、耳を傾けながら

Liycby yayoi kamituki